[抵当権の順位譲渡・順位放棄]現場編 「譲るも放棄も同じでしょう」の嘘。消えた二十万円と、一番抵当権者が仕掛けた配当金の罠
同じ四百万円でも、分け方を変えるだけで、誰かの二十万円が消えてしまいます。
しかも。
その違いを決めるのは、たった二文字。
譲渡。
放棄。
どちらも、何かを譲るような言葉です。
どちらも、誰かに利益を与えるように聞こえます。
でも。
抵当権の世界では、この二つを取り違えると、とんでもないことになります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、たった二文字の違いが、町の小さな鉄工所の命運を左右することを知るのでした。
そして。
四百万円を持っているはずの男が、わずか二十万円を惜しんで、自分の嘘を暴かれることになるのです。
「先生! 二十万円が、消えちまったんです!」
朝九時。
事務所の引き戸が勢いよく開きました。
飛び込んできたのは、作業着姿の男性。
五十八歳。
名前は、村井源三さん。
駅から少し離れた工業団地で、小さな鉄工所を営んでいるそうです。
額には汗。
指先は油で黒くなっています。
「落としたんですか?」
私は思わず聞きました。
「違う! 紙の上で消えたんだ!」
「……紙の上?」
何でしょう。
手品でしょうか。
それとも、昭和の怪しい投資話でしょうか。
相馬先輩が新聞を畳みました。
「まあ座れ。二十万円ってのは、何の金だ」
「うちが貸した金の一部です」
「誰に?」
「大沢製作所です」
大沢製作所。
町の金属加工業者です。
最近は経営が悪化し、工場の土地と建物が競売にかけられているらしい。
「うちは、大沢の工場に機械を貸したり、部品を融通したりしてきました」
源三さんが言いました。
「最後には、運転資金まで貸したんです。百万円」
「百万円……」
私は息を呑みました。
昭和六十三年の百万円。
小さな鉄工所にとって、決して軽い金額ではありません。
「返してもらう約束だった。だから土地にも抵当権をつけてもらったんです」
「何番です?」
相馬先輩が尋ねました。
「三番です」
「三番抵当権か」
「はい」
源三さんは、くたびれた封筒から登記簿謄本の写しを取り出しました。
相馬先輩が広げます。
「なるほど」
私も横から覗きました。
大沢製作所の工場用地。
抵当権が三つ。
一番抵当権者。
黒田金融。
被担保債権額、四百万円。
二番抵当権者。
東町信用組合。
被担保債権額、三百万円。
三番抵当権者。
村井源三。
被担保債権額、百万円。
「……あれ?」
私は首をかしげました。
「全部で八百万円ですよね」
「そうだ」
「土地と建物は、いくらで売れそうなんですか?」
「六百万円ほどだそうです」
六百万円。
債権は八百万円。
足りません。
しかも、抵当権には順位があります。
一番から優先して弁済を受ける。
それが原則。
私の頭の中で、計算が始まりました。
一番の黒田金融。
四百万円。
二番の東町信用組合。
残り二百万円。
三番の源三さん。
……。
「ゼロ円?」
私が呟くと、源三さんが頷きました。
「そうです。普通なら、一銭も回ってこない」
源三さんは両手を握り締めました。
「でも、それじゃあ困るんです!」
「ですよね……」
「うちは従業員が四人いる。女房も帳簿をつけてる。百万円が戻らなきゃ、来月の給料だって危ない」
私は言葉に詰まりました。
大沢製作所が倒れれば、村井鉄工所まで倒れるかもしれない。
そんな状態なのです。
「ところが」
源三さんが顔を上げました。
「助かる話があったんです」
「助かる話?」
「一番抵当権者の黒田が、順位を譲ってくれるって」
私は瞬きしました。
「……え?」
「一番抵当権の順位を、うちに譲ってくれるって言ったんです!」
おお。
これは。
抵当権の順位譲渡。
現代の行政書士試験でも出てくる論点です。
「それなら!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「源三さんにも百万円が回ってくる可能性があります!」
「そうでしょう!」
「はい!」
よかった。
事件解決。
……と思った、そのとき。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「まだ書類を見てねえだろ」
「あ」
「譲ってくれると言っただけで、何が成立したか決めつけるな」
「……はい」
嫌な予感。
源三さんが、もう一枚の紙を差し出しました。
「それが、これなんです」
私は受け取りました。
表題。
――抵当権順位放棄に関する承諾書。
……。
私は固まりました。
「……放棄?」
「そうなんです!」
源三さんが叫びました。
「譲渡だと思っていたのに、書類には放棄と書いてあるんです!」
なるほど。
これは。
かなり嫌な予感がします。
「順番を譲るのと、順番を放棄するのは、同じことじゃないんですか?」
源三さんが尋ねました。
私は答えようとしました。
「違います! 順位譲渡なら――」
「待て」
相馬先輩。
またです。
「はい……」
「まず経緯を聞け」
源三さんは、ゆっくり話し始めました。
黒田金融。
社長は、黒田重蔵。
五十二歳。
町では強引な取り立てで知られる金融業者です。
大沢製作所が競売にかけられると決まったころ。
黒田は源三さんを呼び出しました。
『村井さん。あんた、大沢の社長を最後まで助けたんだってな』
『昔からの付き合いですから』
『百万円も貸したんだろ?』
『ええ』
『気の毒にな。三番抵当権じゃ一円も戻らねえだろ』
その言葉に、源三さんは何も言い返せなかったそうです。
すると。
黒田は意外な提案をしました。
『俺の一番抵当権の順位を、あんたに譲ってやろう』
『……本当ですか?』
『ああ。世話になった大沢の親父への、せめてもの義理だ』
黒田と大沢製作所の先代社長は、昔からの知り合いだったそうです。
源三さんは驚きました。
『それなら、うちの百万円は……』
『戻ってくるようにしてやる』
黒田は笑いました。
『俺は残りをもらえばいい』
その場には、源三さんの息子も同席していました。
そして黒田は、一枚の確認書に署名押印しました。
――黒田金融は、村井源三に対し、本件一番抵当権の順位を譲渡し、村井源三の被担保債権百万円につき、黒田金融に優先して配当を受けられるよう必要な手続に協力する。
「……!」
私は目を見開きました。
「これ、ちゃんと譲渡って書いてあります!」
「そうなんです!」
源三さんが頷きました。
「だから安心したんです」
ところが。
数日後。
黒田金融から届いた正式な手続用書類には、別の文字がありました。
――順位放棄。
源三さんが問い合わせると、黒田は笑ったそうです。
『何を細かいこと言ってんだ』
『でも、約束は譲渡だったはずです』
『譲渡も放棄も、下の奴に利益を与えるんだから同じだろ』
『同じなんですか?』
『同じようなもんだ。俺は一番抵当権者だぞ。素人が余計な口を出すな』
そして。
黒田はこう続けました。
『嫌なら、何もしねえぞ』
源三さんは困りました。
せっかく差し出された助け舟。
断れば、ゼロ円に戻ってしまう。
そのため、手続を進める前に片桐事務所へ来たのです。
「先生」
源三さんが言いました。
「私には、難しいことは分かりません」
「はい」
「でも、百万円戻ると思っていたんです」
源三さんは作業着の胸元を握りました。
「それが、八十万円になるって言われて……」
私は顔を上げました。
百万円。
八十万円。
差額二十万円。
なるほど。
ようやく、消えた二十万円の正体が見えてきました。
「順位譲渡と順位放棄は、違います!」
私は六法を開きました。
「民法三百七十六条です!」
よし。
今度こそ、現代の民法知識が役立ちます。
私は条文を追いました。
抵当権者は、同一の債務者に対する他の債権者の利益のために、その抵当権または順位を譲渡・放棄することができる。
「所長!」
「何だ」
「この条文、昭和六十三年でも使えます!」
「当たり前だ」
「ですよね!」
「何をそんなに喜んでいる」
……。
そうでした。
私にとっては、すごく大きな発見なのです。
現代の民法と昭和の民法。
民法の世界では、たびたび法改正という地雷を踏みます。
契約不適合責任。
瑕疵担保責任。
消滅時効。
成年後見制度。
制度も条文も、時代によって違う。
でも。
抵当権の順位譲渡と順位放棄。
この基本的な仕組みは、昭和六十三年にも存在しているのです。
「やっと未来の知識をそのまま使えます!」
「未来?」
「い、いえ! 復習です!」
相馬先輩が怪訝な顔をしました。
「お前、たまに妙なこと言うよな」
「あはは……」
危ない。
転生者。
危うく正体を明かすところでした。
私は慌ててノートを開きました。
「つまり、順位譲渡を受ければ、源三さんの百万円が優先されるんですよね?」
「そうだ」
「でも順位放棄だと、八十万円」
「そうだな」
「だったら簡単です!」
私は言いました。
「一番抵当権の順位を、三番抵当権の順位と入れ替えれば――」
「待て」
相馬先輩が止めました。
「またですか!」
「お前、今、何て言った」
「順位を入れ替える、と」
「それが違う」
「え?」
先輩は六法を取り上げました。
「抵当権の順位変更と、順位譲渡を一緒にするな」
「……あっ!」
しまった。
抵当権の順位変更。
民法三百七十四条。
それと。
順位譲渡。
民法三百七十六条。
違う制度です。
「今回、一番と三番が丸ごと入れ替わるわけじゃねえ」
「そうでした……」
「だから二番の東町信用組合の取り分は変わらねえんだ」
「はい」
「一番と三番の間で、配当をどう分けるかが問題になる」
私は息を呑みました。
なるほど。
今回は時代錯誤ではありません。
もっと基本的なところ。
似た制度の取り違えです。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「紙を一枚持ってこい」
「はい!」
「相馬。配当を整理してやれ」
「了解です」
先輩が鉛筆を握りました。
「よく見とけ」
相馬先輩は、紙に三本の線を引きました。
「まず、何もしなかった場合だ」
競売の配当原資は、説明のため六百万円と仮定します。
競売費用などを控除した後の金額という設定です。
「一番の黒田金融が四百万円」
「はい」
「二番の東町信用組合が二百万円」
「はい」
「三番の村井さんは?」
「ゼロ円です」
「そうだ」
源三さんが肩を落としました。
「そこまでは分かってるんです」
「じゃあ次だ」
相馬先輩は、一番と三番の名前を丸で囲みました。
「黒田金融が、村井さんに順位を譲渡した場合」
私は身を乗り出しました。
「この二人の取り分を合わせるんですね!」
「そうだ」
黒田金融。
四百万円。
村井源三。
ゼロ円。
合計。
四百万円。
「順位譲渡なら、この四百万円の範囲で、村井さんが黒田金融より先に弁済を受ける」
「百万円!」
私は言いました。
「そうだ」
源三さんの債権は百万円。
ですから、先に百万円を受け取る。
残りの三百万円が黒田金融へ。
そして。
二番抵当権者の東町信用組合は、変わらず二百万円。
「つまり……」
源三さんが指を折りました。
「うちが百万円」
「はい」
「黒田が三百万円」
「はい」
「信用組合が二百万円」
「そうです!」
私は嬉しくなりました。
これなら源三さんの百万円が戻ってくる。
従業員の給料も守れる。
しかし。
「じゃあ、放棄なら?」
片桐所長が尋ねました。
相馬先輩は、今度は二つの数字を書きました。
四百万円。
百万円。
「この二人の被担保債権額の比率は?」
私は答えました。
「四対一です!」
「そうだ」
「ということは……」
合計四百万円を。
四対一。
つまり五つに分ける。
黒田金融。
五分の四。
源三さん。
五分の一。
「黒田金融が三百二十万円!」
「うん」
「源三さんが八十万円!」
「正解」
そして、東町信用組合は二百万円。
変わりません。
私は思わず声を上げました。
「本当だ!」
順位譲渡なら。
源三さん、百万円。
黒田金融、三百万円。
順位放棄なら。
源三さん、八十万円。
黒田金融、三百二十万円。
差額。
二十万円。
「……あれ?」
私は顔を上げました。
「先輩」
「何だ」
「これって……」
「気づいたか」
「源三さんが二十万円損する分、黒田金融が二十万円多く受け取るんですよね」
「そういうことだ」
私は、ゆっくり息を吸いました。
つまり。
黒田は、知らなかったわけではないのかもしれない。
順位譲渡を約束しておきながら。
正式書類では順位放棄に変える。
そうすることで。
自分の取り分を二十万円増やそうとしていた。
「……ずるい!」
私は思わず叫びました。
「おい、落ち着け」
「だって!」
百万円渡すと言っておいて。
実際には八十万円しか渡さない。
その差額を、自分が取る。
言葉の似ている制度を利用して。
法律を知らない人を騙す。
「先輩!」
「何だ」
「これ、絶対にわざとですよ!」
「決めつけるな」
「でも!」
「わざとかどうかは、証拠で判断する」
相馬先輩が鉛筆を置きました。
「ただし」
「はい」
「黒田が得をする仕組みなのは、間違いねえ」
源三さんは、しばらく黙っていました。
それから。
「……二十万円」
ぽつりと呟きました。
「うちの若い職人の、ひと月分の給料なんです」
私は胸が詰まりました。
教科書では、ただの数字です。
二十万円。
でも、現実には。
誰かが一か月働いて受け取るお金。
誰かが家族のために持ち帰るお金。
その二十万円を。
黒田という男は、たった二文字の違いで奪おうとしているのです。
「黒田金融へ行くぞ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「え?」
「書類の経緯を確認する」
「私もですか?」
「ああ」
片桐所長が言いました。
「こはる。余計な交渉はするな」
「はい!」
「相手の説明を正確に聞いてこい」
「分かりました!」
私たちは、黒田金融へ向かいました。
駅前の古い雑居ビル。
二階。
ガラス扉には、大きく、
――黒田金融商会。
と書かれています。
事務所の中は、妙に豪華でした。
革張りの応接椅子。
大きな灰皿。
壁にはゴルフ場の写真。
奥から現れたのは、金色の腕時計をした男でした。
「何だ、村井さんの件か?」
黒田重蔵。
五十二歳。
太い眉。
薄い笑み。
こちらを見るなり、鼻で笑いました。
「行政書士?」
「片桐事務所の相馬です」
「弁護士じゃねえんだろ」
「そうです」
「じゃあ、何しに来た」
……。
出ました。
お約束の発言。
行政書士を舐める悪役。
私は思わず身構えました。
でも、相馬先輩は落ち着いていました。
「村井さんから、書類の作成経緯について確認を頼まれています」
「書類?」
「順位譲渡の確認書と、順位放棄の承諾書です」
黒田は笑いました。
「ああ、それか」
「はい」
「譲渡も放棄も、似たようなもんだろ」
私は思わず口を開きました。
「同じじゃありません!」
黒田がこちらを見ました。
「何?」
「配当額が違います!」
「へえ?」
「順位譲渡なら村井さんは百万円、順位放棄なら八十万円です!」
黒田の目が細くなりました。
「詳しいじゃねえか、お嬢ちゃん」
「民法三百七十六条です!」
「ほう」
「順位譲渡と順位放棄では、配当の計算方法が――」
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
……あ。
また熱くなりました。
先輩は黒田を見ました。
「確認書には、順位譲渡とあります」
「ああ」
「その後の書類には、順位放棄とあります」
「そうだな」
「どちらを予定していたのか、確認させてください」
黒田は煙草に火をつけました。
ゆっくり煙を吐きます。
「最終的には放棄だ」
「そうですか」
「こっちが譲ってやるんだ。文句を言われる筋合いはねえ」
「最初の確認書については?」
「そんなもの、細かい表現の違いだろ」
……。
細かい?
二十万円が?
私は思わず拳を握りました。
「黒田さん」
相馬先輩が言いました。
「当初の書面は、ご自身で署名押印されたんですね」
「ああ」
「順位譲渡と書かれていますね」
「だから何だ」
「確認できました」
先輩は手帳を閉じました。
「本日は以上です」
「……は?」
黒田が拍子抜けした顔をしました。
「それだけか?」
「はい」
「もっと文句を言うんじゃねえのか?」
「事実関係を確認に来ただけですから」
黒田は豪快に笑いました。
「何だよ。つまらねえな!」
そして。
私たちが帰ろうとしたとき。
背後から、こう言いました。
「まあ、村井には伝えとけ!」
私は振り返りました。
「八十万円でも、もらえるだけありがたいと思えってな!」
……。
この人。
本当に。
腹が立ちます。
でも。
相馬先輩は一度も振り返りませんでした。
「先輩!」
ビルを出た瞬間、私は叫びました。
「何で言い返さないんですか!」
「またそれか」
「だって、あの人!」
「分かってる」
「完全に、こっちを舐めてましたよ!」
「そうだな」
「だったら!」
相馬先輩は足を止めました。
「こはる」
「はい」
「俺たちは弁護士じゃねえ」
「……はい」
「依頼人の代理人として、相手と示談交渉する仕事じゃねえんだ」
「分かってます」
「だったら、口喧嘩で勝とうとするな」
先輩は煙草を取り出しました。
「黒田が何を言ったか、正確に記録しろ」
「はい」
「確認書に本人が署名押印したことも認めた」
「はい」
「その後、放棄の書類に変えたことも認めた」
「……あ!」
私は顔を上げました。
「つまり、証拠ですね!」
「そういうことだ」
相馬先輩は、にやりと笑いました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
出ました。
先輩の口癖。
でも。
今回は、少し違う意味に聞こえました。
黒田の押したハンコ。
それが。
黒田自身を追い詰める証拠になる。
「ただしな」
先輩が続けました。
「ハンコがあれば何でも勝てるわけじゃねえ。約束の内容が何だったか、そこを固める」
「はい!」
「それに、相手が任意に応じなければ、裁判は弁護士の仕事だ」
「はい!」
私は手帳を握りました。
なるほど。
行政書士の戦い方。
相手を怒鳴り倒すことではない。
相手が後で、
「そんな約束はしていない」
と言えなくなるように、事実を整理することなのです。
事務所へ戻ると。
片桐所長は、確認書を机に置きました。
「こはる」
「はい」
「まず、これを読め」
私は声に出して読みました。
「黒田金融は、村井源三に対し、本件一番抵当権の順位を譲渡し……」
「そこだ」
所長が言いました。
「何が約束されている」
「順位譲渡です」
「放棄ではないな」
「はい」
「そして、その後に何をすることになっている」
私は続きを読みました。
「村井源三の被担保債権百万円につき、黒田金融に優先して配当を受けられるよう必要な手続に協力する」
「そうだ」
所長は頷きました。
「この文言が大きい」
「え?」
「ただ順位を譲ると書いてあるだけではない」
「あっ!」
「村井さんの百万円を、黒田金融より優先させる。そこまで書いてある」
私は息を呑みました。
確かに。
順位放棄なら。
四百万円を、四対一で按分する。
村井さんは八十万円。
一方、順位譲渡なら。
村井さんが百万円を先に受ける。
残りは黒田金融。
この確認書の文言は、順位譲渡の効果と一致しています。
「だったら!」
私は言いました。
「黒田は、約束を破っているんですね!」
「その可能性は高い」
所長が言いました。
「ただし、約束が成立した経緯も調べる必要がある」
「はい」
「黒田が何を条件に順位譲渡を引き受けたのか」
「条件?」
「無条件の好意だったのか。それとも別の約束があったのか」
私は、源三さんから預かった書類を確認しました。
そこには。
もう一つの合意がありました。
――村井源三は、大沢製作所が保管する自己所有の工作機械について、競売手続が進行している間も搬出を猶予し、工場設備の一括売却に協力する。
「あ!」
私は声を上げました。
「源三さんも、約束してます!」
「そうだ」
源三さんは、自分の所有する工作機械をすぐに引き揚げることができる立場でした。
ですが。
工場の設備が揃っていたほうが、競売手続や買受希望者の検討に有利になる可能性がありました。
そこで。
黒田から順位譲渡の約束を受ける代わりに、機械の搬出を一定期間猶予したのです。
この合意は、書面に残っていました。
しかも。
源三さんは、既に約束を守っていました。
「つまり……」
私は呟きました。
「黒田は、源三さんに協力させておいて……」
「そうだ」
「自分の約束だけ、違う内容に変えようとしている」
相馬先輩が笑いました。
「やっと急所が見えたな」
私は頷きました。
単なる親切の話ではない。
互いに約束したこと。
相手の約束を信じて行動したこと。
その事実が、きちんと残っている。
ここが大切なのです。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「もう一つ、絶対に間違えるな」
「はい」
「順位譲渡の約束をしたことと、その効力を第三者に主張できる状態になったことは、別だ」
私は止まりました。
「……あ」
「登記は?」
「まだです」
「主たる債務者への通知や承諾は?」
「まだ確認できていません」
所長が頷きました。
「民法三百七十六条だけ見て終わるな。三百七十七条も確認しろ」
私は六法をめくりました。
抵当権の処分の対抗要件。
なるほど。
当事者同士が、
「譲渡します」
「分かりました」
と言っただけで、あらゆる相手にその効果を当然に主張できるわけではない。
必要な登記や通知なども問題になる。
そして。
今回は、そもそも書類の内容が食い違っています。
「所長」
「何だ」
「正しい順位譲渡の書類を整えなければ、危ないですね」
「そうだ」
「放棄のまま手続が進んだら、源三さんの取り分が八十万円になる可能性がある」
「ああ」
「だから、今のうちに黒田の約束をはっきりさせる必要があるんですね」
「そういうことだ」
相馬先輩が机を叩きました。
「よし。書け、こはる」
「はい!」
「何を要求するか分かってるな?」
私は頷きました。
「確認書どおり、順位譲渡の手続に協力することです!」
「そうだ」
「それから、必要な登記や通知のための書類を整えること!」
「よし」
「そして、もし応じないなら……」
私は少し考えました。
「約束違反による法的責任が問題になることを、明確に伝える」
片桐所長が頷きました。
「それでいい」
私は、内容証明郵便の原案を書き始めました。
一時間後。
机の上には、赤鉛筆だらけの紙がありました。
「……所長」
「何だ」
「私の原案、真っ赤です」
「そうだな」
「そんなに駄目ですか?」
「駄目だ」
即答。
厳しい。
相馬先輩が横から覗きました。
「どれどれ」
そして、笑いました。
「お前、ここに何て書いた?」
「え?」
「『黒田金融は悪質な詐欺行為によって二十万円を横領しようとした』」
「……はい」
「馬鹿か」
「ひどい!」
「まだ配当もされてねえのに、横領したって何だ」
「あ……」
私は固まりました。
そのとおりです。
まだ競売は終わっていません。
配当も確定していません。
二十万円を実際に受け取ったわけではない。
しかも。
詐欺と断定できるかどうかも、別問題です。
「こはる」
所長が言いました。
「書面に怒りを書くな」
「……はい」
「事実を書け」
「はい」
「そして、相手が何を約束したかを書け」
私は鉛筆を握り直しました。
そうです。
法律の書面は、感情をぶつける場所ではない。
事実と権利を整理する場所。
私は、もう一度書き直しました。
今度は。
余計な言葉を全部削ります。
完成した通知書には、こう記されました。
――通知書。
通知人、村井源三。
被通知人、黒田金融商会代表者黒田重蔵。
第一。
昭和六十三年某月某日、貴殿は通知人との間で、大沢製作所所有不動産に設定された第一順位抵当権につき、通知人の第三順位抵当権に対して順位譲渡を行う旨を合意した。
第二。
右合意に際し、貴殿は、通知人の被担保債権百万円が貴殿の被担保債権に優先して配当を受けられるよう、必要な手続に協力する旨を記載した確認書に署名押印した。
第三。
通知人は右合意に基づき、自己所有工作機械の搬出を猶予する等、合意した協力を既に履行している。
第四。
しかるに、貴殿がその後提示した手続用書類には「順位放棄」と記載されている。
第五。
民法第三百七十六条に定める抵当権順位の譲渡と放棄は、配当の計算において異なる効果を生じる。
本件において、配当原資を六百万円とし、他の優先権その他の調整事情がないものと仮定した場合、順位譲渡であれば通知人への配当額は百万円となる。
一方、順位放棄であれば、通知人への配当額は八十万円となる。
第六。
この差異は当初の確認書に記載された合意内容に関わる重要事項であり、単なる用語の相違ではない。
第七。
よって通知人は、貴殿に対し、当初の合意に従い、順位譲渡に必要な書類の整備その他の手続に協力するよう求める。
なお、本通知は、通知人が順位放棄への変更を承諾したものではない。
期限までに誠実な回答がない場合、通知人は弁護士に相談のうえ、合意の履行請求その他適切な法的措置を検討する。
――以上。
私は最後まで読み上げました。
事務所が静かになりました。
「……どうでしょう」
相馬先輩が頷きました。
「前よりずっといい」
「本当ですか!」
「ああ」
嬉しい。
ようやく褒められました。
でも。
「まだ一つ」
片桐所長が言いました。
「はい」
「計算の前提は、明確にしておけ」
「はい」
「配当原資が六百万円というのは、まだ見込みだ」
「そうですね」
「現実の競売では、費用や他の優先権、配当手続の状況によって結果は変わる」
私は頷きました。
今回の数字は、あくまで想定。
でも。
その想定のもとで。
順位譲渡と順位放棄の違いが二十万円になる。
そこは、はっきり示せます。
「それから」
所長は通知書を机に置きました。
「この書面だけで、強制的に順位譲渡が実現するわけではない」
「はい」
「相手が拒めば、法律上の請求や手続をどう進めるか、弁護士に相談する必要がある」
「分かりました」
私は内容証明の原案を整えました。
その後、源三さんが内容を一つずつ確認し、納得したうえで署名押印しました。
差出人は、村井源三。
本人名義の通知書です。
私たちは、本人の意思を正確に書面にした。
それだけ。
でも。
たったそれだけのことが。
ときには大きな力を持つのです。
内容証明郵便が発送されて、三日後。
黒田金融から電話がありました。
「片桐さんはいるか」
私は受話器を握りました。
「はい。少々お待ちください」
……声が違う。
あの余裕たっぷりの黒田ではありません。
妙に硬い声でした。
片桐所長が受話器を取りました。
「片桐です」
『黒田だ』
「はい」
『あの通知書だが……』
所長は黙って聞いています。
『あれ、村井が書いたのか?』
「村井さんご本人の意思に基づく通知です」
『……そうか』
沈黙。
そして。
『顧問の弁護士に見せた』
私は思わず顔を上げました。
黒田は続けました。
『最初の確認書が問題だと言われた』
「そうですか」
『順位譲渡と書いてある。百万円を優先させるとも書いてある』
「はい」
『そのうえ、村井は約束した機械の搬出猶予を守っている』
「はい」
『なのに俺だけ放棄に変えるのは、説明がつかねえと……』
所長は、何も言いません。
黒田が続けました。
『あの確認書は、俺が自分でハンコを押したんだよ』
「承知しています」
『……』
長い沈黙。
その後。
黒田は、絞り出すように言いました。
『順位譲渡に直す』
私は思わず椅子から立ち上がりました。
「……!」
相馬先輩がこちらを見ました。
私は口を押さえました。
まだ。
まだ喜んでは駄目です。
黒田は続けました。
『正式な書類を作り直す。必要な登記手続にも協力する』
「その旨を書面で、村井さんへ回答してください」
『分かった』
所長は淡々と言いました。
「なお、具体的な履行方法など、紛争としての調整が必要になれば、弁護士にご相談ください」
『……分かってる』
電話が切れました。
私は、しばらく動けませんでした。
「……所長」
「何だ」
「今……」
「ああ」
「順位譲渡に直すって……」
「そう言ったな」
「やりましたね!」
私は思わず両手を上げました。
しかし。
「まだだ」
相馬先輩が言いました。
「えっ!」
「電話の返事だけじゃ、手続は終わってねえ」
「……はい」
「登記も、必要な通知や承諾も、確認してからだ」
そうでした。
民法。
順位譲渡。
内容証明。
言葉だけでは、終わりません。
書類。
登記。
通知。
そして。
実際に配当がどうなるのか。
最後まで確認する必要があるのです。
それからしばらくして。
黒田金融から、源三さん宛てに正式な回答書が届きました。
そこには。
――当初確認書に記載された抵当権順位譲渡の合意に従い、必要な手続に協力する。
と書かれていました。
黒田の署名。
実印。
そして。
今度は、はっきりと。
――順位譲渡。
放棄ではありません。
譲渡です。
その後、関係書類が整えられ、専門家による登記手続と、必要な通知・承諾の確認も進められました。
源三さんは、弁護士にも書類を確認してもらいました。
私たち行政書士事務所は、本人の意思に基づく通知書や事実関係の整理資料を作成し、必要な資料を引き継ぎました。
そして。
競売手続が進み。
やがて。
配当の日が来ました。
この事件では、費用等を控除した配当原資が、想定どおり六百万円となりました。
他に配当計算を変える優先権などもなく、順位譲渡の効力が反映されました。
東町信用組合。
二百万円。
黒田金融。
三百万円。
そして。
村井源三。
百万円。
全額です。
「先生!」
数日後。
源三さんが事務所へ来ました。
今度は、険しい顔ではありません。
笑っています。
「戻ってきました!」
「本当ですか!」
「百万円です!」
私は立ち上がりました。
「よかった!」
源三さんは、何度も頭を下げました。
「本当にありがとうございました」
「いえ、私たちは……」
「最初は、二十万円くらい仕方ないかと思ったんです」
源三さんが言いました。
「八十万円でも戻るなら、それでいいかって」
私は黙って聞きました。
「でも、うちの職人が言ったんです」
「職人さん?」
「親方、その二十万円は、俺たちが汗流して稼いだ金じゃないですかって」
源三さんは笑いました。
「そうなんですよね」
その手は、油で汚れていました。
爪の間まで黒い。
何十年も鉄を削ってきた手。
「二十万円あれば、新しい工具だって買える」
「はい」
「従業員の給料だって払える」
「はい」
「家の女房に、少し楽させてやることだってできる」
源三さんは、静かに言いました。
「紙の上の二十万円でも、うちにとっては本物の二十万円なんです」
私は胸が熱くなりました。
そうです。
百万円。
八十万円。
二十万円。
教科書の計算では、ただの数字。
でも。
その数字の向こうに、人の暮らしがある。
民法の一つの制度が。
小さな鉄工所を守ったのです。
「源三さん」
私は言いました。
「今回、順位譲渡と順位放棄の違いが分かって、本当によかったです」
「ええ」
「もし気づかなかったら……」
「黒田に二十万円取られるところでした」
源三さんは笑いました。
「これからは、紙に書いてある言葉を、もっとよく読みます」
私は頷きました。
「それが一番です」
でも。
本当に大切なのは、それだけではありません。
読んでも分からない。
そんな言葉が、法律にはたくさんある。
だからこそ。
分からないまま押印しないこと。
詳しい人に相談すること。
そして。
相手が偉そうに言っているからといって、全部正しいと思わないこと。
それも、とても大切なのです。
源三さんが帰ったあと。
私は机の上に、三枚の紙を並べました。
一枚目。
何もしない場合。
黒田金融、四百万円。
東町信用組合、二百万円。
村井源三、ゼロ円。
二枚目。
順位譲渡の場合。
村井源三、百万円。
黒田金融、三百万円。
東町信用組合、二百万円。
三枚目。
順位放棄の場合。
黒田金融、三百二十万円。
村井源三、八十万円。
東町信用組合、二百万円。
私は、しばらく三枚を見比べました。
「……先輩」
「何だ」
「怖いですね」
「何がだ」
「順位譲渡と順位放棄です」
「今さらか」
「だって、言葉が似すぎです!」
相馬先輩が笑いました。
「そうだな」
「最初、どっちも同じように思いました」
「うん」
「どっちも、一番抵当権者が三番抵当権者を助ける制度ですよね」
「そうだ」
「でも、配当の分け方が違う」
「ああ」
私はノートを開きました。
「順位譲渡は、譲ってもらう側が先に取る」
「うん」
「順位放棄は、二人の債権額の割合で分ける」
「そうだ」
「その違いだけで、二十万円!」
相馬先輩が頷きました。
「覚えやすくなっただろ」
「はい!」
私は大きく丸をつけました。
でも。
そこへ。
片桐所長が声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「もう一つ、忘れるな」
「何でしょう」
「今回、東町信用組合の取り分はどうなった」
私は答えました。
「どちらの場合も、二百万円のままです!」
「そうだ」
「一番と三番の間で、優先弁済の利益をどう分けるかが変わっただけですから」
所長が頷きました。
「では、これが順位変更だったら?」
私は止まりました。
「……あ」
「同じか?」
「違います!」
私は慌てて言いました。
「順位変更は、抵当権者間の順位そのものを変更する制度です!」
「そうだ」
「今回は、一番抵当権者が三番抵当権者に順位を譲渡しただけなので、二番抵当権者の順位が入れ替わるわけじゃない!」
所長が頷きました。
「その区別を忘れるな」
なるほど。
抵当権。
登記の順位。
順位変更。
順位譲渡。
順位放棄。
似た言葉が、たくさん並んでいる。
でも。
一つ一つ、法的な意味が違う。
そして、その違いが。
現実のお金の流れを変えるのです。
「ところで、先輩」
「何だ」
「黒田金融って、結局どうなったんでしょう」
「どうなったって?」
「二十万円、多く取ろうとしていたわけですよね」
「まあな」
「もっと大きな問題にならないんですか?」
相馬先輩は煙草を置きました。
「今回、村井さんは約束どおり百万円を受け取れた」
「はい」
「黒田も、最後は確認書に従った」
「はい」
「それ以上の責任があるかどうかは、別に事実と法律を検討する問題だ」
私は頷きました。
「……そうですね」
悪い奴だから。
腹が立つから。
それだけで、何でも法的責任を負わせられるわけではない。
民法は、怒った人のための武器ではありません。
具体的な権利や義務を判断するための法律です。
「でもな」
相馬先輩が言いました。
「黒田は、今回のことを忘れねえと思うぞ」
「え?」
「最初は、村井さんを素人だと思ってた」
「はい」
「二十万円くらい、言葉を変えれば取れると思ったんだろ」
「はい」
「ところが、確認書が出てきた」
「はい」
「民法三百七十六条も出てきた」
「はい」
「配当の数字まで、きっちり示された」
先輩は笑いました。
「今度から、順位譲渡と順位放棄を間違えることはねえだろうな」
私は思わず笑いました。
「確かに!」
黒田重蔵。
あの偉そうな男。
内容証明を受け取ったとき、どんな顔をしたのでしょう。
想像すると、少しだけ気分がよくなります。
でも。
いちばん大切なのは。
黒田を負かしたことではありません。
村井鉄工所に、百万円が戻ったこと。
職人たちの給料が守られたこと。
源三さんが、もう一度安心して仕事ができるようになったこと。
それです。
夕方。
窓の外が橙色に染まり始めました。
私はノートを開きました。
表紙には、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「よし!」
私は鉛筆を握りました。
「今日の教訓、決まりました!」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何だ」
「順位譲渡と順位放棄は、どちらも後順位抵当権者を助ける制度!」
「うん」
「でも、譲渡なら受ける側が先に取る!」
「うん」
「放棄なら債権額の割合で分ける!」
「そうだ」
私は最後の一行を書きました。
――順位譲渡は「先にどうぞ」、順位放棄は「割合で分けよう」。似た二文字が、配当額を変える。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
相馬先輩が覗き込みます。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
そのとき。
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「似た法律用語でも、結果が同じとは限らないことです」
「うん」
「それから、相手の説明を鵜呑みにしないこと」
「そうだ」
「あと……」
私は源三さんの顔を思い出しました。
油で汚れた手。
深い皺。
百万円が戻ったときの笑顔。
「民法の計算って、数字だけじゃないんですね」
所長が私を見ました。
「どういう意味だ」
「二十万円って、教科書ではただの数字です」
「うん」
「でも、源三さんにとっては、従業員の給料だったんです」
所長は、静かに頷きました。
「そうだ」
私は続けました。
「法律を正しく理解するだけで、守れる生活があるんですね」
「そのとおりだ」
それだけ言って。
所長は、また帳簿に目を戻しました。
私はノートを見つめました。
順位譲渡。
順位放棄。
少し前まで。
どちらも難しい、似たような言葉でした。
でも今は違います。
順位譲渡を見れば。
源三さんの百万円を思い出します。
順位放棄を見れば。
黒田が取ろうとした、あの二十万円を思い出します。
そして。
二番抵当権者の二百万円が、どちらでも変わらなかったことも。
きっと。
もう忘れません。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「私、抵当権の計算が好きになりました!」
「変な奴だな!」
「だって、お金の流れが見えるんですよ!」
「そりゃ配当計算だからな!」
「しかも、悪い奴の考えてることまで見えるんです!」
相馬先輩が吹き出しました。
「まあ、今回はそうだったな」
私は笑いました。
でも。
ふと、思いました。
もし。
最初の確認書がなかったら。
もし。
源三さんが、内容の違いに気づかなかったら。
もし。
「譲渡も放棄も同じようなものだ」
という黒田の言葉を、そのまま信じていたら。
あの二十万円は。
何事もなかったように、黒田金融の取り分になっていたかもしれません。
法律を知らないことは、罪ではありません。
でも。
法律を知らない人が損をするように仕向ける人間は、確かに存在します。
だからこそ。
私たちがいる。
片桐所長がいて。
相馬先輩がいて。
そして。
まだ見習いの私もいる。
法律を使って、誰かの生活を守るために。
私は、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――順位譲渡は「先にどうぞ」、順位放棄は「割合で分けよう」。
よし。
覚えました。
完璧です。
……たぶん。
「こはる!」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「じゃあ確認問題だ」
「えっ?」
「一番抵当権者が四百万円、二番が三百万円、三番が百万円」
「はい!」
「配当原資六百万円。一番が三番に順位を放棄した。三番はいくらだ?」
「八十万円!」
「正解」
「やった!」
「じゃあ順位譲渡なら?」
「百万円!」
「正解」
「簡単です!」
私は得意になりました。
すると。
相馬先輩がにやりと笑いました。
「じゃあ、もう一問」
「何ですか?」
「一番抵当権者が三番抵当権者に、自分の抵当権そのものを譲渡した場合は?」
……。
私は止まりました。
「……はい?」
「順位じゃなくて、抵当権そのものだ」
「……え?」
「民法三百七十六条には、そっちもあるだろ」
私は六法を開きました。
抵当権の譲渡。
抵当権の放棄。
順位の譲渡。
順位の放棄。
……。
四種類。
四種類もある。
「先輩!」
「何だ!」
「まだあるんですか!」
「あるに決まってるだろ」
「似た言葉が多すぎます!」
「民法に文句を言うな!」
私は机に突っ伏しました。
「うう……。順位譲渡と順位放棄を覚えたばかりなのに……」
相馬先輩が笑いました。
「安心しろ」
「何ですか?」
「次はもっとややこしいぞ」
「安心できません!」
窓の外。
昭和六十三年の夕暮れ。
町工場の煙突から、細い煙が上がっています。
あのどこかで。
源三さんは、今日も鉄を削っているのでしょう。
守れた二十万円。
守れた百万円。
そして、守れた小さな鉄工所。
民法三百七十六条。
教科書では、ほんの数行。
でも。
その数行の向こうには。
誰かの汗と、誰かの暮らしがある。
私はもう一度、鉛筆を握りました。
難しいからこそ、覚えよう。
似ているからこそ、区別しよう。
そして。
いつか私も。
片桐所長や相馬先輩のように。
たった一枚の書面で、誰かの大切なお金を守れる人になりたい。
そう思ったのです。
「こはる!」
「はい!」
「次の相談票、整理しとけ!」
「分かりました!」
「あと机も片付けろ!」
「はい!」
「床も掃け!」
「……先輩!」
「何だ!」
「今日の私の労働に、優先弁済権はないんですか!」
「ねえよ!」
「順位譲渡してください!」
「何の順位だ!」
……。
残念ながら。
抵当権の順位譲渡は、見習い行政書士の掃除当番を譲ってもらう制度ではありません。
そこだけは。
昭和でも令和でも、変わらないようでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




