[民法・表見代理]現場編 「代理権は取り消したから払わない」の罠。元支配人の注文書と、知らぬ間に消えた代理権をめぐる内容証明の刃
人を信じたことが、罪になるのでしょうか。
昨日まで、その人が店の代表として契約していた。
今日も同じ名刺を持っている。
同じ印鑑を使っている。
いつものように注文書を差し出してくる。
だから信用した。
ところが、後になって言われるのです。
「そいつには、もう代理権なんかない」
……そんな。
こちらは何も知らなかったのに。
そんな理屈が通ってしまったら、世の中の商売は怖くてできません。
でも。
民法には、そんな理不尽から取引相手を守る仕組みがあります。
その名も。
表見代理。
権限がないのに、権限があるように見える。
そして、その外観を信じた相手を、一定の条件で法律が保護する。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
この日、私は学ぶことになります。
法律というものは。
嘘をついた人間だけでなく。
他人に誤解を与える外観を残した人間にも、責任を問うことがあるのだと。
「百二十万円、払わないって言うんです!」
朝九時。
事務所の扉が開くなり、女性の悲鳴にも似た声が響きました。
「落ち着いてください。こちらへ」
私は慌てて椅子を引きました。
女性は四十代半ば。
着古したカーディガン。
指先には、細かな糸くずがついていました。
名前は、野村澄江さん。
町外れで小さな織物問屋を営んでいます。
夫を三年前に亡くし、今は母娘二人で店を切り盛りしているそうです。
「主人の代から付き合っている洋品店なんです」
「洋品店?」
「駅前の『丸福洋装』です。昔は小さかったんですけど、最近は支店まで出していて……」
丸福洋装。
私も知っています。
駅前商店街に大きな看板を掲げる、地元では有名な洋装店です。
「そこで、何があったんですか?」
澄江さんは鞄から一枚の注文書を取り出しました。
――婦人服用生地 一式。
――代金 金百二十万円也。
――納品期日 昭和六十三年九月二十日。
――発注者 丸福洋装店。
その下には。
――支配人 黒田昭夫。
という署名。
そして、丸い社印が押されていました。
「黒田さんという方が注文したんですね」
「はい。十年以上、丸福さんの仕入れを担当していた方です」
「いつもの取引ですか?」
「そうです。金額も以前と同じくらいで……」
私は頷きました。
その人が、いつも注文を出していた。
会社の印鑑も使っていた。
注文書にも役職が書かれている。
何も怪しくありません。
「それで、生地は納品したんですか?」
「はい。店の倉庫へ運びました。受領印もいただいています」
「では、どうして代金が……」
「黒田さんは、もう辞めていたんです」
「……え?」
私は顔を上げました。
「注文を出した一週間前に、支配人を解任されていたそうなんです」
「一週間前?」
「でも、そんなこと、私たちは知らなくて」
澄江さんの声が震えました。
「社長さんが言うんです。『辞めた人間が勝手に注文したんだから、会社には関係ない』って」
私は注文書を見ました。
解任後の注文。
つまり、契約した時点では代理権がなかった。
無権代理。
……あ。
これは。
「表見代理です!」
私は思わず立ち上がりました。
「代理権がなくなっていても、相手が知らず、知らなかったことに過失もなければ、本人が責任を負う場合があります!」
澄江さんが顔を上げます。
「じゃあ、お金を払ってもらえるんですか?」
「はい! 民法百十二条です!」
よし。
今回は分かります。
現代の行政書士試験で勉強しました。
代理権消滅後の表見代理。
しかも、今回の状況は、まさに教科書のような事例。
私は六法を開こうとしました。
「こはる」
相馬先輩が声をかけました。
「はい!」
「まだ、そう決めるな」
「え?」
「黒田に、何の代理権があったんだ?」
「仕入れです」
「どこまでだ」
「……どこまで?」
相馬先輩は煙草を置きました。
「百二十万円の生地を買う権限が、本当にあったのかって聞いてるんだ」
私は黙りました。
「あ……」
「代理権が消滅したっていうなら、まず消滅する前に、どんな権限が存在したのか確認しろ」
「はい……」
「それから」
先輩は注文書を指で叩きました。
「野村さんが解任を知らなかった。それだけで必ず勝てるわけじゃねえ」
「え?」
「知らなかったことに、落ち度がなかったか。そこも調べる」
私は唇を結びました。
そうです。
表見代理。
言葉は覚えています。
でも。
その言葉を見つけただけで、事件が解決するわけではない。
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「この人が信じたものを、一つずつ確かめなさい」
「……はい」
信じたもの。
注文書。
社印。
十年間の取引。
黒田という人物。
そして。
会社が、それまで黒田に与えていた立場。
私は改めて、澄江さんに向き直りました。
「黒田さんから、今までどのくらいの注文を受けていましたか?」
「毎月、五十万円から百五十万円くらいです」
「支払いは?」
「全部、丸福洋装さんからいただいていました」
「黒田さん個人からではなく?」
「はい。会社の当座預金から振り込まれていました」
「注文書の形式は?」
「今回と同じです」
「社印も?」
「同じです」
「解任されたという通知は?」
「何も……」
「注文のあと、丸福さんから確認の電話は?」
「ありませんでした」
私はノートに書き込みました。
そのとき。
澄江さんが、小さな声で言いました。
「でも、先生」
「はい」
「私たち、やっぱり騙されたんでしょうか」
私は手を止めました。
「黒田さんが辞めたこと、確かめなかったのが悪かったんでしょうか」
澄江さんは俯きました。
「主人が生きていた頃からのお付き合いだったんです。今さら『あなた、本当に代理権がありますか』なんて……」
その手は、膝の上で固く握られていました。
「百二十万円が入らなければ、次の仕入れができません」
私は息を呑みました。
「娘の給料も、職人さんへの支払いも……」
声が途切れます。
「信用して商売していただけなのに、どうして私たちが全部失わなきゃいけないんでしょう」
私は、すぐには答えられませんでした。
信用。
人と人の商売を支えるもの。
でも、法律の世界では。
ただ信じた、というだけでは足りないことがあります。
では。
何を、どこまで信じてよかったのか。
そこが今回の勝負なのです。
午後。
相馬先輩と私は、丸福洋装の本店を訪れました。
駅前の大通り。
三階建ての建物。
大きなガラス窓には、秋物の婦人服が飾られています。
店内は繁盛していました。
……とても。
百二十万円を払えないようには見えません。
「何だね、君たちは」
応接室で待っていたのは、丸福洋装の社長、福永重蔵。
五十代後半。
仕立てのよい背広。
金時計。
そして、こちらを値踏みするような目。
「片桐行政書士事務所の相馬です。野村様の依頼により、注文書などの作成経緯について事実関係の確認に伺いました」
「行政書士?」
重蔵は鼻で笑いました。
「弁護士じゃないのか」
「違います」
「なら、あんたらに交渉される筋合いはないな」
相馬先輩は表情を変えませんでした。
「契約の代理交渉をするために来たわけではありません。書類の事実関係を確認できなければ、その旨を野村様にお伝えします」
「ふん」
重蔵は椅子に深く座りました。
「結論はもう決まっとる」
机から一枚の紙を取り出します。
――支配人解任通知。
日付は、昭和六十三年九月十日。
黒田昭夫を仕入担当支配人の職から解く。
「見たまえ」
重蔵が言いました。
「黒田は十日に解任されておる」
「はい」
「注文書の日付は十七日だ」
「はい」
「つまり、契約したときには代理権がない」
重蔵は勝ち誇ったように笑いました。
「本人が知らんところで結んだ契約だ。会社に支払義務などあるものか」
私は思わず口を開きました。
「でも、それまで黒田さんには――」
「お嬢ちゃん」
重蔵が遮りました。
「法律というのはね、権限があるか、ないかだよ」
「……」
「ない人間が契約した。だから無効。簡単な話だろう?」
……違う。
簡単ではありません。
確かに黒田は、解任後には代理権を持っていなかった。
でも。
それまで丸福洋装の支配人として取引していた。
野村さんは、解任を知らされていない。
会社名義の注文書。
会社の社印。
従来どおりの取引内容。
それを、どう考えるのか。
「福永社長」
相馬先輩が尋ねました。
「黒田さんの解任について、野村商店へ通知は出されましたか」
「そんな義務がどこにある」
「通知は出していない、ということですね」
「当たり前だ。人事は会社の内部問題だ」
「会社の社印は、いつ回収しましたか」
「……何?」
「仕入れ用の社印です」
重蔵の顔が、わずかに動きました。
「そんなこと、関係あるのか」
「注文書には社印が押されています」
「あいつが勝手に持ち出したんだろう」
「解任時に回収された記録はありますか」
「知らん」
先輩は淡々とメモを取りました。
私は気づきました。
社長は。
黒田の代理権を消した。
けれど。
外から見れば、黒田がまだ支配人として取引できるような状態を、放置していたのではないでしょうか。
「それから」
私は机の上に置かれた納品書を見ました。
「この生地、納品されたんですよね」
「だから何だ」
「受領印は、丸福洋装の倉庫の印鑑です」
「倉庫係が勝手に受け取っただけだ」
「生地は、今どこにありますか?」
重蔵が眉をひそめました。
「なぜそんなことを聞く」
「確認したいんです」
「……倉庫だ」
「本当に?」
「君、失礼だぞ」
重蔵が机を叩きました。
「契約は無効だ! 代金は払わん! それで終わりだ!」
私は拳を握りました。
でも。
相馬先輩が私の腕を軽く叩きました。
「こはる」
「……はい」
「確認はここまでだ」
先輩は立ち上がりました。
「福永社長。ご説明は承りました」
「ふん。分かったなら帰りたまえ」
「注文書、解任通知、納品書。これらの内容を整理して野村様に報告します」
「好きにしろ」
重蔵は笑いました。
「何を書こうが、代理権がないものはないんだからな」
その笑顔を見た瞬間。
私は思いました。
この人。
代理権がなかった、という一点だけで、すべてから逃げ切れると思っている。
でも。
民法には。
その一点だけでは、答えが出ない場合があるのです。
「先輩! あの社長、ひどすぎます!」
店を出た途端、私は叫びました。
「聞こえるぞ」
「聞かせたいくらいです!」
「馬鹿。感情で仕事するな」
「でも!」
「相手に代理権がなかった。そこは事実だ」
「はい」
「じゃあ、何で本人が責任を負うことがある?」
私は答えました。
「表見代理です!」
「理由は?」
「代理権があるように見える事情を作った本人にも、責任があるからです」
「それだけか?」
「……相手方が信じたことにも、正当性が必要です」
「そうだ」
先輩は頷きました。
「野村さんは、黒田を信用した。だが、法律が守るのは、何も調べずに勝手に信じた人間とは限らねえ」
「はい」
「今回、信じても無理がなかった。その根拠を揃えろ」
なるほど。
私はノートを取り出しました。
表見代理。
信頼を保護する制度。
でも、無条件ではない。
本人が作った外観。
その外観を信じた相手方。
そして、信じたことに落ち度がないか。
ここが鍵。
「でも先輩」
「何だ」
「現代の民法百十二条二項も使えそうですよね!」
私は勢いよく言いました。
「代理権が消滅した後に、元の権限を超える行為までした場合の規定で――」
「……二項?」
相馬先輩が足を止めました。
「はい?」
「百十二条に、二項なんてあったか?」
「……え?」
私は固まりました。
しまった。
またです。
未来の民法。
「お前、最近やけに妙な条文を口にするな」
「あ、あはは……」
「昭和六十三年の六法で確認してから喋れ」
「はい……」
私は額に手を当てました。
現代の民法では、百九条や百十二条に、権限外の行為を組み合わせた場合の規定が明文化されています。
でも。
昭和六十三年の条文には、まだその二項がありません。
当時は既存の表見代理規定と判例法理を組み合わせて考えなければならない。
しかも今回。
黒田がしていたのは、従来と同じ範囲の仕入れ契約です。
まず問題になるのは、代理権消滅後の表見代理そのもの。
「こはる」
「はい」
「難しい規定を使いたがるな」
「う……」
「事実に合う条文を使え」
「はい!」
「それからな」
先輩は少し声を低くしました。
「本当に黒田の権限が消滅していたのかも、証拠で確かめる必要がある。社長の言葉をそのまま信じるな」
私は顔を上げました。
「……あ」
「人事の書面の日付と、実際に解任を伝えた日が同じとは限らねえ」
「そうですね」
「黒田が権限を持っていた範囲も、契約書を見なきゃ分からねえ」
「はい」
私は改めて思いました。
表見代理は、代理権がなくても成立し得る制度。
でも。
その前に、本当に代理権がなかったのか。
そこすら曖昧なままなら、法律の当てはめなどできません。
「先輩」
「何だ」
「やっぱり、民法って難しいですね」
「難しいから、事実を調べるんだ」
相馬先輩はそう言って、駅前の公衆電話へ向かいました。
翌朝。
私の机の上には、分厚い帳簿が積まれていました。
「……何ですか、これ」
「野村商店の取引台帳だ」
相馬先輩が言いました。
「澄江さんに頼んで、過去三年分を持ってきてもらった」
「三年分!」
「調べろ」
「全部ですか?」
「全部だ」
私は帳簿を開きました。
昭和六十年。
昭和六十一年。
昭和六十二年。
手書きの数字が、びっしり並んでいます。
黒田昭夫。
黒田昭夫。
黒田昭夫。
同じ名前が、何度も登場しました。
「すごい……」
私はページをめくりました。
六十万円。
九十五万円。
百三十万円。
百四十万円。
注文書には、すべて同じ形式の署名。
そして社印。
支払いは、丸福洋装名義。
「先輩!」
「何だ」
「百二十万円って、全然特別な金額じゃありません!」
「そうだな」
「過去には百四十万円の仕入れだってあります!」
「うん」
「しかも、その代金は全部、丸福洋装が払っています!」
先輩が頷きました。
「それは何を意味する?」
「黒田さんに、その程度の仕入れ契約を締結する権限があったことを裏付けます!」
「よし」
私はさらに調べました。
そのとき。
帳簿の間から、一通の古い手紙が落ちました。
「……あれ?」
便箋。
丸福洋装の社名入り。
日付は、昭和五十九年四月。
差出人は、福永重蔵。
私は読みました。
――今後、当店の商品仕入れにつきましては、支配人黒田昭夫を担当者としております。
――注文その他の仕入れ業務につきましては、同人を通じてお取り扱いくださいますようお願い申し上げます。
……。
「先輩!」
「何だ」
「これ!」
相馬先輩が手紙を受け取りました。
しばらく読んで。
「……こいつは大きいな」
低い声で言いました。
「ですよね!」
私は興奮しました。
「社長自身が、黒田さんを仕入れの担当者として紹介しているんです!」
「そうだ」
「つまり、野村さんは勝手に黒田さんを信用したわけじゃない!」
私は机を叩きそうになりました。
「丸福洋装が、この人を信用してくださいって言ってるじゃないですか!」
片桐所長が奥から出てきました。
「こはる」
「はい!」
「その手紙は、何年前のものだ」
「四年前です」
「その後も同じ取引が継続しているな」
「はい!」
「解任の通知は?」
「ありません!」
「今回の注文額は、従来の取引の範囲内か」
「はい!」
所長は頷きました。
「なら、ひとつの筋が見えてきた」
「表見代理ですね!」
「そうだ」
私は手紙を見つめました。
社長自身が代理権の存在を示した。
その後、長年にわたり実際の取引が続いた。
そして、ある日突然、社内で代理権が消滅した。
しかし。
取引先には何も知らされなかった。
これで、
「代理権はなくなっていた」
というだけで逃げられるのでしょうか。
そんなはずはありません。
「所長!」
「何だ」
「民法百九条も関係しますよね!」
「どういう意味でだ」
「社長が、黒田さんに権限を与えたと取引先へ表示しています」
「それは事実だ」
「だから百九条の表見代理!」
「待ちなさい」
所長が言いました。
「百九条と百十二条を混同してはいけない」
「……はい?」
「その手紙が出された当時、黒田には実際に仕入れの代理権があったんだろう」
「はい」
「今回の問題は、その代理権が後に消滅したことだ」
「あ……」
「代理権授与の表示があったという事実は重要だ。だが、それだけで今回の法律構成を百九条にするな」
私は慌ててノートを開きました。
確かに。
民法百九条は、代理権を与えた旨の表示による表見代理。
一方、百十二条は、代理権消滅後の表見代理。
今回の中心は、後者です。
「では、あの手紙は……」
「黒田が仕入れの窓口だったことを、会社自身が取引先に知らせていた証拠だ」
「なるほど!」
「過去の契約書や支払記録と合わせて、代理権の範囲と、野村さんの信頼に過失がなかったことを裏付ける」
私は頷きました。
法律の条文は、番号を多く並べれば勝てるわけではありません。
どの条文に、どの事実が当てはまるのか。
そこを間違えてはいけないのです。
「ところで、先輩」
私は帳簿を閉じながら尋ねました。
「黒田さんは、どうして解任されたんでしょう?」
「気になるか」
「はい」
「俺もだ」
相馬先輩は、昨日のメモを取り出しました。
「野村さんから事情を聞いてもらったところ、黒田は社長と揉めて辞めたらしい」
「揉めた?」
「ああ。支店の仕入れ方針をめぐってな」
「じゃあ、腹いせに勝手な注文を?」
「その可能性もある」
私は考えました。
もし、黒田が会社に損害を与えるために注文したのだとしたら。
それでも会社が責任を負うのでしょうか。
そして、もう一つ。
「先輩」
「何だ」
「黒田さんが、もう支配人じゃないことを野村さんが知っていたら?」
「話は変わる」
「ですよね」
「知っていれば、百十二条による保護は受けられねえ」
「知らなかったとしても、普通なら気づけた事情があれば?」
「過失が問題になる」
私は頷きました。
つまり。
黒田が怪しい行動をしていたかどうかは、重要です。
たとえば。
いつもと違う個人口座へ代金を払えと言った。
会社とは無関係な倉庫へ商品を運べと言った。
突然、何千万円もの仕入れを注文した。
会社へ確認するな、と不自然に口止めした。
そんな事情があれば、相手方にも注意が必要になるでしょう。
「でも、今回の注文には、そういう不自然さがありません」
「まだ断定するな」
「はい」
先輩は窓の外を見ました。
「こはる。納品書をもう一度見ろ」
「納品書?」
「誰が受け取った」
私は書類を確認しました。
――丸福洋装 本店倉庫。
――受領者 倉庫主任・田辺。
受領印。
「田辺さんです」
「その人は今も勤務してるそうだ」
「じゃあ……」
「少なくとも、会社の従業員が生地を受け取っている」
「はい!」
「それに、店先を見たろ」
「店先?」
昨日、丸福洋装を訪れたとき。
ガラス窓に飾られていた秋物の婦人服。
深い緑色。
細い金色の模様。
……あれ?
「先輩!」
「気づいたか」
「あの服!」
私は立ち上がりました。
「野村さんの注文書に書いてある生地と、同じ柄じゃありませんか!」
「可能性はあるな」
「会社が使ってるんじゃ!」
「だから確認する」
先輩は冷静でした。
「見た目だけで同じ商品と決めるな。反物番号と納品伝票を照合するんだ」
「はい!」
私たちは、澄江さんに商品見本帳と出荷台帳を持参してもらいました。
そして、丸福洋装の店頭に並んでいた商品について、公開されている商品札の品番を確認しました。
照合すると。
同じ柄。
同じ生地番号。
納品先は、丸福洋装。
さらに澄江さんは、倉庫主任から受け取った検品済みの控えも持っていました。
「……これ、会社は商品を受け取って、使っている可能性が高いですね」
私は呟きました。
相馬先輩は頷きました。
「ただし、ここで勝手に『会社が追認した』と決めつけるなよ」
「え?」
「商品の受領や使用は重要な事情だ。だが、誰が何を知って受け取ったのか、会社として契約を認める意思があったのかは、別に検討が必要だ」
「……はい」
なるほど。
受け取ったから、即追認。
そう単純にはいかない。
でも。
会社が生地を受け取り、商品に使っていながら。
代金の支払いだけ拒む。
そんな姿勢には、別の法的な問題も生じ得ます。
「先輩」
「何だ」
「これ、社長が思っているより、かなり危ない状況じゃありませんか」
「ああ」
相馬先輩は帳簿を閉じました。
「そろそろ、所長に見せるぞ」
いよいよ。
反撃の準備が整ってきました。
夕方。
片桐行政書士事務所。
私の前には、白い便箋。
黒いインク。
そして。
昭和六十三年の六法全書。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「通知書の原案を書きなさい」
「はい!」
私は鉛筆を握りました。
表見代理。
民法百十二条。
今回の事件の中心です。
私は勢いよく書き始めました。
――丸福洋装は、黒田昭夫の無権代理行為について表見代理責任を負う。
――よって、直ちに百二十万円を支払え。
「できました!」
「早いな」
相馬先輩が覗き込みます。
そして。
「駄目だ」
「早っ!」
「肝心なことが何も書いてねえ」
「ええっ!」
「何で表見代理が成立するんだ?」
「それは……」
「代理権があったことを、どう立証する?」
「……」
「解任前の権限の範囲は?」
「……」
「野村さんが解任を知らなかったことは?」
「……」
「知らなかったことに過失がない根拠は?」
「……」
私は黙りました。
相馬先輩は鼻で笑いました。
「条文番号を書いただけで金が取れるなら、六法全書を郵送すりゃ済むんだよ」
「ぐっ……!」
悔しい。
でも、そのとおりです。
民法百十二条。
ただ書くだけでは、何の意味もない。
今回の事実が、その条文に当てはまることを示さなければならない。
「もう一回です!」
「そうしろ」
私は原案を書き直しました。
まず。
黒田が過去に代理権を持っていたこと。
そして。
代理権が消滅したこと。
その後。
野村さんが、その消滅を知らず、知らなかったことに過失もなかったこと。
さらに。
今回の注文が、従来の代理権の範囲内だったこと。
これを、一つずつ証拠と結びつけます。
書き直していると。
所長が六法を開きました。
「こはる」
「はい」
「百十二条を読んでみなさい」
私は条文を目で追いました。
昭和六十三年の民法百十二条。
――代理権ノ消滅ハ善意ノ第三者ニ対抗スルコトヲ得ス。但第三者カ過失ニ因リテ其事実ヲ知ラサリシトキハ此限ニ在ラス。
「……うわあ」
「何だ」
「漢字と片仮名がすごいです」
相馬先輩が呆れました。
「条文を読め」
「読んでます!」
旧民法の文語体。
現代の受験生には、なかなか手強い相手です。
私は頭の中で、言葉を置き換えました。
代理権が消滅したことは、善意の第三者に対抗できない。
ただし。
第三者が過失によって知らなかった場合は、別。
「つまり……」
私は顔を上げました。
「本人が、取引相手に対して『代理権はもうない』と主張できなくなる場合があるんですね」
「そうだ」
「黒田さんは解任されていた。でも、野村さんが善意無過失なら、丸福洋装は代理権の消滅を理由に責任を逃れられない」
「そのとおりだ」
片桐所長が頷きました。
「ただし、今回の取引が、従来の代理権の範囲内だったことも重要だ」
「はい!」
私は書きました。
黒田の従来の仕入れ権限。
通常、月額五十万円から百五十万円程度。
今回の注文。
百二十万円。
従来と同じ商品。
従来と同じ注文書。
従来と同じ納品先。
これは強い。
かなり強い。
「所長」
「何だ」
「もし黒田さんが、解任後に突然、お店の建物を売却していたら?」
「それは別の検討が必要だ」
「やっぱり!」
仕入れの代理権があった。
だからといって。
不動産の売却権限まで当然にあったわけではありません。
今回のように、以前の権限の範囲内で契約した場合と。
以前の権限を超える契約をした場合。
表見代理の成立要件は、同じではないのです。
「先輩」
「何だ」
「現代なら、百十二条二項の問題になり得るところですね」
「また二項か」
「あっ」
「今は昭和六十三年だぞ」
「はい!」
私は慌てて口を閉じました。
相馬先輩がため息をつきます。
「昔から権限消滅後に権限外の行為までした場合は、判例上、百十二条と百十条の重なりが問題になってきた。だが、今ここで必要なのは、何だ?」
「……従来の権限の範囲内であったことを示す証拠です」
「よし」
難しい話は、法理編で整理するとしましょう。
今は。
目の前の百二十万円を守ること。
それが最優先です。
二時間後。
机の上には、内容証明郵便の原案が置かれていました。
差出人。
野村澄江。
宛先。
丸福洋装店代表者・福永重蔵。
文面は、短く。
しかし。
必要な事実を、一つも落とさず記載しました。
私は声に出して読みました。
「第一。本件注文は、昭和六十三年九月十七日、丸福洋装店の代理人として行動した黒田昭夫によってなされたものである」
「うん」
「第二。黒田昭夫は、それ以前、貴店の商品仕入れについて代理権を有し、長年にわたり通知人との間で継続的に売買契約を締結していた」
「続けろ」
「第三。貴店代表者は、昭和五十九年四月付書面により、黒田昭夫を商品仕入れ担当者として通知人に紹介している。また、従来の注文に対して貴店が継続して代金を支払っていた事実がある」
相馬先輩が頷きました。
「そこが効く」
私は続けます。
「第四。貴店は昭和六十三年九月十日をもって黒田昭夫の代理権が消滅したと主張する。しかし、通知人は本件注文時、その事実を知らず、従来の取引状況及び注文の態様に照らし、これを知らなかったことについて過失はない」
私は息を吸いました。
「第五。本件注文は、従来の仕入れ商品及び取引規模の範囲内に属するものである」
「よし」
「第六。よって、民法第百十二条により、貴店は代理権の消滅をもって通知人に対抗することができず、本件売買契約に基づく代金支払義務を負うものと考える」
部屋が静かになりました。
私は次を読みました。
「第七。通知人は、契約に従って代金百二十万円相当の商品を貴店指定倉庫へ納入しており、貴店従業員による受領の記録が存在する」
「うん」
「第八。ついては、本書到達後十四日以内に、未払代金百二十万円を指定口座へ支払われたい」
そして最後。
――右期限までに支払いがなされない場合、通知人は弁護士に相談のうえ、代金請求訴訟その他の適切な法的措置を検討する。
私は読み終えました。
「……どうでしょうか」
相馬先輩は黙っています。
片桐所長も、じっと書面を読んでいました。
……。
長い。
沈黙が長い。
私は不安になりました。
「また全部やり直しですか?」
所長が口を開きました。
「いや」
「……!」
「筋は通っている」
「本当ですか!」
「ああ」
相馬先輩も頷きました。
「これなら、相手は簡単に『代理権がなかった』だけでは済まなくなる」
「はい!」
「だが、まだ直すところがある」
「ええっ!」
先輩は一か所を指差しました。
「『過失はない』って断定するなら、その裏付けをもっと具体的に書け」
「あ……」
「取引実績がどうだったか。解任の通知があったか。注文方法が変わったか」
「はい」
「相手が読んで、どの事実を争わなきゃならないのか分かるようにしろ」
私は頷きました。
内容証明。
それは魔法の紙ではありません。
送っただけで勝てるわけでもない。
ただ、主張する内容と日付を明確な形で相手に届け、証拠として残す手段です。
だからこそ。
何を主張するのか。
どんな根拠があるのか。
そこが大切なのです。
「もう一つ」
所長が言いました。
「判例も確認しておきなさい」
「はい!」
「旧法百十二条については、代理権が消滅した後の取引相手を保護する判例の考え方がある。もちろん、従来の代理権の範囲や、相手方の過失の有無を具体的に判断しなければならない」
「はい」
「条文に当てはまりそうだから勝てる、と決めつけてはいけない」
私は深く頷きました。
片桐所長は、書面を机に置きました。
「法律上の主張があることと、裁判でその主張が認められることは別だ」
「……はい」
「だから、証拠を揃える」
所長は静かに言いました。
「野村さんの取引台帳。社長からの紹介状。過去の注文書。代金の入金記録。今回の納品書。すべて整理して保管しなさい」
「はい!」
相馬先輩が笑いました。
「これだけ材料があるのに、社長は『解任したから払わない』しか言ってねえ」
「そうですね」
「だが、裁判になれば、その一言で終わるとは限らねえ」
私は完成した原案を見ました。
百二十万円。
澄江さんと娘さんが、必死に働いて納めた生地の代金。
その百二十万円を、取り戻すための書面。
私は思いました。
法律の言葉は冷たく見える。
善意。
無過失。
代理権。
表見代理。
でも。
その一つ一つの言葉が。
誰かの生活を守るための条件になっているのです。
内容証明郵便を発送してから、五日後。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『福永だ』
低い声。
丸福洋装の社長です。
私は背筋を伸ばしました。
「お世話になっております」
『片桐さんはいるか』
「少々お待ちください」
所長が受話器を取りました。
「片桐です」
『……あの書面だが』
「はい」
『百十二条というのは、本当にああいう法律なのか』
「通知書に記載した法律上の根拠については、旧民法の規定をご確認ください」
『……弁護士に見せた』
私は思わず顔を上げました。
相馬先輩も、新聞から目を離しました。
『弁護士が言うんだよ』
社長の声が小さくなります。
『黒田に仕入れの代理権があったことは、これまでの取引から見ても争いにくいって』
所長は黙って聞いています。
『しかも、解任を通知していない』
「はい」
『いつもと同じ取引だったなら、野村さんが知らなかったことに過失がないと判断される可能性がある、と』
私は拳を握りました。
来た。
来ました。
社長が、民法の本当の怖さに気づき始めています。
『それに……』
「はい」
『注文した生地を、うちの支店がもう使っているらしい』
……!
やっぱり。
『倉庫主任も、いつもの仕入れだと思って受け取ったと』
所長は静かに言いました。
「その点も、事実関係の確認が必要でしょう」
『……ああ』
長い沈黙。
それから。
『弁護士には、これ以上争うなら裁判で責任を認められる可能性があると言われた』
社長の声が、さらに小さくなりました。
『負ければ代金だけじゃ済まない。遅延損害金も問題になるし、判決が出ても払わなければ、強制執行を受ける可能性まであると……』
私は受話器を見つめました。
最初、あの社長は言いました。
代理権がない。
だから払わない。
それで終わりだ。
でも。
法律は、そんなに単純ではありません。
『……百二十万円は、払う』
私は息を止めました。
『未払代金として、野村さんの口座へ振り込む』
「そうですか」
『裁判になる前に、済ませたい』
所長は淡々と答えました。
「お支払いについては、野村様ご本人へ書面でお伝えください。当事務所では、そのご連絡をお受けした事実を本人に報告いたします」
『……分かった』
電話が切れました。
私は立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「払うって!」
「ああ」
「百二十万円!」
「ああ」
「やりましたね!」
所長は帳簿を開きました。
「まだだ」
「……あ」
横から相馬先輩が笑いました。
「口約束で喜ぶな」
「またそれですか!」
「入金を確認してから喜べ」
「はい!」
分かっています。
法律の世界では。
相手が支払うと言ったことと。
実際に支払ったことは。
別なのです。
私は、澄江さんへ電話をかけました。
所長が聞いた内容を、事実のまま報告します。
『……本当ですか』
受話器の向こうで、澄江さんの声が震えました。
「はい。ただし、まだ入金は確認できていません。社長さんから正式な連絡が届くと思います」
『ありがとうございます……』
声が詰まります。
『娘にも、伝えていいでしょうか』
「もちろんです」
『あの子、ずっと心配していたんです』
私は唇を噛みました。
『お母さん、もう店を閉めるのって……』
胸が、ぎゅっとなりました。
百二十万円。
大きな会社の社長には、ただの数字かもしれません。
でも。
小さな商店にとっては。
給料。
仕入れ。
家賃。
そして。
明日も商売を続けられるかどうか。
その全部が詰まったお金なのです。
三日後。
丸福洋装から、野村商店の口座へ百二十万円が振り込まれました。
支払通知書も届きました。
澄江さんは、娘さんと一緒に事務所へ来ました。
「ありがとうございました!」
二人は深々と頭を下げました。
「おかげで、職人さんへの支払いができます」
私は笑いました。
「よかったです!」
澄江さんの娘さんは、二十歳くらい。
少し緊張した表情で、私に尋ねました。
「あの……一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「黒田さんは、やっぱり悪いことをしたんですよね」
私は少し考えました。
「実際に代理権がなくなっていたのに、会社の代理人として契約したのなら、無権代理行為です」
「じゃあ、お店が悪くない可能性もあるんですか?」
「あります。表見代理が成立するとは限りませんから」
娘さんは首を傾げました。
「でも、今回は会社が払いましたよね」
「はい」
私は注文書を見ました。
「それは、野村さんが黒田さんに代理権があると信じたことについて、法律上の保護を受けられる可能性が高かったからです」
「信じたことが、守られたんですね」
「そうです」
私は続けました。
「もちろん、何でも信じればいいわけじゃありません。でも、今までずっと会社の代理人として取引していた人が、いつもと同じ注文書を持ってきたら、普通は信用しますよね」
「はい」
「その権限が、取引先に知らされないまま消えていた。そういうとき、知らなかった取引先に全部の損失を負わせてよいのか。それを考えるのが表見代理なんです」
娘さんは、しばらく黙っていました。
それから。
「……よかった」
小さく呟きました。
「何がですか?」
「母が、人を信じたから損をするんじゃなくて」
娘さんは、澄江さんの手を握りました。
「今まで真面目に商売してきたことが、ちゃんと意味のある証拠になったんだって思えて」
私は言葉に詰まりました。
……ああ。
そうか。
今回の事件。
野村さんを守ったのは、民法百十二条だけではありません。
三年間の取引台帳。
四年前の紹介状。
何度も交わした注文書。
毎月の支払い記録。
それらが、全部。
誠実に商売してきた証拠になったのです。
相馬先輩が口を開きました。
「野村さん」
「はい」
「次からは、取引先の担当者が変わったって話を聞いたら、会社にも確認するようにしてください」
「はい」
「注文書も、支払記録も、今までどおり全部取っておくことです」
「分かりました」
「書類は、困ったときの命綱になる」
澄江さんは、深く頷きました。
「主人も、いつも言っていました」
「何と?」
「商売は信用だけど、信用を残すのが帳簿だって」
相馬先輩は少し笑いました。
「いいご主人だったんですね」
「はい」
澄江さんの目に涙が浮かびました。
「本当に、そう思います」
私は机の上の帳簿を見ました。
古い。
重い。
数字だらけ。
でも。
その帳簿がなければ、今回の表見代理を裏付けるのは、ずっと難しかったかもしれません。
法律は、事実の上に立っている。
そして。
事実は、誰かが残した記録の中に眠っているのです。
二人が帰ったあと。
私は六法を開きました。
「相馬先輩」
「何だ」
「表見代理って、すごいですね」
「また始まったな」
「だって!」
私は勢いよく言いました。
「代理権がないのに、本人が責任を負うことがあるんですよ!」
「そうだな」
「普通に考えたら、ちょっと不思議です」
「何でだ?」
「本人が契約したわけじゃないですし、正式な代理権もなかったわけですから」
相馬先輩は煙草を取り出しました。
「じゃあ逆に聞くぞ」
「はい!」
「会社の社長が、ある人間に仕入れの代理権を与えたとする」
「はい」
「十年間、その人間に取引を任せた」
「はい」
「取引先は、それを信じて商売した」
「はい」
「ある日、社長がこっそり代理権を取り消した」
「はい」
「でも、取引先には教えなかった」
「はい」
「それなのに、取引先が従来どおり注文を受けて商品を納めたら、社長は『もう権限がなかった』と言って代金を払わない」
先輩は私を見ました。
「それでいいと思うか?」
「……思いません」
「だろ」
私は頷きました。
なるほど。
代理権があるかないか。
それだけではない。
代理権があるように見える状態があった。
その状態を信じたことに、落ち度がなかった。
そして、その外観と本人との間に、法律上責任を負わせるべき関係があった。
だから。
取引の安全を守るため、本人に責任を負わせる場合がある。
「でも先輩」
「何だ」
「もし今回、野村さんが黒田さんの解任を知っていたら?」
「百十二条は使えねえ」
「知らなくても、解任を知らせる手紙が届いていたのに、ろくに確認しなかったら?」
「過失が問題になる」
「仕入れの権限しかなかった黒田さんが、突然お店の土地を売ったら?」
「そいつは権限外の行為だ。別の要件を考えなきゃならねえ」
私は頷きました。
表見代理。
全部同じではありません。
代理権を与えたように表示した場合。
代理権の範囲を超えた場合。
代理権が消滅した後の場合。
さらに、それらが重なる場合。
状況によって、問題になる条文も要件も違います。
「……なんだか、急に試験問題が見えてきました」
「何だそりゃ」
「表見代理って、パターンだけ丸暗記しても危ないんですよ!」
私はノートを取り出しました。
「まず、本当に代理権があるのか」
「うん」
「なければ、どうして相手方があると信じたのか」
「うん」
「その信頼を、法律が保護するだけの条件があるのか」
「そうだ」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして、答えました。
「代理権がないからといって、必ず本人が責任を免れるわけではない、です」
「うん」
「でも、信じたからといって、必ず保護されるわけでもない」
「そうだ」
「本人が作った外観や、相手方の善意無過失が大切なんですね」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は、ノートの最後に一行を書きました。
――表見代理は、権限のない行為でも、正当な信頼を守るために本人へ責任を負わせる仕組み。
うん。
今日の教訓。
これなら忘れません。
そのとき。
相馬先輩が、突然言いました。
「ところで、こはる」
「はい?」
「俺がお前に、事務所の掃除を任せたとする」
「……はい?」
「そのあと、所長から『こはるに掃除させるな』と言われた」
「はい」
「でも、お前はそれを知らずに掃除した」
「はい?」
「さて、俺はどうなる?」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「それ、表見代理の問題じゃありませんよね?」
「ほう」
「私は先輩の代理人として、誰かと法律行為をしているわけじゃありません!」
相馬先輩が笑いました。
「正解」
「えっ!」
「代理権があるように見えるだけじゃ駄目だ。そもそも代理行為が問題になる場面か、そこから考えろ」
私は得意になりました。
「ふふん!」
「で、掃除は?」
「……え?」
「昨日の床、まだ汚れてるぞ」
「それとこれとは別です!」
片桐所長が奥から言いました。
「こはる」
「はい!」
「掃除を頼む」
「……所長!」
「何だ」
「私の同意は!」
「もちろん、引き受けるかどうかは君に聞いている」
私は固まりました。
相馬先輩が吹き出します。
「どうする?」
「……やります!」
「いい返事だ」
「でも先輩!」
「何だ!」
「今回、代理人としてじゃなく、私自身の意思で掃除しますからね!」
「分かった分かった」
私は箒を手に取りました。
窓の外。
昭和六十三年の商店街に、夕暮れの明かりが灯り始めています。
丸福洋装の大きな看板。
野村商店の小さな暖簾。
規模は違う。
力も違う。
けれど。
民法が守ろうとしているのは、会社の大きさではありません。
契約の向こうにある、人と人との信頼です。
知らなかった代理権の消滅。
十年間の取引。
一枚の注文書。
そして。
百二十万円という、小さな商店の明日を左右する代金。
私は箒を止め、ノートを見ました。
――表見代理。
代理権が、あるように見える。
でも。
ただ見えるだけでは足りない。
なぜ、そう見えたのか。
誰が、その外観を作ったのか。
相手方は、信じても無理のない立場だったのか。
そこまで考えて、初めて。
法律は、信頼を守るために動き出すのです。
「こはる!」
相馬先輩が呼びました。
「はい!」
「掃除が止まってるぞ!」
「今、民法百十二条について深く考察していたんです!」
「箒を動かしながら考えろ!」
「難しいですよ!」
「お前ならできる!」
「そこでだけ信用しないでください!」
先輩が笑いました。
私も笑いました。
信用されるのは、ありがたいことです。
でも。
信用には、責任が伴うこともある。
今日の事件で、それを学びました。
だから。
次に誰かが、
「その人には、もう代理権がありませんでした」
と言ってきたら。
私は、すぐに諦めたりしません。
まず尋ねるのです。
以前は、どんな権限があったのですか。
それが消えたことを、相手は知っていましたか。
知らなかったことに、落ち度はありませんでしたか。
その三つを聞くだけで。
さっきまで勝ち誇っていた相手の顔色が、変わることがある。
だって。
民法は。
こっそり代理権を取り消した人の都合だけで、長年積み重ねた信用を消せるほど。
薄っぺらい法律ではないのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




