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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 物権

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491/701

[民法・根抵当権]現場編 「借金を返したのに、工場を奪う」の罠。五千万円の極度額に隠された嘘と、元本確定を突きつける内容証明の刃

挿絵(By みてみん)

 借金を返したのに、土地が返ってこない。


 そんなことが、本当にあるのでしょうか。


 普通なら。


 お金を借りる。


 土地を担保に入れる。


 借金を返す。


 担保が消える。


 これで終わりです。


 ところが。


 世の中には、借金を全部返しても、消えない担保があります。


 しかも。


 その担保を利用して、他人の工場を奪おうとする男までいるのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は一つの言葉に振り回されることになります。


 根抵当権。


 普通の抵当権に、たった一文字。


「根」がついただけ。


 なのに。


 その一文字が、借金と担保の関係を、根本から変えてしまうのです。


 そして。


 この「根」の意味を知らない人間は。


 五千万円という数字だけで、人生を奪われかねないのでした。


「工場を、取られるかもしれないんです!」


 朝九時。


 事務所の扉が勢いよく開きました。


 入ってきたのは、作業着姿の男性。


 五十歳くらい。


 油の染みた袖。


 日に焼けた顔。


 その手には、分厚い封筒が握られていました。


「お願いです! 助けてください!」


「まず、お掛けください」


 片桐所長が静かに言いました。


 男性は椅子に座ると、震える手で封筒を差し出しました。


「私は、駅の南で金属加工の工場をやっている者です」


 名前は、高瀬正一。


 五十二歳。


 高瀬精機製作所の社長。


 従業員は十二人。


 自動車部品の金型や、工作機械の部品を作っているそうです。


「親父の代から、三十年続けてきた工場なんです」


 高瀬さんは言いました。


「でも、昨日……こんなものが届きまして」


 私は封筒から書類を取り出しました。


 差出人。


 東海商事金融株式会社。


 代表取締役。


 黒岩源蔵。


 そして、書類の表題。


 ――根抵当権に基づく担保権実行予告通知書。


「……根抵当権?」


 私は目を細めました。


 通知書を読みます。


 ――貴殿所有の工場敷地及び建物には、極度額金五千万円の根抵当権が設定されている。


 ――当社は、右根抵当権によって担保される債権を取得した。


 ――よって、債務の弁済がなされない場合、担保権の実行による競売を検討する。


 最後には。


 ――当社指定口座に金三千五百万円を支払われたい。


 私は顔を上げました。


「三千五百万円……!」


「そんなお金、ありません!」


 高瀬さんが叫びました。


「そもそも、借金は全部返したんです!」


「え?」


「四年前に、湖西信用金庫から運転資金を借りました。でも、先月、全部返したんです!」


 私は首をかしげました。


 借金を全部返した。


 なのに担保権の実行?


 それは変です。


「じゃあ、抵当権も消滅しているはずですよね?」


 私は思わず言いました。


 民法。


 抵当権。


 付従性。


 被担保債権が消滅すれば、原則として抵当権も消滅する。


 そう習いました。


「大丈夫です!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「借金を完済したなら、抵当権も消えています! 相手の請求には根拠がありません!」


 高瀬さんの顔が明るくなりました。


「本当ですか!」


「はい!」


 よし。


 これは簡単。


 民法の基本です。


 借金を返した。


 担保も消えた。


 悪徳金融業者の出る幕はありません。


 ところが。


「こはる」


 相馬先輩が、新聞を畳みました。


「はい?」


「お前、今、何の話をしてた?」


「抵当権です」


「そうか」


「はい!」


「じゃあ、書類の表題をもう一度読め」


「え?」


 私は通知書を見ました。


 ――根抵当権。


 ……。


 あ。


「普通の抵当権じゃねえぞ」


 相馬先輩が言いました。


「根抵当権だ」


「……ですよね」


「何が『ですよね』だ」


 嫌な予感がしました。


 相馬先輩は机を指で叩きます。


「借金を全部返したから、当然に根抵当権が消える。そう思ったのか?」


「……はい」


「それが間違いだ」


「ええっ!」


 私は固まりました。


 そうでした。


 根抵当権。


 普通の抵当権とは、性質が違います。


 特に。


 元本が確定する前は。


 個々の借金がなくなっても、根抵当権が当然に消えるわけではない。


「先輩!」


「何だ」


「私、最初から間違えました!」


「知ってる」


「まだ五分しか経ってませんよ!」


「五分で間違えられるのも才能だな」


「褒めてませんよね、それ!」


 高瀬さんが、不安そうに私たちを見ました。


「あの……結局、工場は取られるんでしょうか」


 片桐所長が口を開きました。


「まだ分かりません」


 静かな声でした。


「まず、何を借りて、何を返したのか。それから、誰が何の権利を持っているのかを確かめましょう」


 所長は通知書を机に置きました。


「五千万円という数字だけで、工場を失うと決まったわけではありません」


 高瀬さんが、ゆっくり頷きました。


 そして。


 私たちは、奇妙な借金の正体を調べ始めたのです。


「まず、これを見てください」


 高瀬さんが差し出したのは、古い契約書でした。


 昭和五十九年。


 湖西信用金庫。


 高瀬精機製作所。


 当座貸越取引契約書。


 根抵当権設定契約書。


 私は契約書を読みました。


 ――極度額、金五千万円。


 ――債権の範囲、信用金庫取引。


 ――債務者、高瀬精機製作所。


 ――根抵当権設定者、高瀬正一。


 ――元本確定期日の定め、なし。


「五千万円……」


 私は呟きました。


「そんな大金を借りたんですか?」


「いいえ!」


 高瀬さんは首を振りました。


「五千万円も借りたことなんてありません!」


「え?」


「そのときどきで、五百万円とか、千万円とか、必要な金を借りたんです」


 なるほど。


 製造業です。


 鉄材を買う。


 工具を買う。


 機械を修理する。


 でも、取引先から売掛金が入ってくるのは、一か月後や二か月後。


 先に材料費が必要になる。


「だから、信用金庫から運転資金を借りていたんですね」


「そうです」


「返したら、また必要なときに借りる」


「ええ」


 高瀬さんは頷きました。


「そういう取引を、何年も続けていました」


 私は契約書を眺めました。


 毎月のようにお金を借りる。


 返す。


 また借りる。


 そのたびに抵当権を設定していたら、大変です。


 登記費用。


 契約書。


 手続。


 何度も繰り返すことになる。


 だから。


「根抵当権を設定したんですね」


「そう説明されました」


 私は少しずつ理解しました。


 根抵当権は、特定の一つの借金だけを担保するものではありません。


 一定の範囲に属する、将来発生するものも含めた不特定の債権を担保する。


 そして、その上限を決める。


 それが極度額。


 今回なら。


 五千万円。


「つまり、高瀬さんが五千万円借りたという意味ではないんですね」


「そうです!」


 高瀬さんが身を乗り出しました。


「なのに、あの金融会社は、五千万円の担保があるから工場を売れるって!」


 私は通知書を見直しました。


 ……おかしい。


 根抵当権の極度額は、五千万円。


 でも。


 五千万円の極度額があることと、五千万円の借金が存在することは、別です。


「所長」


「何だ」


「この通知、肝心なことが書いてありません」


「何だ」


「実際に、どの債権が、いくら残っているのかです」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「少しは使える頭になったじゃねえか」


「最初から使えます!」


「五分で間違えたくせに」


「それは忘れてください!」


 でも。


 ここから先が、もっと厄介でした。


「高瀬さん。返済の記録はありますか?」


 私が尋ねると、高瀬さんは鞄から通帳を取り出しました。


 そして。


 小さな封筒。


 中には、信用金庫が発行した書類が入っていました。


 ――貸越残高零円。


 昭和六十三年九月三十日現在。


「これです!」


 高瀬さんが言いました。


「最後の借金も全部返しました!」


「確かに、残高ゼロですね」


「でしょう!」


 私は頷きました。


 しかし、相馬先輩は言いました。


「残高ゼロになったのは、九月三十日だな」


「はい」


「そのあと、信用金庫との取引契約は終わったのか?」


「……え?」


 高瀬さんが首をかしげます。


「また借りられる契約は、残っているんじゃねえのか?」


「ええ。枠は残したままです。今は借りる予定がないだけで……」


「だろうな」


 相馬先輩は私を見ました。


「こはる」


「はい」


「これが根抵当権だ」


 私は通帳を見ました。


 九月三十日。


 残高ゼロ。


 でも。


 翌月、新しく一千万円借りる可能性がある。


 その翌月、二千万円借りる可能性もある。


 そして、そうした債権も、設定された範囲に属する限り、根抵当権で担保され得る。


「……だから、残高ゼロでも根抵当権が消えないんですね」


「そういうことだ」


「普通の抵当権とは違いますね」


「ああ」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「普通の抵当権は、特定の借金にくっついている。だが根抵当権は、元本が確定するまでは、取引から生じる債権を入れ替えながら担保できる」


「借りて、返して、また借りる」


「そうだ」


「箱の中身が入れ替わるようなものですね」


「悪くねえ例えだな」


 私は少し嬉しくなりました。


 しかし。


 片桐所長は、別の書類を見ていました。


「高瀬さん」


「はい」


「この金融会社は、なぜ根抵当権を取得したと言っているのでしょう」


「あ……」


 高瀬さんの顔が曇りました。


「実は、信用金庫から連絡があったんです」


「何と?」


「うちへの貸付債権の一部を、東海商事金融に譲渡したと」


 私は顔を上げました。


「債権譲渡?」


「はい」


 高瀬さんは、もう一通の通知書を差し出しました。


 ――債権譲渡通知書。


 そこには。


 以前、湖西信用金庫が高瀬精機に貸し付けた一千万円の債権を、東海商事金融へ譲渡した旨が書かれていました。


 ただし。


 その貸付金は、譲渡通知が届く前に、既に返済済みだったといいます。


「それなのに、黒岩という男が言うんです」


 高瀬さんの声が震えました。


「銀行から債権を買ったんだから、根抵当権も自分のものになったって」


 ……。


 私は書類を見つめました。


 債権譲渡。


 抵当権。


 随伴性。


 普通の抵当権なら、被担保債権が譲渡されると、それに伴って抵当権も移転するのが原則です。


 だったら。


「先輩、債権を譲り受けたなら、担保も一緒に――」


「こはる」


「はい」


「また普通の抵当権と混ぜてるぞ」


「……あっ!」


 二度目。


 今日、二度目の地雷です。


「根抵当権は、元本確定前だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「そのとき、個々の債権を譲り受けた奴が、当然に根抵当権も取得すると思うか?」


 私は六法を開きました。


 民法第三百九十八条の七。


 そこに、答えがありました。


「……取得しません」


「そうだ」


「元本確定前に根抵当権者から債権を取得しても、その債権について根抵当権を行使できない」


「そのとおり」


 私は息を呑みました。


 つまり。


 東海商事金融が、信用金庫から個別の貸付債権を譲り受けたとしても。


 それだけで、根抵当権まで手に入るわけではない。


「それじゃあ……!」


 高瀬さんが声を上げました。


「あの会社は、工場を競売にかけられないんですか!」


 片桐所長が頷きました。


「少なくとも、今見せていただいた債権譲渡だけを根拠に、根抵当権を行使することはできません」


「本当ですか……!」


「ただし」


 所長は続けました。


「根抵当権そのものが、別に譲渡されていないか確認する必要があります」


 そのとき。


 相馬先輩が、ある書類を取り出しました。


「所長。ちょうどいいものがあります」


 それは。


 高瀬さん宛てに届いていた、もう一通の手紙でした。


 私は読みました。


 ――根抵当権移転承諾書。


 ――根抵当権者である湖西信用金庫から東海商事金融株式会社への根抵当権譲渡について、根抵当権設定者として承諾する。


 署名欄。


 高瀬正一。


 押印欄。


 空白。


 私は固まりました。


「……これ、何ですか?」


 高瀬さんが苦い顔をしました。


「黒岩という男が持ってきたんです」


「持ってきた?」


「署名とハンコを押せって」


「押したんですか!」


「いいえ!」


 私は胸を撫で下ろしました。


「よかった……!」


「でも、押さないと工場を競売にかけると言われました」


 ……。


 なるほど。


 見えてきました。


 黒岩という男。


 最初から、分かっているのではないでしょうか。


 元本確定前の根抵当権。


 債権を譲り受けただけでは取得できない。


 根抵当権そのものを譲り受けるには、設定者の承諾が必要になる。


 だから。


 高瀬さんに、承諾書を書かせようとしている。


「所長!」


 私は立ち上がりました。


「これ、相手は承諾が必要だと知ってます!」


「そうだろうな」


「だから、わざわざ書面を持ってきたんです!」


「うん」


「それなのに、もう根抵当権を取得したような通知を出している!」


 所長は、承諾書を机に置きました。


「根抵当権の移転登記は確認したか」


「まだです」


「なら、まず登記簿だ」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「行くぞ、こはる」


「はい!」


 そして私たちは。


 法務局へ向かったのでした。


 午後一時。


 法務局から戻った私たちの手には、登記簿謄本がありました。


 土地。


 工場建物。


 どちらにも、根抵当権の登記があります。


 極度額。


 五千万円。


 根抵当権者。


 湖西信用金庫。


 そして。


 東海商事金融への移転登記はありませんでした。


「やっぱり!」


 私は声を上げました。


「根抵当権者は、まだ信用金庫です!」


 相馬先輩が頷きました。


「登記上はな」


「しかも、承諾書にも押印していません!」


「そうだ」


「だったら、黒岩は――」


「待て」


 先輩が遮りました。


「登記だけで、あらゆる権利関係が決まると思うな」


「え?」


「根抵当権の譲渡について、設定者の承諾があるのか。譲渡契約はどうなっているのか。そこも調べる」


「はい」


「勝手な移転登記がないから安心、で終わるな」


 なるほど。


 行政書士の仕事。


 相手の書面が嘘っぽいからといって、こちらも思い込みで判断してはいけない。


 事実。


 契約。


 登記。


 条文。


 一つずつ確認する。


「でも、先輩」


「何だ」


「今回、承諾書が未署名という事実は大きいですよね」


「ああ」


 相馬先輩は笑いました。


「相手にとっては、相当痛いだろうな」


 私は登記簿謄本を見つめました。


 五千万円。


 大きな数字。


 でも。


 そこに書いてあるだけで、誰でも五千万円を請求できるわけではありません。


 極度額は、担保される上限。


 債権の存在や金額とは別。


 そして。


 根抵当権を誰が持っているかも、別の問題なのです。


 翌日。


 高瀬さんは、事務所に一本の電話をかけてきました。


『黒岩が、また工場に来たんです!』


 受話器越しの声が震えていました。


「何か言われましたか?」


『承諾書に押さないなら、明日から機械を売る準備をしろって……』


 私は眉をひそめました。


「高瀬さん。承諾書には、まだ署名していませんよね?」


『してません!』


「では、今はそのまま保管してください。相手からの書面や、言われた日時も記録しておいてください」


『分かりました……』


 電話を切ると、相馬先輩が言いました。


「焦ってるな、黒岩の奴」


「そうですね」


「だったら、もう少し調べるぞ」


「はい!」


 私たちは、高瀬さんの了解を得て、信用金庫に取引記録の交付を求めるための書面を作成しました。


 その後。


 高瀬さん自身が信用金庫へ出向き、担当者から資料を受け取りました。


 すると。


 予想外の事実が出てきたのです。


 東海商事金融が譲り受けたという一千万円の貸付債権。


 その債権は、債権譲渡の前日までに全額返済されていたことが、信用金庫の取引記録から確認されたのです。


 もちろん。


 それだけで、債権譲渡の効力に関するすべての問題が解決するわけではありません。


 しかし。


 少なくとも。


 黒岩が三千五百万円の支払いを要求する根拠は、ますます不明になりました。


「三千五百万円って、どこから出た数字なんでしょう」


 私が呟くと、相馬先輩は肩をすくめました。


「さあな」


「五千万円の極度額があるから、適当に決めたとか?」


「それなら、ただの脅しだ」


「でも……」


 私は資料を見ました。


 債権譲渡。


 返済済みの貸付金。


 未署名の承諾書。


 元本未確定の根抵当権。


 これだけでも、相手の主張には穴が多すぎます。


 しかし。


 片桐所長は、まだ納得していませんでした。


「こはる」


「はい」


「高瀬さんが、信用金庫から今後一切借りないと決めたら、どうする」


「え?」


「根抵当権を、このまま残しておく必要があるか」


 私は考えました。


 高瀬さんは、信用金庫との取引を縮小したいと言っていました。


 借入金は完済済み。


 今後、新しい融資を受ける予定もない。


 でも。


 根抵当権だけは残っている。


「……元本を確定させる?」


 私は呟きました。


 相馬先輩が顔を上げます。


「ほう」


「根抵当権は、元本が確定するまでは、担保する債権が入れ替わります」


「ああ」


「だったら、その状態を終わらせればいいんです!」


 私は六法を開きました。


 民法第三百九十八条の十九。


 根抵当権の元本の確定請求。


 私は条文を読みました。


 ――根抵当権設定者は、根抵当権の設定の時から三年を経過したときは、担保すべき元本の確定を請求することができる。


 ――この場合において、担保すべき元本は、その請求の時から二週間を経過することによって確定する。


「……三年!」


 私は声を上げました。


「この根抵当権は、昭和五十九年に設定されています!」


「そうだ」


「もう四年経ってます!」


「そうだな」


「しかも、元本確定期日の定めがありません!」


 所長が頷きました。


「なら、設定者から確定請求をする道がある」


 私は、思わず拳を握りました。


 見つけました。


 これです。


 元本確定。


 これ以上、担保される元本が新しい取引によって増えたり入れ替わったりしないよう、区切りをつける。


「所長! 請求すれば、すぐ確定するんですね!」


「こはる」


「はい!」


「誰が請求する」


「高瀬さんです!」


「何週間だ」


「……二週間」


「そうだ」


 あ。


 私は固まりました。


「すぐじゃない……」


 相馬先輩が笑いました。


「また引っかかったな」


「でも、先輩!」


「何だ」


「根抵当権者から請求する場合は、いつでも、その請求の時に確定しますよね!」


「そうだ」


「なのに設定者から請求する場合は、三年待って、さらに二週間!」


「そこが違う」


 私は頭を抱えました。


 同じ元本確定請求。


 なのに。


 請求する人によって、条件も効力発生の時期も違う。


「ややこしい!」


「民法だからな」


「それ、理由になってません!」


 相馬先輩は笑いました。


「だから、書類を間違えるなって話だ」


 私は頷きました。


 そして。


 ようやく、今日の事件の出口が見えてきたのです。


 その日の夕方。


 高瀬さんに、事務所へ来ていただきました。


「高瀬さん」


 片桐所長が言いました。


「信用金庫から、今後新しい融資を受ける予定はありますか」


「いいえ」


「取引枠を閉じることになっても、構いませんか」


「はい。今後は無借金でやっていくつもりです」


 所長は頷きました。


「それなら、元本確定請求を検討できます」


「元本……?」


「根抵当権が担保する元本を、一定の時点で固定するための手続です」


 高瀬さんは首をかしげました。


「それをすると、どうなるんでしょう」


 私は説明しました。


「今の根抵当権は、将来の新しい借金も担保できる状態です」


「はい」


「でも、元本が確定すると、その後の新しい貸付金は、この根抵当権の担保する元本には加わらなくなります」


「じゃあ……」


「その時点で、担保される元本がいくらあるのかを確認できるんです」


 高瀬さんは、しばらく考えていました。


「それがゼロなら……?」


「既存の担保債権や付随する債務が本当に残っていないかを確認したうえで、根抵当権の抹消を求める話につながります」


「……工場を、自由にできるようになるんですね」


「そういう方向です。ただし、請求だけで登記が自動的に消えるわけではありません」


 高瀬さんは深く息を吐きました。


「お願いします」


 その顔には、ようやく希望が戻っていました。


「親父から受け継いだ工場なんです。私の代で、こんなことで失うわけにはいかない」


 私は頷きました。


 でも。


 片桐所長は、私にもう一つ問いかけました。


「こはる。元本確定請求は、誰にする」


「え?」


「黒岩か。信用金庫か」


 私は、はっとしました。


 登記簿。


 根抵当権者。


 湖西信用金庫。


「信用金庫です!」


「そうだ」


「黒岩が債権を買ったと主張していても、根抵当権者とは限りません!」


「そのとおり」


 所長は言いました。


「相手を間違えた内容証明には、意味がない」


 ……怖い。


 民法の書面。


 条文を知っているだけでは駄目です。


 誰が権利者で。


 誰が設定者で。


 どの法律効果を。


 誰に対して発生させるのか。


 そこまで考えなければならない。


「相馬」


 所長が言いました。


「書類を用意しろ」


「はい」


「信用金庫宛ての元本確定請求通知書。それから、東海商事金融宛ての回答書だ」


 私は立ち上がりました。


「私も書きます!」


「当然だ」


 相馬先輩が言いました。


「ただし」


「はい」


「二通を混同するなよ」


「……はい」


「片方は元本確定の意思表示。もう片方は、相手の主張に法的根拠があるか問い直す書面だ」


 先輩は、机の上に二枚の白紙を置きました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 私は鉛筆を握りました。


 よし。


 ここからが、本当の反撃です。


 翌朝。


 私は内容証明郵便の原案を書き上げました。


 まずは。


 湖西信用金庫宛て。


 ――根抵当権担保元本確定請求通知書。


 通知人。


 高瀬正一。


 被通知人。


 湖西信用金庫。


 私は読み上げました。


「貴金庫を根抵当権者とし、通知人所有の土地及び建物に設定された、昭和五十九年設定の極度額金五千万円の根抵当権について、通知人は民法第三百九十八条の十九第一項に基づき、担保すべき元本の確定を請求する」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「本件根抵当権には元本確定期日の定めがなく、設定時から三年を経過しているため、本通知による確定請求の要件を満たす」


「うん」


「担保すべき元本は、本請求が貴金庫に到達した時から二週間を経過することにより確定する」


 私は一度、息を吸いました。


「元本確定後、被担保債権の残高及び根抵当権抹消に関する手続について、書面による回答を求める」


 読み終わりました。


「どうですか!」


 相馬先輩が原案を読みました。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ただし、最後を直せ」


「え?」


「元本確定日と取引明細の確認だ。元本がゼロでも、利息や損害金の問題がないか、資料で確認する必要がある」


「あ……」


「それから、正確な登記情報を記載しろ」


「はい!」


 片桐所長も頷きました。


「いいだろう」


 よし。


 一通目、完成。


 次は。


 黒岩宛てです。


 こちらは、もっと厄介でした。


 相手は、三千五百万円を請求している。


 しかも、根抵当権を取得したと主張している。


 でも。


 その根拠が、曖昧なのです。


「先輩」


「何だ」


「徹底的に書きます」


「そうしろ」


 私は、二通目の原案を読み始めました。


 ――通知書。


 ――貴社は、通知人所有の不動産について、根抵当権を取得したと主張し、金三千五百万円の支払を要求している。


 ――しかし、本件根抵当権については、次の事実が確認されている。


 第一。


 本件根抵当権の登記上の根抵当権者は、湖西信用金庫であること。


 第二。


 通知人は、貴社への根抵当権譲渡を承諾した事実がないこと。


 第三。


 本件根抵当権の担保すべき元本は、現在まで確定していないこと。


 第四。


 民法第三百九十八条の七第一項により、元本確定前に個別債権を譲り受けた者は、その債権について当然に根抵当権を行使できるものではないこと。


 第五。


 民法第三百九十八条の十二第一項により、元本確定前の根抵当権の譲渡には、根抵当権設定者の承諾を要すること。


 私は、ゆっくり読み上げました。


「以上より、貴社が本件根抵当権を取得したとする法的根拠、譲渡の対象となった債権の内容、並びに金三千五百万円の請求額の算定根拠について、資料を示した書面による回答を求める」


 そして。


 最後の一文。


「根拠の確認できない担保権実行の主張が継続する場合には、通知人は弁護士への相談のうえ、必要な法的措置を検討する」


 読み終えると。


 相馬先輩が黙っていました。


「……先輩?」


「こはる」


「はい」


「今の書面で、相手が一番困るところはどこだ」


 私は考えました。


 三百九十八条の七。


 債権譲渡。


 三百九十八条の十二。


 根抵当権譲渡。


 設定者の承諾。


 そして。


「……根抵当権を取得したと証明できないことです」


「そうだ」


「しかも、三千五百万円の債権が本当に存在するのかも説明できていません」


「そこだ」


 相馬先輩は笑いました。


「極度額五千万円って数字だけ見せりゃ、素人はびびる」


「はい」


「だが、極度額は借金の残高じゃねえ」


「そうです」


「個別の債権を買っただけで、元本未確定の根抵当権を使えるわけでもねえ」


「はい!」


「なら、その二つを証明させればいい」


 片桐所長が、短く言いました。


「相手の主張を、事実に戻せ」


 私は頷きました。


 そうでした。


 内容証明の力。


 難しい条文を大量に並べることではありません。


 相手が曖昧にしているところを。


 法律と事実で、逃げられないほど明確にする。


 今回なら。


 五千万円という数字。


 債権譲渡という言葉。


 根抵当権という担保。


 その三つを混ぜて、工場を奪おうとしている相手に。


 一つずつ、説明を求める。


 それだけで。


 虚勢は崩れ始めるのです。


 書類が完成した翌日。


 高瀬さん本人の意思を確認し、署名押印をいただきました。


 そして。


 二通の内容証明郵便を発送しました。


 一通は、湖西信用金庫へ。


 もう一通は、東海商事金融へ。


 数日後。


 最初に動いたのは、信用金庫でした。


「片桐先生!」


 高瀬さんから、電話が入りました。


『信用金庫から返事が来ました!』


「内容は?」


『元本確定請求を受け付けた、と!』


 私は受話器の横で、思わず拳を握りました。


 信用金庫からの回答には。


 元本確定請求の到達日。


 その二週間後の確定予定日。


 そして。


 現時点での貸付残高がゼロであることが記されていました。


 さらに。


 根抵当権そのものについて、東海商事金融への譲渡契約を締結した事実はない、という説明もありました。


 ……!


「所長!」


 私は声を上げました。


「根抵当権そのものは譲渡されていません!」


 片桐所長が頷きました。


「これで、相手の説明との食い違いがはっきりしたな」


「はい!」


 黒岩は、信用金庫から債権を譲り受けた。


 それを理由に、根抵当権も自分のものだと言っていた。


 でも。


 信用金庫自身が、根抵当権を譲渡していないと説明している。


 しかも。


 高瀬さんは、設定者として承諾していない。


 ……これは。


「相手、かなり苦しいですね」


 私が言うと、相馬先輩が笑いました。


「そろそろ顔色が変わる頃だろ」


 その予想は。


 翌日、現実になりました。


 午後三時。


 事務所に電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『あの……』


 低い声。


『東海商事金融の黒岩ですが』


 私は背筋を伸ばしました。


 来ました。


 黒岩源蔵。


 高瀬さんから工場を奪おうとした男です。


「黒岩様ですね」


『高瀬さんから、内容証明が来たんですが……』


「はい」


『あれは、そちらで作った書面ですか』


「高瀬様のご依頼により、書類作成をお手伝いしました」


 黒岩は、少し黙りました。


『……法律を調べたんですが』


 声が小さい。


『根抵当権って、普通の抵当権とは違うんですね』


 ……。


 私は受話器を握り直しました。


 それを知らずに、工場を競売にかけると言っていたんですか。


 心の中で突っ込みます。


『債権を買ったからって、根抵当権が自動的についてくるわけじゃない、と』


「その点は、通知書に記載されているとおりです」


『それと……』


「はい」


『設定者の承諾も、必要なんですね』


 私は頷きました。


「元本確定前の根抵当権そのものの譲渡については、民法第三百九十八条の十二第一項に規定があります」


『……そうですか』


 沈黙。


 そして。


『信用金庫にも確認しました』


 黒岩の声が、さらに小さくなりました。


『根抵当権そのものは、うちに譲渡していないと言われまして……』


 私は、相馬先輩を見ました。


 先輩は、こちらを見てにやりと笑いました。


『あの……』


 黒岩が言いました。


『三千五百万円の請求は、取り下げようと思います』


 ……!


「書面で、高瀬様ご本人へ通知してください」


『分かりました』


『それから、根抵当権移転承諾書への署名も……もう求めません』


「その点も、書面に記載してください」


『はい……』


 私は言いました。


「なお、当事務所は紛争について代理交渉を行う立場ではありません。今後のご連絡や手続については、ご本人に書面でお知らせください」


『……承知しました』


 電話が切れました。


 私は受話器を置きました。


「……先輩」


「何だ」


「取り下げるって言いました」


「ああ」


「三千五百万円の請求を!」


「聞こえてた」


「承諾書への署名も、もう求めないって!」


 相馬先輩は、煙草に火をつけました。


「だから言っただろ」


「何をですか?」


「声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つ」


「……またそれですか!」


 でも。


 今回は、反論できませんでした。


 黒岩は、最初から大声でした。


 工場を取る。


 競売にかける。


 三千五百万円払え。


 でも。


 内容証明には、大声も脅しもありません。


 事実。


 条文。


 そして、説明を求める言葉。


 それだけで、相手は引き下がったのです。


 ただし。


 片桐所長は、まだ事件が終わったとは言いませんでした。


「こはる」


「はい」


「信用金庫の元本確定は、まだだな」


「あっ」


 そうでした。


 二週間。


 根抵当権設定者が元本確定請求をした場合。


 請求したその瞬間に、元本が確定するわけではありません。


 請求から二週間を経過する必要がある。


「今は、確定待ちですね」


「そうだ」


 所長は帳簿を閉じました。


「新しい借入れがないか、返済残高に変動がないか、確定日まで確認する」


「はい」


「そして、確定後の被担保債権が残っていないことを確かめてから、根抵当権抹消の手続に進む」


「分かりました!」


 さらに。


 登記申請については、司法書士に引き継ぐことになりました。


 私たち行政書士ができるのは、事実関係を整理し、権利義務に関する書類を適法な範囲で作成すること。


 登記申請の代理を、行政書士の仕事として引き受けるわけにはいきません。


 そして、もし黒岩が訴訟を起こしてきたら。


 そこから先は弁護士の仕事です。


 でも。


 今回は、裁判になる前に相手が折れました。


 これが、片桐事務所の戦い方なのでした。


 二週間後。


 湖西信用金庫から、新しい書面が届きました。


 ――根抵当権担保元本確定確認書。


 そこには。


 確定日。


 そして。


 確定時点における被担保債権の元本残高。


 金零円。


 利息及び遅延損害金。


 金零円。


 私は、何度も読み返しました。


「……ゼロ!」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「どうした」


「全部ゼロです!」


「そうか」


「先輩! 五千万円の根抵当権なのに、元本はゼロなんです!」


「当たり前だ」


「いや、そうなんですけど!」


 私は興奮しました。


 五千万円。


 あんなに怖かった数字。


 でも。


 元本確定によって、担保される債権の内容がはっきりした。


 実際の債権残高は、ゼロ。


 極度額五千万円は。


 あくまで上限だったのです。


「所長!」


「何だ」


「やっと、根抵当権を消せるんですね!」


「抹消のための確認と手続が整えばな」


「はい!」


 信用金庫も、被担保債権が存在しないことを確認し、根抵当権抹消に協力する旨を通知してきました。


 その後、司法書士による登記手続が進められます。


 そして。


 さらに数日後。


 高瀬さんは、事務所へ一枚の登記簿謄本を持ってきました。


「先生……!」


 声が震えています。


「消えました」


「え?」


「根抵当権の登記が、消えたんです!」


 私は、登記簿を受け取りました。


 抹消。


 確かに。


 五千万円の根抵当権が、抹消されていました。


「やった……!」


 私は思わず声を上げました。


 高瀬さんは、深く頭を下げました。


「本当に、ありがとうございました」


 その目から、涙が落ちました。


「親父の工場を、守れました」


 私は、胸が熱くなりました。


 工場。


 土地。


 建物。


 ただの不動産ではありません。


 そこには。


 三十年間、働いてきた人たちがいる。


 家族がいる。


 従業員がいる。


 そして。


 まだ生まれていなかった頃から、父親の背中を見て育った息子がいる。


 その工場を。


 五千万円という数字だけで、奪わせるわけにはいかなかったのです。


 一週間後。


 私は、高瀬精機製作所を訪れました。


 工場の中は、金属を削る音でいっぱいでした。


 ガガガガガッ。


 旋盤が回っています。


 油の匂い。


 鉄の匂い。


 床には、細かな切削くず。


 高瀬さんが、笑顔で迎えてくれました。


「朝比奈さん!」


「こんにちは!」


「見てください。新しい仕事が入ったんです」


「本当ですか!」


「ええ。自動車部品の金型です。三か月分の注文が決まりました」


 工場の奥では、若い職人さんが機械を操作していました。


 その隣には、白髪の男性。


 六十歳くらいでしょうか。


 職人さんの手元を見ながら、何かを教えています。


「あの人は?」


 私が尋ねると、高瀬さんは笑いました。


「うちで一番古い職人です。親父の代から働いてくれてるんですよ」


 私は、その背中を見ました。


 三十年。


 同じ場所で。


 同じ仕事をして。


 技術を受け継いできた人。


 もし。


 黒岩の脅しに負けて、工場を失っていたら。


 この機械の音も。


 この油の匂いも。


 ここで交わされる会話も。


 全部、なくなっていたかもしれません。


「朝比奈さん」


 高瀬さんが言いました。


「実は、最初、根抵当権なんてよく分かってなかったんです」


「はい」


「五千万円って書いてあるから、五千万円の借金を背負っているような気がして」


 私は頷きました。


「そうですよね」


「借金を返したのに、なぜ担保が消えないのかも分からなかった」


「はい」


「でも、今は分かります」


 高瀬さんは、工場の土地を見渡しました。


「借りたり返したりするための仕組みだったんですね」


「そうです」


「取引を続けるための担保だった。それ自体が悪いわけじゃない」


「はい」


「なのに、あの男は、それを利用して工場を取ろうとした」


 私は静かに頷きました。


 根抵当権。


 本来は、継続的な取引を円滑にするための仕組みです。


 銀行が安心して融資できる。


 会社は、必要なときに運転資金を借りられる。


 毎回、抵当権を設定し直す必要もない。


 商売を続ける人にとって、便利な制度です。


 でも。


 便利な仕組みほど。


 その意味を知らない人がいると、悪用される余地が生まれる。


「高瀬さん」


「はい」


「今回は、返済しただけでは根抵当権が消えないことが、問題の始まりでした」


「そうですね」


「でも、ちゃんと元本を確定させて、担保される債権を確認すれば、何を返さなければならないのか、はっきりします」


 高瀬さんは頷きました。


「勉強になりました」


「私もです」


「え?」


「実は私も、最初は普通の抵当権と間違えました」


 高瀬さんは目を丸くしました。


 そして。


 大きな声で笑いました。


「ははは! 先生でも間違えるんですか!」


「まだ見習いです!」


 私も笑いました。


 すると。


 工場の奥から、職人さんの声が飛んできました。


「社長! 次の材料、どこに置きますか!」


「おう! 奥の棚だ!」


 高瀬さんが振り返りました。


 その顔は。


 もう、三千五百万円の請求書に怯えていた人の顔ではありませんでした。


 自分の工場を守った社長の顔でした。


 夕方。


 事務所に戻ると、相馬先輩が帳簿を整理していました。


「どうだった、高瀬の工場は」


「元気でした!」


「そりゃよかった」


「機械がいっぱい動いてました!」


「そうか」


「職人さんも、みんな働いてました!」


「そうか」


「先輩!」


「何だ!」


「根抵当権って、すごいですね!」


 相馬先輩が、嫌そうな顔をしました。


「また始まったな」


「だって!」


 私はノートを開きました。


「普通の抵当権って、特定の債権を担保しますよね」


「ああ」


「でも根抵当権は、元本確定前なら、一定の範囲に属する不特定の債権を担保する」


「そうだ」


「だから、借金を返しても当然には消えない!」


「うん」


「債権を譲渡しても、当然に根抵当権がついていかない!」


「うん」


「根抵当権そのものを譲渡するなら、元本確定前は設定者の承諾が必要!」


「そうだ」


「しかも、元本確定請求は、誰がするかで違う!」


 私は、勢いよく続けました。


「設定者なら、原則三年経過後に請求できて、二週間後に確定!」


「うん」


「根抵当権者なら、いつでも請求できて、その時に確定!」


「正解」


「ただし、元本確定期日の定めがあるときは別!」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


 私は、得意になりました。


「もう完璧ですね!」


「そうか?」


「はい!」


「じゃあ一問」


「どうぞ!」


 相馬先輩が言いました。


「元本確定後に、利息が増え続けたらどうなる」


「え?」


「根抵当権は、どこまで担保する?」


 私は口を開きました。


 そして。


 止まりました。


 ……あれ?


 確定した元本。


 利息。


 損害金。


 極度額。


 普通の抵当権には、利息などについて特有の範囲の制限があります。


 でも。


 根抵当権は?


「……二年分?」


 私は、おそるおそる言いました。


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「それ、普通の抵当権の話じゃねえのか?」


「……あっ!」


 またです。


 また、普通の抵当権と混同しました。


「根抵当権は、確定した元本と利息・損害金などの全部について、極度額を限度として担保します!」


「そうだ」


「だから、極度額が五千万円なら、元本と利息と損害金を合わせた優先弁済の上限が五千万円!」


「正解」


 私は頭を抱えました。


「先輩!」


「何だ」


「普通の抵当権と根抵当権、名前が似すぎです!」


「法律に文句を言うな」


「だって、付従性も随伴性も違うんですよ!」


「元本確定前はな」


「そこも重要!」


 私は鉛筆を握りました。


 片桐所長が、奥から声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


 高瀬さんの工場。


 五千万円の極度額。


 ゼロになった借入残高。


 債権を買っただけで担保まで取得したつもりになっていた黒岩。


 そして。


 元本確定請求。


 二週間。


 内容証明。


 工場から聞こえてきた、機械の音。


 私は答えました。


「根抵当権は、借金一つにくっついている担保じゃありません」


「うん」


「元本確定前は、一定の取引から生じる債権を、極度額の範囲で担保し続ける仕組みです」


「そうだ」


「だから、借金がゼロでも当然には消えないし、個別の債権を譲り受けても当然には根抵当権がついてこない」


 所長が頷きました。


「それで?」


 私は、少し笑いました。


「五千万円の根抵当権があるからといって、五千万円の借金があるわけじゃない」


「そうだ」


「その違いを知らないと、悪い人に騙されます」


 所長は静かに言いました。


「担保の上限と、債務の残高を混同するな」


「はい」


 私はノートに、一行を書きました。


 ――根抵当権は、極度額という箱で継続的な取引を担保する。元本確定前は、中身がゼロでも箱は残る。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


 相馬先輩が覗き込みます。


「まあ、悪くねえな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 今日の教訓は、きっと忘れません。


 五千万円。


 それは、高瀬さんが返さなければならない借金の額ではありませんでした。


 その違いを見抜けなければ。


 あの工場は、脅しに屈していたかもしれません。


 民法。


 第三百九十八条の二。


 第三百九十八条の七。


 第三百九十八条の十二。


 第三百九十八条の十九。


 試験のテキストでは、似たような数字が並ぶだけ。


 でも。


 現実には。


 その数字の向こうに、人の生活があります。


 十二人の従業員。


 家族。


 三十年続いた工場。


 それを守るために、必要だった知識です。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「明日は、普通の抵当権と根抵当権の違いを全部説明してもらうぞ」


「ええっ!」


「付従性、随伴性、極度額、元本確定、譲渡」


「そんなに!」


「今、完璧だって言っただろ」


「……言いましたけど!」


「なら問題ねえな」


 私は、机に突っ伏しました。


 相馬先輩が笑っています。


 片桐所長も、ほんの少し口元を緩めました。


 ……まったく。


 民法という法律は。


 同じような言葉を、どうしてこんなに並べるのでしょう。


 抵当権。


 根抵当権。


 元本。


 極度額。


 付従性。


 随伴性。


 全部、覚えなければいけません。


 でも。


 私は、今日の高瀬さんの笑顔を思い出しました。


 あの工場は、明日も動きます。


 鉄を削る音がして。


 職人さんが働いて。


 社長が注文書に目を通す。


 そんな、当たり前の日常。


 それを守れるのなら。


 少しくらい、難しい法律でも。


 覚える価値はあるのでしょう。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「明日の勉強会、受けて立ちます!」


「おう」


「ただし!」


「何だよ」


「根抵当権の元本確定請求みたいに、三年待ってもらえませんか!」


「待つか!」


「じゃあ二週間!」


「明日だ!」


「厳しい!」


 私の悲鳴が、夕方の事務所に響きました。


 昭和六十三年。


 民法の勉強は、まだまだ続きます。


 ただし。


 次に根抵当権の登記を見るときは、もう怖がりません。


 まず確認するのは。


 誰が根抵当権者なのか。


 何の取引を担保しているのか。


 極度額はいくらなのか。


 元本は確定しているのか。


 そして。


 本当に、いくらの債権が残っているのか。


 五千万円という数字だけで、人の工場を奪えるほど。


 民法は、いい加減な法律ではないのです。

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