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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 物権

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486/610

[抵当権の順位変更]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 一番の人が、先にお金をもらう。


 二番の人は、その残りをもらう。


 それが抵当権の順位です。


 では。


 一番と二番が相談して、順番を入れ替えたら?


 それだけで、二番だった人が先にお金をもらえるのでしょうか。


 答えは。


 いいえ。


 合意だけでは、まだ足りません。


 しかも。


 その一番の権利を信じて、お金を貸した第三者がいたら?


 その人を無視して、勝手に順位を変えていいのでしょうか。


 もちろん、それも許されません。


 抵当権の順位変更。


 民法第三百七十四条。


 わずか二項の条文です。


 でも。


 その短い条文の中には、三つの大切な仕組みが隠れています。


 合意。


 承諾。


 登記。


 この三つを区別できるかどうかで、行政書士試験の正解も、現実の財産も変わってしまうのです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机の上に、先日いただいた杉の文箱を置いていました。


 村瀬清一さん。


 製材所を営む六十三歳の職人さんです。


 あの人の二百万円を守った事件。


 思い出すだけで、今でも胸が熱くなります。


「……でも、先輩」


 私は六法を開きながら言いました。


「何だ」


 相馬先輩は、新聞を読んでいました。


「抵当権の順位変更って、ちょっと意地悪じゃないですか?」


「何がだ」


「一番と二番を入れ替えるだけなのに、合意だけじゃ駄目なんですよ」


「当たり前だろ」


「当たり前ですか?」


「ああ」


 先輩は新聞を畳みました。


「お前、村瀬さんの事件でも同じこと言えるか?」


 私は黙りました。


 村瀬さん。


 東浜信用金庫が持っていた一番抵当権を担保に、二百万円を貸した人。


 ところが。


 一番抵当権者の東浜信用金庫と、二番抵当権者の丸福金融が、こっそり順位を入れ替えようとした。


 土地の競売代金から配当に回せる額を六百万円とすると。


 順位変更前。


 一番の信用金庫が五百万円。


 二番の丸福金融が百万円。


 ところが順位変更後は。


 一番になった丸福金融が三百万円。


 二番になった信用金庫が三百万円。


 信用金庫の配当が二百万円も減る。


 その抵当権を担保にしていた村瀬さんにも、重大な影響が出る。


「……言えません」


 私は首を振りました。


「勝手に順番を変えられたら、困ります」


「だろ」


「はい」


「じゃあ、今日の勉強はそこからだ」


 私は鉛筆を握りました。


 表紙には、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「よし!」


 私は気合いを入れました。


「今日は抵当権の順位変更を完全攻略します!」


「昨日もそんなこと言ってなかったか」


「昨日は現場です。今日は法理です!」


「面倒な奴だな」


 奥から片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……所長まで」


 こうして。


 今日も片桐行政書士事務所に、臨時の民法講座が始まったのでした。


「まず、抵当権の順位です!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――抵当権の順位。


 同じ不動産に複数の抵当権が設定されている場合、原則として登記の前後によって優先順位が決まる。


「これは民法第三百七十三条ですね」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


「原則として、先に登記された抵当権が優先する」


「ああ」


「だから一番抵当権者は、二番抵当権者より先に配当を受けられるんですね」


「そういうことだ」


 私は、あの土地を思い出しました。


 大野隆男さんの土地。


 一番抵当権者。


 東浜信用金庫。


 被担保債権五百万円。


 二番抵当権者。


 丸福金融。


 被担保債権三百万円。


 競売代金のうち、配当に回せる金額が六百万円。


 ほかに優先する債権はないものとします。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「最初の順位で配当すると、どうなります?」


「一番が五百万だろ」


「はい」


「残りは百万」


「そうです!」


 私は書きました。


 ――順位変更前。


 一番・東浜信用金庫 五百万円。


 二番・丸福金融 百万円。


 合計六百万円。


「ここで注意です」


 私は人差し指を立てました。


「丸福金融の債権は三百万円ですけど、百万円しか受け取れません」


「そうだな」


「じゃあ残り二百万円の借金は?」


「消えねえよ」


「ですよね!」


 私はノートに線を引きました。


 抵当権による配当で回収できなかった債権が、当然に消滅するわけではない。


 丸福金融には、なお未回収の二百万円が残ります。


 もちろん。


 借りた大野さんに返済能力がなければ、現実には回収が難しいかもしれません。


「つまり」


 私は言いました。


「抵当権の順位は、どちらの借金が存在するかではなく、不動産から誰が優先して回収できるかを決めるんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「借金の額と、担保から回収できる額は別だ」


 なるほど。


 ここが最初の大事なところです。


 五百万円の抵当権があるから、必ず五百万円もらえるわけではありません。


 三百万円の抵当権があるから、必ず三百万円もらえるわけでもありません。


 抵当権は、優先的に弁済を受けるための権利。


 その順番によって、実際の回収額が変わるのです。


「では、順位変更です!」


 私はページをめくりました。


 ――民法第三百七十四条第一項。


 抵当権の順位は、各抵当権者の合意によって変更することができる。


「つまり、一番と二番が合意すれば、順位を交換できるんですよね」


「ああ」


「じゃあ、東浜信用金庫と丸福金融が順位を入れ替えたら?」


 私は新しい数字を書きました。


 ――順位変更後。


 一番・丸福金融 三百万円。


 二番・東浜信用金庫 三百万円。


 合計六百万円。


「おお……」


 私は改めて数字を見ました。


「すごいですね」


「何がだ」


「たった一番と二番の交換で、二百万円も動くんです」


 順位変更前。


 信用金庫、五百万円。


 丸福金融、百万円。


 順位変更後。


 信用金庫、三百万円。


 丸福金融、三百万円。


 つまり。


 信用金庫は二百万円減る。


 丸福金融は二百万円増える。


「でも先輩」


「何だ」


「信用金庫って、どうしてこんな不利な約束をするんですか?」


「事情はいろいろだろ」


「例えば?」


「別の取引で利益を得る場合もある。債権者同士で融資条件を調整する場合もある。相手に優先順位を譲る代わりに、別の担保を取ることだって考えられる」


「なるほど」


「順位変更そのものが悪いわけじゃねえ」


 私は頷きました。


 確かに。


 今回の丸福金融のやり方には問題がありました。


 でも、抵当権の順位変更という制度自体は、正当な取引にも使われます。


 たとえば。


 資金を貸してくれる金融機関が、


「うちが第一順位の抵当権を取れるなら融資する」


 と言った場合。


 既存の抵当権者が合意すれば、融資を実現するために順位を調整できる。


 その結果、事業が続けられるかもしれない。


 生活を立て直せるかもしれない。


「だから、民法は順位変更を認めているんですね」


「そうだ」


「ただし、勝手には変えさせない」


「そこだ」


 私は大きく丸をつけました。


 契約の自由。


 でも、無制限ではない。


 他人の権利を害するなら、その人の承諾が必要になる。


 民法らしい考え方です。


「さて」


 相馬先輩が煙草を取り出しました。


「ここからが本題だ」


「利害関係人ですね!」


「ああ」


 私はノートに書きました。


 ――民法第三百七十四条第一項ただし書。


 利害関係を有する者があるときは、その承諾を得なければならない。


「これです!」


 私は勢いよく言いました。


「村瀬さんを守った条文!」


「そうだな」


「でも、先輩」


「何だ」


「利害関係人って、具体的に誰なんでしょう?」


 相馬先輩は少し笑いました。


「お前、あの事件の一番大事な人を忘れたのか?」


「村瀬さんです!」


「正解」


 私はノートに大きく書きました。


 ――転抵当権者。


 転抵当権とは、抵当権そのものを、さらに別の債権の担保にすること。


 村瀬さんの場合。


 東浜信用金庫は、大野さんの土地について一番抵当権を持っていました。


 そして。


 村瀬さんは、その一番抵当権を担保に取って、信用金庫に二百万円を貸しました。


「つまり、村瀬さんは土地に直接、新しい抵当権を設定したわけじゃないんですよね」


「そうだ」


「信用金庫の持っている抵当権を、さらに担保に取った」


「ああ」


「だから転抵当権!」


 私は頷きました。


 ようやく頭の中でつながりました。


「じゃあ先輩、もし信用金庫の一番抵当権が二番に下がったら?」


「村瀬の担保にも影響する」


「ですよね!」


 私はあの配当額を指差しました。


 信用金庫が五百万円の配当を受けられる立場から、三百万円しか受けられない立場へ変わる。


 その抵当権を担保にしている転抵当権者にとっては、重要な変化です。


「だから村瀬さんの承諾が必要だったんですね」


「そうだ」


「でも、あの社長は言っていました」


 私は少し声を低くしました。


「一番と二番が合意したんだから、第三者が文句を言うな!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「似てねえ」


「物真似の評価は求めてません!」


「続けろ」


「はい!」


 黒田社長の主張は、一見もっともらしく聞こえます。


 一番抵当権者と二番抵当権者。


 順位を持っている本人たちが合意した。


 だから問題ない。


 でも。


 その抵当権に、別の人の権利が付いていたら?


 話は変わります。


「所長!」


 私は奥へ声をかけました。


「何だ」


「ここ、民法の大事な考え方ですよね!」


 所長が顔を上げました。


「言ってみろ」


「自分の権利を自由に処分できるとしても、その権利に利害関係を持つ第三者を、勝手に犠牲にしてはいけない!」


 片桐所長は静かに頷きました。


「そうだ」


 私は少し嬉しくなりました。


 なるほど。


 だから承諾が必要なのです。


 単なる形式ではありません。


 利害関係人の財産的利益を守るための条件。


 村瀬さんのように、一番抵当権を信頼してお金を貸した人を、置き去りにしないための仕組みなのです。


「では、次の問題だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「転抵当権者以外にも、利害関係人はいるのか?」


「います!」


「例えば?」


 私は少し考えました。


「……順位変更で不利益を受ける権利を持つ人、ですか?」


「方向はいいな」


「方向だけですか!」


「具体的に考えろ」


 私はノートに図を描きました。


 一番抵当権。


 二番抵当権。


 三番抵当権。


「例えば、三番抵当権者がいる場合は?」


「順位変更の内容による」


「え?」


「一番と二番を単に交換するだけなら、三番の順位は変わらねえだろ」


「確かに!」


「だから、後順位抵当権者ってだけで、いつでも承諾が必要になるわけじゃねえ」


 私は頷きました。


 重要なのは。


 利害関係人という名前だけではなく、順位変更によって、その人が持つ法律上の利益に影響が出るかどうか。


 今回の村瀬さんは、まさにそうでした。


 一番抵当権を目的とする転抵当権を持っていた。


 その一番抵当権が二番に下がれば、担保の価値に影響が及ぶ。


「だから、承諾が必要」


「そうだ」


「じゃあ、単に大野さんの友達だった人は?」


「それだけじゃ利害関係人じゃねえ」


「ですよね!」


 私はノートに書きました。


 ――利害関係人は、単に関係のある人という意味ではない。


 ――順位変更により法律上の利益に影響を受ける者を考える。


 相馬先輩が頷きました。


「それでいい」


 なるほど。


 試験問題で「利害関係人の承諾」と出てきたとき。


 その人が、どんな権利を持っているのか。


 順位変更によって、その権利にどんな影響が出るのか。


 そこまで考えれば、単なる丸暗記ではなく理解できます。


 そして。


 村瀬さんの事件を思い出せば、絶対に忘れません。


「では、いよいよ登記です!」


 私はページをめくりました。


 ――民法第三百七十四条第二項。


 順位の変更は、その登記をしなければ、その効力を生じない。


「ここが、私の失敗したところです……」


 私は机に突っ伏しました。


 相馬先輩が笑いました。


「ああ。見事に間違えたな」


「笑わないでください!」


「対抗要件とか言ってたな」


「言いました……」


「で、どう違うんだ?」


 私は顔を上げました。


「普通の不動産物権変動では、民法百七十七条が問題になります」


「うん」


「登記をしなければ、第三者に対抗できない」


「そうだ」


「でも、抵当権の順位変更では、登記が効力発生要件なんです!」


 私は力を込めて言いました。


「つまり、登記しない限り、順位変更そのものの効力が生じません!」


「正解」


 私は大きく頷きました。


 ここは本当に重要です。


 例えば。


 一番抵当権者A。


 二番抵当権者B。


 この二人が、順位を交換する合意書を作った。


 署名した。


 実印を押した。


 必要な利害関係人の承諾も得た。


 それでも。


 順位変更の登記をしなければ?


「順位は変わりません!」


「そうだ」


 私は書きました。


 ――合意しただけでは、順位変更の効力は生じない。


 ――承諾を得ただけでも、まだ順位変更の効力は生じない。


 ――登記をして、初めて順位変更の効力が発生する。


「先輩」


「何だ」


「これ、登記の意味がすごく大きいですね」


「ああ」


「どうして、こんなに厳しいんでしょう?」


 相馬先輩は少し考えました。


「抵当権の順位ってのは、不動産から誰が先に金を取るか決めるものだろ」


「はい」


「それが当事者の内輪の約束だけで変わったら、登記簿を信じて取引する奴が困る」


「……なるほど」


「だから登記まで要求するんだ」


 私は頷きました。


 確かに。


 抵当権の順位は、外から見えなければ困ります。


 銀行が融資をするとき。


 買主が土地を調べるとき。


 別の債権者が担保を検討するとき。


 登記簿に書かれた順位は、重要な判断材料になります。


 その順位が、当事者だけの秘密の約束で自由に変わってしまったら?


 安心して取引できません。


「だから民法第三百七十四条第二項は、登記を効力発生要件にしているんですね」


「そういうことだ」


 私は大きく丸をつけました。


 対抗要件ではない。


 効力発生要件。


 この違い。


 行政書士試験で問われたら、もう間違えません。


「でも先輩」


「何だ」


「ここで、ちょっと疑問があります」


「またか」


「村瀬さんの事件です」


「ああ」


「東浜信用金庫と丸福金融は、順位変更に合意していました」


「そうだ」


「でも、村瀬さんの承諾はありませんでした」


「ああ」


「登記もありませんでした」


「そうだな」


「じゃあ、問題が二つあったんですね?」


 相馬先輩が頷きました。


「そのとおりだ」


 私はノートに書きました。


 第一の問題。


 転抵当権者である村瀬さんの承諾がない。


 第二の問題。


 順位変更の登記がない。


「つまり」


 私は言いました。


「仮に村瀬さんが承諾していても、登記がなければ順位変更の効力は生じない」


「そうだ」


「逆に、村瀬さんの承諾がないまま、登記だけしようとしても?」


「必要な承諾を欠いている以上、適法な順位変更はできねえ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 承諾と登記は、別々の役割を持っています。


 承諾は、利害関係人の権利を守るため。


 登記は、順位変更の効力を発生させるため。


 どちらか一方があればよい、という話ではありません。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「こう覚えるのはどうですか?」


 私はノートに書きました。


 ――合意は出発点。


 ――承諾は第三者保護。


 ――登記は効力発生。


 相馬先輩が覗き込みました。


「おお」


「どうです?」


「悪くねえ」


「褒めましたね!」


「まあな」


「今、確実に褒めました!」


「うるせえ」


 私は笑いました。


 でも。


 この三つの言葉。


 かなり覚えやすい気がします。


 単なる語呂合わせではありません。


 それぞれ、なぜ必要なのかが分かるからです。


「ところで、こはる」


 片桐所長が口を開きました。


「はい!」


「順位変更と、順位の譲渡は違うぞ」


 私は固まりました。


「……え?」


 順位の譲渡。


 聞いたことがあります。


 現代の行政書士試験でも出てきます。


 でも。


「所長、それは民法第三百七十六条ですよね?」


「そうだ」


「順位変更と似てますよね?」


「似ているが、違う」


 相馬先輩が笑いました。


「また混乱しそうな顔してるな」


「だって、名前が似すぎです!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――順位変更。


 ――順位譲渡。


「どう違うんですか?」


 片桐所長が言いました。


「まず、順位変更は、順位そのものを入れ替える」


「はい」


「一番と二番が交換すれば、一番だった者が二番になり、二番だった者が一番になる」


「そうですね」


「では、順位譲渡は?」


 私は少し考えました。


「優先弁済を受けられる利益を、ほかの抵当権者に譲る……?」


「そうだ」


 所長が頷きました。


 順位譲渡では、抵当権の登記上の順位そのものを入れ替えるのではありません。


 譲渡する側と受ける側の優先弁済の利益を調整する仕組みです。


「例えば」


 私は言いました。


「一番抵当権者が二番抵当権者に順位を譲渡したら、二番抵当権者が当然に登記上の一番になる、という意味ではないんですね」


「そうだ」


「なるほど……」


 私は鉛筆を走らせました。


 順位変更は、順位そのものを変える。


 順位譲渡は、優先弁済の利益を譲る。


「名前は似ていますけど、法的な仕組みが違うんですね」


「ああ」


 相馬先輩が言いました。


「試験じゃ、その違いを狙ってくるぞ」


「怖い!」


「覚えとけ」


「はい!」


 私は二つの言葉を、大きな四角で囲みました。


 似た用語ほど、ちゃんと意味を分ける。


 これも民法の勉強では大切です。


「さて」


 私は六法を見つめました。


「今回、ちょっと不思議だったことがあるんです」


「何だ」


 相馬先輩が聞きました。


「民法第三百七十四条って、昭和六十三年と現代で、基本的なルールが同じなんですよね」


「また未来の話か」


「そうです!」


 私は少し身を乗り出しました。


「民法って、ものすごく改正されているじゃないですか」


「そうなのか?」


「そうなんです!」


 思わず声が大きくなりました。


 現代では。


 契約不適合責任。


 成年後見制度。


 消滅時効の新しいルール。


 いろいろ変わっています。


 昭和六十三年には、まだ現在の民法三条の二もありません。


 成年後見制度も、今とは違います。


 債権法も、のちに大きく改正されます。


 でも。


 抵当権の順位変更については、基本的な考え方が引き継がれています。


「先輩」


「何だ」


「これって、どうしてでしょう?」


「何がだ」


「法律が改正されても、変わらない仕組みがあるのは」


 相馬先輩は少し考えました。


「必要だからだろ」


「必要?」


「ああ」


 先輩は煙草を灰皿に置きました。


「時代が変わっても、金を貸す奴はいる」


「はい」


「借りる奴もいる」


「はい」


「担保を取る奴もいる」


「そうですね」


「だったら、担保の順番を勝手に変えられたら困るって話も、変わらねえだろ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 法律の用語や制度が変わっても。


 取引の安全。


 当事者の公平。


 第三者の保護。


 そうした基本的な考え方は、変わらないことがあります。


「つまり、民法の改正は、何でも新しくすればいいわけじゃないんですね」


「そういうことだ」


「古くても、必要なルールは残る」


「ああ」


 私は少し嬉しくなりました。


 転生してから、現代の民法知識に何度も足をすくわれてきました。


 でも。


 今回の条文は、違いました。


 昭和六十三年でも。


 現代でも。


 抵当権者の合意。


 利害関係人の承諾。


 順位変更の登記。


 この基本的な仕組みが、権利を守っています。


 私はノートの端に、小さく書きました。


 ――改正される法律にも、変わらず残る公平の仕組みがある。


 何だか、ちょっと格好いい言葉になりました。


「おい」


 相馬先輩が言いました。


「何を一人で感動してるんだ」


「民法の歴史です!」


「大げさだな」


「大げさじゃありません!」


 私は笑いました。


 でも。


 本当にそう思ったのです。


「じゃあ最後に、確認問題だ」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「はい!」


 私は背筋を伸ばしました。


「第一問」


 所長が言いました。


「甲土地に一番抵当権者A、二番抵当権者Bがいる。AとBは、順位変更の合意をした。この合意だけで順位変更の効力は生じるか」


「生じません!」


「理由は?」


「民法第三百七十四条第二項により、登記が効力発生要件だからです!」


「正解」


 よし。


「第二問。順位変更の登記は、第三者に対抗するためだけのものか」


「違います!」


「では?」


「登記しなければ、順位変更の効力そのものが生じません!」


「よし」


 私は拳を握りました。


「第三問。第一順位抵当権について転抵当権者Cがいる。Cの権利に影響する順位変更を、Cの承諾なく行えるか」


「行えません!」


「理由は?」


「Cは利害関係人なので、民法第三百七十四条第一項ただし書により、承諾が必要だからです!」


「正解」


 完璧。


 と思った、そのとき。


「第四問」


 所長が言いました。


「一番抵当権者Aの債権が五百万円、二番抵当権者Bの債権が三百万円。配当原資は六百万円。ほかに優先する債権はない。順位変更前の配当額は?」


「Aが五百万円、Bが百万円です!」


「順位変更後は?」


「Bが三百万円、Aが三百万円です!」


「その結果、Aはいくら減る?」


「二百万円!」


「Bはいくら増える?」


「二百万円!」


 私は勢いよく答えました。


 所長が頷きました。


「よし」


 やった。


 今日の勉強、完璧です!


「じゃあ俺からも一問」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「順位変更の合意書に、立派な実印が押してある」


「はい」


「利害関係人の承諾もある」


「はい」


「でも登記がない」


「効力は生じません!」


「正解」


「当然です!」


 私は胸を張りました。


「じゃあ次」


「はい!」


「登記はあるが、必要な利害関係人の承諾がない」


「適法な順位変更には、必要な承諾が欠けています!」


「よし」


「次!」


「まだあるのか?」


「もっと出してください!」


 相馬先輩が呆れました。


「お前、試験問題を欲しがるようになったのか」


「勉強が楽しくなってきたんです!」


「末期だな」


「ひどい!」


 でも。


 今回の条文は、本当に面白いのです。


 暗記だけなら。


 合意。


 承諾。


 登記。


 それだけです。


 でも。


 村瀬さんの事件を思い出すと。


 なぜ承諾が必要なのか。


 なぜ登記が効力発生要件なのか。


 なぜ順位変更で二百万円も動くのか。


 全部、理解できます。


 だから。


 もう忘れない気がするのです。


 窓の外は、すっかり夕暮れでした。


 私は杉の文箱を開きました。


 中には、村瀬さんの事件で作成した書類の控えを納めています。


 内容証明郵便。


 事実確認書。


 登記簿謄本の写し。


 そして。


 東浜信用金庫と丸福金融が、順位変更の合意を解消したことを示す確認書。


 どれも、ただの紙です。


 でも。


 その紙が、一人の職人の財産を守りました。


「所長」


「何だ」


「私、少し分かった気がします」


「何がだ」


「抵当権の順位変更って、数字を変える制度じゃないんですね」


 所長が顔を上げました。


「どういう意味だ」


「数字の裏にある、人の権利を調整する制度なんです」


 私は続けました。


「一番と二番を入れ替えることはできます」


「うん」


「でも、その順位を信じて取引した人がいるかもしれない」


「そうだ」


「だから、必要な人の承諾を得る」


「うん」


「そして、順位が変わったことを法律上確定させるために登記する」


 所長は静かに頷きました。


「それでいい」


 私は少し笑いました。


 民法。


 難しいです。


 とても難しい。


 でも。


 現場で人の生活と結びつくと、途端に意味が見えてきます。


 たった二つの条項。


 合意。


 承諾。


 登記。


 その三つが、どうして必要なのか。


 今なら、胸を張って説明できます。


「よし!」


 私はノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――抵当権の順位変更は「合意で決め、利害関係人の承諾で守り、登記で効力が生まれる」。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、覚えやすいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「絶対褒めました!」


 私は笑いました。


 この一行。


 たぶん、一生忘れません。


 一番抵当権。


 二番抵当権。


 五百万円。


 三百万円。


 六百万円の配当原資。


 そして、村瀬さんの二百万円。


 あの数字を思い出せばいい。


 たった一つの順位変更で、お金の流れは変わる。


 でも。


 当事者が勝手に決めていいわけではない。


 法律は、その順位を信じている人も守っている。


 そのことを。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会、もう終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「はい」


「六法も戻せ」


「はい」


「床も掃け」


「……また掃除ですか?」


「見習いだろ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「ちょっと提案があります」


「嫌な予感がするな」


「掃除当番の順位変更です!」


「またそれか!」


 私は得意げに言いました。


「現在、一番掃除当番は私、朝比奈こはるです!」


「そうだな」


「二番掃除当番は相馬先輩です!」


「誰が決めたんだ!」


「今、決めました!」


「勝手に決めるな!」


「では、民法第三百七十四条に従い、順位変更の合意を――」


「しねえ!」


「ええっ!」


「俺は承諾しねえ!」


 私は首をかしげました。


「でも先輩」


「何だ!」


「順位変更には、抵当権者の合意が必要ですよね」


「ああ!」


「利害関係人がいれば、その承諾も必要ですよね」


「そうだよ!」


「そして、登記が効力発生要件!」


「ああ!」


「じゃあ、先輩と私が合意して、所長の承諾も得て、掃除当番変更登記をすれば――」


「そんな登記はねえ!」


 相馬先輩が叫びました。


 私は思わず笑いました。


「冗談ですよ!」


「お前の冗談は、たまに本気で怖えんだよ」


 奥から片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい!」


「掃除当番の順位変更は、認める」


「本当ですか!」


「ただし」


「はい!」


「今日はお前が一番だ」


「……!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほらな!」


「所長!」


「何だ」


「それ、順位変更してないじゃないですか!」


「そうだな」


「ひどい!」


 私は頬を膨らませました。


 でも。


 仕方ありません。


 掃除当番は、抵当権ではないのです。


 民法第三百七十四条を持ち出しても、先輩に箒を握らせることはできません。


 残念。


 非常に残念です。


 私は箒を手に取りました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。


 あのどこかで。


 村瀬さんは、今日も製材所で木を削っているのでしょう。


 長年働いて蓄えたお金。


 人を信じて貸した二百万円。


 そのお金を担保する権利は、まだ守られています。


 抵当権の順位変更。


 たった二項の条文。


 でも。


 その二項があるから、当事者だけの都合で、第三者の権利を軽く扱うことはできない。


 そして。


 登記という公の仕組みによって、順位変更の効力が明確になる。


 法律は、目に見えない権利を、目に見える形で守っているのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート眺めてねえで掃除しろ!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「最後に一問だけ!」


「まだやるのかよ!」


「抵当権の順位変更の効力発生要件は?」


「登記!」


「利害関係人がいる場合は?」


「承諾!」


「順位変更を決めるのは?」


「各抵当権者の合意!」


 私は笑いました。


「完璧です!」


「俺に試験を受けさせるな!」


 ……なるほど。


 相馬先輩も、民法第三百七十四条は完璧に理解しているようです。


 さすが先輩。


 ただし。


 掃除当番については、残念ながら順位変更に応じてくれませんでした。


 私は箒を動かしながら、ノートの最後の一行をもう一度思い出しました。


 ――抵当権の順位変更は「合意で決め、利害関係人の承諾で守り、登記で効力が生まれる」。


 よし。


 完璧。


 今日の教訓。


 一番と二番。


 その数字を入れ替える前に。


 誰が、その順番を信じているのか。


 それを忘れてはいけない。


 そして。


 抵当権の順位変更は、合意だけでは完成しない。必要な利害関係人の承諾を得て、登記をして初めて効力が生じる。


 これが、民法第三百七十四条。


 人の財産を守るための、小さくて強い約束なのです。

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