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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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447/612

[民法・代理と顕名]現場編 「代理人の名前しかないから無効だ」の罠。売買代金を踏み倒す悪徳不動産屋と、民法100条が突きつける逃げられない契約

挿絵(By みてみん)

 誰のために約束したのか。


 たったそれだけのことが、土地一枚の運命を変えることがあります。


 契約書に名前がある。


 ハンコも押してある。


 だから、その人が売主だ。


 ……本当に?


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、民法の中でも地味な言葉に救われることになります。


 ――顕名。


 読み方は「けんめい」。


 代理人が、本人のために行為することを相手に示すことです。


 たった二文字。


 ところが。


 この二文字を巡って、悪徳不動産屋が百八十万円を踏み倒そうとしていました。


 しかも、その不動産屋は笑っていました。


「契約書を見てくださいよ。売主は息子さんでしょう? お母さんには一円も請求する権利なんかありませんよ」


 ……。


 その笑顔が消えるまで。


 あと三日でした。



「土地の代金を、払ってもらえないんです」


 朝九時。


 事務所にやってきた女性は、そう言って深く頭を下げました。


 名前は、高瀬千鶴さん。ーい


 六十八歳。


 紺色の上着に、使い込まれた布の鞄。


 その隣には、三十代後半の男性が座っています。


「息子の修一です」


「よろしくお願いします」


 修一さんも頭を下げました。


 片桐所長が二人にお茶を出すよう、私に目で合図しました。


「土地の売買ですか」


「はい」


 千鶴さんが鞄から封筒を取り出しました。


「主人が亡くなってから、ずっと持っていた土地なんです」


 市内の駅から少し離れた住宅地。


 約六十坪。


 古い建物を取り壊したあとの更地だそうです。


「固定資産税もかかりますし、私一人では管理できなくて……」


「それで売却を?」


「はい。息子に頼みました」


 なるほど。


 私は頷きました。


 本人が土地を所有している。


 息子に売却を任せる。


 典型的な任意代理です。


「委任状は作りましたか?」


 私が尋ねると、修一さんが一枚の紙を差し出しました。


 そこには、こう書かれていました。


 ――委任状。


 ――私は、私所有の下記土地について、売買契約の締結に関する一切の権限を、長男高瀬修一に委任します。


 ――売買代金は金百八十万円以上とし、売却代金は私名義の口座に支払うものとします。


 所在地。


 地番。


 地積。


 日付。


 委任者。


 高瀬千鶴。


 実印。


 印鑑証明書も添付されています。


「しっかりした委任状ですね」


 私が言うと、修一さんは苦笑しました。


「知り合いに教わって作ったんです。でも、肝心の契約書で失敗しまして……」


「失敗?」


 修一さんは二枚目の書類を差し出しました。


 土地売買契約書。


 買主。


 東栄土地開発株式会社。


 代表取締役。


 黒崎源一。


 代金。


 金百八十万円。


 手付金。


 金二十万円。


 残代金。


 金百六十万円。


 そして。


 売主欄。


 ――高瀬修一。


 私は目を止めました。


「あれ?」


「……そこです」


 修一さんが肩を落としました。


「母の名前を書き忘れたんです」


「書き忘れた?」


「不動産屋に、ここへ名前を書いてくださいと言われて。私、自分の名前を書いてしまって」


 私は契約書を見直しました。


 売主。


 高瀬修一。


 母親である千鶴さんの名前は、どこにもありません。


 代理人。


 という記載もない。


「……なるほど」


 嫌な予感がします。


「それで、どうなりました?」


 修一さんが唇を噛みました。


「手付金の二十万円は、母の口座に振り込んでもらいました。でも、残代金の支払日になっても、残りが振り込まれなくて」


「百六十万円が?」


「はい」


 千鶴さんが続けました。


「電話したら、社長さんが急に怒り出したんです」


「何と?」


「契約書に私の名前がない。だから私は売主じゃない。売主でもない人間に、お金を払う義務はないって……」


 私は眉をひそめました。


 なんですか、それ。


「でも、土地は千鶴さんのものですよね?」


「はい」


「黒崎さんも知っていたんですよね?」


「もちろんです。登記簿も見せています」


 修一さんが言いました。


「なのに、あの社長……」


 握りしめた拳が震えています。


「今度は、私が土地を売る約束をしたんだから、私が責任を取れって」


「責任?」


「母の土地を自分の土地みたいに売ったんだから、契約違反だ。損害賠償を請求するって」


 ……。


 私は言葉を失いました。


 土地の所有者は母親。


 母親は息子に売却を任せた。


 買主も、それを知っていた。


 それなのに。


 契約書の売主欄に息子の名前しかないことを利用して、代金の支払を拒んでいる。


 しかも、逆に損害賠償を請求する?


「所長」


 私は思わず言いました。


「これ、ひどくないですか?」


 片桐所長は契約書を見つめています。


「こはる」


「はい」


「まず、何が問題だ」


「代理です!」


「そうだ」


「本人が千鶴さん。代理人が修一さん。相手方が東栄土地開発です」


「うん」


「そして……」


 私は契約書を指差しました。


「顕名がない!」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「そこに気づいたか」


「はい!」


 私は勢いよく六法を開きました。


 民法九十九条。


 代理人が、その権限内で本人のためにすることを示して意思表示をした場合。


 その効果は、本人に直接帰属する。


 つまり。


 息子が母親の代理人として土地を売れば。


 売買契約の売主になるのは、母親です。


 代金を請求できるのも母親。


 土地を引き渡し、所有権移転に必要な手続をする義務を負うのも母親。


 代理人の息子ではありません。


「でも……」


 私は契約書を見ました。


 売主。


 高瀬修一。


 代理人という記載がない。


 そうなると。


「まずいですね……」


 私の声が小さくなりました。


 現代の民法でも、代理人が本人のためにすることを示さなかった場合、原則として代理人自身のためにしたものとみなされます。


 民法百条。


 それなら、この売買契約は。


 売主が修一さん。


 買主が東栄土地開発。


 という扱いになってしまうのでは?


「先輩!」


「何だ」


「これ、修一さんが売主になっちゃうんですか?」


「慌てるな」


「でも顕名が!」


「百条を最後まで読め」


「え?」


 私は六法に目を落としました。


 民法百条。


 その後半。


 ――ただし、相手方が、代理人が本人のためにすることを知り、又は知ることができたときは、前条第一項の規定を準用する。


 ……。


 私は止まりました。


「あっ」


 相馬先輩がにやりと笑いました。


「見つけたか」


「例外!」


「そうだ」


 私は顔を上げました。


「相手が、本人のために契約しているって知っていた場合!」


「うん」


「または、知ることができた場合!」


「そうだ」


 だったら。


 だったら!


「黒崎社長が、修一さんは千鶴さんの代理人だと知っていたことを証明できれば……!」


 片桐所長が頷きました。


「本人に効果が帰属する」


 私は思わず拳を握りました。


 よし!


 民法百条。


 顕名なし。


 原則は代理人自身の行為。


 でも、相手方が代理であることを知っていた、または知ることができたなら例外。


 この例外で戦えます!


 ただし。


「どうやって証明するんですか……?」


 私が呟くと、相馬先輩が笑いました。


「そこからが仕事だ」



 まず、事実を整理しました。


 千鶴さんが土地を所有していること。


 修一さんに売却の代理権を与えていること。


 修一さんが百八十万円で売買契約を結んだこと。


 そして。


 買主が、その代理関係を知っていたかどうか。


「修一さん」


 私は尋ねました。


「黒崎社長には、最初からお母さんの土地だと説明していたんですよね?」


「はい」


「証拠は?」


「……口で話しました」


 うっ。


 昭和六十三年。


 スマートフォンはありません。


 会話を録音した音声ファイルも、メールの履歴もありません。


 口で言った。


 相手は聞いていないと言う。


 これでは、水掛け論です。


 私は頭を抱えました。


「何か残っていませんか? 手紙とか、メモとか……」


「手紙……」


 修一さんが考え込みました。


 そのとき。


 千鶴さんが鞄を開きました。


「あの、これでは駄目ですか?」


 一通の封筒。


 東栄土地開発から届いた手紙です。


 私は受け取りました。


 差出人。


 黒崎源一。


 本文。


 ――高瀬千鶴様所有の土地につき、売却を希望されている旨、修一様より承りました。


 ――ご本人様のご意向に基づき、修一様を窓口として売買条件を協議させていただきます。


 ……。


 私は二度読みました。


 それから。


「先輩」


「何だ」


「あります」


「何が」


「相手が知っていた証拠!」


 相馬先輩が手紙を受け取りました。


 一読。


 そして。


「……こいつはいい」


 口元が上がりました。


 黒崎社長自身が書いた手紙。


 千鶴さん所有の土地。


 本人の意向。


 息子を窓口にして売買条件を協議。


 これだけ揃っていれば。


「知らなかった」


 とは、簡単には言えません。


「でも先輩」


「何だ」


「窓口って、代理人と同じとは限りませんよね?」


「おっ」


 相馬先輩が私を見ました。


「少しは頭を使うようになったな」


「少しは余計です!」


「そのとおりだ。窓口だってだけじゃ、契約締結の代理権まであると認識していた証拠とは限らねえ」


 なるほど。


 単なる連絡係。


 売買条件を伝えるだけの使者。


 本人に代わって契約を締結する代理人。


 これらは違います。


「じゃあ、まだ足りない……」


「もう一つ探せ」


 私は修一さんを見ました。


「契約するとき、委任状は見せましたか?」


「はい。社長に渡しました」


「渡した?」


「ええ。原本は母に返してもらいましたが、社長がコピーを取っていました」


「本当ですか!」


「はい。コピー代がもったいないって言いながら、自分で複写機を動かしてました」


 ……。


 黒崎社長。


 あなた。


 自分で証拠を複写していたんですね。


 さらに、契約当日のことを詳しく聞くと。


「社長は言いました。お母さんは来なくていい、委任状があるなら息子さんが契約書に名前を書けば済む、と」


「それは誰が聞いていました?」


「会社の女性事務員さんも、その場にいました」


 私は急いで書き留めました。


 もちろん、修一さんの記憶だけでは争いになる可能性があります。


 しかし。


 委任状。


 黒崎自身の手紙。


 登記簿。


 母親名義の口座への手付金振込。


 契約当日の説明。


 証拠が少しずつ繋がっていきます。


 片桐所長が口を開きました。


「こはる」


「はい」


「手付金は誰の口座に入った」


「千鶴さんです」


「なぜだ」


「……買主が、千鶴さんを売主だと理解していたから?」


「その事情を裏づける一つにはなる」


 私は振込通知書を確認しました。


 振込依頼人。


 東栄土地開発株式会社。


 受取人。


 高瀬千鶴。


 金二十万円。


 これも重要です。


 もし黒崎社長が本当に、


「売主は修一さんだ」


 と思っていたなら。


 なぜ手付金を母親名義の口座に振り込んだのでしょう。


 もちろん、第三者の口座を支払先に指定する契約もあり得ます。


 振込先が母親だからというだけで、当然に母親が売主になるわけではありません。


 でも。


 ほかの証拠と合わせれば。


 黒崎社長の主張は、どんどん苦しくなります。


「いいか、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「契約書の名前だけで全部が決まると思うな」


「はい」


「契約の前後に、誰が、何を知って、どう行動したか。それも見ろ」


 私は頷きました。


 代理。


 顕名。


 法律の教科書では、たった数行の話です。


 でも現場では。


 その数行を証明するために、何枚もの紙を集める必要がある。


 なるほど。


 民法。


 やっぱり、簡単じゃありません。



 翌日。


 修一さんが事務所に、一通の通知書を持ってきました。


 東栄土地開発から届いたものです。


 私は開いて読みました。


 ――本件売買契約における売主は、高瀬修一氏である。


 ――高瀬千鶴氏は契約当事者ではないため、残代金を請求する権利を有しない。


 ――修一氏が売主としての履行義務を果たさない場合、当社は契約上の責任を追及する。


 そして最後に。


 ――なお、当社は現在、本件土地の購入を希望していない。


 ……。


「ちょっと待ってください」


 私は顔を上げました。


「購入を希望していない?」


 修一さんが頷きました。


「契約したあと、近くに新しい道路ができる計画が変更になったそうで」


「それで?」


「土地の転売が難しくなったらしくて……」


 私は呆れました。


 つまり。


 最初は買うつもりだった。


 でも、儲からないと分かった。


 だから契約から逃げたい。


 そのために。


 契約書の記載ミスを利用している。


「そんなの、勝手すぎます!」


「だろうな」


 相馬先輩は平然と言いました。


「でも、相手は自分に都合のいい法律を見つけたつもりなんだ」


「民法百条の原則ですね」


「そうだ」


「顕名がなければ、代理人自身のためにしたものとみなす」


「うん」


「でも、例外を無視しています!」


「そこを突く」


 私はもう一度、通知書を見ました。


 それにしても。


 契約したあとで儲からなくなったから、払わない。


 そんなことが許されたら。


 契約って、何なのでしょう。


「所長」


 私は尋ねました。


「相手が買いたくなくなったって言えば、売買契約はなくなるんですか?」


「原則として、それだけではなくならん」


「ですよね!」


 所長は続けました。


「ただし、こちらにも履行の準備が必要だ」


「はい?」


「売主は、代金を受け取るだけではない」


 私ははっとしました。


 売買契約。


 買主は代金を支払う。


 売主は土地について所有権移転に必要な手続を行う。


 原則として、双方の義務は同時履行の関係にあります。


 買主だけに、


「金を払え!」


 と言っても。


 売主が必要な履行を提供できなければ、話は進みません。


「千鶴さん」


 所長が言いました。


「土地の所有権移転に必要な書類は、用意できますか」


「はい。司法書士の先生にも、前から相談してあります」


「引渡しに支障は?」


「ありません」


 所長が頷きました。


「なら、その準備状況も記録しておきましょう」


 私は書類を整理しました。


 土地の登記事項。


 委任状。


 売買契約書。


 手付金の振込資料。


 買主の手紙。


 所有権移転手続の準備状況。


 そして、本人の意思。


「千鶴さん」


 私は尋ねました。


「契約どおり、土地を売って代金を受け取りたいというお気持ちは変わりませんか?」


「はい」


 千鶴さんは頷きました。


「主人が残してくれた土地です。安くても、ちゃんと売れればいいと思っていました」


「はい」


「このお金で、古くなった家の屋根を直したかったんです」


 私は黙りました。


「雨が降ると、寝室に水が落ちてくるんですよ」


 千鶴さんは苦笑しました。


「修一には心配をかけたくなくてね」


「母さん……」


 修一さんの表情が歪みました。


「そんなこと、言ってなかったじゃないか」


「あなたも子供の学費で大変でしょう」


 ……。


 百六十万円。


 黒崎社長にとっては、転売で儲かるかどうかの数字。


 でも。


 千鶴さんにとっては。


 雨漏りする家を直すためのお金です。


 私は、契約書を握り直しました。


 絶対に。


 このまま泣き寝入りなんかさせたくありません。



「よし。内容証明を作るぞ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


 いよいよ反撃です。


 私は原稿用紙を取り出しました。


 まず、本人と代理人の関係。


 本人。


 高瀬千鶴。


 代理人。


 高瀬修一。


 代理権の発生原因。


 本人の意思による授権。


 任意代理です。


「ところで先輩」


「何だ」


「これが親権者だったら、法定代理ですよね?」


「ああ」


「未成年者の親が、法律によって代理権を持つ場合です」


「そうだ」


「でも今回は、千鶴さんが自分の意思で息子さんに任せています」


「だから任意代理だ」


 私は頷きました。


 ここまでは大丈夫。


 でも。


 次の瞬間。


 私はうっかり余計なことを書きかけました。


 ――民法第百十一条により、後見開始の審判を受けた場合には……


「こはる」


「はい?」


「何を書いてる」


「あっ」


 私は固まりました。


 民法百十一条。


 代理権の消滅事由。


 現代の条文では、代理人について「後見開始の審判」という言葉が出てきます。


 しかし。


 昭和六十三年。


 成年後見制度は、まだありません。


 当時の用語は。


 禁治産。


「……すみません」


 私は慌てて消しました。


 相馬先輩が怪訝な顔をします。


「また変な言葉を使おうとしたな」


「いえ、ちょっと未来の……」


「未来?」


「いえ、何でもありません。」


 現代民法の知識。


 また地雷を踏みました。


 片桐所長が静かに言いました。


「そもそも、今回そこを書く必要があるのか」


「……ありません」


「なら削れ」


「はい」


 私は鉛筆を置きました。


 なるほど。


 知っている法律を全部書けばいいわけではない。


 必要な法律を。


 必要なだけ。


 正確に使う。


 それが実務です。


「それと、もう一つ」


 所長が言いました。


「この委任状は、土地売買契約の締結権限を具体的に与えている」


「はい」


「もし、単に『土地の管理を任せる』という程度で、代理権の範囲が定められていなかったら?」


 私は考えました。


 民法百三条。


 権限の定めのない代理人。


 保存行為。


 そして、目的物の性質を変えない範囲での利用・改良行為。


「……土地を売却する権限までは、当然には認められません」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「代理人だから何でもできるわけじゃない」


 私は委任状を見ました。


 売買契約締結の権限。


 百八十万円以上。


 条件も明確。


 修一さんは、その範囲内で契約しています。


「よし!」


 私は原稿用紙に向き直りました。


「今度こそ、本題です!」


 相馬先輩が笑いました。


「最初から本題に集中しろ」



 二時間後。


 内容証明郵便の原案が完成しました。


 宛先。


 東栄土地開発株式会社。


 代表取締役。


 黒崎源一。


 差出人。


 高瀬千鶴。


 私は読み上げました。


「第一。本通知人高瀬千鶴は、本件土地の所有者であり、昭和六十三年八月十日、長男高瀬修一に対し、本件土地の売買契約締結に関する代理権を授与した」


「うん」


「第二。修一は、右代理権の範囲内において、貴社との間で、本件土地を代金百八十万円で売買する契約を締結した」


「うん」


「第三。本件契約書の売主欄には修一の氏名のみが記載されているが、貴社は、契約締結以前から本件土地が通知人の所有であることを知り、修一が通知人のために取引を行っていることを認識していた」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。貴社が通知人宛てに送付した書簡には、本件土地が通知人の所有であること、修一が通知人の意向に基づいて売買条件を協議することが明記されている。また、貴社は委任状を確認し、契約締結時の手付金二十万円を通知人名義の口座へ送金している」


「よし」


「第五。民法第百条ただし書は、代理人が本人のためにすることを示さなかった場合でも、相手方が本人のためにすることを知り、又は知ることができたときは、同法第九十九条第一項を準用すると定めている」


 私は一度、息を吸いました。


「第六。よって、本件契約書に代理人である旨の明示がないことのみを理由として、通知人への売買契約の効力の帰属を否定することはできない」


 ここです。


 今回の急所。


 契約書に代理人と書かなかった。


 それだけなら、黒崎社長の主張にも根拠はあります。


 でも。


 相手は知っていた。


 誰の土地か。


 誰が売ろうとしていたか。


 誰の代理で息子が動いていたか。


 そこを証拠で固めました。


「第七。本通知人は、本件売買契約に基づく残代金百六十万円の支払を求めるとともに、所有権移転に必要な手続の履行を提供する用意があることを通知する」


 そして最後。


「第八。貴社が本件契約の効力を否定し、履行を拒絶し続ける場合には、弁護士に相談のうえ、売買代金請求その他の適切な法的手段を検討する」


 私は読み終えました。


「……どうでしょう?」


 相馬先輩は黙って原案を読み返しています。


 片桐所長も目を通しました。


 しばらくして。


「こはる」


「はい!」


「ここは直せ」


「えっ!」


 所長が指差したのは、私が余白に書き加えた一文でした。


 ――貴社が支払わなければ、直ちに財産を差し押さえる。


「あ……」


「できるのか」


「……できません」


「そうだ」


 内容証明郵便を送っただけで、相手の財産を差し押さえることはできません。


 訴訟などで債務名義を取得し、強制執行の手続を踏む必要があります。


「脅し文句はいらん」


 所長が言いました。


「事実と法律だけでいい」


「はい……」


「そして、相手方との紛争交渉は我々の仕事ではない」


 相馬先輩も頷きました。


「俺たちは弁護士じゃねえ。相手の会社に乗り込んで、依頼人の代わりに示談交渉するわけにはいかねえんだ」


「はい」


「通知書は、千鶴さん本人の意思に基づいて作成する。契約の履行を巡って争いが続くなら、弁護士に渡す」


 私は頷きました。


 行政書士の武器。


 それは、相手を怒鳴りつけることではありません。


 書面です。


 事実を一つずつ積み重ね。


 法律に当てはめる。


 そこに余計な脅迫も、大げさな断定も必要ありません。


「所長」


「何だ」


「これ、相手は反論できますかね?」


「できるかどうかは、相手が考えることだ」


 所長は淡々と言いました。


「ただし、反論するなら、あの手紙の意味を説明しなければならん」


 私は、黒崎社長の書いた手紙を見ました。


 ――高瀬千鶴様所有の土地。


 ――ご本人様のご意向。


 ――修一様を窓口として。


 そして。


 委任状。


 手付金の振込記録。


 契約締結時の説明。


 ……これは。


 かなり苦しいでしょう。


 相馬先輩が笑いました。


「こはる」


「はい」


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


「またそれですか!」


「だが、今回はちょっと違う」


「何がです?」


「相手が先に、自分で手紙を書いてくれてる」


 私は思わず笑いました。


 確かに。


 黒崎社長は、自分の主張を崩す証拠を、自分で作っていたのです。



 内容証明郵便を発送してから三日目。


 事務所に電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……あの、東栄土地開発の黒崎ですが』


 私は受話器を握り直しました。


 黒崎源一。


 例の社長です。


「少々お待ちください」


 片桐所長に代わりました。


「片桐です」


『あの……高瀬さんからの通知書の件で』


「はい」


『あれ、そちらで作られたんですか』


「ご本人からのご依頼に基づいて、通知書の作成をお手伝いしました」


『……民法百条って、ああいう条文だったんですね』


 私は耳を澄ませました。


 所長は静かに聞いています。


『うちの顧問の先生にも見せたんですよ』


「そうですか」


『そしたら……』


 電話の向こうで、男が咳払いしました。


『あの手紙がある以上、代理関係を知らなかったって主張するのは難しいだろうと』


 ……。


 私は思わず相馬先輩を見ました。


 先輩が片眉を上げます。


『それに、契約書の売主欄に息子さんの名前しかないからって、当然にお母さんとの契約じゃなくなるわけではないと……』


 黒崎社長の声は、ずいぶん小さくなっていました。


『……あの、契約の件は、こちらで改めて検討します』


「分かりました。今後のお申し出は、高瀬様ご本人へ書面でお願いいたします」


『はい……』


「法的な争いが続く場合は、ご本人に弁護士への相談をお勧めすることになります」


『……そうですか』


 電話が切れました。


 私は思わず立ち上がりました。


「所長!」


「何だ」


「効いてますね!」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「まだ分からねえぞ」


「でも、あの強気な社長が!」


「相手の出方が変わっただけだ」


 そうでした。


 内容証明が届いた。


 法律を理解した。


 それだけでは、代金は戻ってきません。


 実際に支払われるまでは、まだ終わりません。



 翌週。


 高瀬千鶴さんから電話がありました。


『朝比奈さん!』


「はい!」


『お金、振り込まれました!』


 私は受話器を握りしめました。


「本当ですか!」


『はい。百六十万円、全部!』


 千鶴さんの声が震えています。


 その後、修一さんからも事情を聞きました。


 黒崎社長は、自社の顧問弁護士に書類を見せたそうです。


 そこで。


 契約書の記載だけでは逃げ切れないこと。


 買主自身の書簡が、本人を認識していた強い証拠になること。


 契約を一方的に拒絶し続ければ、売買代金請求などの訴訟に発展する可能性があること。


 そう説明されたのだとか。


 結局、黒崎社長は千鶴さんに直接連絡し、当初の売買契約どおりに履行する意向を伝えました。


 所有権移転手続は司法書士の立会いのもとで進められ、残代金の支払と必要書類の引渡しが確認されました。


 そして。


 黒崎社長は、本人名義で一枚の確認書を差し出したそうです。


 ――本件土地売買契約の売主が高瀬千鶴であることを確認する。


 ――高瀬修一が、同人の代理人として契約締結に関与したことを確認する。


 ――本件売買契約に基づく代金は、全額支払済みである。


 私はその確認書の写しを眺めました。


「先輩」


「何だ」


「やりましたね!」


「まあな」


「百八十万円の売買契約、ちゃんと履行されました!」


「ああ」


「契約書に代理人って書いていなかったのに!」


 相馬先輩が笑いました。


「だから言っただろ」


「何をです?」


「紙に書いてねえからって、相手が知ってることまで消えるわけじゃねえ」


 なるほど。


 顕名。


 確かに、重要な要件です。


 でも民法は。


 形式だけを見て、現実を無視する法律ではありません。


 相手が本人のための代理行為だと知っていた。


 それなのに、契約書の記載だけを盾に逃げる。


 そんな場面まで、原則を機械的に当てはめるわけではありません。



 一週間後。


 千鶴さんが事務所を訪れました。


 今度は、笑顔でした。


「ありがとうございました」


 深く頭を下げます。


「これで、屋根を直せます」


「よかったです!」


 私も笑いました。


 千鶴さんは小さな紙袋を取り出しました。


「これ、皆さんで」


 中には、手作りのお饅頭。


「そんな、気を遣わないでください!」


「いいんですよ。今朝、蒸したんです」


 千鶴さんは嬉しそうに言いました。


「主人が生きていた頃、よく作ったんです」


 私は一ついただきました。


 まだ、ほんのり温かい。


「……おいしい!」


「でしょう?」


 千鶴さんが笑いました。


「主人がね、雨漏りのする家でも、この饅頭を食べられれば十分だって言ってたんですよ」


 私は黙りました。


「でも、雨漏りは直さないとね」


 そう言って、千鶴さんは笑いました。


 その笑顔を見て。


 私は思いました。


 百六十万円。


 ただの売買代金ではありません。


 それは。


 亡くなった夫との思い出が残る家を、これからも守っていくためのお金。


 民法が守ったのは、数字だけではありませんでした。


「朝比奈さん」


「はい」


「息子が、私の代わりに契約してくれたでしょう?」


「はい」


「私、法律なんてよく分からないけど……」


 千鶴さんは少し照れくさそうに言いました。


「誰かに任せたって、ちゃんと私の約束になるんですね」


 私は頷きました。


「はい。ただし、代理権の範囲内で、本人のためにした契約だと認められることが大切です」


「そうなのね」


「今回は、修一さんが本当にお母さんのために動いていたことを、相手も知っていたんです」


 千鶴さんはゆっくり頷きました。


「息子に任せて、よかった」


 修一さんも照れたように笑いました。


「次からは、契約書にちゃんと代理人って書くよ」


「ぜひ、そうしてください!」


 私が力強く言うと。


 相馬先輩が横から口を挟みました。


「次からは、契約書を押す前に持ってこい」


「ははは……そうします」


 事務所に笑い声が広がりました。



 二人が帰ったあと。


 私は六法を開いていました。


 民法九十九条。


 民法百条。


 代理。


 顕名。


 最初は、どうしてわざわざ本人のためだと示す必要があるのか、よく分かりませんでした。


 代理人が契約したら、本人に効果が帰属する。


 それでいいじゃない。


 そう思っていたのです。


 でも。


 今回の事件で分かりました。


 契約した相手方からすれば。


 目の前の人が、自分自身のために契約しているのか。


 それとも、別の誰かのために契約しているのか。


 これは、とても重要な問題です。


 誰に代金を請求するのか。


 誰に物を引き渡すのか。


 誰が契約の責任を負うのか。


 そこが変わってしまうから。


「先輩」


「何だ」


「顕名って、相手にとっても大事なんですね」


「ああ」


「誰と契約したことになるか、分かるようにするため」


「そうだ」


「でも、最初から相手が知っていたら?」


「今さら知らなかったふりをさせる必要はねえだろ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 民法百条。


 原則と例外。


 きれいに繋がりました。


「所長」


「何だ」


「今日の事件、忘れられません」


「そうか」


「契約書に代理人って書いていなくても、相手が代理だと知っていれば、本人に効果が帰属するんですね」


「そうだ」


「でも、最初から顕名しておけば、こんな争いを避けやすかったんですよね」


 所長が頷きました。


「そのとおりだ」


 そして、短く言いました。


「勝てる争いでも、起こさずに済むなら、その方がいい」


 私は、はっとしました。


 そうです。


 今回は、たまたま証拠が残っていました。


 黒崎社長が自分で書いた手紙。


 委任状。


 振込記録。


 それらがあったから、法律上の主張を強く裏づけられた。


 でも。


 もし何も残っていなかったら?


 買主が最後まで、


「知らなかった」


 と言い続けたら?


 本人のための契約だったと証明することは、もっと難しくなったでしょう。


 相馬先輩が言いました。


「こはる」


「はい」


「法律は、揉めたときに使うもんだと思ってるか?」


「……違うんですね」


「そうだ」


 先輩は契約書を指差しました。


「揉めないように、最初から書いておくためにも使うんだ」


 私は、その言葉を胸に刻みました。


 民法。


 代理。


 顕名。


 たった二文字。


 でも、その二文字があるだけで。


 百六十万円を巡る争いを、防げたかもしれない。


 私はノートの最後に、一行だけ書きました。


 ――代理は「誰のために」が命。顕名がなくても、相手が知っていれば本人に効果が帰属する。


 よし。


 今日の教訓。


 これなら、絶対に忘れません。


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、さっき変な条文を書きかけてたな」


「……え?」


「代理権の消滅とか何とか」


「あっ」


 私は目を逸らしました。


「いや、その……」


「本人が死んだら、代理権はどうなる?」


「原則として消滅します!」


「代理人が死んだら?」


「消滅します!」


「じゃあ、本人が破産した場合は?」


「ええと……」


 私は止まりました。


 任意代理。


 法定代理。


 民法百十一条。


 それから。


 委任の終了。


 あれ?


 現代の教材では確か、本人が破産した場合の違いも出てきたはず。


 でも、昭和六十三年の民法には、当時の制度と条文があります。


 破産しただけで、すべての代理権が同じように消えるわけではありません。


 私は恐る恐る六法を開きました。


「先輩……」


「何だ」


「代理権の消滅って、意外と難しいですね」


「今さらか」


「本人と代理人で違いますよね」


「そうだな」


「任意代理と法定代理でも……」


「そこまで気づいたなら、明日整理しろ」


 私は勢いよく顔を上げました。


「はい!」


 すると。


 片桐所長が、机の上にもう一枚の書類を置きました。


「こはる」


「はい」


「次の相談だ」


「え?」


 私は書類を見ました。


 ――委任状。


 ――私所有の山林の管理を、弟に任せる。


 それだけ。


 売却については、何も書かれていません。


「この弟がな」


 所長が言いました。


「兄の山林を、勝手に売ってしまったらしい」


 ……。


 私は固まりました。


「管理を任された人が、ですか?」


「ああ」


「でも、売却の代理権は……」


 私は言いかけて止まりました。


 民法百三条。


 権限の定めのない代理人。


 保存行為。


 性質を変えない範囲での利用・改良。


 売却は?


 当然には含まれません。


「せ、先輩!」


「何だ」


「これ、さっきの事件と違います!」


「そりゃそうだ」


「さっきは代理権があって、顕名がなかった!」


「うん」


「今度は顕名してても、売却する権限がないかもしれない!」


 相馬先輩がにやりと笑いました。


「やっと分かったか」


「何がですか!」


「代理ってのは、名前を書けば成立するような単純な話じゃねえんだよ」


 私は頭を抱えました。


 顕名。


 代理権。


 権限の範囲。


 効果の帰属。


 そして、代理権の消滅。


 覚えることが、まだまだあります。



 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も私は、六法と格闘しています。


 契約書の名前だけでは、人の権利は決まりません。


 誰が。


 誰のために。


 どんな権限を持って。


 何を約束したのか。


 そこを確かめなければならない。


 だって。


 代理人が押した一つのハンコで、本人の財産が動くことがあります。


 そして。


 そのハンコを利用して、弱い立場の人からお金を奪おうとする者もいる。


 だからこそ、民法は問いかけます。


 ――あなたは、誰のために契約したのですか?

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