[無権代理と相続]現場編 「死んだ息子の契約なんて知らない」の罠。父は拒めたのに、母は拒めない――二度の相続がひっくり返す土地売買の運命
人が死んでも、約束まで死ぬとは限りません。
父親の土地を、息子が勝手に売ってしまった。
当然、そんな契約は認めたくない。
ところが。
息子が先に死ぬか。
父親が先に死ぬか。
それだけで、契約の運命が変わることがあります。
さらに。
息子が死に、父親が死に、残された母親がすべてを相続したら。
どうなるのでしょう。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、民法の恐ろしさを思い知ることになります。
相続とは、財産を受け継ぐこと。
そう思っていました。
でも。
受け継ぐのは、財産だけではありません。
死んだ人が残した、法律上の責任まで引き継ぐことがあるのです。
そして、その責任は。
生きている人の未来を、思いがけない形で縛るのでした。
「息子が勝手に売った土地なのに、どうして私が渡さなきゃいけないんですか!」
朝九時。
事務所に飛び込んできた女性は、開口一番、そう叫びました。
「お、落ち着いてください!」
私は慌てて椅子を勧めました。
女性の名前は、村瀬和子さん。
六十三歳。
白髪交じりの髪をきちんと結い、着古した紺色のカーディガンを羽織っています。
その手には、古びた風呂敷。
中から取り出されたのは、土地の権利証と、何通もの手紙でした。
「これを見てください」
和子さんが一枚の書面を差し出します。
私は読みました。
――土地売買契約履行請求通知書。
――売主村瀬庄吉の相続人である村瀬和子殿に対し、本件土地の所有権移転登記手続を求める。
――指定期日までに応じない場合、訴訟提起及び損害賠償請求を検討する。
差出人。
大黒不動産株式会社。
代表取締役。
黒田銀次。
……。
嫌な名前です。
いや、人を名前で判断してはいけません。
でも、どうしてこういう事件の相手には、いかにも強そうな名前の社長が出てくるのでしょう。
「土地は、和子さんのものなんですか?」
「今は私のものです」
「今は?」
「もともとは主人の土地でした」
和子さんの声が震えました。
「でも、主人は去年亡くなって……」
私は頷きました。
「相続されたんですね」
「はい」
「では、売買契約はご主人が結んだんですか?」
「違います!」
和子さんは首を振りました。
「息子です!」
「息子さん?」
「息子が、主人に黙って土地を売ったんです!」
私は思わず身を乗り出しました。
「代理権は?」
「そんなもの、ありません!」
「委任状は?」
「ありません!」
「ご主人は承諾していたんですか?」
「とんでもない!」
和子さんは、膝の上で拳を握りました。
「主人は、生きている間ずっと言っていました。あの土地だけは売らない、と」
私は権利証を見ました。
土地の所在地は、市の郊外。
小高い丘のふもと。
面積は、およそ三百坪。
古い梅の木が何本も植わっている土地でした。
「主人が、若い頃から手入れしていたんです」
和子さんは小さく笑いました。
「春になると、白い花が咲いて。息子が小さい頃は、よく三人でお弁当を食べました」
その笑顔が、すぐに消えました。
「それなのに……」
和子さんは、もう一枚の紙を取り出しました。
土地売買契約書。
売主。
村瀬庄吉。
代理人。
村瀬修一。
買主。
大黒不動産株式会社。
売買代金。
八百万円。
私は名前を確認しました。
「村瀬修一さんが、息子さん?」
「はい」
「ご主人の代理人として署名しているんですね」
「そうです。でも主人は、何も頼んでいません」
なるほど。
本人から代理権を与えられていないのに、本人の代理人として契約を結んだ。
典型的な無権代理です。
「では、その契約はご主人が追認しない限り、原則としてご主人に効力が及びません」
私が言うと、和子さんの顔が明るくなりました。
「本当ですか!」
「はい!」
よし。
今回は分かりやすい。
無権代理。
民法百十三条。
代理権のない者がした契約は、本人が追認しなければ本人に対して効力を生じない。
「ご主人が承諾していなかったなら、問題ありません!」
私は勢いよく言いました。
「しかも、無権代理人だった息子さんは――」
「亡くなりました」
「……え?」
和子さんが目を伏せました。
「息子は、一昨年亡くなったんです」
私は言葉を失いました。
一昨年。
息子が死亡。
去年。
夫が死亡。
そして現在。
母親が、土地売買契約の履行を求められている。
……。
待ってください。
これ。
単純な無権代理ではありません。
相続が、二回起きています。
私はゆっくり、相馬先輩を見ました。
先輩は新聞を畳みました。
「気づいたか」
「……はい」
「何に?」
「相続の順番が、まずいです」
相馬先輩は、煙草を灰皿に押しつけました。
「まずいって程度じゃねえな」
そして言いました。
「こはる。こいつは、無権代理と相続の地雷原だ」
私は相談票に、家族関係を書きました。
父。
村瀬庄吉。
土地の所有者。
母。
村瀬和子。
息子。
村瀬修一。
そして、買主の大黒不動産。
「息子さんに、お子さんはいらっしゃいましたか?」
「いいえ。結婚もしていませんでした」
「ご兄弟は?」
「修一一人です」
私は頷きました。
息子が亡くなった時点で、子も配偶者もいない。
両親は健在。
だから、息子の相続人は父と母。
つまり。
無権代理人だった修一さんが死亡したとき、本人である庄吉さんと、和子さんが共同相続した。
その後。
庄吉さんが死亡。
庄吉さんの父母はすでに亡くなっており、ほかに子もいない。
妻の和子さんが、庄吉さんの財産を単独相続した。
私は鉛筆を止めました。
「……あれ?」
おかしい。
いや、おかしくはありません。
でも。
私の頭の中で、二つの知識がぶつかりました。
無権代理人が死亡したとき。
本人が相続しても、本人は追認拒絶できる。
これは知っています。
逆に。
本人が死亡し、無権代理人が単独相続したとき。
無権代理行為は、信義則との関係から有効になる。
これも知っています。
では。
無権代理人が死亡。
本人と第三者が共同相続。
その後、本人が死亡。
第三者が本人の地位も相続。
……。
「先輩」
「何だ」
「頭が混乱してきました」
「だろうな」
「これ、相続の順番で結論が変わるやつですよね」
「ああ」
私は六法を開きました。
民法百十三条。
無権代理。
民法百十七条。
無権代理人の責任。
そして。
民法一条二項。
信義誠実の原則。
「所長!」
私は奥に向かって叫びました。
「大変です!」
「聞こえている」
片桐所長が、静かに姿を現しました。
「昭和六十三年の判例を確認したいんです!」
「どの事件だ」
「無権代理人を相続した人が、その後、本人も相続する事件です!」
所長は私を見ました。
そして。
「今年の三月だ」
「……はい?」
「最高裁判決が出ている」
私は固まりました。
今年の三月。
昭和六十三年三月。
つまり。
つい最近!
「そんなに新しい判例なんですか!」
「そうだ」
所長は判例資料の綴りを取り出しました。
「三月一日。お前が知りたがっている問題だ」
私は息を呑みました。
現代の行政書士試験では、過去の重要判例として覚える事件。
でも。
今、この昭和六十三年では。
まさに出たばかりの最高裁判決なのです。
……転生、恐るべし。
未来では古典。
昭和では最新。
私は、歴史の真ん中に立っている気分になりました。
「こはる」
所長が言いました。
「まず、事実を最後まで確認しろ」
「はい!」
「その判例が使えるかどうかは、それからだ」
私は姿勢を正しました。
そうです。
法律は、暗記した判例を当てはめる遊びではありません。
誰が死んだのか。
誰が相続したのか。
どの権利や義務を受け継いだのか。
そこを間違えたら、すべてがひっくり返る。
今回の敵は。
無権代理だけではない。
相続の順番そのものなのです。
「主人は、契約を認めないって、はっきり言っていました」
和子さんが取り出したのは、古い手紙でした。
差出人。
村瀬庄吉。
宛先。
大黒不動産株式会社。
日付は、息子の修一さんが亡くなった翌月。
――私は、息子修一に土地売却の代理権を与えた事実はない。
――本件売買契約について、追認を拒絶する。
――したがって、本件土地の所有権移転には応じない。
私は目を見開きました。
「これ、ご主人が書いたんですか!」
「はい。郵便で送りました」
「控えはありますか?」
「内容証明郵便にしておきました」
……!
私は思わず、片桐所長を見ました。
所長が静かに頷きました。
「それは大きい」
「ですよね!」
単なる口頭の拒絶ではありません。
追認拒絶の意思表示が、書面に残っている。
しかも、相手方へ通知済み。
これなら、父親が生前に追認を拒絶していた事実を立証しやすい。
「だったら、もう終わりじゃないですか!」
私は言いました。
「お父さんが追認拒絶したんですから!」
ところが。
相馬先輩は首を振りました。
「まだ終わらねえ」
「え?」
「息子の責任はどうした」
「……息子の責任?」
「百十七条だ」
私は六法を見ました。
無権代理人の責任。
代理権がないのに代理人として契約した者は、一定の要件のもと、相手方に対して履行または損害賠償の責任を負う。
そして。
無権代理人が死亡すれば、その責任も相続の対象になる。
「つまり……」
私は和子さんを見ました。
「土地を渡す義務はなくても、息子さんが残した責任は別なんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「親父は土地の所有者として、追認を拒絶できた」
「はい」
「だが、息子の相続人として、息子が負っていた責任まで消せるわけじゃねえ」
「……!」
「和子さんだって同じだ」
私は息を呑みました。
父親は、息子が勝手に売った土地を守れた。
でも。
息子の責任から、完全に自由になったわけではない。
和子さんもまた、息子の責任を受け継いでいる。
「もちろん」
所長が言いました。
「相続したから必ず請求どおりの賠償額を払わなければならない、という話ではない」
「はい」
「無権代理人の責任が成立するか。相手方が無権代理であることを知っていたか。損害の内容は何か。それぞれ確認が必要だ」
私は頷きました。
なるほど。
追認拒絶ができる。
だから全部終わり。
そうではありません。
契約の効力と、無権代理人の責任。
別々に考える必要があるのです。
「ところで、和子さん」
所長が尋ねました。
「ご主人が亡くなったのは、追認拒絶の通知を送った後ですね」
「はい」
「ご主人の遺産は、和子さんがすべて相続した」
「そうです」
所長はしばらく黙りました。
そして。
「もう一つ、確認します」
「はい」
「息子さんの無権代理について、和子さん自身は、追認をしたことがありますか」
「ありません」
「大黒不動産との間で、土地の売買を認めるような書類に署名したことは?」
「ありません!」
和子さんは強く首を振りました。
「主人が死んでからも、あの会社には何度も断っています!」
「そうですか」
所長が静かに頷きました。
私は安心しかけました。
でも。
所長の表情は、晴れません。
「相馬」
「はい」
「黒田から届いた書面を全部見せろ」
相馬先輩が封筒を並べました。
一通。
二通。
三通。
そのうち、最後の一通。
私は目を疑いました。
――村瀬和子殿。
――貴殿は無権代理人村瀬修一の相続人であり、さらに土地所有者村瀬庄吉の相続人でもある。
――したがって、既に無権代理行為について追認拒絶することは許されない。
……。
私は紙を握りました。
「先輩」
「何だ」
「この社長……」
「ああ」
「ただの法律を知らない業者じゃありません」
相馬先輩が苦い顔をしました。
「そうだな」
私はもう一度、書面を読みました。
そして思いました。
最悪です。
今回の相手。
法律を知らずに威張っているだけではない。
法律を知ったうえで。
老人一人を、追い詰めに来ているのです。
翌日。
大黒不動産の社長、黒田銀次が事務所に現れました。
五十代半ば。
灰色の背広。
金色の腕時計。
指には、大きな印鑑ケース。
「どうもどうも」
黒田は、妙に愛想よく笑いました。
「村瀬さんが、こちらに相談してると聞きましてね」
相馬先輩が言いました。
「事情の確認ということでしたね」
「ええ。説明して差し上げようと思いまして」
黒田は勝手に椅子へ座りました。
「行政書士さんなら、民法くらいご存じでしょう?」
……。
この人。
最初から喧嘩腰です。
「無権代理ってやつですよ」
黒田はにやにや笑いました。
「修一さんが、お父さんの土地を勝手に売った。そこは認めますよ」
私は驚きました。
「認めるんですか?」
「ええ」
「代理権がなかったことも?」
「あったなんて言いませんよ」
黒田は平然と答えました。
「でもね、お嬢さん」
お嬢さん。
十八歳の私には、確かに間違っていません。
でも、言い方が腹立たしい。
「人が死ぬと、話が変わることもあるんですよ」
黒田は机を指で叩きました。
「修一さんが死んだ。両親が相続した」
「はい」
「その後、お父さんも死んだ。お母さんが相続した」
「はい」
「だったら、もう逃げられないでしょう」
私は反論しようとしました。
「でも、庄吉さんは追認拒絶を――」
「知ってますよ」
黒田が遮りました。
「追認拒絶の内容証明も受け取っています」
「だったら!」
「ところが、それで全部済むとは限らない」
黒田は薄笑いを浮かべました。
「無権代理人を相続した人が、その後、本人も相続した場合はどうなるんでしょうねえ」
……。
私は口を閉じました。
黒田の視線が、私の手元の六法へ落ちました。
「判例をお調べになったら?」
相馬先輩の眉が動きました。
「随分と詳しいですね」
「商売ですから」
「誰かに入れ知恵されたか」
「さあ、どうでしょう」
黒田は懐から紙を取り出しました。
「とにかく、土地を渡してもらいますよ」
そこには、こう書かれていました。
――売買代金八百万円。
――違約金五百万円。
――手続遅延による損害金三百万円。
私は目を丸くしました。
「ちょっと待ってください!」
「何です?」
「違約金五百万円って、何ですか!」
「契約違反ですよ」
「どこに書いてあるんですか!」
「契約書ですよ」
黒田は、書類の最後のページを指差しました。
――特約事項。
――売主側の都合により所有権移転登記が遅延したときは、違約金五百万円を支払う。
……。
私は、和子さんから預かった契約書の控えを開きました。
最後のページ。
特約事項。
ありません。
「これ……!」
黒田は笑いました。
「控えをなくしたんじゃありませんか?」
「でも!」
「契約書は、うちにもあるんですよ」
その言い方。
余裕。
そして、五百万円という金額。
私は嫌な予感がしました。
この人。
本当に土地だけが欲しいのでしょうか。
それとも。
土地を失いたくない老人から、別のお金まで取ろうとしているのでしょうか。
「まあ」
黒田は立ち上がりました。
「行政書士さんには、裁判はできませんからね」
相馬先輩が黙って見ています。
「弁護士を頼む金がなければ、さっさと土地を渡したほうがいいですよ」
私は拳を握りました。
そのとき。
「黒田さん」
片桐所長が、静かに口を開きました。
「一つだけ」
「何です?」
「代金八百万円は、支払済みですか」
「……は?」
「売買代金です」
黒田の笑みが、一瞬だけ消えました。
「契約は成立してるんですよ」
「支払いの有無を聞いています」
「まだですよ」
「手付金は?」
「五十万円です」
「残額は?」
「登記と引換えに払う約束です」
所長が頷きました。
「そうですか」
黒田は鼻を鳴らしました。
「何か問題でも?」
「事実を確認しただけです」
所長はそれ以上、何も言いませんでした。
黒田は不機嫌そうに立ち去りました。
扉が閉まります。
私は叫びました。
「所長!」
「何だ」
「腹が立ちます!」
「そうか」
「あの人、完全に和子さんを脅してますよ!」
「そうだな」
「しかも、判例まで知ってるみたいです!」
相馬先輩が煙草に火をつけました。
「こはる」
「はい」
「相手が法律を知ってるなら、こっちは事実を調べろ」
「……事実?」
「五百万円の特約だ」
先輩は、黒田が置いていった契約書の写しを机に広げました。
「こいつが本物かどうか。それを確かめる」
片桐所長も頷きました。
「追認拒絶ができないとしても、相手の言い分を全部認める理由にはならん」
私は、はっとしました。
そうです。
たとえ土地売買の効力を争えなくても。
契約していない違約金まで払う義務が、生まれるわけではない。
法律上の義務は。
相手が大声で叫んだから増えるものではないのです。
それから三日間。
私たちは、契約書の作成経緯を調べました。
相馬先輩が集めたのは、修一さんの遺品に残されていた書類でした。
契約書の下書き。
不動産会社との往復書簡。
売買代金の計算メモ。
そして。
修一さんが契約書を作成した際に同席していた、元従業員の証言。
「五百万円の特約なんて、聞いたことがありません」
元従業員は、そう言いました。
「契約書は二枚組でした」
「二枚?」
「はい。売買の条件が書いてある一枚と、署名押印のある一枚です」
私は、黒田が置いていった写しを見ました。
三枚組。
特約事項は、三枚目。
……。
「先輩」
「何だ」
「一枚、増えてます」
「ああ」
相馬先輩は、封筒から別の資料を取り出しました。
契約書に押された割印の位置を写した写真です。
「こっちが、修一の遺品にあった契約書の控えだ」
二枚を重ねる。
印影の位置。
紙の綴じ方。
日付の書き方。
明らかに違う。
もちろん、それだけで直ちに偽造と断定はできません。
でも。
「怪しいですね」
「怪しいだけじゃ足りねえ」
相馬先輩が言いました。
「誰が、いつ、何を作ったのか。そこまで固める」
私は頷きました。
その日の午後。
片桐所長は、もう一つの資料を取り出しました。
最高裁判所の判例。
昭和三十七年四月二十日。
本人が無権代理人を相続した場合。
そして。
昭和四十八年七月三日。
無権代理人の責任と相続の関係。
さらに。
昭和六十三年三月一日。
無権代理人を相続した者が、その後本人を相続した場合。
私は、その最後の日付を見つめました。
昭和六十三年。
今年です。
「所長……」
「何だ」
「和子さんは、本当に追認拒絶できないんですか」
所長は頷きました。
「この事実関係なら、その判例の考え方が問題になる」
「でも、和子さん自身は無権代理なんてしていません!」
「そうだ」
「息子さんが勝手にしたことです!」
「そうだ」
「それなのに!」
所長は静かに言いました。
「相続は、都合のいいものだけを受け継ぐ制度ではない」
私は黙りました。
「和子さんは、息子の無権代理人としての地位を相続した」
「……はい」
「その後、土地所有者だった夫の地位も相続した」
「はい」
「一度受け継いだ無権代理人の地位は、途中でなかったことにはならん」
私は、唇を噛みました。
本人が無権代理人を相続したときは、本人は追認拒絶できる。
でも。
無権代理人の地位を受け継いだ者が、後から本人の地位を受け継いだときは。
同じようには扱われない。
ここが、法律の難しいところでした。
「じゃあ……」
私は小さく言いました。
「土地は、守れないんですか」
相馬先輩が、私の頭を軽く小突きました。
「馬鹿」
「痛っ!」
「勝手に諦めるな」
「でも、判例が……」
「判例を捻じ曲げるな。だが、相手の言いなりにもなるな」
私は顔を上げました。
先輩が続けます。
「土地の売買が有効になることと、五百万円の違約金が存在することは別だ」
「はい」
「八百万円の代金を払う義務だって、消えちゃいねえ」
「……!」
「相手が正当に持ってる権利と、勝手に作り足した権利を混ぜるな」
私は、はっとしました。
そうです。
黒田が恐ろしいのは。
正しい法律論に、怪しい請求を混ぜていること。
そして。
和子さんが法律を知らないことにつけ込み、全部を一緒くたに飲ませようとしていること。
ここを分ければ。
まだ、戦える。
「相馬先輩!」
「何だ」
「私、書きます!」
「何を」
「内容証明です!」
先輩が、にやりと笑いました。
「ようやく、その顔になったな」
その日の夕方。
私は机に向かって、内容証明郵便の原案を書き始めました。
差出人。
村瀬和子。
宛先。
大黒不動産株式会社。
代表取締役黒田銀次。
まず。
土地売買契約の成立経緯。
息子が無権代理人として契約したこと。
息子の死亡。
父母による共同相続。
父による追認拒絶。
父の死亡。
母による単独相続。
その順番を、一つずつ書きました。
「できました!」
私は所長に差し出しました。
所長は読み始めました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
あ。
嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『本件土地売買契約は無権代理によるものであり、当然に無効である』」
「はい!」
赤線。
「違う」
「……え?」
「無権代理だから、何でも当然無効と断定するな」
「あ……」
「本人の追認の有無と、相続による地位の承継が問題だ」
「はい……」
私は慌てて修正しました。
「次」
「はい」
「『庄吉の追認拒絶により、今後いかなる者も契約の効力を主張できない』」
赤線。
「……違いますね」
「違う」
私はうなだれました。
「所長。じゃあ、どう書けばいいんですか」
所長は言いました。
「事実と争点を書け」
「争点?」
「確定していないことまで、こちらに有利な結論として書くな」
私は鉛筆を握り直しました。
たとえ、こちらに不利な判例があっても。
無理に隠してはいけない。
むしろ。
相手の正当な権利を認めたうえで。
正当でない要求を、切り離す。
そういう書面にする。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「黒田が一番嫌がるのは、何だと思う」
「……裁判ですか?」
「違う」
「え?」
「自分が作り足したかもしれねえ特約を、法廷で説明させられることだ」
私は契約書を見ました。
三枚目。
違約金五百万円。
遅延損害金三百万円。
そして。
修一さんの控えには存在しない文言。
「それに」
先輩が続けました。
「契約の効力を主張するなら、買主としての代金支払義務も正面から問題になる」
「はい」
「土地だけ寄越せ、代金は後で考える、なんて都合のいい話は通らねえ」
私は頷きました。
八百万円。
手付金五十万円を除けば、残額七百五十万円。
土地を引き渡す話になっても。
代金支払との関係を無視することはできません。
「でも先輩」
「何だ」
「和子さんは、土地を売りたくないんですよね」
「ああ」
「だったら、結局……」
私は俯きました。
法律上、相手が正当な契約上の権利を持っているなら。
私たちが、書類だけで一方的に消すことはできない。
それは分かっています。
でも。
和子さんの気持ちは、どうなるのでしょう。
片桐所長が、静かに口を開きました。
「相手の権利を消す書類は作れん」
「……はい」
「だが、相手が本当に何を求めているのか、事実を整理することはできる」
「はい」
「そして、正当な範囲を超えた請求を拒み、本人が自分の意思で判断するための資料を整えることはできる」
所長は、修正された原案を机に置きました。
「相馬」
「はい」
「仕上げろ」
相馬先輩が頷きました。
私は、もう一度原案を読み直しました。
三時間後。
机の上には、内容証明郵便の完成原稿が置かれました。
私は読み上げました。
「第一。本件土地売買契約は、亡村瀬修一が、亡村瀬庄吉の代理人と称して締結したものであるが、当時、修一には本件契約締結に関する代理権が存在しなかった」
「うん」
「第二。修一死亡後、庄吉及び和子が修一の法律上の地位を共同相続したこと、さらに庄吉死亡後、和子が庄吉の地位を相続したことについては、その経緯を確認している」
「続けろ」
「第三。本件無権代理行為の効力については、最高裁昭和三十七年四月二十日判決、同昭和四十八年七月三日判決及び同昭和六十三年三月一日判決に示された法理を踏まえ、法的検討を要する」
私は、少し息を吸いました。
「第四。しかしながら、貴社が主張する違約金五百万円及び遅延損害金三百万円については、その契約上の根拠及び算定根拠が明らかではない」
相馬先輩が頷きました。
「第五。通知人が保管する契約書控えには、貴社主張の違約金特約は存在せず、当該特約の成立について重大な疑義がある」
「うん」
「第六。貴社が本件特約の存在を主張するのであれば、契約書原本、特約部分の作成経緯、契約当事者による合意を示す資料及び損害額の算定資料を明らかにされたい」
私は続けました。
「第七。また、本件売買に関し、貴社は手付金五十万円を除く売買代金残額七百五十万円を未払であると認識している。貴社が契約上の権利を主張するにあたっては、買主としての代金支払義務及び約定された履行条件についても確認を要する」
最後。
「第八。通知人は、根拠の確認できない金銭請求には応じない。本件について法的紛争が継続する場合には、弁護士への相談のうえ、適切な法的手段を検討する」
読み終えました。
静寂。
相馬先輩が言いました。
「よし」
「……よし?」
「ああ」
「本当ですか!」
「ただし、送る前に和子さん本人に全部説明して、意思を確認する」
「はい!」
私は思わず拳を握りました。
今回の書面。
相手の売買契約を、無理やり無効にしたわけではありません。
土地が絶対に戻ると、嘘を書いたわけでもありません。
ただ。
相続の経緯。
判例。
契約書の記載。
代金支払義務。
不自然な特約。
それらを、寸分の隙もなく並べた。
そして。
黒田が五百万円の特約を主張し続けるなら。
その成立を、証拠によって説明しなければならない。
「所長」
「何だ」
「怖いですね。この書面」
「そうか」
「黒田社長、読んだら困ると思います」
所長は静かに言いました。
「本当に困るのは、説明できない請求をしている場合だ」
私は頷きました。
法律は、声の大きさを競うものではありません。
契約書に書いてあると主張するなら。
その契約書が、いつ、どのように作られたのか。
相続で責任を受け継いだと言うなら。
誰が、どの順番で、どんな地位を受け継いだのか。
全部。
説明できなければならないのです。
内容証明郵便を発送して、四日後。
大黒不動産から、電話がありました。
「……片桐さんは、いらっしゃいますか」
黒田銀次でした。
あの余裕たっぷりの声ではありません。
妙に低い。
「所長に代わります」
片桐所長が受話器を取りました。
「片桐です」
『書面、読みました』
「はい」
『……あの五百万円の件ですが』
「はい」
『ちょっと、行き違いがありまして』
私は、相馬先輩を見ました。
先輩が小さく笑いました。
『特約の成立について、確認が必要でしてね』
「そうですか」
『違約金の請求は、いったん取り下げます』
私は口を開けました。
取り下げる。
あの五百万円を!
『それから、三百万円の損害金も……』
「はい」
『根拠を整理できていないので、請求は撤回します』
……!
私は思わず立ち上がりかけました。
相馬先輩が手で制します。
まだだ。
そういう顔。
分かっています。
電話だけでは終わりません。
所長は淡々と言いました。
「その旨は、書面で和子さんご本人へ通知してください」
『分かりました』
「また、売買契約の件については、和子さんご本人が今後の対応を判断することになります」
『……実は、そのことなんですが』
黒田は少し声を落としました。
『土地の話、こちらも考え直そうかと思いまして』
私は息を呑みました。
『あそこ、確かに開発には向いてるんです。でも、測量や造成に相当金がかかる』
「はい」
『しかも、ここまで揉めている』
「そうですね」
『……手付金と、こちらが実際に負担した必要経費の扱いについて話がつくなら、合意で契約を解消することも考えます』
私は目を丸くしました。
合意解除。
つまり。
相手が自分の意思で、契約を終わらせることに応じるかもしれない。
もちろん。
法律で当然に解除できるわけではありません。
黒田にも、契約上の権利がある。
でも。
その権利を使い続けるかどうかは、別の話です。
片桐所長が答えました。
「和子さんに、直接その意向をお伝えください。具体的な条件を巡って争いが生じる場合には、弁護士への相談をお勧めします」
『……分かりました』
電話が切れました。
私は所長を見ました。
「所長!」
「何だ」
「契約、やめてくれるかもしれないんですね!」
「可能性はある」
「やりましたね!」
相馬先輩が言いました。
「まだだ」
「またですか!」
「合意解除の条件が決まって、書面になって、実際に履行されてからだ」
「……はい」
先輩は、私のノートを指差しました。
「忘れるなよ」
「何をですか」
「今回は、相手の正当な権利まで消せたわけじゃねえ」
私は頷きました。
無権代理と相続。
その法律関係は、最後まで重い。
でも。
正当な権利があるからといって、存在しない特約まで請求してよいわけではない。
その区別を突きつけたことで。
話は、動き始めたのです。
二週間後。
和子さんが、再び事務所を訪れました。
その表情は、前とは違っていました。
「……土地、残せることになりました」
私は立ち上がりました。
「本当ですか!」
「はい」
和子さんは、一通の書面を取り出しました。
――土地売買契約合意解除確認書。
大黒不動産との間で、双方の合意により売買契約を解消する。
既に支払われた手付金五十万円については、和子さんが返還する。
さらに、双方が確認した実費の清算を行う。
それ以外に、大黒不動産は違約金、遅延損害金その他本件契約に基づく追加の金銭請求をしない。
そして。
大黒不動産は、本件土地について所有権移転その他の権利を主張しない。
私は書面を見つめました。
双方の署名。
押印。
契約解除の意思。
清算条件。
全部、記されています。
「弁護士さんにも確認していただきました」
和子さんが言いました。
「これで、終わりです」
私は、胸が熱くなりました。
「よかった……!」
和子さんは、少し寂しそうに笑いました。
「でもね、こはるさん」
「はい」
「私、最初は納得できなかったんです」
「……何がですか」
「息子が勝手にしたことなのに、どうして私が責任を負うのかって」
私は黙って聞きました。
「主人は、売らないって言っていたんです」
「はい」
「それなのに、主人が亡くなったら、私が拒めないなんて」
和子さんは、自分の手を見ました。
「法律って、冷たいんですね」
私は、返す言葉が見つかりませんでした。
確かに。
今日の事件。
法律は、和子さんの希望をそのまま認めてはくれませんでした。
息子が無権代理をした。
父が相続した。
父は追認拒絶できた。
でも。
母が息子の地位を相続し、その後に父の地位も相続した。
その結果。
追認拒絶が許されないという、厳しい判例の壁にぶつかった。
私は、少し俯きました。
すると。
片桐所長が静かに言いました。
「和子さん」
「はい」
「法律が、すべての願いをかなえることはできません」
「……はい」
「ただ、相手方にも守られるべき権利があります」
和子さんは頷きました。
「ええ」
「その一方で、和子さんには、根拠のない請求を拒む権利があります」
「……そうですね」
「今回、契約を解消できたのは、相手も合意したからです」
「はい」
「法律をねじ曲げたわけではありません」
所長は、確認書を指差しました。
「双方が、自分の意思で新しい約束をした。それが大切なんです」
和子さんは、しばらく書面を見つめていました。
そして。
「……そうですね」
小さく笑いました。
「息子が勝手にした約束で始まった話でしたけど」
その手が、契約解除の確認書に触れました。
「最後は、私が自分で決められました」
私は顔を上げました。
和子さんの目には、涙が浮かんでいました。
「それだけでも、よかったです」
胸が、ぎゅっと締めつけられました。
法律は。
過去に起きたことを、なかったことにはできない。
亡くなった息子を、生き返らせることもできない。
でも。
法律上の立場を正確に知ることで。
残された人が、これからどうするかを決めることはできる。
そのための道具になるのです。
「ところで」
和子さんが、風呂敷から小さな包みを取り出しました。
「これ、よかったら」
中に入っていたのは。
梅干しでした。
「うちの土地の梅なんです」
私は目を丸くしました。
「えっ!」
「今年も、ちゃんと実がなりました」
和子さんが笑いました。
「主人が植えた木なんです」
私は包みを受け取りました。
小さな梅干し。
赤紫蘇の香り。
少ししわの寄った実。
それだけなのに。
妙に、重く感じました。
「主人がね」
和子さんが言いました。
「毎年、梅を取るたびに言っていたんです」
「何て?」
「この木は、俺が死んでも残るって」
私は黙りました。
「修一も、子供の頃は梅干しが大嫌いで」
和子さんは笑いました。
「酸っぱい酸っぱいって、泣いていたんですよ」
私は、つられて笑いました。
「かわいいですね」
「ええ」
でも。
その笑顔の奥に、少しだけ悲しさがありました。
息子は、もういない。
夫も、もういない。
残ったのは、土地と、梅の木と、思い出だけ。
それを守るために。
和子さんは、何度も法律の壁にぶつかったのです。
「来年も、梅が採れますね」
私が言うと、和子さんは頷きました。
「はい」
そして、少しだけ声を弾ませました。
「来年は、もっとたくさん漬けます」
私は笑いました。
「楽しみにしてます!」
和子さんは、深く頭を下げて帰っていきました。
その背中は、初めて事務所に来た日よりも、少しだけ軽く見えました。
夕方。
私は、机に三枚の紙を並べていました。
一枚目。
無権代理人が死亡し、本人が相続した場合。
二枚目。
本人が死亡し、無権代理人が相続した場合。
三枚目。
無権代理人が死亡し、その相続人が後から本人も相続した場合。
……。
「先輩」
「何だ」
「これ、意地悪すぎません?」
「何が」
「相続の順番です!」
私は紙を指差しました。
「父親が息子を相続したら、追認拒絶できるのに!」
「うん」
「息子が父親を単独相続したら、追認拒絶できない!」
「そうだな」
「しかも、共同相続かどうかでも変わる!」
「そうだ」
「おまけに、一回相続した人が、もう一回相続すると!」
「今回みたいになる」
「ややこしすぎます!」
相馬先輩は、煙草をくわえたまま笑いました。
「お前、相続って何だと思ってた?」
「財産を受け継ぐことです!」
「それだけか?」
「……違います」
「言ってみろ」
私は少し考えました。
「法律上の地位を、引き継ぐことです」
「そうだ」
先輩が頷きました。
「だから、財産だけじゃなく、債務や責任も問題になる」
「はい」
「しかも、自分でやったことと、人から引き継いだことじゃ、信義則の働き方も変わる」
私はノートを開きました。
無権代理。
相続。
追認。
信義則。
それぞれは、知っている言葉でした。
でも。
組み合わさると、こんなにも難しくなる。
「所長」
「何だ」
「私、今日まで勘違いしてました」
「何をだ」
「無権代理って、本人が追認するかしないかだけの話だと思ってました」
所長が頷きました。
「基本は大事だ」
「はい」
「だが、当事者が死亡すれば、地位の承継を考えなければならん」
「はい」
「誰が、誰の立場を受け継いだのか」
私は鉛筆を握りました。
「そこが決定的なんですね」
「そうだ」
私はもう一度、三枚の紙を見つめました。
同じ無権代理。
同じ土地。
同じ家族。
でも。
誰が先に亡くなるか。
誰が相続するか。
その順番が違えば。
結論は、同じではない。
法律は、ただ契約書を見るだけでは足りないのです。
人と人との関係。
そこに積み重なった時間。
そのすべてを、確認しなければならない。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして、ノートに一行を書きました。
――無権代理と相続は、「誰が先に死んだか」ではなく、「誰の法律上の地位を、どの順番で受け継いだか」で考える。
「できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
今日の一行は、たぶん忘れません。
無権代理人の息子。
土地を守ろうとした父。
そして、二人を見送った母。
同じ土地を巡る約束が、三人の人生を通り過ぎていった。
法律は、その順番を無視しない。
それが、今日の教訓です。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「もう一問、いいか」
「もちろんです!」
「親父が土地の所有者で、息子が勝手に土地を売った」
「はい!」
「その後、親父が先に死んだ」
「はい!」
「息子が、親父を単独相続した」
「はい!」
「息子は『俺が勝手に売ったんだから、契約なんて知らねえ』と言えるか?」
私は即答しました。
「言えません!」
「理由は?」
「自分で無権代理行為をした人が、本人を相続したあとで追認拒絶するのは、信義則に反するからです!」
「正解」
よし!
「じゃあ、逆」
「はい!」
「息子が先に死んだ。親父が相続した」
「はい!」
「親父は追認拒絶できるか?」
「できます!」
「息子の責任は?」
「相続していれば、民法百十七条の責任が別に問題になります!」
「よし」
私は得意になりました。
「完璧ですね!」
「まだだ」
「え?」
先輩が笑いました。
「親父が死んで、無権代理人の息子と、その兄弟が共同相続したら?」
「……!」
私は固まりました。
共同相続。
追認権の不可分性。
他の共同相続人の追認。
全部が頭の中を走りました。
「えっと……」
「どうした」
「ちょっと待ってください!」
「さっき完璧だって言ったよな」
「撤回します!」
相馬先輩が吹き出しました。
「早えな!」
「だって!」
私は六法を抱えました。
「民法って、家族が一人増えるだけで難易度が上がるんですよ!」
「そりゃ、権利を持つ人間が増えるからな」
「……あ」
私は、はっとしました。
そうか。
共同相続人が増える。
ということは。
守られるべき権利を持つ人も増える。
だから、一人の意思だけで決められないことがある。
それは、法律が意地悪なのではなく。
一人一人の権利を、勝手に消さないためなのです。
「先輩」
「何だ」
「ちょっと分かってきました」
「何が」
「民法が、ややこしい理由です」
相馬先輩は、少しだけ笑いました。
「なら、明日も勉強だな」
「えっ!」
「共同相続と追認権だ」
「うう……」
私は机に突っ伏しました。
窓の外。
昭和六十三年の夕暮れ。
遠くの山が、赤く染まっています。
その向こうのどこかで。
和子さんの梅の木も、静かに風に揺れているのでしょう。
亡くなった人は、もう約束をやり直せない。
でも、生きている人は。
受け継いだものを理解し、これからの選択をすることができる。
だからこそ。
相続で引き継ぐものを、間違えてはいけないのです。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「六法、閉じるな!」
「ええっ!」
「今度は、共同相続人が一人でも追認しなかった場合だ!」
「明日って言ったじゃないですか!」
「今、気になった」
「先輩の気分で勉強時間を延長しないでください!」
「見習いだろ!」
「見習いにも休息は必要です!」
……なるほど。
無権代理の追認拒絶は、場合によっては許されません。
でも。
私の勉強時間の延長については。
全力で拒絶したいと思います。
残念ながら。
それを認めてくれる最高裁判例は、まだ見つかっていません。
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