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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 物権

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479/608

[民法・先取特権]現場編 「給料なんか最後に払えばいい」の嘘。担保も契約書もない工員たちを守る、民法三百三条の見えない優先権

挿絵(By みてみん)

 借金には、順番がある。


 ただし。


 声の大きい順ではありません。


 借金の古い順でもありません。


 ましてや。


 社長の好きな順でもありません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、民法に潜む、とんでもない武器を知ることになります。


 先取特権。


 読み方は「さきどりとっけん」。


 名前だけ聞けば、何だか早い者勝ちみたいです。


 でも、違います。


 それは。


 誰よりも先に、お金を受け取るための権利。


 しかも。


 契約書に書いていなくても。


 担保を取っていなくても。


 法律が、最初から与えている権利なのです。


 もっとも。


 その権利を実際に使うには、厳しい手続と、冷酷な順番が待っていました。


「給料を、三か月もらってないんです」


 朝九時。


 事務所に現れた女性は、膝の上で両手を握りしめていました。


 三十八歳。


 名前は、野村澄江さん。


 駅北側の町工場で、金属部品の検査をしているそうです。


「三か月……?」


 私は思わず聞き返しました。


「はい」


「会社が払ってくれないんですか?」


「社長は、もう少し待てって」


 澄江さんは、古びた封筒を取り出しました。


 中には給料明細。


 六月。


 七月。


 八月。


 支給額は、それぞれ十二万円。


 でも。


 実際に受け取った金額は、ゼロ。


「夫が病気で、今は働けないんです」


 澄江さんは言いました。


「小学校に通う娘もいます。貯金を崩して、何とかやってきましたけど……」


 そこで言葉が止まりました。


「昨日、娘に言われたんです」


「何て?」


「お母さん、お弁当のおかず、毎日卵焼きだねって」


 私は黙りました。


「娘は、卵焼きが好きだから嬉しいって言ってくれました」


 澄江さんは笑おうとしました。


 でも、笑えませんでした。


「本当は、お肉も入れてあげたいんです」


 ……。


 十二万円。


 三か月で三十六万円。


 大きな会社にとっては、小さな金額かもしれません。


 でも。


 この家族にとっては、毎日の食卓そのものです。


「それで、社長に払ってほしいと頼んだら……」


 澄江さんは、もう一枚の紙を出しました。


 私は受け取りました。


 そこには、乱暴な文字で書かれていました。


 ――当工場は現在、資金繰りが困難である。


 ――銀行借入金及び仕入先への支払を優先する。


 ――従業員給与は、残余資金の範囲で順次支払う。


 ――なお、資金不足の場合は、支払を延期する。


 署名。


 大黒鉄工所。


 代表者 大黒源三。


「……給料は、余ったお金で払う?」


 私は思わず呟きました。


 いやいやいや。


 おかしいでしょう。


 給料って、余ったら払うものじゃありませんよね?


「これ、社長が書いたんですか?」


「はい」


「他の従業員の方も?」


「みんな、もらっていません」


 従業員は四人。


 小さな鉄工所。


 事業主は大黒源三という五十代の男性で、個人で工場を経営しているそうです。


「それで……」


 澄江さんの声が震えました。


「昨日、社長が言ったんです」


「何を?」


「工場の機械を売るって」


 私は顔を上げました。


「機械を?」


「はい。旋盤を二台。それを売ったお金で、銀行と材料屋さんに払うって」


「従業員には?」


「……一円も払わないって」


 私は机を見つめました。


 工場の機械を売る。


 売却代金が入る。


 それを銀行と仕入先に払う。


 そして。


 従業員には何も残さない。


 ……。


 駄目でしょう。


 それは、駄目です。


「大丈夫です!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「給料には先取特権があります!」


 澄江さんが驚きます。


「さき……何ですか?」


「先取特権です!」


 そうです。


 私は現代の行政書士試験で勉強していました。


 民法第三百六条。


 一般先取特権。


 雇用関係。


 従業員の給料は、法律上、優先的に保護される。


 契約で担保を設定していなくても、一定の要件を満たせば法律によって成立する。


「つまり、澄江さんの給料は、他の普通の借金より優先して払ってもらえる可能性があるんです!」


「本当ですか?」


「はい!」


 私は嬉しくなりました。


 やった。


 今回は現代の知識がそのまま使えそうです。


 民法三百三条。


 三百六条。


 三百八条。


 このあたりは、受験で勉強したところです。


「しかも、今の民法では、雇用関係から生じた債権が広く保護されていて……」


「待て」


 相馬先輩が新聞を下ろしました。


「はい?」


「今、何て言った?」


「雇用関係の先取特権です」


「……雇用関係?」


「はい」


 先輩が私を見ました。


 嫌な予感。


「こはる」


「はい」


「六法を持ってこい」


「え?」


「今の民法三百六条を読んでみろ」


 私は棚から六法を取り出しました。


 該当条文を開きます。


 第三百六条。


 一般の先取特権。


 一、共益ノ費用。


 二、雇人ノ給料。


 三、葬式ノ費用。


 四、日用品ノ供給。


 ……。


 私は止まりました。


「こ、雇人?」


「そうだ」


「雇用関係じゃないんですか?」


「何を言ってる。雇人ノ給料だろ」


 ……しまった。


 またです。


 また、やりました。


 昭和六十三年。


 未来の民法を持ち込んでしまいました。


「しかも、先輩……」


「何だ」


「三百八条に……」


 私は震える指で条文をなぞりました。


 雇人ノ給料。


 最後ノ六箇月間ノ給料。


「……六か月?」


「そうだ」


「期間制限があるんですか?」


「ある」


「えええっ!」


 思わず声が出ました。


 現代の民法では、雇用関係の先取特権は、給料その他の雇用関係に基づく債権を広く保護しています。


 でも。


 昭和六十三年の民法は違いました。


 雇人の給料。


 最後の六か月間。


 それが民法上の原則的な範囲です。


「所長!」


「何だ」


「時代が違います!」


「昭和六十三年だ」


「知ってます!」


「なら、その法律で考えろ」


 片桐所長は平然としていました。


 ひどい。


 未来人に冷たい職場です。


「もっとも」


 所長が続けました。


「今回の債務者は、個人経営の鉄工所だな」


「はい」


「未払給料は三か月分」


「はい」


「なら、その六か月の範囲には入る」


 私は頷きました。


 よかった。


 今回に限れば、期間の壁は越えられそうです。


「ただし」


 相馬先輩が言いました。


「給料に先取特権があるから、銀行より絶対に先に全額取れる、なんて言うなよ」


「え?」


「銀行には抵当権があるかもしれねえ。機械には別の担保があるかもしれねえ。他にも優先する債権があるかもしれねえ」


「……」


「先取特権は、万能の横入り券じゃねえんだ」


 私は六法を見つめました。


 なるほど。


 先取特権。


 優先して弁済を受ける権利。


 でも。


 他の担保権や先取特権との優先順位を調べなければ、実際にいくら回収できるかは分からない。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「まず、財産と債権者を調べろ」


「はい!」


「それから、誰が何を支払う義務を負っているか」


「はい」


「そして、誰が何について優先するか」


 所長は静かに言いました。


「順番を間違えるな」


 私は大きく頷きました。


 先取特権。


 名前は簡単そうなのに。


 中身は、とんでもなく厳しい世界でした。


 翌日。


 相馬先輩と私は、大黒鉄工所を訪れました。


 工場は、駅から歩いて十五分ほど。


 古いトタン屋根。


 油の染みたコンクリート。


 中からは、金属を削る音が聞こえてきます。


 入口には、


 ――大黒鉄工所。


 という看板。


「まだ動いてるんですね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「注文はあるらしい」


「じゃあ、何で給料を払わないんでしょう」


「金が入っても、別のところへ流してるんだろ」


 そのとき。


「何だ、お前ら」


 奥から男が現れました。


 五十代後半。


 太い首。


 金の腕時計。


 大黒源三。


 鉄工所の経営者です。


「片桐行政書士事務所の相馬です」


「行政書士?」


 大黒は鼻で笑いました。


「何しに来た」


「野村さんから、給料の件で書類作成の相談を受けています。事実関係について確認したいことがあります」


「給料?」


「三か月分が未払いだと伺っています」


「だから何だ」


 大黒は腕を組みました。


「金がねえんだよ」


「そうですか」


「銀行から催促されてる。材料屋からも催促されてる。従業員なんか、最後だろ」


 ……。


 私は思わず口を開きました。


「最後って……!」


「あ?」


「従業員の給料ですよ!」


「だから?」


「働いてもらったお金ですよね!」


 大黒は笑いました。


「お嬢ちゃん」


 ……お嬢ちゃん?


「世の中、払う順番ってもんがあるんだよ」


「順番?」


「銀行に払わなきゃ、工場を差し押さえられる。材料屋に払わなきゃ、部品が入らねえ」


「だから従業員には払わないと?」


「そうだ」


 大黒は胸を張りました。


「銀行には担保を入れてる。材料屋には約束手形も出してる。従業員には何も担保なんか入れてねえ」


 そこで、にやりと笑いました。


「つまり、従業員の給料は後回しだ」


 私は息を呑みました。


 来ました。


 今回の敵。


 この人です。


「担保がないから、後回し……?」


「当たり前だろ」


 大黒が言いました。


「抵当権って知ってるか? 質権って知ってるか? 金を貸す側は、そういうものを取るんだよ」


「知っています」


「じゃあ、給料に抵当権でも付けてみろよ!」


 大黒が笑いました。


 私は言い返そうとしました。


 でも、その瞬間。


 相馬先輩が肩に手を置きました。


「こはる」


「はい」


「いいから、聞け」


「でも!」


「こいつ、今、重要なことを言ったぞ」


「え?」


 先輩は大黒を見ました。


「社長」


「何だ」


「従業員には担保を設定していない。だから、優先する権利はない。そうお考えですね?」


「そうだ」


「分かりました」


「何が分かった」


「それだけ確認できれば結構です」


 大黒は不機嫌そうに鼻を鳴らしました。


「何だよ。もう帰るのか」


「はい」


「だったら従業員に伝えとけ。金が余ったら払うってな」


 私の拳が震えました。


 相馬先輩は表情を変えません。


「最後に一つだけ」


「何だ」


「旋盤二台を売却する予定だそうですね」


「ああ」


「もう引き渡したんですか」


「まだだ。来週、業者が引き取りに来る」


「売却代金は?」


「二百万円だ」


「代金の支払先は、社長ご本人ですね」


「当たり前だろ」


 先輩は頷きました。


「分かりました」


 それ以上、何も言わずに工場を出ました。


 私は我慢できませんでした。


「先輩!」


「何だ」


「何であんなに落ち着いてるんですか!」


「怒ったところで、給料が出るか?」


「出ませんけど!」


「じゃあ、怒るより調べろ」


「……」


「こはる」


「はい」


「今の社長が、一番大きく間違えてるところは何だ?」


 私は考えました。


 銀行には抵当権。


 材料屋には手形。


 従業員には担保なし。


 だから後回し。


 ……あ。


「担保を設定していないから、先に払ってもらえないと思っていることです!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「抵当権も質権も、原則として当事者の合意で設定する」


「はい」


「だが、先取特権は違う」


 先輩は煙草を一本取り出しました。


「法律が勝手に付けるんだよ」


 ……!


「勝手に、ですか?」


「本人が望んだとか、社長が承諾したとか、そんな話じゃねえ」


 先輩はにやりとしました。


「法律が、最初から順番を決めてるんだ」


 私は思わず笑いました。


 なるほど。


 悪徳社長。


 大きな勘違いをしています。


 給料には担保設定契約がない。


 だから何も守られない。


 そう思っている。


 でも。


 民法は、その穴を埋めるために先取特権という制度を置いている。


「先輩!」


「何だ」


「これ、面白いですね!」


「人の給料がかかってるんだぞ」


「あ、はい……!」


「面白がるなら、取り返してからにしろ」


 ……ごもっともです。


 事務所に戻ると、片桐所長が帳簿を広げていました。


「調べは?」


 相馬先輩が報告します。


「源三は個人事業主です。三か月分の給料未払いを認めています」


「うん」


「旋盤二台を二百万円で売却予定。まだ引渡し前です」


「うん」


「銀行への借入れが約七百万円。工場の土地建物には抵当権が付いています」


「うん」


「仕入先への未払金もあります。ただし、旋盤について担保権が設定されているかは、現時点では確認できていません」


 所長が頷きました。


「分かった」


 私は机に向かいました。


「じゃあ、内容証明ですね!」


「待て」


 相馬先輩が言いました。


「まだ、債権額の確認が済んでねえ」


「え?」


「野村さんだけじゃない。他の三人の未払給料もある」


「あ……」


「それに、旋盤の売却代金は、会社に入る前だ」


「はい」


「今のうちに、事実を固める」


 先輩は机の上に資料を並べました。


 給料明細。


 出勤簿の写し。


 労働条件を記した採用時の書面。


 従業員の陳述書。


 大黒社長が書いた支払延期の通知。


 そして。


 旋盤の売却予定を記した書面の写し。


「これで、給料の存在と未払いの事実を整理できる」


「はい」


「だが、先取特権を使って裁判所に強制執行を求めるのは、俺たちの仕事じゃねえ」


「弁護士ですね」


「そうだ」


 片桐所長も頷きました。


「行政書士として、依頼人の意思に基づく通知書や、事実関係を整理した資料を作る」


「はい」


「法律紛争の代理交渉や、裁判所での手続は引き受けない」


「はい」


「必要なら、労働基準監督署への申告や弁護士への相談につなぐ」


 私は頷きました。


 書面でできること。


 書面ではできないこと。


 そこを間違えてはいけない。


「所長」


「何だ」


「でも、内容証明だけで社長が払ってくれるでしょうか」


 所長は答えました。


「払うかどうかは、相手が決める」


「……はい」


「だが、払わなかった場合に何が起こり得るかを、正確に知らせることはできる」


 なるほど。


 脅すのではない。


 法律上の現実を示す。


 それが、行政書士の書面です。


 私は六法を開きました。


 民法第三百三条。


 先取特権の内容。


 そこには、こういう趣旨のことが書かれています。


 ――先取特権者は、法律の規定に従い、債務者の財産について、他の債権者に先立って弁済を受ける。


「これが根拠ですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「じゃあ、何で従業員の給料に先取特権を認めるんだと思う?」


「え?」


「考えろ」


 私は澄江さんの顔を思い出しました。


 三か月の未払い。


 家族の生活。


 卵焼きばかりのお弁当。


「……給料がないと、生活できないからです」


「そうだ」


「銀行は、お金を貸すときに担保を取れます」


「うん」


「仕入先も、取引条件を考えたり、支払方法を交渉したりできます」


「うん」


「でも、従業員は……」


 私は言葉を探しました。


「毎月の給料をもらうために、社長の土地へ抵当権を付けさせたりしませんよね」


「普通はな」


「だから法律が守るんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 私は、少し胸が熱くなりました。


 なるほど。


 先取特権とは。


 担保を取れなかった人を、一定の場合に法律が守る仕組み。


 弱い立場の債権者を、ただの早い者勝ちに放り込まないための制度です。


「ただし、こはる」


 片桐所長が言いました。


「先取特権は、給料だけではない」


「はい」


「他にもある」


 私は頷きました。


 一般先取特権。


 動産先取特権。


 不動産先取特権。


 三つに分かれます。


 そして。


 何を目的として優先弁済を受けるかが、それぞれ違う。


「今回の給料は?」


「一般先取特権です!」


「目的は?」


「債務者の総財産です!」


 所長が頷きました。


「では、旋盤そのものを目的とする先取特権とは同じか」


「違います」


 私は答えました。


「動産の売買や保存などから生じる、特定の動産を目的とする先取特権とは違います」


「そうだ」


「不動産の保存や工事、売買に関する先取特権とも違う」


「うん」


「だから、競合する権利を調べないといけないんですね」


 所長が頷きました。


「分かってきたな」


 私は嬉しくなりました。


 やっと。


 条文が、現場の問題につながってきました。


「ところで」


 相馬先輩が別の紙を取り出しました。


「こはる。これを見ろ」


「何ですか?」


「旋盤の買主が作った契約書の写しだ」


 私は目を通しました。


 売主。


 大黒源三。


 買主。


 東海機械商会。


 売買代金。


 二百万円。


 引渡予定日。


 翌週金曜日。


 代金支払予定日。


 引渡日から三日以内。


「……まだ、お金を受け取っていないんですね」


「そうだ」


「なら、その二百万円が入ったら、そこから給料を払ってもらえば……」


「社長がそうする気なら、最初から困ってねえ」


「……ですよね」


 先輩は六法を指差しました。


「ここで、もう一つ大事な問題がある」


「何ですか?」


「物上代位だ」


 ……。


 出ました。


 民法の難しい言葉。


「ぶつじょうだいい……」


「何だ、その顔」


「漢字だけで頭が痛くなります」


「慣れろ」


 相馬先輩は笑いました。


「たとえば、ある機械について動産売買の先取特権を持っている売主がいたとする」


「はい」


「買主が代金を払わず、その機械を別の者へ売った」


「はい」


「そのとき、一定の要件のもとで、機械そのものに代わる売却代金債権に先取特権を行使できる場合がある」


「なるほど!」


「これが物上代位だ」


 私は頷きました。


 目的物が、別の財産的価値に姿を変えても、一定の範囲で追いかけられる。


 ただし。


「先輩、民法三百四条ですよね」


「そうだ」


「払渡しや引渡しの前に差押えが必要なんですよね」


「そこだ」


 相馬先輩が頷きました。


「金がもう支払われちまってから、何でも取り戻せるわけじゃねえ」


「はい」


「それから、今回の給料は一般先取特権だ。特定の旋盤についての先取特権を持っているわけじゃねえから、その機械の売却代金に三百四条の物上代位をそのまま使う話ではない」


「あっ……!」


 私は固まりました。


 危ない。


 今、私は何となく、


 先取特権がある。


 旋盤が売られる。


 だから売却代金を差し押さえられる!


 と飛びつきかけました。


 でも。


 先取特権には種類があります。


 その権利が何について成立しているのか。


 一般先取特権なのか。


 特定の動産についての先取特権なのか。


 そこを間違えると、法律の組み立てが崩れます。


「所長」


「何だ」


「危なかったです」


「何がだ」


「先取特権なら全部、同じように物上代位できると思いかけました」


 片桐所長は静かに答えました。


「権利の名前だけで結論を出すな」


「はい」


「何の債権か。何の財産に及ぶのか。いつ、どうやって行使するのか」


 所長は六法を閉じました。


「そこまで見て、初めて権利になる」


 私は大きく頷きました。


 試験では一行で済む知識。


 でも、現場では。


 たった一つの勘違いが、人の給料を失わせるかもしれない。


 恐ろしい。


 そして。


 だからこそ、面白い。


 三時間後。


 机には、内容証明郵便の原案が置かれていました。


 差出人は、野村澄江さん。


 宛先は、大黒源三。


 私は深呼吸しました。


「読みます」


 相馬先輩が頷きます。


「やれ」


「通知人は、貴殿が個人経営する大黒鉄工所に雇用され、昭和六十三年六月から八月まで労務を提供した」


「うん」


「右期間に対応する賃金合計金三十六万円は、各支払期日を経過した現在も未払いである」


「うん」


「通知人は、右未払賃金について速やかな支払を求める」


 私は一息つきました。


 そして。


 今回の核心です。


「民法第三百三条、第三百六条第二号及び第三百八条により、通知人の右賃金債権には、雇人給料の一般先取特権が成立する」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「当該先取特権は、法の定める範囲で、債務者の総財産について他の一般債権者に先立って弁済を受ける権利であり、担保権設定契約の締結を成立要件とするものではない」


 私は顔を上げました。


「ここです!」


「何がだ」


「社長の勘違いを、真っ向から否定しています!」


「そうだな」


 私は続けました。


「貴殿は、銀行借入金及び仕入先債務を優先し、従業員給与は残余資金の範囲で支払う旨を通知している」


「うん」


「しかし、担保権の有無及び法定の優先順位を検討することなく、賃金債権を一律に最劣後とすることには、法律上の根拠がない」


 相馬先輩が、にやりとしました。


「いいな」


 私は頷きました。


 ここ、大切です。


 銀行だから優先。


 仕入先だから優先。


 従業員だから最後。


 そんな単純な順番はありません。


 担保権や先取特権の種類。


 優先順位。


 対象財産。


 そこを調べる必要があります。


「さらに」


 私は続けました。


「貴殿は、事業用旋盤二台を代金二百万円で売却する予定であると述べている。通知人は、当該売却により生じる財産的価値を含め、貴殿の責任財産及び賃金債務の弁済可能性について、適切な確認を求める」


「うん」


「本通知後も支払がなされない場合、通知人は、労働基準監督署への申告及び弁護士への相談を行い、必要に応じて法的手続による債権回収を検討する」


 私は読み終わりました。


 ……。


 静かです。


 相馬先輩が紙を受け取りました。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ただし、一か所直せ」


「えっ!」


「旋盤の売却代金から必ず全額取れるような印象を与えるな。競合する担保権の調査は、まだ終わってねえ」


「あ……はい!」


「先取特権があることと、全額回収できることは別だ」


 私は書き直しました。


 片桐所長も最後に目を通しました。


「これでいい」


「はい!」


「ただし、資料は弁護士に引き継げるようにしておけ」


「分かりました!」


 私は書面の最後を見つめました。


 事実。


 債権額。


 旧民法の条文。


 法定担保物権としての性質。


 相手が主張する支払順位の問題点。


 今後の適法な対応。


 全部、並んでいます。


 不思議です。


 大黒社長があれほど偉そうに言っていた、


「担保がないから最後だ」


 という理屈。


 たった一つの法制度によって、根本から揺らいでしまいました。


「所長」


「何だ」


「法律って、すごいですね」


「そうか」


「社長が担保を付けてくれなくても、法律が先に付けてくれるんですから」


 所長は静かに言いました。


「法律が守ると決めた債権だからだ」


 私は頷きました。


 それは。


 従業員が働いた時間を、経営者の都合だけで消させないための仕組みでした。


 内容証明を発送した翌々日。


 大黒鉄工所から電話がありました。


「片桐行政書士事務所か!」


 怒鳴り声。


 私は受話器を耳から離しました。


「は、はい!」


『あの書面は何だ!』


「書面ですか?」


『先取特権だと! そんなもの、契約してねえぞ!』


 私は落ち着いて答えました。


「先取特権は、法律の定める要件によって成立する権利です」


『勝手に担保なんか付けるな!』


「私どもが担保を設定したわけではありません」


『じゃあ誰が付けたんだ!』


「……民法です」


 沈黙。


『……は?』


「民法の規定です」


『……』


 私は思いました。


 この人。


 法律が勝手に付けるという話を、まだ理解していないんですね。


『とにかく社長に代われ!』


「片桐は所長です」


『誰でもいい!』


 私は所長に受話器を渡しました。


「片桐です」


『あのな! 従業員の給料なんか、銀行より優先するわけねえだろ!』


「個別の担保権や優先順位によって結論は異なります」


『じゃあ、銀行が先だろ!』


「そのように一律には決まりません」


『……』


「野村さんの未払賃金について、通知書記載の民法上の先取特権が問題になります」


 電話の向こうが静かになりました。


 所長は続けます。


「なお、当事務所は紛争の代理交渉を行う立場ではありません。支払については、ご本人に直接回答してください」


『……分かった』


 電話が切れました。


 私は少し肩を落としました。


「所長」


「何だ」


「払うって言いませんでしたね」


「ああ」


「失敗でしょうか」


「まだ分からん」


 所長は受話器を置きました。


「相馬」


「はい」


「予定どおり、弁護士への資料の引継ぎを進めろ」


「了解です」


 私は頷きました。


 そうです。


 内容証明は、魔法ではありません。


 送っただけで、お金が戻るわけではない。


 でも。


 相手が法律を無視して逃げ続ければ、次の手続へ進むことができる。


 そのために。


 こちらは事実を積み上げているのです。


 翌週の月曜日。


 思いがけない知らせが入りました。


 澄江さんからです。


「社長が……」


「はい」


「給料を払うって言ったんです!」


「えっ!」


 私は立ち上がりました。


「本当ですか!」


「はい!」


 澄江さんの声が弾んでいました。


「ただ、まだ受け取ってはいません。明日、銀行振込をするって」


「そうですか!」


 私は相馬先輩を見ました。


「先輩!」


「聞こえてる」


「社長が!」


「まだ払ってねえんだろ」


「あ……」


 先輩は頷きました。


「入金を確認してから喜べ」


「はい!」


 私は受話器に戻りました。


「澄江さん、実際に振り込まれたことを確認してください」


『はい』


「他の従業員の方は?」


『社長が、全員分を計算するって言っています』


「そうですか」


『それで……』


 澄江さんは少し声を落としました。


『社長、弁護士さんに相談したみたいなんです』


「え?」


『昨日、工場で怒鳴ってました』


「何て?」


『給料に担保みたいな権利があるなんて、聞いてないぞって』


 私は思わず笑いそうになりました。


 聞いていない。


 ……。


 でも。


 知らなかったからといって、法律が消えるわけではありません。


『弁護士さんから、賃金債権の保護について説明されたらしくて』


「はい」


『今のまま放置したら、労働基準法の問題にもなるし、裁判手続で回収を求められる可能性もあるって』


 なるほど。


 相手も、ようやく現実を理解したようです。


 しかし。


 澄江さんの次の言葉に、私は驚きました。


『社長が、旋盤を売るのをやめたんです』


「え?」


『機械を売ったら、仕事ができなくなるって、ようやく気づいたみたいで』


「それで?」


『取引先に事情を話して、今週納品する部品の代金を早めに払ってもらえることになったそうです』


 私は息を呑みました。


 なるほど。


 機械を売って借金を払えば、工場そのものが止まる。


 でも。


 機械を残して仕事を続ければ、売上げを生み出せる。


 大黒社長は、従業員の給料をただの負担だと思っていました。


 しかし。


 従業員がいなければ、旋盤は動きません。


 仕事も終わりません。


 代金も入らない。


『それで、昨日、初めて言われたんです』


「何て?」


『野村、お前たちが働いてくれなきゃ、工場は何も作れねえなって』


 ……。


 私は少し黙りました。


 社長が急に立派な人になったとは思いません。


 自分が不利になると分かって、慌てて考えを変えただけかもしれません。


 でも。


 少なくとも。


 働く人への支払を、最後に回せば済むという考えは変わり始めたようでした。


 その翌日。


 澄江さんから再び電話が入りました。


『振り込まれました!』


「本当ですか!」


『三十六万円、全部です!』


「よかった……!」


 私は思わず声を上げました。


 相馬先輩が新聞から顔を上げます。


「入金確認したのか」


「はい!」


「じゃあ、ひとまず一段落だな」


 私は頷きました。


 ただし、他の三人については、まだ支払額の確認が必要でした。


 相馬先輩は、そのことも忘れません。


「こはる」


「はい」


「他の従業員の給料も確認しろ。事実資料を整理して、本人たちが必要な相談をできるようにする」


「はい!」


「一人払ったから全部解決、じゃねえぞ」


「分かってます!」


 その後、残る三人についても未払額の確認と支払が進みました。


 大黒社長は、従業員に対して、今後の給与支払日を明記した書面を交付しました。


 そして。


 事務所には、澄江さんから一通の手紙が届きました。


 ――本当にありがとうございました。


 ――娘のお弁当に、久しぶりに唐揚げを入れました。


 ――娘が、今日はごちそうだね、と笑ってくれました。


 私は、その一文を何度も読みました。


 唐揚げ。


 ただの唐揚げです。


 でも。


 三か月も給料をもらえなかった家族にとっては。


 それが、どれほど大切なものだったのか。


 今なら少しだけ分かる気がしました。


 夕方。


 私は六法を眺めていました。


「相馬先輩」


「何だ」


「先取特権って、すごいですね」


「またか」


「だって、契約してないのに成立するんですよ」


「そうだな」


「抵当権や質権とは、そこが違うんですね」


 先輩は頷きました。


「抵当権や質権は、原則として当事者が設定する約定担保物権だ」


「はい」


「先取特権は、法律が定める原因で成立する法定担保物権だ」


「はい!」


「それだけ覚えて満足すんなよ」


「え?」


 先輩が六法を指差しました。


「まだあるだろ」


 私はページをめくりました。


 先取特権の種類。


 一般先取特権。


 動産先取特権。


 不動産先取特権。


「……多いですね」


「多いな」


「しかも、優先順位があります」


「あるな」


「一般先取特権だと、共益費用、雇人給料、葬式費用、日用品供給……」


「そうだ」


「不動産には、保存、工事、売買……」


「そうだ」


「動産の順位はもっと複雑……」


「そうだな」


 私は頭を抱えました。


「先輩!」


「何だ」


「全然簡単じゃないです!」


「誰が簡単だと言った」


「名前が『先取』だから、先に取れば勝ちかと思いました!」


「そんなわけねえだろ」


 相馬先輩が笑いました。


「そもそも、先取特権は、早く差し押さえた奴が必ず勝つって制度じゃねえ」


「はい……」


「法律が決めた順番で、優先して弁済を受ける権利だ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 今回の大黒鉄工所でも。


 銀行。


 仕入先。


 従業員。


 誰が一番大きな声で請求するかではなかった。


 誰が先に社長を怒鳴りつけるかでもなかった。


 法律上、どんな権利があるか。


 それによって、順番が変わる。


「所長」


「何だ」


「先取特権って、弱い人のためだけの制度じゃないんですね」


 片桐所長が顔を上げました。


「どういう意味だ」


「もちろん、従業員の給料を守るのは大切です」


「うん」


「でも、動産を保存した人や、不動産を保存した人にも、先取特権があるんですよね」


「そうだ」


「自分のお金や労力で、他人の財産を守った人」


「うん」


「そういう人も、一定の場合に優先して守られる」


 所長が頷きました。


「よく見ている」


 私は少し嬉しくなりました。


 先取特権は。


 単なる弱者救済の制度ではない。


 財産を保存することによって、他の債権者にも利益をもたらした人。


 商品を供給した人。


 仕事をした人。


 生活に必要なものを供給した人。


 そういう、さまざまな債権者について。


 法律が、それぞれの事情に応じた優先権を定めている。


 そして。


 その優先権同士がぶつかれば。


 また、別のルールで順番を決める。


「……民法って、よくできていますね」


 私が言うと、相馬先輩が鼻で笑いました。


「だから、勉強しろって言ってんだよ」


「はい!」


 私はノートを開きました。


 今日の教訓。


 何を書こう。


 しばらく考えました。


 そして。


 一行だけ、書きました。


 ――先取特権は、約束がなくても法律が与える『優先して払ってもらう権利』。


 私は、その一行を見つめました。


 たった一行。


 でも。


 その向こうには、澄江さんの暮らしがあります。


 三か月分の給料。


 娘さんのお弁当。


 家族が安心して食べる夕飯。


 働いた分のお金を受け取れるという、当たり前の生活。


 先取特権。


 名前は古めかしい。


 条文も難しい。


 順位も複雑。


 でも。


 その根底にあるのは。


 誰かが一方的に、


「お前の金は最後だ」


 と決めつけることを許さない、民法の公平さだったのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「明日は、別の相談があるぞ」


「何ですか?」


「大家が、家賃の滞納を理由に、借家人の家財道具を押さえるって言い出したらしい」


「……家財道具?」


「ああ」


「大家さんが?」


「そうだ」


 私は首をかしげました。


 不動産の賃貸借。


 家賃。


 先取特権。


 ……あ。


「先輩!」


「何だ」


「不動産の賃貸借の先取特権って……」


「うん」


「名前に『不動産』が付いてるのに、動産先取特権なんですよね!」


「そうだ」


「ややこしい!」


「法律に文句言うな」


「しかも、勝手に家財道具を持っていっていいわけじゃないですよね!」


「当たり前だ」


 相馬先輩は煙草を消しました。


「先取特権があることと、自分で勝手に取り立てていいことは別だ」


「はい!」


「明日も、その違いからだな」


 私は笑いました。


 また、新しい事件。


 今度は家賃。


 しかも、先取特権。


 どうやら、この制度。


 一つ覚えただけでは終わらないようです。


 でも。


 今日の私は、少しだけ自信がありました。


 なぜなら。


 先取特権とは何か。


 その一番大切なところを、もう知っているからです。


 担保契約がない。


 だから守られない。


 そんな単純な話ではありません。


 法律が特別に守ろうと決めた債権には。


 目に見えない優先権が付いていることがある。


 しかも。


 それは、当事者が知らなくても成立する。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「社長、結局、民法を知らなかったんですね!」


「そうだな」


「知ってたら、最初から給料を後回しにするなんて言わなかったかもしれませんね!」


「いや」


 相馬先輩は少し笑いました。


「知ってても、踏み倒そうとする奴はいる」


「……」


「だから、書面が必要なんだよ」


 私は頷きました。


 そうですね。


 権利を知っていること。


 権利を主張すること。


 そして。


 権利を現実の生活に結びつけること。


 その三つは、少しずつ違う。


 私たち行政書士にできるのは、そのための事実と書面を整え、必要な専門家につなぐこと。


 声の大きな社長に負けないように。


 法律を知らない人が、泣き寝入りしないように。


 私はもう一度、ノートを見ました。


 ――先取特権は、約束がなくても法律が与える『優先して払ってもらう権利』。


 よし。


 忘れません。


 だって。


 給料明細には書かれていなくても。


 雇用契約書に書かれていなくても。


 社長が認めなくても。


 民法が、最初から守ろうとしているものがある。


 そのことを。


 卵焼きばかりだったお弁当に、久しぶりに入った唐揚げが。


 何よりもはっきり、教えてくれたのです。

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