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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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452/701

[無権代理と相続]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 同じ土地を、同じ人が勝手に売った。


 それなのに。


 父親が先に死ぬか。


 息子が先に死ぬか。


 それだけで、法律上の結論が変わることがあります。


 しかも。


 相続人が一人増えると、また変わる。


 相続が二回続くと、さらに変わる。


 ……。


 民法って、意地悪なのでしょうか。


 いいえ。


 そこには、ちゃんと理由があります。


 大切なのは。


 誰が、誰の法律上の地位を受け継いだのか。


 そして。


 自分で勝手に契約した人と、他人が勝手に契約したせいで巻き込まれた人を、同じように扱ってよいのか。


 その違いなのです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机の上に、四枚の紙を並べていました。


 一枚目。


 無権代理人が死亡し、本人が単独相続。


 二枚目。


 本人が死亡し、無権代理人が単独相続。


 三枚目。


 本人が死亡し、無権代理人と他の相続人が共同相続。


 四枚目。


 無権代理人が死亡し、その相続人が後から本人も相続。


「……無理です」


 私は呟きました。


「何がだ」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「全部、似てるんですよ!」


「何が」


「無権代理と相続です!」


「ああ」


「父が死んで、息子が相続して、母が相続して、また父が死んで……」


「父親を何回殺す気だ」


「違います!」


 私は机を叩きました。


「事例を整理してるんです!」


「だったら、ちゃんと整理しろ」


「それができないから困ってるんです!」


 相馬先輩は、煙草をくわえました。


「じゃあ、昨日の婆さんを思い出せ」


 私は手を止めました。


 村瀬和子さん。


 六十三歳。


 亡くなった夫が大切にしていた梅林を、守ろうとした女性です。


 息子の修一さんが、父親の土地を勝手に大黒不動産へ売ってしまった。


 代理権は、ありません。


 いわゆる無権代理。


 その後。


 息子が死亡。


 父と母が、息子を共同相続。


 さらに父が死亡。


 母が父を単独相続。


 結果として、母は無権代理人の地位と、本人の地位の両方を受け継ぐことになりました。


 そして。


 最高裁昭和六十三年三月一日判決。


 この判例の考え方が、大きな壁になったのです。


「和子さんの事件、忘れられません」


 私は言いました。


「そうだろうな」


「だって、息子さんが勝手にした契約なのに……」


「それでも相続の問題は残る」


「はい」


 私はノートを開きました。


 表紙には、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「今日は、絶対に整理します!」


「昨日も言ってたな」


「昨日は現場です! 今日は法理です!」


「便利な言い訳だな」


 そのとき。


 奥から片桐所長が現れました。


「相馬」


「はい」


「まず、基本からだ」


「分かってますよ」


 所長は私を見ました。


「こはる」


「はい!」


「そもそも無権代理とは何だ」


 私は姿勢を正しました。


 よし。


 そこからなら、分かります。


 私はノートの一番上に、大きく書きました。


 ――無権代理。


「無権代理とは、代理権のない人が、他人の代理人として法律行為をすることです!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「たとえば?」


「父親の土地を、息子が勝手に売る!」


「今回の事件だな」


「はい!」


 私は三人の名前を書きました。


 父親A。


 土地の所有者。


 息子B。


 無権代理人。


 買主X。


 そして矢印。


 BがAの代理人と称して、Xに土地を売却。


「このとき、原則としてどうなる?」


 先輩が聞きました。


「本人Aが追認しなければ、本人Aには効力が生じません!」


「何条だ」


「民法百十三条です!」


 よし。


 ここは、昭和六十三年でも現代でも、基本的な考え方は同じです。


 代理権がない人が、勝手に他人の財産を売った。


 だからといって。


 本当の所有者が、当然に土地を失うわけではありません。


 本人が追認すれば、原則として契約時にさかのぼって効力が生じる。


 追認しなければ、本人に効力は及ばない。


「つまり、本人には選択権があるんですね」


「そうだ」


「勝手に契約された人を守るためです」


 私は赤線を引きました。


 すると、相馬先輩が言いました。


「じゃあ、買主Xは泣き寝入りか?」


「いいえ!」


 私は別の条文を開きました。


 民法百十七条。


 無権代理人の責任。


「代理権があると信じて契約した相手方も、保護する必要があります!」


「そうだ」


「だから、要件を満たすと、無権代理人は相手方に対して履行または損害賠償の責任を負います!」


 もちろん、例外はあります。


 相手方が代理権のないことを知っていた場合などです。


 また、無権代理人が責任を負う場面と、本人に契約の効力が及ぶ場面は別です。


 だから。


 本人Aが追認拒絶できたとしても。


 無権代理人Bの責任まで、当然に消えるわけではありません。


「そこが今回の入口ですね」


 私が言うと、所長が頷きました。


「そうだ」


 そして、所長は一言だけ付け加えました。


「相続が起きても、その区別を忘れるな」


 私は鉛筆を止めました。


 なるほど。


 契約の効力。


 無権代理人の責任。


 この二つを混同すると、相続が登場した瞬間に分からなくなるのです。


「では、一つ目」


 私は最初の紙を取りました。


 ――無権代理人Bが死亡し、本人Aが単独相続した場合。


「まず、父親Aが土地を持っています」


「うん」


「息子Bが勝手に売ります」


「うん」


「その後、息子Bが死亡します」


「それで?」


「父親Aが、息子Bを単独相続します」


 私は少し考えました。


「この場合、父親Aは追認拒絶できます!」


「正解」


 相馬先輩が頷きました。


 よし。


 最高裁昭和三十七年四月二十日判決です。


「でも、先輩」


「何だ」


「どうして追認拒絶できるんですか?」


「自分で勝手に売ったわけじゃねえからだ」


 私は、はっとしました。


 そうです。


 父親Aは、最初から土地の所有者でした。


 息子に代理権を与えていない。


 勝手に売られた被害者です。


 その息子が死亡したからといって。


「息子を相続したんだから、もう土地を渡せ」


 となったら。


 あまりにも理不尽です。


「本人Aは、もともと追認するかどうか決められる立場だったんですね」


「そうだ」


「息子を相続したからといって、その自由を奪われるわけではない」


 所長が頷きました。


「追認拒絶は、信義則に反しない」


 私は大きく丸をつけました。


 ――本人が無権代理人を相続。


 ――追認拒絶できる。


「じゃあ、完全に父親の勝ちですね!」


「待て」


 相馬先輩が言いました。


「何を忘れた」


「……え?」


「百十七条だ」


 あ。


 私は顔を上げました。


 無権代理人の責任。


 そうでした。


 父親Aは、本人として追認拒絶できる。


 でも、息子Bの法律上の責任も相続しています。


 つまり。


「土地の売買契約については追認拒絶できても、息子Bが負っていた損害賠償債務などは相続するんですね!」


「そうだ」


「ただし、百十七条の責任が成立することが前提」


「ああ」


 私はノートに書きました。


 父親は、土地を守れる。


 でも、息子の責任まで消せるわけではない。


「……ややこしい!」


「当然だろ」


 相馬先輩が言いました。


「土地を渡す義務と、損害賠償をする義務は別なんだからな」


 私は頷きました。


 なるほど。


 本人としての立場。


 無権代理人の相続人としての立場。


 同じ人の中に、二つの地位が存在している。


 だから。


 追認拒絶できることと、損害賠償責任を相続することは、矛盾しないのです。


「ちなみに、先輩」


「何だ」


「父親Aと母親Cが、息子Bを共同相続した場合は?」


「基本的な考え方は同じだ」


 私は書きました。


 本人Aは追認拒絶できる。


 その一方で、AとCは、それぞれ相続した無権代理人Bの債務について責任を負う。


「損害賠償債務が通常の可分金銭債務なら、法定相続分に応じて承継するのが原則ですね」


「ああ」


 つまり。


 共同相続になったからといって、本人Aが追認拒絶できなくなるわけではない。


 ただし、無権代理人の責任の承継は、別に残る。


「ここ、行政書士試験でひっかけられそうです」


「どんなふうに?」


「『本人が無権代理人を相続したので、追認拒絶できず、契約が当然に有効になる』とか!」


「間違いだな」


「はい!」


 私は赤線を引きました。


 ――本人が無権代理人を相続しても、追認拒絶できる。


 まず、一つ目は突破です。


「次は二つ目」


 相馬先輩が、二枚目の紙を指差しました。


「今度は逆だ」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――本人Aが死亡し、無権代理人Bが単独相続した場合。


 父親Aが土地を持っている。


 息子Bが勝手に売る。


 その後。


 父親Aが死亡。


 息子Bが、父親を単独相続する。


「この場合は?」


 相馬先輩が聞きました。


「無権代理行為が有効になります!」


「そうだ」


 最高裁昭和四十年六月十八日判決。


 私は日付を囲みました。


「でも、どうして逆になるんですか?」


「考えてみろ」


 先輩が言いました。


「息子Bは、自分で土地を売ったんだろ」


「はい」


「その後、父親が死んで、土地の権利を受け継いだ」


「はい」


「そこで息子が何と言ったらおかしい?」


 私は少し考えました。


 そして、息子になりきって言いました。


「えー、あのとき僕、代理権なかったんで! 売買契約は認めませーん!」


 相馬先輩が、じろりと見ました。


「腹立つな」


「自分で演じてて腹が立ちます!」


 でも。


 これこそ、問題の核心です。


 自分で代理人だと称して、土地を売っておきながら。


 あとから本人の地位を相続した途端、


「代理権がなかったから、やっぱり売りません」


 と主張する。


 そんなことを認めたら。


 買主Xは、たまったものではありません。


「そこで信義則ですね!」


「そうだ」


 民法一条二項。


 信義誠実の原則。


 権利を行使し、義務を履行するときは、信義に従い誠実に行わなければならない。


「自分で売っておきながら、あとから無権代理を理由に逃げるのは、不誠実だということですね」


 所長が頷きました。


「最高裁は、本人が自ら法律行為をしたのと同様の法律上の地位を生じると考えた」


「なるほど!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――無権代理人が本人を単独相続。


 ――無権代理行為は有効になる。


 ここで私は気づきました。


「先輩!」


「何だ」


「一つ目との違い、分かりました!」


「言ってみろ」


「一つ目は、勝手に売られた人が相続する!」


「うん」


「二つ目は、勝手に売った人が相続する!」


「そうだ」


「だから、追認拒絶を認めるべきかどうかが違うんですね!」


 相馬先輩が頷きました。


「そこだ」


 私は少し嬉しくなりました。


 単なる丸暗記ではありません。


 自分で無権代理行為をした人なのか。


 他人が無権代理行為をしたせいで巻き込まれた人なのか。


 この違いが、結論を左右する。


 それなら、忘れにくいです。


「ちなみに」


 所長が言いました。


「ここでいう有効は、あくまで無権代理という問題についてのものだ」


「はい?」


「売買契約に別の無効原因があれば、別途検討が必要だ」


「あ、なるほど!」


 意思能力。


 錯誤。


 詐欺。


 強迫。


 その他の問題。


 無権代理による効力の障害が解消しても、ほかの法律問題まで自動的に消えるわけではない。


「一つの判例で、何でも解決したつもりになるな」


 所長の言葉に、私は頷きました。


「では三つ目」


 私は三枚目の紙を取りました。


 ――本人Aが死亡し、無権代理人Bと他の相続人Cが共同相続した場合。


「これが苦手なんですよ!」


「どうしてだ」


「一人増えるだけで、急に難しくなるんです!」


 私は図を書きました。


 父親A。


 土地の所有者。


 息子B。


 無権代理人。


 娘C。


 無権代理行為には関与していない。


 息子Bが、父親Aの土地を勝手に売る。


 その後、父親Aが死亡。


 息子Bと娘Cが共同相続。


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「契約は当然に有効になるか?」


 私は答えました。


「なりません!」


「理由は?」


「他の共同相続人Cがいるからです!」


 私は大きく丸を描きました。


 ここが、重要です。


 息子Bは、自分で無権代理行為をしています。


 だから、自分の立場では追認拒絶できません。


 しかし。


 娘Cは、何もしていません。


 兄が勝手に土地を売ったからといって。


 妹まで、当然にその契約に拘束されるのはおかしい。


「つまり、Cの立場も守る必要があるんですね」


「そうだ」


 そして。


 ここで登場するのが、追認権の不可分性です。


 私はノートに大きく書きました。


 ――共同相続人全員の追認が必要。


「共同相続人が本人の地位を受け継いだ場合、追認権は不可分的に帰属するんですね」


「ああ」


「だから、無権代理人Bが相続人になっても、B一人で契約全体を有効にできるわけではない」


 私は頷きました。


 Cの追認がない限り。


 無権代理行為は、共同相続人全員との関係で有効にはならない。


「じゃあ先輩」


「何だ」


「Cが追認を拒絶したら?」


「契約全体の有効化はできねえ」


「ですよね!」


「じゃあ逆に」


 先輩が言いました。


「Cが追認したら?」


 私は答えました。


「Bは追認拒絶できません!」


「そうだ」


 自分で無権代理行為をしたBは、後から本人の地位を相続したことを利用して、契約から逃げられない。


 そして、他の共同相続人全員が追認すれば。


 無権代理行為は有効となる。


「つまり」


 私は鉛筆で囲みました。


 共同相続では、他の相続人を勝手に拘束しない。


 一方、自分で無権代理行為をした者が、追認拒絶によって逃げることも認めない。


「両方を守るための仕組みなんですね!」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 私は感心しました。


 民法。


 単に悪い人を罰する法律ではありません。


 一人一人の法律上の立場を、分けて考える。


 無権代理人本人の不誠実な拒絶は許さない。


 でも、関係のない共同相続人の権利は守る。


「……なるほど」


 私は小さく呟きました。


「家族が一人増えると難しくなる理由が、分かりました」


 相馬先輩が笑いました。


「何だ」


「守らなきゃいけない人が増えるんですね」


「そういうことだ」


「さて」


 片桐所長が、四枚目の紙を取りました。


「最後だ」


 私は姿勢を正しました。


 ここが、今回の最大の難所。


 そして。


 村瀬和子さんの事件で、問題になったところです。


 ――無権代理人が死亡し、その相続人が後から本人も相続した場合。


 私はノートに書きました。


 父親A。


 土地の所有者。


 息子B。


 無権代理人。


 母親C。


 息子Bが、父親Aの土地を勝手に売る。


 その後。


 息子Bが死亡。


 父親Aと母親Cが、息子Bを共同相続。


 さらに。


 父親Aが死亡。


 母親Cが父親Aを単独相続。


「これ、和子さんの事件と同じですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「で、Cはどうなる?」


 私は答えました。


「追認拒絶できません」


「理由は?」


 ……。


 私は少し考えました。


「Cは、最初に無権代理人Bの地位を相続しているからです」


「そうだ」


「その後、本人Aの地位を相続したとしても、Bの地位を受け継いだ事実は消えません」


 片桐所長が頷きました。


「最高裁昭和六十三年三月一日判決だ」


 私は、日付を大きく囲みました。


 昭和六十三年三月一日。


 今の私たちにとっては、出たばかりの判例。


 現代の行政書士試験では、重要な基本判例として学ぶものです。


「でも所長」


「何だ」


「C自身は、無権代理行為をしていませんよね」


「そうだ」


「それなのに、どうして拒絶できないんですか?」


 所長は、三枚目と四枚目の紙を並べました。


「順番を見ろ」


 私は見比べました。


 三枚目。


 本人Aが先に死亡。


 無権代理人BとCが共同相続。


 四枚目。


 無権代理人Bが先に死亡。


 本人AとCが共同相続。


 さらに本人Aが死亡。


 Cが相続。


「……あ!」


 私は声を上げました。


「Cが受け継いだ地位の順番が違う!」


「そうだ」


 四枚目では。


 Cは最初に、無権代理人Bの地位を包括的に承継しています。


 その後、本人Aの地位も受け継いだ。


 その結果。


 無権代理人側の地位と、本人側の地位が、Cに集まった。


 最高裁は、このような場合、本人が自ら法律行為をしたのと同様の法律上の地位ないし効果が生じるとしました。


「つまり……」


 私はゆっくり言いました。


「あとから本人の地位を相続したことで、先に受け継いでいた無権代理人の地位を無視することはできないんですね」


「そうだ」


 私は、和子さんの顔を思い出しました。


 息子が勝手に売った土地。


 夫が守ろうとした梅林。


 そして。


 二人を見送ったあと、和子さんが受け継いだ法律上の地位。


「……厳しいですね」


 私が言うと、片桐所長が頷きました。


「厳しい判例だ」


「はい」


「だからこそ、相続の順番を正確に確認しなければならん」


 私はノートに書きました。


 ――無権代理人を相続した者が、その後本人も相続した場合、先に承継した無権代理人の地位を無視して追認拒絶することはできない。


 そして、その下に。


 ――最判昭六三・三・一。


 大きく二重線を引きました。


「でも、所長」


 私は顔を上げました。


「一つ、気になることがあります」


「何だ」


「和子さんのご主人は、生前に追認拒絶をしていましたよね」


「そうだ」


「それなのに、和子さんが後から相続した場合、どう考えるんですか?」


 相馬先輩が新聞を置きました。


「いいところに気づいたな」


 私は驚きました。


「褒めました?」


「まだだ」


「何でですか!」


 片桐所長は静かに言いました。


「先ほどの四つの類型は、判例の基本的な整理だ」


「はい」


「だが、現実の事件では、相続が起きる前に誰が何をしたかも確認しなければならない」


「……追認拒絶の意思表示ですね」


「そうだ」


 本人が生前に、既に追認拒絶した。


 その意思表示が相手方に到達していた。


 さらに、その後、誰がどの地位を相続したのか。


 そうした事情も含めて検討する必要がある。


「つまり、判例の日付と結論だけ覚えて、何でも機械的に当てはめちゃいけないんですね」


「そうだ」


 所長は頷きました。


「和子さんの事件も、実際の権利義務について争うなら、弁護士による個別の検討が必要だ」


「はい」


「判例は重要だ。だが、事実を省略する口実にはならん」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 そして気づきました。


 現場編で、相馬先輩が何度も言っていたこと。


 相手が法律を知っているなら、事実を調べろ。


 あれは、こういう意味だったのです。


 法律の結論は、事実によって決まる。


 似た事例でも。


 誰が、いつ、何をしたか。


 それが一つ違えば、検討すべき問題も変わる。


「なるほど……」


 私は深く頷きました。


「だから、実務では家族関係図と時系列表が重要なんですね」


「そうだ」


 片桐所長が答えました。


「条文を読む前に、誰が何をしたかを正確につかめ」


 私は、ノートの余白に大きく書きました。


 ――相続問題は、時系列が命。


「よし」


 相馬先輩が煙草を消しました。


「ここまで理解したなら、確認問題だ」


「来ましたね!」


「まず一問」


「はい!」


「父親Aの土地を、息子Bが無権代理で売った。その後、Bが死亡してAが単独相続。Aは追認拒絶できるか?」


「できます!」


「Bの損害賠償責任は?」


「要件を満たしてBに責任が成立していれば、Aが相続します!」


「正解」


 私は拳を握りました。


「次!」


「父親Aが先に死亡。無権代理人Bが単独相続した。Bは追認拒絶できるか?」


「できません! 無権代理行為が有効になります!」


「理由は?」


「自分で無権代理行為をしておきながら、本人の地位を相続したあとで効力を否定することは、信義則に反するからです!」


「よし」


 次。


「父親Aが死亡。無権代理人Bと、無権代理行為に関与していないCが共同相続した」


「はい!」


「Cが追認していない。契約は当然に有効か?」


「いいえ!」


「どうしてだ?」


「追認権は不可分で、他の共同相続人全員の追認がなければ、無権代理行為は有効にならないからです!」


「よし」


 次。


「Cが追認した。Bは追認拒絶できるか?」


「できません!」


「理由は?」


「Bは自分で無権代理行為をしているからです!」


 相馬先輩が笑いました。


「最後だ」


「はい!」


「無権代理人Bが死亡。本人AとCがBを共同相続。その後、Aが死亡してCが単独相続した」


 私は深呼吸しました。


「Cは追認拒絶できるか?」


「できません!」


「何判例だ?」


「最高裁昭和六十三年三月一日判決です!」


 私は立ち上がりました。


「できたーっ!」


 相馬先輩が笑いました。


「今度こそ完璧か?」


「はい!」


「本当か?」


「……基本類型については!」


「慎重になったな」


「昨日の事件で学びました!」


 私は笑いました。


 丸暗記だけなら、こうはいかなかったと思います。


 父親が死んだ。


 息子が死んだ。


 共同相続した。


 さらに相続した。


 そんな言葉の並びだけでは、混乱するばかりです。


 でも。


 誰が無権代理行為をしたのか。


 誰が勝手に契約された本人なのか。


 誰がどの地位を相続したのか。


 そこを追えば、理由が見えてくる。


 法律は、単なる暗記科目ではないのです。


「ところで」


 私はノートをめくりました。


「先輩、昭和と令和で、この無権代理と相続のルールは変わったんですか?」


「何だ、また未来の話か」


「重要なんです!」


 私は鉛筆を握りました。


 昭和六十三年。


 民法百十三条。


 無権代理行為の効力。


 民法百十七条。


 無権代理人の責任。


 民法八百九十六条。


 相続の一般的効力。


 そして、信義則。


「基本的な仕組みは、現代でも引き継がれています」


「そうだな」


「ただし、民法百十七条の文言や例外は、令和二年施行の改正で整理されています」


 私は書きました。


 現代の百十七条では、無権代理人の責任を負わない場合について、相手方の悪意や過失、無権代理人自身の行為能力などが、条文上整理されています。


 もっとも、相手方に過失があっても、無権代理人が自分に代理権がないことを知っていた場合には、責任を免れないという例外もあります。


「つまり、現代の条文をそのまま昭和の事件に使うのは危ないんですね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言いました。


「仕事をするなら、その時代の法律で考えろ」


「はい……」


 私は苦笑しました。


 でも、ここで一つ大事なことがあります。


 令和二年の債権法改正で、無権代理と相続の判例法理が、すべて別の制度に変わったわけではありません。


 昭和三十七年。


 昭和四十年。


 昭和四十八年。


 そして昭和六十三年。


 これらの判例で示された基本的な考え方は、現代の民法学習でも重要なのです。


「むしろ、先輩」


「何だ」


「このテーマは、時代が変わっても勉強する価値があるんですね」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 民法は改正されます。


 でも。


 勝手に契約された人を守る。


 取引相手の信頼も守る。


 自分で契約しておきながら、不誠実に逃げることは許さない。


 そのような考え方は、昔も今もつながっています。


 だからこそ、昭和の判例を理解することが、現代の試験勉強にも役立つのです。


 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 私はノートの四枚を、もう一度並べました。


 無権代理人が死亡して、本人が相続。


 本人が死亡して、無権代理人が相続。


 本人が死亡して、共同相続。


 無権代理人が死亡し、その後、本人も死亡。


 最初は全部、同じに見えていました。


 でも、今は違います。


 それぞれに。


 誰を守るべきか。


 どの法律上の地位を承継したか。


 どこまで追認拒絶が許されるか。


 その理由がある。


「所長」


「何だ」


「一行の覚え書き、できました」


「読んでみろ」


 私はゆっくり読み上げました。


 ――無権代理と相続は「本人が代理人を相続したら拒絶できる。代理人が本人を相続したら拒絶できない。共同相続は全員の追認。二度の相続は地位の順番を見る」。


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「えっ!」


「一行に詰め込みすぎだ」


「でも、全部大事なんです!」


 先輩は笑いました。


「じゃあ、もっと短くしろ」


「そんな!」


 私は考えました。


 うーん。


 どうすれば、忘れないでしょうか。


 本人。


 無権代理人。


 相続。


 追認拒絶。


 共同相続。


 地位の承継。


 私は少しだけ考えて、もう一度鉛筆を走らせました。


 そして、書きました。


 ――無権代理は「誰が勝手に売ったか」、相続は「誰の地位を受け継いだか」、結論は「その順番」で決まる。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


 片桐所長が頷きました。


「それでいい」


「本当ですか!」


「ああ」


 相馬先輩が笑いました。


「ただし、具体的な判例の結論は別に覚えろよ」


「分かってます!」


 私はノートを胸に抱えました。


 今日の事件。


 村瀬和子さん。


 息子が勝手に土地を売った。


 父が拒絶した。


 母が二人の地位を相続した。


 そして、法律上の問題が残った。


 それでも。


 相手の不当な請求を見抜き、正しい事実を整理し、最後は双方の合意で土地を守ることができた。


 法律は、何でも思いどおりにしてくれる魔法ではありません。


 でも。


 誰の権利が、どこまで認められるのか。


 その境界を明らかにすることはできます。


 そして、人は。


 その境界を知ることで、これからの選択をすることができるのです。


「さて、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強は終わりだ」


「やったー!」


「だから、机を片付けろ」


「……またですか」


「まただ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「私は、掃除当番の地位を相続した覚えはありません」


「は?」


「昨日、先輩が掃除をすると約束していたはずです!」


「そんな約束してねえよ」


「しました!」


「証拠は?」


 ……。


 私は止まりました。


 証拠。


 書面。


 署名。


 押印。


 ……ありません。


 相馬先輩がにやりと笑いました。


「ほらな」


「くっ……!」


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


「またそれですか!」


 私は悔しくなりました。


 でも、そこでひらめきました。


「先輩!」


「何だ」


「じゃあ、今日から掃除当番表を作ります!」


「は?」


「毎日、担当者にハンコを押してもらいます!」


「何でそんなことを」


「あとから『約束してない』って逃げられないようにするためです!」


 相馬先輩が、露骨に嫌な顔をしました。


「お前な……」


「契約は証拠が大事なんですよね!」


「そうだけどよ!」


「口約束だと、あとから揉めます!」


 私は勢いよく紙を取り出しました。


 ――片桐行政書士事務所・掃除当番確認表。


 月曜日。


 朝比奈こはる。


 火曜日。


 相馬誠司。


 水曜日。


 相馬誠司。


 木曜日。


 相馬誠司。


 金曜日。


 相馬誠司。


「おい!」


 先輩が叫びました。


「何で俺が四日なんだよ!」


「公平に決めました!」


「どこが公平だ!」


「私は見習いですから!」


「関係ねえだろ!」


 私は得意になって言いました。


「先輩、あとから拒絶しないでくださいね!」


「まだ承諾してねえよ!」


「じゃあ、追認してください!」


「何の追認だ!」


 そこへ。


 片桐所長が、帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「掃除当番表を見せろ」


「どうぞ!」


 所長は紙を一瞥しました。


 そして。


「相馬」


「はい」


「火曜日はお前だ」


「えっ!」


「水曜日もお前だ」


「所長!」


「木曜日はこはる」


「はい!」


「金曜日は、交代制だ」


 私は頷きました。


「公平ですね!」


 相馬先輩が呻きました。


「所長まで……」


 所長は、静かに言いました。


「ただし、今日はこはるが掃除だ」


「……えっ」


「昨日の当番を済ませていない」


 私は固まりました。


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほらな!」


「所長!」


「何だ」


「今日の掃除について、追認拒絶したいです!」


「追認の問題ではない」


「……!」


 私は机に突っ伏しました。


 なるほど。


 本人の追認。


 無権代理人の責任。


 相続による地位の承継。


 それらは、勝手に持ち出せば何にでも使える魔法の言葉ではありません。


 まして。


 自分が嫌いな掃除から逃げるための便利な制度でもないのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ほら、箒!」


「分かりましたよ!」


 私は箒を手に取りました。


 窓の外。


 昭和六十三年の町に、夕暮れの灯りがともり始めています。


 きっと今頃。


 和子さんは、あの梅林を見回っているのでしょう。


 夫が育てた梅の木。


 息子と過ごした春の日。


 そして、これからも続く暮らし。


 相続とは。


 亡くなった人が残したものを、受け継ぐこと。


 財産だけではない。


 責任も。


 法律上の地位も。


 場合によっては、複雑な問題まで。


 それでも。


 誰が、どの順番で、何を受け継いだのか。


 そこを正しく理解できれば、守れるものがあります。


 私は、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――無権代理は「誰が勝手に売ったか」、相続は「誰の地位を受け継いだか」、結論は「その順番」で決まる。


 よし。


 これなら、忘れません。


「こはる!」


「はい!」


「ノート見てねえで掃除しろ!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「先輩が勝手に私の掃除当番を引き受けても、私が追認しなければ――」


「俺は引き受けてねえ!」


「ですよね!」


「分かってるなら掃け!」


 ……。


 どうやら。


 無権代理の勉強をしても。


 掃除当番から逃げることはできないようです。


 残念ながら。


 その点については、昭和三十七年の判例も、昭和四十年の判例も、昭和六十三年の最新判例も。


 私を助けてはくれないのでした。


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