[民法・抵当権]法理編 こはるノート
借金が消えたのに、担保だけが生き残る。
そんなことが許されたら。
誰も安心して、お金を借りられなくなってしまいます。
土地を担保に入れたら。
その土地は、もう自分のものではないのでしょうか。
他人の借金のために土地を提供したら。
自分まで借金を返さなければならないのでしょうか。
そして。
借金を全部返したのに、登記簿に抵当権が残っていたら。
家を取り上げられてしまうのでしょうか。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
今日のテーマは。
抵当権。
民法三百六十九条から始まる、担保物権の大物です。
「……先輩」
「何だ」
「抵当権って、覚えることが多すぎませんか?」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「今さらか」
「付従性、随伴性、物上代位性!」
「うん」
「登記! 順位! 物上保証人!」
「うん」
「付加一体物! 利息の二年分!」
「うん」
「しかも、順位が上がったり、火災保険金にまで効力が及んだりするんですよ!」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「じゃあ、昨日の婆さんの家を思い出せ」
私は手を止めました。
杉浦ハルさん。
七十二歳。
息子の正一さんが借りた百万円のために、自分の土地を担保に入れた女性。
貸主は、黒田金融。
正一さんは借金を完済していたのに、黒田金融は抵当権の登記が残っていることを利用して、
「土地を取り上げる」
「家を明け渡せ」
と脅してきた。
でも。
領収書。
元利金全額受領の確認書。
登記簿謄本。
それらを調べて、本人名義の内容証明を作成したことで、黒田金融は要求を撤回。
最終的に、二つの抵当権設定登記も抹消された。
あの事件です。
「……なるほど」
私は鉛筆を握りました。
「確かに、あの事件を順番に考えれば、抵当権の基本が全部つながりますね!」
「そういうことだ」
「よし!」
私はノートの一ページ目に大きく書きました。
――抵当権とは、何を守る権利なのか。
相馬先輩が覗き込みました。
「ずいぶん大きく書いたな」
「一番大事なことですから!」
「で、答えは?」
私は胸を張りました。
「債権です!」
片桐所長が、奥から静かに言いました。
「そうだ」
私は頷きました。
家を奪うためではない。
土地を乗っ取るためでもない。
抵当権とは、債権の回収を確保するための権利。
そこを忘れると。
黒田金融のような、恐ろしい勘違いが生まれるのです。
◇
「まず、民法三百六十九条です!」
私は六法を開きました。
――抵当権者は、債務者又は第三者が占有を移転しないで債務の担保に供した不動産について、他の債権者に先立って自己の債権の弁済を受ける権利を有する。
「……長いですね」
「法律だからな」
「もう少し簡単に書けませんかね?」
「お前が法律を変えろ」
「無理です!」
私は気を取り直しました。
「つまり、土地や建物を担保にして、お金を返してもらえないときに、その価値から優先的に回収できる権利です」
「そうだ」
「ただし、重要なのが『占有を移転しない』という部分です」
私は赤鉛筆で線を引きました。
ここです。
抵当権の最大の特徴。
「たとえば、銀行から住宅ローンを借ります」
「うん」
「自宅に抵当権を設定します」
「うん」
「すると、銀行員が家に住み始めるんですか?」
「怖すぎるだろ」
「ですよね!」
私は笑いました。
抵当権を設定しても、通常は所有者がそのまま不動産を使えます。
家に住める。
畑を耕せる。
店を営業できる。
庭で柿を育てることだってできます。
「杉浦ハルさんも、土地を担保に入れたあと、ずっと住み続けていたんですよね」
「そうだ」
「だから黒田金融が、抵当権を設定しただけで『土地は俺のものだ』と言ったのは、おかしかった」
片桐所長が頷きました。
「抵当権は、所有権ではない」
「はい」
「不動産を直ちに占有できる権利でもない」
「はい!」
私はノートに書きました。
――抵当権=占有を移さず、担保価値から優先弁済を受ける権利。
「ところで先輩」
「何だ」
「抵当権って、不動産なら何でも設定できますか?」
「基本は土地と建物だな」
「他にもあります!」
私は六法の次の項を指差しました。
民法三百六十九条二項。
地上権。
永小作権。
これらも抵当権の目的にできます。
「土地そのものを所有していなくても、一定の不動産に関する権利を担保にできるんですね」
「そういうことだ」
「でも、普通の腕時計や自転車には、この条文の抵当権は設定できません」
「そうだな」
私は頷きました。
土地。
建物。
地上権。
永小作権。
まずは、この四つを頭に入れます。
厳密には土地と建物をまとめて不動産と呼ぶので、試験向けには、
――不動産・地上権・永小作権。
この三分類です。
◇
「次は、物上保証人です!」
私はページをめくりました。
――物上保証人。
これも、ハルさんの事件で重要だった言葉です。
「先輩、問題です!」
「またか」
「息子が百万円借りました」
「うん」
「お母さんが、自分の土地を担保に入れました」
「うん」
「借金をしたのは誰でしょう!」
「息子だろ」
「正解です!」
「馬鹿にしてんのか」
「では、抵当権設定者は誰でしょう!」
「母親だ」
「正解!」
「簡単すぎるだろ」
私は笑いました。
でも。
ここを混同すると、大変なことになります。
債務者。
杉浦正一。
抵当権者。
黒田金融。
抵当権設定者。
杉浦ハル。
そして。
ハルさんは、物上保証人でもあります。
「物上保証人とは、他人の債務の担保として、自分の財産を提供する第三者です」
「そうだ」
「じゃあ先輩」
「何だ」
「息子が百万円を返さなかったら、お母さんは自分の預金から百万円を払う義務があるんですか?」
「当然にあるわけじゃねえ」
「ですよね!」
ここが重要です。
物上保証人は、通常の保証人とは違います。
保証人は、保証契約に基づいて他人の債務を履行する責任を負います。
一方。
物上保証人は、自分の財産を担保に提供する立場です。
別途、保証債務を負っていなければ、原則として自分の全財産で借金を返す義務までは負いません。
「ただし!」
私は鉛筆を立てました。
「土地を失う危険はあります!」
「そのとおりだ」
借金が返済されなければ。
抵当権者は、担保不動産の競売などを申し立てることができます。
その結果、物上保証人が土地を失うことはあり得ます。
「つまり」
私は言いました。
「自分は借金をしていなくても、自分の土地が危険にさらされるんですね」
「そうだ」
「だから、親子だからといって軽い気持ちで担保を提供すると、取り返しのつかないことになる」
片桐所長が静かに言いました。
「判を押す前に、責任の範囲を知っておくことだ」
私は頷きました。
ハルさんは、息子を助けたかった。
ただ、それだけだった。
でも。
物上保証人になるということは、場合によっては自分の住む土地を失う危険を引き受けるということです。
それほど重い約束なのです。
◇
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「今回の事件の本丸だな」
「はい!」
私はノートに大きく書きました。
――付従性。
「読み方は、ふじゅうせい!」
「知ってる」
「抵当権は、被担保債権に従って存在するという性質です!」
これこそ。
杉浦ハルさんの家を守った、最大の論点でした。
正一さんは、黒田金融から百万円を借りた。
その百万円の貸金債権を担保するために、ハルさんの土地に抵当権が設定された。
つまり。
被担保債権は、百万円の貸金債権。
抵当権は、それを守るための担保物権。
「ところが」
私は言いました。
「息子さんは百万円と利息を全部返しました」
「うん」
「そうすると、貸金債権は弁済によって消滅します」
「そうだ」
「そして、抵当権も消滅します!」
相馬先輩が頷きました。
「それが付従性だ」
私は大きく丸をつけました。
――借金が消えれば、原則として抵当権も消える。
「でも先輩」
「何だ」
「黒田金融は、登記が残っているから抵当権は有効だって言ってましたよね」
「ああ」
「なぜ駄目なんですか?」
先輩は私を見ました。
「登記は、存在しない債権を作り出す魔法じゃねえからだ」
……なるほど。
私は頷きました。
登記簿には、抵当権が記載されていました。
でも。
被担保債権は、すでに消滅していた。
だから。
登記簿に記載が残っていることと、抵当権が実体法上存在することは、別問題だったのです。
「つまり」
私は言いました。
「借金を完済した瞬間に抵当権が消滅しても、登記簿の記載は自動では消えないんですね」
「そうだ」
「だから、抵当権抹消登記が必要になる」
片桐所長が頷きました。
「正確には、消滅した権利に合わせて、登記記録を整理する手続だ」
「はい!」
私は書きました。
債権消滅。
抵当権消滅。
ただし、登記は自動抹消されない。
抹消登記手続が必要。
「ここで注意です!」
私は自分で言いました。
相馬先輩が顔をしかめます。
「何だ、今度は」
「すべての抵当権が、特定の債権一つだけを担保するとは限りません!」
「ほう」
「根抵当権があります!」
根抵当権。
継続的な取引などから発生する不特定の債権を、一定の極度額の範囲で担保する仕組みです。
元本が確定する前は、特定の借金を一つ返しただけで当然に消滅するわけではありません。
「でも今回の黒田金融の抵当権は?」
「通常の抵当権だ」
「はい!」
だから、特定の貸金債権の完済が決定打になった。
「通常の抵当権と根抵当権をごちゃごちゃにすると、試験で危ないですね」
相馬先輩が頷きました。
「実務でも危ねえ」
私は、その言葉に二重線を引きました。
◇
「次は随伴性です!」
私はノートのページをめくりました。
――随伴性。
これは、付従性と似ています。
でも、意味は違います。
「先輩、百万円の貸金債権があります」
「うん」
「貸主の黒田金融が、その債権を別の会社に譲渡したら、どうなりますか?」
「債権者が変わるな」
「はい!」
私は図を描きました。
黒田金融。
百万円の貸金債権。
抵当権。
これを、仮に白浜商事という会社に譲渡する。
「すると、貸金債権は白浜商事に移ります」
「そうだ」
「抵当権は?」
「原則として一緒に移る」
「正解です!」
そうです。
抵当権だけが黒田金融に残り、貸金債権だけが白浜商事に移る。
通常の債権譲渡では、そんなふうに担保が切り離されるわけではありません。
被担保債権の移転に伴って、抵当権も移転する。
これが随伴性です。
「じゃあ、付従性と随伴性の違いは?」
相馬先輩が尋ねました。
私は即答しました。
「付従性は、債権の存在や消滅についていく!」
「うん」
「随伴性は、債権の移転についていく!」
「そうだ」
私は大きく書きました。
――付従性は「生死を共にする」。
――随伴性は「引っ越しについていく」。
「どうですか!」
相馬先輩が笑いました。
「分かりやすいじゃねえか」
「褒めましたね!」
「たまにはな」
「やった!」
ただし。
私は次の行に注意書きを入れました。
債権譲渡があれば、抵当権の移転という実体上の効果が生じても、第三者との関係では債権譲渡の対抗要件や抵当権移転登記などが問題になる。
権利が移ることと。
第三者に、その移転を主張できること。
それも、別の問題なのです。
「ところで先輩」
「何だ」
「私が百万円借りて、借金を返せなくなったら、先輩は助けてくれますか?」
「何で俺が」
「随伴性で!」
「何がついてくるんだよ!」
「借金と一緒に先輩の優しさが!」
「ついてこねえ!」
……残念。
随伴性は、友情には適用されないようです。
◇
「さて」
相馬先輩が煙草を消しました。
「次は、少し難しいぞ」
「望むところです!」
「家が燃えたら、抵当権はどうなる?」
私は鉛筆を止めました。
家が燃える。
担保不動産がなくなる。
でも。
火災保険に入っていたら?
「あっ!」
私は顔を上げました。
「物上代位です!」
――物上代位性。
私はノートに大きく書きました。
「抵当権の目的物が、別の経済的価値に変わった場合、その価値に対して抵当権を行使できる場合がある、という性質です!」
「そうだ」
たとえば。
AがBに百万円を貸した。
Bは自分の建物に抵当権を設定した。
ところが。
建物が火災で焼失。
Bには、保険会社から火災保険金二百万円が支払われることになった。
「ここでAは、どうする?」
相馬先輩が尋ねました。
「火災保険金に対して、抵当権に基づく物上代位を行使することが考えられます!」
「うん」
「でも、保険金二百万円を全部もらえるわけではありません」
「なぜだ?」
「担保されているのは百万円の貸金債権などだからです!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ。担保の額を超えて儲けるための制度じゃねえ」
なるほど。
私は書きました。
――物上代位は、担保価値の変化を追いかける仕組み。
でも。
ここで、絶対に忘れてはいけない条件があります。
「先輩!」
「何だ」
「差押えです!」
「そうだ」
民法三百七十二条。
そして、三百四条。
抵当権には、先取特権の物上代位に関する規定が準用されます。
そのため、火災保険金請求権に物上代位するときには、原則として保険金が払い渡される前に差し押さえる必要があります。
「つまり、保険会社が保険金を支払ってしまってから、『その金は抵当権者のものだ』と言っても、原則として遅いんですね」
「そういうことだ」
「支払われる前に、裁判所で必要な手続を取る!」
「うん」
「でも行政書士は、差押えの申立代理はできない!」
片桐所長が頷きました。
「必要なら、直ちに弁護士へつなぐ」
「はい!」
私は赤線を引きました。
――物上代位は、払渡し前の差押えが重要。
「もっとも」
私は少し考えました。
「抵当権者が物上代位できるのは、火災保険金だけじゃありませんよね」
「ほう」
「不動産の売却代金や賃料債権なども、要件に応じて問題になります」
「そうだ」
抵当不動産の価値が、別のものに変わる。
その新しい価値を、担保権が追いかける。
ただし。
どんなお金でも自由に差し押さえられるわけではありません。
債権の性質。
物上代位の対象になるか。
差押えの時期。
ほかの権利者との優劣。
これらを慎重に確認する必要があります。
「先輩」
「何だ」
「物上代位って、すごく執念深いですね」
「執念?」
「不動産がなくなっても、その価値を追いかけるんですよ!」
「お前の言い方だと、借金取りの幽霊だな」
「抵当権の幽霊!」
「変な名前つけんな」
私は笑いました。
でも。
この性質を知らなければ。
火災で担保不動産がなくなったとき、抵当権者は自分の債権を守る機会を失いかねません。
物上代位性は。
担保の価値を守るための、重要な仕組みなのです。
◇
「次は登記です!」
私はノートをめくりました。
――抵当権の対抗要件。
民法百七十七条。
「抵当権は、不動産に関する物権です」
「そうだ」
「だから、第三者に対抗するには、原則として登記が必要になります」
私は、杉浦ハルさんの事件を思い出しました。
黒田金融の抵当権。
登記は確かにありました。
でも。
貸金債権は完済されていた。
「ここが面白いですね」
「何がだ」
「登記があっても、被担保債権が消えていたら、その登記だけで抵当権を復活させることはできません」
「そうだ」
「一方で、抵当権が実体上成立していても、登記がなければ第三者に対抗できない問題が生じる」
私は二つを分けて書きました。
権利の成立・存続。
第三者に対する対抗要件。
「つまり、登記がすべてじゃない。でも、登記を軽く見てもいけないんですね」
片桐所長が頷きました。
「登記は、不動産取引の安全を支えるものだ」
「はい!」
そして。
登記が重要になる場面が、もう一つあります。
それが。
抵当権の順位です。
「先輩、問題です!」
「またか」
「同じ土地に、抵当権が二つあります!」
「うん」
「第一順位が三百万円!」
「うん」
「第二順位が百万円!」
「うん」
「土地が競売で三百五十万円になったら、どうなりますか?」
相馬先輩が答えました。
「ほかに考慮する費用や優先する権利がないとして、一番が三百万円を回収する」
「はい!」
「残りの五十万円が二番に回る」
「正解です!」
私は数字を書きました。
競売代金。
三百五十万円。
第一順位。
三百万円。
第二順位。
残り五十万円。
「でも、第二順位の債権は百万円ですよね」
「ああ」
「だから、五十万円が回収できずに残ります」
抵当権は、担保不動産の価値から優先弁済を受ける権利。
けれど。
土地の価値が足りなければ、全額を回収できるとは限りません。
「順位って、ものすごく重要ですね」
「だから登記の前後を確認するんだ」
民法三百七十三条。
同一の不動産について複数の抵当権が設定された場合、その順位は登記の前後によります。
ここで私は、もう一つの疑問を思いつきました。
「先輩」
「何だ」
「第一順位の抵当権が消えたら、第二順位は?」
「順位が上がる」
「ですよね!」
私はノートに書きました。
第一順位抵当権が消滅。
第二順位抵当権が、第一順位へ繰り上がる。
「でも今回の黒田金融は……」
「どうだった?」
「二番抵当権でした。でも、貸金債権を完済していたから、黒田の抵当権そのものも消滅していました!」
「そうだ」
「だから、一番抵当権が消えたからといって、黒田の消滅した抵当権が復活するわけではない」
相馬先輩が頷きました。
「よく覚えてるじゃねえか」
「えへへ」
私は少し得意になりました。
ただし、順位にはもう一つ重要な仕組みがあります。
民法三百七十四条。
抵当権の順位の変更。
「先輩、第一順位と第二順位の抵当権者が、お互いに順位を入れ替えようって合意したら?」
「できる場合がある」
「はい!」
抵当権の順位は、各抵当権者の合意によって変更できます。
ただし。
利害関係人がいる場合には、その承諾が必要です。
そして。
順位の変更は、登記をしなければ効力が生じません。
「ここ、普通の抵当権設定の登記と違うんですよね」
「何がだ?」
「一般に抵当権の設定登記は第三者への対抗要件として問題になります。でも、順位変更の登記は、効力を生じさせるために必要なんです!」
片桐所長が頷きました。
「よく区別しておけ」
「はい!」
私は赤線を引きました。
登記には。
第三者に対抗するためのもの。
権利変動の効力を生じさせるためのもの。
その違いがある。
ただ「登記が必要」とだけ覚えると、問題を間違えてしまうのです。
◇
「次は、抵当権の効力がどこまで及ぶかです!」
私は、机の上の柿を見ました。
ハルさんからいただいた柿。
今朝、相馬先輩が一つ食べてしまいました。
「先輩」
「何だ」
「抵当権って、土地に生えている柿の木にも及びますか?」
「普通は土地に付加して一体となった物として問題になるな」
「はい!」
民法三百七十条。
抵当権は、原則として、抵当不動産に付加して一体となっている物にも及びます。
たとえば。
土地に植えられた木。
土地と一体となった庭石。
建物に取り付けられた扉。
窓。
これらが典型的な例です。
「でも、先輩」
「何だ」
「土地に抵当権が設定されたら、その上の家も全部抵当権の対象になるんですか?」
「ならねえ」
「そうですよね!」
ここ。
杉浦ハルさんの事件で、黒田金融が利用しようとした部分です。
土地に抵当権が設定されている。
だから、建物まで当然に担保の対象になる。
これは間違いです。
民法三百七十条にも、抵当地の上に存する建物を除くという趣旨が明記されています。
土地と建物は、それぞれ独立した不動産。
したがって。
土地に抵当権を設定しただけでは、通常、その建物にまで抵当権が設定されたことにはなりません。
「ただし!」
私は声を上げました。
相馬先輩が眉をひそめます。
「また何だ」
「土地が競売された場合に、建物をそのまま使い続けられるかは、別問題ですよね」
「そうだ」
土地と建物が別々の所有者に帰属することになった場合。
法定地上権が成立するか。
借地権などの権原があるか。
そうした問題が出てきます。
「だから、土地にしか抵当権がないから絶対に家は安全、という話でもありません」
「そのとおりだ」
私は頷きました。
黒田金融の明渡し要求がおかしかったのは、単に建物に抵当権がなかったからだけではありません。
そもそも。
被担保債権が完済されていた。
抵当権の実行による競売手続も行われていなかった。
黒田金融が土地や建物を所有しているわけでもなかった。
その全部が重要だったのです。
◇
「さて、こはる」
片桐所長が声をかけました。
「はい」
「今度は、利息だ」
……利息。
私は少し緊張しました。
民法三百七十五条。
受験生にとって、ちょっと嫌な条文です。
「先輩!」
「何だ」
「抵当権は元本だけを担保するんですか?」
「いや、利息も担保する」
「はい!」
私はノートに書きました。
元本。
利息。
その他、法律上担保される範囲の債権。
ただし。
重要なのは、利息などの優先弁済の範囲です。
「原則として、満期となった最後の二年分ですね」
「そうだ」
「これ、最初は意味が分からなかったんですよ」
私は苦笑しました。
最後の二年分。
最後って、いつの最後?
それ以前の利息は、消えてしまうの?
私は受験勉強を始めた頃、何度も首をかしげました。
「所長」
「何だ」
「なぜ二年分なんですか?」
片桐所長は静かに答えました。
「後順位の抵当権者など、ほかの債権者を保護するためだ」
私は頷きました。
なるほど。
第一順位の抵当権者が、長年たまった利息をすべて優先回収できるとしたら。
後順位の債権者は、担保不動産からいくら回収できるのか、ますます見通しが立たなくなります。
そこで。
利息などについては、一定の範囲に優先弁済を制限する仕組みがある。
「つまり」
私は言いました。
「最後の二年分というのは、利息債権そのものが二年分しか存在しないという意味ではないんですね」
「そうだ」
「ほかの債権者との優先関係で問題になる」
相馬先輩が頷きました。
「それ以前の利息を請求する権利と、抵当権によって優先的に回収できる範囲を混同するな」
「はい!」
そして。
民法三百七十五条には、一定の特別な登記をした場合の取扱いも定められています。
私はノートに二重線を引きました。
――最後の二年分は、優先弁済の範囲の問題。
「それから先輩」
「何だ」
「遅延損害金も問題になりますよね」
「ああ」
債務不履行による損害賠償についても、法律上、抵当権による担保の範囲に制限があります。
利息などと損害金を合わせ、二年分の枠をどう考えるかが重要です。
「つまり、利息二年分と遅延損害金二年分を別々に足して、合計四年分になるわけではありません」
「そういうことだ」
私は頷きました。
ここも。
ただ数字を丸暗記するだけでは危険です。
なぜ二年なのか。
誰を保護するためなのか。
それを理解しておけば、忘れにくくなります。
◇
「最後は、抵当権の侵害です!」
私はノートの新しいページを開きました。
「先輩、こんな場合はどうなりますか?」
「何だ」
「借金をした人が、返済期限までまだ半年あるからって、担保に入れた家をわざと壊し始めたら」
相馬先輩が新聞を置きました。
「おいおい」
「屋根を外して、柱を抜いて、使える木材を売ってしまうんです」
「そりゃ担保がなくなるな」
「そうなんです!」
私は六法を開きました。
民法百三十七条。
期限の利益の喪失。
その二号。
債務者が担保を滅失させ、損傷させ、又は減少させたとき。
「つまり」
私は言いました。
「債務者が担保を損なう行為をした場合、返済期限まで待ってもらえるという利益を主張できなくなる場合があります!」
「そうだ」
期限の利益。
これは、約束した期限まで支払わなくてよいという利益です。
たとえば。
百万円を来年返せばよいという契約なら。
債務者は、原則として来年の期限まで支払いを待ってもらえます。
でも。
担保を故意に壊してしまえば?
債権者は、回収のための担保を失う危険があります。
「そんな場合まで、期限まで待てというのは不公平ですよね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
ただし、民法百三十七条二号は債務者による担保の毀損などを問題にする規定です。
物上保証人や第三者の行為を、何でもそのまま債務者の行為と同じに扱えるわけではありません。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「全然関係ない第三者が、抵当不動産を壊したら?」
「抵当権の侵害が問題になるな」
抵当権者には、担保価値を守る利益があります。
そのため。
第三者が抵当不動産の価値を不当に低下させた場合、要件によっては、抵当権に基づく妨害排除請求や、不法行為に基づく損害賠償請求が認められることがあります。
「ただし、所有者が建物を普通に使ったり修繕したりすることが、全部抵当権侵害になるわけじゃありません」
「当然だ」
「抵当権は、設定者の使用収益を認める担保物権ですからね」
私は頷きました。
抵当権者が守れるのは、担保価値に対する法的な利益。
土地や建物を、自分の好きなように支配する権利ではありません。
ここでもまた。
所有権と抵当権を区別する必要があるのです。
◇
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私はここまでのノートを見直しました。
抵当権の定義。
物上保証人。
付従性。
随伴性。
物上代位性。
登記。
順位。
付加一体物。
利息の範囲。
抵当権侵害。
「……すごい」
私は思わず呟きました。
相馬先輩が顔を上げます。
「何がだ」
「これ、昨日までは全部ばらばらの暗記事項だったんです」
「うん」
「でも、杉浦ハルさんの事件を思い出すと、全部つながります」
私はノートを指差しました。
「ハルさんは物上保証人」
「うん」
「黒田金融は抵当権者」
「うん」
「百万円の貸金債権が被担保債権」
「うん」
「完済したから、付従性で抵当権消滅」
「うん」
「でも、登記は残っていた」
「そうだ」
「しかも黒田金融は二番抵当権者で、土地にしか抵当権がなかった」
「うん」
「それなのに、家まで明け渡せと脅した」
相馬先輩が頷きました。
「だから、あの通知はおかしかったんだ」
「はい!」
私は笑いました。
難しい民法の条文が。
ちゃんと、人の暮らしにつながっている。
そのことが、少し嬉しかったのです。
「ところで」
私は六法を見ました。
「今回、昭和六十三年と現代で、大きな違いってあるんですか?」
相馬先輩が怪訝な顔をしました。
「何の話だ?」
「あ、いえ……」
しまった。
また未来の民法の話をしそうになりました。
でも。
ここは気になるところです。
現代の民法。
そして、昭和六十三年の民法。
抵当権の基本的な仕組みは、実は大きく変わっていません。
占有を移転しないこと。
優先弁済を受けること。
付従性。
随伴性。
物上代位性。
これらの基本原理は、昔から続いています。
一方。
細かな条文や制度は、後の改正で変わっています。
「そうだ!」
私は突然、思い出しました。
「先輩、果実です!」
「柿ならもう食ったぞ」
「その果実じゃありません!」
私は六法を開きました。
抵当権の効力と果実。
民法三百七十一条。
ここに、時代の違いがありました。
「昭和六十三年の三百七十一条は、現在と同じ文章じゃないんですよね」
私は当時の条文を確認しました。
旧民法三百七十一条は、抵当権の効力が果実に及ぶ場面を、抵当不動産の差押えなどとの関係で定めていました。
一方。
現代の三百七十一条では、被担保債権について不履行があったときは、その後に生じた抵当不動産の果実に及ぶとされています。
「つまり、後の法改正で、果実に関する規定の置き方が変わるんですね」
相馬先輩が顔をしかめました。
「お前は、どこの時代の話をしてるんだ」
「あっ!」
私は口を押さえました。
「い、いえ、法改正の研究です!」
「昭和六十三年の実務を先に覚えろ」
「はい……」
危ない。
また未来人の知識が漏れるところでした。
抵当権の基本原理は昔も今も共通しています。
けれど、細部の条文や実行制度には改正があります。
特に平成十五年の担保・執行法制の改正では、抵当権の実行や不動産の利用関係について重要な見直しが行われました。
そして。
令和二年施行の債権法改正。
こちらは契約や債権に関する大きな改正です。
「先輩」
「何だ」
「今の時代の民法は、契約についても古い言葉がたくさんありますよね」
「ああ?」
「たとえば、瑕疵担保責任とか」
「当たり前だろ」
「これも将来、契約不適合責任という考え方に整理されるんです」
「何だ、その言葉は」
「……いえ、忘れてください!」
「お前、本当にどこの六法読んでるんだ?」
私は慌てて笑いました。
抵当権そのものの根幹が、令和二年にすべて別物になったわけではありません。
でも。
被担保債権の内容。
債権譲渡。
時効。
保証。
そうした周辺の制度には、時代による違いがある。
だから、昭和の法律を使って事件を考えるときには、当時の条文を確かめる必要があるのです。
◇
「よし」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい!」
「確認問題だ」
来ました。
恒例の、所長試験です。
「抵当権とは何だ」
「占有を移転しないで担保に供した不動産などについて、他の債権者に先立って優先弁済を受ける権利です!」
「物上保証人とは」
「他人の債務のために、自分の財産を担保として提供する人です!」
「物上保証人は、当然に債務者と同じ支払義務を負うか」
「負いません! 別途保証債務などを負っていなければ、担保に提供した財産について責任を負うのが基本です!」
「付従性とは」
「被担保債権の存在や消滅に、抵当権が従う性質です!」
「随伴性とは」
「被担保債権の移転に伴って、抵当権も移転する性質です!」
「物上代位性とは」
「担保目的物の価値が保険金請求権など別の形になったとき、一定の要件でその価値にも権利を行使できる性質です!」
所長が頷きました。
「物上代位で注意することは」
「払渡し前の差押えです!」
「抵当権の対抗要件は」
「原則として登記です!」
「順位は」
「登記の前後です!」
「利息は」
「他の債権者との優先関係では、原則として満期となった最後の二年分です!」
所長が頷きました。
「よし」
私は拳を握りました。
やった!
抵当権の基本。
今なら答えられます。
「じゃあ、俺からも一問」
相馬先輩が口を挟みました。
「はい!」
「抵当権のついた家が火事になった。保険金が出る。抵当権者は何を考える?」
「物上代位です!」
「保険会社が金を払う前に?」
「差押えです!」
「よし」
「次!」
「まだやるのかよ」
「勉強です!」
私は笑いました。
相馬先輩が呆れた顔で言いました。
「じゃあ、最後だ」
「はい!」
「土地に抵当権が設定された。土地の所有者が庭で柿を育ててる。抵当権者は、勝手に柿を取って食っていいか?」
「駄目です!」
「なぜだ?」
「抵当権は、抵当権者に土地の占有や使用収益を当然に認める権利ではないからです!」
「よし」
私は満足げに頷きました。
すると。
相馬先輩が、机の上の柿を一つ取りました。
「じゃあ、これは食っていいか?」
「それはハルさんからいただいた柿なので、いいです!」
「そうか」
先輩は皮をむき始めました。
私は少し考えました。
「……でも先輩」
「何だ」
「ハルさんからいただいた柿って、事務所の誰の所有物なんでしょう?」
「は?」
「所長ですか? 事務所ですか? 私たち三人の共有ですか?」
相馬先輩が固まりました。
片桐所長は、何も言いません。
私は笑顔で続けました。
「贈与契約の相手方が誰だったか、意思表示を確認しないと!」
「……こはる」
「はい!」
「お前、柿一つで民法の論点増やすな!」
「だって、気になります!」
「食いづれえだろ!」
私は笑いました。
民法。
本当に、どこまでもつながっています。
◇
窓の外。
夕暮れの町に、少しずつ明かりが灯っていました。
私はノートの最後のページを開きました。
今日の一行。
これだけは、絶対に忘れない言葉。
少し考えて。
鉛筆を走らせました。
――抵当権は「占有せずに優先弁済」。付従性は生死を共にし、随伴性は移転についていき、物上代位は価値を追いかける。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長えな」
「一行です!」
「長い一行だな」
「大事なことを全部入れたんです!」
所長が静かに頷きました。
「悪くない」
「本当ですか!」
「ああ」
私は嬉しくなりました。
そして。
ノートを閉じる前に、もう一度、杉浦ハルさんのことを思い出しました。
息子のために、自分の土地を担保に入れたおばあさん。
借金は、全部返されていた。
それなのに。
登記が残っていることを利用され、家を出ていけと脅された。
でも。
民法は、そんな理不尽を認めていなかった。
借金が消滅すれば、通常の抵当権も消滅する。
抵当権があるからといって、所有権まで移るわけではない。
物上保証人だからといって、無制限に借金を背負うわけでもない。
法律は。
貸した人だけを守る仕組みではありません。
借りた人。
担保を提供した人。
後順位の債権者。
そして、不動産を利用する人。
それぞれの利益を、調整するための仕組みでもあるのです。
「所長」
「何だ」
「私、抵当権って、最初は怖い制度だと思ってました」
「そうか」
「はい。でも、今は少し違います」
私は窓の外を見ました。
「抵当権があるから、貸す人は安心してお金を貸せる」
「うん」
「借りる人も、不動産を明け渡さずに資金を調達できる」
「そうだ」
「でも、その権利を使える範囲には、ちゃんと法律上の限界がある」
所長は頷きました。
「それが担保制度だ」
私は微笑みました。
ああ。
そういうことなんですね。
抵当権は、誰かの家を奪うために生まれた制度ではない。
お金を貸す人と借りる人が、安心して取引できるようにする仕組み。
そして。
その仕組みを悪用する人が現れたとき。
法律は、どこまでが正当な権利なのかを、はっきり示してくれる。
だから。
条文を知ることには、意味があるのです。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「明日の朝、法務局に行ってこい」
「え?」
「別件の書類を受け取ってきてくれ」
「はい!」
「ついでに郵便局にも寄れ」
「分かりました!」
「それから、帰りに煙草を――」
「先輩!」
「何だ」
「煙草は業務じゃありません!」
「細けえな」
私は腕を組みました。
「しかも先輩!」
「まだあるのか」
「私に何でも頼める権利があると思ったら大間違いです!」
相馬先輩がにやりとしました。
「ほう」
「私の労働力には抵当権を設定できません!」
「誰が設定するって言った!」
「不動産でも地上権でも永小作権でもありませんから!」
「知ってるよ!」
私は得意げに笑いました。
すると。
片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい!」
「明日の法務局は頼む」
「はい!」
「郵便局も」
「はい!」
「それから」
「はい!」
「柿の残りは、三人で分けよう」
私は目を丸くしました。
「所長!」
「何だ」
「それって、所有権の問題を解決するためですか?」
所長は少し考えました。
そして。
「いや」
「え?」
「仲良く食べるためだ」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな、こはる!」
「何ですか!」
「法律を持ち出さなくても済むことはあるんだよ!」
私は頬を膨らませました。
「……それはそうですけど」
でも。
ちょっと嬉しくなりました。
法律は。
何でも争いにするためにあるわけではない。
争わずに済むように。
安心して約束できるように。
誰かの財産を、勝手に奪われないように。
そこにあるのです。
私はノートを閉じました。
――抵当権は「占有せずに優先弁済」。付従性は生死を共にし、随伴性は移転についていき、物上代位は価値を追いかける。
これなら、忘れません。
あの柿の木を思い出せばいい。
借金のために担保に入れた土地。
でも、借金は完済した。
だから、抵当権も役目を終えた。
そして。
七十二歳のおばあさんは、今日もその土地で暮らしている。
亡くなったご主人が植えた柿の木を眺めながら。
秋が来れば。
また、実を収穫するのでしょう。
その当たり前の暮らしを守るために。
民法三百六十九条から始まる、あの長い条文たちは存在している。
そう思うと。
少しだけ。
抵当権の難しい言葉たちが、優しく見えました。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「柿、食うぞ!」
「今行きます!」
「早くしろ!」
「先輩!」
「何だ!」
「柿を食べたら、抵当権の復習問題をもう一問お願いします!」
「まだやるのかよ!」
「次は法定地上権です!」
「話が広がりすぎだ!」
……なるほど。
抵当権を勉強していると。
次から次へと、知らない法律問題が出てきます。
でも。
今なら、少しだけ楽しみです。
だって。
難しい条文の向こうには。
きっとまた。
誰かの家がある。
誰かの財産がある。
誰かの暮らしがある。
そして。
その暮らしを守るために、法律は今日も働いているのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
民法の勉強は、まだまだ続きます。
ただし。
次から抵当権の問題を見たら、私は最初にこう考えることにします。
――その抵当権は、誰の、どんな債権を守るために存在しているのか。
そこから始めれば。
どんなに複雑な担保物権の問題でも。
きっと、道筋が見えてくるはずです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




