[民法・抵当権]現場編 「借金は息子のものでも、家は取り上げる」の罠。母の土地を狙う悪徳金融業者と、登記簿に隠された百万円の真実
家を担保に入れることと、家を明け渡すことは、同じではありません。
借金のために土地を差し出しても。
そこに住み続けることはできます。
畑を耕すことも。
庭の柿を収穫することも。
玄関に花を飾ることも。
できます。
けれど。
ある日、見知らぬ男がやって来て、こう言ったら。
「息子さんの借金の担保になっている土地です。もう、あなたの家ではありません」
あなたは、どうしますか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、民法三百六十九条が、単なる金融取引のための条文ではないことを知ります。
抵当権。
借金を返してもらうために、不動産を担保にする権利。
そして。
それを悪用すれば。
他人の人生を丸ごと奪い取ることもできる、恐ろしい仕組みだったのです。
◇
「この家を出ていけって言われたんです」
朝九時。
事務所の扉を開けた女性は、そう言いました。
七十二歳。
名前は、杉浦ハルさん。
小柄な体に、紺色の割烹着。
手には、古い風呂敷包み。
その目は、赤く腫れていました。
「家を、ですか?」
私が椅子を勧めると、ハルさんは深く頭を下げました。
「息子が借金をしたんです」
「借金……」
「百万円です」
百万円。
昭和六十三年。
決して小さな金額ではありません。
「息子さんは何をされているんですか?」
「町工場をやっています。金属の部品を作る、小さな工場です」
ハルさんは膝の上で手を握りました。
「去年、機械が壊れましてね。新しい旋盤を買わないと、仕事が続けられないって」
「それで百万円を借りたんですね」
「はい」
「誰からですか?」
「黒田金融というところです」
その名前を聞いた瞬間。
相馬先輩が新聞を下ろしました。
「……黒田?」
「ご存じですか?」
私が尋ねると、先輩は顔をしかめました。
「駅南の黒田金融か」
「はい」
「ろくな噂を聞かねえな」
嫌な予感がしました。
ハルさんは風呂敷から一枚の紙を取り出しました。
そこには、大きな文字でこう書かれていました。
――抵当不動産処分予告通知。
私は息を呑みました。
「処分?」
「昨日、黒田さんが家に来て……」
ハルさんの声が震えました。
「息子が金を返さないから、お前の土地を売るって」
「そんな……」
「家も取り壊して、土地を更地にするって」
私は書面を読みました。
――債務者杉浦正一に対する貸付金百万円について、貴殿所有の土地には当社を抵当権者とする抵当権が設定されている。
――債務の不履行により、当社は本件抵当不動産の処分を予定している。
――ついては、十日以内に建物を明け渡し、敷地内の立木その他一切の物件を撤去されたい。
……。
待ってください。
これ。
おかしくありませんか?
「ハルさん」
「はい」
「息子さんの借金のために、ご自分の土地を担保に入れたんですか?」
「そうです」
「その土地は、ハルさんの名義ですか?」
「はい。主人から相続した土地です」
「息子さんの名義ではないんですね」
「はい」
私は頷きました。
なるほど。
これは。
物上保証人。
自分は借金をしていないのに、他人の借金の担保として自分の財産を提供する人です。
でも。
それだけなら、法律上はあり得る話です。
問題は、ここからでした。
「ところで、息子さんは本当に返済していないんですか?」
私が尋ねると。
ハルさんは、突然、顔を上げました。
「違うんです!」
「え?」
「あの子、もう返したんです!」
……はい?
「返した?」
「はい!」
「百万円を?」
「全部です!」
私は相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ています。
「……どういうことだ?」
相馬先輩が低い声で言いました。
ハルさんは風呂敷から、もう一つの包みを取り出しました。
古い封筒。
その中には。
何枚もの領収書が入っていました。
◇
「これが、息子が毎月持ってきたものです」
私は領収書を机に並べました。
一万円。
三万円。
五万円。
十万円。
支払った日付。
黒田金融の社判。
受領担当者の印。
そして。
一番最後の領収書。
そこには。
――元本残額 零円。
と書かれていました。
「……あれ?」
私は目を瞬かせました。
「元本、ゼロですよね」
「そうなんです」
「でも、利息が残っている可能性は……」
「息子が全部払ったと言っていました」
相馬先輩が手を伸ばしました。
「貸金契約書はあるか?」
「はい」
「返済予定表は?」
「あります」
「全部出してくれ」
ハルさんは次々に書類を並べました。
借用証書。
返済予定表。
領収書。
そして、最後の一枚。
――本件貸付金に係る元利金全額を受領したことを確認する。
黒田金融株式会社。
代表取締役。
黒田源蔵。
会社印。
……。
「先輩」
「何だ」
「これ、完済証明ですよね?」
「そう読めるな」
「じゃあ、抵当権は?」
相馬先輩は私を見ました。
「お前、何だと思う?」
私は勢いよく答えました。
「消滅してます!」
先輩が頷きました。
「理由は?」
「被担保債権が消滅したからです!」
そうです。
抵当権には、付従性があります。
借金という債権を担保するために存在する権利。
その借金が全部消滅すれば、通常の抵当権も消滅する。
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「だが、問題が一つ残る」
「何ですか?」
「登記だ」
……登記?
私は首をかしげました。
「抵当権は、借金を返せば消えるんですよね?」
「法律上はな」
「じゃあ……」
「登記簿に記載が残っていたら、どうする?」
あ。
私は気づきました。
「抹消登記!」
「そうだ」
片桐所長が奥から出てきました。
「こはる」
「はい!」
「権利が消滅することと、登記簿から記載が消えることは、別の問題だ」
私は頷きました。
そうでした。
借金を返せば、抵当権そのものは付従性によって消滅します。
でも。
登記簿の抵当権の記載が、自動的に消えるわけではありません。
登記を消すためには、別途、手続が必要です。
「ハルさん」
所長が尋ねました。
「抵当権の抹消登記は、済ませましたか?」
「まっしょう……?」
ハルさんは困った顔をしました。
「そんなことは、何も……」
「黒田金融から、登記を消すための書類は受け取りましたか?」
「いいえ」
「なるほど」
所長は領収書を見つめました。
「相馬。登記簿を確認しろ」
「はい」
「こはるも一緒に行け」
「はい!」
こうして。
私たちは法務局へ向かうことになりました。
ただし。
昭和六十三年。
インターネットで登記事項証明書を請求することなど、できません。
スマートフォンもありません。
オンライン登記申請もありません。
法務局へ足を運び、紙の登記簿を確認する時代です。
「……昭和って不便ですね」
私が呟くと、相馬先輩が振り返りました。
「何だ?」
「あ、いえ!」
「不満があるなら走れ」
「走っても登記簿は早く出てきません!」
「口だけは達者だな」
私は小走りで先輩を追いかけました。
◇
法務局。
窓口で手続を済ませ、登記簿謄本を確認した私たちは、思わず顔を見合わせました。
「……先輩」
「ああ」
「これ」
「面白えことになってんな」
登記簿には、確かに黒田金融の抵当権がありました。
しかし。
それは一番ではなかったのです。
第一順位。
浜名信用金庫。
債権額三百万円。
第二順位。
黒田金融。
債権額百万円。
私は登記簿を指差しました。
「黒田金融って、二番抵当権者なんですね」
「そうだ」
「一番抵当権は、信用金庫」
「そういうことだ」
抵当権は、登記の前後によって順位が決まります。
同じ土地に抵当権が二つあれば。
原則として、先に登記された一番抵当権者が優先して弁済を受ける。
二番抵当権者は、その後です。
つまり。
黒田金融は、そもそも一番手ではありません。
ただし。
「先輩」
「何だ」
「二番抵当権でも、競売を申し立てることはできますよね?」
「できる」
「じゃあ、順位が二番だから安心、とは言えませんね」
「そのとおりだ」
相馬先輩が頷きました。
「一番がいるから二番は何もできない、なんて思うな。問題は、担保される債権が本当に残っているかだ」
私は領収書の束を見ました。
黒田金融の貸金。
百万円。
元利金全額受領。
そして。
登記簿には、今も抵当権。
「……なるほど」
私は呟きました。
黒田金融は、借金が完済されたことを知っているはずです。
なのに。
登記が残っている。
それを利用して。
七十二歳のおばあさんを脅している。
私は拳を握りました。
「許せません!」
「怒るのは後にしろ」
「でも!」
「こはる」
相馬先輩が登記簿を指差しました。
「もう一つ見ろ」
「何ですか?」
「抵当権の目的物だ」
私は記載を読みました。
土地。
湖西市某町字柿ノ木。
宅地。
二百八十平方メートル。
「土地ですね」
「建物は?」
「あれ?」
私は登記簿を見直しました。
そこに記載されている抵当権の目的物は、土地だけでした。
「……家は?」
「別だ」
「え?」
「土地と建物は、別個の不動産だろ」
あ。
そうです。
民法では、土地と建物は別々の不動産です。
土地に抵当権を設定したからといって、当然にその上の建物まで抵当権が及ぶわけではありません。
「じゃあ……」
私は通知書を取り出しました。
――建物を明け渡し、敷地内の立木その他一切の物件を撤去されたい。
「この通知、おかしいですよね」
「おかしいな」
「建物には抵当権が設定されていません」
「そうだ」
「しかも競売すら始まっていないのに、いきなり明渡しを要求しています」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「何が『十日以内に出ていけ』だ」
私は思わず頷きました。
抵当権とは。
担保不動産を占有しなくても、優先弁済を受けられる権利。
だから。
抵当権を設定した人は、原則として、そのまま不動産を使用し続けることができます。
債務不履行があれば、抵当権者は競売などの法的手続を通じて担保価値から回収を図る。
でも。
抵当権者になった瞬間から、不動産の所有者になるわけではありません。
「先輩!」
「何だ」
「これ、完全に抵当権を勘違いさせようとしてます!」
「そうだな」
「抵当権があるから、土地も家も全部自分のものだって!」
「それを信じる奴がいるから、こういう商売が成り立つんだ」
私は唇を噛みました。
ハルさん。
七十二歳。
夫と暮らした家。
庭の柿の木。
息子が育った場所。
それを。
借金の担保になっているというだけで。
勝手に奪えると思っている。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「今日の敵は、条文を知らねえ素人じゃない」
「はい」
「条文を都合よく使って、人を怖がらせる奴だ」
私は頷きました。
そして。
その日の午後。
黒田金融の社長本人が、事務所に現れたのです。
◇
「行政書士が何の用だ?」
扉を開けて入ってきた男は、開口一番、そう言いました。
黒田源蔵。
五十二歳。
濃紺の背広。
太い金の腕時計。
よく磨かれた革靴。
そして。
相手を見下すような笑み。
「杉浦の婆さんが、ここに相談したんだってな」
私は椅子から立ち上がりました。
「相談内容については、本人の承諾なくお答えできません」
「へえ」
黒田は笑いました。
「小娘が法律家気取りか」
……小娘。
言いましたね。
「私は見習いです」
「だろうな」
「でも、法律は勉強しています」
「勉強と商売は違うんだよ」
黒田は机に指を置きました。
「こっちは金を貸したんだ。担保も取った。登記まで済ませてある」
「……はい」
「なら、土地を処分する権利があるだろ」
「債権が残っていて、抵当権を実行できる場合には、法律上の手続があります」
「面倒くせえことを言うな」
黒田は鼻で笑いました。
「登記簿を見りゃ分かる。抵当権者は俺だ」
そのとき。
片桐所長が静かに言いました。
「登記が残っていることと、被担保債権が残っていることは、同じではありません」
黒田の笑みが、少し薄れました。
「何?」
所長はそれ以上、説明しません。
黒田は舌打ちしました。
「どっちにしろ、抹消登記してねえだろ」
「……」
「だったら、こっちの権利は残ってるんだよ」
私は思わず言いました。
「違います!」
黒田がこちらを見ました。
「何が違う」
「抵当権は、担保する債権に従って存在するものです!」
「だから何だ」
「貸金債権が弁済によって全部消滅したなら、原則として抵当権も消滅します!」
黒田は黙りました。
私は続けました。
「登記の記載が残っているからといって、消滅した抵当権が復活するわけではありません!」
「……ほう」
黒田の目が細くなりました。
「じゃあ、裁判でもするか?」
私は言葉に詰まりました。
「婆さんに弁護士を雇う金があるのか?」
「それは……」
「訴えるなら訴えろよ。俺には顧問弁護士がいる」
黒田は笑いました。
「行政書士なんかに何ができる」
……。
悔しい。
ものすごく、悔しい。
でも。
ここで私が相手の代理人として交渉を始めるわけにはいきません。
行政書士は、弁護士ではないのです。
「黒田さん」
相馬先輩が口を開きました。
「何だ」
「今日のご発言は、記録しておきます」
「勝手にしろ」
「それだけです」
先輩は立ち上がりません。
「当事務所が紛争の代理交渉をお引き受けすることはありません。書類作成のご相談があれば、依頼人ご本人の意思を確認して対応します」
「はっ」
黒田は鼻で笑いました。
「結局、何もできねえんじゃねえか」
そう言って、扉へ向かいました。
そして。
最後に、振り返ります。
「婆さんに伝えとけ」
低い声でした。
「十日後には、あの土地を取り上げるってな」
扉が閉まりました。
私は拳を握りました。
「……最低です」
「ああ」
相馬先輩が答えました。
「先輩!」
「何だ」
「このまま帰していいんですか!」
「何をする気だ」
「民法三百六十九条を突きつけます!」
「口でか?」
「……」
「こはる」
先輩は煙草を取り出しました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は黙りました。
「相手は、登記が残ってることを武器にしてる」
「はい」
「じゃあ、こっちは何を武器にする?」
私は机の上を見ました。
貸金契約書。
返済予定表。
領収書。
元利金全額受領の確認書。
そして。
登記簿謄本。
「……証拠です」
「そうだ」
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「内容証明の原案を作れ」
「はい!」
「ただし」
「はい」
「相手の言い分を感情で否定するな」
所長は黒田が座っていた椅子を見ました。
「法律で、否定しろ」
◇
その日の夕方。
事務所の机には、書類の山ができていました。
私はまず、貸金契約書を読み直しました。
貸主。
黒田金融。
借主。
杉浦正一。
借入金額。
百万円。
担保。
杉浦ハル所有土地。
「……所長」
「何だ」
「抵当権を設定したのはハルさんですよね」
「そうだ」
「でも、借金をしたのは息子さんです」
「そうだ」
「じゃあ、ハルさんは借金そのものを返す義務があるんですか?」
所長は顔を上げました。
「保証契約はあるか」
「……え?」
「ハルさん自身が、債務を保証すると約束した書面だ」
私は契約書を確認しました。
何度も。
最初から最後まで。
「……ありません」
「なら、どうなる」
私は考えました。
物上保証人。
他人の借金のために、自分の財産を担保に提供する人。
つまり。
債務者本人ではない。
通常の保証人とも違う。
「あっ!」
私は顔を上げました。
「ハルさんは、自分の土地を担保に提供しただけです!」
「うん」
「だから、別に保証債務を負う約束をしていない限り、息子さんの借金を自分の財産全部で返す義務があるわけではありません!」
相馬先輩が頷きました。
「そのとおりだ」
私は興奮しました。
「つまり、物上保証人は、担保に入れた財産を失う危険は負う。でも、当然に借金全額の個人的な支払義務まで負うわけじゃない!」
「そういうことだ」
「じゃあ、黒田が『婆さんにも百万円払わせる』って言い出したら……」
「保証契約その他の根拠を確認しろ」
私は頷きました。
なるほど。
債務者。
抵当権設定者。
物上保証人。
抵当権者。
似たような言葉が並びます。
でも。
誰が借金を負っているのか。
誰が担保を出したのか。
誰が回収する権利を持っているのか。
全部、違うのです。
「ただし」
所長が言いました。
「担保に入れた土地を失う危険は、本物だ」
「はい」
「物上保証人だから絶対に安心、というわけではない」
私は頷きました。
もし息子さんが借金を返していなければ。
黒田金融は、正当な抵当権を実行して土地から弁済を受ける可能性があります。
だからこそ。
抵当権は恐ろしい。
けれど。
今回のように、借金が全部返済されているなら。
話は変わります。
「先輩」
「何だ」
「私、最初に抵当権って聞いたとき、銀行からお金を借りるときの仕組みくらいに考えてました」
「まあ、そういう奴は多いな」
「でも、違いますね」
私は領収書を持ち上げました。
「これ、一つ間違えたら、人の住む家を奪うための道具になる」
相馬先輩は頷きました。
「だから、登記簿と契約書を見ろってんだ」
◇
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「黒田の通知書には、庭木を撤去しろと書いてあったな」
「はい」
「どう思う」
私は少し考えました。
「土地に抵当権が設定されているので……」
「うん」
「土地に植えられた木は、抵当権の効力が及ぶ場合があります」
「そうだ」
民法三百七十条。
抵当権の効力は、原則として抵当不動産に付加して一体となっている物にも及びます。
土地に植えられた木。
取り外しの困難な庭石。
建物なら、扉や窓。
もっとも、立木の独立した権利関係など、個別事情による例外もあります。
「でも」
私は言いました。
「だからといって、抵当権者が自由に庭木を切っていいわけではありません!」
「そうだ」
「しかも、ハルさんの家には、抵当権が設定されていません」
相馬先輩が腕を組みました。
「土地の抵当権が、当然に家の抵当権になるわけじゃねえ」
「はい」
「土地の競売が実際に行われれば、建物との権利関係に別の問題が生じることはある。だが、それと今すぐ建物を明け渡せって話は別だ」
私は頷きました。
やっと見えてきました。
黒田金融がやっていること。
それは。
抵当権の効力を、わざと大きく見せている。
本当は優先弁済を受けるための権利なのに。
土地も家も庭木も、全部自分のものになるように思わせている。
しかも。
借金は、すでに返済済み。
「……悪質ですね」
「悪質だ」
相馬先輩が答えました。
私は原案を書き始めました。
ところが。
十分後。
片桐所長が赤鉛筆を取りました。
「ここ」
「はい」
「『登記が残っていても無効だから、直ちに登記を消せ』」
「はい」
「雑だ」
「ええっ!」
「何が消滅したのか、明確にしろ」
「あ……」
「貸金債権か。抵当権か。登記か」
私は慌てて書き直しました。
貸金債権。
弁済によって消滅。
抵当権。
被担保債権の消滅に伴い、付従性により消滅。
抵当権設定登記。
なお登記簿上に残存。
したがって。
抹消登記手続への協力が必要。
「なるほど……」
「それでいい」
所長は頷きました。
「次」
「はい」
「『黒田金融は詐欺罪に該当する』」
赤線。
「……駄目ですか?」
「犯罪の成立を軽々しく断定するな」
「はい……」
「今ある資料で証明できる事実を書け」
私は消しゴムを取りました。
悔しい。
でも。
所長の言うとおりです。
怒りで書面を書くと、余計な言葉が増える。
余計な言葉が増えると、相手に反論の隙を与える。
だから。
事実。
条文。
証拠。
必要な請求。
それだけを積み上げるのです。
◇
その夜。
最後の資料を確認していたとき。
相馬先輩が、ふと顔を上げました。
「こはる」
「はい?」
「そういや、ハルさんの土地に一番抵当権があったな」
「はい。信用金庫の三百万円です」
「あれ、どうなってる?」
「え?」
「まだ借金が残ってるのか?」
私は首をかしげました。
確かに。
一番抵当権。
浜名信用金庫。
三百万円。
でも。
現在の債務残高までは、登記簿だけでは分かりません。
「確認が必要ですね」
「そうだ」
翌朝。
ハルさんの了承を得て、息子の正一さんからも事情を聞きました。
すると。
思いがけない事実が判明したのです。
「信用金庫の借金も、先月返しました」
正一さんはそう言いました。
「……え?」
私は思わず聞き返しました。
「三百万円も?」
「はい。十年かけて、ようやく」
正一さんは鞄から書類を取り出しました。
信用金庫発行の完済確認書。
確かに。
元利金完済。
抵当権抹消手続用の書類も、渡されていました。
「母には、心配かけたくなくて……」
正一さんはうつむきました。
「黒田金融の百万円も、信用金庫の三百万円も、全部返したんです」
私は書類を見つめました。
……。
これは。
重要な事実です。
信用金庫の債権。
完済。
黒田金融の債権。
完済。
ということは。
通常の抵当権である限り、どちらも担保する債権が消滅している。
「先輩!」
私は事務所に戻るなり声を上げました。
「何だ、騒々しい」
「一番抵当権も、被担保債権が消滅していました!」
「ほう」
「つまり、登記は二つ残ってるけど、借金は両方とも完済です!」
相馬先輩が頷きました。
「それで?」
「それで……」
私は少し考えました。
一番抵当権が消えれば、二番抵当権が順位を繰り上げる。
これは、抵当権の順位に関する基本です。
でも。
今回は。
「あっ」
私は顔を上げました。
「黒田金融の抵当権も、すでに消滅してる!」
「そうだ」
「だから、一番抵当権の登記を抹消しても、黒田金融の抵当権が有効な一番抵当権になるわけじゃない!」
相馬先輩が笑いました。
「やっと分かったか」
私は机を叩きました。
「つまり黒田は、順位がどうこう以前に、担保される貸金債権そのものがないんです!」
「そのとおりだ」
所長が静かに頷きました。
「こはる」
「はい!」
「今回、一番大事なものは何だ」
私は迷わず答えました。
「抵当権の登記順位ではありません」
「うん」
「担保される債権が、今も存在するかどうかです!」
所長が頷きました。
「よし」
私は嬉しくなりました。
民法。
三百六十九条。
三百七十三条。
そして。
付従性。
ばらばらだった知識が、一つの事件の中でつながった瞬間でした。
◇
三日後。
内容証明郵便が完成しました。
差出人は、杉浦ハルさん。
行政書士事務所が代理人として交渉するのではありません。
ハルさんご本人の意思を確認し、その名義で通知する書面です。
私は完成した原稿を読み上げました。
「通知書」
――通知人所有の土地に設定された、貴社を抵当権者とする抵当権について、以下のとおり通知します。
――第一。本件抵当権は、杉浦正一を債務者とする金銭消費貸借契約に基づく貸付金百万円を担保するために設定されたものです。
――第二。右貸付金については、昭和六十三年某月某日までに元利金全額の弁済が完了しており、貴社発行の受領確認書にもその旨が明記されています。
――第三。したがって、右貸金債権は弁済によって消滅しており、これを被担保債権とする本件抵当権も、付従性により消滅しています。
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「はい」
――第四。抵当権設定登記が現在なお登記簿上に残存していることは、消滅した抵当権が存続する根拠とはなりません。
――第五。本件土地について貴社が抵当権を実行する法的根拠は認められず、また、抵当権設定登記のみを理由として、本件土地の所有権や占有権を貴社が取得するものでもありません。
――第六。本件抵当権の目的物は土地であって、その上に存する建物についてまで、当然に抵当権の効力が及ぶものではありません。
私は一度、息を吸いました。
そして。
最後の部分を読みました。
――以上により、通知人は、貴社に対し、本件抵当権設定登記の抹消登記手続に必要な協力を求めます。
――併せて、貴社が通知した土地処分及び建物明渡しの要求について、その根拠を明らかにしたうえで、撤回の意思を書面により回答されたい。
――本通知後も正当な理由なく抹消登記手続への協力が得られない場合には、通知人は弁護士に相談し、抵当権設定登記抹消登記手続請求訴訟その他の適切な法的措置を検討します。
読み終わりました。
事務所は静かでした。
「……どうでしょうか」
私は恐る恐る尋ねました。
相馬先輩が原稿を受け取りました。
何度か読み返します。
そして。
「悪くねえ」
「本当ですか!」
「だが、一つ追加だ」
「何ですか?」
「証拠の特定だ」
先輩は黒田金融の受領確認書を指差しました。
「いつ、誰が、何を受領したのか」
「はい」
「日付と金額と発行名義を、書面に正確に入れろ」
「はい!」
「相手が『そんな紙は知らん』と言い出したときに、どの書類の話か曖昧にならねえようにな」
私は頷きました。
さらに所長が言いました。
「抹消登記の実際の申請は、司法書士に引き継ぐ」
「はい」
「われわれが登記申請代理をするわけではない」
「分かっています」
「訴訟が必要になれば、弁護士だ」
「はい」
所長は原稿を机に置きました。
「よし」
私は息を呑みました。
「……完成ですか?」
「ああ」
相馬先輩が言いました。
「これで、相手は何を説明しなきゃならねえ?」
私は考えました。
貸金は本当に残っているのか。
完済確認書を発行した理由は何か。
借金が消滅しているのに、なぜ抵当権を実行できると考えるのか。
抵当権しかないのに、なぜ所有権があるように振る舞うのか。
土地の抵当権なのに、なぜ家を明け渡せというのか。
そして。
なぜ七十二歳の女性に、十日以内に退去するよう要求したのか。
「……全部です」
私は答えました。
「黒田金融は、自分たちの主張の根拠を、一つずつ説明しなければなりません」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
片桐所長が静かに言いました。
「書面は、脅すために作るものではない」
「はい」
「事実を、相手が無視できない形にするために作る」
私は完成した内容証明を見ました。
難しい言葉で威嚇しているわけではありません。
感情的な文章でもありません。
ただ。
法律上、何が起きたのか。
何が残っているのか。
何が消滅したのか。
それを明確にしているだけ。
でも。
黒田金融にとっては。
この紙が、何より恐ろしいものになるはずでした。
◇
内容証明郵便が配達された翌々日。
午前十一時。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
私が受話器を取ると。
『……片桐先生は、いらっしゃいますか』
低い声。
でも。
以前のような威勢はありません。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
『黒田金融の、黒田です』
私は目を見開きました。
「少々お待ちください」
所長に受話器を渡します。
「片桐です」
『あの……内容証明の件ですが』
「はい」
『顧問弁護士に見せました』
「そうですか」
『それで……』
黒田の声が小さくなりました。
『完済確認書がある以上、貸金債権が残っていると主張するのは難しい、と』
私は息を呑みました。
『それに、抵当権の抹消に応じないまま競売なんか申し立てたら、こちらも問題になると……』
所長は黙って聞いています。
『あの、こちらとしても、そんな大事にするつもりは……』
……。
大事にするつもりはなかった?
七十二歳のおばあさんに、家を出ていけと言っておいて?
私は思わず拳を握りました。
『ただ、登記の手続が面倒でしてね』
「そうですか」
『……抹消のための書類は出します』
私は顔を上げました。
相馬先輩も、新聞を下ろしています。
『例の退去通知も撤回します』
所長は短く答えました。
「その旨は、杉浦さんご本人宛てに書面でお伝えください」
『はい』
「登記手続については、司法書士とご相談ください」
『分かりました』
黒田は少し黙りました。
そして。
『……裁判には、なりませんよね?』
所長は淡々と言いました。
「それを私がお約束する立場にはありません」
沈黙。
『……はい』
電話が切れました。
「所長!」
私は立ち上がりました。
「抹消に応じるって言いましたよね!」
「ああ」
「退去通知も撤回するって!」
「ああ」
「やりました!」
私は思わず両手を上げました。
相馬先輩が鼻で笑いました。
「まだだ」
「え?」
「書類が出て、登記が消えて、初めて終わりだ」
「あ……」
「電話で『やります』って言っただけじゃ、何も終わってねえ」
私は頷きました。
そうでした。
相手が口で約束しただけでは、まだ安心できません。
必要な書類がそろう。
登記の手続が進む。
登記簿から抵当権の記載が消える。
そこまで確認して、初めて一段落です。
「でも先輩」
「何だ」
「黒田、明らかに声が小さくなってました」
「だろうな」
「内容証明って、本当に効くんですね」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「効いたのは、紙じゃねえよ」
「え?」
「中身だ」
先輩は机の上の領収書を指差しました。
「相手のハンコだ」
「……あ」
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は思わず笑いました。
「またそれですか」
「今回は黒田が自分で押したハンコだろ」
確かに。
元利金全額受領。
会社印。
その一枚が。
会社自身の主張を、正面から否定していたのです。
◇
一週間後。
黒田金融から、ハルさん宛てに書面が届きました。
――本件貸付金について元利金全額の弁済を受領済みであることを確認する。
――本件抵当権の消滅を確認し、その抹消登記手続に協力する。
――先に通知した土地処分及び建物明渡しに関する要求を撤回する。
そこには。
黒田源蔵の署名押印がありました。
私は思わず言いました。
「今度は、黒田がハンコを押しましたね!」
相馬先輩が笑いました。
「そうだな」
そして。
ハルさんと正一さんは、司法書士に依頼し、抵当権抹消の手続を進めました。
信用金庫の抵当権についても、必要な書類がそろっていました。
二つの抵当権。
第一順位。
第二順位。
どちらも、被担保債権は完済。
その結果。
登記簿に残っていた二つの抵当権設定登記は、無事に抹消されました。
私は新しい登記簿謄本を見つめました。
「……消えてる」
「ああ」
「黒田金融の名前が、ありません」
「そうだな」
「信用金庫の抵当権も」
相馬先輩が頷きました。
「これで登記上も整理がついた」
私は、ようやく息を吐きました。
あの家。
守れたんですね。
◇
数日後。
杉浦ハルさんが、事務所を訪れました。
今日は、泣いていません。
手には、竹の籠。
「皆さんに、これを」
籠の中には。
大きな柿が、十個ほど入っていました。
「うちの庭の柿です」
「わあ!」
私は思わず声を上げました。
「立派ですね!」
「今年は、よく実りましてね」
ハルさんは嬉しそうに笑いました。
「あの木は、主人が植えたんです」
「ご主人が?」
「はい。家を建てたときに」
ハルさんは、ゆっくり話し始めました。
「毎年、秋になると、主人が脚立を持って庭に出てね」
「はい」
「柿を取るんです」
「素敵ですね」
「でも、いつも自分で食べる前に、近所の子供たちに配っちゃうんですよ」
ハルさんは笑いました。
「私が怒ると、主人が言うんです」
――柿の木は、誰かに食べてもらうために実をつけるんだ。
私は黙りました。
「主人が亡くなってからも、あの木だけは残しておきたかったんです」
ハルさんは籠に目を落としました。
「でも、黒田さんに言われたんです」
――担保に入れた土地の木なんだから、勝手に処分できる。
――邪魔なら切り倒す。
「……そんなことまで」
私が呟くと。
ハルさんは頷きました。
「息子の借金を助けようと思っただけなのに、主人の思い出まで取られるのかって……」
声が震えました。
私は何も言えませんでした。
担保。
抵当権。
優先弁済。
登記順位。
被担保債権。
試験では、ただの専門用語です。
でも。
そこにある土地には、人が住んでいる。
家族がいる。
庭木がある。
思い出がある。
だから。
たった一つの法律の勘違いで。
誰かの暮らしが壊れてしまうのです。
「本当に、ありがとうございました」
ハルさんが頭を下げました。
「これからも、あの家に住めます」
私は慌てて立ち上がりました。
「こちらこそ!」
「え?」
「柿、ありがとうございます!」
ハルさんは笑いました。
「甘いですよ」
「楽しみです!」
私は籠を受け取りました。
ずっしりと重い。
赤く熟した柿。
その一つ一つが。
あの土地で育ったもの。
誰かの借金のために、消えていいものではありませんでした。
◇
ハルさんが帰ったあと。
私は柿を一つ手に取りました。
「相馬先輩」
「何だ」
「抵当権って、怖いですね」
「今さらか」
「はい」
私は頷きました。
「でも、少し分かった気がします」
「何がだ」
「抵当権って、家を取り上げる権利じゃないんですね」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「そうだ」
「借金を返してもらえないときに、不動産の価値から優先して弁済を受けるための権利」
「うん」
「しかも、担保に入れた人は、そのまま土地を使い続けられる」
「そうだ」
「借金が返済されれば、抵当権も消滅する」
「そのとおり」
私は柿を見ました。
「なのに、黒田は……」
「抵当権を、所有権みてえに言いやがった」
「はい」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「抵当権で、一番大事なことは何だと思う」
私は少し考えました。
順位。
登記。
付加一体物。
物上保証人。
どれも大事です。
でも。
今回。
ハルさんの家を守った決定打は。
「……抵当権が、何のために存在しているかを見失わないことです」
所長が頷きました。
「続けろ」
「抵当権は、被担保債権を担保するための権利です」
「うん」
「だから、その債権がなくなれば、原則として抵当権も消滅する」
「そうだ」
「登記が残っていても、存在しない借金を作り出せるわけじゃない」
所長は短く答えました。
「それでいい」
私はノートを開きました。
そして。
今日の教訓を、一行だけ書きました。
――抵当権は土地を奪うための権利ではなく、債権を守るための権利。債権が消えれば、その役目も終わる。
「……よし!」
私は鉛筆を置きました。
「覚えました!」
相馬先輩がこちらを見ました。
「本当か?」
「はい!」
「じゃあ問題だ」
「来ましたね!」
「物上保証人って何だ?」
「他人の債務の担保として、自分の財産を提供する人です!」
「よし。抵当権を設定した土地は、抵当権者に明け渡すのか?」
「いいえ! 占有を移転しないのが抵当権の特徴です!」
「よし。土地の抵当権は、当然にその上の建物にも及ぶか?」
「及びません!」
「よし。二つの抵当権の順位は?」
「原則として登記の前後です!」
「じゃあ、借金を完済したのに登記が残っていたら?」
「抵当権は付従性によって消滅していますが、抹消登記手続が必要です!」
相馬先輩が頷きました。
「まあ、合格だな」
「やった!」
私は拳を握りました。
ついに。
抵当権が、頭に入ってきました。
「じゃあ次だ」
「まだあるんですか?」
「ある」
先輩はにやりと笑いました。
「抵当権のついた家が火事で焼けたら、どうなる?」
「……え?」
「火災保険金が出るとする」
「はい」
「抵当権者は、その保険金から弁済を受けられるか?」
私は止まりました。
火災保険金。
建物は焼けてなくなった。
でも、価値が保険金に変わった。
ということは。
「あっ!」
私は叫びました。
「物上代位!」
「そうだ」
「抵当権者は、保険金請求権にも物上代位できる場合があります!」
「で、重要な条件は?」
私は考えました。
民法三百七十二条。
三百四条の準用。
そして。
「保険金が払い渡される前に、差押えが必要です!」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
「なるほど……!」
私は興奮しました。
抵当権は、土地や建物に張りつくだけではありません。
その価値が、別の財産に変わったとき。
一定の要件のもとで、その価値を追いかけることができる。
「すごいですね!」
「何が」
「抵当権、思ったよりずっと奥が深いです!」
「当たり前だ」
私はノートを見ました。
付従性。
随伴性。
物上代位性。
登記。
順位。
効力の及ぶ範囲。
そして。
物上保証人。
一つの事件だけで、こんなに多くの論点がつながるなんて。
「先輩!」
「何だ」
「もう一問ください!」
「……は?」
「抵当権、面白くなってきました!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「お前、変なところで元気になるな」
「勉強です!」
「仕事しろ!」
「勉強も仕事です!」
そのとき。
片桐所長が、机の上の柿を一つ手に取りました。
「相馬」
「はい」
「包丁はどこだ」
「流しです」
「こはる」
「はい!」
「柿をむいてくれ」
「分かりました!」
私は立ち上がりました。
そして。
ふと、足を止めました。
「所長」
「何だ」
「この柿って、抵当権の目的物に付加して一体となっている物ですか?」
相馬先輩が吹き出しました。
「馬鹿!」
「えっ!」
「もう収穫されてるだろ!」
「あ……」
そうでした。
土地に生えている木。
木になっている果実。
収穫された果実。
それぞれ、法律上の扱いを考える必要があります。
しかも、抵当権が果実に及ぶかどうかは、債務不履行後かなどの事情も関係します。
「……難しいですね」
「だから勉強しろってんだ」
「はい!」
私は柿を持って、台所へ向かいました。
窓の外。
秋の風が、商店街を吹き抜けていきます。
きっと今ごろ。
杉浦ハルさんは、自宅の庭で柿の木を眺めているのでしょう。
亡くなったご主人が植えた木。
息子さんが育った家。
七十二歳になった今も、住み続ける場所。
借金のために、担保に入れた土地。
でも。
借金は、もう返した。
だったら。
担保としての役目も、終わっている。
法律は、その当たり前を守るために存在しているのです。
私は包丁を手に取りました。
赤い柿の皮が、くるくるとむけていきます。
抵当権。
難しい。
ややこしい。
登記も順位も、覚えることが多い。
でも。
今日の私は、もう忘れません。
抵当権は、借金の担保です。
土地を奪うための魔法ではありません。
そして。
誰かが、その権利を振りかざして、
「この家は、もう俺のものだ」
と勝ち誇ったとしても。
まず確かめるべきことがある。
誰の借金なのか。
誰が担保を提供したのか。
何を担保にしたのか。
登記はどうなっているのか。
そして、何より。
その借金は、今も本当に残っているのか。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「柿、まだか!」
「もう少しです!」
「早くしろ!」
「先輩!」
「何だ!」
「柿の皮をむくのと、抵当権を抹消するのって、似てませんか!」
「どこがだ!」
「どっちも、いらなくなったものを取り除くんです!」
「一緒にすんな!」
「でも、ちゃんと取らないと後味が悪いですよね!」
「うまいこと言ったつもりか!」
私は笑いました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日も民法は、ややこしい。
けれど。
七十二歳のおばあさんが、亡き夫の植えた柿の木を守れたのなら。
このややこしさにも、きっと意味がある。
そう思いながら。
私は、最後の柿の皮をむき終えました。
今日の教訓。
――抵当権は、借金とともに生き、借金とともに消える。登記簿の文字だけでは、人の暮らしは奪えない。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




