[抵当権の順位変更]現場編 「一番と二番を入れ替えただけ」の罠。二百万円を奪う悪徳金融業者と、登記されなかった約束の正体
一番と二番。
たった二つの数字を入れ替えるだけで、二百万円が消えることがあります。
運動会なら、順位が変わっても悔しいだけです。
でも。
借金の世界では、そうはいきません。
一番が先にお金をもらう。
二番は、その残りをもらう。
では。
一番と二番が、こっそり順番を交換していたら?
しかも、その一番の権利を担保に、お金を貸した人がいたら?
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
私はこの日、民法第三百七十四条の恐ろしさを知ることになります。
抵当権の順位変更。
最初は、ただの順番の入れ替えだと思っていました。
ところが。
その数字の裏には、誰かの生活と、守らなければならない約束が隠れていたのです。
「私の二百万円が、なくなるそうなんです」
朝九時。
事務所を訪れた男性は、そう言って頭を下げました。
名前は、村瀬清一さん。
六十三歳。
町で小さな製材所を営んでいます。
作業着の袖には、細かな木くずが付いていました。
「二百万円が、なくなる?」
私は聞き返しました。
「はい」
村瀬さんは、古びた封筒を取り出しました。
「お金を貸した相手が倒産しそうなんです。それだけなら、覚悟もしていました。でも……」
「でも?」
「担保に取っていた権利まで、勝手に弱くされていたんです」
担保。
権利。
私は少し身を乗り出しました。
「詳しく聞かせてください」
村瀬さんは震える手で、三枚の書類を広げました。
一枚目は金銭消費貸借契約書。
二枚目は不動産登記簿の謄本。
三枚目は、抵当権を担保に取った際の契約書でした。
「知り合いの大野さんが、三年前に製材所の機械を買い替えまして」
「はい」
「そのとき、東浜信用金庫から五百万円を借りたんです」
「五百万円……」
「自宅の土地に抵当権を付けて」
私は登記簿を確認しました。
土地の所有者。
大野隆男。
一番抵当権者。
東浜信用金庫。
被担保債権額、五百万円。
「一番抵当権ですね」
「そうです」
「それで?」
「その後、大野さんは別の金融業者から三百万円を借りました」
二番抵当権者。
丸福金融。
被担保債権額、三百万円。
私は頷きました。
一番、五百万円。
二番、三百万円。
なるほど。
ここまでは、普通の抵当権の話です。
「でも、村瀬さんの二百万円は?」
「そこなんです」
村瀬さんは三枚目の契約書を指差しました。
「東浜信用金庫が資金繰りに困っていた時期に、私は二百万円を貸しました」
「信用金庫に?」
「ええ。昔から取引があったので」
そこで村瀬さんは、少し悲しそうに笑いました。
「信用金庫の担当者は言ったんです。大野さんの一番抵当権を担保に差し入れるから、安心してくれ、と」
私は目を見開きました。
「……転抵当?」
「はい」
転抵当。
抵当権そのものを、さらに別の債権の担保にすること。
私は現代の行政書士試験で覚えた言葉を思い出しました。
東浜信用金庫は、大野さんの土地に一番抵当権を持っている。
その一番抵当権を、村瀬さんへの二百万円の借金の担保にした。
つまり。
村瀬さんは、一番抵当権について転抵当権を持っているのです。
「登記もしましたか?」
「もちろんです。司法書士の先生にお願いしました」
私は謄本を確認しました。
ありました。
一番抵当権についての転抵当権設定の付記登記。
転抵当権者。
村瀬清一。
「ちゃんと登記されています!」
私が言うと、村瀬さんは頷きました。
「だから安心していたんです」
でも。
その安心が、突然崩れた。
「昨日、丸福金融の社長から電話がありまして」
「何と?」
「一番と二番を交換したから、お前の担保はもう大して価値がない、って」
私は固まりました。
「……交換?」
「そうです」
村瀬さんは唇を噛みました。
「東浜信用金庫と丸福金融で、抵当権の順位を入れ替える約束をしたそうです」
私は登記簿をもう一度見ました。
一番。
東浜信用金庫。
二番。
丸福金融。
でも。
もし、その順位が逆になったら?
私は手元の紙に、数字を書き始めました。
「ちょっと待ってください」
私は計算しました。
大野さんの土地。
評価額は、現在およそ六百万円。
仮に抵当権が実行され、競売代金から配当に使える金額が六百万円だったとします。
ほかの優先する債権や費用は、ここでは考えません。
すると。
一番抵当権の東浜信用金庫は、五百万円。
二番抵当権の丸福金融は、残り百万円。
「ですよね?」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「ああ」
「でも、順位を入れ替えたら……」
私は数字を書き直しました。
一番。
丸福金融、三百万円。
二番。
東浜信用金庫、五百万円。
競売代金六百万円。
まず丸福金融が三百万円。
残り三百万円を、東浜信用金庫。
「……あれ?」
私はペンを止めました。
「東浜信用金庫が、五百万円から三百万円に減ってます!」
「そうだな」
「二百万円も!」
「そうだ」
「しかも、その一番抵当権には村瀬さんの転抵当権が付いている!」
私は顔を上げました。
つまり。
村瀬さんが担保に取った抵当権の優先順位が、下がってしまう。
信用金庫が受ける配当も減る。
転抵当権者として回収を期待できる範囲にも影響する。
場合によっては、貸した二百万円を回収できなくなるかもしれない。
「そんな……!」
村瀬さんが俯きました。
「私は、信用金庫が一番だから安心だと思って貸したんです」
「はい」
「なのに、あとから勝手に二番にされるなんて……」
その言葉を聞いた瞬間。
私は立ち上がりました。
「大丈夫です!」
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「出たよ」
「何がですか!」
「お前の『大丈夫です』は、だいたい調査前だ」
「今回は分かります!」
私は六法を開きました。
「民法第三百七十四条です!」
抵当権の順位変更。
各抵当権者の合意で変更できる。
ただし、利害関係人がいる場合、その承諾が必要。
「村瀬さんは転抵当権者です! 利害関係人です!」
「うん」
「だから、村瀬さんの承諾がなければ――」
「待て」
相馬先輩が遮りました。
「はい?」
「いつ順位変更の登記をしたんだ?」
「……え?」
「登記だよ」
私は謄本を見ました。
一番抵当権。
二番抵当権。
転抵当権。
確かに記載されています。
でも。
「……順位変更の登記がありません」
「だろうな」
「じゃあ、相手は何を根拠に……?」
村瀬さんが小さな声で言いました。
「書類には、二社のハンコが押してあるそうです」
私は思いました。
ああ。
なるほど。
これはきっと、合意だけで順位が変わると思っているんですね。
そして私は、勢いよく言ってしまいました。
「合意があるなら、順位変更の契約自体は成立しているとしても、登記がなければ第三者には対抗できません!」
その瞬間。
「違う」
片桐所長の声が飛びました。
私は止まりました。
「……違いますか?」
「三百七十四条二項を読め」
「はい」
私は六法を開き直しました。
そこには。
――前項の規定による順位の変更は、その登記をしなければ、その効力を生じない。
と書かれていました。
「……あ」
「分かったか」
私は背筋を伸ばしました。
しまった。
普通の物権変動の登記と、混同しました。
民法百七十七条なら、不動産の物権変動を第三者に対抗するための登記が問題になります。
でも。
今回の抵当権の順位変更は、違う。
「登記しなければ、効力そのものが発生しない……!」
「そうだ」
所長が頷きました。
「登記は、単なる対抗要件じゃない」
「効力発生要件……!」
「そのとおり」
私は震える手で、六法の三百七十四条を指差しました。
登記がなければ。
一番と二番は、法的にはまだ入れ替わっていない。
しかも、村瀬さんの承諾もない。
これは。
二重の壁です。
「所長!」
「何だ」
「この条文、昭和と現代で同じなんですね!」
「……何を言っている」
しまった。
また未来の話でした。
「い、いえ! 珍しく、私の知っている条文がそのままだなあと!」
「民法は、お前の記憶で決まるわけじゃない」
「はい……」
相馬先輩が笑いました。
「よかったな。未来の知識が使えて」
「先輩、何で分かるんですか!」
「お前、時々妙なことを言うからな」
危ない。
転生者の秘密。
抵当権より先に、私の正体が差し押さえられそうです。
「しかしな」
相馬先輩が椅子から立ち上がりました。
「相手は、そんな単純なことも知らねえのか?」
村瀬さんが顔を曇らせました。
「丸福金融の社長は、随分と自信満々でした」
「何と言った?」
「信用金庫も承諾しているんだから、第三者が文句を言う筋合いじゃない、と」
相馬先輩の表情が変わりました。
「……ほう」
「それから、村瀬の承諾なんか必要ない、とも」
「なるほど」
先輩は煙草を取り出しました。
「こはる」
「はい」
「相手は、法律を知らないんじゃねえ」
「え?」
「知ってて、知らねえふりをしてる可能性がある」
私は息を呑みました。
つまり。
村瀬さんが素人だと思って。
合意書を見せれば諦めると考えている。
そんなことが?
「所長」
相馬先輩が言いました。
「まず、順位変更の合意書を確認する必要がありますね」
「そうだな」
片桐所長が頷きました。
「それと、最新の登記簿を取れ」
「はい」
「村瀬さんには、承諾書を出したことがないか確認する」
「絶対に出していません!」
村瀬さんは即答しました。
「一度もです!」
所長が頷きました。
「分かりました。では、その事実を確認書にしていただきます」
「はい」
私はノートを開きました。
証拠。
合意。
承諾。
登記。
この四つが、今回の鍵になりそうです。
翌日。
私と相馬先輩は、丸福金融の事務所へ向かいました。
駅前商店街の外れ。
古いビルの二階。
入口には、金色の文字で、
――丸福金融株式会社。
と書かれています。
「いかにもですね……」
私が呟くと、相馬先輩が言いました。
「何がだ」
「悪そうな看板です」
「看板で判断すんな」
「はい」
扉を開けると、革張りの椅子に座った男がこちらを見ました。
五十歳くらい。
太い金の指輪。
腹の上で組まれた両手。
丸福金融の社長。
黒田繁三です。
「何だ、あんたら」
「片桐行政書士事務所の相馬です。村瀬さんから資料作成の依頼を受けています。順位変更に関する事実関係を確認させていただけますか」
「行政書士?」
黒田は鼻で笑いました。
「弁護士じゃねえんだろ」
「そうです」
「だったら、何しに来た」
相馬先輩は顔色一つ変えません。
「書類の確認です。法律上の交渉を代理するつもりはありません」
「ふん」
黒田は引き出しから一枚の書面を取り出しました。
「ほらよ」
そこには、大きな文字で、
――抵当権順位変更合意書。
と書かれていました。
内容は簡単です。
大野隆男所有の土地について。
一番抵当権者・東浜信用金庫。
二番抵当権者・丸福金融。
両者は抵当権の順位を交換することに合意する。
日付。
署名。
代表者印。
確かに二社の名前があります。
「どうだ」
黒田が得意げに言いました。
「ちゃんとハンコがあるだろ」
「ありますね」
「だから、もう一番はうちだ」
「順位変更の登記は?」
私が尋ねると、黒田は眉をひそめました。
「まだだ」
「まだ?」
「手続を進めてるんだよ」
「村瀬さんの承諾は?」
「必要ねえだろ」
黒田が笑いました。
「一番と二番が入れ替わるだけだ。あの爺さんには関係ねえ」
私は思わず言いました。
「関係あります!」
「あ?」
「村瀬さんは、一番抵当権の転抵当権者です!」
「それがどうした」
「順位が下がれば、担保の価値が変わる可能性があります!」
黒田は鼻で笑いました。
「抵当権なんて、結局は借金の担保だろ。借金の額そのものは変わらねえんだ。何も損してねえじゃねえか」
……。
私は言葉を失いました。
借金の額が変わらない?
確かに。
東浜信用金庫の債権五百万円は、そのままです。
丸福金融の三百万円も、そのままです。
村瀬さんの二百万円も、消えるわけではありません。
でも。
担保から回収できるお金が減る。
それが問題なのです。
「黒田さん」
私は言いました。
「土地が六百万円で競売にかかったら、どうなります?」
「は?」
「今の順位なら、信用金庫が五百万円、御社が百万円です」
「だから?」
「順位変更後は、御社が三百万円、信用金庫が三百万円です」
黒田の目が、わずかに動きました。
「御社は二百万円多く受け取れる計算になります」
「……」
「その一方で、信用金庫の配当は二百万円減ります」
「それで?」
「信用金庫の一番抵当権を担保にしている村瀬さんに、影響がないとは言えません」
黒田は机を叩きました。
「そんなの、信用金庫と村瀬の問題だろ!」
私は言い返そうとしました。
その瞬間。
「こはる」
相馬先輩が低い声で呼びました。
「はい」
「そこまでだ」
「でも!」
「聞くことは聞いた」
先輩は黒田に向き直りました。
「順位変更の合意書は存在する。しかし登記はまだされていない。そして、村瀬さんの承諾は得ていない。そういうことですね」
「ああ、そうだよ!」
「分かりました」
「何が分かったんだ」
「事実関係です」
相馬先輩は、それ以上何も言いませんでした。
私は驚きました。
ここまで相手が開き直っているのに?
でも。
事務所を出たところで、先輩が言いました。
「こはる」
「はい」
「今の話、記録したか」
「はい!」
「相手が合意を認めたこと」
「はい」
「登記が未了だと認めたこと」
「はい」
「村瀬さんの承諾を得ていないこと」
「全部、書きました!」
「よし」
先輩は煙草に火をつけました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
「出ましたね、それ」
「覚えとけ」
「でも先輩」
「何だ」
「今回は、あの合意書にハンコが押してありますよ?」
「ああ」
「じゃあ、相手が勝つんですか?」
先輩は笑いました。
「馬鹿言え」
「え?」
「法律が登記を要求してるところへ、合意書だけ持ってきても足りねえんだ」
そして。
少しだけ声を低くしました。
「しかも、利害関係人の承諾が抜けてる」
私は頷きました。
「だから」
先輩が言いました。
「次は、書面でそれを突きつける」
私は拳を握りました。
いよいよ。
民法第三百七十四条。
反撃開始です。
事務所に戻ると、片桐所長が待っていました。
「どうだった」
「黒田社長は、順位変更の合意書だけで順位が変わったと主張しています!」
「登記は?」
「未了です!」
「転抵当権者の承諾は?」
「ありません!」
所長は頷きました。
「なら、争点は明確だ」
私は勢いよく原案を書き始めました。
――貴社による順位変更は無効である。
――村瀬清一の権利を侵害する違法行為である。
――直ちに二百万円を支払え。
「できました!」
所長が読みました。
三秒。
赤鉛筆。
「全部、やり直し」
「早い!」
「何を請求する書面だ?」
「村瀬さんの二百万円を守るためです!」
「二百万円を誰が借りている?」
「東浜信用金庫です」
「丸福金融か?」
「……違います」
「なら、丸福金融に直ちに二百万円の返済義務があるような書き方をするな」
私は黙りました。
確かに。
村瀬さんに二百万円を借りているのは、信用金庫。
丸福金融ではありません。
「それから」
所長が続けました。
「『順位変更は無効』という書き方も、雑だ」
「え?」
「各抵当権者の合意自体と、順位変更の効力発生を分けろ」
私は六法を見ました。
なるほど。
信用金庫と丸福金融が順位変更を約束した。
それ自体と。
実際に抵当権の順位が入れ替わること。
これは別です。
「登記をして初めて、順位変更の効力が生じる」
「はい」
「そして、利害関係人がいるなら、その承諾も必要だ」
「はい」
「だから今の段階では、順位変更の効力は発生していない」
私は書き直しました。
――現時点において、本件順位変更の登記は存在せず、民法第三百七十四条第二項により、順位変更の効力は生じていない。
「これなら?」
「よし」
私は少し嬉しくなりました。
ところが。
「もう一つ」
所長が言いました。
「民法第三百七十四条第一項ただし書」
「利害関係人の承諾ですね」
「そうだ」
私は続けました。
――本件第一順位抵当権には、村瀬清一を転抵当権者とする転抵当権設定登記が存在する。
――したがって、村瀬清一は本件順位変更につき利害関係を有する者である。
――通知人は本件順位変更について承諾していない。
「どうです?」
「よし」
「やった!」
「まだ終わっていない」
「ええっ!」
所長は登記簿を指差しました。
「証拠を添えろ」
「はい!」
私は資料を並べました。
一番抵当権設定登記を確認できる登記簿謄本。
二番抵当権設定登記を確認できる部分。
転抵当権設定登記。
村瀬さんの貸付契約書。
村瀬さんが順位変更を承諾していない旨の確認書。
そして、相手が提示した順位変更合意書についての事実確認記録。
「これなら、相手も言い逃れできませんね」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、こはる」
「はい」
「数字も入れろ」
「数字?」
「相手が何を得るのか、だ」
私は紙を見ました。
なるほど。
単に条文を並べるだけではない。
順位変更によって、誰が得をし、誰の担保が弱くなるのか。
そこまで示すのです。
私は書きました。
――仮に本件土地から配当に充てられる額を六百万円とすると、現順位では第一順位抵当権者に五百万円、第二順位抵当権者に百万円が配当される計算となる。
――これに対し、順位を交換した場合、丸福金融への配当は三百万円となり、東浜信用金庫への配当は三百万円となる。
――このように、本件順位変更は、第一順位抵当権を目的とする転抵当権者の担保利益に重大な影響を及ぼし得る。
読み終えると。
相馬先輩が、にやりとしました。
「いいじゃねえか」
「本当ですか!」
「ああ」
「初めて褒められました!」
「調子に乗るな。まだ続きがある」
先輩は最後の一文を指差しました。
――なお、通知人の承諾なく順位変更登記の申請を進め、又は既に順位変更の効力が生じているものとして通知人の権利を害する行為がなされた場合、通知人は弁護士に相談のうえ、権利保全その他の適切な法的措置を検討する。
私は息を呑みました。
怖い。
怒鳴っていない。
脅してもいない。
でも。
民法の条文。
登記の事実。
承諾の不存在。
具体的な配当額。
その全部が、相手の主張を追い詰めていました。
「所長」
「何だ」
「これ、相手はどう反論するんでしょう?」
「さあな」
「さあなって……」
「相手に聞けばいい」
所長は静かに言いました。
「ただし、こちらは事実と法律を間違えるな」
私は頷きました。
法律の書面は、感情をぶつけるものではない。
相手が反論するなら、何を説明しなければならないか。
それを明らかにするものなのです。
翌朝。
村瀬さんが事務所に来ました。
「これを送れば、私のお金は守れるんでしょうか」
不安そうな顔でした。
私はすぐに「大丈夫です」と言いかけました。
でも。
言葉を飲み込みました。
内容証明郵便を送っただけで、お金が戻るわけではありません。
借金を返してもらえるかどうかは、債務者の資力にも左右されます。
転抵当権があっても、それだけで必ず全額回収できるとは限りません。
ただ。
今回の問題は、別です。
村瀬さんの知らないところで、担保の順位を勝手に下げられるかどうか。
そこには、法律上の明確な壁があります。
「村瀬さん」
私は言いました。
「この書面は、二百万円の返済を保証するものではありません」
「……はい」
「でも、村瀬さんの承諾もないのに、一番抵当権の順位を下げていいわけではありません」
村瀬さんが顔を上げました。
「それは、本当ですか」
「はい」
私は六法を指差しました。
「民法第三百七十四条に、そのためのルールがあります」
村瀬さんは、しばらく条文を見つめていました。
「……そうですか」
そして。
小さく息を吐きました。
「私は、ただの町工場の人間です」
「はい」
「法律なんて、よく分からなくて」
「……」
「だから、あの社長に言われたとき、もう駄目だと思いました」
村瀬さんの目が潤みました。
「でも、私みたいな人間にも、守ってもらえる権利があるんですね」
私は頷きました。
「あります」
相馬先輩が言いました。
「法律は、金持ちのためだけにあるんじゃねえよ」
村瀬さんは深く頭を下げました。
こうして。
村瀬清一名義の内容証明郵便が、東浜信用金庫と丸福金融の双方へ発送されました。
三日後。
丸福金融から、事務所に電話が入りました。
「……片桐さんはいるか」
黒田社長でした。
あの偉そうな声とは違います。
妙に低い。
「所長に代わります」
片桐所長が受話器を取りました。
「片桐です」
『……あの通知書の件だが』
「はい」
『あれは、あんたのところで作ったのか』
「村瀬さんの依頼に基づき、書類作成をお手伝いしました」
『……民法三百七十四条ってのは』
「はい」
『登記しなきゃ効力が出ないんだな?』
「条文のとおりです」
電話の向こうで、何かを机に置く音がしました。
『司法書士に確認した』
「そうですか」
『転抵当権者の承諾が必要だと言われた』
私は思わず顔を上げました。
『しかも、村瀬の転抵当権は登記されてる』
「はい」
『……今のままじゃ、順位変更登記は進められないって』
所長は黙って聞いています。
『俺は……』
黒田の声が小さくなりました。
『信用金庫と合意すりゃ、それで済むと思ってたんだ』
私は思いました。
嘘ですね。
少なくとも、村瀬さんの権利が弱くなることは分かっていたはずです。
でも。
所長は責めませんでした。
「必要な手続と権利関係を、ご確認いただけたのであれば結構です」
『……順位変更の話は、取りやめる』
「そうですか」
『信用金庫とも話をつけた』
私は息を呑みました。
『合意は撤回する。順位変更登記の申請もしない』
そして。
『村瀬にも、そう伝えてくれないか』
所長は落ち着いた声で答えました。
「当事者間のご連絡は、直接お願いいたします。書面で通知されるのがよろしいでしょう」
『……分かった』
電話が切れました。
私は思わず立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「取りやめるって!」
「ああ」
「勝ちましたね!」
その瞬間。
「まだだ」
相馬先輩が言いました。
「え?」
「書面が届いてねえ」
「……あ」
「電話で言っただけだろ」
「はい」
「今まで何を学んできたんだ」
私は苦笑しました。
「書面にハンコを押させた奴が勝つ……」
「そうだ」
先輩は頷きました。
「相手が自分の意思で約束を撤回したなら、それを形に残してもらえ」
結局。
その翌日、丸福金融と東浜信用金庫の双方から、村瀬さん宛てに書面が届きました。
――本件土地に係る抵当権順位変更の合意については、当事者双方の合意により解消した。
――本件順位変更に係る登記申請は行わない。
――本件抵当権の順位については、従前の登記どおりとする。
署名。
押印。
私は書面を見て、ようやく息を吐きました。
「これで、ひとまず安心ですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「だが、登記簿ももう一度確認しろ」
「はい!」
後日取得した登記簿にも、順位変更の登記はありませんでした。
一番抵当権。
東浜信用金庫。
二番抵当権。
丸福金融。
そして。
一番抵当権の転抵当権者。
村瀬清一。
その文字は、消えていませんでした。
一週間後。
村瀬さんが、再び事務所を訪れました。
今日は少し違います。
顔色が明るい。
手には、小さな木箱がありました。
「これ、うちの工場で作ったものです」
蓋を開けると、木製の文箱が入っていました。
丁寧に磨かれた杉の木。
柔らかな香りが漂います。
「お礼にと思いまして」
「わあ……!」
私は思わず声を上げました。
「すごく綺麗ですね!」
「端材で作ったものですから、たいしたものではありません」
「そんなことないです!」
私は両手で受け取りました。
木目が綺麗です。
触ると、つるつるしています。
「うちの孫がね」
村瀬さんが言いました。
「この箱に、学校で百点を取った答案を入れるんです」
「可愛いですね」
「私も、少し真似してみようかと思いまして」
「え?」
「大事な書類を入れておく箱です」
村瀬さんは笑いました。
「土地の登記簿と、今回の通知書と、二社からの確認書」
私は胸が熱くなりました。
二百万円。
村瀬さんにとって、決して小さな金額ではありません。
長年、木を切り。
製材し。
汗を流して働いてきた。
その積み重ねから生まれたお金です。
「私ね」
村瀬さんは静かに言いました。
「一番と二番なんて、数字の話だと思っていました」
「はい」
「でも、その数字を信じて、お金を貸したんです」
私は頷きました。
「そうですよね」
「だから、勝手に変えられたら困る」
村瀬さんは少し笑いました。
「法律は、そういう当たり前のことを守ってくれるんですね」
私は、しばらく何も言えませんでした。
抵当権。
転抵当権。
順位変更。
利害関係人。
登記。
試験のテキストでは、どれも難しい言葉です。
何度読んでも、頭に入らない。
条文を覚えても、すぐ忘れる。
でも。
今なら分かります。
抵当権の順位は、ただの数字ではない。
その順番を信じて、取引をした人がいる。
お金を貸した人がいる。
生活を預けた人がいる。
だから。
法律は、勝手な順位変更を許していないのです。
村瀬さんが帰ったあと。
私は机の上に文箱を置きました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日、抵当権の順位変更が好きになりました」
「変な奴だな」
「ひどい!」
「普通、好きになるもんじゃねえだろ」
「だって、すごいじゃないですか!」
私は六法を開きました。
「民法第三百七十四条!」
「おう」
「抵当権者の合意で順位を変えられる!」
「そうだ」
「でも利害関係人がいたら承諾が必要!」
「そうだな」
「しかも登記がなければ効力が生じない!」
「そこだ」
先輩は頷きました。
「今回の急所は、二つだったな」
「承諾と登記です!」
「そうだ」
私は大きく丸をつけました。
承諾。
登記。
どちらも欠かせない。
「でも先輩」
「何だ」
「もし信用金庫と丸福金融が、村瀬さんの承諾をちゃんと取って、順位変更の登記もしたら?」
「順位変更の効力が生じることになるな」
「ですよね」
「法律は、順位変更そのものを禁止してるわけじゃねえ」
なるほど。
大切なのは、勝手に変えられないこと。
当事者の合意があり。
利害関係人の承諾があり。
そして登記がある。
その条件を満たして、初めて順位変更の効力が生まれる。
「でも、村瀬さんは承諾しませんでした」
「ああ」
「だから守られたんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
法律は、何でも禁止するためにあるわけではない。
取引の自由を認めながら。
その取引で不利益を受ける人を、置き去りにしない。
そこが、大事なのです。
「ところで」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「こはる」
「はい!」
「今日の教訓は?」
私は少し考えました。
抵当権者の合意。
転抵当権者の承諾。
登記。
そして二百万円。
全部が頭の中でつながりました。
私はノートを開き、一行を書きました。
――抵当権の順位変更は、抵当権者の合意だけでは足りない。利害関係人の承諾と登記が必要!
「できました!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、いいだろ」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「絶対褒めました!」
私は笑いました。
でも。
まだ一つ、気になっていることがあります。
「先輩」
「何だ」
「今回、村瀬さんが転抵当権者だったから、承諾が必要だったんですよね」
「ああ」
「じゃあ、転抵当権者以外にも利害関係人っているんですか?」
「いるぞ」
「えっ!」
「抵当権の順位を変えられて困る奴は、ほかにもいる」
「……なるほど」
私はノートに大きく書きました。
――利害関係人とは誰か。
その下に。
――なぜ登記が効力発生要件なのか。
さらに。
――順位変更と順位譲渡は、どう違うのか。
相馬先輩が顔をしかめました。
「おい」
「はい?」
「何で疑問が増えてんだ」
「だって、気になるじゃないですか!」
「一つ覚えると三つ増えるのかよ」
「法律って、そういうものですよね!」
「面倒くせえ……」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
私は笑いながら、六法を閉じました。
窓の外。
夕暮れの商店街を、自転車に乗った学生たちが通り過ぎていきます。
一番。
二番。
数字だけ見れば、小さな違いです。
でも。
その順番の裏で、二百万円が動く。
誰かの財産が守られる。
誰かの暮らしが左右される。
そう考えると。
民法第三百七十四条の短い文章が、まったく違って見えました。
「こはる!」
相馬先輩が呼びました。
「はい!」
「いつまで六法を眺めてんだ!」
「復習です!」
「終わったら掃除しろ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私にも、掃除の順位を変更する権利はありますか!」
「は?」
「先輩が一番に掃除して、私が二番になるという合意を――」
「しねえよ!」
「ええっ!」
「俺は承諾しねえ!」
私は思わず笑いました。
「じゃあ、順位変更できませんね!」
「ああ!」
「しかも登記も必要です!」
「掃除に登記なんかあるか!」
「民法三百七十四条です!」
「掃除は抵当権じゃねえだろ!」
……なるほど。
抵当権の順位変更は、掃除当番の交代には使えないようです。
残念。
ですが。
今日の教訓だけは、忘れません。
一番と二番を入れ替える。
たったそれだけでも。
他人の権利を踏みにじっていいわけではない。
合意があるから大丈夫。
ハンコがあるから大丈夫。
そんな言葉で、法律の要件を飛ばしてはいけない。
だって。
抵当権の順位を変えるには、当事者の合意だけでなく、利害関係人の承諾が必要で、登記をしなければ効力は生じない。
その短い条文が。
今日、一人の職人の二百万円を守ったのです。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり民法って、面白いですね!」
「面白がってる暇があったら箒を持て!」
「はいっ!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日も私は、法律と掃除当番の両方に苦戦しています。
ただし。
抵当権の順位変更については、もう間違えません。
覚えるべき言葉は、たった二つ。
――承諾。
――登記。
この二つを忘れた人間が、他人の二百万円を動かせるほど。
民法は、甘い法律ではないのです。
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