[民法・共有]現場編 「四分の三は俺のものだ!」の罠。多数決で家を壊そうとした兄と、たった四分の一の持分が突きつけた民法の刃
四分の一しか持っていないからといって、四分の三を持っている人の言いなりになる必要はありません。
たとえば。
一軒の家を、兄と妹が共有していたら。
兄の持分は、四分の三。
妹の持分は、四分の一。
兄は言いました。
「俺が四分の三を持っているんだ。家を壊すかどうかも、俺が決める!」
さて。
これは正しいのでしょうか。
持分の多数決。
所有権。
そして、共有物の変更。
民法には、数の力だけでは押し切れない壁があります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は初めて知ることになります。
たった四分の一の権利が。
一軒の家を、丸ごと救うこともあるのだと。
◇
「兄が、父の家を壊すと言うんです」
朝九時。
事務所に駆け込んできた女性は、そう言いました。
名前は、水野千鶴さん。
三十四歳。
紺色のカーディガン。
手には、使い込まれた茶色の封筒。
そして、ひどく疲れた顔をしていました。
「家を壊す……?」
私は聞き返しました。
「はい。今月末に取り壊すって」
「お住まいの家ですか?」
「そうです。亡くなった父から受け継いだ家です」
千鶴さんは封筒から一枚の紙を取り出しました。
登記簿の謄本。
そこには、こう書かれていました。
所有者。
持分四分の三 水野隆一。
持分四分の一 水野千鶴。
「お兄さんと共有なんですね」
「はい」
私は頷きました。
共有。
一つの物を、複数の人が所有すること。
行政書士試験でも、よく出てくる論点です。
「お兄さんが四分の三。千鶴さんが四分の一」
「そうです」
「どうしてその割合になったんですか?」
「父が生前に、兄と私へ持分を贈与したんです。兄が家業を継ぐから多めにして、私は四分の一でいいだろうって」
「なるほど」
「父が亡くなってからも、私はその家に住んでいました。兄は町の反対側に自分の家があります」
つまり。
現在、古い家に住んでいるのは千鶴さん。
所有権は兄妹で共有。
兄の隆一さんは、そこに住んでいない。
「それで、お兄さんはなぜ家を壊そうと?」
私が尋ねると、千鶴さんの顔が曇りました。
「不動産会社が、土地を買いたいって言ってきたんです」
「土地を?」
「はい。駅前の整備が進んでいるでしょう。あの辺りにも駐車場を造る計画があるそうで」
駅前。
再整備。
また、その言葉です。
どうもこの町では、昭和の終わりとともに、古いものが次々と姿を消そうとしているらしい。
「兄は、家を壊して更地にすれば高く売れるって」
「千鶴さんは?」
「売りたくありません」
即答でした。
「父が建てた家なんです」
千鶴さんは膝の上で手を握りました。
「雨漏りもするし、床も軋みます。でも、父が亡くなる前まで、ずっとそこで暮らしていたんです」
「……はい」
「父が最後に寝ていた部屋も、まだそのままで」
私は黙りました。
「それに、私はそこに住んでいます。家を壊されたら、住むところがなくなるんです」
そうですよね。
家というのは。
登記簿に書かれた数字だけで、できているわけではありません。
そこには暮らしがあります。
思い出があります。
帰る場所があります。
でも。
兄が四分の三。
妹が四分の一。
この数字を見たとき、私は少し嫌な予感がしました。
共有物の管理。
持分の価格の過半数。
たしか、そういう規定があったはずです。
「お兄さんは、何と?」
千鶴さんはもう一枚、紙を取り出しました。
兄から届いた通知書でした。
――本件建物について、共有持分の四分の三を有する私が、建物解体及び土地売却を決定した。
――共有物の管理は持分の過半数で決定できるため、妹の同意は不要である。
――今月二十八日までに退去されたい。
最後には。
――退去しない場合でも、解体工事は予定どおり実施する。
と書かれていました。
「……!」
私は紙を見つめました。
いやいやいや。
ちょっと待ってください。
共有物の管理は過半数。
確かにそうです。
でも。
家を壊すのって。
管理ですか?
「所長!」
私は思わず声を上げました。
奥で帳簿を見ていた片桐所長が顔を上げます。
「何だ」
「共有物の変更です!」
所長は黙っています。
「建物の取り壊しは、単なる管理行為じゃありません!」
「そうだな」
「共有物の変更には、共有者全員の同意が必要です!」
よし。
これは分かる。
現代の行政書士試験で勉強したところです。
「民法二百五十一条です!」
私は六法を開きました。
「ただし、形状または効用の著しい変更を伴わない変更については――」
「待て」
相馬先輩の声が飛んできました。
「はい?」
「今、何と言った?」
「形状または効用の著しい変更を伴わない変更については……」
「何だそりゃ」
「あ」
私は止まりました。
しまった。
またです。
現代の民法。
令和五年に施行された共有制度の改正。
その知識を、昭和六十三年に持ち込んでしまいました。
「こはる」
相馬先輩が机の上に六法を置きました。
「昭和六十三年の二百五十一条を読んでみろ」
「はい……」
私はページを開きました。
そこには。
――各共有者は、他の共有者の同意を得なければ、共有物に変更を加えることができない。
と書かれていました。
「……あれ?」
「何だ」
「現代の条文と、少し違います」
「当たり前だ。今の条文を読め」
先輩は煙草をくわえました。
「少なくとも今は、変更には他の共有者の同意が必要だ」
「はい」
「持分が四分の三だろうが、十分の九だろうが、同じだ」
私は千鶴さんを見ました。
「つまり……!」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「この兄貴、管理と変更を取り違えてやがる」
千鶴さんが顔を上げました。
「じゃあ……兄は、私の同意なしに家を壊せないんですか?」
「少なくとも、共有物の変更を多数決だけで押し切ることはできません」
私は答えました。
千鶴さんの目が、大きく開きました。
「四分の一しか持っていなくても?」
「はい」
そこで。
片桐所長が静かに言いました。
「ただし、話はそこだけでは終わらん」
「え?」
「相手が、どういう権利を持っているか。それも確認する」
私は首をかしげました。
「所長?」
「兄も共有者だ」
「はい」
「兄にも権利がある」
……あ。
そうでした。
共有という制度は、妹だけを守るものではありません。
兄にも、四分の三の所有権がある。
だから。
妹が全部を好き勝手に決められるわけでもないのです。
「こはる」
「はい」
「共有は、片方だけが正しい話にするな」
所長は謄本を指差しました。
「双方の権利を、正確に整理しろ」
「……はい!」
なるほど。
今回の敵は、兄の横暴。
でも、こちらも法律を都合よく使ってはいけない。
私は背筋を伸ばしました。
◇
翌日。
私たちは水野家を訪れました。
駅から少し離れた住宅街。
細い路地の奥に、その家はありました。
木造二階建て。
瓦屋根。
小さな庭。
門柱の横には、古い椿の木。
いかにも昭和の家、という感じです。
「ここです」
千鶴さんが言いました。
「父が三十年以上前に建てました」
玄関を開けると、畳の匂いがしました。
柱には、子供の背丈を記した鉛筆の線。
昭和三十七年。
昭和三十八年。
昭和三十九年。
その横に。
隆一。
千鶴。
二人の名前。
「……お兄さんも、ここで育ったんですね」
「はい」
千鶴さんが少し笑いました。
「昔は仲がよかったんです」
その言葉が、妙に胸に刺さりました。
家は同じ。
柱も同じ。
思い出も同じ。
それなのに。
大人になった二人は、同じ家を見て、違うものを考えている。
一人は、お金。
一人は、暮らし。
そのときでした。
「何してる!」
玄関から怒鳴り声がしました。
振り向くと、背広姿の男が立っていました。
四十歳前後。
短く刈った髪。
金色の腕時計。
水野隆一。
千鶴さんの兄です。
「兄さん……」
「千鶴! 勝手に他人を連れ込むな!」
隆一は私たちを睨みました。
「何者だ?」
「片桐行政書士事務所の相馬です。こちらは見習いの朝比奈です」
先輩が名刺を差し出しました。
隆一は受け取るなり、鼻で笑いました。
「行政書士?」
「はい」
「弁護士じゃないんだな」
「そうです」
「だったら、関係ないだろ」
出ました。
お決まりの台詞。
法律を知らない人ほど、行政書士を舐める傾向があるのは、どうしてなのでしょう。
「家は俺のものだ」
隆一が言いました。
「四分の三は俺が持ってる」
「承知しています」
相馬先輩は落ち着いて答えます。
「じゃあ話は早い。俺が決める。千鶴は出ていけばいい」
「何を決められたんです?」
「解体だよ。取り壊し」
「その後は?」
「土地を売る」
「土地も共有ですか?」
「そうだ。持分も同じだ」
「売買契約は?」
「まだ正式には結んでねえよ。更地にできるなら買うって不動産屋が言ってる」
先輩が頷きました。
「なるほど」
すると隆一は、鞄から一枚の紙を取り出しました。
「法律なら俺も調べた」
そこには、手書きの文字。
――民法二百五十二条。
共有物の管理に関する事項は、持分の価格の過半数で決する。
「読めるだろ?」
隆一が言いました。
「四分の三は、過半数だ」
「そうですね」
「だから俺が決められる!」
隆一は勝ち誇った顔になりました。
「家を壊すのも、土地を売るのも、共有物の管理だろ!」
私は思わず口を開きました。
「違います!」
「あ?」
「建物の取り壊しは、共有物の管理ではなく変更の問題です!」
「何だと?」
「民法二百五十一条です!」
隆一の眉が動きました。
「二百五十一条?」
「はい。共有物の変更には、他の共有者の同意が必要です」
「だから何だ!」
「千鶴さんは同意していません」
「たった四分の一だぞ!」
私は真正面から言いました。
「四分の一でも、共有者です」
「……!」
「共有物の変更を、持分の多数決だけで決めることはできません」
隆一は一瞬、黙りました。
でも。
すぐに笑いました。
「じゃあ、お前らは勘違いしてるな」
「え?」
「俺は全部を売るつもりだが、最悪、俺の持分だけ売ってもいいんだぞ」
……。
それは。
確かに、そうです。
共有者は、自分の持分を原則として自由に処分できます。
自分の四分の三の持分を売ること自体に、妹の同意は原則として要りません。
「な?」
隆一がにやりとしました。
「法律なんか持ち出したって無駄なんだよ」
私は唇を噛みました。
くっ。
ここは、相手の言い分にも正しい部分があります。
持分を売ることと。
建物全部を壊すこと。
土地全部を売ること。
全部、同じではありません。
「兄さん!」
千鶴さんが叫びました。
「本当に、そんなことするの?」
「金になるんだ。何が悪い」
「私はここに住んでるのよ!」
「だったら引っ越せばいいだろ!」
隆一の声が、家中に響きました。
私は拳を握りました。
でも。
相馬先輩が、私の前に手を出しました。
「こはる」
「はい」
「もういい」
「でも!」
「必要なことは聞けた」
先輩は隆一を見ました。
「一つ、確認します」
「何だ」
「解体業者との契約は、もう済んでいますか」
「ああ。俺が注文した」
「業者には、建物が共有であることを伝えていますか」
「俺が四分の三を持ってるとは言った」
「妹さんの同意がないことは?」
「関係ねえだろ!」
先輩は頷きました。
「分かりました」
それ以上、議論しませんでした。
帰り道。
私は我慢できずに言いました。
「先輩!」
「何だ」
「あの人、完全に開き直ってますよ!」
「そうだな」
「四分の三を持ってるからって、何でもできると思ってる!」
「だからこそ、書面だ」
「……書面?」
相馬先輩は煙草を一本取り出しました。
「こはる」
「はい」
「俺たちは弁護士じゃねえ。依頼人の代理人として紛争の交渉を引き受けるわけにはいかねえ」
「はい」
「俺たちがやるのは、事実を固めて、本人の意思を書面にすることだ」
先輩は水野家を振り返りました。
「相手は二百五十二条を持ち出した」
「はい」
「だったら、二百五十一条をぶつける」
「はい!」
「ただし、感情論は一行も書くな」
「……はい」
「妹が可哀想だから解体できない、じゃねえ」
先輩は低い声で言いました。
「共有物の変更には、他の共有者の同意が必要だ。その同意がない。それだけで十分、重い」
私は頷きました。
なるほど。
法律の世界では。
怒鳴り声より、条文。
感情より、証拠。
そして。
持分の数字より、行為の性質が重要になることがあるのです。
◇
事務所に戻ると、片桐所長が机に三枚の紙を並べました。
一枚目。
保存。
二枚目。
管理。
三枚目。
変更。
「こはる」
「はい」
「今回の争いで、最初に区別すべき三つだ」
私は頷きました。
「保存は、共有物の現状を維持する行為」
「そうだ」
「管理は、共有物の利用や改良に関する行為」
「うん」
「変更は、共有物の性質や形状を変える行為」
所長は頷きました。
「では、雨漏りしている屋根を、元の状態に修繕するのは?」
「保存行為です!」
「誰ができる」
「各共有者が単独でできます!」
「では、共有者間で新たに家を第三者へ貸すことを決める場合は?」
「通常の賃貸なら、管理行為として持分の価格の過半数で決めることができます!」
「そうだ。ただし、賃貸借の内容や期間によっては、単純な管理の話では済まん」
「はい!」
「では、建物を全部取り壊すのは?」
「変更行為!」
「必要なのは?」
「共有者全員の同意です!」
「よし」
そこで。
相馬先輩が口を挟みました。
「ちなみに、持分が四分の一しかない千鶴さんは、家の四分の一の部屋しか使えねえのか?」
「違います!」
私は即答しました。
「各共有者は、共有物の全部について、その持分に応じた使用ができます!」
民法二百四十九条。
私は六法を開きました。
――各共有者は、共有物の全部について、その持分に応じた使用をすることができる。
「だから、千鶴さんは持分が四分の一でも、家の全部に共有持分が及んでいるんです!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「四分の一だから、玄関と廊下しか使えない、なんて話じゃねえ」
「ですね!」
「ただし」
所長が口を開きました。
「使用できることと、他の共有者を排除して無制限に独占できることは、別だ」
「あ」
私は固まりました。
そうでした。
共有物の全部について使用できる。
でも。
自分の持分が少しでもあるから、家全部を永久に独り占めしていいわけではありません。
「千鶴さんの居住を兄が認めてきた経緯、費用負担、今後の使用についても整理する必要がある」
「はい」
「兄も共有者として、持分に応じた権利を持っている」
「はい」
私はノートに書きました。
――共有物の全部を使用できることと、全部を独占できることは違う。
なるほど。
法律は、妹を無条件に勝たせるわけではない。
兄の権利も、ちゃんと残している。
でも。
だからこそ。
兄が四分の三を盾にして、妹の四分の一を消してしまうことも許されない。
これが共有の難しさなんですね。
「所長」
私は手を挙げました。
「はい」
「もしお兄さんが、どうしても家を売りたいと言ったら、どうなるんですか?」
所長は私を見ました。
「いい質問だ」
珍しく褒められました。
「共有物の分割請求だ」
「分割……!」
そうです。
民法二百五十六条。
各共有者は、原則としていつでも共有物の分割を請求できる。
「え、じゃあ」
私は慌てました。
「千鶴さんが同意しなくても、結局、家を失う可能性があるんですか?」
「ある」
所長は短く答えました。
私は言葉を失いました。
え。
せっかく変更には全員同意が必要だと分かったのに。
共有物の分割請求?
そんな抜け道があるんですか?
「抜け道じゃねえぞ」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「共有ってのは、いつまでも無理に共同所有を続けさせる制度じゃねえ」
「……」
「共有者同士がどうしても折り合えないなら、共有関係を解消する道が必要なんだ」
なるほど。
そこは、確かにそうです。
誰か一人が反対しているからといって、永遠に共有関係から抜け出せない。
それも、おかしい。
「所長。分割の方法は?」
「まず、協議だ」
「はい」
「土地なら、現物を分けられる場合もある」
現物分割。
土地を二つに分ける。
でも、今回の家はどうでしょう。
木造二階建て。
敷地も、それほど広くない。
無理に四分の三と四分の一に切り分けるのは、現実的ではありません。
「それなら、売却して代金を分ける方法もありますね」
「そうだ」
代金分割。
そして。
「千鶴さんが兄の持分を買い取る方法も考えられます!」
私は言いました。
価格賠償。
一人が共有物を取得し、他の共有者に代償金を支払う方法です。
所長が頷きました。
「合意による分割なら、そういう選択肢もある」
「はい!」
「だが、今は昭和六十三年だ。裁判による分割について、現代の制度や判例をそのまま持ち込むな」
「……あっ」
危ない。
令和の民法では、裁判による共有物分割の方法も、明文で整理されています。
でも、昭和六十三年の二百五十八条は、現在と同じ条文ではありません。
現物分割ができない場合などには、裁判所が競売を命じる仕組みが置かれています。
価格賠償による処理についても、当時の判例や実務を確認しなければいけません。
「つまり」
私は言いました。
「今すぐ兄が勝手に家を壊せるわけではない。でも、共有物分割という正当な手段まで封じられるわけではないんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「相手の違法な行動を止めることと、相手の正当な権利まで否定することは違う」
私は深く頷きました。
これ。
大事ですね。
勝つために、相手の権利を無視してはいけない。
民法は。
自分だけの武器ではないのです。
◇
翌朝。
千鶴さんが再び事務所を訪れました。
今度は、一冊の古い帳面を持っていました。
「父の家計簿です」
「家計簿?」
私は受け取りました。
細かい字。
昭和五十九年。
昭和六十年。
昭和六十一年。
屋根修理。
雨樋交換。
固定資産税。
そして。
ところどころに、千鶴さんの名前がありました。
「父が亡くなってから、家の修理代や税金を私が払ってきました」
「お兄さんは?」
「何も」
千鶴さんは困ったように笑いました。
「兄は、売るつもりだから金はかけたくないって」
私は帳面を見つめました。
共有物の負担。
民法二百五十三条。
各共有者は、持分に応じて管理費用その他の負担を負います。
「先輩!」
「何だ」
「これ、費用負担も整理した方がいいです!」
「そうだな」
相馬先輩が帳面を覗きました。
「ただし、全部が当然に四分の三請求できるわけじゃねえぞ」
「はい?」
「居住者だけが使った電気代もあるだろうし、使用に関する取り決めだってあるかもしれねえ」
「なるほど」
「共有物自体の保存費用と、個人の生活費を分けろ」
「はい!」
また一つ。
書類の精度が上がりました。
でも。
もっと重要なものが出てきたのは、その直後でした。
「そういえば……」
千鶴さんが言いました。
「兄が、二年前にこんな紙にハンコを押したんです」
取り出したのは、一枚の確認書。
日付は昭和六十一年。
そこには、こうありました。
――父の死亡後、妹千鶴が本件家屋に居住することを認める。
――家屋の使用及び管理については、当面、千鶴に委ねる。
――修理その他の費用については、その都度協議する。
署名。
水野隆一。
印影。
私は目を見開きました。
「これ!」
「何ですか?」
「すごく大事な書類です!」
もちろん。
この確認書だけで、千鶴さんが永久に家を独占できるとは限りません。
でも。
少なくとも。
兄が、妹の居住を認めていた。
家の使用や管理を任せていた。
その事実を示す証拠になります。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「その確認書の原本を確認しろ」
「はい!」
「署名押印の経緯も聞け」
「はい!」
「本人が本当に作成したものか。そこを固めろ」
「はい!」
千鶴さんは頷きました。
「兄が自分で書いて、私に渡したんです」
私は確認書を丁寧に置きました。
よし。
これで。
兄が言う、
「妹が勝手に住み続けている」
という説明にも、反論できる材料ができました。
そして何より。
問題の中心が、はっきりしてきました。
共有持分。
使用関係。
保存行為。
管理行為。
変更行為。
費用負担。
分割請求。
全部が、一本の事件につながっているのです。
◇
「では、書くぞ」
その日の午後。
相馬先輩が原稿用紙を机に広げました。
内容証明郵便。
差出人は、水野千鶴。
宛先は、水野隆一。
千鶴さん本人の意思を確認したうえで、通知書を作成します。
「こはる、書いてみろ」
「はい!」
私は鉛筆を握りました。
そして。
勢いよく書きました。
――貴殿の横暴な行為は断じて許されず、直ちに謝罪し、解体計画を撤回されたい。
「駄目だ」
相馬先輩が即答しました。
「ええっ!」
「感情論を書くなって言ったろ」
「でも、横暴ですよ!」
「横暴かどうかを、こちらの怒りで決めるな」
赤線。
最初からやり直し。
「事実から書け」
「……はい」
私は深呼吸しました。
そして、書き直しました。
――通知人水野千鶴及び被通知人水野隆一は、本件建物について、それぞれ四分の一及び四分の三の共有持分を有する。
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
――貴殿は、本件建物を解体する旨を通知したが、建物の全部取壊しは、共有物の変更に当たる。
――民法第二百五十一条によれば、共有物の変更には他の共有者の同意を要する。
――通知人は、本件建物の解体について、何ら同意していない。
「よし」
私は続けました。
――共有物の管理に関する事項を持分の価格の過半数で決定できるとする民法第二百五十二条は、共有物の変更に当たる行為を当然に許容するものではない。
――よって、貴殿の共有持分が四分の三であることのみを根拠として、本件建物全体を取り壊すことはできない。
相馬先輩が小さく頷きました。
「そこだ」
私はさらに書きました。
――また、通知人は共有者として、民法第二百四十九条に基づく共有物の使用に関する権利を有している。
――通知人による本件建物の居住は、昭和六十一年付確認書により、貴殿も認めていたものである。
――貴殿が、通知人に直ちに退去を求め得るとする根拠についても、通知人はこれを争う。
「うん」
そして。
最後です。
――通知人は、本件建物の解体に同意しない旨を、ここに明確に通知する。
――本通知を受領した後も解体工事を進める場合には、所有権侵害及び損害賠償等の問題が生じ得る。
――通知人は、必要に応じて弁護士に相談し、解体工事の差止めに関する保全手続その他適切な法的措置を検討する。
――ついては、解体工事に着手しないこと、及び本通知に対する貴殿の回答を、書面にて求める。
私は読み終わりました。
「どうですか!」
片桐所長が原稿を手に取りました。
しばらく黙って読んでいます。
そして。
「悪くない」
と言いました。
やった!
「ただし」
……来ました。
「建物と土地は、分けて考えろ」
「はい?」
「建物の解体と、土地全部の売却は別の法律行為だ」
「あ」
そうでした。
私は慌てて追記しました。
――貴殿が自己の共有持分を処分することと、通知人の共有持分を含む土地全体の所有権を第三者へ移転することは、別の問題である。
――通知人は、土地全体の売却にも同意していない。
「これでどうでしょう!」
「いいだろう」
所長が頷きました。
私はほっと息をつきました。
すると。
相馬先輩が、もう一枚の紙を出しました。
「こっちも必要だ」
「何ですか?」
「解体業者宛ての通知だ」
私は目を見開きました。
「業者にも?」
「ああ」
先輩が言いました。
「兄貴だけに送っても、業者が予定どおり工事を始めたら面倒だ」
確かに。
業者が善意で契約したとしても。
共有建物に、他の共有者が存在する。
その人は解体に同意していない。
この事実を伝える必要があります。
「ただし、業者をいきなり悪者扱いするな」
「はい」
「業者が知らなかった可能性もある」
私は頷きました。
通知書には、こう書きました。
――本件建物は、水野隆一及び水野千鶴の共有である。
――通知人水野千鶴は、本件建物の解体について同意していない。
――建物全部の取壊しについては、共有物の変更に関する民法第二百五十一条の問題があるため、工事着手に先立ち、権利関係を十分に確認されたい。
――権限を欠く解体工事が実施された場合、通知人の所有権を侵害するものとして、法的責任が問題となり得る。
私は読み終えました。
「所長」
「何だ」
「これ、相手を怒鳴っていませんよね」
「そうだ」
「なのに、ものすごく怖いです」
相馬先輩が笑いました。
「当たり前だ」
「どうしてですか?」
「解体業者にとって、一番怖いのは何だと思う?」
「……工事代金がもらえないこと?」
「それもある」
「事故?」
「それもある」
「じゃあ?」
先輩は低い声で言いました。
「壊しちゃいけない家を、壊しちまうことだ」
私は息を呑みました。
確かに。
建物を壊した後で、
「実は共有者の同意がありませんでした」
と言われても。
家は戻りません。
不法行為による損害賠償。
所有権侵害。
場合によっては、重大な責任を負うことになる。
「だから、先に書面で知らせる」
相馬先輩は言いました。
「相手が知らなかったでは済まないように、事実を明確にするんだ」
なるほど。
内容証明郵便。
それは、魔法の紙ではありません。
送っただけで工事を強制的に止められるわけでもない。
でも。
相手に届いた書面が。
相手の判断を変えることはある。
書類には、そういう力があるのです。
◇
内容証明郵便が届いた翌々日。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あ、あの……』
聞き慣れない男性の声。
『東栄解体工業の者ですが……』
「はい?」
『水野様の建物の件で……』
私は背筋を伸ばしました。
「少々お待ちください!」
相馬先輩に受話器を渡します。
「相馬です」
『あの、御事務所で作成された通知が、当社に届きまして……』
「はい」
『念のため、当社でも顧問の弁護士に確認しました』
先輩は黙って聞いています。
『その結果、共有者全員の同意が確認できないまま、建物全部を解体することは、非常に危険だと』
私は思わず拳を握りました。
来ました。
民法二百五十一条。
『水野隆一様からは、四分の三の持分があるから問題ないと説明されていたんですが……』
「そうでしたか」
『当社としては、権利関係が確認できるまで、工事の着手を見合わせます』
私は小さく息を吐きました。
よかった。
家は、まだ壊されない。
ただし。
相馬先輩は落ち着いています。
「その判断については、御社から注文者へ直接ご連絡いただくことになりますね」
『はい』
「必要であれば、通知人本人へも書面でお知らせください」
『分かりました』
電話が切れました。
「先輩!」
「何だ」
「工事、止まりました!」
「ああ」
「やりましたね!」
「まだ終わってねえ」
「え?」
「兄貴がどう出るかだ」
確かに。
解体業者が工事を見合わせても。
兄の隆一が納得したとは限りません。
そして。
その日の夕方。
予想どおり、隆一本人から電話がかかってきました。
『おい!』
受話器越しでも分かる怒鳴り声。
『何をしてくれた!』
相馬先輩が出ました。
「相馬です」
『解体業者が工事をやらねえって言い出したんだぞ!』
「そうですか」
『お前らのせいだろ!』
「当事務所では、千鶴さん本人の意思に基づいて、共有関係と同意の有無を記載した通知書を作成しました」
『だから何だ!』
「業者の判断については、業者にご確認ください」
『……!』
隆一は黙りました。
しばらくして。
『……弁護士に相談した』
声が少し小さくなりました。
『建物を壊すには、妹の同意がいるって言われた』
私は思わず顔を上げました。
『四分の三も持ってるのに、何でだよ……』
相馬先輩は答えません。
隆一は続けました。
『それに、土地を全部売るには、妹の持分だって必要だって……』
「その点は、通知書に記載したとおりです」
『……』
長い沈黙。
そして。
『……解体は、やめる』
私は息を呑みました。
『今月の工事は取り消す。妹にも、そう伝えた』
やった。
本当に。
家が助かりました。
でも。
隆一は最後に言いました。
『ただな。共有のままじゃ、俺も困るんだ』
「はい」
『俺には俺の生活がある。あの家に住んでるわけでもないのに、ずっと持分だけ持ってろっていうのか』
その言葉に。
私は少し、胸が詰まりました。
そうです。
兄にも事情があります。
妹が家を守りたいように。
兄にも、自分の財産を整理したい理由がある。
『共有物の分割って方法があるんだろ』
隆一が言いました。
『弁護士に聞いた。そっちは、ちゃんと考える』
相馬先輩が頷きました。
「その件は、ご本人同士での協議、あるいは必要に応じた弁護士への相談になりますね」
『……分かった』
電話が切れました。
私は先輩を見ました。
「……先輩」
「何だ」
「家は守れましたけど、共有の問題は残ったんですね」
「そうだ」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「共有ってのは、そういうもんだ」
「……」
「相手が悪いから全部奪っていい、なんて制度じゃねえ」
私は静かに頷きました。
共有。
それは。
一つの物に、複数の人の権利が重なっている状態。
だから。
一人が何でも決めていいわけではない。
でも。
誰も何も決められないまま、永久に縛りつけていいわけでもない。
その難しさが。
ようやく少し分かった気がしました。
◇
一週間後。
千鶴さんが事務所を訪れました。
「ありがとうございました」
深く頭を下げます。
「兄から、解体を中止したって連絡がありました」
「よかったです!」
私が笑うと、千鶴さんも少し笑いました。
でも。
その表情には、まだ迷いがありました。
「実は……兄と話したんです」
「お兄さんと?」
「はい」
千鶴さんは膝の上で手を重ねました。
「兄は、家を売ってお金にしたかったんだそうです。自分の店の資金繰りが苦しくなっていたみたいで」
「……そうだったんですか」
「私は、何も知りませんでした」
千鶴さんは俯きました。
「兄が勝手に家を壊そうとしたのは、許せません。でも……」
少し間を置いて。
「私も、兄が四分の三を持っていることを、ちゃんと考えていなかったのかもしれません」
私は黙って聞きました。
「父の家だから、ずっと私が住んでいて当然だと思っていました」
「……はい」
「でも、共有なんですよね」
私は頷きました。
「そうです」
「兄にも、権利があるんですよね」
「はい」
千鶴さんは小さく息を吐きました。
「それで、考えたんです」
鞄から一枚の紙を取り出します。
そこには、手書きの数字が並んでいました。
「もし、私が兄の持分を買い取れたら……」
私は目を見開きました。
「千鶴さんが?」
「はい」
「四分の三を?」
「すぐには無理です。でも、少しずつ貯めたお金もあるし、銀行にも相談してみようと思って」
なるほど。
共有物の分割。
価格賠償。
家を一人が取得して、もう一人に持分相当の代償金を払う。
もし兄妹が合意できれば。
兄は、自分の財産を現金に換えられる。
妹は、家を守れる。
もちろん。
金額の評価。
支払方法。
資金調達。
所有権移転登記。
簡単な話ではありません。
それでも。
家を壊す以外の道がある。
それが分かったことは、大きな前進でした。
「兄にも話しました」
千鶴さんが言いました。
「何て?」
「ちゃんとした金額なら、考えてもいいって」
私は思わず笑顔になりました。
「よかった!」
「まだ決まっていませんけど」
「はい!」
「でも、兄と久しぶりに、怒鳴り合わずに話せました」
その言葉が、私は何より嬉しかったのです。
法律で相手を負かす。
確かに、それは痛快です。
でも。
本当に大切なのは。
法律によって、相手が無理やり奪おうとしていたものを守り。
そのうえで。
互いの権利を踏まえて、次の道を探せることなのかもしれません。
◇
帰り際。
千鶴さんが、もう一枚の写真を出しました。
「これ、父と兄と私です」
古い白黒写真。
小さな庭。
椿の木。
まだ若い父親。
その両側に、幼い兄妹。
三人とも笑っています。
「兄は昔、あの椿によく登ってたんです」
「そうなんですか?」
「はい。落ちて、父に怒られて」
千鶴さんが笑いました。
「父は、木を切るって怒ったんですけど、兄が泣いて止めたんです」
「……え?」
「この木は俺の木だから、切っちゃ駄目だって」
私は写真を見つめました。
椿の木。
あの家。
かつて兄が守ろうとしたものを。
今は妹が守ろうとしている。
何とも、不思議な話です。
「兄さんにも、この写真を見せようと思っています」
千鶴さんは言いました。
「お金の話は、お金の話として、ちゃんとしなきゃいけないですから」
「はい」
「でも、その前に……父の家だったことも、思い出してほしくて」
私は頷きました。
それは。
内容証明には書けないことでした。
民法二百五十一条にも。
二百五十二条にも。
二百五十六条にも。
書いていないこと。
でも。
きっと、とても大切なことです。
◇
千鶴さんが帰ったあと。
私は机の上で六法を開いていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「共有って、難しいですね」
「今さらか」
「だって、四分の三を持っていても、家を勝手に壊せないんですよ?」
「そうだな」
「逆に四分の一しか持っていなくても、家の全部について使用する権利がある」
「うん」
「でも、他の共有者の権利を無視して独占できるわけでもない」
「そうだ」
「屋根の修理は一人でもできる」
「うん」
「通常の管理は持分の価格の過半数」
「そうだ」
「建物全部の取り壊しみたいな変更は、全員同意」
「そのとおり」
私は頭を抱えました。
「似てるのに、全部違います!」
相馬先輩が笑いました。
「だから試験に出るんだろ」
「出るでしょうね!」
「しかも、共有物は分割も請求できる」
「はい……」
私は大きく息を吐きました。
「共有って、ずっと仲よく使い続ける制度だと思ってました」
「違うな」
相馬先輩が言いました。
「仲が悪くなったときに、どうするかまで決めてる制度だ」
私は顔を上げました。
なるほど。
言われてみれば。
共有とは、一つの物を複数の人が所有すること。
でも、人間の考え方は同じではありません。
住みたい人。
貸したい人。
売りたい人。
直したい人。
壊したい人。
それぞれに事情がある。
そのとき。
保存なら単独。
管理なら過半数。
変更なら全員同意。
そして、どうしても一緒に所有できなくなったら。
分割という出口がある。
民法は、ただ権利を分けているだけではない。
意見が割れたときの、決め方まで用意しているのです。
「所長」
私は聞きました。
「何だ」
「今日、一番大事だったことって何でしょう」
所長は少し考えました。
そして、答えました。
「持分の大きさと、決定できる行為の範囲を混同しないことだ」
「……!」
「四分の三だから、何でもできるわけじゃない」
「はい」
「四分の一だから、何もできないわけでもない」
「はい!」
「どんな行為をするのか。それを先に確かめろ」
私は深く頷きました。
なるほど。
数字だけを見てはいけない。
行為の性質を見る。
これが、共有の急所なんですね。
夕方。
私はノートを開きました。
今日の教訓。
短く。
忘れないように。
――共有は「保存なら一人、管理は持分の過半数、変更は全員同意」。持分が多くても、何でも決められるわけではない。
「……よし!」
私は鉛筆を置きました。
覚えました。
これなら、試験でも間違えません。
たぶん。
「こはる」
相馬先輩が呼びました。
「はい!」
「じゃあ、確認問題だ」
「えっ」
「共有者二人。持分は半分ずつ」
「はい」
「片方が、共有物である時計を勝手に売り払おうとしている」
「はい」
「時計全部を売れるか?」
「相手の持分まで勝手に処分することはできません!」
「よし」
「でも、自分の持分は原則として売れます!」
「よし」
私は得意になりました。
「もっと出してください!」
「じゃあ、共有の家が雨漏りしてる。屋根の必要な修繕は?」
「保存行為! 単独でできます!」
「共有の家を通常の条件で他人に貸すことを決めるには?」
「管理行為! 持分の価格の過半数!」
「共有の家を全部壊すには?」
「変更行為! 全員同意!」
「よし」
私は拳を握りました。
完璧です。
すると。
相馬先輩がにやりと笑いました。
「じゃあ最後だ」
「はい!」
「共有者が一人死んで、相続人がいなかったら、その持分はどうなる?」
私は固まりました。
「……え?」
「どうした」
「そ、それは……」
民法二百五十五条。
共有者の一人が持分を放棄したとき。
または。
死亡して相続人がないとき。
その持分は、他の共有者に帰属する。
「他の共有者に帰属します!」
「そうだな」
「やった!」
「ただし」
……え?
「本当に相続人がいないか、そこは簡単に決めつけるなよ」
「はい?」
「相続財産の清算や、特別縁故者への分与の問題もある。財産の行き先を、条文一つだけで即断するな」
「……!」
私は慌ててノートを開きました。
そうでした。
特別縁故者。
亡くなった人と生計を同じくしていた人。
療養看護をしていた人。
その他、特別の縁故があった人。
そうした人への相続財産分与が問題になる場合もあるのです。
私は顔を上げました。
「先輩」
「何だ」
「共有、まだまだ奥が深いですね」
「当たり前だ」
「じゃあ、明日も勉強します!」
「仕事しろ」
「勉強も仕事です!」
「見習いが偉そうに言うな!」
私は笑いました。
でも。
今日のことは、忘れないと思います。
古い木造の家。
柱についた、兄妹の身長の跡。
椿の木。
そして。
四分の一の持分を握りしめて、震えていた千鶴さん。
彼女は、家全部を所有していたわけではありません。
多数決でも、負けていました。
それでも。
民法は、その四分の一を、無視してよいとは言わなかった。
小さな持分も。
大きな持分も。
どちらも所有権です。
そして。
所有権の大きさだけで、人の生活を踏みつぶすことはできない。
私はノートの一行を、もう一度見ました。
――保存は単独、管理は過半数、変更は全員同意。
たった三つの区別。
でも。
その区別を知らなかったら、あの家は壊されていたかもしれません。
私は窓の外を見ました。
夕暮れの町。
どこかで、古い家の屋根に夕日が当たっているのでしょう。
あの椿の木も。
まだ庭に立っているはずです。
いつか兄妹が、もう一度同じ庭で笑える日が来ればいい。
そのために。
法律が守ったのは、家そのものだけではありません。
誰かが一方的に決めるのではなく。
お互いの権利を認めたうえで、話し合うための時間だったのです。
「こはる!」
相馬先輩の声が響きました。
「はい!」
「感傷に浸ってねえで、書類を片付けろ!」
「今、共有の本質について考えてたんです!」
「考えるのはいいから手を動かせ!」
「先輩!」
「何だ!」
「この机、私と先輩で共有にしませんか!」
「は?」
「そうすれば、私にも机全部について使用する権利が!」
「その机は事務所の備品だ!」
「……あ」
「勝手に共有物を作るな!」
私は、そっと六法を閉じました。
なるほど。
共有の話をする前に。
誰が所有者なのか。
まずは、そこから確認しなければならないようです。
民法。
今日も、奥が深い。
そして。
昭和六十三年の片桐行政書士事務所には。
どうやら、見習いが自由に処分できる机すらないのでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




