[民法・竹木の枝と根の切除]法理編 こはるノート
空から来た枝は、勝手に切れない。
土の下から来た根は、自分で切れる。
同じ木なのに。
同じ境界線を越えているのに。
法律上の扱いは、まるで違う。
……どうしてでしょうか。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には、大きくこう書いてあります。
――こはるノート・民法編。
今日のお題は。
民法第二百三十三条。
竹木の枝と根の切除。
「……納得できません」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何がだ」
「枝と根です!」
「またその話か」
「だって、同じ木ですよ!」
「そうだな」
「同じように隣の敷地へ入ってきているんですよ!」
「そうだな」
「なのに、枝は勝手に切れなくて、根は自分で切れるなんて!」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「法律がそう決めてるんだよ」
「それじゃ丸暗記じゃないですか!」
「試験には出るぞ」
「だからこそ、理由まで理解したいんです!」
私はノートを勢いよく開きました。
そこには、昨日の事件について書かれています。
田代春江さん。
隣の地主、黒岩徳蔵。
敷地へ伸びてきた柿の木の枝。
花壇に入り込んだ根。
勝手に枝を切った夫に対する、三十万円の損害賠償請求。
そして。
私たちが作成した内容証明郵便。
あの事件は、最終的に黒岩が三十万円の請求を撤回し、双方が確認書に署名押印することで解決しました。
でも。
もし私が最初に考えたとおり、
「隣から伸びてきたんだから、自分で切って当然!」
という理屈で内容証明を書いていたら。
どうなっていたでしょう。
きっと、相手の弁護士に一瞬で見破られていたはずです。
「よし!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は、民法二百三十三条を完全攻略します!」
「大げさだな」
「枝と根を二度と間違えないようにします!」
「二行しかねえ条文だぞ」
「二行だから怖いんです!」
そこへ。
奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……また俺ですか」
「こはるに説明させろ」
私は顔を上げました。
「所長!」
「何だ」
「今日は絶対に、未来の民法と混同しません!」
「……未来?」
「あっ」
しまった。
まだ始まって三分。
もう危ない。
相馬先輩が怪訝な顔をしました。
「お前、また妙なこと言ってるな」
「い、いえ! まずは昭和六十三年の民法です!」
私は慌てて六法を開きました。
こうして。
今日も、片桐事務所の強制勉強会が始まりました。
### 一 枝は「所有者に切らせる」――民法233条1項
「まず、枝です!」
私はノートに大きく書きました。
――枝。
その下に、二つの土地を描きます。
左側が甲土地。
所有者A。
右側が乙土地。
所有者B。
甲土地には、大きな柿の木。
そこから枝が伸びて、乙土地の上空へ入り込んでいます。
「では問題です!」
私は相馬先輩を見ました。
「乙土地の所有者Bは、越境した枝を勝手に切っていいでしょうか!」
「駄目だ」
「即答!」
「昨日やっただろ」
「復習です!」
私は六法を読み上げました。
――民法第二百三十三条第一項。
――隣地の竹木の枝が境界線を越えるときは、その竹木の所有者に、その枝を切除させることができる。
「ここで大切なのが、この言葉です」
私は鉛筆で二重線を引きました。
――切除させる。
「自分で切除する、とは書いていません」
「そうだ」
「竹木の所有者に、枝を切らせるんです」
つまり。
Aの柿の木の枝が、Bの土地に越境した場合。
BはAに対して、
「枝を切ってください」
と求めることができます。
でも。
原則としてBが勝手に枝を切ることはできません。
「先輩」
「何だ」
「Aが『絶対に切らない』と言ったらどうするんですか?」
「それが昔の面倒なところだ」
「ですよね!」
私は身を乗り出しました。
「だって、自分の土地を使えなくなっているのに!」
相馬先輩は新聞を畳みました。
「じゃあ聞くぞ。枝が越境した瞬間、その枝はBのものになるのか?」
「……なりません」
「誰のものだ?」
「Aの柿の木の一部です」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――枝が境界を越えても、当然に所有権が移るわけではない。
「木は土地に生えているものですから、その所有関係を考えなければいけません」
「うん」
「Aが所有する木の枝は、越境したからといって、直ちにBの所有物にはならない」
「そのとおり」
だから民法は、まず所有者であるAに切らせるという仕組みを採っている。
Bの土地の利用を守る。
けれど。
Aの所有物を、Bが好き勝手に傷つけることも認めない。
「なるほど……」
私は鉛筆を止めました。
「民法って、どっちか一方だけを守っているわけじゃないんですね」
片桐所長が頷きました。
「相隣関係とは、そういうものだ」
「相隣関係……」
「隣り合う土地の所有者は、互いの権利を無視して生活できない」
私は昨日の柿の木を思い出しました。
黒岩さんの木。
田代さんの庭。
木は黒岩さんの所有物。
でも枝は田代さんの生活を妨げていた。
どちらにも、守られるべき利益があります。
「だから、まずAに切らせるんですね」
「そうだ」
私はノートに大きく書きました。
――昭和63年。枝は所有者に切らせる!
「では、先輩!」
「まだあるのか」
「もしAが何度お願いしても切らなかったら?」
「法的手続を考えることになる」
「Bが我慢するしかない、というわけではありませんよね」
「もちろんだ」
ここも大切です。
自分で枝を切れない。
それは、枝の切除を求める権利がないという意味ではありません。
所有者が任意に応じない場合には、切除を求める訴訟などの法的手続が問題になります。
ただし、行政書士が依頼人の代理人として訴訟をすることはできません。
そこは弁護士の領域です。
「所長」
「何だ」
「つまり、田代さんが本来すべきだったのは?」
「黒岩に切除を求め、それでも応じなければ、法的手続を検討することだ」
「はい」
「勝手に枝を切っていい、という結論にはならない」
私は頷きました。
そして、ノートにもう一行書きました。
――切除請求権があることと、自力で切除できることは別。
これです。
昨日の事件で、私が最初に間違えたところ。
権利がある。
だから、自分で実力行使していい。
そんな単純な話ではありません。
民法は、権利を守る方法まで考えなければならない法律なのです。
### 二 根は「自分で切り取れる」――民法233条2項
「次は根です!」
私はノートをめくりました。
――根。
同じく甲土地Aと乙土地B。
今度は、Aの柿の木から根が伸び、地面の下で乙土地に入り込んでいます。
「先輩、問題です!」
「今度は何だ」
「Bは、越境した根を自分で切り取ることができるでしょうか?」
「できる」
「正解!」
「だから昨日やっただろ」
「復習が大切なんです!」
私は六法を開きました。
――民法第二百三十三条第二項。
――隣地の竹木の根が境界線を越えるときは、その根を切り取ることができる。
「ここです!」
私は鉛筆で丸をつけました。
――切り取ることができる。
「枝の場合は『所有者に切除させる』でした」
「うん」
「でも、根の場合は『切り取ることができる』なんです」
「そうだ」
私は二つを並べました。
枝。
所有者に切除させる。
根。
越境された土地の所有者が自分で切り取れる。
「……こうして並べると、違いがはっきりしますね」
「最初からそう言ってる」
「先輩、そこは感動するところです!」
「二行読んだだけだろ」
「二行を理解するのが大切なんです!」
私は胸を張りました。
でも。
ここで、どうしても疑問が残ります。
「所長」
「何だ」
「どうして根は自分で切れるんでしょう?」
所長は少し考えました。
「根は地中に伸びる」
「はい」
「隣地に入り込んでも、地表から見えないことが多い」
「そうですね」
「土地の利用を妨げる根を、所有者にしか切らせられないとすれば、処理に手間がかかる」
「なるほど」
根は、土の下を広がっていきます。
花壇を掘る。
畑を耕す。
庭を整える。
そんなときに、隣の木の根が邪魔になる。
いちいち隣の所有者を呼んで、掘り返してもらわなければならないとしたら。
確かに、不便です。
「だから、越境部分については、自分で切り取ることを認めているんですね」
「そういう理解でいい」
私はノートに書きました。
――根は地中で越境し、土地の利用を妨げるため、越境部分の切取りが認められる。
「じゃあ!」
私は勢いよく顔を上げました。
「根なら何でも切っていいんですね!」
「駄目だ」
「ええっ!」
「極端なんだよ、お前は」
相馬先輩が呆れました。
「民法が認めているのは、境界線を越えてきた根の切取りだ」
「はい」
「相手の敷地に入り込んで、根元から全部切っていいわけじゃねえ」
「あ……」
「木を枯らしてやろうと思って、不必要に太い根を切断するのも問題になり得る」
私は頷きました。
そうでした。
根を切れるという権利も、無制限ではありません。
法律上認められた行為であっても、権利の濫用が問題になる場合があります。
「つまり、民法一条三項ですね」
私は言いました。
「権利の濫用は、これを許さない」
「そうだ」
「これは昭和でも同じですね!」
「お前、さっきから何と比べてるんだ?」
「な、何でもありません!」
危ない。
未来人の悪い癖です。
でも。
根の切取りについては、もう一つ注意が必要です。
「先輩」
「何だ」
「もし根を切ったことで、柿の木が枯れてしまったら?」
「事情による」
「やっぱり、必ず責任を負うわけではないんですね」
「そうだ。適法な範囲の切取りだったのか、過剰だったのかを見なきゃならねえ」
私は書きました。
――根を切れることと、どんな損害を与えても責任を負わないことは違う。
なるほど。
この一行も重要です。
条文を覚えた瞬間、何でもできると思ってはいけない。
民法には、いつだって相手がいる。
相手の権利も、ちゃんと考えなければならないのです。
### 三 なぜ枝と根で違うのか――相隣関係の本当の意味
「さて」
私はノートの真ん中に、一本の線を引きました。
――境界線。
「ここで、相隣関係の考え方を整理します!」
相馬先輩がため息をつきました。
「まだ続くのか」
「ここからが大事なんです!」
「全部大事って言うじゃねえか」
「全部大事ですから!」
私は鉛筆を握り直しました。
所有権。
民法第二百六条。
所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。
「自分の土地を自由に使える。これが原則です」
「そうだな」
「でも、法律による制限があります」
「うん」
たとえば。
自分の土地だからといって、隣地に迷惑をかけ放題でいいわけではありません。
自分の建物を建てる。
木を植える。
塀を作る。
水を流す。
そうした行為は、隣の土地にも影響します。
「だから、民法には相隣関係の規定があるんですね」
「そうだ」
片桐所長が言いました。
「所有権は強い権利だ。だが、隣り合う土地の所有者が、それぞれ無制限に権利を主張すれば、生活は成り立たない」
私は頷きました。
田代さんは言いました。
――自分の庭なんだから、邪魔な枝を切って当然。
黒岩さんは言いました。
――俺の木なんだから、枝も根も絶対に切るな。
どちらも、自分の所有権を主張していました。
でも。
どちらかの言い分を、そのまま全部認めるわけにはいきません。
「つまり」
私は言いました。
「相隣関係って、隣同士の所有権を調整するルールなんですね」
「そうだ」
「自分の権利を守りながら、相手の権利も尊重する」
「うん」
「だから枝と根でも、扱いが違う」
所長が頷きました。
「ただし、その区別の理由を一つの説明だけで決めつけるな」
「え?」
「法律がどういう制度を採っているかと、その制度をどう説明するかは、分けて考えろ」
私は目を瞬きました。
なるほど。
枝は見えるから。
根は見えないから。
それだけで法律が決まっているわけではない。
所有者の権利。
隣地の利用。
処理のしやすさ。
自力救済をどこまで認めるか。
いくつもの事情を踏まえて、制度が作られている。
「所長」
「何だ」
「試験では、まず条文の違いを正確に覚える」
「そうだ」
「そして、どうしてそういう違いがあるのか考える」
「うん」
「でも、理由の説明と条文の内容を混同しない」
「そのとおり」
私はノートに書きました。
――理由を理解する。ただし、結論は条文で確認する。
よし。
これなら、丸暗記とは少し違います。
法律の知識が、頭の中でつながっていく気がしました。
### 四 令和の民法では、枝も自分で切れる?――令和5年改正の衝撃
「ところで、先輩」
「何だ」
「もし隣の木の所有者が、何度頼んでも枝を切ってくれなかったら、やっぱり裁判をするしかないんですか?」
「任意に応じねえなら、法的手続を考えることになるな」
「……面倒ですね」
「面倒だからって、勝手に切るなよ」
「分かってます!」
私は頷きました。
でも。
実は、知っています。
この面倒な仕組み。
未来では変わるのです。
私は鉛筆を握り直しました。
「……もしですよ?」
「何だ」
「将来、法律が改正されて、一定の場合に自分で枝を切れるようになったら、便利だと思いませんか?」
相馬先輩が眉をひそめました。
「また妙なことを考えてるな」
「たとえば、何度お願いしても切ってくれない場合です!」
「ふむ」
「所有者がどこにいるのか分からない場合もありますよね!」
「まあな」
「それから、台風で枝が折れかかっていて、今にも屋根に落ちそうな場合!」
「……なるほどな」
相馬先輩が煙草を置きました。
「確かに、そういうときまで裁判を待ってたら困るな」
「ですよね!」
私は勢いよく頷きました。
そうです。
令和五年四月一日。
民法二百三十三条の改正規定が施行されます。
改正の背景には、所有者不明土地問題などに対応し、土地の円滑な利用を図る必要がありました。
そして、越境した枝についても、一定の条件を満たす場合には、越境された土地の所有者が自分で切り取れるようになったのです。
私は頭の中の現代民法を思い出しました。
改正後の民法二百三十三条第三項。
原則として、枝は竹木の所有者に切除させる。
でも、例外が三つあります。
第一。
竹木の所有者に枝の切除を催告したのに、相当の期間内に切除しない場合。
第二。
竹木の所有者を知ることができない、またはその所在を知ることができない場合。
第三。
急迫の事情がある場合。
これらに該当すれば、越境された土地の所有者が、自ら枝を切り取ることができます。
「……すごい」
私は呟きました。
昭和の民法では。
何度頼んでも切ってくれなければ、法的手続が必要になり得る。
でも現代では。
催告して相当期間が経過した場合などには、自分で切れる。
ただし。
令和でも、枝が越境しただけで、いつでも自由に切ってよいわけではありません。
そこは変わらないのです。
「こはる」
「はい!」
「何を一人でにやにやしてる」
「い、いえ!」
「まさか、本当に法律が変わるとでも思ってんのか?」
「そ、そんなことは……!」
危ない。
これ以上話すと、未来人だと疑われます。
私は慌ててノートを閉じようとしました。
しかし。
片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい」
「法律が変わるとしたら、何を解決するために変わると思う?」
私は手を止めました。
「……困っている人を、必要以上に待たせないためでしょうか」
「それもあるだろう」
「所有者の権利は守りながら、隣地の利用も確保する」
「そうだ」
「そのために、例外を設けるんです」
所長が頷きました。
「法律を変えるなら、何を守り、どこまで例外を認めるかを考えなければならない」
私は少し胸が熱くなりました。
昭和の人たちは、まだ未来の改正を知りません。
でも。
今の制度の不便さに気づき、どうすればよいか考えることはできる。
法律は、突然空から降ってくるものではないのです。
日々の暮らしの中にある困りごと。
人と人との争い。
それを少しずつ解決するために、変わっていく。
「……なるほど」
私はノートに書きました。
――昭和では枝の自力切除は原則不可。令和では一定の例外が認められる。
そして、もう一つ。
根についても、条文の位置が変わります。
昭和六十三年では、民法二百三十三条第二項。
現代では、民法二百三十三条第四項。
ただし、越境した根を自分で切り取れるという基本的なルールは維持されています。
私は、ここに大きな赤丸をつけました。
――昭和の根は二項。令和の根は四項!
……危ない。
現代の条文番号だけ覚えて昭和に戻ってくると、また地雷を踏むところでした。
### 五 三十万円の請求はなぜ撤回されたのか――権利侵害と損害額は別問題
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「昨日の事件に戻るぞ」
「はい!」
「田代さんの主人は、勝手に枝を切った」
「はい」
「昭和の民法では、原則として認められない行為だ」
「そうです」
「じゃあ、黒岩の三十万円の請求は、当然に認められるのか?」
「認められません!」
私は即答しました。
ここはもう間違えません。
「理由は?」
「損害賠償が認められるかどうかと、請求額がいくらになるかは、別々に検討する必要があるからです!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
私は民法七百九条を開きました。
不法行為による損害賠償。
故意または過失によって他人の権利を侵害し、それによって損害が生じた場合に問題となる規定です。
黒岩さんの柿の木は、黒岩さんの所有物。
田代さんが無断で枝を切ったことは、その所有権を侵害したと評価される可能性があります。
でも。
「黒岩さんは、三十万円の具体的な根拠を示していませんでした」
「そうだな」
「それに、植木職人の切口保護などの見積りは、一万二千円でした」
「うん」
「ただし、その一万二千円が損害額の全部だと決まったわけでもありません」
「よし」
私は続けました。
「樹木の価値が低下したのか。ほかに必要な費用があるのか。切除との因果関係があるのか。そういう事実を確認する必要があります」
所長が頷きました。
「そこまで考えればいい」
私はノートに書きました。
――損害賠償請求は、相手が言い値で金額を決められる制度ではない。
そして。
もう一つ大切なのは、黒岩さんが越境した枝を放置していた事情です。
田代さん夫妻は、何度も切除を求めていました。
それでも黒岩さんは応じなかった。
この事情が、損害賠償責任の判断にどのように影響するかは、具体的な事案によります。
ただし、それだけで無断切除が当然に適法になるわけではありません。
「所長」
「何だ」
「田代さんが悪いことをした部分は、そのまま認める」
「うん」
「でも、黒岩さんの請求に根拠がなければ、そこは争える」
「そうだ」
「そして、根についての『絶対切るな』という主張には、二百三十三条二項を示す」
相馬先輩が笑いました。
「ようやく、あの内容証明の意味が分かったか」
「はい!」
あの書面は、黒岩さんを脅すためのものではありませんでした。
無断切除の事実を隠さない。
損害額の根拠を求める。
根については条文を示す。
事実と法律を、一つずつ整理する。
だから。
相手も、裁判になった場合のリスクを冷静に考えざるを得なくなった。
「先輩」
「何だ」
「内容証明って、法律の必殺技みたいに思ってました」
「馬鹿言え」
「え?」
「内容証明そのものに、相手を従わせる力があるわけじゃねえ」
相馬先輩は机の上の控えを指差しました。
「何を通知したかを証明できる。それが大事なんだ」
「はい」
「内容が間違ってりゃ、立派な封筒に入ってても間違いは間違いだ」
……なるほど。
民法の知識が曖昧なまま、勢いだけで内容証明を出す。
それでは、何の解決にもならない。
むしろ。
自分たちの間違いを、証拠として残してしまうことさえある。
「だから所長は、私の最初の原案を赤鉛筆で消したんですね」
「そうだ」
所長が短く答えました。
「正しい事実を、正しい法律に当てはめろ」
私は頷きました。
行政書士ができること。
契約書や事実証明書類などの作成。
適法な範囲での内容証明郵便の作成。
紛争性のある法律事務については、弁護士に引き継ぐ。
その線引きを守りながら、依頼人の権利を支える。
これも、昨日の事件で学んだことでした。
### 六 こはるの確認問題――「枝」と「根」を混同するな!
「所長!」
「何だ」
「最後に確認問題をお願いします!」
「いいだろう」
私は背筋を伸ばしました。
片桐所長が、ゆっくり口を開きます。
「甲土地のAが所有する柿の木の枝が、乙土地のBの敷地へ越境した」
「はい!」
「昭和六十三年。Bは自分で枝を切り取れるか」
「原則として切り取れません! Aに切除させることができます!」
「よし。では、Aが切除を拒否した場合は?」
「Bが当然に自分で切れるようになるわけではありません。必要に応じて、法的手続を検討します!」
「よし」
次。
「同じ柿の木の根が、Bの土地へ越境した」
「はい!」
「Bは、その根を切り取れるか」
「切り取れます!」
「条文は?」
「昭和六十三年の民法二百三十三条第二項です!」
よし。
完璧。
所長が続けます。
「Bは根を切れるのだから、Aの土地に入り込んで木の幹まで切ってよいか」
「駄目です!」
「理由は?」
「認められているのは、境界線を越えた根の切取りだからです!」
「うん」
「それに、権利の濫用も許されません!」
所長が頷きました。
「よし」
私は思わず拳を握りました。
やった!
民法二百三十三条。
今度こそ完璧です!
「じゃあ俺からも問題だ」
相馬先輩が口を挟みました。
「はい!」
「枝が越境しただけで、その枝はBの所有物になるか?」
「なりません!」
「枝を勝手に切ってしまった場合、どんな問題がある?」
「竹木の所有者の権利を侵害し、不法行為責任が問題になる可能性があります!」
「相手が三十万円請求したら?」
「三十万円が当然に認められるわけではありません!」
「よし」
相馬先輩がにやりと笑いました。
「じゃあ最後だ」
「何でもどうぞ!」
「令和五年の改正後、枝が越境したら、Bはいつでも自由に切れるか?」
「いいえ!」
私は勢いよく答えました。
「所有者に催告しても相当期間内に切除しない場合、所有者やその所在を知ることができない場合、急迫の事情がある場合など、法律で定められた要件が必要です!」
「……」
沈黙。
しまった。
私は固まりました。
相馬先輩が、ゆっくりこちらを向きました。
「……令和五年?」
「あ」
「改正後?」
「ああっ」
「何の話だ?」
……。
やってしまいました。
完璧に。
未来の条文を口にしてしまいました。
「え、ええと!」
私は必死に頭を回転させます。
「将来の民法改正を想像した、仮定の問題です!」
「……」
「ほら! 法律は時代に合わせて変わりますから!」
相馬先輩は、じっと私を見ました。
そして。
「お前、試験勉強のしすぎじゃねえか?」
「そうかもしれません!」
「少し休め」
「ありがとうございます!」
……危なかった。
未来人、またしても正体発覚の危機を回避。
でも。
私は内心で、少し笑いました。
昭和の古い民法。
令和の新しい民法。
どちらも知っているからこそ、見えてくることがあります。
古いルールが何を守ろうとしていたのか。
新しいルールが何を解決しようとしたのか。
それが分かれば。
法律は、ただの暗記科目ではなくなるのです。
### 七 今日の一行――枝は相手、根は自分
窓の外は、すっかり夕暮れでした。
商店街の街灯が、一つ、また一つと灯り始めます。
私はノートを見直しました。
民法二百三十三条。
昭和六十三年。
枝は、竹木の所有者に切除させる。
根は、越境部分を自分で切り取れる。
令和。
枝は原則として所有者に切除させるものの、一定の場合には自分で切り取れる。
根は、引き続き自分で切り取れる。
たったこれだけの違いです。
でも。
田代さんの事件を思い出すと。
その違いが、どれほど大きいか分かります。
無断で切ってしまった枝。
三十万円の請求書。
庭に入り込んだ根。
亡くなったお母さんの菊。
そして。
内容証明をきっかけに、ようやくまとまった隣同士の話合い。
もし枝と根の区別を知らなかったら。
私は、田代さんに間違った助言をしていたかもしれません。
それは。
単なる試験の失点では済まないのです。
「所長」
「何だ」
「民法の細かい条文って、ちゃんと意味があるんですね」
「そうだ」
「二行の違いで、誰が何をできるかが変わる」
「うん」
「その違いを知らないと、人の財産を守れないこともある」
所長が頷きました。
「条文は短くても、扱うものは小さくない」
私は、その言葉を心に刻みました。
そして、ノートの最後に、一行だけ書きました。
――昭和の枝は「相手に切らせる」、根は「自分で切れる」。令和の枝は条件付きで自分でも切れる!
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか、先輩!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん一生忘れません。
あの柿の木を思い出せばいい。
田代さんの庭に伸びた枝。
花壇を塞いでいた根。
どちらも同じ木から伸びていました。
けれど。
民法は、同じようには扱わなかった。
それは、木が嫌いだからでも、地主が嫌いだからでもありません。
互いの所有権を調整し、人が隣同士で暮らしていくためです。
法律は。
境界線を越えてしまった木に、怒っているわけではない。
その境界線を挟んで暮らす人間が、争わずに済む方法を考えているのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「昨日、裏庭の枝を片付けただろ」
「はい!」
「今朝、隣の家のおじさんに会ったんだ」
「えっ」
「ありがとうって言われたぞ」
私は目を丸くしました。
「本当ですか!」
「ああ」
「よかったですね!」
相馬先輩は少し照れたように、新聞を広げました。
「まあな」
私は窓の外を見ました。
昨日、先輩が剪定した小さな木。
枝先は、もう隣の敷地へ伸びていません。
ただ、それだけ。
でも。
その小さな手入れで、隣の人が困らなくなった。
法律の出番すら必要なかった。
「先輩」
「何だ」
「やっぱり、これが一番ですね」
「何がだ」
「争いになる前に、ちゃんと手入れすることです」
相馬先輩はしばらく黙りました。
それから。
「……まあ、そうだな」
短く答えました。
私は笑いました。
すると。
事務所の電話が鳴りました。
ジリリリリリッ!
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
年配の男性の声でした。
『隣の竹林のことで相談したいんですが……』
……竹林?
『竹の根が、うちの畑に入り込んできてるんです』
私は顔を上げました。
相馬先輩もこちらを見ています。
『それで、根を切ってもいいのかと思いまして……』
私は微笑みました。
「境界を越えた竹の根ですね」
『はい』
「民法二百三十三条第二項です!」
『え?』
「昭和六十三年の法律では、越境した根を自分で切り取ることができます。ただし、実際の境界や切取り方は確認が必要です」
『そ、そうなんですか!』
「はい!」
……完璧。
今度こそ。
未来の条文を混ぜずに答えられました。
『それは助かります! でも、もう一つありまして……』
「はい?」
『竹の根を切ったら、隣の地主から、竹が枯れたら弁償しろって言われてるんです』
……。
私は止まりました。
相馬先輩を見る。
先輩も、こちらを見ました。
『根を切る権利があるなら、どんな切り方をしても大丈夫なんでしょうか?』
……来ました。
またです。
また、民法の落とし穴。
「先輩」
「何だ」
「根は自分で切れますよね」
「ああ」
「でも、無制限じゃないんですよね」
「そうだ」
「つまり……」
相馬先輩が煙草を置きました。
「こはる」
「はい!」
「先に確認することがあるだろ」
私は頷きました。
「境界の位置と、根の状態と、どう切る予定なのか、ですね!」
「そうだ」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、根がどこまで入り込んでいるのか、詳しく教えてください」
法律を覚える。
条文を理解する。
そして。
実際の事実に当てはめる。
その順番を間違えなければ、きっと大丈夫。
昭和六十三年。
民法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
でも。
私はもう、枝と根を間違えません。
枝は相手。
根は自分。
ただし、どちらも相手の権利を忘れない。
それが、今日の教訓です。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「私、民法二百三十三条が好きになりました!」
「また変な趣味が増えたな!」
「だって、すごく覚えやすいんです!」
「だったら相談票を取れ!」
「はいっ!」
私は笑いながら、受話器の向こうの話を聞き始めました。
窓の外。
夕暮れの空に、木々の枝が揺れています。
地面の下では、きっと根が伸びているのでしょう。
木は、法律を知りません。
境界線も知りません。
でも。
人間は、法律を知ることができます。
そして、その知識で。
隣の人と争わずに暮らす方法を選ぶこともできるのです。
私は、開いたノートの一行をもう一度見ました。
――昭和の枝は「相手に切らせる」、根は「自分で切れる」。令和の枝は条件付きで自分でも切れる!
よし。
これなら、試験に出ても大丈夫。
ただし。
隣の木を見て、いきなり鋏を持ち出すのだけは、やめておきましょう。
だって。
民法二百三十三条が教えてくれるのは、木の切り方だけではなく、隣人との権利の境界線なのですから。
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