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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 物権

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482/610

[民法・質権]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 物を預けることと、物を売ることは、同じではありません。


 借金の担保として腕時計を渡しても。


 土地を担保に差し出しても。


 債権を担保にしても。


 その瞬間に、所有権まで相手に渡るわけではないのです。


 しかし。


 質権という制度には、不思議なところがあります。


 物を預かった人は、借金が返されるまで、その物を留め置くことができる。


 場合によっては、競売して優先的にお金を回収できる。


 さらに。


 預かった物を、別の借金の担保に使える場合まであるのです。


 ……。


 それ、ちょっと怖くありませんか?


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「……質権って、思っていたより怖いですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「また何か始まったな」


「だって先輩!」


「何だ」


「借金の担保に時計を預けたら、その時計を別の人への担保に使われる場合があるんですよ!」


「ああ。転質だな」


「自分の時計じゃないのに!」


「法律で認められた範囲ならな」


「しかも、土地なら使ったり貸したりできる!」


「不動産質権の話だな」


「でも勝手に自分のものにはできない!」


「そうだ」


 私は頭を抱えました。


「同じ質権なのに、ややこしすぎません!?」


 相馬先輩は新聞を畳みました。


「じゃあ、昨日の時計を思い出せ」


 私は手を止めました。


 杉浦奈緒さん。


 二十八歳。


 母親の入院費のために、金貸しの黒田源蔵から十万円を借りた女性。


 担保として預けたのは、亡くなった父親の腕時計。


 ところが。


 返済期限を三日過ぎただけで、黒田は言いました。


 ――時計はもう俺のものだ。


 ――欲しければ六十万円で買い戻せ。


 契約書には、確かに書いてありました。


 ――期限までに返済しない場合、担保物件の所有権は当然に貸主へ移転する。


 でも。


 民法三百四十九条。


 流質契約の禁止。


 期限前から、返済できなければ質物を自分のものにするという約束は、原則として認められない。


 さらに。


 奈緒さんが十万円を返そうとしたのに、黒田は受領を拒絶。


 そこで適法な弁済供託を行い、内容証明郵便で返還を請求した。


 結果。


 黒田は時計を返還したのです。


「よし!」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は質権を完全に整理します!」


「昨日もそんなこと言ってなかったか」


「昨日は現場です!」


「今日は?」


「法理です!」


「名前が変わっただけじゃねえか」


「全然違います!」


 そのとき。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「今日は三百四十二条からだ」


「……所長まで勉強会ですか」


「付き合ってやれ」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。


 ◇


「まず、質権とは何か!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――民法第三百四十二条。


 質権。


 債権の担保として受け取った物を占有し、その物について、他の債権者に先立って自己の債権の弁済を受ける権利。


「つまり」


 私は言いました。


「質権には、大きく二つの働きがあるんです」


「言ってみろ」


 相馬先輩が言いました。


「一つ目は、留置的効力」


「うん」


「二つ目は、優先弁済的効力!」


「そうだ」


 私は昨日の腕時計を思い出しました。


 奈緒さん。


 十万円を借りる。


 黒田。


 十万円を貸す。


 そして。


 奈緒さんが、腕時計を黒田へ引き渡す。


「この場合、奈緒さんが質権設定者ですね」


「ああ」


「黒田が質権者」


「そうだ」


「そして、腕時計が質物です」


 私はノートに矢印を書きました。


 奈緒さん → 腕時計 → 黒田。


 奈緒さん ← 十万円 ← 黒田。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「質権って、相手に物を渡すことが大きな特徴なんですね」


「そうだ」


 ここで。


 私は思いつきました。


「先輩、抵当権と似ていますよね?」


「ああ。どちらも担保物権だ」


「でも、違いがあります!」


「言ってみろ」


「抵当権は、原則として目的物を債務者などの手元に置いたまま設定できます」


「そうだ」


「一方、質権は、原則として目的物の引渡しが必要!」


 相馬先輩が頷きました。


「そこだ」


 抵当権。


 たとえば、自宅を担保に銀行からお金を借りる。


 その場合でも、普通はそのまま家に住み続けられます。


 しかし。


 動産質では。


 腕時計を担保にするなら、原則として質権者へ引き渡さなければなりません。


「つまり、担保に入れた物を使い続けられるかどうかも違うんですね」


「そういうことだ」


 私は大きく丸をつけました。


 質権は、占有が重要。


 抵当権は、占有を移さない。


「所長!」


「何だ」


「じゃあ、黒田が時計を持っていたこと自体は、別におかしくなかったんですね」


「そうだ」


「おかしかったのは、勝手に自分の所有物だと言い張ったこと」


 所長が頷きました。


「そこを区別しろ」


 なるほど。


 物を預かる権利。


 所有権を取得すること。


 似ているようで、全然違うのです。


 ◇


「次は、質権の成立です!」


 私はノートをめくりました。


 ――民法第三百四十四条。


 質権の設定は、債権者に目的物を引き渡すことによって、その効力を生ずる。


「ここ、重要ですよね」


「ああ」


「質権設定契約を結ぶだけでは足りない」


「そうだ」


「実際に物を引き渡して、初めて効力が生じる!」


 私は二つの条件を書きました。


 ①質権設定の合意。


 ②目的物の引渡し。


「昨日の奈緒さんの場合は?」


 相馬先輩が聞きました。


「契約書があります」


「うん」


「そして、腕時計を黒田へ直接引き渡しています」


「そうだ」


「だから、動産質権は有効に成立したと考えられます」


 相馬先輩が頷きました。


 私は少し考えました。


「でも先輩」


「何だ」


「もし、奈緒さんが時計を渡さず、こう言っていたらどうなります?」


 私は声を変えました。


「時計は私の家に置いておきます。でも今日から、黒田さんのために預かっていることにします!」


 相馬先輩が私を見ました。


「駄目だ」


「やっぱり!」


「民法三百四十五条だ」


 私は六法を開きました。


 ――質権設定者による代理占有の禁止。


 質権者は、質権設定者に、自己に代わって質物を占有させることができない。


「つまり、占有改定は駄目なんですね!」


「そうだ」


 占有改定。


 物を持っている人が、今後は別の人のために占有するという意思表示によって、実際には物を動かさず占有の移転を認める方法です。


 でも。


 質権では、それが認められません。


「どうしてですか?」


 私が聞くと、片桐所長が答えました。


「質権設定者が物を持ち続けたら、外から見て担保に入っているか分かりにくい」


「なるほど」


「それに、質権は質物を債権者側の支配下に置くことに意味がある」


 私は頷きました。


 時計を預けたと言いながら。


 時計はずっと奈緒さんの腕にある。


 そんな状態では、質権の仕組みそのものが曖昧になります。


「じゃあ先輩、占有改定が駄目なら、時計を本当に黒田へ渡さないといけないんですね」


「そうだ。ただし、常に黒田本人が手に持っていなきゃならねえという意味ではないぞ」


「え?」


「第三者を通じた占有など、認められる引渡しの方法は別に考える必要がある」


 なるほど。


 禁止されているのは、質権設定者自身に質権者の代理占有をさせること。


 私はノートに書きました。


 ――質権は引渡しが必要。ただし占有改定では駄目。


「ここは試験で引っかけられそうですね」


「引っかかるなよ」


「はい!」


 私は力強く頷きました。


 ただし、権利質などでは、目的となる権利の性質に応じて成立や対抗の仕組みが異なります。


 質権だから、どんな場合でも現物を手渡す。


 そう覚えるのは危険です。


 ◇


「では、質権の効力です!」


 私はページをめくりました。


 ――留置的効力。


 ――優先弁済権。


「まず、留置的効力」


 民法三百四十七条。


 質権者は、担保される債権の弁済を受けるまで、質物を留置できる。


「つまり」


 私は言いました。


「黒田は、奈緒さんが借金を返すまで、時計を持っていられるんですよね」


「そうだ」


「だから奈緒さんは、時計を取り戻すために借金を返そうとする」


「ああ」


 時計が大切だから。


 取り戻したいから。


 何とかお金を用意する。


 それが、留置的効力による心理的な圧迫です。


「でも先輩」


「何だ」


「これって、留置権と同じじゃないですか?」


「似ているが、違う」


 私は顔を上げました。


「違いは?」


「質権には優先弁済権がある」


「あっ!」


 そうでした。


 留置権は、原則として、目的物を留置して返還を拒める権利。


 それ自体に一般的な優先弁済権があるわけではありません。


 一方。


 質権には、優先弁済権がある。


「つまり、質権者は、法律上の方法で質物を換価し、その代金から優先的に弁済を受けることができるんですね」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 留置権。


 返さずに留め置く。


 質権。


 返さずに留め置くことができ、さらに優先弁済を受けられる。


「所長!」


「何だ」


「じゃあ、昨日の黒田も、奈緒さんが返済しなかったら時計を競売にかけることはできたんですか?」


「法律上の要件と手続を満たせばな」


「でも、自分のものにするのは駄目」


「そこだ」


 所長が頷きました。


「担保権の実行と、所有権を当然に取得することを混同するな」


 なるほど。


 質権者は、強い権利を持っています。


 しかし。


 だからといって、好き勝手に質物を処分できるわけではない。


 優先弁済とは、あくまで担保される債権について優先的に回収すること。


 十万円を貸したから、六十万円の時計を当然にもらっていい。


 そんな話にはならないのです。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「今回の一番大事な条文だ」


「はい!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――民法第三百四十九条。


 流質契約の禁止。


「黒田の契約書ですね!」


「ああ」


 私は昨日の一文を思い出しました。


 ――期限までに返済しなかったら、時計は貸主のものになる。


「これが駄目だったんですよね」


「そうだ。今回のような通常の民法上の質権設定ならな」


 質権設定者は、質権を設定するときや、債務の弁済期が来る前の契約で、返済に代えて質権者に質物の所有権を取得させることなどを約束できません。


「どうしてですか?」


 私は聞きました。


「大人同士の契約なのに」


 相馬先輩は、腕を組みました。


「お前、十万円をどうしても借りなきゃならねえとする」


「はい」


「相手が言うんだ。担保に百万円の時計を出せ。返済が一日でも遅れたら俺のものだってな」


「……ひどいですね」


「だが、金に困ってたらどうする」


 私は黙りました。


 母親が入院している。


 支払いが迫っている。


 今すぐ十万円が必要。


 そんな状況なら。


 不利な条件でも、受け入れてしまうかもしれません。


「……契約しちゃう可能性があります」


「だろ」


「だから法律が制限しているんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 契約自由。


 当事者は、原則として自由に契約を結べます。


 でも。


 その自由が、強い立場の人間による一方的な財産の取り上げに使われるなら。


 法律は、一定の制限をかけるのです。


「先輩!」


「何だ」


「じゃあ、弁済期が過ぎてから、本人が改めて時計を渡すことに同意した場合も、全部駄目なんですか?」


「そこが大事だ」


 相馬先輩が頷きました。


「三百四十九条が禁止しているのは、設定時や弁済期前にしておく流質の約束だ」


「はい」


「弁済期が来た後に、新しく代物弁済などを合意する場合は、同じようには扱わねえ」


「なるほど!」


 私はノートに書きました。


 弁済期前の流質契約。


 原則禁止。


 弁済期後の新たな代物弁済の合意。


 当然に三百四十九条で禁止されるわけではない。


「でも先輩」


「何だ」


「その場合でも、強迫されたり、暴利行為に当たったりすれば、別の問題がありますよね」


「もちろんだ」


 私は大きく頷きました。


 なるほど。


 いつ合意したか。


 どんな内容か。


 本人が自由な意思で合意したか。


 そこまで確認しなければならないのです。


「それから」


 片桐所長が口を開きました。


「質屋営業については特別法がある」


「あ、はい!」


 私は思い出しました。


 質屋営業法。


 営業として行われる質取引には、民法の一般原則とは異なる扱いがあります。


 所定の条件のもとで、流質が認められる場合もあるのです。


「だから、質屋の取引と、昨日の黒田のような一般の貸金取引を同じものとして扱ってはいけないんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


 私は、ノートの端に赤線を引きました。


 ――民法三百四十九条の原則と、質屋営業法の特則を混同しない。


「うう……」


 私は顔をしかめました。


「民法って、例外が多いですね」


「法律ってのは、そういうもんだ」


 相馬先輩が笑いました。


「原則を覚えたら、次は例外だ」


「試験官が好きそうな言葉ですね……」


「お前も好きになれ」


「努力します!」


 ◇


「次は、質権が担保する範囲です」


 私はノートに書きました。


 ――民法第三百四十六条。


「これは少し長いですよね」


「ああ」


 質権が担保するもの。


 元本。


 利息。


 違約金。


 質権実行の費用。


 質物保存の費用。


 債務不履行や質物の隠れた瑕疵による損害賠償。


「全部、担保されるんですか?」


「原則としてな」


 相馬先輩が答えました。


「ただし、設定行為に別段の定めがあるときは、それに従う」


「はい」


 私は昨日の時計を思い出しました。


 黒田から借りた十万円。


 契約では無利息。


 違約金もありません。


「じゃあ昨日は、元本十万円を中心に考えればよかったんですね」


「そうだ。実際の契約内容や費用を確認したうえでな」


 私は頷きました。


「もし利息の約束があったら、それも確認が必要だった」


「ああ」


「質物の保存費用が問題になる場合もある」


「そうだ」


 私は少し考えました。


「先輩。抵当権って、利息などの優先弁済に二年分の制限がある規定がありますよね」


「あるな」


「じゃあ、質権も二年分までですか?」


「違う」


「ですよね!」


 私は大きく丸をつけました。


 質権について、民法三百四十六条には抵当権のような一般的な最後の二年分という制限はありません。


「ここ、行政書士試験で出そうですね!」


「そういうところばっかり考えてるな」


「受験生ですから!」


「まあ、いい」


 私は笑いました。


 でも。


 今日の事件を思い出せば、担保の範囲を確かめる理由も分かります。


 借りたお金はいくらか。


 利息はあるのか。


 違約金はあるのか。


 担保される費用は何か。


 それらを曖昧にしたままでは、いくら支払えば質物を取り戻せるのかも分かりません。


 だからこそ。


 書類と事実の確認が必要なのです。


 ◇


「さて、次は転質です!」


 私は鉛筆を持ち直しました。


 ――民法第三百四十八条。


「昨日、これにはびっくりしました」


「何がだ」


「預かった時計を、さらに別の人へ担保として渡せるなんて!」


 私はノートに三人の名前を書きました。


 A。


 B。


 C。


「たとえば、AがBから十万円を借りる」


「うん」


「Aが腕時計をBへ引き渡して、質権を設定する」


「そうだ」


「そしてBが、Cからお金を借りる」


「うん」


「そのとき、Bが預かっていた腕時計をCへ引き渡して、さらに質権を設定する」


 私は矢印を引きました。


 A →腕時計→ B →腕時計→ C。


「これが転質ですね!」


「そうだ」


 でも。


 私は眉をひそめました。


「Aは、自分の時計をBに預けただけですよね」


「ああ」


「それなのに、Cのところまで行っちゃうんですか?」


「法律で認められた範囲ならな」


「……怖い」


 相馬先輩が笑いました。


「だから責任も重いんだ」


「責任?」


「三百四十八条を読め」


 私は六法に目を落としました。


 そして。


「……不可抗力でも!?」


 思わず声が出ました。


 質権者が自分の責任で転質した場合。


 転質によって生じた損失について、不可抗力によるものであっても責任を負う。


「つまり」


 私は言いました。


「Bが時計をCへ預けて、転質によって時計が失われたような場合には、Bに重い責任が生じるんですね」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 他人の財産を使って、自分のための担保を設定する。


 それだけの権限があるなら。


 その結果にも責任を負わなければならない。


「なるほど……」


 私はノートに書きました。


 ――転質は認められる。ただし、転質者の責任は重い。


「所長!」


「何だ」


「じゃあ、昨日、黒田が時計を別の人に渡していたら、もっと複雑になっていたんですね」


「そうだ」


「だから、まず時計の所在を確認した」


 所長が頷きました。


「担保の法律では、誰が占有しているかが重要になる」


 私は、昨日の黒田の金庫を思い出しました。


 あの中に時計があったこと。


 それが分かっていたからこそ。


 私たちは、事実に基づいた通知書を作ることができたのです。


 ◇


「次は動産質です!」


 私はノートの新しいページを開きました。


 ――民法第三百五十二条。


 動産質権者は、継続して質物を占有しなければ、その質権を第三者に対抗できない。


「ここですね!」


「ああ」


「動産質の対抗要件は、占有を継続すること!」


 私は大きく書きました。


 ――継続占有。


「つまり、黒田が時計を預かっていたことには、対抗要件としての意味もあったんですね」


「そうだ」


「でも、時計を失ったら?」


「第三者に対抗するうえで問題になる」


 私は頷きました。


「先輩。たとえば、知らない泥棒に時計を奪われたら、どうやって取り返すんですか?」


「民法三百五十三条だ」


 私は六法を開きました。


 そして。


「占有回収の訴え!」


「そうだ」


 動産質権者が第三者に質物の占有を奪われた場合。


 質権に基づいて当然に返還を請求できるわけではありません。


 民法三百五十三条は、占有回収の訴えによってのみ返還を請求できると定めています。


「どうして、そんな制限があるんですか?」


 私が聞くと、所長が答えました。


「動産質権では、占有が第三者への対抗要件だからだ」


「なるほど」


「占有を失っても、質権だけを根拠に無制限に第三者へ返還を求められるわけではない」


 私は頷きました。


 ただし。


 占有回収の訴えにも要件や期間があります。


 奪われたら、何年後でも自由に請求できるわけではありません。


「じゃあ先輩」


「何だ」


「時計を奪ったのが、質権設定者のA本人だったら?」


「そこは違う」


「え?」


「質権設定者に質物を奪われた場合には、質権に基づく返還請求が認められる」


「なるほど!」


 私はノートに書きました。


 第三者に奪われた場合。


 占有回収の訴えによる。


 質権設定者に奪われた場合。


 質権に基づく返還請求が可能。


「これ、混同しそうですね」


「するなよ」


「はい!」


 私は大きく頷きました。


 動産質は。


 成立に引渡し。


 第三者対抗に継続占有。


 占有を奪われた場合の返還方法にも注意。


 なるほど。


 時計を誰が持っているか。


 それだけで、法律上の扱いが大きく変わるのです。


 ◇


「では、不動産質です!」


 私はページをめくりました。


 ――不動産質権。


「土地や建物に質権を設定する場合ですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「まず、動産質と大きく違うところは?」


「第三者対抗要件です!」


 私は書きました。


 ――登記。


 不動産質権は、不動産登記によって第三者に対抗できます。


 民法百七十七条。


「つまり、土地を引き渡して質権が成立していても、第三者との関係では登記が重要なんですね」


「そうだ」


「そして、もっと特徴的なのが!」


 私は六法を開きました。


 民法三百五十六条。


 不動産質権者は、目的不動産の用法に従って、その使用及び収益をすることができる。


「これです!」


「そうだ」


「土地を自分で使ったり、建物を貸して家賃を得たりできる!」


「ああ」


 私は少し驚きました。


「でも、借金の担保ですよね?」


「そうだ」


「それなのに、使っていいんですね」


「不動産質権には、そういう仕組みがある」


 相馬先輩は続けました。


「ただし、好き勝手に使っていいわけじゃねえぞ」


「はい!」


 不動産の用法に従う必要があります。


 さらに。


 民法三百五十七条。


 不動産質権者は、管理費用を支払い、その他不動産に関する負担を負います。


「なるほど……」


 私はノートに書きました。


 使用収益できる。


 でも管理の負担もある。


「先輩」


「何だ」


「じゃあ、土地を使って利益が出るなら、さらに貸したお金の利息まで請求できるんですか?」


「原則、できねえ」


「えっ!」


 民法三百五十八条。


 不動産質権者は、その債権の利息を請求することができない。


「つまり、不動産を使用収益できることとの調整なんですね」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 もっとも、不動産質権の利息や費用については、設定契約で別段の定めをすることが認められる場合があります。


 一般原則だけで結論を出してはいけません。


「それから」


 片桐所長が言いました。


「存続期間は?」


「十年です!」


 私は即答しました。


 民法三百六十条。


 不動産質権の存続期間は、十年を超えることができません。


「じゃあ、契約書に二十年と書いたら?」


 所長が聞きました。


「十年になります!」


「更新は?」


「できます! ただし、更新時から十年を超える期間にはできません!」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は拳を握りました。


 やりました。


 不動産質権。


 登記。


 使用収益。


 管理費用。


 利息の原則禁止。


 十年。


 全部つながりました。


「これなら、試験に出ても大丈夫そうです!」


 相馬先輩が笑いました。


「問題文を最後まで読めればな」


「そこですか!?」


「そこだ」


 ……。


 確かに。


 行政書士試験では、一語の違いで正誤が変わります。


 油断は禁物です。


 ◇


「最後は、権利質です!」


 私はノートをめくりました。


 ――民法第三百六十二条。


 質権は、財産権を目的とすることができる。


「ここ、最初は意味が分かりませんでした」


「何がだ」


「腕時計なら分かるんです。土地も分かります。でも、債権を担保にするって……」


 相馬先輩が言いました。


「じゃあ、例を作れ」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 A。


 B。


 C。


「Aは、Bに十万円を借りています」


「うん」


「一方で、AはCに対して二十万円の売掛金債権を持っています」


「そうだ」


「Aが、その売掛金債権をBへの借金の担保にする」


 私は顔を上げました。


「これが債権質ですね!」


「そうだ」


 債権は、物として手に持つことができません。


 しかし。


 金銭を請求できる権利には、財産的価値があります。


 その価値を担保に利用できるのです。


「じゃあ、どうやって第三者に対抗するんですか?」


「民法三百六十四条だ」


 私は六法を開きました。


 ここで。


 また少し、現代の知識が顔を出しました。


「先輩。今の民法だと、債権質の対抗要件は債権譲渡と似ていますよね!」


「今の民法って、何だ」


「……あっ」


 しまった。


 危ない。


 また未来の話です。


 しかも、債権質の規定は、昭和六十三年と現代で条文構造にも違いがあります。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「昭和六十三年の六法を見ろ」


「はい……」


 私は改めて、古い六法を開きました。


 当時の債権質では、債権証書が存在する場合、その証書の交付が質権設定の重要な要件になっていました。


 さらに。


 指名債権を目的とする質権について、第三債務者への通知または承諾が必要です。


「なるほど……!」


 私は声を上げました。


「ここ、現代と違うんですね!」


「そうだ」


 昭和の民法では。


 債権証書があるかどうか。


 証書を交付したかどうか。


 そうした点まで確認する必要がありました。


 一方。


 現代の民法では、債権証書の交付を質権設定の効力発生要件とする旧規定はなくなっています。


「未来の六法をそのまま昭和に持ってきたら、危ないですね……」


「だから毎回言ってるだろ」


 相馬先輩が呆れました。


「今の法律で仕事しろ」


「はい……」


 私は反省しました。


 でも。


 制度の変化を知ると、法律の考え方も分かりやすくなります。


 昔は紙の債権証書が、取引の中で大きな役割を果たしていました。


 その後、債権をめぐる取引や管理の方法が変化し、法制度も見直されていきます。


 法律は、社会の取引実態に合わせて変わっていくのです。


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「債権質で、もう一つ大事なのは?」


「直接取立てです!」


 私は即答しました。


 民法三百六十六条。


 質権者は、質権の目的である債権を、一定の範囲で直接取り立てることができる。


「つまり」


 私はノートのA、B、Cを指しました。


「AがBから十万円を借りていて、AがCに二十万円を請求できる場合」


「うん」


「Bは、要件を満たせばCから直接取り立てることができる」


「そうだ」


「でも、二十万円全部を自由に取っていいわけじゃない!」


 私は大きく丸をつけました。


 金銭債権の場合、自己の債権額に対応する部分に限られます。


「十万円の担保のために、二十万円全部を当然にもらうのは違うんですね」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 ここでも、考え方は同じです。


 担保は、必要な債権の回収を確保するためのもの。


 相手の財産を無制限に奪うための仕組みではありません。


「先輩」


「何だ」


「じゃあ、Cの支払期限が、Bへの借金の返済期限より早かったら?」


「いい質問だ」


 相馬先輩が頷きました。


「供託だ」


「供託!」


 私は六法を見ました。


 質権の目的である金銭債権の弁済期が、被担保債権の弁済期より先に到来した場合。


 質権者は第三債務者に供託をさせることができ、質権はその供託金の上に存続します。


「なるほど!」


 私は書きました。


 債権質。


 通知または承諾などの対抗要件。


 直接取立て。


 自己の債権額の範囲。


 弁済期が先に来た場合の供託。


「先輩!」


「何だ!」


「権利質って、腕時計の質権より複雑ですね!」


「だから勉強しろ」


「はいっ!」


 私は笑いました。


 でも。


 一つずつ事件に置き換えると、理解できます。


 時計を預かる。


 土地を預かる。


 お金を請求する権利を担保にする。


 目的が違えば。


 必要な手続も、効力も変わる。


 そう考えれば、単なる丸暗記ではなくなるのです。


 ◇


 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 私はここまでのノートを見直しました。


 質権。


 成立。


 留置的効力。


 優先弁済権。


 流質契約の禁止。


 転質。


 動産質。


 不動産質。


 権利質。


「……多いですね」


 私が呟くと、相馬先輩が笑いました。


「まだ音を上げるな」


「だって、試験範囲が広すぎます!」


「なら確認問題だ」


「え?」


 相馬先輩が椅子をこちらへ向けました。


「質権の成立には?」


「質権設定の合意と、目的物の引渡しです!」


「占有改定は?」


「認められません!」


「質権の二つの主な効力は?」


「留置的効力と優先弁済権!」


「流質契約は?」


「質権設定時または弁済期前に、返済できなければ質物の所有権を取得するという約束は、民法三百四十九条で原則禁止です!」


「転質は?」


「質権者が、自分の責任で質物をさらに質入れすることです!」


「動産質の第三者対抗要件は?」


「継続占有!」


「不動産質の第三者対抗要件は?」


「登記!」


「不動産質の存続期間は?」


「最長十年!」


「権利質は?」


「債権などの財産権を目的とする質権です!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は思わず拳を握りました。


「やった!」


「じゃあ、最後に一問」


「はい!」


「奈緒さんが、十万円を返さずにいたら、黒田は直ちに時計の所有権を取得するか?」


「しません!」


「では、何ができる?」


「有効な質権に基づいて質物を留置し、法律上の方法で優先弁済を受けることができます!」


「正解」


 私は胸を張りました。


 よし。


 質権。


 少しずつ、頭の中でつながってきました。


 ◇


「でも、所長」


 私はふと顔を上げました。


「一つだけ、まだ気になることがあります」


「何だ」


「昭和六十三年と現代では、質権って大きく変わったんですか?」


 所長は少し考えました。


「基本的な考え方は、長く続いている」


「はい」


「質物を占有すること。優先弁済を受けること。流質契約を制限すること」


 私は頷きました。


 質権の根本は、昔も今も変わらない。


 もちろん。


 債権質などの細かな規定や条文構造には、改正による違いがあります。


 特に。


 債権を目的とする質権では、旧民法の債権証書の交付に関する要件と、現代の取扱いを混同してはいけません。


 また、現代の民法では、債権法改正によって債権譲渡や債権質の規定も整理されています。


「でも、根底にあるのは同じなんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「貸した人を守る。借りた人も不当に害されないようにする」


 私はノートを見つめました。


 それこそが。


 質権の大切なところなのかもしれません。


 債権者だけが強ければいいわけではない。


 債務者だけを守ればいいわけでもない。


 お金を貸す人が安心して貸せること。


 借りた人が、不当に財産を奪われないこと。


 その両方を支える仕組みなのです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「昨日の時計、どうして戻ってきたと思う」


 私は少し考えました。


「民法三百四十九条があったからです」


「それだけか」


「……違います」


 私は答え直しました。


「質権の成立と効力を確認しました」


「うん」


「流質契約の条項に問題があることを指摘しました」


「うん」


「さらに、奈緒さんが返済しようとしていた事実を確認して、弁済供託をしました」


「そうだ」


「そして、その全部を内容証明にまとめました」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は、昨日の通知書を思い出しました。


 怒り。


 悔しさ。


 父親の形見を取り戻したいという願い。


 それらを、ただ感情のまま書いても。


 相手は動かなかったかもしれません。


 でも。


 民法三百四十九条。


 返済の申入れ。


 供託の記録。


 返還請求。


 それらを一つずつ整理したことで、相手は自分の主張の危うさに気づいた。


「所長」


「何だ」


「法律って、条文一つだけじゃ足りないんですね」


「そうだ」


「事実と組み合わせて、初めて力になる」


 所長は静かに頷きました。


「覚えておけ」


 私は、その言葉をノートの端に書きました。


 ◇


 最後のページ。


 私は鉛筆の先を整えました。


 そして。


 今日の一行を書きます。


 ――質権は「引き渡して担保し、留置して優先回収する権利」。ただし、事前の流質契約は原則禁止。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、覚えやすいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、きっと忘れません。


 奈緒さんの腕時計。


 父親の形見。


 十万円の借金。


 六十万円の価値。


 たった三日の返済遅れ。


 そして。


「契約書に書いてあるから、俺のものだ」


 そう言い切った黒田。


 しかし。


 契約書に書かれていれば、何でも有効になるわけではありません。


 約束を守ることは大切です。


 けれど。


 法律が禁止している約束まで、無条件に守らせるわけではない。


 そこに。


 民法の優しさと厳しさがあるのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会、終わったか?」


「はい!」


「じゃあ、この書類を棚に戻してくれ」


「え?」


 先輩が差し出したのは、分厚い書類の束。


「それから、机の上も片付けろ」


「……また雑用ですか」


「見習いだろ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「私には、留置的効力があります」


「は?」


「この書類を預かります!」


 私は書類の束を抱えました。


「そして、先輩が私にお茶を奢るまで返しません!」


 相馬先輩が固まりました。


 それから。


 ゆっくりと口を開きました。


「こはる」


「はい!」


「お前、質権設定契約をしたのか?」


「……え?」


「俺がお前に何か借りたか?」


「……」


「その書類を、担保として引き渡したか?」


「……」


 私は黙りました。


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「何でも預かったら質権になると思うなよ」


「ぐっ……!」


 そうでした。


 質権は。


 勝手に物を抱え込めば成立するわけではありません。


 担保する債権。


 質権設定の合意。


 目的物の引渡し。


 それらが必要なのです。


「分かりましたよ!」


 私は書類を棚へ戻しました。


「でも先輩!」


「何だ!」


「今度、お茶を奢る約束をしたら、ちゃんと書面にしてくださいね!」


「何でだよ!」


「証拠です!」


「お茶一杯に契約書を作るな!」


 私は笑いました。


 相馬先輩も、少しだけ笑いました。


 窓の外。


 昭和六十三年の町に、夕暮れが訪れています。


 商店街の時計屋さん。


 駅裏の金貸し。


 古い家。


 狭い路地。


 そして。


 どこかの家で、奈緒さんは父親の時計を眺めているのでしょう。


 秒針が、静かに動いている。


 その音は、きっと。


 昨日よりも少しだけ、温かく聞こえているはずです。


 私はノートを閉じました。


 質権。


 最初は、ただの暗記項目でした。


 民法三百四十二条。


 三百四十四条。


 三百四十九条。


 三百五十二条。


 三百六十条。


 三百六十六条。


 数字ばかり。


 覚えることばかり。


 でも今は違います。


 引き渡す理由。


 占有を続ける理由。


 優先弁済できる理由。


 流質契約が禁止される理由。


 転質に重い責任が課される理由。


 どれも、昨日の腕時計につながっています。


 法律は、誰かの財産を守るために存在している。


 そして。


 担保とは、借金を回収するための仕組みであって。


 他人の思い出まで、自由に奪うための権利ではないのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「書類、片付け終わったか!」


「終わりました!」


「じゃあ掃除だ!」


「ええっ!?」


「床が汚れてるだろ」


 私は箒を手に取りました。


「先輩!」


「何だ!」


「掃除が終わったら、お茶を奢ってください!」


「何でだよ!」


「労働の対価です!」


「給料もらってるだろ!」


「それはそれです!」


「民法を都合よく使うな!」


 ……なるほど。


 質権については、だいぶ理解できました。


 ただし。


 先輩からお茶を奢ってもらう権利については。


 残念ながら、まだ成立要件を満たしていないようです。

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