[民法・代理と顕名]法理編 こはるノート
契約書に名前を書いた人が、必ずしも契約の当事者になるわけではありません。
ハンコを押した人が、必ずしも代金を受け取るわけでもありません。
では。
誰が権利を取得し、誰が義務を負うのでしょうか。
その答えを決めるのが。
――代理。
そして、代理の世界には、たった二文字の重要な言葉があります。
――顕名。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
今日の見出しは。
――代理の基本と顕名。
「……先輩」
「何だ」
「民法百条って、性格悪くないですか?」
新聞を読んでいた相馬先輩が顔を上げました。
「お前、今度は法律の性格診断か?」
「だって!」
私は鉛筆を握りました。
「代理人が本人のために契約したのに、本人のためだと示さなかったら、原則として代理人自身のためにしたものとみなすんですよ!」
「そうだな」
「なのに!」
「なのに?」
「相手が知っていたら、本人に効果が帰属する!」
「それがどうした」
「だったら最初から、相手が分かっていればいいじゃないですか!」
相馬先輩は新聞を畳みました。
「こはる」
「はい」
「昨日の高瀬さんの事件を思い出せ」
私は手を止めました。
高瀬千鶴さん。
六十八歳。
自分の土地を売るために、息子の修一さんに代理権を与えた女性です。
売買代金は百八十万円。
買主は、東栄土地開発株式会社。
ところが。
契約書の売主欄には、息子の修一さんの名前しか書かれていなかった。
それを利用して、黒崎社長は残代金百六十万円の支払を拒否。
「契約書に母親の名前がないから、母親は売主じゃない」
そう主張しました。
しかし。
黒崎社長は最初から、千鶴さんの土地であることを知っていた。
委任状も確認していた。
しかも、自分で千鶴さん宛てに手紙まで書いていた。
そこで。
民法百条ただし書。
相手方が、代理人が本人のためにすることを知り、または知ることができた場合。
この例外が決定打になりました。
「……あの事件ですね」
「そうだ」
「結局、黒崎社長は全額払いました」
「ああ」
「顕名がなかったのに!」
「だからこそ、今日整理するんだろ」
なるほど。
現場で解決したからこそ、法律の仕組みを理解する。
私はノートの最初のページを開きました。
「よし!」
鉛筆を構えます。
「今日は代理を完全攻略します!」
「毎回それ言ってるな」
「気合いは大事です!」
奥から片桐所長の声がしました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……またですか」
こうして。
今日も片桐行政書士事務所の、強制勉強会が始まりました。
「まず、代理って何ですか?」
私はノートに大きく書きました。
――代理。
代理人が、本人に代わって意思表示をし、その法律効果を本人に直接帰属させる仕組み。
「つまり」
私は言いました。
「本人が自分で契約しなくても、代理人が契約すれば、本人に権利義務が生じます」
「そうだな」
「ただし、ちゃんと要件を満たしていれば、です」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ昨日の事件で説明してみろ」
「はい!」
私はノートに三人の名前を書きました。
本人。
高瀬千鶴。
代理人。
高瀬修一。
相手方。
東栄土地開発株式会社。
「千鶴さんは土地を持っていました」
「うん」
「でも、自分で不動産屋と契約するのは大変なので、息子の修一さんに売却を任せました」
「そうだ」
「そして、修一さんが東栄土地開発と売買契約を結びました」
私は矢印を書きました。
千鶴さん。
代理権を与える。
修一さん。
売買契約を締結する。
東栄土地開発。
「ここで重要なのが、代理の効果です」
「説明してみろ」
相馬先輩が言いました。
私は頷きました。
「土地の売買契約を結ぶと、売主には代金を受け取る権利が発生します」
「うん」
「その一方で、土地の所有権移転や引渡しに関する義務も発生します」
「そうだ」
「問題は、それが誰に帰属するかです」
そう。
代理人が契約書に署名したからといって、代理人が代金をもらうとは限りません。
むしろ。
有効な代理であれば。
代金を受け取る権利は、本人の千鶴さんに帰属します。
土地を移転する義務も、千鶴さんに帰属します。
「じゃあ修一さんは?」
相馬先輩が聞きました。
「原則として、売買契約の当事者にはなりません」
「そうだ」
「本人のために契約しているだけですから」
私は大きく丸をつけました。
――代理行為をする人と、法律効果を受ける人は違う。
「これ、当たり前のようで大事ですね」
「ああ」
「契約書に名前を書いた人と、売主として代金を請求できる人が違う場合がある」
「そこを間違えると、昨日みたいな騒ぎになる」
私は頷きました。
でも。
ここで疑問が浮かびます。
「先輩」
「何だ」
「代理人が勝手に本人の財産を売っても、本人に効果が帰属するんですか?」
「するわけねえだろ」
「ですよね!」
私は次の見出しを書きました。
――代理権。
本人に効果を帰属させるためには、原則として代理人に、その行為をする権限が必要です。
つまり。
誰かが突然、
「俺は千鶴さんの代理人だ!」
と名乗っても。
それだけで千鶴さんの土地を売れるわけではありません。
「代理人を名乗るだけなら、誰でもできますもんね」
「そうだ」
「でも、権限があるかどうかは別です」
片桐所長が静かに言いました。
「代理権は、名前ではなく根拠を確認しろ」
私はその言葉をノートに書きました。
◇
「次は、代理権の種類です!」
私はページをめくりました。
――任意代理権。
――法定代理権。
「この二つですね」
相馬先輩が頷きます。
「何が違う?」
「代理権が、どうやって発生するかです!」
まず。
任意代理権。
本人の意思によって与えられる代理権です。
「昨日の千鶴さんと修一さんがそうです」
「そうだな」
「千鶴さんが、自分の意思で息子に土地売却を任せました」
「うん」
「委任状もありました」
私は委任状の写しを思い出しました。
――本件土地の売買契約締結に関する権限を委任する。
――代金は百八十万円以上。
条件も明確でした。
「だから任意代理ですね」
「そうだ」
ここで私は、ひとつ書き足しました。
委任状があることと、代理権があることは、厳密には同じではない。
「お?」
相馬先輩が覗き込みました。
「いいところに気づいたな」
「褒めました?」
「まだだ」
「またそれですか!」
でも、ここは重要です。
代理権の授与は、必ずしも委任状という紙がなければ成立しないわけではありません。
本人が口頭で代理権を与えることもあり得ます。
ただし。
口頭だと、後で争いになったときに証明が難しい。
だから実務では、委任状などで権限を明確にすることが大切なのです。
「じゃあ、法定代理は?」
相馬先輩が聞きました。
「法律の規定によって代理権が与えられる場合です」
「例は?」
「親権者です!」
私は即答しました。
未成年の子供について、親権者が法律上の代理権を持つ場合。
これは法定代理です。
「それから成年後見人!」
私は勢いよく言いました。
その瞬間。
相馬先輩が顔をしかめました。
「……何だ、その後見人は」
「あっ」
しまった。
またです。
未来の法律用語。
「ええと、禁治産者の……」
「禁治産者の後見人だろ」
「はい!」
昭和六十三年。
この時代には、現在の成年後見制度はまだありません。
当時は禁治産制度。
禁治産者について後見人が置かれ、法律の定めに従って代理権を行使する仕組みです。
一方、現代では。
成年後見制度。
成年被後見人。
成年後見人。
そして保佐や補助の制度があります。
ただし、保佐人や補助人に、常に包括的な代理権があるわけではありません。
「なるほど……」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
禁治産者の後見人。
現代。
成年被後見人の成年後見人。
「代理という基本的な仕組みは同じでも、法律上の制度や用語は変わっているんですね」
「そういうことだ」
片桐所長が頷きました。
私は少し考えました。
「先輩」
「何だ」
「任意代理と法定代理って、何のために区別するんですか?」
「代理権の発生原因が違うからだ」
「はい」
「それに、終わり方にも違いがある」
……終わり方。
代理権の消滅。
昨日、私が頭を抱えたところです。
「後でやるぞ」
先輩が言いました。
「はい……」
私は小さく頷きました。
逃げられないようです。
◇
「さて」
相馬先輩が煙草を置きました。
「次が昨日の本題だな」
「顕名ですね!」
私はノートに大きく書きました。
――顕名。
代理人が、本人のためにすることを相手方に示すこと。
「これ、最初は名前を名乗ることだと思ってました」
「違うな」
「はい」
顕名とは、単に代理人の名前を明らかにすることではありません。
誰のために行為しているのか。
そこを示すことです。
「たとえば」
私は言いました。
「修一さんが、東栄土地開発にこう言えばよかったんです」
私は姿勢を正しました。
「私は高瀬千鶴の代理人として、この土地を売却します!」
相馬先輩が頷きます。
「そうだ」
「契約書にも『売主・高瀬千鶴、代理人・高瀬修一』と書けば、もっと明確でした」
「そのとおり」
私は民法九十九条を開きました。
代理人が、その権限内において、本人のためにすることを示して意思表示をしたとき。
その意思表示は、本人に対して直接効力を生じる。
「つまり、三つです!」
私は指を立てました。
「代理権がある」
「うん」
「代理人が本人のために行為することを示す」
「うん」
「代理権の範囲内で意思表示する」
相馬先輩が頷きました。
「基本はそれだ」
そして、その効果は本人に直接帰属する。
「でも先輩」
「何だ」
「顕名をしなかったら、どうなるんですか?」
「百条だ」
私は次の条文を開きました。
民法百条。
――本人のためにすることを示さない意思表示。
原則。
代理人が、本人のためにすることを示さないでした意思表示は、自己のためにしたものとみなす。
「つまり、修一さんが自分の名前だけで契約した場合、原則として修一さん自身が契約したものと扱われるんですね」
「そうだ」
「売主は修一さん」
「うん」
「買主は東栄土地開発」
「そうだ」
「でも、土地の所有者は千鶴さん」
私は鉛筆を止めました。
「……あれ?」
「どうした」
「修一さんは、自分の土地じゃないものを売ったことになるんですか?」
「その原則が適用されるなら、そういうことだ」
なるほど。
他人物売買。
自分に所有権のない物を売る契約です。
「でも、他人の物を売る契約って、全部無効なんですか?」
「違う」
相馬先輩が即答しました。
「売買契約自体は成立し得る」
「ですよね」
他人の物を売る契約も、当然に無効になるわけではありません。
ただし。
売主は、その物の権利を取得して買主に移転する義務などを負うことになります。
昭和六十三年当時は、旧民法五百六十条などが関係するところです。
「だから、修一さんが売主と扱われたら大変なんです」
「そうだな」
「母親の土地なのに、息子自身が売主の義務を負う可能性がある」
私は思わずため息をつきました。
顕名。
たった二文字。
でも、その有無で法律効果の帰属先が変わり得る。
怖い。
これは本当に怖いです。
◇
「しかし!」
私は勢いよく顔を上げました。
「民法百条には、例外があります!」
相馬先輩が笑いました。
「ようやく来たか」
「はい!」
私は赤鉛筆を握りました。
――ただし、相手方が、代理人が本人のためにすることを知り、又は知ることができたとき。
その場合は。
民法九十九条第一項が準用されます。
「つまり、本人に効果が帰属するんです!」
「そうだ」
私はノートに二つの言葉を書きました。
――悪意。
――有過失。
「ここ、法律用語がややこしいんですよね」
「ああ」
悪意。
一般的な日常会話では、悪い気持ちとか、害を加えようとする気持ちという意味です。
でも、民法でいう悪意は、基本的に事実を知っていること。
つまり。
相手方が、代理人が本人のために行動していると知っていた。
これが悪意です。
「黒崎社長ですね!」
「そうだ」
では、有過失。
注意すれば知ることができたのに、注意を怠って知らなかった場合です。
「ここは、単に『知らなかった』では済まないということですね」
「そうだ」
「相手方に、知ることができる事情があったかを考える」
私は頷きました。
今回の黒崎社長。
委任状を確認していた。
土地の所有者を知っていた。
本人宛ての書簡まで作っていた。
だから、実際に代理関係を認識していたことを示す証拠がありました。
「これ、悪意の証明に使えますね」
「ああ」
「でも、仮に本人のためだと知らなかったとしても、知ることができたなら百条ただし書が適用されます」
「そうだ」
私はノートに大きく書きました。
顕名なし。
原則、代理人自身の行為。
ただし、相手方が悪意または有過失なら本人に帰属。
「これです!」
私はノートを掲げました。
「今日の最重要ポイント!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、そこを押さえれば基本はいい」
「褒めましたね!」
「調子に乗るな」
私は笑いました。
でも。
ここで、もう一つ気になりました。
「先輩」
「何だ」
「顕名って、絶対に契約書に『代理人』って書かないと駄目なんですか?」
「そんなことはねえ」
「ですよね!」
顕名は、必ずしも決まった言葉や書式でしなければならないわけではありません。
本人のためにすることが相手方に示されていればよいのです。
ただし。
書類に明記しておけば、後から争いになりにくい。
だから、契約書には代理関係をはっきり書く。
「ここ、実務では大事ですね」
「一番大事なくらいだ」
相馬先輩が言いました。
「法律上、口で伝えても顕名になり得る。だが、あとから『聞いてない』と言われたらどうする」
「……証拠が必要です」
「そうだ」
私は昨日の事件を思い出しました。
契約書の記載漏れ。
買主の手紙。
委任状。
振込記録。
それらを集めるために、どれだけ苦労したことか。
最初から、
――売主 高瀬千鶴
――上記代理人 高瀬修一
と記載していれば。
少なくとも、あの形の争いは避けやすかったでしょう。
「契約書って、未来のトラブルを防ぐためのものでもあるんですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「そうだ」
「裁判になって勝つことより、裁判にならないようにする」
「それが大事だ」
私はその言葉を、ノートの端に書きました。
◇
「次は代理権の範囲です!」
私は新しいページを開きました。
――民法百三条。
権限の定めのない代理人の権限。
「これ、昨日の最後に出てきた山林の話ですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
山林の所有者である兄。
管理を任された弟。
ところが弟は、兄に無断で山林を売ってしまった。
「この場合、弟に売却権限があるとは限らないんですよね」
「そうだ」
民法百三条。
権限の定めのない代理人ができることは、基本的に二種類。
一つ目。
保存行為。
二つ目。
代理の目的である物や権利の性質を変えない範囲での、利用・改良行為。
「保存行為って、どんなものですか?」
私は自分で問いかけました。
相馬先輩が答えます。
「財産を現状のまま守るための行為だ」
「はい」
たとえば。
建物の壊れた窓を修理する。
雨漏りを直す。
財産の価値が失われないようにする。
こうした行為が保存行為の典型です。
「じゃあ利用・改良行為は?」
「物の性質を変えねえ範囲で、使ったり良くしたりすることだ」
たとえば。
通常の利用の範囲で建物を貸す。
建物の価値を維持・向上させるために、性質を変えない程度の設備を整える。
ただし、賃貸借については期間などによる制限もあり、何でも自由にできるわけではありません。
「では、土地を売却するのは?」
相馬先輩が聞きました。
「原則として、百三条の範囲には入りません!」
「正解」
「土地の所有権を処分する行為ですから」
私は頷きました。
保存。
利用。
改良。
それと。
処分。
これは違います。
「でも先輩」
「何だ」
「『管理を任せる』という言葉自体から、どんな権限を与えたか分かる場合もありますよね?」
「そうだ」
ここは注意点です。
民法百三条は、代理人の権限の範囲が定められていない場合の補充的な規定です。
実際には、本人が何を任せたのか。
委任状の内容。
本人と代理人のやり取り。
取引の経緯。
そうした事情から、具体的な授権の範囲を確認する必要があります。
「だから、単に『代理人だから百三条だけ』と決めつけても駄目なんですね」
「そのとおり」
私は書きました。
――代理権があることと、何でもできることは違う。
「ちなみに、昨日の修一さんは?」
相馬先輩が尋ねました。
「土地の売買契約締結権限が明確にありました」
「うん」
「しかも百八十万円以上という条件までありました」
「そうだ」
「だから、その範囲で契約を締結できたんです」
なるほど。
代理の要件。
代理権がある。
その範囲内で行為する。
本人のためにすることを示す。
または、顕名がなくても民法百条ただし書に該当する。
それぞれ別々に確認しないといけないのです。
◇
「さて」
相馬先輩が新聞を置きました。
「最後の難所だな」
「……来ましたね」
私は身構えました。
――代理権の消滅。
民法百十一条。
これです。
昨日、私が時代錯誤を起こしかけたところ。
「先輩」
「何だ」
「まず、本人が死亡した場合は?」
「原則、代理権は消滅する」
「はい!」
本人が死亡すれば、代理権は原則として消滅します。
任意代理でも、法定代理でも、基本となる考え方です。
ただし、個別の法律や特約などによって別の取扱いが問題になる場合はあります。
「代理人が死亡した場合は?」
「これも消滅だ」
そうです。
代理人本人に与えられた権限が、死亡によって当然にその子供へ引き継がれるわけではありません。
「では、代理人が破産した場合は?」
「原則として消滅する」
「代理人が禁治産の宣告を受けた場合は?」
「それも消滅する」
私は頷きました。
ここで昭和六十三年の条文が登場します。
当時の民法百十一条。
代理権の消滅事由として、本人の死亡、代理人の死亡・禁治産・破産が定められていました。
「現代では、ここの用語が違うんですよね」
「ああ?」
相馬先輩が眉をひそめます。
私は慌てて言いました。
「いえ、将来の民法では用語が整理される可能性もあるというか……」
「未来の話はいい」
「はい!」
でも。
私の頭の中では、ちゃんと比較できています。
昭和六十三年。
代理人の禁治産。
現代。
代理人について後見開始の審判。
それから、破産の表現も、現代では破産手続開始の決定という形になります。
基本的な仕組みを理解したうえで、条文の時代を間違えない。
転生受験生には必須です。
「ところで」
所長が声をかけました。
「本人が破産した場合は?」
私は止まりました。
「……そこが難しいんです!」
相馬先輩が笑いました。
「何でだ」
「任意代理と法定代理で違うからです!」
「説明してみろ」
私は六法を開き直しました。
民法百十一条。
本人の破産は、代理権一般の消滅事由としては挙げられていません。
しかし。
委任による代理権については、委任が終了すれば代理権も消滅する。
そして。
民法六百五十三条。
委任契約は、当時の原則として、委任者または受任者の破産などによって終了します。
「つまり……」
私は顔を上げました。
「本人が破産すると、委任に基づく任意代理権は、原則として委任の終了によって消滅するんです!」
「そうだ」
「でも、法定代理は?」
「本人が破産したという理由だけでは、当然に消滅しない」
「はい!」
私は大きく丸をつけました。
本人の破産。
任意代理では、委任終了を通じた代理権消滅が問題になる。
法定代理では、本人の破産そのものは一般的な消滅原因ではない。
「なるほど……!」
私は鉛筆を止めました。
「どうして違うんでしょう?」
片桐所長が答えました。
「代理権の根拠が違うからだ」
「根拠?」
「任意代理は、本人の意思によって与えられる」
「はい」
「法定代理は、法律によって与えられる」
「そうですね」
「だから、任意代理の基礎となる委任が終了する場面でも、法律による代理権まで当然に同じ扱いになるわけではない」
私は頷きました。
なるほど。
丸暗記しなくても、理由を考えれば分かります。
もっとも、本人が破産すれば、破産財団に属する財産について破産管財人の管理処分権が問題になります。
法定代理権が当然に消えないからといって、法定代理人が破産財団の財産を自由に処分できるわけではありません。
「つまり、代理権の存否と、具体的な財産を処分できるかは、また別の問題ですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
私はノートを見ました。
複雑だった表が、少しだけ意味のあるものに見えてきました。
◇
「先輩!」
「何だ」
「確認問題、出してください!」
「またか」
「お願いします!」
相馬先輩は腕を組みました。
「じゃあ、第一問」
「はい!」
「千鶴さんが息子に土地売却の代理権を与えた。これは?」
「任意代理です!」
「正解。第二問。親権者が未成年の子を代理する場合は?」
「法定代理です!」
「第三問。代理人が権限内で本人のためにすることを示して契約した。効果は?」
「本人に直接帰属します!」
「第四問。代理人が顕名せずに契約したら?」
「原則、代理人自身のためにしたものとみなされます!」
「例外は?」
「相手方が、本人のためにすることを知っていたか、知ることができた場合です!」
「よし」
私は拳を握りました。
ここまでは完璧。
先輩が続けます。
「第五問。土地の管理を任された代理人が、権限の範囲を定められていない場合、当然に土地を売れるか?」
「売れません!」
「理由は?」
「民法百三条です。権限の定めのない代理人は、保存行為と、物や権利の性質を変えない範囲の利用・改良行為しかできません!」
「よし」
「やった!」
「まだ終わりじゃねえ」
「え?」
「第六問。本人が死亡したら?」
「原則として代理権消滅!」
「代理人が死亡したら?」
「消滅!」
「代理人が破産したら?」
「原則として消滅!」
「本人が破産したら?」
私は息を吸いました。
「任意代理では、委任が終了することによって原則として消滅します!」
「法定代理は?」
「本人の破産だけでは、当然には消滅しません!」
相馬先輩が頷きました。
「よし。だいぶ分かってきたな」
「褒めましたね!」
「今回は褒めてやる」
「本当ですか!」
「ただし」
「はい?」
「本人が破産したら、どんな場合でも任意代理権が絶対に消える、とまで覚えるなよ」
「……え?」
「委任終了については特約や個別法の問題もある。原則と例外を意識しろ」
「はい!」
なるほど。
法律は、単純な表だけでは終わらない。
でも、基本をしっかり理解しておけば、例外も整理できます。
◇
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私はノートを見直しました。
代理。
代理権。
顕名。
効果の帰属。
権限の範囲。
代理権の消滅。
最初は、バラバラの知識でした。
でも。
昨日の事件に当てはめると、全部つながります。
千鶴さんが息子に代理権を与えた。
これは任意代理。
修一さんが、その代理権の範囲内で土地を売った。
ただし、契約書には代理人という記載がなかった。
だから民法百条が問題になった。
しかし、買主の黒崎社長は、本人のための契約であることを知っていた。
そこで百条ただし書。
本人である千鶴さんに、売買契約の効果が帰属する。
その結果。
千鶴さんが売主として残代金を請求できる。
そして、土地の所有権移転に必要な手続を行う義務も負う。
黒崎社長は、契約書の署名欄だけを根拠に、支払義務から逃れることができなかった。
「……なるほど」
私は鉛筆を置きました。
「所長」
「何だ」
「代理って、誰のためにするかが本当に大事なんですね」
「そうだ」
「代理権があっても、本人のためにすることが相手に伝わらなければ、問題になる」
「うん」
「でも相手が最初から知っていたら、形式的な記載漏れだけで逃げられない」
所長は頷きました。
「それが百条ただし書の意味だ」
私は笑いました。
「最初、百条って性格が悪いと思ったんですけど」
「まだ言ってるのか」
「今は、ちょっと優しいと思います」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「法律を人間扱いするな」
「でも、そうじゃないですか!」
私は続けました。
「顕名の原則は、相手方に誰と契約するか分かるようにするため」
「うん」
「でも、相手が実際に知っていたら、その人を保護する必要性は低い」
「そうだ」
「だから、本人に効果を帰属させる例外がある」
私は深く頷きました。
民法は。
形式を大切にする。
でも。
形式だけに縛られるわけではない。
実際に相手が何を知っていたか。
どういう取引だったか。
そこまで考える法律なのです。
「法律って、よくできてますね」
私が言うと。
相馬先輩が笑いました。
「お前、昨日も似たようなこと言ってたぞ」
「毎日、新しい発見があるんです!」
「便利な頭だな」
「褒めてます?」
「半分な」
「半分!」
私は笑いました。
◇
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「はい?」
「もし黒崎社長が、修一さんが代理人だと本当に知らず、注意しても知ることができなかったら?」
私は止まりました。
「……その場合は」
少し考えます。
顕名なし。
相手方は善意・無過失。
つまり。
「民法百条本文の原則が適用されます」
「そうだ」
「修一さん自身のために契約したものとみなされます」
「では、千鶴さんに代金請求権が当然に帰属するか」
「いいえ。その代理行為による効果は、当然には帰属しません」
所長が頷きました。
「よし」
私は少し緊張しました。
昨日の事件では、相手が知っていたから助かった。
でも、もし本当に知らなかったら。
結論は変わり得たのです。
「だから」
所長が言いました。
「契約書を作る段階で確認するんだ」
「はい」
「誰が本人か」
「はい」
「代理権の根拠は何か」
「はい」
「権限の範囲はどこまでか」
「はい」
「誰のための意思表示か」
私は頷きました。
「全部、明確にしておきます」
「それでいい」
所長は帳簿を閉じました。
「行政書士が作る書類は、後から争うためだけのものではない」
私は顔を上げました。
「争いを起こさせないためのものでもある」
その言葉が、胸に残りました。
昨日。
千鶴さんは百六十万円を取り戻しました。
でも、それまで何日も不安な夜を過ごしたはずです。
もし最初から代理関係を明確に記載していれば。
あの不安を減らせたかもしれない。
私はノートの最後に、一行だけ書きました。
――代理は「権限」と「誰のために」が命。顕名なしでも、相手が悪意・有過失なら本人に効果が帰属する。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「今日の一行です!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長えな」
「大事なことが多いんです!」
「まあ、意味は合ってる」
「やった!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
千鶴さんの笑顔。
修一さんの悔しそうな顔。
そして。
自分で書いた手紙によって、逃げ道を失った黒崎社長。
あの事件を思い出せば。
民法九十九条と百条は、ただの数字ではなくなります。
◇
「さて」
相馬先輩が立ち上がりました。
「勉強会は終わりだ」
「はい!」
「机を片付けろ」
「はい」
「六法も棚に戻せ」
「はい」
「それから、この契約書の控えも整理しとけ」
私は書類を受け取りました。
そして。
ふと、ひらめきました。
「先輩!」
「何だ」
「私、代理を理解しました!」
「そうか。よかったな」
「なので!」
「なので?」
「今日の掃除を、先輩に代理してもらいます!」
相馬先輩が止まりました。
「……は?」
「私の代理人として、掃除をしてください!」
私はにっこり笑いました。
「代理人が行為をして、効果は本人に帰属するんですよね?」
相馬先輩は無言で私を見ました。
そして。
「こはる」
「はい!」
「俺は代理権を引き受けてねえぞ」
「……あっ」
「それに、掃除すること自体を本人に直接帰属させるって、何の話だ」
「ぐっ……」
「人に掃除を任せるのは、代理とは限らねえ。単なる事実行為の代行だろ」
……。
確かに。
法律上の意思表示をする代理と、単に誰かの仕事を代わりにやることは違います。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「掃除をするという契約を、私の代理人として締結してください!」
「誰とだ」
「所長と!」
相馬先輩が大きくため息をつきました。
「お前な……」
そのとき。
奥から片桐所長が言いました。
「相馬」
「はい」
「こはるの掃除は、こはるにやらせろ」
「了解です」
「……!」
私は振り返りました。
「所長!」
「何だ」
「私の代理権授与の自由は!」
「相馬が引き受けるかは別問題だ」
「そ、それは……」
確かに。
本人が勝手に誰かを代理人にしたつもりでも、委任契約まで当然に成立するわけではありません。
それに。
掃除当番の割当てを、私が一方的に変更できるわけでもない。
私は肩を落としました。
「……代理って難しいですね」
相馬先輩が吹き出しました。
「お前が難しくしてるだけだ!」
「ひどい!」
私は渋々、箒を手に取りました。
窓の外。
夕暮れの町に、ぽつぽつと明かりが灯っています。
あのどこかで。
千鶴さんは、屋根の修理の相談をしているのでしょう。
これからの暮らしを、少し安心した気持ちで考えながら。
代理。
顕名。
効果の帰属。
硬い言葉です。
でも。
誰かを信じて、大切な財産の処分を任せる。
その信頼を、法律上の効果につなげる。
代理とは、そういう仕組みなのだと思います。
そして。
信頼を守るためには、権限と意思を明確にしなければならない。
契約書の一行。
委任状の一文。
そこを疎かにしないこと。
それが、依頼人の財産を守る第一歩なのです。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「掃除、進んでねえぞ!」
「今、代理制度の意義を考えてたんです!」
「考えながら掃け!」
「はいっ!」
私は笑いながら箒を動かしました。
そして、机の上のノートをもう一度見ました。
――代理は「権限」と「誰のために」が命。顕名なしでも、相手が悪意・有過失なら本人に効果が帰属する。
よし。
これで忘れません。
ただし。
今日ひとつ分かったことがあります。
代理の仕組みをどれだけ理解しても。
自分の掃除当番まで、勝手に他人へ押しつけられるわけではない。
……残念ながら。
民法九十九条も百条も。
私の箒を代わりに動かしてはくれないのでした。
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