[民法・無権代理]現場編 「代理人のハンコがあるから売買成立」の嘘。自分で売って自分で買った男と、民法百八条が突きつける裏切りの代償
ハンコを預けたからといって、人生まで預けたわけではありません。
誰かに仕事を任せる。
家族だから。
親戚だから。
長年の付き合いがあるから。
そんな理由で、私たちは他人を信用します。
けれど。
その信用を利用して、勝手に財産を売られてしまったら。
しかも。
売った人間と、買った人間が同じだったら。
それは、本当に有効な契約なのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一枚の売買契約書を前に、思わず叫ぶことになります。
「……これ、泥棒よりひどくないですか!?」
相馬先輩は、煙草をくわえたまま答えました。
「泥棒なら、まだ自分が泥棒だって分かってる」
「え?」
「こいつはな。契約書があるから合法だって、本気で思ってやがるんだ」
そして。
片桐所長は、静かに六法全書を開きました。
「こはる」
「はい」
「今日の相手は、代理権を持っている」
「……え?」
「だが、それでも契約が本人に効力を生じるとは限らん」
代理権があるのに。
無権代理。
私は、この昭和の民法が仕掛けた罠に、まだ気づいていませんでした。
◇
「私の店が、弟のものになってしまうんです!」
朝九時。
片桐行政書士事務所の扉が勢いよく開きました。
入ってきたのは、五十代半ばの女性。
紺色の割烹着。
粉のついた袖。
疲れ切った顔。
女性の名前は、藤村千鶴さん。
五十六歳。
駅前商店街で、三十五年間、和菓子屋を営んでいるそうです。
店の名前は、
――菓子処ふじむら。
名物は、栗まんじゅう。
秋の祭りには、朝から行列ができる老舗です。
「店が弟さんのものに?」
私が尋ねると、千鶴さんは震える手で封筒を差し出しました。
「これを見てください」
中から出てきたのは、一枚の契約書。
表題。
――不動産売買契約書。
物件。
駅前商店街所在の店舗兼居宅。
売買代金。
金三百万円。
私は目を見開きました。
「三百万円!?」
駅前の店舗兼住宅です。
建物は古い。
けれど土地も含めれば、そんな金額では済まないはずです。
「不動産屋さんに聞いたら、土地と建物で二千万円以上はするだろうって……」
千鶴さんが泣きそうな声で言いました。
「それを、弟が三百万円で買ったことになっているんです」
「弟さんが?」
「はい」
私は契約書の署名欄を見ました。
売主。
藤村千鶴。
代理人。
藤村正一。
買主。
藤村正一。
……。
私は瞬きをしました。
もう一度読みます。
売主代理人。
藤村正一。
買主。
藤村正一。
「……同じ人?」
「そうなんです!」
千鶴さんが机に身を乗り出しました。
「弟が、私の代理人として、私の店を弟自身に売ったことになっているんです!」
私は思わず立ち上がりました。
「自分で売って、自分で買った!?」
「はい!」
「そんなの、何でもありじゃないですか!」
相馬先輩が横から言いました。
「だから相談に来たんだろ」
「そ、そうでした!」
私は座り直しました。
でも。
これはおかしい。
どう考えても、おかしい。
千鶴さんは、店を売るつもりなどなかったそうです。
では、なぜ弟が代理人になっているのでしょうか。
「実は……」
千鶴さんが別の紙を取り出しました。
――委任状。
そこには、こう書かれていました。
――藤村千鶴は、藤村正一に対し、下記不動産の売却に関する契約締結その他必要な行為を委任する。
――売却価格は金千八百万円以上とする。
――売却代金の受領及び所有権移転登記に必要な書類の交付は、本人が直接行う。
私は読みました。
「……売却する権限は、与えていたんですか?」
「はい」
千鶴さんはうつむきました。
「でも、店を売ろうと考えたことはあるんです。主人が亡くなってから、一人では大変で……」
なるほど。
そのとき、弟の正一が申し出た。
「姉さん、俺が買い手を探してやる」
千鶴さんは、それを信用した。
売却価格は千八百万円以上。
代金や登記書類は本人が管理。
そこまで条件をつけて、売却の代理権を与えた。
「でも、やっぱり店を続けたいと思って……」
「はい」
「弟にも、まだ売らないでほしいと話したんです」
「いつですか?」
「三日前です」
「契約書の日付は?」
「その翌日です」
私は契約書を見直しました。
なるほど。
売却をやめたいと告げられた直後に、正一は自分を買主として契約書を作ったらしい。
しかも。
千八百万円以上という条件を無視して。
三百万円。
「代金は受け取ったんですか?」
「一円も」
「所有権移転登記は?」
「まだです」
「お店は?」
「私が使っています。でも弟が、来週には店を明け渡せって……」
千鶴さんの声が震えました。
「私、三十五年も、あの店でお菓子を作ってきたんです」
私は黙りました。
「主人が亡くなっても、続けてきました」
割烹着の袖を握りしめます。
「娘が小さい頃、店の奥で宿題をしていたんです。主人が栗を剥いて、私が餡を炊いて……」
声が途切れました。
「売るつもりなんて、もうないんです」
そして。
「なのに弟は、委任状にハンコがあるから、もう契約は成立したって……」
私は拳を握りました。
ハンコ。
またハンコです。
この時代。
契約書とハンコがあれば、何でも通ると思っている人が多すぎませんか。
「大丈夫です!」
私は勢いよく言いました。
「代理権の濫用です! 民法百七条があります!」
千鶴さんが顔を上げました。
「本当ですか!?」
「はい! 自分の利益を図るために代理権を使っているんですから、無権代理とみなされます!」
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「百七条?」
「はい!」
「何が書いてある?」
「代理権の濫用です!」
「……お前、六法を開いてみろ」
「え?」
私は昭和六十三年版の六法を開きました。
民法百七条。
そこに書かれていたのは。
――代理権の制限。
復代理人に関する規定でした。
「……あれ?」
私は固まりました。
ありません。
現代の民法百七条。
代理権の濫用。
その条文が。
ない。
「先輩……」
「何だ」
「民法百七条が、違うことを言ってます」
「当たり前だろ」
「ええっ!?」
しまった。
またです。
未来の民法。
令和の改正民法。
私が覚えていた代理権濫用の条文は、まだ存在していません。
「代理権の濫用って考え方自体は、昔から問題になってる」
相馬先輩が言いました。
「昭和四十二年の最高裁判例だ。民法九十三条ただし書の類推適用が問題になる」
「九十三条……心裡留保ですか?」
「そうだ」
「代理権の濫用なのに、心裡留保!?」
「昔の民法は、条文だけ眺めてても答えが出ねえことがあるんだよ」
私は頭を抱えました。
昭和の法律。
難しい。
現代の法律なら、代理権濫用が条文に書いてあるのに。
この時代は、判例を知らなければたどり着けないことがある。
しかも。
「今回は、それ以前の問題だ」
片桐所長が言いました。
「え?」
「正一は、代理権の範囲内で契約したのか」
私は委任状を見ました。
千八百万円以上。
ところが契約は三百万円。
「……範囲を超えています」
「そうだ」
所長が頷きます。
「それに、もう一つある」
「もう一つ?」
所長は契約書の二つの名前を指しました。
売主代理人。
藤村正一。
買主。
藤村正一。
「民法百八条だ」
私は、その条文を開きました。
そして。
思わず声を上げました。
「あっ!」
そこには、私が探していた別の刃がありました。
――自己契約。
◇
「俺は、ちゃんと委任状をもらってるんだ!」
翌日。
藤村正一は、自分の事務所で怒鳴っていました。
五十二歳。
小さな不動産関連会社を経営している男です。
薄茶色の背広。
金色の腕時計。
机の上には、大きな灰皿。
私と相馬先輩は、事実確認のため、千鶴さんの了承を得て正一の事務所を訪れていました。
もちろん。
私たちは、依頼人の代理人として法律紛争の示談交渉をすることはできません。
行政書士は弁護士ではないからです。
今日は、契約書が作成された経緯と、正一の認識を確認するための訪問でした。
「委任状があるんだから、契約は有効だろ!」
正一は机を叩きました。
「姉貴が今さら嫌だと言っても、売買契約書にはハンコがある!」
「その委任状について、確認させてください」
相馬先輩が静かに言いました。
「何だよ」
「売却価格は千八百万円以上ですね」
「ああ」
「今回の契約は三百万円ですね」
「そうだ」
「差額は千五百万円です」
「だから何だ!」
正一が笑いました。
「俺が買うんだから、安くしてもいいだろ」
……。
私は目を見開きました。
今。
すごいことを言いませんでしたか。
「俺が買うんだから、安くしてもいい」
つまり。
売主の代理人が。
買主である自分の都合で。
売主の財産を安くする。
「正一さん」
私は言いました。
「誰の利益を守るための代理人なんですか?」
「あ?」
「お姉さんの代理人ですよね?」
「そうだよ」
「だったら、どうしてお姉さんの財産を、あなた自身が安く買えるんですか?」
正一は鼻で笑いました。
「代理人には契約する権限があるんだよ」
「でも」
「法律を勉強してる小娘には分からんだろうがな」
むっ。
小娘。
まあ、外見は十八歳ですけど。
中身は現代の行政書士受験生です。
しかも。
さっき、昭和の民法百八条を確認したばかりです。
「じゃあ聞きます」
私は言いました。
「お姉さんは、あなた自身が買主になることを、あらかじめ承諾していたんですか?」
正一の笑みが止まりました。
「……何?」
「あなたが売主代理人と買主を兼ねることを、事前に承諾していましたか?」
「そんな細かいこと、いちいち聞く必要があるか!」
「あります」
私は答えました。
「本人が誰に売るかを任せたからといって、代理人が自分自身に売っていいとは限りません」
「何だと?」
私は続けようとしました。
でも。
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい」
「そこまでだ」
「でも先輩!」
「確認は済んだ」
相馬先輩は正一を見ました。
「本人の事前承諾は、得ていないということですね」
「そんなもの必要ねえ!」
「分かりました」
先輩は手帳を閉じました。
「失礼します」
「おい!」
正一が怒鳴りました。
「姉貴に伝えとけ! 契約書はもうできてる! 俺は絶対に店を手放さんぞ!」
私たちは、そのまま外へ出ました。
秋の風が商店街を抜けていきます。
私は悔しくなりました。
「先輩!」
「何だ」
「もっと言い返せましたよ!」
「何をだ」
「自己契約です! 民法百八条です!」
「知ってる」
「だったら!」
相馬先輩は煙草を取り出しました。
「こはる」
「はい」
「俺たちの仕事は、口喧嘩じゃねえ」
「……はい」
「法律問題を整理して、本人が出す書面を作ることだ」
先輩は火をつけました。
「相手が勝手な理屈を並べるなら、勝手に並べさせとけ」
「でも!」
「その理屈が、法律のどこに引っかかるか。全部記録するんだ」
私は黙りました。
「今日、正一は何て言った?」
「委任状があるから契約は有効だと」
「他には?」
「自分が買うんだから安くしてもいいって」
「他には?」
「本人の事前承諾なんか必要ないって」
「そうだ」
先輩は、にやりと笑いました。
「全部、自分から言ってくれたじゃねえか」
あ。
私は気づきました。
代理権の範囲を超えた価格。
本人の事前承諾のない自己契約。
本人の利益を無視した行為。
正一は、その重要な事情を自分の口で認めたのです。
「先輩……」
「何だ」
「もしかして、怒鳴り返さなかったのは……」
「相手の話を最後まで聞いた方が、事実が取れることもある」
なるほど。
そして。
相馬先輩は言いました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
……出ました。
相馬先輩の口癖。
ただし今回は。
正一自身が押したハンコを、どう扱うかが問題なのです。
◇
「……自己契約って、そんなに危ないんですね」
午後。
片桐行政書士事務所。
私は六法を広げていました。
民法百八条。
自己契約及び双方代理。
昭和六十三年の条文では、同じ法律行為について相手方の代理人となったり、当事者双方の代理人となったりすることは、原則としてできません。
ただし。
債務の履行。
本人があらかじめ許諾した行為。
こうした例外があります。
「所長」
「何だ」
「現代の民法では、自己契約は原則として無権代理行為とみなすって、はっきり書いてあるんですけど……」
「現代?」
「あっ」
しまった。
「い、いえ! 私が勉強した参考書では!」
片桐所長は、何も言わずにこちらを見ました。
怖い。
絶対に不審がられています。
相馬先輩が横から言いました。
「今の百八条は、禁止するって書き方だ。だが、違反した行為の効力については判例がある」
「判例?」
「昭和四十七年四月四日。最高裁だ」
私はノートを開きました。
最高裁。
昭和四十七年四月四日。
自己契約、双方代理に関する判例。
本人の事前の承認や追認がない場合、無権代理と同様に扱うという考え方です。
「……あっ!」
私は声を上げました。
「じゃあ、今の民法でも、無権代理として扱えるんですね!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きます。
「条文に直接『無権代理とみなす』と書かれてなくても、判例の考え方がある」
なるほど。
またです。
未来では明文化されるルールが、昭和では判例として存在する。
昔の民法を扱うには。
条文だけでなく、判例が欠かせない。
「でも所長」
私は尋ねました。
「正一さんは、そもそも三百万円で売る権限がありませんよね」
「そうだ」
「そのうえ、本人の承諾なく、自分に売っています」
「そうだ」
「二重に問題があるんですね」
所長が頷きました。
「重要なのは、正一が作った契約書だけで、千鶴さんが店を失うわけではないということだ」
「……はい!」
ここが核心です。
代理権がない者が、勝手に他人の代理人として契約した場合。
本人が追認しなければ、その契約の効力は本人に帰属しません。
民法百十三条。
「でも、追認したら有効になるんですよね」
私が言うと、所長が頷きました。
「そうだ」
「もし千鶴さんが後から『それでいいです』と認めたら……」
「契約時にさかのぼって効力が生じるのが原則だ。ただし、第三者の権利を害することはできん」
民法百十六条。
追認の遡及効。
私は頷きました。
正一が勝手に作った売買契約。
それだけでは、千鶴さんを拘束しない。
でも。
千鶴さんが追認すれば、話が変わる。
「……だから、本人の意思確認が大切なんですね」
「そうだ」
所長は千鶴さんから受け取った事実確認書を取り出しました。
――本件売買契約を承諾した事実はない。
――藤村正一に対し、自己を買主とする契約を許諾した事実はない。
――金三百万円による売却を認めた事実はない。
――本件売買契約を追認する意思はない。
千鶴さん自身の署名。
押印。
私は、その紙を見ました。
さっきまで。
正一は、ハンコがあると勝ち誇っていました。
でも。
本当に大切なのは。
誰が、どんな意思で、何を認めたのか。
そこなのです。
「こはる」
所長が言いました。
「原案を書け」
「はい!」
「今回は、二つの問題を分けろ」
「二つ?」
「代理権の範囲を超えたこと」
「はい」
「自己契約をしたこと」
「はい!」
「どちらも、事実と法律を混同するな」
私は頷きました。
そして。
内容証明郵便の原案を書き始めました。
◇
一時間後。
「できました!」
私は原案を差し出しました。
片桐所長が読みます。
相馬先輩も覗き込みました。
「……こはる」
「はい!」
「ここ、何だ」
先輩が指した一文。
――本件売買契約は当然に無効であり、いかなる場合も有効となる余地はない。
「駄目ですか?」
「駄目だ」
「ええっ!?」
「追認の余地があるだろ」
あ。
そうでした。
民法百十三条。
本人が追認すれば、効力が生じる。
だから。
無権代理だから絶対に有効にならない、というわけではない。
「それに、本人に効力を生じないことと、契約について誰にも何の法律問題も残らないことは違う」
相馬先輩が続けました。
「正一が、自分の代理権を証明できなかったら?」
「本人の追認も得られなければ、無権代理人の責任が問題になります」
「そうだ」
民法百十七条。
無権代理人の責任。
一定の要件のもとで、相手方が履行や損害賠償を求められる制度です。
ただし。
「今回、正一さんは契約の買主本人でもありますよね」
「そうだ」
「だから、一般の第三者が無権代理人を信用して契約した場合とは、事情が違いますね」
所長が頷きました。
「自分が代理権の範囲を超えていると知りながら、自分を買主にした者が、善意の取引相手として保護されるはずだ、などと簡単には言えん」
なるほど。
民法は、相手方も保護する。
でも。
自分で勝手な契約を作った者まで、無条件に守るわけではないのです。
「それから、ここ」
所長が別の一文を指しました。
――正一は代理権を濫用したため、民法第百七条により無権代理とみなされる。
「……あっ」
「またか」
「すみません!」
私は慌てて赤鉛筆を取りました。
昭和六十三年。
代理権濫用について、現代の百七条をそのまま使うことはできません。
判例上の考え方を使う必要があります。
「今回は、百八条と百十三条を中心に組み立てろ」
片桐所長が言いました。
「代理権の範囲を超えた点も忘れるな」
「はい!」
私は書き直しました。
そして。
ようやく完成したのです。
千鶴さん本人が差し出す、内容証明郵便の原案が。
宛先。
藤村正一。
差出人。
藤村千鶴。
表題。
――無権代理行為に関する追認拒絶及び権利主張に対する通知書。
私は読み上げました。
「第一。通知人は、貴殿に対し、店舗兼居宅の売却につき、代金千八百万円以上とする条件のもとで代理権を授与した」
「うん」
「第二。しかるに貴殿は、右条件に反し、通知人の承諾を得ることなく、売買代金を金三百万円と定めた」
「うん」
「第三。さらに貴殿は、通知人の代理人として売主の立場に立つと同時に、自ら買主となり、本件売買契約書を作成した」
私は息を吸いました。
「第四。右行為は、民法第百八条の定める自己契約の禁止に抵触する。昭和四十七年四月四日最高裁判決の趣旨に照らしても、本人の事前承認又は追認を欠く自己契約は、無権代理行為と同様に扱われる」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第五。通知人は、貴殿が自ら買主となることをあらかじめ許諾しておらず、売買代金三百万円による処分を承諾していない」
「うん」
「第六。通知人は、民法第百十三条に基づき、本件売買契約を追認しない旨を、ここに明確に通知する」
所長が顔を上げました。
「そこだ」
「はい」
「一番重要な意思表示だ」
私は頷きました。
追認しない。
それは。
千鶴さん本人が、勝手な代理行為を認めないという意思表示です。
私は最後を読みました。
「第七。したがって、本件売買契約は通知人に対して効力を生じず、貴殿は右契約のみを根拠として本件不動産の引渡し又は所有権移転を請求できない」
「うん」
「第八。貴殿において本件売買契約に基づく権利主張を継続し、又は登記その他の手続を進めようとする場合には、通知人は弁護士への相談のうえ、必要な法的措置を検討する」
読み終わりました。
事務所が静かになります。
「……どうでしょう」
私は尋ねました。
相馬先輩が書面を手に取りました。
「悪くねえ」
「本当ですか!?」
「ただし、最後にもう一つ確認だ」
「はい」
「本人が、これまでに追認と評価されるような言動をしていないか」
私は千鶴さんの事実確認書を見直しました。
売買代金は受け取っていない。
店は明け渡していない。
契約を承諾していない。
そのほか、追認と受け取られ得る言動がないかも確認する必要があります。
「その確認も済ませます!」
「よし」
片桐所長は、完成した原案を机に置きました。
「千鶴さんに、一字一句確認してもらえ」
「はい」
「これは本人の意思表示だ。俺たちが勝手に決めるものじゃない」
私は頷きました。
内容証明。
それは、行政書士が依頼人の代わりに怒鳴るための道具ではありません。
依頼人自身の意思を。
事実と法律に沿って。
相手に正確に届けるための書面です。
千鶴さんは翌日、原案を読み、内容を確認したうえで署名押印しました。
そして。
内容証明郵便が発送されたのです。
◇
三日後。
藤村正一は、その書面を受け取っていました。
そして。
片桐行政書士事務所へ電話をかけてきたのです。
「……あの」
私は受話器を取りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『藤村正一だが……』
あ。
あの人です。
『片桐さんはいるか』
「少々お待ちください」
所長に代わりました。
「片桐です」
『あの……内容証明の件で』
「はい」
『弁護士に、見せたんだが……』
私は思わず顔を上げました。
相馬先輩も新聞を下ろしました。
『民法百八条ってのは、本当なのか』
所長は短く答えます。
「記載した条文と判例は、確認してあります」
『……』
電話の向こうで、正一は黙りました。
『俺、委任状があれば何でもできると思ってたんだ』
「そうですか」
『でも、弁護士に言われた』
正一の声が小さくなります。
『千八百万円以上という条件を勝手に破ってるうえ、自分が買主になることも許されていない。姉が追認しない以上、この売買契約だけで店を取得したとは言えないって……』
私は息を呑みました。
正一が続けます。
『それに、俺が売買を強行しようとしたら、姉の方が訴訟を起こす可能性もあるって』
「その点は、ご本人が弁護士に相談して判断されることです」
『……分かってる』
正一は、しばらく黙りました。
そして。
『……契約書は、もう使わない』
私は思わず立ち上がりそうになりました。
『店の明渡しも求めない。登記の手続もしない』
「そのようなお考えであれば、ご本人に直接、書面でお伝えください」
『……分かった』
電話が切れました。
私は所長を見ました。
「所長!」
「何だ」
「折れましたよね!?」
「ああ」
「やりましたね!」
しかし。
相馬先輩は、いつものように言いました。
「まだだ」
「ええっ!?」
「本人に書面が届くまで、安心するな」
……またです。
でも。
今度は私も分かっていました。
電話で言っただけでは、後で争いが残るかもしれない。
だからこそ。
書面。
なのです。
◇
翌週。
千鶴さんが事務所を訪れました。
手には、小さな紙袋。
そして、一枚の確認書。
「弟から、これが届きました」
私は確認書を読みました。
――藤村正一は、藤村千鶴との間における店舗兼居宅の売買契約につき、同人の代理人として自ら買主となったことを認める。
――藤村千鶴が右売買契約を追認しない旨を通知したことを確認する。
――藤村正一は、本件売買契約に基づく所有権取得、建物引渡しその他の権利を今後主張しない。
――本件売買契約に基づく所有権移転登記の申請をしない。
末尾。
藤村正一。
署名。
押印。
「……!」
私は思わず声を上げました。
「これ!」
相馬先輩が笑いました。
「何だ」
「ハンコです!」
「そうだな」
「今度は、自分の権利を主張しないって書面に押してます!」
「そうだ」
私は嬉しくなりました。
最初は。
勝手に作った売買契約書のハンコで、店を奪おうとしていた正一。
でも今は。
契約に基づく権利を主張しないことを、自分で確認している。
もちろん、書面があるだけで将来のあらゆる紛争が絶対になくなるわけではありません。
しかし。
千鶴さんの意思。
正一の認識。
追認拒絶の事実。
そして、今後の権利主張をしないという約束。
それらが、記録として残ったのです。
「弟、最後に言っていました」
千鶴さんが小さく笑いました。
「姉さんが、あんな法律を知っているとは思わなかったって」
「……!」
私は思わず吹き出しました。
「それ、ひどいですね!」
「ええ」
千鶴さんも笑いました。
「私が何も知らないと思っていたんでしょうね」
それから。
少しだけ、表情を曇らせました。
「でも……弟とは、しばらく距離を置くつもりです」
私は頷きました。
法律で契約の問題を整理できても。
裏切られた心までは、すぐに元に戻りません。
親戚だから。
家族だから。
その言葉で、何でも許されるわけではないのです。
「ところで」
千鶴さんが紙袋を開きました。
「これ、皆さんで食べてください」
中から現れたのは。
栗まんじゅう。
焼き色のついた、小さな丸いお菓子。
「店を続けられることになったので、今朝焼いたんです」
私は思わず目を輝かせました。
「わあ……!」
「主人が考えた配合なんです」
千鶴さんが一つ、私に差し出しました。
「この栗まんじゅうだけは、ずっと作り続けたくて」
私は両手で受け取りました。
まだ、ほんのり温かい。
一口食べると。
白餡の甘さ。
栗の香り。
柔らかい生地。
「……おいしい!」
思わず声が出ました。
千鶴さんが笑いました。
「ありがとうございます」
私はもう一口食べました。
そして思いました。
二千万円以上の価値がある店舗。
それを三百万円で奪われそうになった。
金額だけでも、ひどい話です。
でも。
この店には、金額では計れないものがある。
亡くなった夫との思い出。
三十五年間のお客さん。
毎朝の仕込み。
焼きたてのお菓子。
全部です。
民法が守ったのは。
土地と建物の所有権だけではありませんでした。
そこで続いていく、誰かの暮らしだったのです。
◇
千鶴さんが帰ったあと。
私はノートを開いていました。
「先輩」
「何だ」
「代理って、怖いですね」
「便利でもあるけどな」
「はい」
私は頷きました。
本人が忙しいとき。
遠くに住んでいるとき。
自分ではできない取引があるとき。
誰かに代理を任せられる。
それは、とても便利な制度です。
でも。
代理権を与えたからといって、何でも自由にしていいわけではない。
範囲がある。
目的がある。
本人の利益がある。
そして。
「所長」
「何だ」
「もし、千鶴さんが正一さんに、自分で買ってもいいと、あらかじめ承諾していたらどうなったんでしょう?」
所長が顔を上げました。
「いい質問だ」
私は少し嬉しくなりました。
「自己契約そのものは、本人の事前の許諾があれば、禁止の例外となる」
「はい」
「だが今回は、価格の条件も問題だったな」
「……あっ!」
そうです。
仮に、自分が買主になることを許可していたとしても。
千八百万円以上という条件まで、勝手に無視できるわけではありません。
「つまり」
私は言いました。
「自己契約の許諾と、売却価格の変更は別問題なんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「一つの承諾が、すべての承諾になるわけではない」
私はノートに書きました。
本人が何を許したか。
代理人が何をしたか。
そこを正確に分ける。
相馬先輩が言いました。
「それと、こはる」
「はい」
「今回は買主と売主代理人が同じだったが、もっと面倒な場合もあるぞ」
「もっと?」
「ああ。売主の代理人と買主の代理人が、同じ奴だったらどうする」
「……え?」
私は想像しました。
売主A。
買主B。
ところが。
Aの代理人もC。
Bの代理人もC。
同じCが、両方の代理人として契約する。
「それ……」
「双方代理だ」
私は息を呑みました。
「自分で売って自分で買う自己契約だけじゃないんですね」
「そうだ」
「双方代理も、利益が衝突する危険がある」
「そこだ」
私はノートに書き加えました。
自己契約。
双方代理。
どちらも、本人の利益が犠牲になる危険がある。
だから、民法は原則として禁止する。
「でも、先輩」
「何だ」
「代理人が悪いことをした場合、相手方はどうなるんですか?」
相馬先輩がこちらを見ました。
「ほう」
「たとえば、買主は本当に代理権があると思って契約したのに、後から無権代理だと分かったら?」
「いいところに気づいたな」
私は嬉しくなりました。
「褒めましたね!」
「まだだ」
「何でですか!」
先輩は六法を指しました。
「民法百十四条から百十七条を見ろ」
私はページをめくりました。
催告権。
取消権。
無権代理人の責任。
なるほど。
本人だけではなく。
代理人を信じた相手方にも、法律は一定の手段を用意している。
「相手方が本人に、追認するかどうか答えろって催告できるんですよね」
「そうだ」
「相当の期間を定めて催告して、本人が確答しなければ、追認拒絶とみなされる」
「うん」
「それから、本人が追認する前なら、善意の相手方は契約を取り消せる場合がある」
「そうだ」
「さらに、無権代理人自身への責任追及も……」
「ただし、相手方が代理権のないことを知っていた場合や、過失で知らなかった場合などには、制限がある」
「はい!」
私は大きく頷きました。
今回の正一は、自分自身が買主でした。
だから、普通の善意の相手方とは事情が違います。
でも。
代理人に騙された第三者がいた場合。
そこにも、民法は一定の保護を用意しているのです。
「……面白いですね」
私が呟くと、相馬先輩が笑いました。
「またそれか」
「だって!」
私は言いました。
「無権代理って、ただ『勝手に契約したら駄目』って話じゃないんですね」
「そうだな」
「本人を守る」
「うん」
「相手方も守る」
「うん」
「でも、悪いことをした代理人まで、何でも守るわけじゃない」
所長が静かに頷きました。
「それが、取引の公平だ」
私は、その言葉をノートに書きました。
公平。
民法の真ん中にある、大切な考え方。
誰か一人が、勝手に他人の財産を動かせてしまったら。
社会は安心して契約できません。
でも逆に。
本人の知らないところで代理人が嘘をついたからといって、何も知らずに契約した相手方が常に泣き寝入りするのも、おかしい。
だから。
追認。
催告。
取消し。
無権代理人の責任。
いくつもの制度が用意されている。
その一つ一つには。
人の財産と、取引への信頼を守るための理由があるのです。
◇
夕方。
事務所の窓から、赤い西日が差し込んでいました。
私はノートの最後に、一行を書きました。
――代理人のハンコがあっても、本人の許していない契約が当然に本人を縛るわけではない。
「……よし!」
私は鉛筆を置きました。
「所長!」
「何だ」
「今日の教訓です!」
所長が顔を上げました。
「言ってみろ」
「代理権があることと、何でも好きに契約できることは違います!」
「うん」
「自己契約や双方代理は、本人の利益を害する危険があるから、原則として禁止されます!」
「そうだ」
「そして、無権代理でも、本人が追認すれば効力が生じることがある!」
所長が頷きました。
「よし」
私は嬉しくなりました。
でも。
そのとき。
相馬先輩が一枚の紙を差し出しました。
「こはる」
「はい?」
「じゃあ、これも見てみろ」
そこには、新しい相談票。
相談者。
町工場の経営者。
相談内容。
――仕入担当者が、会社の代理人として高額な機械を購入した。
――購入権限自体は与えていた。
――しかし、機械の納入業者と仕入担当者が裏で結託し、代金の一部を担当者へ渡していた疑いがある。
私は目を見開きました。
「……え?」
代理権はある。
買った機械も、代理権の範囲内。
でも。
代理人は、自分の利益のために契約した。
しかも。
相手方も、それを知っていた可能性がある。
「先輩!」
「何だ」
「これ、代理権の濫用じゃないですか!」
「そうだ」
「でも昭和六十三年には、今の民法百七条がない!」
「そうだな」
「だったら、どうするんですか!?」
相馬先輩は、にやりと笑いました。
「昭和四十二年四月二十日」
私は止まりました。
「……判例?」
「ああ」
最高裁。
昭和四十二年四月二十日。
代理権の濫用。
民法九十三条ただし書の類推適用。
あ。
今日の最初に、先輩が言っていた判例です。
「先輩!」
「何だ!」
「今日の事件より、さらに複雑じゃないですか!」
「そうだな」
「代理権がない場合と、代理権はあるけど濫用した場合を、区別しないといけないんですね!」
「そのとおりだ」
私は、思わず笑ってしまいました。
昭和の民法。
本当に、一筋縄ではいきません。
現代の民法なら、条文に整理されていることが。
この時代では。
判例を探して。
条文の意味を考えて。
そこから結論を導かなければならない。
でも。
少しだけ、分かってきました。
法律がどうして、改正されていくのか。
昔の裁判官たちが、具体的な事件を通じて積み重ねてきた考え方。
それが、やがて新しい条文になることがある。
つまり。
今の私が覚えている現代の民法も。
この昭和の世界で、誰かが悩み、争い、考え抜いた結果の上にあるのです。
「所長」
「何だ」
「民法って、歴史を知ると面白いですね」
「そうか」
「はい!」
所長は静かに帳簿を閉じました。
「なら、明日も勉強だな」
「えっ」
「今度は代理権の濫用だ」
「……!」
相馬先輩が笑いました。
「よかったな、こはる」
「何がですか!」
「好きな民法が、まだまだ勉強できるぞ」
「先輩、絶対面白がってますよね!?」
「お互い様だろ」
「ぐっ……!」
私は言い返せませんでした。
だって。
本当に面白いのです。
民法。
代理。
無権代理。
自己契約。
双方代理。
代理権の濫用。
言葉は難しい。
条文もややこしい。
昭和と現代で、規定の仕方まで違う。
でも。
今日、一つの和菓子屋が守られました。
三十五年間、栗まんじゅうを焼いてきた女性が。
自分の店で、また明日もお菓子を作れる。
それだけで。
民法を勉強する理由としては、十分な気がしました。
私は机の上に残った栗まんじゅうを一つ取りました。
「……おいしい」
相馬先輩が振り向きます。
「おい、こはる」
「はい?」
「それ、俺の分じゃねえか?」
私は固まりました。
「……え?」
「俺が取っておいたやつだ」
「でも、机の上にあったので……」
「だから?」
「誰のものか分からなかったので……」
「勝手に食ったのか?」
私は慌てました。
「せ、先輩!」
「何だ」
「これは代理権の問題ではなく、所有権の問題です!」
「知ってるよ!」
「しかも、私には食べる権限が……!」
「ねえだろ!」
「……!」
しまった。
今日一日、他人の権限を勝手に使ってはいけないと勉強していたのに。
私は、先輩の栗まんじゅうを勝手に食べてしまったのです。
「こはる」
所長が静かに言いました。
「はい……」
「他人のものは、勝手に食べるな」
「……はい」
相馬先輩が笑いました。
「代理権以前の問題だな」
「もう! 分かりましたよ!」
私は赤くなりました。
でも。
栗まんじゅうは、本当においしかったのです。
そして、私は思いました。
他人の大切なものを、自分の都合で勝手に扱ってはいけない。
それは。
土地でも。
建物でも。
栗まんじゅうでも。
きっと、同じことなのです。
――代理権は、本人の財産を好き勝手にするための許可証ではない。
今日の教訓。
これなら、絶対に忘れません。
ただし。
相馬先輩の栗まんじゅうを食べたことについては。
どうやら、民法百八条を持ち出しても、許してもらえそうにありませんでした。
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