[民法・法定地上権]現場編 「土地を買ったんだから家を壊せ」の罠。競売で家を奪おうとした悪徳不動産屋と、三十年前の抵当権に隠された民法三百八十八条の逆襲
土地を買ったからといって、その上に建つ家まで壊せるとは限りません。
たとえ。
その土地を、裁判所の競売で正当に手に入れたとしても。
です。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は一枚の取り壊し通知書を前に、頭を抱えていました。
――十日以内に建物を収去し、土地を明け渡すこと。
十日。
たった十日です。
三十年以上暮らしてきた家を。
家族の思い出が詰まった家を。
十日以内に壊せというのです。
しかも、相手は言いました。
「土地は俺のものだ。家を建てていられる権利なんか、あるわけがない」
……ところが。
あるんです。
契約書がなくても。
地主の許可をもらっていなくても。
法律が、当然に認めることのある権利。
その名は。
法定地上権。
民法第三百八十八条。
ただし。
この権利には、恐ろしい落とし穴がありました。
抵当権を設定したとき。
土地の上に、建物があったか。
そして。
そのとき、土地と建物は誰のものだったか。
たったそれだけの違いが。
一軒の家族の運命を、まるごと変えてしまうのです。
◇
「家を壊せって言われたんです!」
朝九時。
事務所の扉が勢いよく開きました。
入ってきたのは、六十代半ばの女性。
小柄で、白髪をきちんとまとめています。
手には、茶色い封筒。
その後ろには、四十歳くらいの男性がいました。
「落ち着いてください。こちらへどうぞ」
私が椅子を勧めると、女性は震える手で封筒を差し出しました。
「これを見てください」
差出人。
東海土地開発株式会社。
代表取締役。
黒岩剛造。
中には一枚の通知書。
私は目を通しました。
――当社は、競売手続により下記土地の所有権を適法に取得した。
――貴殿所有の建物には、当社所有地を使用する正当な権原が存在しない。
――よって、本通知到達後十日以内に建物を収去し、土地を明け渡されたい。
さらに、その下には。
――期限内に履行されない場合、建物収去土地明渡請求訴訟を提起し、強制執行を申し立てる。
「……十日以内?」
私は思わず声を上げました。
女性は頷きました。
「はい……」
「お名前を教えてください」
「藤枝ハルと申します。六十五歳です」
隣の男性が頭を下げました。
「息子の修一です」
ハルさんは膝の上で手を握り締めました。
「あの家には、昭和三十二年から住んでいます」
「昭和三十二年?」
「主人が建てた家なんです」
もう三十年以上。
「でも、五年前に主人が亡くなって……」
ハルさんの声が小さくなりました。
「そのあと、家の裏で小さな火事がありまして」
「火事?」
「はい。古い家だったので、建て直したんです」
修一さんが説明を引き継ぎました。
「昭和五十八年です。古い家を取り壊して、ほぼ同じ場所に新しい家を建てました。母が暮らしやすいように、廊下も広くして」
「なるほど……」
私は相談票に書き込みました。
昭和三十二年。
旧建物建築。
昭和五十八年。
旧建物取り壊し、新建物建築。
そして。
昭和六十三年。
土地が競売。
「競売になったのは、どうしてですか?」
修一さんが苦しそうな顔をしました。
「父が、生前に事業資金を借りていたんです」
借入先は、地元の金融機関。
貸付金の担保として、土地に抵当権を設定していた。
その後、父親が亡くなり、土地と建物は相続手続を経てハルさんの所有となった。
しかし、事業の借入金が残り、返済が滞った。
そして、抵当権が実行された。
「競売で買ったのが、あの黒岩という男です」
修一さんは吐き捨てるように言いました。
「不動産屋なんですが、近所では有名なんです。安く買った土地から住人を追い出して、まとめて転売するって」
「……なるほど」
嫌な予感しかしません。
「それで、家はどうなるんでしょうか」
ハルさんが私を見ました。
「主人が一生懸命働いて建てた家なんです。建て直したときも、柱の一本だけは昔の家のものを残して……」
ハルさんの目に涙が浮かびます。
「土地が人のものになったのは分かります。でも、家まで壊さなければならないんでしょうか」
私は、通知書をもう一度見ました。
土地。
建物。
抵当権。
競売。
……あ。
これ。
知っています。
行政書士試験で勉強しました。
「ハルさん!」
「はい?」
「まだ諦めないでください!」
私は六法を開きました。
「法定地上権という制度があります!」
「ほうてい……?」
「法定地上権です!」
よし。
民法三百八十八条。
これです。
土地と建物が同じ人の所有だった。
その土地に抵当権が設定された。
競売によって土地と建物が別々の所有者になった。
そんな場合、一定の要件を満たせば、法律上当然に地上権が成立する。
つまり。
土地を他人に取られても、建物を使い続けられる可能性があるのです。
「大丈夫です!」
私は勢いよく言いました。
「家を建て直していても、法定地上権が成立する可能性があります!」
ハルさんの顔が明るくなりました。
「本当ですか!」
「はい! 判例でも――」
「待て」
背後から、低い声。
相馬先輩でした。
「こはる」
「はい!」
「抵当権は、いつ設定された」
「……え?」
「いつだ」
私は相談票を見ました。
抵当権の設定日。
……書いていません。
「まだ確認していません」
「じゃあ、何で法定地上権が成立するなんて言えるんだ」
「えっ」
「建物があったって言ったな」
「はい」
「いつあった」
「昭和三十二年から……」
「抵当権を設定したときにもあったのか?」
「……」
私は止まりました。
あ。
そうでした。
法定地上権。
重要なのは。
抵当権設定当時。
競売されたときに家があるだけでは、駄目なのです。
「それと」
相馬先輩が続けました。
「抵当権を設定したとき、土地と建物は誰のものだった」
「……ご主人、でしょうか」
「推測するな」
「はい……」
「同じ人のものじゃなかったら、話が変わるぞ」
私は六法を握り締めました。
くっ。
法定地上権。
知っているつもりでした。
でも。
試験の問題文なら、
――抵当権設定当時、土地及び建物はAの所有であった。
と、最初から書いてあります。
現実の相談票には、そんな親切な一文はありません。
誰かが調べなければ。
永遠に分からないのです。
片桐所長が奥から声をかけました。
「こはる」
「はい」
「登記簿を取れ」
「土地と建物、両方ですね」
「そうだ。閉鎖登記簿も確認しろ」
「はい!」
「それから」
「はい」
「古い家が、いつ建てられ、どんな建物だったのかを調べる」
私は顔を上げました。
「所長」
「何だ」
「建て直したことが問題になるんですか?」
所長は短く答えました。
「なる」
「……!」
「ただし、それだけで負けが決まるわけじゃない」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「面白くなってきたな」
「先輩!」
「何だ」
「人の家がかかってるんですよ!」
「だからだよ」
先輩は煙草を取り出しました。
「法律ってのはな、かわいそうだから勝たせるって仕組みじゃねえ」
「……はい」
「勝てる要件を、一つずつ拾っていくんだ」
私は頷きました。
法定地上権。
名前は一つ。
でも。
その成立には、過去の事実がいくつも必要なのです。
◇
翌日。
私と相馬先輩は、法務局へ向かいました。
古い登記簿。
閉鎖登記簿。
土地の沿革。
建物の沿革。
閲覧申請を済ませ、謄本を請求します。
もちろん、昭和六十三年。
インターネットで登記事項証明書を取り寄せることなんてできません。
紙です。
ひたすら紙。
「……先輩」
「何だ」
「昔の登記簿って、読むの大変ですね」
「読め」
「手書き文字が難しいです」
「読め」
「この『抵当』って文字、すごく達筆で……」
「泣き言を言うな」
厳しい。
昭和の実務、厳しい。
ですが。
その紙の中に、決定的な事実がありました。
「……あっ!」
私は顔を上げました。
「先輩!」
「見つけたか」
「はい!」
土地の登記簿。
所有者。
藤枝正一。
ハルさんの亡くなったご主人。
そして。
抵当権設定登記。
昭和三十五年六月十日。
「昭和三十五年!」
「ああ」
「家が建った昭和三十二年より、三年後です!」
「そうだな」
私は興奮しました。
これなら。
抵当権設定当時、建物は存在していた可能性が高い。
さらに。
旧建物の閉鎖登記簿。
所有者。
藤枝正一。
表題部には、木造瓦葺平家建。
登記の時期は昭和三十二年。
「先輩!」
「今度は何だ」
「土地と建物、両方とも正一さんの所有です!」
「抵当権設定時点でな」
「はい!」
よし。
二つ揃いました。
抵当権設定当時。
建物あり。
土地と建物は同一所有者。
さらに、抵当権は土地に設定されている。
そして競売で土地だけが黒岩のものになった。
……あれ?
「先輩」
「何だ」
「四つ揃ってません?」
「ああ」
「じゃあ、成立ですね!」
「まだ確認することがある」
「ええっ!」
先輩は、旧建物の閉鎖登記簿を指差しました。
「この家、もうねえだろ」
「……あ」
そうです。
昭和五十八年。
取り壊し。
その後、新築。
「抵当権を設定したときにあった家と、今の家は別物だ」
「はい……」
「そこを相手は突いてくる」
私は頭を抱えました。
法定地上権。
抵当権設定時に建物が必要。
でも、その建物がなくなってしまった。
新しく建て直した家は、守られるのでしょうか。
「先輩」
「何だ」
「昔の建物がなくなったら、法定地上権も駄目なんですか?」
「決めつけるな」
先輩は一枚の古い判例集の複写を、鞄から取り出しました。
「所長が調べておけって言ってた奴だ」
私は見ました。
大審院。
昭和十年八月十日。
……大審院?
戦前の最高裁判所に当たる裁判所です。
「これ……!」
「土地だけに抵当権が設定されたあと、元の建物を取り壊して建て直した場合の話だ」
先輩は指で判例の該当箇所を押さえました。
「元の建物のために法定地上権が成立するはずだった場合、建て直したからといって、必ずしも法定地上権が消えるわけじゃねえ」
「本当ですか!」
「ただし」
「はい」
「旧建物のために認められるのと同一の範囲内だ」
私は息を呑みました。
つまり。
昔の家があった。
その土地に抵当権を設定した。
その後、家を建て直した。
それでも。
昔の家のために成立するはずだった法定地上権の範囲内なら、新しい家にも認められる可能性がある。
「先輩!」
「何だ」
「それなら、ハルさんの家は……!」
「新旧の建物を比較するぞ」
「はい!」
「古い家より、新しい家がやたら大きくなっていたら、話が面倒になる」
なるほど。
抵当権者は、抵当権を設定した当時の土地と建物の状況を前提に、担保価値を判断しています。
あとから勝手に巨大な建物を建てて、土地の利用を大幅に制限されたら。
抵当権者や競売の買受人にとって、予想外の不利益になってしまう。
だからこそ。
再築なら何でもよい、というわけではない。
「……先輩」
「何だ」
「法定地上権って、建物の人を守る制度ですよね」
「ああ」
「でも、土地を担保に取った人の利益も考えているんですね」
先輩は頷きました。
「そういうことだ」
私は判例の複写を見つめました。
昭和十年。
今から五十三年前。
そんな昔の判例が。
昭和六十三年の家族を守るかもしれない。
民法の歴史。
ちょっと、格好いいじゃないですか。
◇
その日の午後。
私たちは藤枝家へ向かいました。
駅から少し離れた住宅街。
古い石垣。
庭には柿の木。
そして。
青い瓦屋根の平家建て。
「ここです」
ハルさんが門を開けてくれました。
「きれいなお家ですね」
「ありがとうございます」
家の中には、磨かれた廊下。
古い柱時計。
仏壇の横には、亡くなったご主人の写真。
温かい家でした。
私は見取り図を広げました。
「ハルさん、前の家もこの場所に建っていたんですか?」
「はい」
「大きさは?」
「前より、少し小さくしたくらいです」
「小さく?」
「主人が亡くなって、一人暮らしになりましたからね。広い家は要らないと思って」
……。
私は相馬先輩を見ました。
先輩もこちらを見ています。
「旧建物の図面、残っていますか」
修一さんが頷きました。
「はい。建築確認のときの控えや、建て直したときの設計図があります」
持ってきてもらった資料を並べました。
旧建物。
木造平家建。
延べ床面積、約九十平方メートル。
新建物。
木造平家建。
延べ床面積、約七十八平方メートル。
建築位置も、ほぼ同じ。
古い基礎の配置を参考にしている。
「……先輩」
「何だ」
「小さくなってます」
「ああ」
「これなら……!」
「有利な事情だな」
相馬先輩が頷きました。
私は思わず拳を握りました。
でも。
そのとき。
門の外から、大きな声が響きました。
「藤枝さん! いるんだろ!」
……え?
ハルさんの顔色が変わりました。
「あの人です」
「誰ですか?」
「土地を買った……黒岩さんです」
来た。
敵役です。
しかも。
最悪のタイミングで。
◇
「いつまで居座る気だ!」
門の外に立っていたのは、五十歳前後の大柄な男。
派手な背広。
金色の腕時計。
黒岩剛造。
東海土地開発の社長です。
「通知は読んだだろ!」
黒岩はハルさんを見るなり怒鳴りました。
「十日以内に壊せって書いてあったはずだ!」
「でも……」
「でもじゃねえ!」
修一さんが母親の前に出ました。
「少し待ってください。今、法律の専門家にも相談しているんです」
「専門家?」
黒岩が私たちを見ました。
「何だ、お前ら」
「片桐行政書士事務所の相馬です」
「行政書士?」
黒岩は鼻で笑いました。
「弁護士でもねえ奴が、何しに来た」
……。
またです。
この台詞。
昭和の悪徳業者には、定番の挨拶なのでしょうか。
「登記関係の資料を確認しています」
相馬先輩が答えました。
「はっ!」
黒岩が笑います。
「確認したって無駄だ。裁判所の競売で、俺が土地を買ったんだぞ!」
「そうですね」
「所有権移転登記だって済んでる!」
「承知しています」
「じゃあ話は終わりだろ!」
先輩は黙りました。
黒岩は勝ち誇ったように続けました。
「土地の所有者は俺だ。家を建てておく契約なんか、どこにもねえんだよ!」
私は思わず言いました。
「契約がなくても、成立する権利があります!」
黒岩の眉が動きました。
「何?」
「法定地上権です!」
「ほうていちじょうけん?」
黒岩は口を曲げました。
「聞いたことはあるな」
……ほう。
「でもな」
黒岩は指を突きつけました。
「この家は、抵当権を設定したあとに建ったんだ!」
私は固まりました。
「……え?」
「登記簿くらい、俺も見てるんだよ!」
黒岩は鞄から書類を取り出しました。
新建物の登記簿。
昭和五十八年新築。
「抵当権を設定したのは昭和三十五年だ!」
黒岩は得意げに笑いました。
「つまり、この建物が建った二十三年も前だ!」
……!
「法定地上権ってのは、抵当権設定時に建物がなきゃ駄目なんだろ?」
黒岩は続けました。
「だったら、この家には法定地上権なんかねえ!」
私は息を呑みました。
……なるほど。
こいつ。
全く法律を知らないわけではありません。
むしろ。
知識を少しだけ持っている。
そして。
自分に都合のよいところだけを、利用しているのです。
「だから十日以内に壊せ!」
黒岩が怒鳴りました。
「壊したくなきゃ、立退料どころか、こっちに迷惑料を払って出て行け!」
ハルさんが俯きました。
私は、腹の底から怒りが込み上げてきました。
でも。
そこで。
「黒岩さん」
相馬先輩が口を開きました。
「何だ」
「旧建物のことは、ご存じですか」
「旧建物?」
「昭和三十二年に建てられた家です」
黒岩の顔が、一瞬止まりました。
「……知ってるよ」
「その建物は、昭和三十五年の抵当権設定当時、存在していました」
「だから何だ!」
「土地と建物は、当時、同じ藤枝正一さんの所有でした」
「それがどうした!」
先輩は静かに答えました。
「それを踏まえて、法定地上権の成立を検討しています」
黒岩は鼻で笑いました。
「昔の家なんか、もうねえだろ!」
「そうですね」
「今の家は新しい家だ!」
「そうですね」
「だったら終わりだ!」
相馬先輩は、それ以上反論しませんでした。
「分かりました」
「何がだ!」
「あなたの主張は、確認できました」
先輩はハルさんに向き直ります。
「藤枝さん。資料は十分揃いそうです。事務所へ戻りましょう」
「は、はい……」
黒岩が叫びました。
「逃げるのか!」
先輩は振り返りませんでした。
私も追いかけます。
でも。
門を出たところで、我慢できなくなりました。
「先輩!」
「何だ」
「何で言い返さないんですか!」
「何をだ」
「昭和十年の判例ですよ!」
「知ってる」
「だったら、あそこで突きつければ!」
「こはる」
先輩が立ち止まりました。
「はい」
「俺たちは、依頼人の代理人として法律紛争の交渉をする立場じゃねえ」
「……はい」
「行政書士ができる仕事と、弁護士に渡す仕事を混同するな」
「分かっています」
「だったら、相手と口喧嘩してどうする」
先輩は鞄を叩きました。
「事実を整理する。登記を調べる。資料を揃える。本人が出す通知書を、法律に照らして正確に作る」
「はい」
「その先で訴訟が必要になれば、弁護士に引き継ぐ」
私は頷きました。
「それが、俺たちの仕事だ」
そして。
先輩はにやりと笑いました。
「それにな」
「はい?」
「黒岩は、自分から逃げ道を減らしてくれた」
「……え?」
「新しい家だから駄目だ、って言い切っただろ」
「はい」
「なら、そこに昭和十年の判例をぶつける」
私は目を見開きました。
「……!」
「今度は、紙の上でな」
なるほど。
悪徳業者の大声。
それに大声で返す必要はない。
相手が自信満々に振りかざした理屈を。
条文と判例で、静かに崩せばいいのです。
◇
片桐事務所に戻ったのは、午後四時でした。
「所長!」
私は資料を机に広げました。
「揃いました!」
土地の登記簿。
旧建物の閉鎖登記簿。
新建物の登記簿。
旧建物の設計図。
新建物の設計図。
建築確認関係の書類。
競売による土地の所有権移転を示す資料。
そして。
ハルさんから聞き取った、建て直しの経緯。
所長は一枚ずつ確認しました。
しばらくして。
「……いけるな」
小さく呟きました。
「本当ですか!」
「ああ」
相馬先輩が椅子に腰掛けます。
「こはる」
「はい!」
「今回、法定地上権が成立する根拠を言ってみろ」
私は深呼吸しました。
「まず、民法三百八十八条です」
「うん」
「抵当権設定当時、土地と建物は同一所有者である藤枝正一さんに属していました」
「うん」
「その土地に抵当権が設定されました」
「うん」
「そして、競売で土地だけが黒岩の所有となり、建物と土地の所有者が別々になりました」
「そうだ」
「問題は……」
私は新建物の登記簿を指差しました。
「抵当権設定後に、元の家が取り壊されていることです」
所長が頷きました。
「そこだ」
私は古い判例集を開きます。
「大審院昭和十年八月十日の判例では、土地だけに抵当権が設定され、その後に建物が再築された場合でも、元の建物について法定地上権が成立するはずだったときは、その同一の範囲内で法定地上権が成立するという考え方が示されています」
「うん」
「藤枝さんの新しい家は、古い家よりも小さく、位置もほぼ同じです」
「そうだ」
「だから……!」
私は顔を上げました。
「建て直したことだけを理由に、法定地上権を否定することはできません!」
所長が静かに頷きました。
「よし」
……やった。
あとは内容証明です。
私は便箋に向かいました。
宛先。
東海土地開発株式会社。
代表取締役 黒岩剛造。
差出人。
藤枝ハル。
件名。
――法定地上権の存在に関する通知書。
私は書き始めました。
しかし。
十分後。
「駄目だ」
所長から赤鉛筆が飛んできました。
……正確には、机に置かれました。
「ええっ!」
「ここ」
所長が指差します。
――貴社による建物収去請求は、完全に違法である。
「断定が強すぎる」
「でも、法定地上権が……」
「法定地上権が存在することと、相手の通知行為そのものが当然に違法となることは、別だ」
「……はい」
「次」
赤線。
――貴社は直ちに土地の所有権を返還しなければならない。
「……あっ」
私は固まりました。
「違いますね」
「違う」
「土地の所有者は、黒岩のままです」
所長が頷きました。
「そこを間違えるな」
法定地上権。
これは、土地の所有権を奪う制度ではありません。
土地は黒岩のもの。
建物はハルさんのもの。
そのうえで。
ハルさんが建物を所有するため、土地を利用できる地上権が成立する。
そういう仕組みです。
「……そうでした」
私は赤線を引き直しました。
さらに。
「所長」
「何だ」
「ハルさんは、土地を無料で使えるんでしょうか?」
「いいや」
「ですよね……」
民法三百八十八条。
法定地上権が成立した場合。
地代について当事者間で協議がまとまらなければ、当事者の請求により裁判所が定めることになります。
つまり。
土地の所有者にも、ちゃんと利益が残されている。
「先輩」
「何だ」
「法定地上権が成立したら、黒岩に地代を払うことになるんですね」
「ああ。具体的な額は別途決めることになる」
「そこも書きます」
「そうしろ」
私は原案を書き直しました。
法律の武器。
でも、相手の正当な権利まで消してはいけません。
そこを間違えたら。
どんなに立派な内容証明でも、隙ができてしまうのです。
◇
二時間後。
書面が完成しました。
私は、ゆっくり読み上げました。
「第一。本件土地には、昭和三十五年六月十日、藤枝正一を設定者とする抵当権設定登記がなされている」
「うん」
「第二。右抵当権設定当時、本件土地上には昭和三十二年に建築された木造平家建の建物が存在し、土地及び建物はいずれも藤枝正一の所有であった」
「続けろ」
「第三。本件抵当権の実行による競売の結果、土地の所有権は貴社に移転した一方、地上建物は通知人の所有に属し、土地と建物は所有者を異にするに至った」
相馬先輩が頷きました。
「第四。本件旧建物は昭和五十八年に取り壊され、ほぼ同一位置に新建物が建築された。しかし、旧建物のために法定地上権が成立する場合、再築建物についても旧建物のための法定地上権と同一の範囲内において法定地上権の成立を認める大審院判例が存在する」
私は一度、息を吸いました。
「第五。本件新建物は旧建物よりも床面積が小さく、建築位置その他の利用状況も旧建物の範囲を大きく逸脱するものではない」
所長が顔を上げました。
「よし」
「第六。以上の事情から、通知人は民法第三百八十八条に基づく法定地上権が成立していると考える」
そして。
最後です。
「よって、貴社の建物収去土地明渡請求には応じられない旨を通知する。地代については法に従い適正な額を定める意思を有する。なお、建物収去等の法的手続を求められる場合には、通知人において弁護士への相談その他適切な対応を検討する」
読み終わりました。
静寂。
相馬先輩が言いました。
「まあ、いいだろう」
「本当ですか!」
「ただし、これだけで送るな」
「え?」
「ハルさんに事実関係を確認してもらえ」
「あ、はい!」
「本人の意思で出す通知書だ。本人が知らねえことを勝手に書くな」
私は頷きました。
そうです。
行政書士は、依頼人の権利を守るための書類を作ります。
でも。
依頼人の意思を飛び越えて、勝手に法律上の争いを進めるわけではありません。
翌日、ハルさんに内容を確認してもらいました。
ハルさんは、書面を読み終えてから言いました。
「……こんな昔のことが、役に立つんですね」
「はい」
私は笑いました。
「昭和三十二年に建てた家があったからこそ、今の家を守る根拠になるんです」
「主人が建てた家が……」
ハルさんは、書面を見つめました。
「今の家まで、守ってくれてるんですね」
私は、少し胸が熱くなりました。
もちろん。
法定地上権を守っているのは、ご主人の気持ちではありません。
民法と判例です。
でも。
その民法が重視する事実を、ご主人が三十年以上前に残していた。
土地を買ったこと。
建物を建てたこと。
抵当権設定当時、土地と建物をともに所有していたこと。
そんな過去の事実が。
今、ハルさんの暮らしを支えているのです。
ハルさんは通知書への署名押印を済ませました。
そして。
内容証明郵便が発送されました。
◇
それから三日後。
東海土地開発の事務所では、一人の男が顔を青くしていました。
「……何だ、これは」
黒岩剛造。
手には、藤枝ハル名義の内容証明郵便。
机の向こうには、顧問の弁護士が座っていました。
「先生!」
黒岩は怒鳴りました。
「こんな紙一枚で、家を壊せなくなるっていうんですか!」
弁護士は書面を読み終えると、眼鏡を外しました。
「黒岩さん」
「はい」
「あなた、抵当権を設定した当時の建物について、確認しましたか」
「え?」
「昭和三十五年に、すでに旧建物が存在していたことです」
「そ、それは……」
「土地と建物は、当時同じ人の所有だったんですね」
「……はい」
弁護士は溜息をつきました。
「それなら、法定地上権の成立を無視できません」
「でも!」
黒岩は机を叩きました。
「今の家は昭和五十八年に建てた新しい家ですよ!」
「そこが問題ですが、土地だけに抵当権が設定された後の再築については、古い大審院判例があります」
「……!」
「旧建物について成立すべき法定地上権と同一の範囲内なら、再築建物についても認められるという考え方です」
黒岩の顔色が変わりました。
「そんな……」
「新しい家は、古い家より小さいそうですね」
「……」
「建築位置もほぼ同じ」
「……はい」
「それなら、建て直したという一点だけで勝てるとは考えない方がいいでしょう」
黒岩は唇を噛みました。
「じゃあ、俺が買った土地なのに……!」
「土地の所有権はあなたのものです」
「だったら!」
「ただし、法定地上権が成立していれば、その負担のある土地を取得したことになります」
「……!」
「競売で取得したからといって、その負担が当然に消えるわけではありません」
黒岩は黙りました。
弁護士が続けます。
「仮に建物収去土地明渡訴訟を提起しても、相手方が法定地上権を主張すれば、裁判所はその成否を審理することになるでしょう」
「……勝てるんですか」
「断言はできません。ただ、提出された資料を見る限り、先方の主張には相応の根拠があります」
「……」
「訴訟を起こせば、時間も費用もかかります。主張が認められなければ、建物収去は求められません」
黒岩は、もう何も言えませんでした。
彼の計画は単純でした。
競売で土地を取得する。
建物の所有者を脅して追い出す。
更地にして、高く転売する。
ところが。
法定地上権が存在するとなれば。
建物を勝手に壊すことはできない。
土地を自由に更地として使うこともできない。
最初から、その権利を考慮して土地の価値を判断しなければならなかったのです。
「……先生」
黒岩は小さな声で尋ねました。
「じゃあ、どうすれば……」
弁護士は答えました。
「まず、十日以内の建物収去要求を撤回することです。そのうえで、土地所有者として、法定地上権の成否と地代の問題を適切に整理しましょう」
黒岩は、内容証明を見下ろしました。
そこには。
怒鳴り声も。
罵倒も。
脅迫もありません。
昭和三十五年。
土地。
旧建物。
抵当権。
再築。
競売。
民法三百八十八条。
そして、昭和十年の大審院判例。
ただ、それだけ。
……それだけなのに。
黒岩の更地転売計画は、根底から揺らいでいたのです。
◇
翌朝。
片桐事務所に、一通の書留郵便が届きました。
差出人。
東海土地開発株式会社。
私は封筒を開きました。
「……!」
目を見開きます。
「所長!」
「何だ」
「黒岩からです!」
所長が顔を上げました。
私は読みました。
――先般通知した十日以内の建物収去土地明渡要求については、これを撤回する。
――貴殿主張の法定地上権については、当社において確認を行った。
――今後、建物収去を一方的に要求することはせず、土地利用及び地代に関する事項を適法に整理することとしたい。
……。
私は固まりました。
「……撤回?」
もう一度読みます。
撤回。
建物収去要求。
撤回!
「所長!」
「聞こえている」
「撤回です!」
「ああ」
「やりましたね!」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「ようやく分かったか」
「何がですか?」
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は笑いました。
「またそれですか!」
「ああ」
先輩は返答書を指差しました。
「見ろ。向こうの社長のハンコが押してある」
確かに。
黒岩剛造。
代表取締役印。
あの偉そうな男が。
自分の名前と印鑑で。
建物収去要求を撤回している。
私は思わず、机の下で小さく拳を握りました。
やった。
法律で。
紙一枚で。
あの大声を、黙らせたのです。
◇
数日後。
ハルさんが事務所へやってきました。
手には、風呂敷。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げます。
「おかげで、家を壊さずに済みそうです」
私は笑いました。
「よかったです!」
「息子とも相談して、これから地代をきちんと決めていくつもりです」
「はい」
なお、地代の額や法定地上権の具体的な範囲について争いが生じれば、専門家への相談や裁判所の手続が必要になる場合があります。
そこまで行政書士が代理交渉をすることはできません。
でも。
今回の緊急の問題。
十日以内に家を壊せ。
その要求は撤回されました。
「ところで」
私は風呂敷を見ました。
「それは何ですか?」
「ああ、これですか」
ハルさんが包みを開きました。
中から出てきたのは、柿。
「庭の木になったんです」
「わあ!」
「主人が植えた木なんですよ」
ハルさんは、嬉しそうに笑いました。
「昭和三十二年に家を建てたとき、一緒に植えたんです」
「……そうだったんですか」
「毎年、秋になると実がなってね」
ハルさんは窓の外を見ました。
「建て直したときも、あの木だけは残したんです」
私は胸が温かくなりました。
古い家は、もうありません。
昭和三十二年に建てた家。
三十年以上前の柱や壁。
その多くは、建て直しのときに失われた。
でも。
柿の木は残った。
そして。
古い家が存在したという事実も、残っていた。
登記簿に。
図面に。
家族の記憶に。
その記録が。
新しい家を守ったのです。
「ハルさん」
「はい」
「ご主人が家を建てたこと、無駄になりませんでしたね」
ハルさんは、ゆっくり頷きました。
「そうですね」
そして。
少し涙ぐみながら、笑いました。
「あの人、亡くなってからも家を守ってくれていたのかもしれません」
私は何も言いませんでした。
法律の説明をする場面ではありません。
ただ。
その言葉を、大切に受け取りました。
◇
ハルさんが帰ったあと。
私は机に向かっていました。
ノートを開きます。
――法定地上権。
民法第三百八十八条。
今日の事件。
藤枝家。
抵当権設定。
昭和三十五年。
その時点で、土地と建物は同一所有者。
建物も存在。
土地に抵当権設定。
競売で土地と建物が別々の所有者に。
ただし。
途中で旧建物が取り壊され、再築。
旧建物のための法定地上権と同一の範囲内であれば、再築建物にも成立する余地がある。
私は大きく頷きました。
……なるほど。
これ、試験問題だったら。
たぶん、一問です。
長くても、五行か六行。
Aが土地を所有している。
Bが建物を所有している。
抵当権設定時には誰が所有していた。
競売で誰が取得した。
法定地上権は成立するか。
そんな問題。
でも。
現実には。
その五行の裏側に、三十年分の家族の生活があるのです。
「先輩」
「何だ」
「法定地上権って、不思議ですね」
「何がだ」
「契約していなくても、法律が土地を使う権利を認めてくれるんですよね」
「ああ」
「土地の所有者からすれば、迷惑じゃないんですか?」
先輩は煙草をくわえました。
「だから、成立要件が厳しいんだろ」
「……あ」
「考えてみろ」
先輩は机の上に二枚の紙を置きました。
一枚には、土地。
もう一枚には、家。
「最初から土地がA、建物がBのものだったらどうだ」
「別々の所有者ですね」
「その状態で土地に抵当権を設定した」
「はい」
「競売で土地をCが買った」
「はい」
「そのとき、当然に法定地上権を認めていいか?」
私は考えました。
……駄目ですね。
最初から土地と建物の持ち主が違っていたなら、建物所有者が土地を使う権利は、別途検討すべきです。
法定地上権の制度を使って、後から当然に地上権を作ってよいわけではありません。
「じゃあ」
先輩は続けました。
「抵当権を設定したとき、土地が更地だったら?」
「……建物がありません」
「その後、家を建てたら?」
「原則として、それだけで法定地上権は成立しません」
「そうだ」
私は頷きました。
抵当権を設定したとき。
そこに家があったか。
土地と建物は同じ人のものだったか。
ここが大切。
そうしないと。
抵当権者が更地として評価した土地に、あとから家を建てるだけで、土地の価値を大きく変えられてしまう。
「……なるほど」
私はノートに書きました。
法定地上権。
建物を守る。
でも。
何でも守るわけではない。
「それと、先輩」
「まだあるのか」
「法定地上権って、昭和と現代で基本的な制度は同じですよね」
「そりゃそうだ。三百八十八条だろ」
「はい」
私は少し笑いました。
最近の民法の勉強。
毎回、未来の知識に足をすくわれていました。
契約不適合責任。
瑕疵担保責任。
成年被後見人。
禁治産者。
消滅時効。
職業別の短期消滅時効。
条文を開くたびに、
「そんな制度はまだねえ!」
と怒られる。
でも。
法定地上権の基本的な仕組みは、昭和六十三年にも存在しています。
ようやく、現代の勉強がそのまま役立つかと思いました。
……ただし。
「先輩」
「何だ」
「実は、将来の判例で、もっとややこしい問題が出るんです」
「は?」
「あ、いえ!」
しまった。
また未来の話をしそうになりました。
平成になってから。
再築。
共同抵当。
先順位抵当権。
後順位抵当権。
いろいろな組み合わせについて、重要な判例が出てくる。
でも。
今は昭和六十三年。
未来の最高裁判例を、今の事件の根拠にするわけにはいきません。
私は慌てて話を変えました。
「いやあ、法定地上権って奥が深いですね!」
「ごまかし方が下手だな」
「えへへ……」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい!」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
ハルさんの家。
黒岩の怒鳴り声。
昭和三十五年の抵当権。
昭和三十二年の旧建物。
そして。
昭和十年の大審院判例。
全部が頭の中でつながりました。
「法定地上権は、競売のときに家が建っていればいい、という制度ではありません」
「うん」
「抵当権を設定した当時の土地と建物の状況が重要です」
「そうだ」
「それに、建て直した場合も、昔の家があった事実と、その利用の範囲が問題になります」
所長が頷きました。
「よし」
私はノートの最後に、一行だけ書きました。
――法定地上権は、競売の日ではなく、抵当権設定の日にさかのぼって考える。
今日の教訓。
これなら忘れません。
そのとき。
相馬先輩が、机の上にもう一枚の相談票を置きました。
「こはる」
「はい?」
「法定地上権が分かったつもりなら、こっちはどうだ」
「……え?」
私は紙を読みました。
――土地は、兄弟二人の共有。
――建物は、兄一人の所有。
――兄が土地の共有持分に抵当権を設定。
――競売で持分が第三者に移転。
――兄は、法定地上権があると主張。
……。
私は止まりました。
「先輩」
「何だ」
「これ、土地が共有なんですけど」
「ああ」
「建物は兄一人のものなんですよね」
「そうだ」
「だったら、土地と建物の所有者は……」
……。
同じ?
違う?
共有者の一人と、建物所有者は同じ。
でも、土地全体と建物の所有者が同じわけではない。
……え?
「先輩!」
「何だ」
「これ、法定地上権が成立するんですか!?」
相馬先輩は、にやりと笑いました。
「さあな」
「さあなじゃないですよ!」
「自分で考えろ」
「ええっ!」
私は六法を開きました。
民法三百八十八条。
土地及びその上に存する建物が同一の所有者に属する場合。
……同一の所有者。
共有の場合は?
土地の一部の持分だけ抵当権が設定されたら?
建物を守るために地上権を成立させたら、抵当権を設定していない他の共有者はどうなる?
私は頭を抱えました。
「先輩!」
「何だ!」
「法定地上権、全然簡単じゃないじゃないですか!」
「誰が簡単だと言った」
「教材では四つの要件って書いてあったのに!」
「四つの要件を、事実に当てはめるのが仕事だろ」
「うう……!」
所長が、静かにお茶を飲みました。
「こはる」
「はい……」
「今回の家は守れた」
「はい」
「だが、次の家も同じように守れるとは限らん」
私は顔を上げました。
「……はい」
「法定地上権は、建物所有者だけの利益で決める制度ではない」
所長は相談票を指差しました。
「土地の所有者、共有者、抵当権者。それぞれの権利を見るんだ」
私は頷きました。
そうです。
法定地上権。
家を守る法律。
でも。
誰の土地でも、勝手に家を建て続けてよいという権利ではありません。
土地の持ち主の利益もある。
抵当権者の利益もある。
共有者の利益もある。
その中で。
一定の条件を満たした建物を、法律が守る。
だから。
抵当権を設定した日付。
建物が存在した日付。
所有者が変わった日付。
そして、共有関係。
その一つひとつが、大切になるのです。
「……よし!」
私は六法を閉じました。
「先輩!」
「何だ」
「次は共有の法定地上権ですね!」
「ああ」
「私、負けません!」
「誰と戦ってるんだ」
「民法です!」
「民法を敵にするな!」
相馬先輩の怒鳴り声が、事務所に響きました。
私は笑いました。
窓の外。
秋の空は、少しずつ茜色に染まっています。
あの空の下。
藤枝ハルさんは、今日も自分の家で暮らしているのでしょう。
亡くなったご主人の写真に、お茶を供えて。
庭の柿の木を眺めながら。
家を壊せという通知に怯えることなく。
いつもの夕飯を作っているのかもしれません。
土地は、他人のものになりました。
それは変わりません。
でも。
だからといって、その土地の上にある家まで、必ず奪われるわけではない。
民法三百八十八条。
法定地上権。
たった一つの条文が。
三十年以上の暮らしを、つないでくれたのです。
私はノートを見つめました。
――法定地上権は、競売の日ではなく、抵当権設定の日にさかのぼって考える。
よし。
今日の勉強は完璧。
……と思ったのですが。
「こはる!」
「はい!」
「さっきの共有の問題、答えは出たか!」
「……まだです!」
「じゃあ六法を開け!」
「はいっ!」
どうやら。
民法は、家を守ることには優しいのに。
受験生には、容赦がないようです。
ただし。
一つだけ、確信しました。
登記簿の古い日付を、ただの数字だと思ってはいけない。
その日。
誰が土地を持っていたのか。
誰が建物を持っていたのか。
そして、そこにどんな家が建っていたのか。
その事実を調べることが。
数十年後の誰かの生活を、守る力になるのです。
だから。
土地を競売で買ったというだけで。
「家を壊せ!」
と勝ち誇る相手がいたら。
まずは聞いてみましょう。
――その抵当権、いつ設定されたんですか?
その一言で。
相手の顔色が変わるかもしれません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日もまた。
古い登記簿と、一通の内容証明郵便が。
誰かの大切な家を守ったのでした。
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