[民法・地役権]法理編 こはるノート
土地を買ったからといって、その土地を何でも自由に使えるとは限りません。
自分の土地なのに。
他人が通る権利を持っている。
地主が変わっても。
昔の持ち主が亡くなっても。
何十年も前に設定された権利が、今なお残っていることがあるのです。
しかも。
その権利は、共有者の一人が勝手に半分だけ消すこともできません。
なぜなら。
地役権は、人間ではなく、土地の利益に結びついた権利だからです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……地役権って、名前が難しすぎません?」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「今度は何だ」
「要役地、承役地、付従性、随伴性、不可分性」
「ああ」
「似たような言葉が多すぎです!」
「法律に文句を言うな」
「しかも、地役権って、試験の文章だけ読んでると頭に入らないんですよ!」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「だったら、昨日の砂利道を思い出せ」
私は手を止めました。
杉浦春江さん。
六十四歳。
亡くなった夫が残した家に住んでいる女性です。
家の前から県道へ続く、幅二メートルほどの砂利道。
その道は、黒田開発という不動産会社の土地でした。
会社は突然、杭と鎖で通路を塞ぎ、
「ここは俺の土地だ。通りたければ月三万円払え」
と要求したのです。
でも。
調べてみると、昭和三十二年に設定された通行地役権が登記されていました。
しかも、昔の地役権設定契約書まで発見。
黒田社長は、杉浦家の共有者である弟さんから地役権放棄の署名を取り、
「半分は消えた」
と主張していました。
けれど。
民法二百八十二条。
地役権の不可分性。
これが、その理屈を崩したのです。
杉浦さんたちの名義で内容証明を送り、地役権の存在と通行妨害の問題を通知したところ、黒田開発は杭と鎖を撤去しました。
「……あの事件ですね」
「そうだ」
「じゃあ、今日は地役権を完全攻略します!」
「また大げさだな」
「行政書士試験では、こういう細かい条文が怖いんです!」
そこへ、奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……またですか」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
私はノートの真ん中に、大きく書きました。
――地役権。
「まず、民法二百八十条です!」
相馬先輩が頷きました。
「言ってみろ」
「地役権とは、自分の土地の便益のために、他人の土地を設定された目的に従って利用できる権利です!」
「そうだ」
「ここで大事なのは、『自分の土地の便益のため』という部分です」
私は二つの四角を描きました。
左側に、杉浦家の宅地。
右側に、黒田開発の通路。
そして、二つを線で結びます。
「杉浦家は、黒田開発の土地を通ることで、県道へ出られます」
「うん」
「つまり、杉浦家の土地が利益を受けている」
「そうだ」
「この利益を受ける土地が、要役地です!」
私は左の四角を丸で囲みました。
――要役地。
利益を受ける土地。
「じゃあ、黒田開発の土地は?」
相馬先輩が尋ねます。
「承役地です!」
私は右の四角を丸で囲みました。
――承役地。
他の土地のために利用される土地。
「要役地は、利益を受ける土地。承役地は、その利益のために利用される土地ですね」
「そのとおり」
私は少し考えました。
「先輩、覚え方を思いつきました」
「嫌な予感がするな」
「要役地は、『利益を要求する土地』!」
「……」
「承役地は、『その役目を承る土地』!」
「……まあ、覚えられるならいいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「褒めてねえ」
でも。
これは本当に覚えやすいと思います。
要役地。
利益を受ける。
承役地。
利用される。
この二つを逆に覚えてしまうと、後の条文が全部分からなくなってしまいます。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「地役権って、通行だけなんですか?」
「違う」
「ですよね!」
私はノートに書き足しました。
通行。
日照。
眺望。
水の利用。
排水。
例えば。
山の上に別荘があるとします。
そこから湖が見える。
けれど、手前の土地に高い建物が建ってしまうと、景色が見えなくなる。
「そこで、適法な地役権の設定によって、一定の高さを超える建物を建てないようにすることも考えられます」
「そうだな」
「それも、要役地の便益のためなんですね」
「ああ」
地役権は、必ずしも道を歩く権利とは限りません。
他人の土地を利用する形もあれば、他人の土地の利用方法を制限する形もあります。
大切なのは。
何のために設定した権利なのか。
そして。
どの土地の便益のためなのか。
「ただし、設定した目的を超えて、好き勝手に使えるわけではない」
片桐所長が静かに言いました。
「はい」
「通行のための地役権があるからといって、承役地に勝手に物置を建ててよいわけではない」
「なるほど」
「通行の範囲や方法も、設定行為の内容が重要だ」
私は頷きました。
杉浦家の場合。
契約書にも登記にも、通行の目的と範囲が記録されていました。
だからこそ、黒田開発に対して権利の内容を具体的に示せたのです。
地役権は。
他人の土地を無制限に使う魔法ではありません。
決められた目的のために、その土地を利用できる権利なのです。
「さて、次だ」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「地役権は、誰について回る?」
私は即答しました。
「土地です!」
「どういう意味だ?」
「民法二百八十一条です!」
私はノートに大きく書きました。
――地役権の付従性・随伴性。
「例えば、杉浦春江さんが、自分たちの土地を第三者へ売却したとします」
「うん」
「そのとき、地役権はどうなるか」
私は鉛筆で矢印を描きました。
杉浦家の土地。
↓
新しい所有者。
「地役権も、原則として一緒に移ります!」
「そうだ」
民法二百八十一条一項。
地役権は、要役地の所有権に従たるものとして、その所有権とともに移転します。
ただし、設定行為に別段の定めがあれば、その定めを検討する必要があります。
「つまり、杉浦さんが土地を売ったあとも、杉浦さん個人が当然に通行地役権を持ち続けるわけじゃないんですね」
「そうだ」
「その土地を買った人が、地役権も引き継ぐ」
「ああ」
私は頷きました。
これが、随伴性。
要役地の所有権の移転に伴って、地役権も移る。
「じゃあ、付従性は?」
相馬先輩が聞きました。
「地役権が、要役地に従属している性質です」
「そうだ」
私はノートの余白に、大きな木を描きました。
幹。
枝。
葉っぱ。
「要役地が木の幹なら、地役権は枝みたいなものですね!」
「ほう」
「要役地の所有権が移れば、原則として地役権もついていく」
「そうだな」
「幹から枝だけ切り離して、勝手に売ることもできない」
ここで登場するのが。
民法二百八十一条二項。
地役権は、要役地から分離して譲渡したり、他の権利の目的にしたりすることができません。
「先輩。確認問題です!」
「何だ、今度は俺が答えるのか」
「はい!」
私は鉛筆を掲げました。
「杉浦さんが、宅地は自分のものとして残したまま、通行地役権だけを隣町の田中さんに百万円で売る。できますか?」
「できねえ」
「正解!」
「当たり前だ」
「地役権は、要役地から分離して譲渡できません!」
私は二重丸を描きました。
「では、杉浦さんが宅地を売り、その売買で地役権が移転する場合は?」
「原則として、土地と一緒に移る」
「正解!」
「お前、楽しそうだな」
「楽しいです!」
昨日まで。
付従性。
随伴性。
字面だけでは、違いがよく分かりませんでした。
でも。
杉浦家の道を思い出せば、一瞬です。
道を使う権利は、杉浦さんという人間のためだけに存在しているのではありません。
杉浦家の宅地を便利に使うために存在している。
だから、その宅地を取得した人にも権利がついていく。
もちろん、地役権を第三者に対抗できるかどうかは、登記などの問題もあります。
杉浦家の事件では、地役権が登記されていたことが大きな意味を持ちました。
「……あれ?」
私は突然、鉛筆を止めました。
「どうした」
「先輩。黒田社長って、承役地を買ったんですよね」
「ああ」
「それなら、要役地を買った場合の話とは違いますよね?」
相馬先輩がにやりとしました。
「気づいたか」
そうです。
ここは区別しなければなりません。
要役地を買う人は、原則として地役権も取得する立場。
一方。
承役地を買う人は、他人の地役権による負担を受ける立場です。
「しかも、今回は登記されていた」
「そうだ」
「だから黒田社長は、土地を買っただけで地役権が消えたとは主張できなかったんですね!」
「そのとおりだ」
私はノートに書きました。
――要役地の所有者が変わる場合と、承役地の所有者が変わる場合を混同しない。
なるほど。
これ、試験でも引っかかりそうです。
片桐所長が静かに言いました。
「土地の売買契約書に何と書いてあるかだけでなく、登記された権利も確認する」
「はい」
「それが土地取引の怖いところだ」
私は頷きました。
見た目は、普通の砂利道。
でも、登記簿を開けば。
そこには三十一年前の権利が残っていた。
土地は。
目に見えるものだけで判断してはいけないのです。
「次が、黒田社長の致命傷だな」
相馬先輩が言いました。
「不可分性ですね!」
私はノートをめくりました。
――地役権の不可分性。
「杉浦家の土地は、春江さんと弟さんの共有でした」
「ああ」
「持分は、それぞれ二分の一」
「そうだ」
「黒田社長は、弟さんに地役権放棄の書面を書かせました」
「うん」
「そして、『二分の一の地役権が消えた』と主張した」
私は首を振りました。
「でも、それは間違いです!」
民法二百八十二条一項。
土地の共有者の一人は、その持分について、その土地のために、またはその土地について存する地役権を消滅させることができません。
「つまり!」
私は二つの丸を描きました。
春江さん。
持分二分の一。
弟さん。
持分二分の一。
「この二人が、それぞれ半分ずつ独立した通行地役権を持っているわけではありません!」
「そうだ」
「一つの要役地のために、地役権が存在しているんです!」
私は大きな丸で二人を囲みました。
なるほど。
共有持分が半分だから。
地役権も半分。
そんな単純な計算にはなりません。
「先輩。例えば、弟さんが自分の持分についてだけ地役権を放棄すると言っても……」
「その持分についてだけ消滅させることはできねえ」
「はい!」
「じゃあ、共有者全員が適法に消滅させる場合は?」
「それは別問題です!」
私は即答しました。
「不可分性は、地役権が絶対に消えないという意味ではありません!」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「そこを間違えるな」
私はノートに大きく書きました。
――共有者の一人だけで、持分に対応する地役権を消せない。
これが不可分性。
そして、もう一つ。
民法二百八十二条二項。
土地が分割された場合や、一部が譲渡された場合です。
「先輩。例えば、杉浦家の宅地を二つに分筆して、それぞれ別の人が所有したら?」
「原則として、それぞれの土地のために地役権が存続する」
「そうです!」
私は二つに分かれた四角を描きました。
「地役権は、原則として分割後の各部分のためにも存在します」
「ただし?」
「地役権の性質上、土地の一部だけに関係する場合は例外です!」
例えば。
土地の北側にある水路だけを利用するための地役権。
その土地を南北に分割した。
すると、地役権の性質上、北側だけに関係する場合も考えられます。
「つまり、何でも機械的に全部へ広がるわけではないんですね」
「そうだ」
「地役権の目的や性質を見る必要がある」
私は頷きました。
不可分性。
言葉だけ聞くと、絶対に分けられないように思えます。
でも。
正確には、地役権を共有持分ごとに勝手に切り刻めないということ。
土地の分割や一部譲渡では、権利の性質に応じた検討が必要になります。
「法律って、細かいですね……」
「今さら何言ってんだ」
「だって、単純に覚えると間違えるんですよ!」
「だから条文を読めって言ってるだろ」
うう。
ごもっともです。
「さて」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「次は、あの砂利道のもう一つの話だ」
「時効取得ですね!」
「ああ」
私はノートに大きく書きました。
――地役権の時効取得。
民法二百八十三条。
「先輩、地役権って、長年使っていれば必ず取得できるんですか?」
「できねえ」
「ですよね」
ここが、かなり重要です。
地役権は、一定の条件を満たせば、時効によって取得できる場合があります。
でも。
単に他人の土地を二十年間歩いた。
それだけでは、当然に通行地役権を取得できるわけではありません。
「では、条件を言ってみろ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
私は指を二本立てました。
「継続的に行使されていること!」
「うん」
「そして、外形上認識することができること!」
「そうだ」
民法二百八十三条。
地役権は、継続的に行使され、かつ、外形上認識することができるものに限り、時効によって取得できます。
「でも先輩」
「何だ」
「『毎日通っている』なら、継続的ですよね?」
「そこが罠だ」
「え?」
相馬先輩は机に一枚の紙を置きました。
そこには、二つの道が描かれています。
一つ目。
他人の空き地を、近所の人が毎日横切っている。
二つ目。
他人の土地に、隣家の住人が自分で砂利を敷き、通路として整備して長年使っている。
「こはる。違いは分かるか?」
「はい」
「言ってみろ」
「一つ目は、単に歩いて通っているだけです」
「うん」
「二つ目は、道そのものが造られていて、外から見ても通路だと分かります」
「そうだ」
ここが大事です。
通行地役権の時効取得については、判例上、要役地所有者によって通路が開設されたことなどが重視されています。
単に毎日歩いていたというだけでは、民法二百八十三条の継続性を満たすとは限りません。
例えば。
隣の空き地を二十年間、毎朝横切って通勤した。
けれど、道を造ったわけでもない。
外から見ても、ただの空き地。
そんな場合。
「二十年歩いたから、今日から通行地役権がある!」
と当然には言えないのです。
「でも、杉浦家の道は違いましたね」
「ああ」
「ご主人と弟さんが、砂利を敷いて道を造っていた」
「そうだ」
「三十年以上、手入れも続けていた」
「うん」
「外から見ても、はっきりと通路だった」
私は頷きました。
もちろん、これだけで時効取得が必ず成立すると断定できるわけではありません。
取得時効に必要な期間や、権利行使の態様なども確認する必要があります。
しかも、杉浦家の場合には、昔の地役権設定契約書と登記がありました。
だから。
時効取得を唯一の根拠にする必要はなかったのです。
「所長」
私は尋ねました。
「仮に昔の契約書がなくて、登記もなかったら、時効取得を検討したんですよね?」
「そうだ」
「でも、それを主張するなら、道の開設状況や利用の証拠が重要になる」
「うん」
「だから、写真や古い領収書を集める必要があるんですね」
所長が頷きました。
「時効は、年数を言えば成立するわけではない」
「はい」
「どういう状態が、どれだけ続いたか。それを証明できなければならん」
私はノートに書きました。
――二十年通っただけでは足りない。通行地役権の時効取得は、道の開設と権利行使の実態を見る。
なるほど。
これなら、試験で引っかからずに済みそうです。
「じゃあ、もう一つ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「要役地が共有だった場合、共有者の一人だけが地役権を時効取得したらどうなる?」
私はにやりとしました。
「それ、分かります!」
民法二百八十四条一項。
土地の共有者の一人が時効によって地役権を取得したときは、ほかの共有者もこれを取得します。
「つまり!」
私は言いました。
「杉浦家の土地が春江さんと弟さんの共有で、春江さんが地役権を時効取得したとします」
「うん」
「その場合、弟さんも地役権を取得するんです!」
「そうだ」
私はノートに大きな矢印を描きました。
共有者Aが時効取得。
↓
ほかの共有者Bも取得。
「なぜだと思う?」
相馬先輩が聞きました。
私は少し考えました。
「地役権が、要役地全体の便益のための権利だからです」
「そうだな」
「共有者の一人だけが通行地役権を取得して、もう一人は同じ土地の共有者なのに権利がない、というのでは、地役権の性質に合わないんですね」
「そういうことだ」
不可分性。
ここでも登場しました。
地役権を共有持分ごとに勝手に消すことはできない。
そして、一人の共有者が時効取得した場合には、ほかの共有者にも効力が及ぶ。
「先輩!」
「何だ」
「地役権って、共有になると団体行動するんですね!」
「何だそりゃ」
「一人だけ抜けたり、一人だけ取得したりしても、ほかの共有者と切り離せない!」
「まあ、イメージとしては悪くねえな」
「でしょう!」
私は嬉しくなりました。
でも。
相馬先輩は、そこで意地悪そうに笑いました。
「じゃあ、時効の中断はどうなる?」
「……え?」
「共有者の一人にだけ時効の中断事由があったら、全員に効くのか?」
私は固まりました。
……来ました。
細かい条文。
「に、二百八十四条二項……!」
「読んでみろ」
私は六法を開きました。
そこには、地役権を行使する各共有者に対して時効の中断をしなければ、その効力を生じない旨が書かれていました。
「つまり……」
私は慎重に言いました。
「共有者の一人にだけ中断のための措置を取っても、地役権の時効取得を阻止するには足りない場合があるんですね」
「そうだ」
「地役権を行使している各共有者に対して、必要な措置を取らないといけない」
「ああ」
私は頷きました。
地役権の不可分性は、時効取得にも関係する。
そのため、時効の中断についても、共有者の一人だけを相手にすればよいとは限らない。
「そして、三項ですね」
私は続けました。
地役権を行使する共有者が数人いる場合、その一人について時効の停止事由があっても、時効は各共有者のために進行する。
「これも、共有者の一人の事情で、地役権全体の時効の進行を簡単に止めない仕組みなんですね」
「そういうことだ」
私は、ノートにまとめました。
共有者の一人が時効取得すれば、ほかの共有者も取得する。
時効の中断は、原則として地役権を行使する各共有者に対する措置が必要。
共有者の一人について停止事由があっても、ほかの共有者を含め、時効は各共有者のために進行する。
「……先輩」
「何だ」
「地役権って、二百八十条から二百八十四条まで、全部つながってるんですね」
「ようやく分かったか」
「はい!」
そうです。
一つ一つの条文をバラバラに暗記すると、大変です。
でも。
地役権は、土地の便益のための権利。
だから、要役地に従属する。
だから、要役地の所有権とともに移る。
だから、共有持分ごとに簡単に分離できない。
そして、時効取得の場面でも共有者全体との関係が問題になる。
全部。
一つの考え方から、つながっているのです。
「ところで」
私は六法を見つめました。
「……あれ?」
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「今度は何だ」
「条文の言葉が違います」
「何がだ」
「時効のところです」
私はノートの端に、現代の知識を書きました。
――時効の完成猶予。
――時効の更新。
相馬先輩が覗き込みました。
「何だ、その言葉は」
「あっ」
しまった。
また未来の民法です。
「昭和六十三年には……」
「中断と停止だろ」
「はい……」
私は額を押さえました。
現代の民法では、二〇二〇年の債権法改正施行によって、時効の制度が整理されました。
昔の「中断」「停止」という用語は、現在では「更新」「完成猶予」という概念で整理されています。
「先輩、現代では『時効の更新』という言い方があるんですよ」
「また未来の話か」
「でも、これは大事なんです!」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
時効の中断・停止。
令和。
時効の更新・完成猶予。
「ただし!」
私は自分で言いました。
相馬先輩が顔を上げます。
「何だ」
「単純に言葉を置き換えるだけじゃ駄目なんです!」
旧法の「中断」には、時効の進行を止めて、それまでの期間をリセットするような効果を生じるものが含まれていました。
現代では、時効期間が新たに進行する「更新」と、一定の間は時効の完成を認めない「完成猶予」を区別して考えます。
つまり。
ただ名前が変わっただけではありません。
法律上の効果を、より分かりやすく整理したのです。
「なるほどな」
相馬先輩が頷きました。
「でも、今は昭和六十三年だぞ」
「はい」
「今の書類に、未来の用語を混ぜるなよ」
「分かってます!」
私は大きく頷きました。
ここは、転生者にとって最大の落とし穴です。
現代の民法を知っている。
だから、つい現代の用語を使ってしまう。
でも。
昭和六十三年の事件には、昭和六十三年の法律を使わなければなりません。
「それにしても……」
私は呟きました。
「地役権の基本的な仕組みは、あまり変わっていないんですね」
「そうだな」
相馬先輩が言いました。
「土地と土地の関係だからな」
私は頷きました。
たしかに。
杉浦家の砂利道。
昭和三十二年に設定された地役権。
昭和六十三年に問題になった通行妨害。
そして、現代の民法。
時代が変わっても、地役権という制度の必要性は変わりません。
土地の所有者が変わる。
家族が亡くなる。
土地が売られる。
共有になる。
それでも、土地を利用するために必要な権利関係を安定させる。
その役割があるからです。
「法律って、変わる部分と変わらない部分があるんですね」
私が言うと、片桐所長が頷きました。
「そうだ」
「変わらないのは、人の生活に必要な仕組みだから」
「うん」
「変わるのは、より分かりやすく、より適切にするため」
所長は静かに言いました。
「条文を覚えるだけでなく、何を守るための制度かを考えろ」
「はい!」
私は、その言葉をノートに書きました。
窓の外は、すっかり夕暮れになっていました。
私はここまでの内容を見直しました。
地役権。
他人の土地を、自分の土地の便益のために使う権利。
要役地。
利益を受ける土地。
承役地。
その利益のために利用される土地。
付従性。
地役権は要役地に従属する。
随伴性。
要役地の所有権の移転に伴い、原則として地役権も移る。
不可分性。
共有者の一人が、持分についてだけ地役権を消滅させることはできない。
時効取得。
継続的に行使され、外形上認識できる地役権に限られる。
そして。
共有者の一人が時効取得したときは、ほかの共有者も取得する。
「……よし!」
私は鉛筆を置きました。
「所長!」
「何だ」
「確認問題をお願いします!」
所長は帳簿を閉じました。
「いいだろう」
よし。
実力試しです。
「他人の土地を、自己の土地の便益のために利用する権利は?」
「地役権です!」
「利益を受ける土地は?」
「要役地!」
「利益を与える土地は?」
「承役地!」
「要役地を第三者へ売った場合、地役権は?」
「原則として、要役地の所有権とともに移転します!」
「地役権だけを要役地から切り離して譲渡できるか」
「できません!」
「共有者の一人が、自分の持分についてだけ地役権を消滅させられるか」
「できません!」
「地役権を時効取得するための特別な要件は?」
「継続的に行使され、外形上認識できることです!」
「共有者の一人が時効取得したら?」
「ほかの共有者も取得します!」
所長が頷きました。
「よし」
私は思わず拳を握りました。
やった。
地役権。
完全攻略です。
「じゃあ、俺からも一問」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「地主が変わったら、登記されていた地役権は当然に消えるか?」
「消えません!」
「じゃあ、昔の地主が単なる好意で通行させていただけだったら、必ず地役権があるか?」
「ありません!」
「ほう」
「単なる通行の許可と、地役権の設定は違います!」
「よし」
「今回の杉浦家には、契約書と登記があったから、権利の根拠を示せたんです!」
「そうだ」
私は満足しました。
すると。
相馬先輩が、もう一問出してきました。
「じゃあ、最後だ」
「まだあるんですか!」
「昭和六十三年の民法二百八十四条で、時効の更新って言葉は使われてるか?」
「使われてません!」
「正解」
「時効の中断です!」
「よし」
「現代では、更新と完成猶予です!」
「未来の話はもういい!」
また怒られました。
でも。
もう間違えません。
昭和六十三年。
地役権の条文。
時効の中断と停止。
現代。
更新と完成猶予。
きっちり区別できます。
「それじゃあ……」
私はノートの最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――地役権は「土地のための権利」。土地について移り、共有持分だけでは切れず、時効取得にも特別な条件がある。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長くねえか?」
「必要なことが全部入ってるんです!」
「一行の覚え書きだろ?」
「一行です!」
「字が小せえな」
「そこは見逃してください!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
杉浦家の砂利道。
朝日を浴びた木の杭。
鎖で塞がれた通路。
黒田社長の強気な通知書。
そして。
三十一年前の地役権設定契約書。
古い紙に書かれた約束が、今の暮らしを守った。
そのことを思い出せば。
民法二百八十条から二百八十四条まで。
全部、一本の道としてつながるのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「地役権の勉強は終わったか?」
「終わりました!」
「じゃあ、裏の通路を掃除してこい」
「……またですか?」
「昨日も言っただろ」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「私は地役権の付従性を理解しました」
「そうか」
「だから、掃除当番にも付従性があると思うんです!」
「……は?」
「この事務所を使っている人全員に、掃除当番がくっつくべきです!」
相馬先輩は、しばらく黙りました。
そして。
「そんな法律はねえ!」
「でも、共有の精神です!」
「事務所は共有地じゃねえ!」
「じゃあ、不可分性です!」
「何がだ!」
「掃除の義務を私一人に押しつけて、先輩だけ切り離すのは不公平です!」
「不可分性を勝手に使うな!」
私は唇を尖らせました。
「法律って、必要なときに使えないんですね……」
「使い方が間違ってんだよ!」
そこへ。
片桐所長が静かに言いました。
「相馬」
「はい」
「今日は、お前も掃除を手伝ってやれ」
「……え?」
私は顔を上げました。
「所長!」
「何だ」
「ありがとうございます!」
所長は帳簿を閉じながら言いました。
「二人でやれば早い」
「はい!」
相馬先輩はため息をつきました。
「……分かりましたよ」
私は箒を二本取り出しました。
「先輩!」
「何だ」
「これが、掃除当番の不可分性ですね!」
「違うって言ってんだろ!」
……どうやら。
私の新しい法律理論は、まだ認められないようです。
それから、しばらくして。
私たちは二人で、事務所の裏の通路を掃き始めました。
箒が砂利を擦る音。
夕暮れの風。
遠くを走る自転車のベル。
私は、杉浦家の道を思い出していました。
「先輩」
「何だ」
「もし、あの道が塞がれたままだったら、どうなってたんでしょうね」
「さあな」
「春江さん、困ったでしょうね」
「そりゃそうだ」
「毎日使っていた道ですもんね」
相馬先輩は箒を止めました。
「こはる」
「はい」
「土地ってのは、不思議なもんだ」
「え?」
「自分の土地だけで、何もかも完結するわけじゃねえ」
私は黙って聞きました。
「隣の土地を通らなきゃ、道に出られねえこともある。隣の土地に建物が建てば、日当たりが変わることもある」
「……はい」
「だから、土地と土地の間には、いろんな権利関係が生まれる」
相馬先輩は、砂利道を見ました。
「地役権ってのは、その関係を法律で形にしたものの一つなんだよ」
私は頷きました。
なるほど。
地役権。
土地のための権利。
でも。
その先にあるのは。
人間の暮らしなのです。
家に帰る道。
学校へ行く道。
病院へ向かう道。
畑へ向かう道。
毎日、当たり前のように使っている場所。
そこに。
民法という、目に見えない支えがある。
「……先輩」
「何だ」
「私、地役権が好きになりました」
「また変な趣味が増えたな」
「ひどい!」
「次は何だ。抵当権と結婚するのか?」
「しません!」
「じゃあ、所有権と付き合うか?」
「法律用語を恋愛対象にしないでください!」
相馬先輩が笑いました。
私も、つられて笑いました。
昭和六十三年。
民法は、まだまだ古めかしい言葉だらけです。
禁治産。
準禁治産。
瑕疵担保責任。
時効の中断。
そして、地役権。
現代の受験生だった私には、戸惑うことばかり。
けれど。
条文の向こう側にある、人の生活を見つめれば。
不思議と、意味が分かってくる。
土地にくっついた権利が、人の暮らしを守る。
共有者が勝手に半分だけ消せないのも。
長年の利用から権利を取得するために厳しい条件があるのも。
土地と土地の関係を、簡単に壊さないためなのです。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度思い出しました。
――地役権は「土地のための権利」。土地について移り、共有持分だけでは切れず、時効取得にも特別な条件がある。
よし。
これなら、試験でも大丈夫。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「手が止まってるぞ!」
「今、地役権の本質を考えてたんです!」
「本質は後だ! 掃除しろ!」
「先輩!」
「何だ!」
「この通路にも地役権が設定されていたら、掃除する義務が自動的に先輩へ移るんですか?」
「移るか!」
「ですよね!」
「分かってて聞くな!」
……なるほど。
地役権は、土地の便益のための権利。
掃除当番は、事務所の仕事。
この二つは。
どうやら、まったく別の問題なのでした。
残念ながら。
民法二百八十一条を何度読み返しても。
私の掃除当番だけは、先輩に随伴してくれそうにありません。
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