[民法・先取特権]法理編 こはるノート
借金を返してもらう権利があることと、誰よりも先に返してもらえることは、同じではありません。
百万円を貸した人。
十万円の商品を売った人。
三か月分の給料をもらっていない人。
全員が、同じ債務者にお金を請求している。
ところが。
債務者の手元には、五十万円しかない。
さて。
誰がお金を受け取るのでしょうか。
早く請求した人?
怒鳴り込んだ人?
借金の金額が一番大きい人?
……違います。
そこには、法律が決めた順番があるのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かって、鉛筆を握っていました。
目の前には、使い込まれた六法。
そして。
――こはるノート・民法編。
昨日の事件を、きちんと整理する時間です。
「……先取特権って、名前がずるいですよね」
私が呟くと、新聞を読んでいた相馬先輩が顔を上げました。
「今度は何だ」
「先に取る特権、ですよ?」
「そうだな」
「名前を見たら、誰よりも先に何でも取れると思うじゃないですか」
「思わねえよ」
「私は思いました!」
「だからお前は、まだ見習いなんだ」
うっ。
反論できません。
私はノートを開きました。
「でも、昨日の事件で分かったんです」
「何がだ」
「先取特権って、ただの早い者勝ちじゃないんですよね」
「ああ」
「法律が、特別な理由のある債権に、優先して弁済を受ける権利を与えている」
「そうだ」
私は頷きました。
昨日の相談者。
野村澄江さん。
大黒鉄工所で働いていた女性です。
三か月分の給料。
三十六万円。
それを、社長が払わなかった。
社長は言いました。
――銀行には担保がある。
――材料屋には約束手形がある。
――従業員には担保がない。
――だから給料は最後だ。
でも。
その理屈には、大きな間違いがありました。
給料には、法律上の先取特権が認められる場合がある。
当事者が担保設定契約を結んでいなくても。
社長が認めていなくても。
法律の定める要件を満たせば、優先弁済権が成立する。
そのことを内容証明で知らせた結果、社長は弁護士に相談し、未払給料を支払ったのでした。
「よし!」
私は鉛筆を構えました。
「今日は先取特権を完全攻略します!」
「昨日もそんなこと言ってたな」
「昨日は現場です。今日は理論です!」
「試験前の受験生みたいなこと言いやがって」
……実際、受験生なんですけどね。
未来から来た。
もちろん。
口には出せません。
最初のページ。
私は大きく書きました。
――民法第三百三条。
――先取特権。
「まず、定義です!」
私は読み上げました。
「先取特権とは、法律の規定に従って、債務者の財産について、他の債権者に先立って弁済を受ける権利です」
「うん」
「つまり、優先弁済権ですね」
「そうだ」
片桐所長が、奥の机から声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「抵当権と何が違う」
来ました。
いきなり核心です。
「抵当権も、優先弁済を受けるための権利です」
「うん」
「でも、抵当権は原則として当事者の設定契約で成立します」
「そうだ」
「質権も、設定の合意と目的物の引渡しなど、法律上の成立要件が必要です」
「うん」
「一方、先取特権は、法律で決められた原因があれば、担保設定契約をしなくても成立します!」
所長が頷きました。
「それが違いだ」
私はノートに二つの言葉を書きました。
約定担保物権。
法定担保物権。
「抵当権や質権は、約定担保物権」
「うん」
「先取特権は、法定担保物権」
「そうだ」
私は少し考えました。
「先輩。例えば、私が先輩に千円貸したとします」
「嫌だな」
「まだ貸してません!」
「じゃあいい」
「話を聞いてください!」
私は続けました。
「千円貸すときに、先輩の万年筆を質に取る約束をして、実際に受け取ったとします」
「うん」
「それなら、質権の成立が問題になります」
「そうだな」
「でも、私が先輩のために働いて、給料をもらえなかった場合には?」
「法律で定める要件に当てはまれば、先取特権が成立する」
「そうです!」
私は机を軽く叩きました。
「つまり、先取特権は『担保を取る約束を忘れたから駄目』という話ではないんですね!」
「そういうことだ」
相馬先輩は新聞を畳みました。
「昨日の大黒社長は、そこを間違えていた」
「はい」
「給料に抵当権を付けてないから、銀行より下だと思い込んでた」
「そうです」
「だが、法律はそう単純じゃねえ」
私は大きく丸をつけました。
――先取特権は、法定担保物権。
よし。
まず一つ。
攻略です。
次に私は、ノートを三つに区切りました。
一般先取特権。
動産先取特権。
不動産先取特権。
「この三つが、先取特権の大きな分類です」
相馬先輩が頷きます。
「じゃあ、違いを言ってみろ」
「はい!」
私は鉛筆を握り直しました。
「一般先取特権は、債務者の総財産について認められます」
「うん」
「動産先取特権は、特定の動産について」
「うん」
「不動産先取特権は、特定の不動産についてです!」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
私は得意になりました。
しかし。
「じゃあ、大家が家賃を払ってもらえない場合は?」
「不動産先取特権です!」
「違う」
「……え?」
「もう一回」
……。
あっ!
「動産先取特権でした!」
「そうだ」
「ひっかけ問題!」
「自分で引っかかっただけだろ」
私は額を押さえました。
そうです。
不動産の賃貸借。
名前には、不動産。
でも分類は、動産先取特権。
なぜか。
それは、優先権の目的となる財産を見れば分かります。
建物の賃貸人なら、一定の範囲で、賃借人が建物に備え付けた動産。
土地の賃貸人なら、その土地の利用に関係する動産など。
つまり。
家賃が生じた原因は不動産の賃貸借でも、先取特権が及ぶのは特定の動産なのです。
「なるほど……」
私は頷きました。
「何から債権が生じたかだけじゃなく、何を目的にする権利かを見るんですね」
「そのとおりだ」
片桐所長が言いました。
「名称だけで分類するな」
「はい!」
私は赤線を引きました。
――不動産の賃貸借の先取特権は、動産先取特権。
ここ。
試験に出たら、絶対に間違えません!
さて。
一般先取特権です。
私はノートに書きました。
――共益の費用。
――雇人の給料。
――葬式の費用。
――日用品の供給。
「昭和六十三年の民法第三百六条では、この四つが一般先取特権の原因です」
「そうだ」
「この並びには、ちゃんと意味があるんですよね」
相馬先輩が頷きました。
「優先順位だ」
私は大きく丸をつけました。
共益費用。
雇人給料。
葬式費用。
日用品供給。
左から順番に、優先順位が高い。
「所長、まず共益の費用って何ですか?」
「債権者の共同の利益のために、債務者の財産を保存したり、清算したり、配当したりする費用だ」
「共同の利益……」
私は少し考えました。
例えば。
借金だらけの人が亡くなった。
財産が散逸しないよう、必要な費用をかけて保管した。
それによって、複数の債権者が弁済を受けるための財産を守ることができた。
「その費用を負担した人が、何も受け取れないとしたら?」
私が聞くと、相馬先輩が答えました。
「誰も財産を守ろうとしなくなるな」
「そうです!」
みんなのために財産を守った人。
その費用を優先して保護する。
だから共益費用は、一般先取特権の中でも第一順位。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「共益費用の範囲を広げすぎるな」
「はい?」
「単に共同住宅の管理費という名前が付いているから、何でも民法三百七条の共益費用になるわけではない」
「あ……」
「誰の、どの財産について、どの債権者の共同利益のために支出された費用かを調べる必要がある」
私は頷きました。
なるほど。
名前だけで当てはめてはいけない。
これも、さっきと同じですね。
「では、第二順位!」
私は続けました。
「雇人の給料です!」
昨日の事件。
野村澄江さん。
三か月の未払い賃金。
三十六万円。
「昭和六十三年では、民法三百八条が、最後の六か月間の給料などを保護しているんですね」
「そうだ」
「だから、澄江さんの三か月分は対象になる」
「うん」
「でも、もっと古い給料まで、何でも同じ先取特権で保護されるわけじゃない」
私は赤線を引きました。
昭和六十三年。
雇人の給料。
最後の六か月間という範囲。
この時代のルールを忘れてはいけません。
次は。
葬式の費用。
「これは、葬式に必要な費用ですね」
「そうだ」
「ただし、何でもかんでも豪華にすればいいわけじゃない」
「当たり前だ」
私は頷きました。
身分や生活状況などに照らして、相当な葬式費用が問題になります。
最後は。
日用品の供給。
「食料品や燃料など、生活に必要なものを供給した人ですね」
「うん」
「昭和の民法でも、期間や対象となる供給品目に決まりがあります」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
私は少し考えました。
「これ、全部つながっていますね」
「何がだ」
「財産を守ること。働いて生活すること。亡くなった人を弔うこと。日々の生活に必要なものを手に入れること」
私はノートを見つめました。
「全部、人の暮らしに深く関係しています」
所長は静かに頷きました。
「だから法律が、特別な優先権を定めている」
なるほど。
条文を読むだけなら、四つの暗記です。
でも。
その意味を考えれば。
なぜ、このような種類があるのかが見えてきます。
次は。
動産先取特権。
私はノートをめくりました。
「ここから急に種類が増えるんですよね……」
相馬先輩が笑いました。
「八つだ」
「八つ!」
「言ってみろ」
「ええっ!」
私は六法を覗き込みました。
不動産の賃貸借。
旅館の宿泊。
旅客または荷物の運輸。
動産の保存。
動産の売買。
種苗または肥料の供給。
農業の労務。
工業の労務。
「……先輩」
「何だ」
「覚えること、多すぎません?」
「まだ序の口だ」
「恐ろしい!」
でも。
一つずつ考えれば、理由が見えてきます。
「たとえば、動産の保存です」
私は言いました。
「壊れかけた機械を、修理業者が修理した」
「うん」
「修理代金を払ってもらえなかった」
「そうだな」
「その場合、一定の要件のもとで、修理した機械について動産保存の先取特権が成立するんですよね」
「そうだ」
なるほど。
修理業者が機械を直したから、機械の価値が守られた。
その人が代金をもらえないのに、他の債権者が機械の価値から利益を受ける。
それでは不公平です。
「じゃあ、動産の売買は?」
相馬先輩が聞きました。
「売った品物の代金を払ってもらえなかった場合です!」
「例えば?」
「機械を売ったのに、代金が未払い!」
「よし」
その場合、法律の要件を満たせば、売主は売った機械について先取特権を持ちます。
ただし。
ここで私は、昨日の旋盤を思い出しました。
「先輩、もし大黒社長が、旋盤を買ったときの代金も払っていなかったら?」
「ほう」
「旋盤の売主にも、動産売買の先取特権があるかもしれませんよね」
「そうだ」
「そうなると、澄江さんの給料の先取特権と競合する可能性がある……」
相馬先輩が頷きました。
「だから、工場の機械は全部従業員が優先して取れる、なんて言えなかったわけだ」
「なるほど!」
一般先取特権。
特別の先取特権。
さらに抵当権や質権。
いくつもの権利が、同じ財産をめぐって競合することがあります。
だからこそ、優先順位の確認が必要になるのです。
「それから、こはる」
「はい?」
「動産の先取特権には、大きな落とし穴がある」
「落とし穴?」
先輩は六法の第三百三十三条を指差しました。
「債務者が目的の動産を第三取得者に引き渡した後は、その動産について先取特権を行使できなくなる」
「……え?」
私は条文を読みました。
そして。
「えええっ!」
声が出ました。
「引き渡されたら、もう追いかけられないんですか!」
「原則として、そういうことだ」
「じゃあ、動産売買の先取特権があるから安心、とは言えませんね!」
「言えねえな」
私は頭を抱えました。
先取特権がある。
でも。
目的物が第三者に引き渡されると、その物に対して行使できなくなる。
権利があるのに、使える財産を失う。
これは怖い。
「だから、先輩は昨日、旋盤がまだ引き渡されていないか確認したんですね」
「そうだ。ただし、あれは権利関係を調査するためでもある。給料の一般先取特権について、三百三十三条をそのまま当てはめる話じゃねえぞ」
「あっ、そうでした!」
また混同しかけました。
種類が違えば、適用の仕方も違う。
……先取特権。
想像以上に奥が深いです。
そして。
不動産先取特権。
私はノートに三つ書きました。
保存。
工事。
売買。
「これは比較的覚えやすいですね!」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、違いを言ってみろ」
「はい!」
私は一つずつ説明しました。
不動産の保存。
建物の倒壊を防ぐための修理など、不動産の保存に必要な費用について認められる先取特権。
不動産の工事。
不動産の設計、施工、監理などの工事費用に関する先取特権。
不動産の売買。
不動産の売買代金やその利息について認められる先取特権。
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、順位は?」
「保存、工事、売買です!」
「正解」
私は胸を張りました。
しかし。
所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい!」
「では、建物の工事代金を払ってもらえなかった業者は、いつでも抵当権者に優先できるか」
「え?」
私は固まりました。
工事の先取特権。
抵当権。
優先順位。
「……法律で先取特権があるなら、優先できるんじゃないですか?」
「登記は?」
「登記?」
私は六法をめくりました。
第三百三十八条。
不動産工事の先取特権。
その効力を保存するためには。
工事を始める前に、工事費用の予算額を登記しなければならない。
……。
「工事前!?」
私は思わず立ち上がりました。
「工事が終わってからじゃ駄目なんですか!?」
「条文を読め」
「……工事を始める前です」
「そうだ」
「しかも、費用が予算額を超えたら、その超過額には先取特権がない……」
私は椅子に座り直しました。
これは厳しい。
工事業者は、工事を始める前から将来の代金回収を考えておく必要があるのです。
「所長、不動産保存の先取特権は?」
「保存行為が完了した後、直ちに登記する」
「売買は?」
「売買契約と同時に、代金などが未払いであることを登記する」
私は三つの違いを確認しました。
保存は、保存行為が終わった後、直ちに。
工事は、工事を始める前。
売買は、売買契約と同時。
「……全部違う!」
相馬先輩が笑いました。
「だから面倒なんだよ」
「しかも、保存や工事の先取特権は、適切に登記すれば抵当権より優先できる場合があるんですよね!」
「そうだ」
民法第三百三十九条。
第三百三十七条または第三百三十八条に従って登記した不動産保存・工事の先取特権は、抵当権に先立って行使できる。
「すごいですね……」
私は呟きました。
でも、理由を考えれば納得できます。
壊れかけた建物を修理した人。
土地や建物の価値を増やす工事をした人。
その仕事がなければ、不動産の価値は守られなかったかもしれません。
もっとも、不動産工事の先取特権は、現存する増価額を限度とするなど、厳しい制約があります。
「だから所長」
「何だ」
「『法律で先取特権がある』だけでは、まだ足りないんですね」
「そうだ」
「登記が必要なものは、登記まで考えなければいけない」
「うん」
「先取特権は自動的に成立するから、何もしなくていい、というわけじゃない」
所長が頷きました。
「よく分かったな」
私はノートに赤線を引きました。
――法定担保物権でも、権利の保全・対抗・実行には手続が必要。
これは重要です。
先取特権があること。
実際に優先弁済を受けられること。
その二つは、必ずしも同じではないのです。
「さて」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「次は物上代位だ」
「来ました!」
私は鉛筆を持ち直しました。
昨日、旋盤の売却代金をめぐって登場した言葉です。
物上代位。
民法第三百四条。
「これ、最初は意味が分かりませんでした」
「今は?」
「少し分かります!」
私はノートに絵を描きました。
一台の機械。
その横に、矢印。
そして、お金。
「例えば、動産売買の先取特権が成立している機械があるとします」
「うん」
「その機械が売却されて、元の所有者に売却代金債権が発生した」
「うん」
「一定の条件を満たせば、その代金債権に先取特権の効力を及ぼせる場合がある」
「そうだ」
「これが物上代位ですね!」
先輩が頷きました。
私は続けました。
「ほかにも、先取特権の目的物が火災で焼失して、保険金請求権が発生した場合などがあります」
「そうだな」
機械そのもの。
売却代金。
火災保険金。
形は違います。
でも。
目的物の価値が、別の財産に姿を変えたという点では共通しています。
「ただし!」
私は鉛筆を掲げました。
「払渡しや引渡しの前に差押えが必要!」
「正解」
「ここが一番大事ですね」
「そうだ」
なぜか。
それは、対象となる債権を特定し、他の債権者や第三債務者との関係を整理する必要があるからです。
お金が既に支払われてしまえば、同じようには行使できません。
「先輩、これも早い者勝ちと混同してはいけませんね」
「そうだな」
「差押えは、物上代位を行使するための重要な要件。でも、差押えさえ早ければ、他の担保権に必ず勝てるわけじゃない」
「そのとおりだ」
私は頷きました。
権利の順位と、権利を行使するための手続。
これも別なのです。
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「昨日の給料には、一般先取特権があったな」
「はい」
「なら、旋盤の売却代金に三百四条の物上代位を、そのまま当てはめられるか」
「いいえ!」
私は即答しました。
「今回の雇人給料の先取特権は、債務者の総財産を対象とする一般先取特権です」
「うん」
「特定の旋盤について成立した先取特権ではありません」
「そうだ」
「だから、特定動産の価値代替物を追いかけるという物上代位の話と、区別して考える必要があります!」
所長が頷きました。
もっとも、一般先取特権の行使についても、債権執行を含め、財産の種類や手続に応じた法律上の検討が必要です。
単純に「一般先取特権だから何でも差し押さえられる」とは言えません。
「昨日、先輩が旋盤の売却契約を確認したのは……」
「大黒にどんな財産があって、どんな金が入る予定なのかを把握するためだ」
「はい」
「それと、機械そのものについて別の担保権がないか、調べる必要もあった」
「なるほど」
私は大きく頷きました。
法律上の権利。
財産の所在。
他の債権者。
そして実行の手続。
全部、つながっている。
これが現場の民法なのです。
私はノートをめくりました。
残る大きな論点。
優先順位。
「先輩、ここが一番怖いです」
「何がだ」
「先取特権がある人同士でも、順番があるんですよね」
「そうだ」
「みんな優先できるなら、誰が一番優先するんですか?」
「それを決めるのが、優先順位の規定だろ」
「ですよね……」
私は鉛筆で、四人の債権者を書きました。
Aさん。
共益費用の債権者。
Bさん。
未払給料の債権者。
Cさん。
葬式費用の債権者。
Dさん。
日用品供給の債権者。
「この四人が、同じ債務者の財産から弁済を受けようとしていたら?」
相馬先輩が答えました。
「一般先取特権同士なら、民法三百二十九条の順位に従う」
「はい」
共益費用。
雇人給料。
葬式費用。
日用品供給。
「じゃあ、給料が優先されるのは、すべての債権者に対してですか?」
「違う」
「ですよね!」
例えば。
目的物について特別の先取特権がある場合。
原則として、特別の先取特権は一般先取特権に優先します。
ただし、共益費用については、その利益を受けた債権者に対して特別な優先関係が認められています。
「だから、昨日の大黒社長の工場でも……」
私は言いました。
「給料に一般先取特権があるからといって、銀行の抵当権や機械についての担保権を全部無視できるわけじゃない」
「そうだ」
「しかも、抵当権との競合は、担保の対象や登記などを確認しなければいけない」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「先取特権って名前だけで、何でも一番になれると思うな」
私は大きく頷きました。
そうです。
法律が与える優先権。
でも。
その優先権にも限界がある。
そして、もっと面白いのは。
動産先取特権同士の順位です。
「先輩、民法三百三十条って、どうしてこんなに複雑なんですか?」
「読んでみろ」
私は六法を見ました。
不動産賃貸借。
旅館宿泊。
運輸。
動産保存。
動産売買。
種苗・肥料供給。
農業労務。
工業労務。
これらの間で、順位が決まっている。
ただし。
保存行為をした人の扱いや、先順位の権利者が他の先取特権の存在を知っていた場合など、例外もあります。
「……ややこしい!」
「だから、単純な丸暗記だけじゃ危ねえんだよ」
私はため息をつきました。
でも。
ここでも法律は、単純に早く請求した人を勝たせているわけではありません。
誰が物を保存したのか。
誰が物を供給したのか。
その人が他の権利の存在を知っていたのか。
そうした事情が、順番に影響する。
「先輩」
「何だ」
「民法って、順番を決めるのにも理由があるんですね」
「そうだ」
「単に先に言った人が勝つんじゃなくて、誰の利益をどう守るべきかで順位を決めている」
相馬先輩が頷きました。
「その考え方が分かれば、条文も少しは覚えやすいだろ」
「はい!」
私は赤鉛筆を取りました。
そして、もう一つ。
民法第三百三十二条。
同一順位の先取特権者が複数いる場合。
「これは、債権額に応じて按分するんですよね」
「そうだ」
「例えば、同じ順位の先取特権者が二人いて、一方の債権が三十万円、もう一方が七十万円」
「うん」
「その二人に配当できる財産が二十万円なら……」
私は計算しました。
三対七。
だから。
六万円と十四万円。
「債権額の割合で分けるんです!」
「そうだ」
私は頷きました。
どちらも同じ順位。
だから、一方だけが全額を独占するわけではない。
これも公平さの一つなのです。
「ところで」
片桐所長が静かに言いました。
「一般先取特権について、もう一つ忘れてはいけない規定がある」
「何でしょう」
「民法第三百三十五条だ」
私は六法を開きました。
一般先取特権の効力。
まず不動産以外の財産から弁済を受ける。
それでも不足する場合に、不動産から弁済を受ける。
さらに不動産については、原則として特別担保の目的となっていないものから先に弁済を受ける。
「……順番が、ここにも!」
私は頭を抱えました。
相馬先輩が笑いました。
「先取特権の順位は、債権者同士だけじゃねえ」
「はい」
「どの財産から回収するかにも、法律上の順序がある」
「そうなんですね……」
私は昨日の鉄工所を思い出しました。
工場の土地建物には、銀行の抵当権。
一方、旋盤などの動産もある。
売掛金もある。
その中で。
給料債権の一般先取特権を、どのように実行するのか。
他の担保権者や第三者との関係をどう整理するのか。
「だから所長は、最初から不動産を売ればいいなんて言わなかったんですね」
「そうだ」
「しかも、一般先取特権は不動産について登記をしなくても、無担保の一般債権者に対抗できる場合があるけど……」
「うん」
「登記をした第三者には、対抗できない場合がある」
「そのとおりだ」
民法第三百三十六条。
ここも重要です。
一般先取特権は、登記が不要な場面があります。
でも。
だからといって、不動産上のすべての権利者に無条件で優先できるわけではありません。
「……先取特権って、便利だけど慎重に扱わないと危ないですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「法律上の優先権があることを知るのは、入口だ」
「はい」
「実際にどう行使できるかまで考えるのが、実務だ」
私は、その言葉をノートに書きました。
ここで。
私は少し手を止めました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今回の先取特権って、昭和六十三年と現代で、どこが一番違うんでしょうか」
「また未来の話か」
「大事なんです!」
私はノートに二本の線を引きました。
昭和六十三年。
現代。
「まず、先取特権の基本的な仕組みは、今でも続いています」
「ほう」
「契約で担保を設定しなくても、法律によって優先弁済権が成立するという考え方は同じです」
「うん」
「でも、雇用関係の先取特権については大きな違いがあります」
私は昨日の澄江さんの事件を思い出しました。
未払給料。
三か月分。
昭和六十三年。
民法第三百六条第二号は、雇人の給料。
第三百八条では、最後の六か月間の給料などが対象とされていました。
一方、現代の民法では。
雇用関係。
給料その他、雇用関係に基づいて生じた債権。
昔よりも、保護対象が広く整理されています。
「……なるほど」
私は頷きました。
「昔は雇人の給料という古めかしい言葉で、期間にも制限があった」
「そうだ」
「現代では、雇用関係に基づく債権という形になっている」
ここで所長が口を開きました。
「ただし、改正の時期を混同するな」
「え?」
「お前は何でも令和二年の債権法改正だと思っていないか」
「……!」
ぎくっ。
図星です。
契約不適合責任。
消滅時効。
法定利率。
令和二年施行の債権法改正。
私は、ついそこを中心に考えてしまいます。
「違うんですか?」
相馬先輩が呆れました。
「未来の改正なんて俺に聞くなよ」
「あ、そうでした!」
私は慌ててノートに書き直しました。
今回の先取特権に関する用語や雇用関係の保護範囲の見直しは、主として平成十六年の民法現代語化などの改正によるものです。
平成十七年施行。
つまり。
令和二年の大改正より前に、既に変わっていたのです。
「危なかった……」
私は呟きました。
「何がだ」
「未来の法律って、改正された時期まで覚えないといけないんですね」
「当たり前だろ」
……。
転生者って、大変です。
でも。
私は少し嬉しくなりました。
法律は、ある日突然、全部が変わるわけではない。
少しずつ。
社会に合わせて。
言葉や制度の範囲を見直してきた。
その積み重ねが、現代の民法なのです。
窓の外。
夕暮れの町に、街灯が灯り始めました。
私は昨日の澄江さんの手紙を取り出しました。
――娘のお弁当に、久しぶりに唐揚げを入れました。
私は、その一文を見つめました。
「所長」
「何だ」
「もし、澄江さんが先取特権を知らなかったら、どうなっていたんでしょう」
所長は少し考えました。
「給料を請求する権利そのものは、知らなくてもある」
「はい」
「先取特権も、要件を満たせば成立する」
「はい」
「だが、その権利を使わなければ、現実に支払を受けられないこともある」
私は黙りました。
そうです。
法律が守ってくれる。
でも。
法律は、何も知らない人の代わりに、勝手に銀行口座へお金を振り込んでくれるわけではありません。
権利を知る。
事実を整理する。
必要な書面を作る。
そして、適切な手続につなげる。
そこまでやって初めて。
法律が、現実の生活を守る力になるのです。
「先輩」
「何だ」
「行政書士って、先取特権を使って自分で差押えをすることはできないんですよね」
「そうだ。少なくとも、俺たちが依頼人の代理人として裁判所で差押えや競売の手続を引き受ける仕事じゃねえ」
「はい」
「それに、紛争になった相手と、代理人として示談交渉をすることもできねえ」
「はい」
「だが、何もできないわけじゃない」
先輩は机を指差しました。
「未払給料の事実を整理する」
「はい」
「債権額を明らかにする」
「はい」
「本人名義の通知書を整える。必要に応じて弁護士へ、使える資料を渡す」
「はい!」
「それだけで、戦い方が変わることはある」
私は頷きました。
昨日の大黒社長。
最初は、鼻で笑っていました。
担保がないから最後。
そう言い切っていた。
でも。
内容証明を受け取った後。
弁護士に相談し、給料を支払うことにした。
もちろん、あの書面だけで強制的にお金を取り立てたわけではありません。
社長が自ら支払を選んだのです。
それでも。
法律を正確に知らせることには、意味があった。
私はそう思いました。
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「最後に確認するぞ」
「はい!」
「先取特権は、約定担保物権か、法定担保物権か」
「法定担保物権です!」
「一般先取特権の目的は?」
「債務者の総財産です!」
「動産先取特権は?」
「特定の動産です!」
「不動産先取特権は?」
「特定の不動産です!」
「よし」
私は拳を握りました。
ここまでは完璧。
所長が続けます。
「不動産の賃貸借の先取特権は、どの種類だ」
「動産先取特権です!」
「なぜだ」
「目的となるのが、法定の範囲にある賃借人の動産などだからです!」
「よし」
相馬先輩が横から言いました。
「物上代位は?」
「目的物の売却代金債権や保険金請求権など、価値が変化したものに権利を及ぼせる場合がある仕組みです!」
「条件は?」
「払渡しや引渡しの前に差押えが必要です!」
「よし」
所長が続けます。
「一般先取特権の順位は?」
私は即答しました。
「共益費用、雇人給料、葬式費用、日用品供給です!」
「不動産先取特権は?」
「保存、工事、売買です!」
「同一順位の先取特権者が複数いたら?」
「債権額の割合に応じて弁済を受けます!」
所長が頷きました。
「よし」
私は思わず立ち上がりました。
「やった!」
ところが。
「じゃあ最後に、俺から一問」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「昭和六十三年の民法三百六条第二号は?」
「雇人の給料です!」
「じゃあ、令和の民法では?」
「雇用関係です!」
「その違いは、令和二年の債権法改正で初めて生じたのか?」
「違います!」
私は胸を張りました。
「主に平成十六年の改正です!」
「……ほう」
相馬先輩が少し驚いた顔をしました。
「よく覚えたな」
「褒めましたね!」
「別に」
「絶対褒めました!」
「調子に乗るな」
私は笑いました。
でも。
今回の先取特権。
最初は、本当に難しかった。
種類が三つ。
一般先取特権だけでも四つ。
動産先取特権は八つ。
不動産先取特権は三つ。
それぞれの効力。
物上代位。
優先順位。
登記。
第三取得者。
一般先取特権の実行順序。
覚えることだらけです。
でも。
昨日の事件を思い出せば。
その一つ一つに、意味があることが分かります。
私は最後のページを開きました。
今日の一行。
何を書こう。
少し考えました。
先取特権。
法定担保物権。
優先弁済。
一般、動産、不動産。
そして、順位。
それらを一行にまとめるなら。
私はゆっくり鉛筆を動かしました。
――先取特権は「法律が与える優先席」。ただし、席の順番と座るための手続は別に決まっている。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「優先席?」
「はい!」
「電車じゃあるまいし」
「でも、分かりやすいでしょう?」
「まあな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
私は笑いました。
確かに。
先取特権は、優先席に似ているかもしれません。
誰もが自由に座れるわけではない。
法律が、優先されるべき事情を定めている。
そして。
優先される人が複数いれば、また別の決まりがある。
でも。
それは単なる特別扱いではありません。
誰かの暮らしを守るため。
財産を守った人の努力を無駄にしないため。
公平な弁済を実現するため。
民法は、いくつもの優先権を用意しているのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会は、もう終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法を戻せ」
「はい」
「それから、掃除だ」
……。
来ました。
いつものやつです。
「先輩」
「何だ」
「私は今、先取特権について重要な発見をしました」
「ほう」
「掃除をした人は、事務所の財産の価値を守っていますよね」
「まあ、そうだな」
「つまり、私が掃除をしたら、共益費用の先取特権が……」
「ねえよ」
「即答!?」
「普通に掃除するだけで、何でも共益費用の先取特権になると思うな」
「でも!」
「それに、お前が言ってるのは事務所の掃除だろ。共同債権者の利益のための財産の保存、清算、配当に関する費用とは話が違う」
「……!」
ぐうの音も出ません。
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「こはる」
「はい」
「掃除を頼む」
「……はい」
私はしぶしぶ箒を手に取りました。
でも。
その瞬間、思いつきました。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「じゃあ、私が先輩の万年筆を修理してあげたら、動産保存の先取特権が成立するんですか?」
「お前が勝手にいじって壊したら、別の問題だ!」
「じゃあ、ちゃんと頼まれて、有償で修理した場合は?」
「保存に当たる修理で、法律上の要件があれば問題になるだろうな」
「なるほど!」
私は目を輝かせました。
「じゃあ、先輩の万年筆を修理します!」
「断る!」
「何でですか!」
「お前に触らせたら、修理代より買い替え代のほうが高くつきそうだからだ!」
「失礼な!」
私は頬を膨らませました。
相馬先輩は笑っています。
片桐所長は、いつものように静かです。
窓の外。
昭和六十三年の町に、夕暮れが広がっていました。
大黒鉄工所では、今日も旋盤が動いているのでしょう。
澄江さんは、部品を検査しているのでしょう。
そして。
その給料で、娘さんのお弁当を作るのでしょう。
法律は、工場の機械を動かせません。
金属を削ることもできません。
唐揚げを揚げることもできません。
でも。
働いた人が、その対価を受け取るための権利を守ることはできる。
先取特権。
その見えない権利は。
誰かが働いた時間を、単なる「後回しの借金」に変えさせないために存在しているのです。
私は箒を止め、ノートの最後の一行を見つめました。
――先取特権は「法律が与える優先席」。ただし、席の順番と座るための手続は別に決まっている。
よし。
今度こそ、覚えました。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、先取特権の復習をしてたんです!」
「復習は終わってからにしろ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私の掃除には、何か優先権はありませんか!」
「ねえよ!」
「じゃあ、お茶を飲む権利は!」
「掃除が終わったら飲め!」
「……!」
なるほど。
民法には、先取特権という強力な制度があります。
でも。
残念ながら。
見習い行政書士が、掃除より先にお茶を飲めるという先取特権は。
昭和六十三年の六法を、どれだけ探しても。
見つからないのでした。
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