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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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[民法・無権代理、自己契約、双方代理、代理権の濫用]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 代理人だからといって、何でもできるわけではありません。


 ハンコを預かった。


 委任状をもらった。


 契約を結ぶ権限もある。


 だから、本人の財産を自由に売っていい。


 ……そんなわけがありません。


 代理人とは、本人の代わりに法律行為をする人です。


 本人の財産を、自分の都合で奪う人ではないのです。


 そして。


 もっとややこしいことに。


 代理権を持っていない人が契約した場合でも、その契約が後から有効になることがあります。


 逆に。


 代理権を持っている人が契約した場合でも、本人に効力が生じないことがあるのです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机の上に、六法全書と一冊のノートを広げていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「……先輩」


「何だ」


「代理って、ややこしすぎませんか?」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「今さらだな」


「だって、代理権がなければ無権代理ですよね?」


「そうだ」


「でも代理権があっても、無権代理として扱われることがある」


「そうだな」


「しかも、無権代理なのに、追認すると有効になる!」


「そうだ」


 私は机に突っ伏しました。


「もう、何が有効で何が無効なのか分かりません!」


「だったら、昨日の和菓子屋を思い出せ」


 私は顔を上げました。


 藤村千鶴さん。


 五十六歳。


 三十五年間、駅前で和菓子屋を営んできた女性。


 弟の正一に、店を千八百万円以上で売却する代理権を与えていました。


 ところが正一は。


 千鶴さんの代理人として。


 自分自身を買主にして。


 店を三百万円で買ったことにしてしまった。


「……ひどかったですね」


「ああ」


「でも、内容証明を送ったら、正一さんは契約に基づく権利を主張しないと確認しました」


「そうだな」


 私は頷きました。


 あの事件。


 実は、無権代理の重要論点が詰まっていたのです。


「よし!」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は無権代理を完全攻略します!」


 相馬先輩が煙草をくわえました。


「毎回そんなこと言ってるな」


「毎回、ちゃんと新しい論点を攻略してますから!」


「なら、今日も所長に問題を出してもらえ」


 私は奥を見ました。


「所長!」


「聞こえている」


「お願いします!」


 片桐所長は帳簿を閉じ、静かに言いました。


「まず、代理の仕組みからだ」


 よし。


 昭和の民法勉強会。


 今日も開幕です。



「最初は、無権代理です」


 私はノートに大きく書きました。


 ――無権代理。


 代理権がないのに、他人の代理人として法律行為をすること。


「たとえば」


 私は言いました。


「Aさんの土地を、Bさんが勝手に『Aの代理人です』と言ってCさんに売った場合です」


「うん」


「Bには代理権がありません」


「そうだ」


「じゃあ、Cとの売買契約はどうなる?」


 相馬先輩が尋ねました。


 私は勢いよく答えました。


「無効です!」


「……違う」


「ええっ!?」


 先輩が六法を指しました。


「百十三条を読め」


 私はページをめくりました。


 民法第百十三条。


 無権代理。


 そこには、本人が追認しなければ、本人に対して効力を生じないという趣旨が書かれています。


「……あっ」


 私は鉛筆を止めました。


「無効と、本人に効力が生じないことは、違うんですね」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「無権代理人が勝手に契約したからといって、その効果が当然に本人へ帰属するわけではない」


「はい」


「だが、本人が追認する余地がある」


 なるほど。


 ここが最初の落とし穴です。


 無権代理。


 その契約は、原則として本人を拘束しません。


 でも。


 本人が後から認めれば、効力を生じさせることができる。


「つまり、本人が選べるんですね」


「そうだ」


「勝手に契約されたから認めない、ということもできる」


「うん」


「条件がよければ、後から認めることもできる」


「そのとおりだ」


 私は大きく書きました。


 ――無権代理は、本人が追認しなければ、本人に効力を生じない。


 そして。


「所長、これは昭和でも現代でも基本的に同じですね!」


「そうだな」


 私は胸を撫で下ろしました。


 よかった。


 ようやく未来の民法を持ち込んでも、怒られないところです。


 ……たぶん。



「次は追認です!」


 私はノートをめくりました。


 ――追認。


 本人が、無権代理人のした行為を後から認めること。


「昨日の千鶴さんは、追認しませんでした」


「ああ」


「もし追認していたら、どうなったんでしょう?」


 相馬先輩が聞きました。


 私は答えました。


「正一さんの売買契約が、千鶴さんに対して効力を生じることになります」


「そうだ」


「しかも、民法百十六条!」


 私は条文を開きました。


 ――追認は、別段の意思表示がないときは、契約の時にさかのぼって効力を生ずる。


 ただし、第三者の権利を害することはできない。


「つまり!」


 私は言いました。


「十月一日に無権代理人が契約して、十月十日に本人が追認した場合、原則として十月一日にさかのぼって効力が生じるんですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、間に第三者が権利を取得していれば、その権利を追認で害することはできない」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 追認。


 原則として契約時に遡及する。


 ただし、第三者の権利を害することはできない。


「それと、もう一つ」


 所長が言いました。


「追認の意思表示を、誰にするかも重要だ」


「……あっ!」


 民法百十三条二項。


 追認や追認拒絶は、相手方に対してしなければ、原則としてその相手方に対抗できません。


 ただし、相手方がその事実を知った場合は別です。


「つまり、本人が無権代理人に『追認しない』と言っただけでは……」


「相手方との関係では、それだけで足りるとは限らん」


 所長が答えました。


「はい」


 私は昨日の内容証明を思い出しました。


 千鶴さんは、正一に対して明確に追認拒絶を通知しました。


 今回、正一は自己契約によって買主にもなっていました。


 だから、相手方である正一に通知したことは、特に重要だったのです。


「所長」


「何だ」


「本人が追認するかしないかで、財産の行方が変わるんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 本人の意思。


 それが、無権代理の中心にある。


 勝手に契約された本人を守る。


 でも、本人が望むなら、その契約を生かせるようにする。


 民法は、ただ機械的に契約を無効にしているわけではないのです。



「でも先輩」


「何だ」


「無権代理人に騙された相手方は、どうなるんですか?」


 相馬先輩が新聞を置きました。


「そこが次だ」


 私はノートに書きました。


 ――相手方の保護。


 無権代理では、本人だけでなく、取引した相手方の立場も問題になります。


 たとえば。


 Bが、Aの代理人だと偽って、Cに土地を売った。


 Cは、Bに代理権があると信じていた。


 ところがAは、契約を認めない。


「Cさん、困りますよね」


「困るな」


「買えると思っていた土地が買えなくなるんですから」


 私は頷きました。


 だから民法は、一定の条件のもとで、相手方にも権利を与えています。


 まず。


 催告権。


 民法第百十四条。


「本人に対して、追認するのかどうか、はっきり答えてくださいと催告できるんですよね」


「そうだ」


「しかも、相当の期間を定めて」


「うん」


 私は具体例を書きました。


 Bが勝手にAの代理人として、Cと売買契約を締結した。


 CはAに通知する。


 ――十四日以内に、この契約を追認するかどうか回答してください。


 もちろん、十四日が常に相当な期間になるわけではありません。


 契約内容や事情によって判断されます。


「では、Aが何も答えなかったら?」


 所長が聞きました。


 私は答えました。


「追認拒絶とみなされます!」


「そうだ」


 ここ、大切です。


 無回答。


 イコール。


 追認拒絶。


「無回答なら追認したことになる、じゃないんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「本人が黙っていただけで、勝手な契約を押しつけられたら困るだろ」


「確かに!」


 私は大きく丸をつけました。


 ――催告して期間内に確答なし=追認拒絶。


「でも所長」


「何だ」


「相手方が無権代理だと知っていた場合も、催告できるんですか?」


「できる」


「えっ!」


 私は少し驚きました。


 催告権。


 民法百十四条。


 相手方の善意を要件としていません。


「つまり、無権代理だと知っている相手方でも、本人に態度を明確にしてもらうため、催告することはできるんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 催告権は、本人の意思を確定させ、取引の不安定な状態を整理するための仕組みなのです。



「次は、取消権です!」


 私はページをめくりました。


 民法第百十五条。


 無権代理人がした契約は、原則として、本人が追認しない間は、相手方が取り消すことができます。


「じゃあ、Cさんは『もうこの契約はやめます』と言えるんですね」


「そうだ」


「でも、条件があります!」


 私は鉛筆で線を引きました。


 相手方が、契約時に代理権がないことを知っていた場合。


 つまり。


 悪意の場合。


 取消しはできません。


「ここ、面白いですね」


 私が言うと、相馬先輩が首をかしげました。


「どこがだ」


「民法の悪意って、性格が悪いという意味じゃないんですよね」


「そうだ」


「知っていたか、知らなかったか!」


 私はノートに書きました。


 善意=知らない。


 悪意=知っている。


「じゃあ、問題です!」


 私は先輩を見ました。


「Aさんの代理人だと名乗るBさんに、Cさんが土地を売ってもらいました」


「うん」


「Cさんは、Bさんに代理権がないことを知っていました」


「うん」


「本人Aさんは、まだ追認していません」


「うん」


「Cさんは取り消せますか?」


「できねえな」


「正解!」


「お前が俺を試験してどうする」


「復習です!」


 私は笑いました。


 そして。


 ここでも大事なのは、相手方の知識です。


 代理権がないと知りながら契約した人まで、自由に取り消せるようにする必要はない。


 だから民法百十五条は、悪意の相手方の取消権を否定しています。


「ちなみに」


 私は言いました。


「ここでいう取消しは、未成年者の法律行為の取消しとは、理由が違うんですね」


「そうだ」


 未成年者の取消しは、判断能力や経験の面で保護が必要な人を守る制度。


 一方、無権代理の相手方の取消権は、本人の追認を待つ不安定な状態から、相手方を解放するための制度。


 同じ取消しでも。


 守ろうとしているものが違うのです。


「やっぱり、丸暗記じゃ駄目ですね」


 私は呟きました。


「理由が分かると、覚えやすいです」


 所長が頷きました。


「それが法律の勉強だ」



「さて」


 相馬先輩が煙草を消しました。


「無権代理人本人の責任はどうなる?」


「民法百十七条です!」


 私は勢いよく答えました。


 ――無権代理人の責任。


 無権代理人が代理権を証明できず、本人の追認も得られなかった場合。


 一定の要件のもとで、相手方の選択に従い、履行または損害賠償の責任を負います。


「つまり、勝手に代理人を名乗った人自身が責任を負うことがあるんですね」


「そうだ」


「相手方は、履行か損害賠償かを選べる」


「うん」


 私は具体例を書きました。


 Bが、Aの土地を勝手にCへ売った。


 Aは追認しない。


 Cは、Bに代理権があると信じ、落ち度もなかった。


 この場合、Bが無権代理人として責任を負うことがあります。


 ただし、履行そのものが可能かどうかなど、具体的な事情も問題になります。


「でも、無権代理人が必ず責任を負うわけではありません」


 私は言いました。


 相馬先輩が頷きます。


「例外があるな」


「はい」


 まず、代理権を証明できた場合。


 そもそも無権代理ではありません。


 次に、本人の追認を得た場合。


 本人に契約の効力が生じます。


 そのため、百十七条による無権代理人の責任を追及する前提がなくなります。


 さらに。


「相手方の事情による免責もあります」


 私はノートに書きました。


 相手方が、代理権がないことを知っていた。


 相手方が、過失によって代理権がないことを知らなかった。


 そして、無権代理人が行為能力を欠いていた場合。


「……ん?」


 私は手を止めました。


 相馬先輩がこちらを見ました。


「どうした?」


「所長。現代の百十七条には、もう一つ細かい例外がありますよね」


「現代?」


「あっ!」


 また言ってしまいました。


 でも、これは重要です。


 私は慌てて説明しました。


「いえ、その……相手方に過失があっても、無権代理人が自分に代理権がないことを知っていたら、責任を免れないという考え方です!」


 相馬先輩が六法を見ました。


「今の条文には、そんなただし書はねえぞ」


「……ですよね」


 私は頭を抱えました。


 そうです。


 ここも民法改正の重要な違い。


 昭和六十三年当時の百十七条二項には、現代のような、無権代理人自身が悪意である場合のただし書はありません。


 当時の条文では、相手方が悪意または有過失であれば、原則として百十七条の責任は生じないという構成でした。


 これに対し、令和の改正民法では、相手方が過失によって代理権がないことを知らなかった場合でも、無権代理人自身が代理権のないことを知っていたなら、そのことだけでは免責されません。


「なるほど……」


 私は呟きました。


「現代の民法は、無権代理人と相手方の公平を、より細かく考えているんですね」


 相馬先輩が言いました。


「法律は、誰が何を知っていたかで結論が変わるからな」


「はい」


 そして。


 私はもう一つ、大切なことに気づきました。


「所長。昨日の正一さんには、この百十七条を単純には当てはめられませんよね」


「なぜだ」


「正一さんは、無権代理行為をした本人であると同時に、契約の買主でもありました」


「そうだ」


「だから、普通の第三者が代理権を信じて契約した場合とは違います」


 所長が頷きました。


「誰を保護する規定なのかを見失うな」


「はい!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――百十七条は、無権代理人を罰するためだけの条文ではない。取引相手を保護するための規定。


 なるほど。


 ここを理解しておけば。


 なぜ善意や悪意が問題になるのか。


 なぜ過失が問題になるのか。


 少しずつ見えてきます。



「さて、昨日の事件に戻るぞ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「正一には、代理権があったな」


「ありました」


「なのに、なぜ無権代理として扱われた?」


 私は答えました。


「代理権の範囲を超えたことと、自己契約をしたことです!」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――自己契約。


 代理人が、本人の代理人でありながら、自分自身を契約の相手方にすること。


 今回の事件では。


 売主。


 藤村千鶴。


 売主代理人。


 藤村正一。


 買主。


 藤村正一。


「見事に同じ人でしたね」


「ああ」


「正一さん、自分で値段を決めて、自分で買ってしまいました」


「そうだ」


 私は首を振りました。


「そんなの、本人の利益なんて考えませんよね」


「だから禁止されている」


 民法第百八条。


 自己契約及び双方代理。


 昭和六十三年の条文では、同じ法律行為について相手方の代理人となったり、当事者双方の代理人となったりすることを、原則として禁止していました。


 そして。


 昭和四十七年四月四日の最高裁判例などにより、本人の事前承認や追認のない自己契約・双方代理は、無権代理と同様に扱われると解されていました。


「現代では、これが条文に明文化されているんですよね」


 私は言いました。


 相馬先輩がため息をつきます。


「また未来か」


「大切なんです!」


 私は続けました。


 現代の民法百八条一項。


 自己契約や双方代理は、原則として代理権を有しない者がした行為とみなされます。


「でも、昭和六十三年には、禁止することが条文に書かれているだけで、その法的効果は判例の理解が重要だった」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「改正によって、判例で積み重ねられた考え方が、条文上も明確になったわけですね」


「そういうことだ」


 私は嬉しくなりました。


 やっと分かってきました。


 昔の法律が間違っていたわけではない。


 判例や実務で発展してきた考え方を、後の改正で分かりやすく書き込むことがある。


 だから、旧法を知ると、新法が理解しやすくなるのです。


「所長」


「何だ」


「自己契約にも、例外があるんですよね」


「ある」


 私は答えました。


「債務の履行と、本人があらかじめ許諾した行為です!」


「そうだ」


 たとえば。


 すでに確定した債務を、約束どおり履行するだけの場合。


 新たに条件を決めるわけではなく、利益相反の危険が乏しいことがあります。


 また、本人があらかじめ自己契約を許していた場合も、禁止の例外です。


「でも、昨日の千鶴さんは、自己契約を許していませんでした」


「そうだ」


「しかも、千八百万円以上という売却条件まで無視されていました」


 私は頷きました。


 重要なのは。


 本人が何を許したか。


 どこまで許したか。


 そこを正確に判断することなのです。



「次は、双方代理です」


 私はノートをめくりました。


 ――双方代理。


 同じ人が、売主と買主の両方の代理人になること。


「たとえば」


 私は言いました。


「Aさんが土地を売りたい。Bさんが土地を買いたい」


「うん」


「Aさんの代理人がCさん」


「うん」


「Bさんの代理人もCさん」


「そうだ」


 つまり。


 一人のCが、売主側と買主側の両方を代表して契約する。


「これ、どうして駄目なんですか?」


 私は尋ねました。


 相馬先輩が答えました。


「売主は高く売りたい」


「はい」


「買主は安く買いたい」


「はい」


「両方の代理人になったら、どっちの利益を優先するんだ?」


 私は止まりました。


 なるほど。


 売主の利益を優先すれば、買主が不利になる。


 買主の利益を優先すれば、売主が不利になる。


 代理人一人で、両方の利益を公正に守れるとは限りません。


「だから、原則として禁止するんですね」


「そうだ」


 私は書きました。


 自己契約。


 代理人自身が相手方。


 双方代理。


 同じ人が両当事者の代理人。


 どちらも利益相反の危険がある。


「ちなみに、例外も共通です」


 私は言いました。


 債務の履行。


 本人の事前の許諾。


「ただし、双方代理の場合は、関係する本人それぞれの承諾が問題になります」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「片方が許しただけで、もう片方の利益まで勝手に処分できるわけじゃねえ」


 私はノートに丸をつけました。


 なるほど。


 本人の意思を尊重する。


 それが、自己契約にも双方代理にも共通する考え方なのです。



「さて、次だ」


 片桐所長が言いました。


「代理権の濫用を整理してみろ」


「はい!」


 私は新しいページを開きました。


 ――代理権の濫用。


 代理人が、自己または第三者の利益を図る目的で、代理権の範囲内の行為をすること。


「これ、昨日の最後に相談票がありましたね」


「ああ」


 町工場の仕入担当者。


 機械の購入権限は与えられている。


 購入契約そのものは代理権の範囲内。


 しかし。


 仕入担当者は、納入業者と裏で結託し、代金の一部を受け取っていた疑いがある。


「ここが、普通の無権代理と違うんですよね」


 私は言いました。


「最初から代理権がないわけじゃない」


「そうだ」


「代理権の範囲内で契約している」


「うん」


「でも、自分の利益のために使っている」


「そこだ」


 私は大きく頷きました。


 代理権の濫用。


 これは、単純に権限がない場合とは違います。


 代理権自体はある。


 でも、その使い方が問題になるのです。


「じゃあ、代理権を濫用したら、いつでも無権代理になるんですか?」


 相馬先輩が聞きました。


 私は答えました。


「なりません!」


「ほう」


「相手方が、その濫用目的を知らず、知ることもできなかった場合には、原則として本人に効果が帰属します」


「そうだ」


 ここです。


 重要なのは、相手方の認識。


 代理人が自分の利益を図ろうとしていた。


 それを相手方が知っていた。


 または、知ることができた。


 この場合に、本人を保護する必要が強くなります。


「現代の民法百七条では、その場合、無権代理行為とみなされます」


 私は言いました。


「でも、昭和六十三年には!」


 相馬先輩が先回りしました。


「そんな条文はねえ」


「そうです!」


 私は笑いました。


「昭和六十三年の百七条は、復代理人に関する規定です」


「よく覚えたな」


「昨日、間違えましたから!」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年。


 代理権濫用は、最高裁昭和四十二年四月二十日判決が重要。


 同判決では、代理人が自己または第三者の利益を図るために権限内の行為をした場合、相手方がその意図を知り、または知ることができたときには、民法九十三条ただし書を類推適用して、本人は責任を負わないと判断されました。


「……心裡留保の条文ですよね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「代理権濫用について直接定めた条文がなかったから、判例が九十三条ただし書の考え方を使ったんだ」


 私は頷きました。


 心裡留保。


 表意者が真意と異なる意思表示をした場合の問題。


 その条文の考え方を、代理権濫用にも応用する。


「昔の民法って、判例を知らないと、本当に難しいですね」


「そうだな」


 でも。


 現代では、この考え方が民法百七条に明文化されています。


 自己または第三者の利益を図る目的。


 代理権の範囲内の行為。


 相手方が、その目的を知っていた、または知ることができた。


 その場合。


 無権代理行為とみなす。


「つまり、昭和の判例法理が、現代の条文になったんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


 私は、しばらくノートを眺めました。


 昔の人たちが、具体的な事件で考えたこと。


 それが、後の民法改正によって条文化される。


 法律は、突然生まれるものではない。


 長い年月をかけて、積み重ねられているのです。



「所長」


 私は尋ねました。


「では、確認問題を出していただけますか?」


「いいだろう」


 所長は六法を閉じました。


「Aの代理人Bが、代理権なくCと契約した。Aが追認しなければ?」


「原則として、Aに効力は生じません!」


「Aが追認した場合は?」


「原則として契約時にさかのぼって効力が生じます。ただし第三者の権利は害せません!」


「相手方Cが、期間を定めてAに追認するかどうか催告した。Aが確答しなければ?」


「追認拒絶とみなされます!」


「Cが、契約時に無権代理と知っていた場合、百十五条による取消しは?」


「できません!」


「無権代理人の責任は?」


「百十七条です! 代理権を証明できず、本人の追認も得られなければ、一定の要件のもとで相手方の選択に従い、履行または損害賠償の責任を負います!」


 所長が頷きました。


「では、自己契約とは?」


「代理人が本人の代理人でありながら、自分自身を契約の相手方にすることです!」


「双方代理は?」


「同一人が双方の代理人になることです!」


「例外は?」


「債務の履行と、本人の事前の許諾です!」


「代理権の濫用は?」


「代理権の範囲内で、自己または第三者の利益を図る目的で行為することです!」


「現代の民法百七条では、いつ無権代理とみなす?」


「相手方が濫用目的を知り、または知ることができたときです!」


 所長が静かに頷きました。


「よし」


 私は思わず拳を握りました。


「やった!」


 無権代理。


 自己契約。


 双方代理。


 代理権の濫用。


 ようやく、頭の中でつながってきました。


 すると。


 相馬先輩が言いました。


「じゃあ、最後に俺から一問」


「はい!」


「昭和六十三年の民法百七条には、何が書いてある?」


「復代理人に関する規定です!」


「正解」


「現代の百七条は代理権の濫用です!」


「よし」


「そして、自己契約や双方代理について、無権代理行為とみなすことが現代では百八条に明文化されています!」


「よく覚えたな」


 私は得意になりました。


「先輩!」


「何だ」


「今回は時代錯誤しませんでした!」


「最初からそうしてくれ」


「ひどい!」


 私は笑いました。


 でも。


 今日の勉強で、一つ分かったことがあります。


 無権代理の制度は。


 ただ、代理人の権限を制限するためのものではありません。


 本人を守る。


 相手方を守る。


 取引の安全を守る。


 そして。


 代理人を信じて任せた人の生活を守る。


 そういう制度なのです。



 窓の外。


 夕暮れの商店街に、明かりが灯り始めていました。


 私は、昨日食べた栗まんじゅうを思い出しました。


 藤村千鶴さん。


 三十五年間、あの店を守ってきた女性。


 正一が作った契約書。


 三百万円。


 自分で売って、自分で買った男。


 でも。


 千鶴さんは、店を失わずに済みました。


 もし、代理人に委任状を渡しただけで、その人が好き勝手に財産を処分できるのなら。


 誰も安心して、他人に仕事を任せられません。


 信頼して任せたはずなのに。


 その信頼が、自分の財産を失う原因になってしまうからです。


「所長」


「何だ」


「代理って、人を信用する制度なんですね」


 所長が顔を上げました。


「そうだな」


「でも、信用して任せたからこそ、裏切られたときに守る仕組みが必要なんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 そして。


 ノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――無権代理は「権限がない」、自己契約・双方代理は「利益が衝突する」、代理権濫用は「権限を悪用する」。本人の意思と相手方の認識を見極めよ。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


 相馬先輩が覗き込みました。


「長いな」


「ええっ!?」


「一行にしては長すぎるだろ」


「大事なことが多いんです!」


「まあ、内容は悪くねえ」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、きっと忘れません。


 あの和菓子屋を思い出せばいい。


 本人が与えた代理権。


 千八百万円以上という条件。


 それを無視した三百万円の契約。


 しかも、自分で売って、自分で買った。


 正一は、委任状があるから大丈夫だと思っていました。


 でも。


 委任状は、本人の財産を自由に奪える魔法の紙ではありません。


 代理権は、本人のために使うもの。


 民法は、その当たり前のことを、きちんと守っているのです。



「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会は終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「……また掃除ですか?」


「見習いだろ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「昨日、私が先輩の栗まんじゅうを勝手に食べた件ですが」


「ああ」


「実は、ずっと考えていたんです」


「何をだ」


「先輩が私に、栗まんじゅうを食べる代理権を与えていた可能性についてです!」


「……は?」


 相馬先輩が固まりました。


 私は続けます。


「机の上に置いてあったんですよ?」


「そうだな」


「私が食べてもいいと思ってしまう可能性がありますよね?」


「だから?」


「つまり、黙示の許諾が……!」


「あるわけねえだろ!」


 怒られました。


 当然です。


 でも。


 私は負けません。


「先輩!」


「何だ!」


「では、事後的に追認していただけませんか!」


「何をだ!」


「私が栗まんじゅうを食べたことを!」


「それは代理じゃねえ!」


「……!」


 しまった。


 そうでした。


 代理とは、他人のために法律行為をする制度です。


 栗まんじゅうを勝手に食べることは、代理行為ではありません。


「こはる」


 片桐所長が静かに言いました。


「はい……」


「勉強した法律を、何にでも当てはめるな」


「……はい」


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほらな」


「先輩!」


「何だ」


「じゃあ、明日、新しい栗まんじゅうを買ってきます!」


「最初からそう言え!」


 私はため息をつきました。


 なるほど。


 法律は便利ですが、何にでも使えるわけではありません。


 代理権があるか。


 代理行為なのか。


 本人のためにしたのか。


 そこを正確に判断しなければならないのです。


 私は箒を手に取りました。


 窓の外では、商店街の明かりが、少しずつ増えていました。


 あのどこかで。


 千鶴さんは、今日も栗まんじゅうを焼いているのでしょう。


 店を守れたことを喜びながら。


 明日も、お客さんにお菓子を届けるために。


 私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


 ――無権代理は「権限がない」、自己契約・双方代理は「利益が衝突する」、代理権濫用は「権限を悪用する」。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで掃除しろ!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「もし先輩が私の代理人として掃除をしてくれるなら、私、事前に許諾します!」


「何の契約だよ!」


「掃除の代理です!」


「掃除は法律行為じゃねえ!」


 ……なるほど。


 今日の民法。


 最後の最後まで、奥が深いようです。


 残念ながら。


 私がどれほど代理権を与えようとしても。


 相馬先輩が掃除を引き受ける気になるわけではないのでした。

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