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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 物権

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488/610

[抵当権の順位譲渡・順位放棄]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 同じ四百万円なのに、百万円もらえる人と、八十万円しかもらえない人がいます。


 違いは、たった二文字。


 譲渡。


 放棄。


 どちらも、誰かに利益を譲るような言葉です。


 でも。


 抵当権の世界では、この二つはまったく同じではありません。


 順位譲渡なら、譲ってもらう人が先に取る。


 順位放棄なら、二人で割合に応じて分ける。


 たったそれだけの違いが。


 町の小さな鉄工所から、二十万円を奪いかけたのです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、大きく、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「……先輩」


「何だ」


「抵当権って、性格が悪いと思いません?」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「いきなり何だ」


「だって、似たような名前の制度が多すぎるんです!」


「そうか?」


「順位変更、順位譲渡、順位放棄、抵当権そのものの譲渡、抵当権そのものの放棄!」


「ああ」


「しかも、全部お金の分け方が違う!」


「そりゃ、別の制度だからな」


「名前をもう少し分かりやすくしてほしいです!」


「民法に言え」


 ……。


 言えるものなら言いたいです。


 でも。


 昨日の事件を思い出すと、文句ばかりも言っていられません。


 村井源三さん。


 五十八歳。


 町の小さな鉄工所の経営者。


 大沢製作所に百万円を貸し、その担保として第三順位の抵当権を持っていました。


 ところが、大沢製作所の経営が悪化。


 工場用地と建物が競売にかけられた。


 配当原資は、六百万円。


 抵当権者は三人。


 一番抵当権者、黒田金融。


 四百万円。


 二番抵当権者、東町信用組合。


 三百万円。


 三番抵当権者、村井源三さん。


 百万円。


 普通なら、三番の源三さんは一円も受け取れません。


 そこで黒田金融は、順位を譲渡すると約束しました。


 しかし。


 後から届いた書類には、


 ――順位放棄。


 と書かれていた。


「……二十万円」


 私は呟きました。


「何だ?」


「譲渡と放棄の違いだけで、源三さんの受取額が二十万円も変わったんですよね」


「そうだ」


「教科書で読んだときは、単なる計算問題だと思っていました」


 私は鉛筆を握りました。


「でも、あの二十万円は、職人さんの給料だったんです」


 相馬先輩は、しばらく黙りました。


 それから。


「だったら、忘れねえように整理しろ」


「はい!」


「今度は、ちゃんと説明できるようにな」


「任せてください!」


 私はノートの最初のページに、大きく書きました。


 ――抵当権の順位譲渡・順位放棄。


 今日こそ。


 この二つを、完全に区別してみせます。


「まず、普通の抵当権からです!」


 私はノートに三人の名前を書きました。


 A。


 B。


 C。


「昨日の事件と同じ数字にします」


 Aは、黒田金融。


 第一順位抵当権者。


 債権額四百万円。


 Bは、東町信用組合。


 第二順位抵当権者。


 債権額三百万円。


 Cは、村井源三さん。


 第三順位抵当権者。


 債権額百万円。


「担保不動産が競売にかかり、配当に回せるお金が六百万円だったとします」


「うん」


「では、何もしなかった場合!」


 私は紙の真ん中に六百万円と書きました。


「まず、一番抵当権者Aが四百万円を取ります!」


「そうだ」


「残り二百万円!」


「うん」


「二番抵当権者Bは三百万円の債権を持っていますが、残りは二百万円しかありません!」


「だから?」


「二百万円を受け取ります!」


「そうだ」


「そして三番抵当権者Cは……」


 私は鉛筆を止めました。


「ゼロ円」


 相馬先輩が頷きました。


「順位ってのは、そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 A、四百万円。


 B、二百万円。


 C、ゼロ円。


「これ、厳しいですよね」


「何がだ」


「Cにも百万円の債権があるんですよ」


「ああ」


「本当に貸したお金なのに、一円も戻らない」


「そうだな」


 私は少し考えました。


「抵当権を持っていれば、絶対にお金を返してもらえるわけじゃないんですね」


「そこだ」


 相馬先輩が頷きました。


「担保があっても、担保価値が足りなきゃ全部は回収できねえ」


 なるほど。


 抵当権。


 これを持っていれば、何となく安心。


 そんなイメージがありました。


 でも実際には。


 何番目なのか。


 先順位の債権がいくらあるのか。


 不動産がいくらで売れるのか。


 それによって、受け取れる金額は変わります。


 そして。


 源三さんのように、三番抵当権を持っていても、一円も回収できないことがある。


「だから順位が大事なんですね」


「そうだ」


「でも、先輩」


「何だ」


「一番抵当権者が、三番抵当権者を助けることもできる」


「ああ」


「それが、今回の民法三百七十六条ですね!」


 私は六法を開きました。


 抵当権の処分。


 民法第三百七十六条。


 抵当権者は、同一の債務者に対する他の債権者の利益のために、その抵当権または順位を譲渡したり、放棄したりすることができる。


「つまり」


 私は言いました。


「抵当権者は、自分が持っている担保上の利益を、一定の条件で他の債権者のために使えるんですね」


「そうだ」


 片桐所長が、奥から声をかけました。


「ただし、今日は何を比較する」


「順位の譲渡と、順位の放棄です!」


「よし」


 私は大きく二重線を引きました。


 抵当権そのものの処分と、順位の処分。


 この二つを混同しない。


 そして。


 順位の処分の中でも。


 譲渡と放棄は違う。


「これだけ似ていたら、試験で間違える人が続出しそうです」


「お前みたいにな」


「今は間違えません!」


「今は、な」


「先輩!」


 相馬先輩が笑いました。


 ……悔しい。


 絶対に覚えてやります。


「では、順位譲渡からです!」


 私はノートに、大きく書きました。


 ――抵当権の順位譲渡。


 第一順位抵当権者Aが、第三順位抵当権者Cに、自分の順位を譲渡する。


「先輩、ここで大事なのは、AとCの取り分を合わせることですよね?」


「そうだ」


「Aが四百万円、Cがゼロ円なので……」


 私は計算しました。


 四百万円。


 プラス。


 ゼロ円。


 合計、四百万円。


「この四百万円を、AとCの間で分けるんですね!」


「ああ」


「そして順位譲渡では、譲渡を受けたCが先に弁済を受ける」


「そうだ」


 私は、Cの名前に丸をつけました。


 Cの債権額は、百万円。


 だから。


 まず、Cが百万円を受け取る。


 その残り。


 四百万円から百万円を引いた、三百万円。


 それをAが受け取る。


「つまり!」


 私はノートに書きました。


 C、百万円。


 A、三百万円。


 B、二百万円。


「これが順位譲渡です!」


 相馬先輩が頷きました。


「昨日の村井さんの結果だな」


「はい!」


 私は、昨日の黒田金融を思い出しました。


 最初、黒田は言いました。


『俺の一番抵当権の順位を、あんたに譲ってやろう』


 源三さんは、その言葉を信じました。


 だから、百万円が戻ってくると思った。


 その考えは、間違っていなかったのです。


「でも先輩」


「何だ」


「ここ、よく間違えそうです」


「どこだ」


「Aが一番抵当権者だから、四百万円を先に取って、残ったらCに渡すんじゃないんですか?」


 相馬先輩が笑いました。


「それじゃ、順位を譲った意味がねえだろ」


「あっ!」


 そのとおりです。


 もともとAは四百万円を優先して受け取れる。


 Cはゼロ円。


 そのままだったら、何も変わらない。


 順位譲渡というのは、その優先弁済の利益をCに与えるもの。


 だから。


 AとCの取り分を合わせた四百万円の中で、Cが優先する。


「なるほど!」


 私は大きく頷きました。


「譲渡って、単に仲よく分けることじゃないんですね」


「そうだ」


「譲ってもらった側を、先にする!」


 私は赤鉛筆で囲みました。


 ――順位譲渡=受けた側が優先。


「これなら覚えられます!」


「本当か?」


「はい!」


「じゃあ、Aの債権は四百万円から三百万円に減ったのか?」


「……え?」


 私は固まりました。


「三百万円しかもらっていませんけど……」


「それで、債権全部が消えるのか?」


 あ。


 違います。


 Aの被担保債権額は、四百万円のまま。


 ただ、今回の競売で回収できる配当額が、三百万円になった。


 回収できなかった百万円について、債務者に対する債権そのものが当然に消えるわけではありません。


「つまり、配当額と債権額は違う!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「今回、そこも重要だ」


 私は慌ててノートに書き足しました。


 ――順位譲渡は、被担保債権額そのものを変更する制度ではない。


 なるほど。


 四百万円の債権を持っていることと。


 競売で三百万円を回収できることは。


 別の話なのです。


「次は、順位放棄です!」


 私はページをめくりました。


 ――抵当権の順位放棄。


 同じく。


 Aが、Cに対して順位を放棄する。


「ここでも、最初にAとCの取り分を合わせます!」


「そうだ」


 A、四百万円。


 C、ゼロ円。


 合計、四百万円。


 ここまでは、順位譲渡とまったく同じです。


「でも、先輩」


「何だ」


「次が違うんですよね」


「ああ」


「順位放棄では、Cが先に百万円を取れるわけじゃない」


「そうだ」


 私はノートに、大きく書きました。


 ――債権額の割合で分ける。


 Aの債権額は、四百万円。


 Cの債権額は、百万円。


 比率は。


 四対一。


「つまり、二人の債権額を足すと五百万円!」


「うん」


「Aの割合は五分の四!」


「うん」


「Cの割合は五分の一!」


「そうだ」


 私は鉛筆を走らせました。


 四百万円に、五分の四を掛ける。


 三百二十万円。


 四百万円に、五分の一を掛ける。


 八十万円。


「できました!」


 私は答えを書きました。


 A、三百二十万円。


 C、八十万円。


 B、二百万円。


「これが順位放棄です!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだな」


「順位譲渡ならCは百万円!」


「うん」


「順位放棄ならCは八十万円!」


「そうだ」


「差額二十万円!」


 私は机を叩きました。


「黒田金融が、こっそり増やそうとしていた金額です!」


「机を叩くな」


「すみません!」


 でも。


 これです。


 ここが、今回の事件の核心。


 順位譲渡でも、順位放棄でも。


 Cは、何もしない場合より多く受け取れる。


 ゼロ円だったものが。


 百万円になるか。


 八十万円になるか。


 その違いです。


「先輩!」


「何だ」


「これ、譲渡のほうがCに有利ですね!」


「この事例ではな」


 私は頷きました。


「順位譲渡はCが先に取る。順位放棄は割合で分ける」


「そうだ」


 そして。


 私は、ふと気づきました。


「……あれ?」


「どうした」


「順位放棄なのに、Aは三百二十万円も受け取るんですね」


「ああ」


「放棄って聞くと、全部手放すように思うんですけど」


 相馬先輩が笑いました。


「いいところに気づいたな」


「えっ!」


 褒められました。


 珍しい。


「今回放棄しているのは、AがCに対して持っていた順位上の優先的な利益だ」


「はい」


「Aが抵当権そのものを消しているわけじゃねえ」


「なるほど!」


 放棄。


 という言葉だけを見ると。


 何もかも捨てる。


 全部手放す。


 そんな印象があります。


 でも。


 順位放棄では、Aの抵当権が当然に消えるわけではありません。


 AとCの間で、優先弁済の利益を債権額に応じて分け合う。


「だから、Aにも三百二十万円が残るんですね!」


「そうだ」


 私は赤鉛筆で書きました。


 ――順位放棄=全部を捨てるわけではない。債権額に応じた按分。


 これで。


 名前の印象に騙されなくなりそうです。


「ところで、こはる」


 片桐所長が奥から出てきました。


「はい!」


「今、三人の配当を整理したな」


「はい!」


「では、どちらの場合もBはいくらだ」


「二百万円です!」


「なぜだ」


 私は答えました。


「AとCの間で、優先弁済の利益を分けているからです!」


「うん」


「Bは、その順位譲渡や順位放棄の当事者ではありません」


「そうだ」


「だからBの取り分は変わらない!」


 所長が頷きました。


「大事なのは、そこだ」


 私はもう一度、三人の名前を見ました。


 A。


 B。


 C。


 順位は、一番、二番、三番。


 AがCに順位を譲渡したからといって。


 Bの二番抵当権が、勝手に三番へ落とされるわけではない。


 同じく。


 AがCに順位を放棄しても。


 Bが本来受け取れる二百万円を奪うわけではない。


「つまり……」


 私は呟きました。


「順位譲渡って、単純に一番と三番を入れ替える制度じゃないんですね」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「では、順位そのものを変更する制度は?」


「民法三百七十四条!」


「そうだ」


 抵当権の順位変更。


 これは、今回の順位譲渡・順位放棄とは別の制度です。


 抵当権者間の順位関係そのものを変更する。


 そのため、順位変更については、抵当権者の合意や、利害関係人がいる場合の承諾などが問題になる。


「ここ、試験に出されたら引っかかりそうです」


 私が言うと、相馬先輩が笑いました。


「お前は、もう一回引っかかってるだろ」


「うっ!」


 そうでした。


 昨日。


 私は順位譲渡を聞いて、


「一番と三番を入れ替えればいい!」


 と言ってしまいました。


 でも。


 違う。


 順位変更と順位譲渡は、別の制度。


 私はノートに大きく書きました。


 ――順位変更は、順位関係そのものを変える。


 ――順位譲渡・順位放棄は、当事者間の優先弁済の利益を調整する。


「よし!」


 私は頷きました。


「これで混同しません!」


「本当だろうな」


「たぶん!」


「たぶんかよ!」


「じゃあ先輩、確認問題をお願いします!」


 私は鉛筆を構えました。


「おう」


 相馬先輩は、昨日の書類を裏返しました。


「Aが一番抵当権者。債権額四百万円」


「はい!」


「Bが二番抵当権者。債権額三百万円」


「はい!」


「Cが三番抵当権者。債権額百万円」


「はい!」


「配当原資六百万円。AがCに順位を譲渡した。Cはいくら取る?」


「百万円!」


「じゃあ、Aは?」


「三百万円!」


「Bは?」


「二百万円!」


「よし」


 私は拳を握りました。


「完璧です!」


「じゃあ、AがCに順位を放棄したら?」


「Cが八十万円!」


「Aは?」


「三百二十万円!」


「Bは?」


「二百万円!」


「よし」


 相馬先輩は頷きました。


 やった。


 今度こそ完璧。


 ……と思ったら。


「じゃあ、もう一問」


「はい!」


「どうして放棄では、四対一で分けるんだ?」


 私は口を開きました。


「……え?」


「四百万円と百万円だから、四対一なのは分かる」


「はい」


「でも、どうして最初の配当額である四百万円とゼロ円の割合じゃねえんだ?」


 ……。


 私は固まりました。


 確かに。


 Aの元の配当額は四百万円。


 Cの元の配当額はゼロ円。


 もし、その割合で分けたら。


 四百対ゼロ。


 Cは、結局ゼロ円です。


「あ!」


 私は声を上げました。


「それじゃあ順位放棄した意味がありません!」


「そうだ」


「放棄の按分は、元の配当額の割合じゃなくて、被担保債権額の割合なんですね!」


「正解」


 私は慌てて書きました。


 順位放棄。


 分ける原資は、二人の元の優先弁済額の合計。


 分ける割合は、二人の被担保債権額の割合。


「うわあ……」


 私は呟きました。


「これ、二段階なんですね」


「そうだ」


「最初に、いくらを分けるのか決める」


「うん」


「次に、何対何で分けるのか決める」


「そうだ」


 なるほど。


 ここを理解しないと。


 数字だけ丸暗記しても、少し問題が変わっただけで間違えてしまう。


「先輩」


「何だ」


「これ、ようやく分かってきました」


「何が?」


「法律の計算問題って、計算そのものより、何を計算しているのか理解するほうが大事なんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


「さて」


 片桐所長が、別の書類を取り出しました。


「昨日、黒田金融は順位譲渡を約束していたな」


「はい」


「では、確認書に署名押印しただけで、すべての手続が終わったか」


「いいえ!」


 私は即答しました。


「登記や通知などの問題があります!」


「そうだ」


 私は六法を開きました。


 民法三百七十六条。


 そして。


 民法三百七十七条。


「抵当権の処分の対抗要件ですね!」


 所長が頷きました。


 民法三百七十七条は、抵当権の処分について、主たる債務者への通知や、その承諾に関する規定を置いています。


 また、抵当権の処分を第三者に対抗するためには、登記も重要です。


「つまり、黒田と村井さんが約束しただけで、誰に対しても当然に順位譲渡を主張できるわけではないんですね」


「そうだ」


「必要な手続をきちんと確認しなければいけない」


 私は、昨日の一連の出来事を思い出しました。


 最初の確認書。


 黒田の署名押印。


 その後、届いた順位放棄の書類。


 内容証明郵便。


 黒田からの回答書。


 そして、登記などの手続。


「だから所長は、黒田が電話で『譲渡に直す』と言ったとき、まだ終わりじゃないって言ったんですね」


「そうだ」


「言葉だけで安心してはいけない」


「うん」


「正しい内容の書類を整えて、必要な対抗要件を備える」


 所長が頷きました。


「そういうことだ」


 私は少し考えました。


「先輩、登記って本当に大切なんですね」


「ああ」


「抵当権の順位も登記で確認しますし、処分の対抗要件でも問題になる」


「そうだな」


「それに、民法三百七十六条二項では、抵当権者が複数の人のために抵当権を処分した場合、利益を受ける人同士の順位は付記登記の前後で決まるんですよね」


「そこまで読んだか」


「はい!」


 私は少し得意になりました。


 でも。


 相馬先輩は笑いました。


「ただし、俺たちが不動産登記の代理申請までできると思うなよ」


「あっ!」


 そうでした。


 行政書士と司法書士。


 業務の範囲は違います。


「登記申請の代理は、司法書士などの専門家の仕事ですね」


「そうだ」


「私たちは、適法な業務の範囲で事実関係を整理し、本人の通知書などを作る」


「うん」


「必要なら弁護士や司法書士へ引き継ぐ!」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 法律を知ること。


 そして。


 自分ができる仕事と、できない仕事を知ること。


 どちらも大切なのです。


「でも、所長」


 私は顔を上げました。


「一つ、不思議なことがあります」


「何だ」


「この民法三百七十六条って、現代でも基本的な仕組みは同じなんですよね?」


「そうだ」


「じゃあ、昭和六十三年と令和で、今回の計算方法は変わらないんですね」


「基本的にはな」


 私は頷きました。


 ここが、今回の時代ギャップ。


 ……といっても。


 実は、大きなギャップがないのです。


 これまで、私は何度も失敗してきました。


 現代の民法知識を、そのまま昭和六十三年へ持ち込む。


 すると。


 契約不適合責任という言葉を使って、相馬先輩に叱られる。


 消滅時効の期間を現代の感覚で考えて、古い規定に驚く。


 成年後見制度を口にして、当時の禁治産制度との違いに戸惑う。


 民法は、時代によって姿を変えてきました。


 でも。


 抵当権の順位譲渡と順位放棄の基本的な考え方は、昭和六十三年にも、現代にも続いています。


「何だか、ほっとします」


 私が言うと、相馬先輩が眉をひそめました。


「何がだ」


「昔の民法と今の民法で、同じ計算ができるところです」


「当たり前だろ。必要がなけりゃ、何でも変えるわけじゃねえ」


「そうですよね」


 私は頷きました。


 法律改正。


 それは、何もかも作り直すことではありません。


 社会の変化に合わせて、必要な部分を見直す。


 一方で。


 長く使われてきた仕組みを、そのまま受け継ぐこともある。


「所長」


「何だ」


「今回の制度って、民法の公平さがよく分かりますね」


「どういうことだ」


「一番抵当権者が、自分の優先弁済の利益を後順位抵当権者に与えることができる」


「うん」


「でも、関係のない二番抵当権者の取り分まで勝手に減らすわけじゃない」


「そうだ」


「当事者が利益を調整する自由を認めながら、他の抵当権者の地位も守っているんですね」


 所長が静かに頷きました。


「よく見ている」


 ……!


 褒められました。


 片桐所長に。


 これは、かなり貴重です。


 私は思わず背筋を伸ばしました。


「ありがとうございます!」


 相馬先輩が横から言いました。


「褒められたからって、計算間違えるなよ」


「間違えません!」


 窓の外が、だんだん暗くなってきました。


 私は、三枚の紙を並べました。


 何もしない場合。


 順位譲渡の場合。


 順位放棄の場合。


 そして、表にまとめました。


 | 抵当権者 | 何もしない | 順位譲渡 | 順位放棄 |

 | --------------- | ----- | ----- | ----- |

 | A(第一順位・債権400万円) | 400万円 | 300万円 | 320万円 |

 | B(第二順位・債権300万円) | 200万円 | 200万円 | 200万円 |

 | C(第三順位・債権100万円) | 0円 | 100万円 | 80万円 |

 | 合計 | 600万円 | 600万円 | 600万円 |


「できました!」


 私は表を指さしました。


「ほら、先輩!」


「何だ」


「全部、合計は六百万円です!」


「そりゃそうだ」


「そして、Bは全部二百万円!」


「ああ」


「違うのはAとCの取り分!」


「そうだ」


「しかも、順位譲渡ならCが百万円、順位放棄なら八十万円!」


 相馬先輩が笑いました。


「もう覚えたな」


「はい!」


 私は大きく頷きました。


 これなら、もう迷いません。


 もし試験で、


『第一順位抵当権者Aが第三順位抵当権者Cに順位を譲渡した場合、第二順位抵当権者Bの優先弁済額も変わる』


 という問題が出たら。


「誤りです!」


 即答できます。


 また、


『順位放棄の場合、放棄を受けたCはAに優先して全額弁済を受ける』


 と聞かれたら。


「誤りです!」


 順位放棄は按分。


 先に取るのは順位譲渡。


 そして。


『順位放棄では、AとCの被担保債権額の割合に応じて、両者に配分される原資を分ける』


 なら。


「正しいです!」


 私は拳を握りました。


 やった。


 ようやく。


 抵当権の順位譲渡・順位放棄が、頭の中で整理できました。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の一行は、まだか?」


「あっ!」


 そうでした。


 こはるノート。


 最後は、一行の覚え書き。


 私は鉛筆を持ち直しました。


 今回、絶対に忘れてはいけないこと。


 順位譲渡。


 順位放棄。


 そして、その違い。


 私は、ゆっくり書きました。


 ――順位譲渡は「受けた人が先取り」、順位放棄は「債権額で按分」。二番抵当権者の取り分はそのまま。


「……完成!」


 私はノートを掲げました。


 相馬先輩が覗き込みました。


「おう。いいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「まあな」


「えっ!」


 私は驚きました。


 今。


 確かに。


 褒めました。


「先輩!」


「何だ」


「今日、素直ですね!」


「うるせえ」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 順位譲渡と順位放棄。


 言葉は似ています。


 どちらも、後順位抵当権者に利益を与える制度です。


 でも。


 優先するのか。


 割合で分けるのか。


 それによって、受け取れるお金が変わる。


 そして。


 昨日の村井源三さん。


 あの油で汚れた手。


 百万円が戻ったときの笑顔。


 それを思い出せば。


 もう、間違える気がしないのです。


「さて」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「今日の勉強は終わりか」


「はい!」


「なら、机を片付けろ」


「分かりました!」


「六法も戻しておけ」


「はい!」


「それから、相馬」


「はい」


「明日の書類を準備しておいてくれ」


「了解です」


 私はノートを閉じようとしました。


 そのとき。


 ふと、気づきました。


「……先輩」


「何だ」


「順位譲渡って、何だか先輩に似ていますね」


「は?」


「後輩に、自分の優先的な利益を譲るんですよね」


「ああ」


「だったら、先輩も私に何か譲ってくれませんか?」


 相馬先輩が嫌な顔をしました。


「何をだ」


「明日の掃除当番です!」


「何で俺がお前の掃除当番を引き受けるんだ!」


「順位譲渡です!」


「どこに抵当権があるんだよ!」


「じゃあ、順位放棄でもいいです!」


「何が違う!」


「掃除を、先輩と私の労働力の割合で分けましょう!」


 相馬先輩が目を細めました。


「ほう」


「先輩はベテランですから、私の四倍くらい仕事ができますよね?」


「まあな」


「ということは、先輩が五分の四!」


「……おい」


「私が五分の一!」


 私は得意げに言いました。


「これが按分です!」


 相馬先輩は、しばらく黙っていました。


 そして。


「こはる」


「はい!」


「お前、何か勘違いしてねえか?」


「え?」


「俺とお前の間に、被担保債権なんかねえだろ」


「……!」


「掃除当番は抵当権じゃねえ」


「……はい」


「そもそも、勝手に労働力の割合を四対一にするな」


「……はい」


 私は肩を落としました。


 どうやら。


 抵当権の順位放棄を使って、掃除当番を減らす作戦は失敗したようです。


「でも先輩!」


「まだ何かあるのか!」


「一つだけ分かったことがあります!」


「何だ!」


 私は、ノートを指さしました。


「順位放棄って、都合のいい割合を勝手に決める制度じゃないんですね!」


「今さらか!」


「被担保債権額の割合です!」


「そうだよ!」


 私は笑いました。


 相馬先輩も、呆れたように笑いました。


 その向こうで。


 片桐所長が、ほんの少しだけ口元を緩めた気がしました。


 窓の外。


 昭和六十三年の町に、夕暮れが広がっていきます。


 工場の煙突から、細い煙が上がっています。


 あのどこかで。


 村井源三さんは、今日も鉄を削っているのでしょう。


 昨日まで、不安でいっぱいだった小さな鉄工所。


 でも今は。


 従業員の給料を払える。


 仕事を続けられる。


 そして、家族と夕飯を食べられる。


 それを守ったのは。


 民法三百七十六条。


 抵当権の順位譲渡。


 教科書では、ほんの数行。


 試験では、ただの計算問題。


 けれど。


 その数行の向こうには。


 人の生活があります。


 私は、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――順位譲渡は「受けた人が先取り」、順位放棄は「債権額で按分」。二番抵当権者の取り分はそのまま。


 よし。


 完璧。


 ……今度こそ、本当に。


「こはる!」


「はい!」


「ノートを閉じろ!」


「はい!」


「掃除しろ!」


「はい!」


 私は箒を手に取りました。


 でも。


 掃除をしながらも、頭の中では数字が踊っています。


 四百万円。


 三百万円。


 百万円。


 六百万円。


 そして。


 二十万円。


 たった二文字の違いで、失われかけた二十万円。


 私は、きっと忘れません。


 なぜなら。


 法律は、正しく理解して初めて、人を守る力になるのですから。


「先輩!」


「今度は何だ!」


「やっぱり民法って面白いですね!」


「だったら早く掃除を終わらせろ!」


「はいっ!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 法律の勉強は、今日も続きます。


 ただし。


 次からは。


 譲渡と放棄を、絶対に同じ意味で読まないことにします。


 だって。


 たった二文字の違いで。


 誰かの一か月分の給料が、消えてしまうことだってあるのですから。

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