[民法・留置権]法理編 こはるノート
人の物を返さなくてもいい権利。
そう聞くと、なんだか恐ろしい法律に思えます。
でも。
その権利がなければ、困る人もいるのです。
たとえば。
一生懸命に時計を修理した職人さん。
修理が終わって時計を返した途端、持ち主が代金を払わずに逃げてしまったら?
職人さんは、どうすればいいのでしょう。
だから民法は、一定の場合にこう認めています。
――お金を払ってもらうまで、預かった物を返さなくてもいい。
それが、留置権。
ただし。
預かった物を勝手に使ったり、関係のない借金を理由に返さなかったりすることまで、認めているわけではありません。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「留置権って、ちょっとずるくないですか?」
新聞を読んでいた相馬先輩が顔を上げました。
「いきなり何だ」
「だって、人の物を返さなくてもいいんですよ?」
「ああ」
「普通だったら、返さない人が悪いじゃないですか」
「場合によるだろ」
「そうなんですけど!」
私は鉛筆を握りました。
昨日の事件。
杉浦千鶴さん。
亡くなったお父さんの形見である銀色の懐中時計を、黒田時計店へ修理に出した。
修理代金は五万円。
うち二万円は支払済み。
残り三万円。
ところが黒田は、時計とは無関係な昔の貸付金二十万円まで持ち出し、
「二十三万円払うまで返さない」
と言い張ったのです。
しかも。
預かった時計を、勝手に写真館へ貸し出していた。
貸出料まで受け取って。
そこで私たちは、民法二九八条を使った。
留置物の無断賃貸。
留置権の消滅請求。
内容証明郵便を受け取った黒田は、弁護士に相談した末、留置権を主張し続けることを断念。
結局、千鶴さんは正当な修理代金残額三万円を支払い、時計を取り戻した。
「でも先輩」
「何だ」
「最初から留置権がなければ、あんなことにならなかったんじゃないですか?」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「じゃあ、お前が時計屋だったらどうする?」
「え?」
「五万円かけて修理した。客が金を払わない。それでも、黙って時計を返すのか?」
「……それは困ります」
「だろ?」
先輩は笑いました。
「留置権は、物を預けた奴をいじめるための制度じゃねえ」
「はい」
「きちんと仕事をした奴が、代金を踏み倒されないための制度でもあるんだ」
私はハッとしました。
そうでした。
黒田が悪質だったからといって。
留置権そのものが悪いわけではない。
法律は、修理を頼んだ人だけでなく。
修理を引き受けた人の利益も守っているのです。
「よし!」
私はノートを開き直しました。
「今日は、留置権を完全攻略します!」
「昨日も似たようなこと言ってなかったか」
「昨日は現場です! 今日は理論です!」
「お前は毎日元気だな」
そこへ、奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……またですか」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
### 一 留置権とは何か――「払うまで返さない」が認められる理由
「まず、基本からいきます!」
私はノートに書きました。
――民法第二百九十五条。
留置権。
他人の物を占有している者が、その物に関して生じた債権を有するとき、その債権の弁済を受けるまで、その物を留置することができる権利。
「長い!」
私は思わず叫びました。
「自分で書いたんだろ」
「そうですけど!」
相馬先輩が苦笑します。
「じゃあ、昨日の時計で考えろ」
「はい!」
私はノートに二人の名前を書きました。
所有者。
杉浦千鶴。
修理業者。
黒田時計店。
「千鶴さんは、自分の時計を黒田に渡しました」
「ああ」
「黒田は、時計を修理しました」
「そうだ」
「でも、修理代金が残っている」
「うん」
「だから、代金を払ってもらうまで、時計を返さなくてもいい」
「そのとおり」
私は頷きました。
「つまり、留置権は……」
鉛筆を走らせます。
――物を返す義務と、代金を払う義務を結びつけて、公平を図る仕組み。
「これですね!」
片桐所長が奥から言いました。
「ただし、売買などの同時履行の抗弁権とは区別しろ」
「……あ」
私は止まりました。
同時履行の抗弁権。
民法五三三条。
双務契約で、一方が履行を提供しない場合に、相手方も自己の履行を拒めるという仕組み。
「似ていますね……」
「似ているが、同じではない」
所長が言いました。
「留置権は物権だ」
「はい!」
「法定担保物権だ」
私は大きく丸をつけました。
留置権は、当事者が契約で設定しなくても、法律上の要件を満たせば成立する。
だから、法定担保物権。
「先輩、黒田さんと千鶴さんは『留置権を設定しましょう』なんて約束していませんでしたよね?」
「してねえな」
「それでも成立するんですね」
「そうだ」
「しかも物権だから、原則として相手方以外の第三者に対しても主張できる」
私は少し感心しました。
契約書に書いていないから、留置権はない。
そんな単純な話ではないのです。
「ただし!」
私は自分で言いました。
「留置権には優先弁済権がありません!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだな」
「抵当権みたいに、目的物を売却した代金から当然に優先して支払いを受けられる権利ではないんですよね」
「そのとおり」
留置権の強さは、原則として物の引渡しを拒めることにあります。
お金を払ってもらうまで返さない。
そのことで、相手に支払いを促す。
「……なるほど」
私は鉛筆を止めました。
「留置権って、相手を追いかける権利というより、こちらが動かずに踏ん張る権利なんですね」
相馬先輩が笑いました。
「いい例えだ」
「褒めました?」
「調子に乗るな」
私は笑いながら書きました。
――留置権は、法律上当然に成立する担保物権。基本は「引渡し拒絶」であり、一般的な優先弁済権ではない。
### 二 留置権の成立要件――四つの関門を突破せよ
「さて」
相馬先輩が腕を組みました。
「昨日の黒田に、留置権が成立した理由を言ってみろ」
「はい!」
私はノートに大きく書きました。
――成立要件は四つ。
まず、一つ目。
債権と物との牽連性。
「けんれんせい、ですね」
「ああ」
「これ、普通の人には分かりにくい言葉ですよね」
「法律用語だからな」
牽連性。
簡単に言えば、つながりがあること。
「時計の修理代金は、時計に関して生じた債権です」
「そうだ」
「だから牽連性があります」
「うん」
「でも、亡くなったお父さんの二十万円の借金は?」
「時計とは関係ねえ」
「ですよね!」
私は大きく丸をつけました。
修理代三万円。
時計との関係あり。
貸付金二十万円。
時計との関係なし。
この違い。
昨日の事件では、決定的でした。
「先輩、もし黒田さんが、千鶴さん本人に二十万円を貸していた場合はどうですか?」
「時計と関係あるのか?」
「ありません!」
「だったら駄目だ」
なるほど。
誰が借金したかという問題だけではありません。
その債権が、留置しようとしている物に関して生じたものなのか。
それが大事なのです。
「つまり、留置権は何でも担保できる万能の人質制度じゃないんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
二つ目。
債権が弁済期にあること。
「これは、支払期限が来ていることですね」
「ああ」
私は例を書きました。
時計の修理が終わった。
修理完了時に代金を払う約束。
支払期限到来。
この場合、留置権が問題になる。
「じゃあ先輩、修理がまだ終わっていないのに、代金は修理完了時払いという約束だったら?」
「弁済期が来てねえな」
「そうです!」
私は書きました。
弁済期前。
留置権は成立しない。
もちろん、修理途中の時計をすぐに返す義務があるかどうかは、修理契約の内容によって別途判断する必要があります。
でも、少なくとも。
弁済期が来ていない債権を理由に、民法二九五条の留置権を主張することはできません。
三つ目。
他人の物を占有していること。
「黒田さんは、千鶴さんの時計を実際に預かっていました」
「ああ」
「だから占有があります」
「そうだ」
ここで私は思いつきました。
「先輩、時計をもう返したあとで、修理代を払ってもらえなかった場合は?」
「どうやって時計を留置するんだ?」
「……できません」
「そういうことだ」
私は頷きました。
留置権は、占有していることが大前提。
物を手元に留める権利なのですから、そもそも占有していなければ行使できません。
四つ目。
占有が不法行為によって始まったものではないこと。
「ここが重要ですね」
私は鉛筆を握り直しました。
「たとえば、時計屋が客の時計を勝手に盗んできた」
「おいおい」
「そのあと修理して、五万円かかったから返さないって言い出したら?」
「留置権は認められねえ」
「ですよね!」
民法二九五条第二項。
占有が不法行為によって始まった場合には、留置権は成立しない。
そうです。
勝手に他人の物を奪っておいて。
あとからお金を請求し、
「払うまで返さない」
などと言えたら、泥棒が得をしてしまいます。
「所長!」
「何だ」
「黒田さんの場合、最初は千鶴さんから時計を預かっていたんですよね」
「そうだ」
「だから、この四つ目の要件には引っかからない」
「そのとおり」
「でも、そのあと勝手に貸し出した」
「うん」
「だから、留置権の成立の問題と、成立後の違反の問題は別なんですね!」
所長が頷きました。
「そこを区別しろ」
私は赤線を引きました。
――最初から不法に占有した場合と、適法に占有したあとで義務に違反した場合は、問題になる条文が違う。
これです。
黒田の事件では、最初から留置権が存在しなかったわけではありません。
修理代金三万円については、要件を満たす限り留置権が成立していた。
ところが。
成立後に無断賃貸という違反行為をしたため、消滅請求が問題になった。
この順番。
試験でも間違えたくありません。
### 三 留置権の不可分性――二万円払っても、時計は返らない?
「次は、二九六条です!」
私はノートをめくりました。
――留置権の不可分性。
債権の全部について弁済を受けるまで、留置物の全部について権利を行使できる。
「昨日、私が間違えかけたところですね」
「ああ」
相馬先輩が笑いました。
「お前、二万円払ったんだから少しくらい返せって言ってたな」
「だって!」
「時計のどこを返すんだ?」
「……長針とか?」
「時計が使えなくなるだろ」
「ですよね!」
私は赤面しました。
でも、これは大事です。
たとえば。
修理代金五万円。
二万円を支払い。
残額三万円。
この場合でも、修理業者は時計全体について留置権を行使できます。
さらに。
残額が千円になっても。
原則として、その千円が残っている限り、時計全体を留置できる。
「ええっ、千円でもですか?」
「そうだ」
「十万円の時計を、千円のために?」
「不可分性ってのは、そういうことだ」
私は腕を組みました。
なんとなく不公平にも感じます。
でも。
物を分割して返さなければならないとすると、担保としての働きが弱くなってしまう。
だから、法律は全部の弁済を受けるまで、目的物全体を留置できると定めている。
「なるほど……」
私は頷きました。
「ただし、留置権を濫用していいわけではないんですよね」
「当然だ」
相馬先輩が言いました。
「権利があるから何をしてもいい、なんて話じゃねえ」
私はノートに書きました。
――不可分性は、残債務が一部でもあれば留置物全部に及ぶ。ただし、権利の濫用まで許すものではない。
### 四 果実の収取――留置した果樹園のリンゴは誰のもの?
「さて、次は二九七条です」
私は少し考えました。
「先輩、果実って何ですか?」
「リンゴだろ」
「……法律の果実です!」
「知ってるよ」
相馬先輩が笑いました。
民法でいう果実には、天然果実と法定果実があります。
天然果実。
たとえば、果樹園で採れるリンゴ。
法定果実。
たとえば、物を賃貸して得られる賃料。
「先輩、もし果樹園を適法に留置していたら?」
「どうなると思う?」
「リンゴが実ります」
「ああ」
「そのリンゴを収取して、債権の弁済に充てられるんですね!」
民法二九七条。
留置権者は、留置物から生ずる果実を収取し、他の債権者に先立って自己の債権の弁済に充当することができる。
「でも先輩」
「何だ」
「留置権には優先弁済権がないって、さっき言いましたよね?」
「ああ」
「なのに、果実は他の債権者より先に充当できるんですか?」
「そうだ」
「ややこしい!」
私は頭を抱えました。
一般的な優先弁済権はない。
でも、留置物から生じる果実については、特別に優先して債権の弁済に充当できる。
これは、きちんと区別しなければなりません。
「じゃあ先輩、昨日の黒田さんが受け取った一万円の貸出料は?」
「そこが面白いところだな」
「はい!」
「まず、勝手に時計を貸したこと自体が問題だ」
「二九八条ですね!」
「そうだ」
私は頷きました。
合法的に生じた果実を収取できることと。
所有者の承諾なく、新たに賃貸して収益を得てよいことは違う。
仮に賃料に相当する収入があったとしても、それを理由に無断賃貸が正当化されるわけではありません。
「分かりました!」
私はノートに書きました。
――果実収取権は、無断使用・無断賃貸の許可証ではない。
相馬先輩が覗き込みました。
「いい覚え方だな」
「褒めましたね!」
「まだだ」
またそれですか。
ちなみに。
果実を債権に充当するときは、まず利息に充て、残りを元本に充てます。
ここも条文に書かれているところです。
「先輩、利息がある場合には順番が決まっているんですね」
「ああ」
「勝手に元本だけ減らしていいわけじゃない」
「そうだ」
私は赤鉛筆を走らせました。
利息が先。
元本が後。
これも覚えておきましょう。
### 五 留置物の保管――権利がある人にも、義務がある
「さあ、来ました!」
私はノートのページを勢いよくめくりました。
「昨日の事件の決定打!」
民法二九八条。
留置権者による留置物の保管等。
「ここです!」
相馬先輩が頷きました。
「一番大事だったところだな」
まず、第一項。
留置権者は、善良な管理者の注意をもって、留置物を占有しなければならない。
「善管注意義務ですね」
「ああ」
善良な管理者の注意。
簡単に言えば、その立場や取引の性質に応じて通常要求される、相応の慎重さをもって管理する義務。
自分の物じゃないから、多少壊れてもいい。
そんな考え方は通りません。
「先輩、黒田さんは時計の修理業者です」
「ああ」
「時計の扱い方には、詳しいはずですよね」
「そうだな」
「だったら、預かった時計を雑に扱って壊した場合、問題になりますよね」
「当然だ」
私は頷きました。
しかも。
今回の時計は、千鶴さんのお父さんの形見。
非常に大切なものです。
そのことを知って預かっているのですから、なおさら慎重に扱うべきでしょう。
「次、第二項です」
私は大きく書きました。
――無断使用・無断賃貸・無断担保提供の禁止。
「この三つですね!」
「ああ」
留置権者は、債務者の承諾を得なければ、留置物を使用したり、賃貸したり、担保に提供したりすることはできません。
ただし、保存に必要な使用は例外です。
「先輩、保存に必要な使用って、例えばどんな場合ですか?」
「そうだな。機械を良好な状態に保つため、必要な範囲で動かすような場合も考えられる」
「なるほど」
使用といっても、何でも禁止というわけではない。
物を保存するために必要な使用は、認められる場合があります。
「でも、結婚写真の小道具として貸し出すのは?」
「保存のためじゃねえな」
「ですよね!」
私は赤線を引きました。
そして、第三項。
留置権者が前二項に違反したときは、債務者は留置権の消滅を請求することができる。
「これです!」
私は机を指差しました。
「黒田さん、ここで負けたんです!」
相馬先輩が頷きました。
「ああ」
「勝手に貸し出したことを、写真館の台帳と証言で証明できた」
「そうだ」
「千鶴さんは承諾していなかった」
「ああ」
「だから、留置権の消滅を請求できた!」
「そのとおり」
私は少し考えました。
「でも先輩」
「何だ」
「留置権が消滅したら、修理代金も消滅するんですか?」
「しねえよ」
「ですよね!」
ここ、重要です。
留置権。
修理代金債権。
この二つは、別の権利です。
留置権が消滅しても、正当な修理代金を請求する権利が当然になくなるわけではない。
だから千鶴さんは、修理代金残額三万円を支払った。
そのうえで、時計を返してもらったのです。
「先輩」
「何だ」
「黒田さん、修理代の三万円については正しかったんですよね」
「ああ」
「でも、時計を勝手に貸したことは間違っていた」
「そうだ」
「法律って、善人か悪人かで全部決めるわけじゃないんですね」
片桐所長が、奥から静かに言いました。
「行為ごとに、権利と義務を見ろ」
私はその言葉をノートに書きました。
――一つの正当な権利が、別の違法行為を正当化するわけではない。
### 六 必要費と有益費――預かった物にお金をかけたら?
「次は二九九条です!」
私は少し嬉しくなりました。
「ここ、具体例だと分かりやすそうです!」
留置物について支出した費用。
必要費。
有益費。
似ているけれど、違います。
「先輩、もし預かっている時計の保管箱が壊れて、時計を傷めないために適切な保管措置を取る必要があったら?」
「場合によっちゃ費用がかかるな」
「その費用は?」
「必要費になることがある」
必要費。
物の保存や維持に必要な費用。
民法二九九条第一項では、留置権者が留置物について必要費を支出したときは、所有者に償還を求めることができます。
「なるほど」
私は書きました。
――必要費は、保存・維持に必要な費用。
次。
有益費。
「先輩、もし古い時計に、持ち主の希望とは別に高価な装飾を加えて、価値が上がったら?」
「それは内容によるが、有益費が問題になることはあるな」
「有益費は、物の価値を増加させるための費用ですね」
「ああ」
ただし。
有益費については条件があります。
その支出による価格の増加が、現存している場合に限る。
そして。
所有者の選択に従って、支出額または増価額を償還させる。
「……待ってください」
私は首をかしげました。
「先輩、支出額と増価額って違うんですか?」
「違う」
「例えば?」
「十万円かけて改良したが、物の価値は三万円しか上がっていないとする」
「はい」
「その場合、支出額は十万円。増価額は三万円だ」
「なるほど!」
私は頷きました。
所有者が選択する。
だから、十万円かけたから必ず十万円請求できる、というわけではない。
「じゃあ逆に、三万円かけた改良で十万円価値が上がったら?」
「支出額は三万円、増価額は十万円だな」
「所有者が選べるんですね!」
「そうだ」
私は書きました。
――有益費は、現存する増価が必要。支出額か増価額かは所有者が選択する。
さらに。
有益費については、裁判所が所有者の請求によって、償還に相当の期限を許与することもできます。
「必要費と有益費。似ているようで、扱いが違いますね」
「ああ」
私はふと思いました。
「先輩、昨日の黒田さんが『勝手に時計を磨いて綺麗にしたから追加で十万円払え』って言ったら?」
「何に金がかかって、何のための支出で、価値がどうなったのか確認する必要があるな」
「ですよね!」
ただ高い費用をかけたというだけでは駄目。
必要費なのか。
有益費なのか。
そもそも償還を求められる費用なのか。
確認が必要なのです。
### 七 留置権と消滅時効――時計を持っているだけでは、時効は止まらない
「さて」
相馬先輩が新聞を置きました。
「こはる、一番間違えそうなところだ」
「え?」
「三〇〇条」
私はノートをめくりました。
――留置権の行使は、債権の消滅時効の進行を妨げない。
「これですね!」
「ああ」
「昨日、びっくりしたところです!」
私は鉛筆を握りました。
例えば。
時計屋が、修理代金を払ってもらえないため、時計を留置している。
一年。
二年。
三年。
ずっと時計を返さない。
「先輩、留置権を行使し続けているんだから、修理代金債権もずっと残るような気がします」
「そう思う奴が多いんだ」
「でも、違うんですよね」
「ああ」
民法三〇〇条。
留置権を行使していても、被担保債権の消滅時効は進行する。
つまり。
時計を持ち続けていることと、債権の時効を止めることは別なのです。
「先輩!」
「何だ」
「じゃあ、修理代金債権が消滅時効にかかって、適法に時効が援用されたら……」
「留置権も、担保する債権を失うことになるな」
「ですよね!」
私は大きく書きました。
――留置権の行使だけでは、債権の時効は止まらない。
ここで私は、ふと現代の知識を思い出しました。
「あ、でも今は消滅時効って、五年ですよね!」
「……何だって?」
相馬先輩が顔を上げました。
しまった。
またです。
未来の民法。
「い、いえ!」
「今は昭和六十三年だぞ」
「はい……」
先輩は六法を開きました。
「当時の民法には、職業別の短期消滅時効がある」
「あっ!」
私は思い出しました。
旧民法。
債権の消滅時効には、原則十年という規定がありました。
しかし。
職業や債権の種類に応じて、一年、二年、三年といった短期消滅時効も存在しました。
医師。
弁護士。
商人。
工事や仕事に関する債権。
さまざまな規定があったのです。
「先輩、修理代金債権も、債権の性質や取引の内容によって当時の時効規定を確認しないといけないんですね」
「そうだ」
「現代みたいに、原則五年と考えちゃ駄目なんですね」
「当たり前だ」
私は頭を抱えました。
昭和の民法。
また難しい!
現在の民法では、債権の消滅時効は、原則として権利を行使できることを知った時から五年、または権利を行使できる時から十年という仕組みが基本になっています。
でも。
昭和六十三年は違います。
旧法の短期消滅時効をきちんと見なければいけません。
「何で昔はこんなに細かかったんでしょう……」
私が呟くと、相馬先輩が言いました。
「職業や債権ごとに、早く決着をつける必要があると考えられていたんだろうな」
「なるほど」
私は頷きました。
ただ。
あまりにも細かい区別は、分かりにくい。
現代では、そうした複雑な時効制度が整理されました。
「でも、どちらの時代でも変わらないことがありますね」
「何だ?」
「留置権を行使しているだけでは、時効は止まらない!」
「正解だ」
私は大きく丸をつけました。
### 八 留置権が消える三つの場面――強い権利にも弱点がある
「最後は、留置権の消滅です!」
私はノートの端に、三つの四角を描きました。
「まず一つ目!」
――善管注意義務違反、無断使用・賃貸・担保提供による消滅請求。
「昨日の黒田さんですね」
「ああ」
民法二九八条第三項。
違反があれば、債務者は留置権の消滅を請求できる。
これが、昨日の事件で使った方法です。
「でも、ここで注意ですね」
私は言いました。
「無断で貸した瞬間に、何もしなくても当然に消滅する、とは書かれていません」
「そうだ」
「債務者が消滅を請求できる、ですね」
相馬先輩が頷きました。
重要な区別です。
消滅請求権が発生すること。
消滅請求権を行使すること。
同じではありません。
だから私たちは、千鶴さん本人名義の通知書に、留置権の消滅を請求する意思を明記したのです。
「二つ目!」
私は書きました。
――相当の担保を供したことによる消滅請求。
民法三〇一条。
「先輩、これも面白いですね」
「何がだ」
「お金を払わなくても、別の担保を提供すれば、留置権の消滅を請求できるんですよね」
「ああ」
例えば。
時計の修理代金三万円が残っている。
時計屋には留置権がある。
でも、持ち主にとって、その時計はどうしても必要。
そんな場合。
債務者が相当の担保を提供すれば、留置権の消滅を請求できます。
「ただし、担保が相当かどうかが問題になりますね」
「そうだ」
「単に『保証します』って口で言えば何でもいいわけじゃない」
「ああ」
私は頷きました。
留置権者の利益を不当に害しないだけの担保が必要です。
そして、留置権が消滅しても、元の債権までなくなるわけではない。
「三つ目!」
私は書きました。
――占有の喪失。
民法三〇二条。
「先輩、時計屋が時計を返したら?」
「原則として留置権は消える」
「ですよね!」
留置権は、物を占有していることが前提。
だから、その占有を失うと、原則として消滅します。
「ただし、例外がありますね」
「ああ」
民法二九八条第二項に従い、承諾を得て留置物を賃貸したり、質権の目的とした場合には、占有喪失による消滅の例外が認められます。
「先輩!」
「何だ」
「昨日の黒田さんは、勝手に写真館へ貸していました!」
「ああ」
「だから、適法な承諾に基づく賃貸の例外とは違うんですよね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
承諾を得て賃貸した場合。
勝手に賃貸した場合。
この二つは、同じではありません。
しかも、黒田はその後、時計の返却を受けて占有を回復していました。
そのため昨日の事件では、無断賃貸に基づく消滅請求を中心に据えたのです。
「なるほど……」
私はノートを見直しました。
留置権。
強い権利です。
でも。
義務違反。
相当の担保提供。
占有喪失。
そして、被担保債権の消滅。
留置権が失われる場面は、いくつもあります。
「だから」
私は言いました。
「留置権って、成立したら永久に安心できる権利じゃないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が笑いました。
「法律の権利ってのは、使い方と管理が大事なんだよ」
### 九 昭和六十三年と令和――留置権は変わったのか?
窓の外が、少しずつ暗くなってきました。
私はノートをめくり直しました。
「所長」
「何だ」
「今回の留置権って、昭和六十三年と現代で、基本的な仕組みはほとんど同じなんですね」
「そうだ」
私は少し驚いていました。
これまで学んできた民法では、現代と昭和の違いに何度も苦しめられました。
成年後見制度。
禁治産者。
瑕疵担保責任。
契約不適合責任。
消滅時効。
用語も、制度も、条文の内容も変わっていました。
でも。
留置権については、基本的な仕組みが昭和六十三年にも存在します。
民法二九五条から三〇二条。
その中心となる考え方は、現代にも受け継がれているのです。
「先輩」
「何だ」
「どうして留置権は残っているんでしょう?」
「必要だからだろ」
「……ですよね」
私は笑いました。
考えてみれば、単純です。
時計を修理する。
車を修理する。
他人の物を預かって、仕事をする。
そういう取引は、昭和でも令和でもあります。
修理代金を払ってもらえない。
それも、どの時代にも起こり得る問題です。
だからこそ。
一定の場合に物を留置できる仕組みは、今も必要なのです。
「でも、債権の消滅時効は変わった」
「ああ」
「だから、留置権そのものの規定が似ていても、担保する債権については、時代による違いに注意しなきゃいけないんですね」
「そのとおり」
片桐所長が頷きました。
「条文一つだけで、法律関係の全部が決まるわけではない」
私は、その言葉に赤線を引きました。
なるほど。
法律を学ぶというのは。
一つの条文を覚えるだけではない。
その条文が、ほかの制度とどうつながっているか。
そこまで考えることなのです。
### 十 こはるの確認問題――本当に留置権を理解できた?
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「最後に確認だ」
「はい!」
「第一問。時計屋が客の時計を修理した。代金は未払い。ただし、支払期限は来月だ。留置権は?」
「まだ成立しません! 弁済期にないからです!」
「正解」
よし。
「第二問。時計屋が、客から借りた金を返してもらうため、修理を終えた時計を留置したい。貸付金と時計に関係はない。どうだ?」
「貸付金については牽連性がありません! その貸付金を被担保債権とする留置権は成立しません!」
「よし」
「第三問。修理代五万円のうち四万円が支払われた。残り一万円。時計全部を留置できるか?」
「できます! 不可分性です!」
「正解」
「第四問。時計屋が、預かった時計を勝手に友人へ貸し出した。どうなる?」
「民法二九八条第二項違反です! 債務者は第三項に基づき、留置権の消滅を請求できます!」
「よし」
「第五問。留置権を行使している間、修理代金債権の消滅時効は止まるか?」
「止まりません! 民法三〇〇条です!」
「正解」
私は得意になりました。
「先輩! 完璧ですね!」
「まだだ」
「ええっ!」
「第六問。相当の担保を供したら?」
「留置権の消滅を請求できます! 三〇一条です!」
「第七問。留置権者が占有を失ったら?」
「原則として留置権は消滅します! 三〇二条です!」
「ただし?」
「二九八条第二項に従った賃貸や質権設定の場合は例外があります!」
「よし」
相馬先輩が笑いました。
「まあ、合格だな」
「やった!」
私は拳を握りました。
留置権。
最初は、ただ人の物を返さない権利だと思っていました。
でも。
成立要件がある。
不可分性がある。
果実収取がある。
善管注意義務がある。
費用償還請求がある。
時効の問題がある。
消滅する場面もある。
それぞれが、ちゃんとつながっている。
なぜなら。
留置権は、修理代金などの債権者を守る制度であると同時に、物の所有者を不当に害さないようにする制度でもあるからです。
私は最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――留置権は「物と債権のつながり」で生まれ、「占有」で支えられ、「義務違反」で失うことがある。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「悪くねえな」
「褒めましたね!」
「まあな」
「えっ!?」
私は驚きました。
先輩が素直に褒めるなんて。
今日は何か悪いことでも起こるのでしょうか。
「ただし」
相馬先輩が続けました。
「何ですか?」
「明日まで覚えてたらな」
「ひどい!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
千鶴さんの懐中時計。
お父さんの形見。
その時計を修理した黒田には、正当な代金を受け取る権利があった。
だから、残代金のために留置権が成立することもあった。
でも。
時計とは無関係な貸付金まで、留置権で担保することはできなかった。
そして。
預かった時計を勝手に貸し出したことによって、留置権の消滅請求を受けることになった。
民法は、どちらか一方の味方をしているわけではない。
修理する人も守る。
持ち主も守る。
その公平を実現するために、複雑なルールがあるのです。
「ところで、こはる」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「はい?」
「今日の勉強は終わりか」
「はい!」
「なら、六法を棚に戻してくれ」
「分かりました!」
私は六法を持ち上げました。
そのとき。
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「こはる」
「何ですか?」
「昨日、お前は給料をもらうまで六法を留置するって言ってたな」
「あっ」
私は固まりました。
「今日もやるか?」
「やりません!」
「どうしてだ?」
「給料債権と六法に牽連性がありません!」
「正解」
私は胸を張りました。
「それに、勝手に持ち出したら占有の始まり方も問題になります!」
「そうだな」
先輩が笑いました。
「少しは賢くなったじゃねえか」
「当然です!」
私は六法を棚に戻しました。
でも。
ふと、別のことを思いつきました。
「先輩!」
「今度は何だ」
「もし私が、先輩の壊れた万年筆を修理して、修理代を払ってもらえなかったら?」
「……何?」
「その万年筆を留置できるんですよね?」
「要件を満たせばな」
「やった!」
「何がだ」
「じゃあ、先輩の万年筆が壊れたら、私が修理します!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「お前、万年筆を修理できるのか?」
「……できません」
「じゃあ駄目だろ」
「これから勉強します!」
「行政書士の勉強をしろ!」
私は笑いました。
片桐所長も、少しだけ口元を緩めていました。
窓の外では、夕暮れの町に明かりが灯り始めています。
駅前の商店街。
時計店。
写真館。
洋裁店。
そのどこかで。
千鶴さんの懐中時計は、今日も時を刻んでいるのでしょう。
チクタク。
チクタク。
人が働く。
物を預かる。
代金を払う。
約束を守る。
その当たり前の営みの中に、民法は存在しています。
留置権。
それは、単に人の物を返さないための法律ではありません。
自分の仕事に対する正当な報酬を守りながら。
他人の大切な財産を、勝手に扱わせないための法律でもあるのです。
私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。
――留置権は「物と債権のつながり」で生まれ、「占有」で支えられ、「義務違反」で失うことがある。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノートを片付けたら掃除だ!」
「また掃除ですか!」
「また掃除だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私、掃除をするために事務所へ来たわけじゃありません!」
「見習いだろ!」
「でも!」
「でも何だ!」
私は少し考えました。
そして。
「掃除代金を払ってもらえるまで、箒を留置します!」
相馬先輩が、一瞬だけ黙りました。
それから。
「馬鹿野郎!」
大声が飛びました。
「箒と掃除代金に、どんな牽連性があるんだよ!」
「……あ」
「しかも、まだ掃除してねえだろ!」
「……ああっ!」
私は頭を抱えました。
なるほど。
留置権というのは。
やっぱり、そう簡単には使えないようです。
残念ながら。
今日も掃除を免れることはできませんでした。
ただし。
民法の理解だけは。
昨日より、少しだけ前に進んだのでした。
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