[民法・質権]現場編 「返せなければ時計は俺のもの」の罠。十万円の借金で奪われた形見と、民法三百四十九条が暴く悪徳貸金業者の嘘
お金を借りるために、大切なものを預ける。
それは、その大切なものを売ったという意味ではありません。
たとえ。
約束の日までに、お金を返せなかったとしても。
預けたものが、その瞬間に相手の所有物になるとは限らないのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は一つの腕時計をめぐって、民法の恐ろしさを知ることになります。
質権。
借金の担保として、物を預ける権利。
簡単に言えば、質屋さんのような仕組みです。
ところが。
この質権。
ただ物を預ければいいという話ではありません。
物を誰が持っているのか。
いつ引き渡したのか。
借金を返さなかったら、どうなるのか。
そして。
預かった人間が、その物を勝手に自分のものにしてよいのか。
そこを間違えると。
十万円の借金で、百万円の財産を奪われることさえあるのです。
しかも今回。
相手は最初から、それを狙っていました。
法律を知らない人間ほど、いい獲物はいない。
そう考えている男でした。
◇
「亡くなった父の時計を、取り返したいんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、そう言いました。
二十八歳。
名前は、杉浦奈緒さん。
駅前の洋裁店で働いているそうです。
膝の上には、小さな紙袋。
その中から取り出したのは、一枚の写真でした。
古い腕時計。
銀色の文字盤。
革のベルト。
そして、裏蓋には小さな傷がありました。
「これを、取られたんです」
「取られた?」
私は聞き返しました。
「盗まれたんですか?」
「いいえ……」
奈緒さんは首を振りました。
「私が、預けたんです」
私は首をかしげました。
「預けた?」
「お金を借りるために」
事情を聞くと。
奈緒さんは三か月前、知人の紹介で金貸しから十万円を借りたそうです。
母親が入院し、急な出費が重なった。
勤め先からの給料だけでは、支払いに間に合わない。
そこで。
駅裏で個人相手の貸付けをしている男を紹介された。
名前は、黒田源蔵。
五十二歳。
表向きは古道具の売買を営みながら、個人への貸付けもしている男でした。
「十万円なら貸してやる。ただし担保を持ってこい」
そう言われた奈緒さんは、父親の腕時計を差し出したのです。
「父が亡くなる前に、私にくれた時計なんです」
奈緒さんが写真を撫でました。
「大事にしろって。困ったときにも、できれば手放すなって」
「だったら、どうして……」
私が聞くと、奈緒さんは小さく笑いました。
「母の入院費のためでしたから」
私は言葉を止めました。
そうか。
父親の形見を担保にして、母親を助けた。
奈緒さんにとって。
その時計は、お金に換えられる品物ではなかった。
必ず取り戻すつもりだったのです。
「それで、借金は?」
「返せるようになりました」
「え?」
「母が退院して、親戚からも少し助けてもらって。十万円、用意できたんです」
「よかったじゃないですか!」
私は思わず笑顔になりました。
でも。
奈緒さんは笑いませんでした。
「……返してくれないんです」
「誰が?」
「黒田さんが」
私は眉をひそめました。
「どうしてですか?」
奈緒さんは紙袋から、もう一枚の紙を取り出しました。
貸付契約書。
そこには。
――貸付金額 金拾萬円也。
――弁済期 昭和六十三年九月三十日。
――担保物件 腕時計一個。
そして。
最後に、こんな条項がありました。
――期限までに弁済なき場合、担保物件の所有権は当然に貸主へ移転し、借主は異議を申し立てないものとする。
……。
私は、その一文を二度読みました。
「これ……」
「はい」
奈緒さんがうつむきます。
「九月三十日までに返せなかったんです」
今日は十月三日。
たった三日。
「昨日、十万円を持って行ったんです。でも……」
奈緒さんの声が震えました。
「もう時計は俺のものだって」
「……!」
「契約書に書いてあるだろうって」
私は、机を見つめました。
十万円。
わずか三日の遅れ。
そして、父親の形見。
「時計の価値は、どのくらいなんですか?」
「時計屋さんに聞いたら、状態がよければ六十万円以上するって……」
六十万円。
私は顔を上げました。
「十万円を借りて、六十万円の時計を取られるんですか!?」
奈緒さんは黙って頷きました。
……。
何でしょう。
この。
あまりにも露骨な。
悪徳金貸しの教科書みたいな話は。
◇
「大丈夫です!」
私は立ち上がりました。
「担保なんですから、借金を返せば取り戻せます!」
奈緒さんが顔を上げました。
「本当ですか?」
「はい! 質権という制度があります!」
私は胸を張りました。
質権。
民法三百四十二条。
債権者が、借金の担保として物を受け取り、その物を占有する。
さらに、債務者が返済しなければ、その物の価値から他の一般債権者に優先して弁済を受けられる。
つまり。
担保は、借金を回収するためのもの。
最初から相手の財産を奪うためのものではありません。
「しかも!」
私は勢いよく続けました。
「担保を処分するなら、正規の手続が必要です。勝手に全部自分のものにするなんて!」
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「条文を開け」
「はい?」
「今、お前が使おうとしている条文だ」
「えっと……」
私は六法を開きました。
三百四十二条。
三百四十三条。
三百四十四条。
そして。
三百四十九条。
――契約による質物の処分の禁止。
「……あっ!」
「気づいたか」
「これです!」
私は指を置きました。
民法三百四十九条。
質権を設定するときや、借金の弁済期が来る前に、返済できなければ質物の所有権を質権者へ移すと約束することを禁じる規定です。
「先輩!」
「何だ」
「これ、流質契約の禁止ですね!」
「そうだ」
流質契約。
借金を返せなかったら、預けた物をそのまま債権者のものにする約束。
原則として、事前にそうした約束をすることは許されません。
まさに。
今回の契約書に書かれている内容です。
「でも先輩」
「何だ」
「現代だと、この手の担保契約って、消費者契約法とか、いろいろ考えたくなりますよね」
「……消費者契約法?」
しまった。
私は固まりました。
またです。
未来の法律を持ち出してしまいました。
「何だ、その法律は」
「あ、いえ……」
「そんな名前の法律、聞いたことねえぞ」
「ですよね!」
「何が『ですよね』だ」
そうでした。
昭和六十三年。
消費者契約法は、まだ存在しません。
制定されるのは、ずっと後。
危ない。
民法を勉強していると、現代の知識をそのまま使いたくなってしまいます。
「今の法律で考えろ」
相馬先輩が六法を指で叩きました。
「はい……」
「それと、別の落とし穴もある」
「え?」
「質屋営業法だ」
私は瞬きしました。
「質屋さんの法律ですか?」
「ああ。営業として行われる質取引には特別法の問題がある。普通の私人間の質権と、何でも同じように扱うな」
なるほど。
質屋さんなら何でも民法三百四十九条で取り返せる。
そんな単純な話ではないのです。
「今回の黒田は?」
片桐所長が聞きました。
「質屋の営業許可を受けている様子はありません」
奈緒さんが答えます。
「お金を貸す仕事をしていて、古道具も売っている人です」
相馬先輩が頷きました。
「そこは確認しておく。質屋の看板がないってだけじゃ、断定できねえからな」
「はい」
「だが、今回の契約が通常の民法上の質権設定なら、あの条項は重大な問題になる」
私は再び、契約書を見ました。
たった一文。
返せなければ、時計は俺のもの。
その一文が。
法律によって、ひっくり返るかもしれない。
「所長」
私は聞きました。
「これなら、時計を取り戻せますよね?」
片桐所長は、すぐには答えませんでした。
そして。
「まず、時計がどこにあるかだ」
静かに言ったのです。
◇
「え?」
私は首をかしげました。
「時計がどこにあるか?」
「そうだ」
「黒田さんの店じゃないんですか?」
奈緒さんが答えました。
「預けたときは、そうでした」
「今は?」
「分かりません」
所長は私を見ました。
「こはる。質権は、何によって効力が生じる」
「質権設定契約と、目的物の引渡しです」
「そうだ」
民法三百四十四条。
質権は、目的物を債権者に引き渡すことで効力が生じる。
単に契約書に、
――この時計を担保にします。
と書くだけでは足りません。
実際に、時計を相手に引き渡す必要があるのです。
「奈緒さん」
私は聞きました。
「時計は、黒田さんに直接渡したんですか?」
「はい」
「契約書だけじゃなくて?」
「時計も渡しました」
「なるほど……」
質権は成立している可能性が高い。
でも。
問題は、その後です。
「先輩」
「何だ」
「黒田さんが時計を、別の人に預けていたら?」
「いいところに気づいたな」
「えっ!」
私は驚きました。
褒められました。
珍しい。
相馬先輩は続けました。
「転質って知ってるか?」
「てんしち?」
もちろん知っています。
現代の行政書士試験でも出てくる論点です。
質権者が、預かった質物をさらに別の債権の担保にすること。
たとえば。
奈緒さんが黒田に時計を預ける。
黒田が、別の男から金を借りる。
そして、その時計をさらに別の男へ担保として引き渡す。
「それが転質ですね!」
「そうだ」
「でも、人の時計を勝手に別の人に預けていいんですか!?」
「民法三百四十八条だ」
私は六法を開きました。
そして。
「……できる!」
思わず叫びました。
「自分の責任で、転質できるんですね!」
「ああ」
質権者は、質権の存続期間中、一定の範囲で、自分の責任によって質物をさらに質入れすることができます。
ただし。
転質によって生じた損失については、非常に重い責任を負います。
不可抗力であっても、責任を負う場合がある。
「……怖いですね」
「そりゃそうだ」
相馬先輩が言いました。
「他人の大切な物を、さらに自分の借金の担保に使うんだからな」
私は奈緒さんの写真を見ました。
父親の形見。
それが。
知らない人の手に渡っているかもしれない。
「早く確認しないと……!」
「ああ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「まず相手の言い分を聞く。本人にも同席してもらうが、代理交渉はしねえぞ」
「はい!」
行政書士は弁護士ではありません。
法律紛争の示談交渉を業務として代理することはできない。
でも。
事実を確かめる。
書類を整理する。
本人の意思に基づいて、内容証明を作る。
そして、必要なら弁護士につなぐ。
それが、私たちの仕事です。
相馬先輩は上着を羽織りました。
「行くぞ、こはる」
「はい!」
私は六法を抱えました。
向かう先は。
黒田古道具店。
十万円の借金で六十万円の時計を奪おうとしている男の店です。
◇
「契約書に書いてあるだろうが」
黒田源蔵は、私たちを見るなり、そう言いました。
店の中は薄暗く。
古い箪笥。
壺。
置時計。
骨董品らしい木箱。
そんなものが、所狭しと並んでいます。
奥には、大きな金庫がありました。
黒田は五十代の男でした。
太い指。
金色の腕時計。
そして、やけに余裕のある笑い方。
「また来たのか、奈緒ちゃん」
「……時計を返してください」
奈緒さんが言いました。
「十万円、持ってきました」
「遅えよ」
黒田は笑いました。
「九月三十日までって約束だろ」
「三日だけです」
「三日だろうが三年だろうが、期限は期限だ」
私は思わず口を開きました。
「でも、それは――」
「誰だ、お前」
「片桐行政書士事務所の朝比奈です」
「行政書士?」
黒田が鼻で笑いました。
「弁護士でもないのに、何しに来た」
……。
来ました。
民法編の敵役に多い台詞。
弁護士じゃないから怖くない。
そう思っている人間です。
「契約書を作りに来たのか?」
黒田が言いました。
「もう契約は終わってるぞ」
「その契約内容について、確認したいことがあります」
相馬先輩が静かに言いました。
「奈緒さんが、時計を実際に引き渡したことは間違いありませんね」
「ああ」
「時計は今、どこにありますか」
「俺の金庫だ」
「まだ第三者に渡していませんか」
「渡してねえよ」
黒田は大げさに肩をすくめました。
「もっとも、明日には売るけどな」
「……!」
奈緒さんが息を呑みました。
「売るんですか!?」
「当たり前だろ」
黒田はにやりとしました。
「もう俺の時計なんだからよ」
「そんな……!」
「欲しけりゃ六十万円で買い戻せ」
六十万円。
私は怒りで頭が熱くなりました。
十万円を借りた。
十万円を返そうとした。
なのに。
時計を返してほしければ六十万円払え。
どういう計算ですか。
「それはおかしいです!」
私は声を上げました。
「質権は、担保のための権利です!」
「は?」
「借金を返せなかったからといって、当然に所有権が移るわけじゃありません!」
黒田が私を見ました。
そして。
ゆっくりと契約書を持ち上げました。
「ここを読め」
指で叩きます。
――期限までに弁済なき場合、担保物件の所有権は当然に貸主へ移転する。
「字、読めるか?」
……。
私は唇を噛みました。
「読めます」
「じゃあ分かるだろ」
「でも――」
「本人が署名して、ハンコまで押したんだ」
黒田は奈緒さんを見ました。
「大人同士の契約だろうが」
奈緒さんがうつむきます。
「……はい」
「嫌なら借りなきゃよかったんだよ」
私は拳を握りました。
そうでしょうか。
確かに、契約は大切です。
約束は守らなければならない。
でも。
借金に困っている人間が、圧倒的に不利な条件を押しつけられたとき。
民法は本当に、
「署名したんだから全部有効」
と言うのでしょうか。
「黒田さん」
相馬先輩が口を開きました。
「その時計について、質屋営業としての取扱いをしたということですか」
「何?」
「質屋営業法に基づく取引ですか。それとも通常の貸金契約と質権設定契約ですか」
「普通に金を貸しただけだよ」
「質屋の許可は?」
「持ってねえよ。質屋じゃねえんだから」
黒田は苛立った顔をしました。
「何が言いたいんだ?」
「取引の性質を確認しただけです」
相馬先輩は答えました。
そこで。
片桐所長から事前に言われていたことを思い出しました。
事実を先に固める。
法律は、その後。
黒田の言い分は明確でした。
通常の金銭貸付け。
時計は担保。
契約書に期限前から書かれた所有権移転条項。
そして。
今も時計は黒田の金庫にある。
第三者への転質は、まだされていない。
「これで十分です」
相馬先輩が言いました。
「何が十分なんだ?」
「事実関係です」
黒田が笑いました。
「じゃあ、とっとと帰れ」
「分かりました」
相馬先輩は頭を下げました。
「今後、奈緒さんご本人から書面で通知されることになると思います」
「ああ?」
黒田が鼻を鳴らしました。
「好きにしろよ。契約書はこっちにあるんだ」
私たちは店を出ました。
外へ出た瞬間。
私は相馬先輩に詰め寄りました。
「先輩!」
「何だ」
「何で何も言い返さなかったんですか!」
「言い返してどうする」
「三百四十九条があるじゃないですか!」
「あるな」
「だったら、あの場で突きつければ!」
相馬先輩は足を止めました。
「こはる」
「はい」
「俺たちは、あの男の代理人でも、奈緒さんの交渉代理人でもねえ」
「……はい」
「口げんかで勝っても、時計は戻ってこねえ」
先輩は煙草を取り出しました。
「今、分かったことは何だ」
「時計は、まだ黒田の金庫にあります」
「そうだ」
「黒田は転質していません」
「そうだ」
「期限前から、流質契約の条項を入れていました」
「そこだ」
先輩が頷きました。
「そして何より」
「はい」
「奈緒さんは十万円を用意して、返済しようとしている」
私は息を止めました。
……そうか。
借金を返す。
質物を取り戻す。
ただ、それだけの話を。
黒田は、契約書の一文で妨害している。
「こはる」
「はい」
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は顔を上げました。
「……内容証明ですね」
「ああ」
相馬先輩が笑いました。
「今度は、あいつに六法を読ませてやれ」
◇
事務所へ戻ると。
片桐所長が、黒田との貸付契約書を机に広げました。
「こはる」
「はい!」
「原案を作れ」
「任せてください!」
私は原稿用紙を取りました。
そして。
一気に書きました。
――貴殿が本件時計の所有権を取得したと主張することは、明白に違法である。
――直ちに時計を返還されたい。
――応じない場合は、差押えその他の強制執行を行う。
「できました!」
私は所長へ差し出しました。
所長は読みました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
嫌な予感です。
「全部、やり直しだ」
「えええっ!?」
「まず」
赤線。
「『明白に違法』。理由を書け」
「三百四十九条です!」
「だったら、その条文と該当事実を示せ」
「はい……」
「次」
赤線。
「いきなり強制執行などできん」
「あっ」
そうでした。
内容証明を送ったからといって。
相手の財産を、すぐ差し押さえられるわけではありません。
裁判上の手続が必要です。
「最後」
所長が言いました。
「一番大事なことが抜けている」
「……何でしょう」
「借金を返すことだ」
私は固まりました。
「え?」
「質権は、借金を担保するための権利だ」
「はい」
「流質契約の条項が効力を持たないとしても、それだけで借金が消えるわけじゃない」
「あ……!」
そうです。
黒田の契約書に問題があっても。
十万円を借りた事実は消えません。
質権が有効に成立しているなら。
黒田には、被担保債権の弁済を受けるまで時計を留置できる権利がある。
民法三百四十七条。
「だから」
所長が言いました。
「奈緒さんが、弁済すべき金額を支払う。そのうえで返還を求める」
「はい!」
「利息や違約金の約定も確認しておけ」
私は契約書を見直しました。
幸い。
今回の借金は、無利息。
違約金の定めもありません。
借りた金額は十万円。
弁済すべき金額も十万円。
「これなら……!」
「まだだ」
相馬先輩が遮りました。
「相手は、返済を受け取らなかったんだろ」
「はい」
「だったら、金を用意したというだけで終わらせるな」
先輩は別の書類を取り出しました。
返済申入れの記録。
奈緒さんが黒田の店に出向いた日時。
持参した金額。
黒田が受領を拒絶した言葉。
そして。
その場に同行していた親戚の証言。
「これを事実確認書にまとめる」
「なるほど……!」
「さらに、相手が受領を拒否するなら、弁済供託も検討する」
弁済供託。
債権者が正当な理由なく弁済を受け取らない場合などに、法務局の供託所へ金銭を供託する仕組みです。
「所長!」
「何だ」
「相手が『金なんか受け取らねえ』って言えば、永久に時計を返さなくていいわけじゃないんですね!」
「そうだ」
私は、少しだけ笑いました。
なるほど。
法律は。
人質みたいに時計を握り続ける相手に、きちんと対抗する手段も用意しているのです。
その日の午後。
奈緒さんは、所長の説明を受けて返済の意思を確認し、黒田が明確に受領を拒んでいる事情を整理したうえで、十万円の弁済供託の手続を進めました。
供託が受理されたことを示す書類が、事務所へ届きます。
「これで……」
私は書類を見つめました。
「相手の『金を受け取っていない』という言い訳に、対抗できますね」
相馬先輩が頷きました。
「ああ。適法な供託なら、弁済と同じ効果がある」
そして。
いよいよ内容証明です。
私はもう一度、原案を書き直しました。
◇
三時間後。
机の上に、一通の通知書が置かれました。
宛先。
黒田源蔵。
差出人。
杉浦奈緒。
表題。
――質物返還請求通知書。
私は、緊張しながら読み上げました。
「第一。本通知人は、昭和六十三年六月三十日、貴殿より金十万円を借り受け、その担保として本件腕時計を貴殿に引き渡した」
「うん」
「第二。右腕時計については、民法第三百四十二条及び第三百四十四条に基づく動産質権が設定されたものである」
「続けろ」
「第三。本件契約書には、弁済期までに返済がない場合、本件腕時計の所有権が当然に貴殿に移転する旨の条項がある」
私は一度、息を吸いました。
「第四。しかし、右条項は、質権設定時になされた流質契約に当たり、民法第三百四十九条に反し、その効力を有しない」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
私は続けます。
「第五。本通知人は、弁済期経過後、貴殿に対して貸付元本十万円の弁済を申し出たが、貴殿はその受領を拒絶した」
「うん」
「第六。そこで本通知人は、民法第四百九十四条に基づき、昭和六十三年十月四日、金十万円を弁済供託した」
所長が静かに言いました。
「供託番号も入れておけ」
「はい!」
私は書き加えました。
そして最後。
「第七。よって本通知人は、被担保債権の消滅に伴い、本件腕時計の返還を請求する」
私は顔を上げました。
「以上!」
相馬先輩は腕を組みました。
「もう一つだ」
「えっ!?」
「第三者への処分を防ぐ」
「あ!」
そうでした。
黒田は、明日売ると言っていた。
時計を第三者に渡されたら、話が複雑になります。
動産質は、質物の占有が重要です。
そして、動産には即時取得など別の問題もある。
早く止める必要があります。
私は書き足しました。
――本通知書到達後、直ちに本件腕時計の売却、譲渡、転質その他第三者への処分を控え、返還日時について書面により回答されたい。
最後には。
――返還に応じない場合は、弁護士に相談のうえ、訴訟その他の適切な法的措置を検討する。
私は筆を置きました。
……。
さっきの原案とは、まるで違います。
感情的な言葉はありません。
怒鳴ってもいません。
ただ。
事実。
条文。
供託。
返還請求。
それだけが、静かに並んでいます。
「所長」
「何だ」
「これ、黒田さんが読んだらどうなりますか?」
「分からん」
「え?」
「相手がどう反応するかは、送ってみなければ分からん」
所長は原案を机に置きました。
「だが」
「はい」
「少なくとも、こちらが何を根拠に返還を求めているかは、明確になる」
相馬先輩が笑いました。
「それに、あの男には説明しなきゃならねえことがある」
「何ですか?」
「なぜ、民法三百四十九条に反する条項で、六十万円の時計を自分のものにできると思ったのか」
「はい」
「なぜ、借金を返そうとする相手から金を受け取らなかったのか」
「はい」
「なぜ、担保権が消滅した後も時計を返さないのか」
……。
私は背筋が伸びました。
「反論するの、大変ですね」
「そうだな」
「所長」
「何だ」
「これって、相手の逃げ道を一つずつ塞いでるんですね」
所長は頷きました。
「そうだ」
「法律の書面って、すごいですね」
「怖いのは書面じゃない」
所長が静かに言いました。
「自分の行為を、法律で説明できないことだ」
私は、その言葉を心に刻みました。
◇
内容証明郵便を発送した翌々日。
黒田源蔵から、事務所へ電話が入りました。
「……片桐さんはいるか」
私は受話器を握りました。
聞き覚えのある声。
でも。
前とは、まるで違いました。
「少々お待ちください」
片桐所長が電話に出ます。
「片桐です」
『あの……例の時計の件なんだが』
「はい」
『書面が届いた』
「そうですか」
『あれ、本当に三百四十九条っていうのがあるのか?』
私は思わず顔を上げました。
……!
まさか。
法律を確かめずに、あんな契約書を書いていたんですか!?
所長は淡々と答えました。
「条文は六法でご確認いただけます」
『いや、その……』
黒田は言葉を濁しました。
『知り合いの弁護士に見せたんだよ』
「はい」
『そしたら……』
沈黙。
『質屋営業じゃない普通の質権なら、期限前から時計を自分のものにする約束は、原則として駄目だって』
私は、心の中で拳を握りました。
来ました。
三百四十九条。
『しかも、借金は供託されてるっていうじゃねえか』
「その旨は通知書に記載されています」
『……』
黒田は、しばらく黙りました。
それから。
『俺は、契約書に本人がハンコを押してるから大丈夫だと思ってたんだよ』
「そうですか」
『だが、裁判になったら……』
そこで声が小さくなりました。
『時計を返せって判決になる可能性が高いって言われた』
所長は黙って聞いています。
『それに、あの時計、もう買い手に話をつけちまってるんだ』
「はい」
『売ったら余計に面倒になるって……』
私は思わず息を呑みました。
黒田は、返済を拒んだうえで。
時計を売るつもりだった。
でも。
法律を確認した弁護士から、その危険を指摘されたのです。
『……分かったよ』
黒田が言いました。
『時計は返す』
私は顔を上げました。
『まだ金庫にある。誰にも渡してねえ』
「そうですか」
『ただ……』
「はい」
『訴えるのだけは、勘弁してくれ』
所長は静かに答えました。
「返還を希望されるのであれば、その意思をご本人へ書面でお伝えください。返還の具体的なことは、ご本人同士で確認していただくことになります」
『……分かった』
電話が切れました。
私は思わず立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「返すって言いましたよね!」
「ああ」
「やりましたね!」
相馬先輩が横から言いました。
「まだだ」
「え?」
「時計が戻ってくるまでは終わりじゃねえ」
「……はい」
そうでした。
口約束だけでは、何も終わっていません。
実際に返してもらう。
そして、その事実を残す。
それが大切なのです。
◇
三日後。
奈緒さんは、親戚の立会いのもとで、黒田から腕時計を返してもらいました。
その後。
事務所へ、一枚の確認書を持ってきました。
――本件貸付金債権が弁済供託によって消滅したことを確認する。
――本件腕時計に設定された質権が消滅したことを確認する。
――本件腕時計を杉浦奈緒に返還した。
――本件貸付契約及び質権設定契約に基づき、以後、本件腕時計に対する権利を主張しない。
署名。
黒田源蔵。
押印。
そして。
奈緒さんの手には、銀色の腕時計がありました。
「戻ってきました」
そう言って、笑いました。
私は思わず息を吐きました。
「よかった……!」
「本当に、ありがとうございました」
「いえ!」
私は時計を見ました。
古い革ベルト。
小さな傷。
少しくすんだ文字盤。
でも。
針は、ちゃんと動いていました。
「父が、毎日つけていた時計なんです」
奈緒さんが言いました。
「工場で働いていて、よくぶつけていたから、傷だらけで」
私は頷きました。
「この傷も?」
「はい」
奈緒さんは裏蓋を指で撫でました。
「父が、仕事中につけた傷です」
しばらく。
誰も何も言いませんでした。
十万円。
六十万円。
お金の話ばかりしていました。
でも。
奈緒さんにとって、この時計の価値は。
六十万円でも。
百万円でもなかった。
もう二度と会えない父親の時間が。
そこに残っていたのです。
「ところで、奈緒さん」
私は聞きました。
「黒田さん、最後は何か言っていましたか?」
奈緒さんは少し笑いました。
「契約書に書いてあったから、絶対に自分のものになると思っていたって」
「……まだ言ってたんですか」
「でも、最後には謝りました」
「え?」
「法律を知らなかった、って」
私は黙りました。
法律を知らなかった。
それで済む話ではありません。
でも。
少なくとも。
黒田はもう、時計を自分のものだと言い張らなかった。
「それでね」
奈緒さんが言いました。
「私も、借金の担保に預けたら、返せなかったときは絶対に取られると思っていました」
「……はい」
「でも、違うんですね」
私は頷きました。
「はい」
「担保は、借金を返してもらうためのものなんですね」
「そうです」
「返せなければ、必ずその物を丸ごと失うというわけじゃない」
「はい」
私は少し考えてから続けました。
「もちろん、借金を返さなくていいわけではありません。質権者は、法律に従って担保から優先的に弁済を受けることができます」
奈緒さんが頷きます。
「でも、六十万円の時計を預かったからといって、十万円の借金の代わりに当然に六十万円全部をもらっていいわけではないんです」
「……そうなんですね」
「はい」
私は笑いました。
「法律は、貸した人の権利も、借りた人の財産も、両方守ろうとしているんです」
奈緒さんは、時計を胸に抱きました。
「父も、喜んでくれると思います」
その言葉を聞いたとき。
私はようやく。
質権という言葉が、少し好きになりました。
◇
夕方。
奈緒さんが帰ったあと。
私は机に向かっていました。
目の前には、六法。
民法三百四十二条から三百六十六条まで。
質権の条文が並んでいます。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日、ちょっと勘違いしてました」
「何をだ」
「質権って、質屋さんの話だと思ってたんです」
「まあ、それも一つの例だな」
「でも、質権は質屋さんだけの制度じゃないんですね」
「そうだ」
私はノートを開きました。
動産質。
不動産質。
権利質。
「時計なら動産質」
「ああ」
「土地や建物なら不動産質」
「そうだ」
「それから、債権などの財産権にも質権を設定できる」
「そうだな」
私は少し考えました。
「でも、先輩」
「何だ」
「全部、物を預けるんですか?」
「……物?」
「だって、債権って、手で持てませんよね?」
先輩が笑いました。
「いいところに気づいたな」
「また褒めましたね!」
「まだだ」
「何でですか!」
相馬先輩は六法を開きました。
「質権ってのは、目的が違えば要件も変わる」
「はい」
「動産なら、引渡しと継続占有が大事だ」
「はい」
「不動産なら、登記が第三者対抗要件になる。しかも不動産質権者は、その不動産を使用収益できるのが原則だ」
「へえ!」
「ただし管理費用などの負担もある。存続期間も十年が上限だ」
「十年!」
私は驚きました。
「じゃあ、十五年って契約しても?」
「十年になる」
「なるほど……」
私はノートに書きました。
不動産質権。
最長十年。
そして。
ふと、疑問が浮かびました。
「先輩。債権に質権を設定する場合は?」
「債権質だな」
「債権って、お金を請求する権利ですよね」
「そうだ」
「その権利を担保にしたら、誰がお金を取り立てるんですか?」
相馬先輩は、にやりとしました。
「質権者が直接取り立てられる場合がある」
「ええっ!?」
「民法三百六十六条だ」
私は慌てて六法を開きました。
そして。
思わず声が出ました。
「本当だ!」
「だろ」
「時計を預かるのとは、全然違うじゃないですか!」
「だから、質権は奥が深えんだよ」
なるほど。
同じ質権でも。
動産。
不動産。
債権。
目的が違えば、成立や第三者への対抗、権利の使い方にも違いがある。
しかも。
譲渡できない権利は、原則として質権の目的にできない。
「……覚えること、多すぎません?」
「行政書士試験ってのは、そういうもんだろ」
「うう……」
私は頭を抱えました。
質権。
たった二文字なのに。
こんなに論点があるなんて。
でも。
今日の事件を思い出せば。
最初の基本だけは、もう忘れないと思います。
質権は。
お金を返してもらうために、物を預かる権利。
そして。
法律上の手続によって、優先的に弁済を受けることができる権利。
けれど。
その物を、最初から自分のものにする権利ではありません。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「質権は、担保を占有して、優先弁済を受ける権利です」
「うん」
「動産質は、物を引き渡すことが大切です」
「そうだ」
「そして、返せなかったら自動的に物を自分のものにする、という期限前の約束は、原則として認められません」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートの最後に、一行だけ書きました。
――質権は「預かって優先回収する権利」であって、「勝手に丸ごと奪う権利」ではない。
今日の教訓。
これなら、忘れません。
◇
「ところで」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「こはる。お前、時計は好きか?」
「時計ですか?」
「ああ」
「好きですよ。腕時計って、何か格好いいじゃないですか」
「そうか」
先輩は自分の腕を見せました。
古びた腕時計。
革ベルトが、少し擦り切れています。
「これ、いくらだと思う?」
「え?」
私は時計を眺めました。
昭和の時計。
たぶん、そこそこ古いものです。
「五千円くらいですか?」
「三万円だ」
「ええっ!?」
「昔、買ったんだよ」
「先輩、意外といい時計してるんですね!」
「意外とは何だ」
私は笑いました。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「私が先輩から千円借りるとき、その時計を担保にしてもいいですか?」
「何で俺の時計を、お前の借金の担保にするんだよ」
「え?」
「借りるのはお前だろ」
「でも第三者が質権を設定することもできますよね!」
相馬先輩が止まりました。
「……ほう」
「物上保証人です!」
私は得意になりました。
他人の債務を担保するために、自分の財産へ質権を設定する人。
民法三百五十一条。
物上保証人の求償権まで、ちゃんと規定されています。
「だから先輩!」
「何だ!」
「私が千円借りるために、先輩が自分の時計を担保として差し出すことも、理屈の上ではできるんです!」
「できるな」
「ですよね!」
「だが断る」
「ええっ!?」
「何で俺がお前の借金のために時計を預けなきゃならねえんだ」
「……確かに」
「しかも千円」
「少額で安全じゃないですか!」
「少額なら自分で返せ!」
私は笑いました。
でも。
相馬先輩は、そこで少し真面目な顔になりました。
「こはる」
「はい?」
「他人の借金のために、自分の財産を担保にするってのは、軽い話じゃねえぞ」
「……はい」
「借りた奴が返さなければ、自分の物が競売にかけられる可能性だってある」
「そうですね」
「だから、誰の借金を、誰の財産で担保するのか。そこをちゃんと確認しろ」
私は頷きました。
物上保証人。
教科書では、ただの法律用語です。
でも。
現実には。
子供の借金のために、自分の土地を担保にする親。
夫の事業のために、自分の財産を差し出す妻。
友人を助けるために、大切な品物を預ける人。
そんな人たちがいる。
法律の用語の向こう側には。
必ず、誰かの生活があるのです。
窓の外。
夕日が商店街を赤く染めていました。
私は、奈緒さんの腕時計を思い出しました。
十万円を借りるために預けた、父親の形見。
黒田は、それを六十万円で売ろうとしていた。
けれど。
民法三百四十九条。
たった一つの条文が、その思惑に大きな壁を作った。
そして、弁済供託という手続が、時計を取り戻す道を開いた。
質権。
財産を担保にする制度。
冷たい言葉です。
でも。
担保を取る側にも、担保を差し出す側にも、守られるべき権利がある。
その境界を明確にすることが、法律の役割なのです。
「所長」
「何だ」
「今日、ちょっと思いました」
「何をだ」
「質権って、人質に似てるようで、全然違うんですね」
所長が顔を上げました。
「どういう意味だ」
「人質だったら、相手の言うことを聞くしかないじゃないですか」
「うん」
「でも質権には、法律で決められた限界がある」
私は続けました。
「借金を返さなければ、質物から回収できる。でも、好き勝手に奪っていいわけじゃない」
所長は頷きました。
「そうだ」
「担保を取る人も、法律を守らないといけないんですね」
「そのとおりだ」
私はノートを閉じました。
よし。
今日も一つ、民法が好きになりました。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声でした。
『知人にお金を貸したんですが、担保として預かった土地について相談したくて……』
私は止まりました。
土地。
つまり。
不動産です。
『土地を預かったんだから、私が使ってもいいと思うんですが……』
私は相馬先輩を見ました。
先輩もこちらを見ました。
『ところが、土地の持ち主が、勝手に使うなって言うんです』
……。
来ました。
今度は。
不動産質権。
しかも。
使用収益権が問題になりそうです。
「先輩」
「何だ」
「今度は、土地です」
「聞こえてる」
「不動産質権者って、使用収益できるんですよね!」
「原則はな」
「じゃあ、使っていいじゃないですか!」
「待て!」
相馬先輩が叫びました。
「はい?」
「まず、質権が本当に設定されているか確認しろ!」
「あっ!」
そうでした。
土地を担保にすると言っただけで、不動産質権が成立しているとは限りません。
不動産質権も、設定契約と引渡しが必要です。
さらに、第三者への対抗には登記が重要になる。
「それに!」
相馬先輩が続けました。
「使用収益できるからって、何でも勝手に使っていいわけじゃねえ!」
「……はい」
「用法に従って使うんだ。管理費用だって負担する」
「なるほど!」
「あと、普通は利息の請求にも制限がある」
「ええっ!?」
私は慌てて六法を開きました。
民法三百五十八条。
不動産質権者による利息の請求の禁止。
「本当だ!」
「ったく……」
「先輩!」
「今度は何だ!」
「質権って、動産と不動産で全然違うじゃないですか!」
「だから勉強しろって言ってんだよ!」
「はいっ!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、その土地について、どのような契約をして、いつ引渡しを受けたのか、詳しく教えてください」
昭和六十三年。
民法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
時計。
土地。
債権。
担保にする財産が違えば、法律の仕組みも変わる。
けれど。
その根底にある考え方は、同じです。
借金を返してもらうために、財産を担保にする。
しかし。
担保を取った者が、財産の持ち主より何でも偉くなるわけではない。
法律は。
借金をした人間の、大切なものまで、無制限に奪うことを許してはいないのです。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「やっぱり、民法って面白いですね!」
「面白がる前に、相談票を書け!」
「はいっ!」
私は笑いながら、鉛筆を手に取りました。
そして、心の中で。
もう一度、今日の教訓を繰り返しました。
――質権は、預かって優先回収する権利。勝手に丸ごと奪う権利ではない。
父親の形見を取り戻した奈緒さんは。
今夜きっと、あの腕時計を枕元に置いて眠るのでしょう。
針が刻む、一秒一秒。
その時間を、誰にも奪われずに。
だって。
担保に預けたのは、腕時計であって。
父親との思い出まで、売り渡したわけではないのですから。
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