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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 物権

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475/701

[民法・地役権]現場編 「道だけは売っていません」の嘘。土地にくっつく通行権と、二十年間の足跡を消そうとした地主の誤算

挿絵(By みてみん)

 道は、歩く人のものとは限りません。


 毎朝、同じ道を通る。


 雨の日も。


 風の日も。


 子供たちが学校へ行く日も。


 お年寄りが病院へ向かう日も。


 何十年も、当たり前のように使ってきた道。


 けれど。


 ある日突然、その道の真ん中に杭が打たれたら。


 そして、地主からこう言われたら。


「ここは俺の土地だ。もう通るな」


 人は、どうすればいいのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は知ることになります。


 土地には。


 目に見える境界線とは別に。


 目に見えない権利が、くっついていることがあるのです。


 その名は。


 ――地役権。


 そして、この権利。


 一度くっつくと、なかなか離れません。


「道を、塞がれたんです!」


 朝一番。


 事務所の扉が勢いよく開きました。


 入ってきたのは、六十代くらいの女性。


 手には泥のついた長靴。


 額には汗。


 ずいぶん慌てています。


「落ち着いてください。どうされました?」


 私が椅子を勧めると、女性は一枚の写真を差し出しました。


「これを見てください!」


 写真には、砂利道が写っていました。


 幅は二メートルほど。


 道の両脇には畑。


 その奥に、小さな木造住宅が二軒。


 そして。


 道の入口には、太い木の杭が打ち込まれていました。


 杭と杭の間には、鎖。


 真ん中には看板。


 ――私有地につき通行禁止。


「……これは」


「昨日、突然です!」


 女性は声を震わせました。


「朝起きたら、道が塞がれていたんです!」


「お名前を教えてください」


「杉浦春江です。六十四歳になります」


 杉浦春江さん。


 町外れの集落に暮らす女性でした。


 亡くなった夫が残した土地に、息子夫婦と一緒に住んでいるそうです。


「この道、どこへ続いているんですか?」


「私の家です」


「え?」


「うちと、弟の家に続いているんです」


 春江さんは写真を指差しました。


「ここが私の家。こっちが弟の家。それで、ここが県道です」


 なるほど。


 二軒の家の前から県道へ出るには、この砂利道を通るのが一番近い。


「ほかに道はありませんか?」


「裏の畑を大きく回れば、細い農道には出られます。でも、軽トラックは通れません。雨が降るとぬかるんで、足の悪い私には……」


 春江さんは言葉を詰まらせました。


「息子は毎朝、軽トラックで仕事に行くんです。弟のところには、足の悪い奥さんもいます」


 私はもう一度、写真を見ました。


 これ。


 単なる近道の問題ではありません。


 生活道路です。


「地主さんは誰ですか?」


「昔は、村上のおじいさんでした。でも、三か月前に土地が売られて……」


 春江さんの表情が曇りました。


「今は、黒田開発という不動産会社のものです」


 不動産会社。


 嫌な予感がします。


「会社から何か説明は?」


「ありました」


 春江さんは封筒を取り出しました。


 中には一枚の通知書。


 ――通行路使用終了通知。


 私は読み上げました。


「本件通路は当社所有地であり、杉浦家による通行は従前の所有者の好意によって認められていたものにすぎない」


 ふむ。


「土地所有権の移転に伴い、従前の通行許可は終了した」


 ……。


「今後、通行を希望する場合は、月額三万円の通行料を支払うこと」


 私は止まりました。


「……三万円?」


「はい」


「毎月?」


「毎月です」


 高い!


 普通の砂利道ですよ?


「二軒とも払えって言うんです。一年で七十二万円です」


 私は思わず計算しかけました。


 いや。


 計算以前の問題です。


「春江さん。この道は、いつから使っているんですか?」


「私が嫁に来る前からです。もう三十年以上になります」


「道は誰が造ったんですか?」


「主人と弟が、村上のおじいさんに話をつけて、自分たちで砂利を敷いたんです」


「話をつけた?」


「はい。ちゃんと約束したって、主人が言っていました」


 私は顔を上げました。


「そのときの書類はありますか?」


「それが……」


 春江さんは困った顔になりました。


「古い話なので、分からなくて」


 ううむ。


 ここで問題になるのは。


 他人の土地を使う権利。


 私は、現代の行政書士試験で勉強した単語を思い出しました。


 地役権。


 通行地役権。


 そして。


 付従性。


 随伴性。


 不可分性。


 ……。


 名前だけ見ると、必殺技みたいですね。


 でも。


 今回は、その必殺技が必要かもしれません。


「所長!」


 私は奥へ向かって声を上げました。


「地役権です!」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「何がだ」


「通行地役権です!」


「まず事情を聞け」


「聞きました!」


「まだ足りん」


 あっさり返されました。


 そこへ相馬先輩が現れます。


「何だ、朝から騒がしいな」


「道を塞がれたんです!」


「お前の道か?」


「私のじゃありません!」


「じゃあ誰のだ」


「それが問題なんです!」


 先輩は写真を見ました。


 そして、通知書を読みました。


「黒田開発か」


「知ってるんですか?」


「駅前でも土地を買い集めてる会社だ。強引なやり方で有名だな」


 先輩は写真の杭を指で叩きました。


「で、登記は調べたか?」


「まだです」


「契約書は?」


「見つかっていません」


「道を造った時期は?」


「三十年以上前です」


「誰が造った?」


「杉浦さんのご主人と弟さんです」


「よし」


 先輩が頷きました。


「だったら、調べるものは決まったな」


「何ですか?」


「土地と権利の履歴だ」


 私は首を傾げました。


「履歴?」


「この道は誰の土地か。昔、どんな約束があったか。その約束がどの土地のためにされたものか」


 先輩が続けます。


「人間の口約束だけを追うな。土地に何がくっついているかを調べろ」


 なるほど。


 土地にくっついている権利。


 地役権です。


「春江さん」


 片桐所長が言いました。


「ご自宅の土地は、どなたの名義ですか」


「私と、弟の共有です」


「共有?」


「主人が亡くなったとき、いろいろ事情があって、二人で持つことになりまして」


「持分は?」


「私が二分の一、弟も二分の一です」


 私はメモしました。


 共有地。


 ここも重要です。


「道の方は?」


「昔は村上さんの土地でした。今は黒田開発です」


 所長が頷きます。


「では、まず登記簿を確認しよう」


「はい!」


 こうして。


 一本の砂利道をめぐる調査が始まったのです。


 翌日。


 私たちは法務局で調べた登記簿謄本を机に並べました。


 杉浦家の宅地。


 百二十坪。


 共有者は春江さんと、その弟。


 そして、問題の通路。


 こちらは黒田開発名義。


「やっぱり、道は黒田開発の土地なんですね」


 私が言うと、相馬先輩が鼻を鳴らしました。


「だから何だ」


「え?」


「他人の土地だから、絶対に通れないと思うか?」


「……いえ」


「なら、続きを読め」


 私は通路の登記簿を見直しました。


 所有権。


 その下。


 乙区。


 そこに。


 小さな文字がありました。


 ――地役権設定。


「……あっ!」


 私は思わず立ち上がりました。


「あります!」


「何がだ」


「地役権!」


 記録には、こうありました。


 ――原因 昭和三十二年五月十日設定。


 ――目的 通行。


 ――要役地 杉浦家の宅地。


 ――範囲 本件土地のうち別添図面表示部分。


 私は目を見開きました。


「登記されてる!」


「そういうことだ」


 相馬先輩が腕を組みました。


「誰かさんは、道が他人の土地だから終わりだと思ってたみたいだがな」


「思ってません!」


「顔に書いてあったぞ」


「書いてません!」


 でも。


 これは大きい。


 しかも、昭和三十二年。


 三十一年前です。


 杉浦家は、ずっと昔から通行地役権を持っていた。


 そして、その地役権は登記されていたのです。


「所長!」


「何だ」


「これなら勝てます!」


「何にだ」


「黒田開発にです!」


「まだ早い」


 所長は静かに言いました。


「地役権の範囲と設定内容を確認しろ」


 私は頷きました。


 登記があるからといって、土地のどこでも自由に通れるわけではありません。


 設定された目的。


 通行できる範囲。


 具体的な約束。


 それらを確かめる必要があります。


 登記に記録された範囲と、現在の砂利道を照らし合わせる。


 すると。


「……一致してます」


 私は図面を机に広げました。


 県道から杉浦家の宅地まで。


 約四十メートル。


 幅二メートル。


 写真の砂利道と、ほぼ同じ位置です。


 所長は静かに頷きました。


「これなら、相手が土地を買った後も、地役権を主張できる根拠がある」


「はい!」


 私は思わず笑顔になりました。


 でも。


 相馬先輩は、妙なことを言いました。


「こはる。まだ喜ぶなよ」


「え?」


「黒田開発は、おそらくもう一つ仕掛けてくる」


「もう一つ?」


「共有者だ」


 ……。


 共有者?


 春江さんと弟さん。


 二人で一つの土地を持っている。


 それが何か?


 私が首を傾げていると。


 まるで待っていたように、事務所の電話が鳴ったのです。


「地役権? そんなものはもう消えていますよ」


 受話器の向こうで、男が笑いました。


 黒田開発の社長。


 黒田重蔵。


 五十代の男です。


 春江さんの相談について知り、事務所へ電話してきたのでした。


『登記を調べたそうですな』


 男の声には、余裕がありました。


『でもね。古い権利なんか、いつまでも残ると思ったら大間違いですよ』


「どういうことでしょう」


 片桐所長が尋ねました。


『杉浦家の弟さんから、権利を放棄するという書面をもらっているんです』


 私は顔を上げました。


 放棄?


『だから、少なくとも弟さんの権利は消えています』


「……」


『それに、お姉さんの方も、土地を譲るときには通行権を別に残す話だったと聞いていますよ』


 私は首を傾げました。


 何か、おかしい。


 土地の所有権と地役権。


 確か……。


「所長!」


 私は思わず声を上げそうになりました。


 でも、所長が手で制します。


 所長は受話器に向かって、落ち着いた声で言いました。


「当事務所は法律紛争の代理交渉をお引き受けしておりません。ご主張に関する書類は、杉浦さんご本人へお示しください」


『はあ?』


「内容については、ご本人が確認されることになります」


『行政書士ってのは、交渉もできないのか』


「そのとおりです」


 所長の声は変わりません。


『だったら何の役に立つんだ』


 電話が切れました。


 私は拳を握りました。


「所長! 今の言い方!」


「気にするな」


「でも!」


 相馬先輩が笑いました。


「こはる。相手が行政書士を舐めてくれるなら、好都合だ」


「好都合?」


「ああ」


 先輩は机の上の登記簿を指差しました。


「こっちは、相手が何を見落としてるか分かってる」


 その指先には。


 民法二百八十一条。


 そして。


 二百八十二条。


 と書かれていました。


「まず、現場を見に行くぞ」


 相馬先輩は私を連れて、杉浦家へ向かいました。


 町外れの小さな集落。


 田畑の間に、二軒の家が並んでいます。


 その前には。


 例の砂利道。


 そして。


 木の杭と鎖。


「ひどい……」


 私は思わず呟きました。


 杭は地面に深く打ち込まれていました。


 鎖は太く、南京錠までついています。


 軽トラックなど、とても通れません。


 春江さんが家から出てきました。


「先生方……!」


「春江さん。道の昔のことを、もう少し教えてください」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


 春江さんは私たちを裏庭へ案内しました。


 そこには、古い木箱がありました。


「主人のものです」


 箱の中には、黄色くなった書類。


 昔の領収書。


 農機具の保証書。


 そして。


 一枚の契約書。


「これ、昨日見つけたんです」


 私は受け取りました。


 表題。


 ――地役権設定契約書。


 思わず息を呑みました。


 昭和三十二年五月十日。


 土地所有者・村上徳松。


 地役権者側・杉浦家の先代。


 そこには、はっきりと書かれていました。


 ――杉浦家所有宅地の通行の便益のため、村上所有地の一部を通路として使用することを承諾する。


 ――通路の位置及び幅員は別紙図面のとおりとする。


 ――本地役権について登記手続を行う。


 私は顔を上げました。


「これです!」


 相馬先輩も頷きました。


「原本が残ってたか」


 しかも。


 契約書には、地役権を要役地から切り離して扱う特別な定めは見当たりませんでした。


「これで、もっとはっきりしましたね!」


「ああ」


 先輩は道を見ました。


「それと、もう一つ確認しておけ」


「何ですか?」


「この砂利道、いつからこの形なんだ?」


「三十年以上前です」


 春江さんが答えました。


「主人と弟が、村上さんに許可をもらって、砂利を敷いて造ったんです」


「その後は?」


「毎年、草を刈って、砂利を足して。大雨で削れたら直して」


「誰が?」


「うちの家族です」


 なるほど。


 ずっと使ってきた道。


 しかも。


 道としての形が、外から見ても分かる。


 私は思い出しました。


 地役権の時効取得。


 民法二百八十三条。


 継続的に行使され、外形上認識することができるもの。


 ……あれ?


「先輩」


「何だ」


「もし昔の契約書も登記もなかったら、長年通ってきたことで地役権を時効取得できる場合もありますよね?」


「ああ。ただし、簡単じゃねえぞ」


「ですよね」


「何十年歩いたってだけで、勝手に地役権が生まれるわけじゃねえ」


 相馬先輩は足元の砂利を踏みました。


「継続して行使され、外から見ても分かるものでなきゃならねえ。通行地役権なら、通行する側が通路を開設した事情なども重要になる」


「はい」


「期間も、所有の意思なんかとは別に、取得時効の要件を検討しなきゃならねえ」


「なるほど……」


「だが今回は、昔から設定されて登記まである。わざわざ時効取得だけに頼る必要はねえ」


 そのとおりです。


 時効取得は、あくまで別の可能性。


 今回の本命は。


 登記された通行地役権。


 そして、その権利が誰にどう引き継がれたか。


 そこにあります。


「春江さん」


 私は尋ねました。


「弟さんは、権利放棄の書類に署名したんですか?」


 春江さんの表情が変わりました。


「……はい」


「やっぱり」


「でも、弟は騙されたんです!」


 春江さんは涙ぐみました。


「黒田の社長が、『土地の半分の権利だけだから、姉さんには関係ない』って言ったそうで……」


 私は言葉を失いました。


「弟は、もう通らなくてもいいと思って署名したんです。でも、私まで道を使えなくなるなんて……!」


 相馬先輩は腕を組みました。


「なるほどな」


「先輩……」


「ああ」


 先輩は静かに言いました。


「黒田は、地役権を半分ずつ切れると思ってるわけだ」


 半分。


 共有持分。


 そして地役権。


 私は頭の中で、民法の条文を探しました。


 あ。


 ありました。


「二百八十二条……!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きます。


「今回の急所は、そこだ」


 事務所へ戻ると、私は六法を開きました。


 民法二百八十条。


 地役権。


 他人の土地を、自分の土地の便益のために利用する権利。


 私は紙に二つの四角を描きました。


 一つは、杉浦家の宅地。


 もう一つは、黒田開発の通路。


「先輩」


「何だ」


「杉浦家の宅地が、要役地ですね」


「そうだ」


「利益を受ける土地」


「ああ」


「黒田開発の土地が、承役地」


「そうだ」


「利益を与える土地」


 私は二つの四角を線で結びました。


 通行地役権。


 他人の土地を通る権利。


 ただし、その利益を受けるのは、あくまで杉浦家の宅地です。


「では、杉浦家の土地が売られた場合は?」


 相馬先輩が尋ねました。


「地役権も一緒に移るのが原則です!」


「根拠は?」


「民法二百八十一条一項!」


 私は勢いよく答えました。


「地役権は、要役地の所有権に従たるものとして、その所有権とともに移転する!」


「そうだ」


「ただし、設定行為に別段の定めがあるときは例外がある!」


「よし」


 私は契約書を見ました。


 今回、そんな別段の定めは見つかっていません。


「じゃあ、昔の所有者が亡くなったり、土地が売られたりしても、地役権は原則として土地についていくんですね!」


「そうだ」


 先輩は私の描いた四角を指差しました。


「土地にくっついてると思え」


 なるほど。


 要役地の所有権が移れば、原則として地役権も移る。


 地役権だけを切り離して売ることもできない。


 これが、地役権の付従性。


 そして、その権利が要役地の所有権の移転に伴って移る性質。


 随伴性です。


「じゃあ!」


 私は声を上げました。


「黒田社長が『昔の地主が認めただけだから、新しい地主には関係ない』って言ったのは!」


「登記された地役権を無視した理屈だな」


「ですよね!」


 でも。


 本当に怖いのは、もう一つ。


 共有者の一人が、勝手に地役権を半分消そうとしたことです。


「二百八十二条……」


 私は条文を読みました。


 ――土地の共有者の一人は、その持分につき、その土地のために又はその土地について存する地役権を消滅させることができない。


 私は顔を上げました。


「……先輩!」


「何だ」


「地役権って、共有持分ごとに半分ずつ切り離せないんですね!」


「そういうことだ」


 杉浦家の土地は、春江さんと弟さんの共有。


 持分は二分の一ずつ。


 でも。


 その土地のために存在する通行地役権は、共有持分ごとに別々の通行権があるという構造ではありません。


 弟さんが自分の持分についてだけ、地役権を消滅させる。


 そんなことはできない。


「だから、弟さんの署名だけで、地役権の半分が消えるわけじゃない!」


「そのとおり」


 私は思わず拳を握りました。


 なるほど。


 黒田社長。


 共有持分が二分の一だから。


 通行地役権も二分の一に分けられる。


 そして半分ずつ潰せば、最後には全部消える。


 そう考えたのでしょう。


 でも。


 地役権は、そういう切り売りができない権利です。


「世の中、うまくできてますね!」


「何がだ」


「だって、共有者が十人いたら、一人ずつ地役権を消していけば、道が穴だらけになっちゃいます!」


 相馬先輩が笑いました。


「道に穴が開くわけじゃねえが、考え方は近いな」


 私は続けました。


「そもそも、一つの土地のための通行権なのに、持分ごとに通れる人と通れない人がいるって、おかしいですもんね!」


「だから不可分性なんだよ」


 不可分性。


 分けられない性質。


 私はノートに大きく書きました。


 ――地役権は、共有持分ごとにバラバラに消せない。


 所長が、横から口を開きました。


「こはる」


「はい!」


「ただし、共有者全員による適法な地役権の消滅まで禁止しているわけではない」


「あっ」


「そこは区別しろ」


「はい!」


 そうです。


 不可分性は、どんな場合でも永遠に地役権が消えないという意味ではありません。


 今回問題なのは。


 共有者の一人が、自分の持分についてだけ地役権を消滅させようとしたこと。


 それが認められないのです。


「所長!」


「何だ」


「書きます!」


「何をだ」


「内容証明です!」


 所長は静かに頷きました。


「まず本人の意思を確認しろ。それから、事実を一つずつ整理するんだ」


「はい!」


 私は鉛筆を握りました。


 今度こそ。


 黒田開発が無視した。


 土地にくっついた権利を。


 紙の上に、はっきりと浮かび上がらせるのです。


 内容証明郵便の原案が完成したのは、その日の夕方でした。


 差出人は、杉浦春江さんと弟さん。


 二人の意思をそれぞれ確認し、共同名義で通知することになりました。


 私は読み上げます。


「第一。本件通路については、昭和三十二年五月十日付地役権設定契約に基づき、杉浦家所有宅地を要役地とする通行地役権が設定されている」


 相馬先輩が頷きます。


「続けろ」


「第二。右通行地役権は、登記済みであり、その範囲は添付図面記載の通路部分である」


「うん」


「第三。民法第二百八十一条により、地役権は原則として要役地の所有権に従たるものであり、要役地から分離して譲渡することはできない」


 私は一度、息を吸いました。


「第四。民法第二百八十二条第一項により、土地の共有者の一人は、その持分について、当該土地のために存する地役権を消滅させることができない」


「よし」


「第五。したがって、共有者の一人が自己の持分について地役権を放棄する旨の書面を作成したことのみをもって、本件通行地役権が全部又は持分割合に応じて消滅したとすることはできない」


 相馬先輩が頷きました。


「そこだ」


 そして。


 私は最後の部分を読み上げました。


「以上により、通知人らは、本件通行地役権に基づき、設定された範囲内での通行を妨げる杭及び鎖の撤去を求める」


「うん」


「本通知到達後七日以内に、撤去予定について書面で回答されたい」


 所長が頷きました。


 そして、静かに言いました。


「その後ろに、もう一文だ」


「はい?」


「返答がない場合の対応を、本人の意思に沿って記載しろ」


 私は頷き、書き足しました。


 ――本件通行妨害が継続する場合には、弁護士への相談のうえ、妨害排除請求その他の法的措置を検討する。


 書き終えると、私は大きく息を吐きました。


「できました!」


 でも。


 相馬先輩は書類を見つめていました。


「こはる」


「はい」


「証拠を並べろ」


「はい!」


 私は机に資料を並べました。


 地役権設定契約書の写し。


 登記簿謄本。


 地役権の範囲を示した図面。


 通路の現況写真。


 杭と鎖の写真。


 長年の通行状況に関する春江さんたちの事実確認書。


 そして、昔の写真。


 昭和四十年代。


 杉浦家の子供たちが、砂利道の前で笑っている写真でした。


「これは……」


 私は写真を手に取りました。


 ランドセルを背負った男の子。


 自転車を押す女の子。


 後ろには、若い頃の春江さん。


 そして、今と同じ砂利道。


「昔から、ここを通っていたんですね」


「ああ」


 相馬先輩が言いました。


「ただし、勘違いするなよ」


「何をですか?」


「写真だけで地役権が成立するわけじゃねえ」


「はい」


「今回の権利の根拠は、設定契約と登記だ。写真は、通路が実際に使われてきたことを裏付ける資料だ」


「なるほど」


「証拠には、それぞれ役割がある」


 私は頷きました。


 契約書。


 権利が設定された根拠。


 登記簿。


 その権利が公示されていること。


 図面。


 通行できる範囲。


 写真。


 実際に道が存在し、利用されてきた事実。


 全部、違う役割です。


 所長が書類を揃えました。


「相手に言い逃れをさせないためには、どの事実を何で証明するかが重要だ」


「はい」


「我々は弁護士ではない。紛争の代理交渉や裁判はできん」


「はい」


「だからこそ、依頼者が自分の権利を正確に主張できる書面を作る」


 私は頷きました。


 そうです。


 こちらが相手に代わって交渉するのではありません。


 春江さんたち自身が、自分の権利を通知する。


 そのための書類を、事実と法律に基づいて整える。


 それが、今の私たちの仕事です。


 そして。


 相手がその書類を無視すれば。


 次は弁護士の出番になります。


 内容証明郵便が届いた三日後。


 黒田開発の社長室。


 黒田重蔵は、机に置かれた書類を睨んでいました。


「……何だ、これは」


 机の上には。


 内容証明郵便。


 登記簿謄本。


 そして、地役権設定契約書の写し。


 向かいには、会社の顧問弁護士。


 弁護士は、静かに言いました。


「社長。この土地を買うとき、登記簿は確認されましたか」


「確認した」


「地役権の登記も?」


「……ああ」


「では、なぜ通路を塞いだんです」


「昔の地主が許しただけだろう!」


「いいえ」


 弁護士は首を振りました。


「これは単なる口頭の通行許可ではありません。要役地のために設定された、登記のある地役権です」


「でも、所有者は俺だ!」


「所有権があることと、地役権による負担を受けていることは両立します」


 黒田は黙りました。


 弁護士は続けます。


「地役権が有効に存続している限り、土地の所有者が変わっても、当然に消えるわけではありません」


「……」


「しかも、本件は登記されています。会社として、その地役権を無視できる立場ではありません」


 黒田の額に汗が浮かびます。


「だ、だが!」


 黒田は一枚の紙を取り出しました。


「弟から放棄の書面を取った! これで半分は消えたはずだ!」


 弁護士は紙を見ました。


 そして、ため息をつきました。


「社長」


「何だ!」


「民法二百八十二条をご存じですか」


「……知らん」


「共有者の一人は、自分の持分について地役権を消滅させることができません」


「……は?」


「地役権の不可分性です」


 黒田の顔から、笑みが消えました。


「半分の権利を放棄したんだぞ!」


「その考え方が通らないんです」


「どうしてだ!」


「これは、杉浦さんたちの持分ごとに別々に成立した権利ではありません。一つの要役地のための地役権です」


 弁護士は書面を指差しました。


「共有者の一人が、自分の持分についてだけ消滅させることはできません」


「……!」


「しかも、お姉さんは放棄に同意していない。弟さん一人の署名で地役権全部を消すこともできません」


 黒田は椅子に沈みました。


「じゃあ……」


 声が小さくなります。


「俺は、他人の通行権がついたままの土地を買ったってことか?」


「そういうことです」


「……」


「通行を妨害し続ければ、地役権に基づく妨害排除請求が問題になります」


 黒田の指が震えました。


「裁判になったら……?」


「この契約書と登記がある以上、会社側の主張は相当に厳しいでしょう。通行妨害による損害賠償を求められる可能性もあります」


「……」


「判決などに基づく強制執行となれば、杭や鎖の撤去を強制されることも考えられます」


 黒田は、内容証明を見つめました。


 紙には、ただ事実と条文が並んでいます。


 怒鳴り声はない。


 脅し文句もない。


 けれど。


 自分の主張が、どこから崩れるのか。


 それだけは、はっきり分かる。


「……外せ」


 黒田が呟きました。


「社長?」


「杭だよ」


 黒田は顔を覆いました。


「明日の朝までに、全部外せ……!」


 法律を知らないまま強気に出た地主が。


 初めて。


 自分の土地に、他人の権利が存在する意味を理解した瞬間でした。


 翌朝。


 杉浦家の前から、杭と鎖が消えていました。


「……あれ?」


 私は思わず目を丸くしました。


「ありません!」


「見りゃ分かる」


 相馬先輩が言いました。


 地面には、杭を引き抜いた跡。


 脇には、作業員が使ったらしいスコップ。


 そして。


 通路の入口に、新しい看板が置かれていました。


 ――通行地役権設定区域につき、権利者の通行を妨げないこと。


 私は何度も読みました。


「……すごい」


 相馬先輩が鼻で笑います。


「相手も、ようやく登記を読んだらしいな」


 春江さんが家から出てきました。


 目には涙。


「先生……!」


「春江さん!」


「道が……道が戻りました……!」


 春江さんは何度も頭を下げました。


「本当に、ありがとうございました……!」


 私は慌てました。


「いえ、まだ書面での確認がありますから!」


 黒田開発からは、既に撤去を知らせる書面が春江さんたちに届いていました。


 地役権の存在を確認すること。


 今後、設定された範囲の通行を不当に妨げないこと。


 その内容が、社長名で記されていたのです。


 相馬先輩が言いました。


「春江さん。これは大切に保管してください」


「はい」


「地役権の登記も、契約書も、今後土地を引き継ぐ人に分かるようにしておくことです」


「はい……!」


 春江さんは頷きました。


「息子にも、孫にも伝えます」


 そう言って、砂利道を振り返りました。


「この道は、主人が造ったんです」


 私は黙って聞きました。


「昔は、雨が降るとぬかるんで、子供たちが学校に行くのも大変でした」


 春江さんは、道の端の小石を拾いました。


「だから主人が、少しずつ砂利を運んで」


「……」


「弟と二人で、何日もかけて造って」


 春江さんは微笑みました。


「村上のおじいさんにも、ちゃんとお願いして。書類まで作ってくれていたんですね」


 私は、古い契約書を思い出しました。


 昭和三十二年。


 まだ私が生まれるずっと前。


 あの時代に交わされた約束。


 それが、三十一年後。


 家族の暮らしを守った。


「ご主人は」


 私は言いました。


「道だけじゃなくて、権利も残してくれたんですね」


 春江さんは、目を潤ませました。


「……そうですね」


 そのとき。


 奥から軽トラックのエンジン音が聞こえてきました。


 春江さんの息子さんです。


 車はゆっくりと、砂利道を進みました。


 杭があった場所を通り抜けます。


 その先。


 県道へ出ていきました。


 私は、なんだか胸がいっぱいになりました。


 たった四十メートルの道。


 けれど。


 その四十メートルがなければ、毎日の暮らしが不自由になる。


 仕事に行く。


 学校に行く。


 病院に行く。


 買い物に行く。


 当たり前の生活をつなぐ道。


 そして民法は。


 その道を使う権利を、土地に結びつけて守っていたのです。


 事務所へ戻ると、私はノートを開きました。


 地役権。


 要役地。


 承役地。


 付従性。


 随伴性。


 不可分性。


 ……。


「相馬先輩」


「何だ」


「地役権って、すごいですね」


「何がだ」


「他人の土地なのに、自分の土地のために使えるんですよ」


「そうだな」


「しかも、土地の持ち主が変わっても、権利が残ることがある」


「登記なんかの対抗関係も大事だけどな」


「はい!」


 私は頷きました。


「そして、共有者の一人が勝手に半分だけ消せない!」


「そうだ」


「さらに、条件を満たせば時効取得まであり得る!」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「お前、時効取得も気になってるんだろ」


「はい!」


「じゃあ、一問だ」


「来ましたね!」


 先輩は煙草をくわえました。


「二十年間、毎日他人の土地を歩いて通勤していた。これだけで、必ず通行地役権を時効取得できるか?」


「……できません!」


「理由は?」


「単に長年通行しただけでは足りないからです!」


「ほう」


「地役権の時効取得には、継続的に行使されて、外形上認識できることが必要です!」


「そうだな」


「通行地役権なら、通路の開設状況なども重要になります!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 やった。


 理解できています。


「じゃあ次」


 先輩が言いました。


「要役地の共有者の一人が、時効で地役権を取得したら、ほかの共有者はどうなる?」


 私は止まりました。


「……あっ」


「何だ」


「民法二百八十四条!」


「そうだ」


 私は六法を開きました。


 土地の共有者の一人が時効によって地役権を取得したときは、ほかの共有者もこれを取得する。


「……また不可分性ですね!」


「ああ」


「地役権は、土地のための権利だから!」


「そういうことだ」


 なるほど。


 共有者の一人が時効取得したら、ほかの共有者にも及ぶ。


 一方で。


 共有者の一人が、自分の持分についてだけ地役権を消滅させることはできない。


 地役権。


 共有。


 不可分。


 全部、つながっています。


「でも先輩」


「何だ」


「現代の民法だと、二百八十四条には『時効の更新』とか『完成猶予』って言葉が出てきますよね」


 相馬先輩の動きが止まりました。


「……何?」


 しまった。


 またです。


「更新?」


「……はい」


「完成猶予?」


「……はい」


 先輩は六法を私の前に置きました。


「ここを読め」


 私は条文を見ました。


 そこには。


 ――時効の中断。


 ――時効の停止。


 と書かれていました。


 ……。


 そうでした。


 昭和六十三年。


 まだ債権法改正前です。


 現代では「更新」「完成猶予」という整理がされていますが、この時代の条文は違います。


「あ、あはは……」


「こはる」


「はい」


「お前、また未来の六法を読んできたのか?」


「いえ、その……」


「何回目だ!」


「民法が長生きしすぎなんです!」


「法律のせいにするな!」


 怒られました。


 でも。


 今回の地役権の基本的な仕組みは、現代でも大きく通じています。


 他人の土地を、自分の土地の便益のために使う。


 その権利は、要役地に結びついている。


 そして、共有持分ごとに簡単に切り離せない。


 言葉や制度が変わっても。


 土地と土地の関係を安定させる。


 その考え方は変わらないのです。


 夕方。


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


「他人の土地だからといって、地主が何でも自由にできるわけではありません」


「うん」


「地役権があれば、設定された目的に従って、その土地を利用する権利があります」


「そうだ」


「そして、地役権は人だけではなく、土地の便益に結びついた権利です」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私はノートに、一行を書きました。


 ――地役権は、人について歩くのではなく、土地について歩く。


 今日の教訓。


 これなら忘れません。


 杉浦家の砂利道。


 三十一年前の契約書。


 共有者の持分。


 登記簿。


 そして。


 杭を抜いた地主。


 全部、この一行につながっています。


「先輩!」


「何だ」


「地役権って、土地にくっついた透明な道みたいですね!」


「透明な道?」


「はい!」


 私は身振りを交えました。


「地主さんが変わっても、土地が売られても、権利がちゃんと続いていく!」


「まあ、そういう場合が多いな」


「その透明な道を、勝手にハサミで半分に切ることもできない!」


「変な例えだが、不可分性のイメージにはなるな」


「でしょう!」


 私は得意になりました。


 そのとき。


 相馬先輩がにやりとしました。


「じゃあ、こはる」


「はい!」


「事務所の裏の通路、毎日お前が掃除してるよな」


「してます!」


「十年掃除したら、お前の地役権になるか?」


「……なりません!」


「何でだ」


「掃除してるだけですから!」


「そうだな」


「そもそも、私の土地の便益のために通ってるわけでもありません!」


「よく分かってるじゃねえか」


 私は胸を張りました。


「当然です!」


 すると、片桐所長が口を開きました。


「では、明日も裏の通路を掃除してくれ」


「……え?」


「頼む」


「所長!」


「何だ」


「私、地役権を取得するわけでもないのに、ずっと掃除するんですか!」


「事務所の仕事だからな」


「……!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「こはる。地役権と掃除当番は別問題だ」


「分かってます!」


「分かってるなら、明日も頼むぞ」


「先輩!」


「何だ!」


「掃除当番にも不可分性を適用してください!」


「は?」


「事務所の全員で、分けられない掃除の義務を負うんです!」


「そんな民法はねえ!」


 ……残念。


 地役権の不可分性は。


 掃除当番には適用されないようです。


 私はため息をつきながら、ノートを閉じました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯り始めています。


 きっと今頃。


 杉浦家の砂利道には、仕事から帰ってきた軽トラックの轍がついているのでしょう。


 何十年も前に造られた道。


 それを使うために交わされた約束。


 そして、その約束を守り続けてきた民法。


 地主が変わったからといって。


 共有者が一人、紙に署名したからといって。


 人々の生活を支える権利が、簡単に消えていいわけではありません。


 土地には、目に見えない権利がある。


 そして。


 その権利を知っているかどうかで。


 人生の道が、開くこともあれば、塞がれることもある。


 私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


 ――地役権は、人について歩くのではなく、土地について歩く。


 うん。


 これなら。


 次の行政書士試験で地役権が出ても、きっと思い出せます。


 砂利道。


 木の杭。


 黒田社長の誤算。


 そして、春江さんの笑顔。


 民法二百八十条から二百八十四条。


 ただの数字の並びだった条文が。


 今は。


 一本の道として、私の頭の中につながっているのです。

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