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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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446/666

[民法・失踪宣告]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 法律上、死んだことになった人間が、生きて帰ってきたら。


 その人は、もう一度、生まれ直さなければならないのでしょうか。


 いいえ。


 そもそも、その人の命が法律によって消えていたわけではありません。


 そして。


 本人が帰ってきたからといって、動いてしまった財産が、何もかも自動的に元に戻るわけでもありません。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、大きく。


 ――こはるノート・民法編。


 今日のテーマは。


 失踪宣告。


「……先輩」


「何だ」


「民法って、すごいことしますよね」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何がだ」


「人が死んだことにするんですよ」


「ああ」


「七年経ったから死亡。一年経ったから死亡。そんなの、ちょっと乱暴じゃないですか?」


「お前、昨日の事件で何を学んだんだ」


「だから復習するんです!」


 私はノートを広げました。


 昨日の相談者。


 杉浦正一さん。


 九年前に消息を絶ち、家庭裁判所から失踪宣告を受けた男性です。


 ところが。


 本人は生きていた。


 遠くの町で、記憶障害を抱えながら暮らしていたのです。


 やっと故郷に帰ってきたのに。


 弟の信夫さんは、こう言いました。


 ――兄貴は、もう死んだ人間なんだよ。


 しかも、正一さんの財産は既に処分されていた。


 家の名義は変わり。


 製材所の土地は、不動産会社へ売られていた。


 でも。


 私たちは、民法第三十二条を使って、正一さんの生存を証明するための資料を揃えました。


 そして、本人名義の内容証明郵便を作成。


 その後、弁護士の協力を得て、家庭裁判所に失踪宣告取消しの申立てを行い、宣告は取り消されました。


 製材所の土地についても、当事者間で権利回復の合意が成立した。


 そう。


 失踪宣告は、取り消せる。


 でも。


 そこに至るまでには、いくつもの法律上の落とし穴がありました。


「よし!」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は、失踪宣告を完全攻略します!」


「昨日も似たこと言ってたな」


「毎日攻略するんです!」


「忙しい奴だな」


 そこへ。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……またですか」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。



「まず、失踪宣告って何でしょう?」


 私はノートに大きく書きました。


 ――民法第三十条。


 失踪宣告。


 生死不明の状態が一定期間続いた場合に、家庭裁判所の宣告によって、その人を法律上死亡したものとみなす制度。


「つまり」


 私は言いました。


「本当に死亡したことが確認できた制度ではありません」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「死亡が確認できたなら、そもそも失踪宣告の問題じゃねえからな」


「はい!」


 私は書き足しました。


 死亡が確認された。


 それなら、通常の死亡として扱う。


 一方。


 生きているか、死んでいるか分からない。


 その状態が長期間続いている。


 そんな場合に登場するのが、失踪宣告です。


「でも先輩」


「何だ」


「生死不明だったら、何が困るんですか?」


「正一さんの奥さんや娘さんの立場で考えてみろ」


 私は鉛筆を止めました。


 正一さんが行方不明になった。


 家には妻と娘が残された。


 夫が所有している土地。


 製材所。


 預金。


 でも、本人の生死が分からない。


「……財産の整理が難しくなります」


「そうだ」


「相続も始まったとは扱えません」


「うん」


「奥さんも、婚姻関係をどうするか考えなければならない」


 相馬先輩が頷きました。


「残された人間の生活が止まっちまうんだ」


 私は、昨日の正一さんを思い出しました。


 正一さんは帰ってきた。


 でも。


 その間、家族には家族の九年間があった。


 ただ待ち続けるだけでは、生活ができないこともあります。


「だから、失踪宣告があるんですね」


「ああ」


 私はノートに書きました。


 失踪宣告は、本人の生死が不明な状態を、法律関係の上で整理するための制度。


 そして、片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「誰が宣告する?」


「家庭裁判所です!」


「誰でも勝手に宣告できるか?」


「できません!」


 そう。


 ここが最初のポイント。


 七年行方不明。


 だから、自動的に死亡。


 これは間違いです。


「利害関係人の請求が必要ですね」


「そうだ」


 民法第三十条。


 家庭裁判所は、利害関係人の請求によって失踪宣告をすることができる。


 つまり。


 七年経ったというだけで、勝手に戸籍上の死亡扱いになるわけではありません。


 必要な手続を経て、家庭裁判所が宣告する。


「正一さんの弟は、ここを勘違いしていましたね」


 私は言いました。


「七年経ったから死んだ、って」


「ああ」


「正しくは、七年間生死不明だったことを理由に家庭裁判所が失踪宣告をして、その結果、法律上死亡したものとみなされたんです」


「そういうことだ」


 私は二重線を引きました。


 七年経過。


 それだけでは自動的に死亡扱いにならない。


 家庭裁判所の失踪宣告が必要。


「なるほど……」


 私は頷きました。


 ここ。


 行政書士試験で、ひっかけられそうです。



「では、普通失踪です!」


 私はページをめくりました。


 ――普通失踪。


 民法第三十条第一項。


 不在者の生死が七年間明らかでないとき。


 家庭裁判所は、利害関係人の請求により、失踪宣告をすることができる。


「七年間ですね」


「ああ」


「正一さんの事件です」


 昭和五十四年。


 消息不明。


 その後、七年間生死不明。


 そして、家庭裁判所の失踪宣告。


「ここで問題です!」


 私は相馬先輩に向き直りました。


「正一さんは、いつ死亡したものとみなされるでしょう?」


「俺に聞くな」


「勉強会です!」


「……七年経過した時だ」


「正解!」


「知ってるよ!」


 私は得意になってノートに書きました。


 民法第三十一条。


 普通失踪では、七年間の期間が満了した時に死亡したものとみなされる。


「先輩、ここが大事です」


「何だ」


「失踪宣告を受けた日じゃないんです」


「そうだ」


「七年経過した時なんです!」


 私は、具体例を作りました。


 ある男性が、昭和五十四年四月一日を最後に消息を絶った。


 その後、七年間生死が明らかでなかった。


 そして、昭和六十二年になって家庭裁判所が失踪宣告をした。


「さて!」


 私は言いました。


「死亡したものとみなされるのは、昭和六十二年の宣告の日でしょうか?」


「違う」


「そうです!」


 私は鉛筆を走らせました。


 死亡したものとみなされるのは、七年間の期間が満了した時。


 宣告の時ではありません。


「これ、どうして大事なんですか?」


 私が尋ねると、片桐所長が言いました。


「相続開始時が変わるからだ」


「あっ!」


 そうです。


 相続。


 人が死亡すると、相続が開始します。


 誰が相続人になるのか。


 どの財産が相続対象になるのか。


 その判断では、死亡時点が極めて重要です。


「たとえば」


 所長が続けました。


「失踪宣告の審判が出る前に、親族の一人が亡くなっていたらどうなる?」


「……死亡したものとみなされる時点によって、その人が相続人になるかどうかも変わります」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 普通失踪。


 七年。


 七年経過時に死亡したものとみなす。


 ただし、家庭裁判所の宣告が必要。


「この三つ、セットですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「数字だけ覚えても駄目だぞ」


「はい!」


 私はノートに大きく丸をつけました。



「次は、特別失踪です!」


 私はページをめくりました。


 ――特別失踪。


 民法第三十条第二項。


 戦争。


 船舶の沈没。


 その他、死亡の原因となるべき危難。


 こうした危難に遭遇し、生死が分からなくなった場合です。


「昨日、電話があった船の事故ですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、事故なら何でも特別失踪とは限らねえぞ」


「はい」


 私は書きました。


 死亡の原因となるべき危難に遭遇したこと。


 その危難が去った後、生死が一年間明らかでないこと。


 これが重要です。


「普通失踪は七年なのに、特別失踪は一年なんですね」


「そうだ」


「ずいぶん短いですね」


 すると、相馬先輩が言いました。


「海で船が沈んだ人と、突然家を出た人じゃ、事情が違うだろ」


 私は頷きました。


 普通の家出なら。


 どこかで生活している可能性もあります。


 でも。


 船が沈没した。


 戦争に巻き込まれた。


 大規模な災害に遭遇した。


 そのような危難の場合、死亡した可能性が高い。


「だから、一年なんですね」


「そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 普通失踪。


 七年間、生死不明。


 特別失踪。


 危難が去った後、一年間、生死不明。


 そして。


「ここからが、最大のひっかけ問題です!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「座れ」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


 私は座り直しました。


「特別失踪では、いつ死亡したものとみなされるでしょう?」


 先輩は煙草を灰皿に置きました。


「危難が去った時だ」


「正解!」


 私は大きく書きました。


 特別失踪では、一年経過時ではなく、危難が去った時に死亡したものとみなされる。


「これ!」


 私は叫びました。


「これが覚えにくいんです!」


「そんなにか」


「はい!」


 普通失踪。


 七年経過時。


 特別失踪。


 危難が去った時。


 同じ失踪宣告なのに、死亡時点が違う。


 私は例を作りました。


 昭和六十年五月一日。


 船が沈没した。


 その日に危難が去ったとします。


 乗船していた男性は行方不明。


 その後、一年間、生死が分からなかった。


 家庭裁判所に失踪宣告の請求がされ、宣告がなされた。


「この場合!」


 私は言いました。


「死亡したものとみなされるのは、昭和六十一年五月ではありません!」


「うん」


「昭和六十年五月一日。危難が去った時です!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


「じゃあ、なぜ一年待つんですか?」


「生存している可能性を確認するためだろ」


「なるほど!」


 私は手を打ちました。


 一年というのは、宣告できるようになるまでの期間。


 死亡したものとみなされる時点は、危難が去った時。


「つまり!」


 私はまとめました。


「特別失踪は、一年間待ってから、危難が去った時に死亡したものとみなす!」


「そうだ」


 ここは、絶対に混同してはいけません。



「さて」


 片桐所長が声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「昨日、一番問題になったことは何だ」


「正一さんが生きて帰ってきたことです!」


「そうだ」


 私は頷きました。


 失踪宣告。


 法律上、死亡したものとみなす。


 でも。


 本人は、実際には生きていることがある。


 ここが、この制度の不思議なところです。


「所長!」


「何だ」


「失踪宣告を受けると、本人の権利能力はなくなるんですか?」


「なくならん」


「ですよね!」


 私は、勢いよくノートに書きました。


 ――失踪宣告によって、本人の権利能力そのものが消滅するわけではない。


「これ、すごく大事です」


 私は言いました。


「正一さんは失踪宣告を受けていました。でも、その間、別の町で働いていました」


「ああ」


「給料を受け取っていた」


「そうだ」


「生活用品も買っていた」


「うん」


「契約だってしていた」


 相馬先輩が頷きました。


「生きている本人は、現実に法律行為ができるからな」


 私は、少し考えました。


「でも、何だか変じゃありません?」


「何がだ」


「法律上は死亡したものとみなされているのに、権利能力があるなんて」


 すると、片桐所長が言いました。


「失踪宣告は、本人が実際に死んだことを証明するものではない」


「はい」


「従来の生活関係を整理するために、一定の死亡時点を法律上設定する制度だ」


「なるほど……」


「だから、本人が現実に生きて別の場所で活動しているなら、その活動まで当然に無効になるわけではない」


 私は頷きました。


 たとえば。


 失踪宣告を受けた男性が、遠くの町で働いていた。


 そこで自転車を買った。


 部屋を借りた。


 給料を受け取った。


 その法律行為が、失踪宣告だけを理由にすべて無効になるわけではありません。


「つまり」


 私は言いました。


「失踪宣告は、法律上の死亡という効果を生じさせるけれど、生きている本人の権利能力まで奪うものじゃない」


「そうだ」


 私は二重線を引きました。


 ここ。


 絶対に忘れません。


 だって。


 正一さんが、現に生きて、私たちの事務所に来たのですから。



「では、失踪宣告の取消しです!」


 私はページをめくりました。


 ――民法第三十二条。


 失踪宣告の取消し。


「正一さんを救った条文ですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「言ってみろ」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 失踪宣告を取り消すことができる場合。


 一つ。


 失踪者が生存していることが証明されたとき。


 二つ。


 法律上、死亡したものとみなされる時点とは異なる時に死亡したことが証明されたとき。


「ここ、二つあるんですよね」


「そうだ」


「生きて帰ってきた場合だけじゃないんです」


 私は例を作りました。


 ある男性が、七年間生死不明だった。


 普通失踪の宣告がなされた。


 ところが。


 後になって、その男性が七年間の期間満了後も生存しており、そのさらに二年後に亡くなったことが判明した。


「この場合!」


 私は言いました。


「失踪宣告で死亡したものとみなされた時と、実際の死亡時点が違います」


「そうだな」


「だから、失踪宣告の取消しが問題になります!」


 相馬先輩が頷きました。


 私は続けました。


「しかも、本人が生きている場合だけでなく、死亡時期が違うことが判明した場合も対象になるんですね」


「そういうことだ」


 私は二重線を引きました。


 ここも試験の重要ポイントです。


「それで、誰が取消しを請求できるんですか?」


 相馬先輩が聞きました。


「本人又は利害関係人です!」


「よし」


「そして、家庭裁判所が取り消します」


「そうだ」


 私は続けました。


「しかも、要件を満たす証明があったときは、家庭裁判所は取り消さなければならない!」


「そこだ」


 片桐所長が頷きました。


 民法第三十二条。


 失踪者が生存すること、または法定の死亡擬制時とは異なる時に死亡したことの証明があったとき。


 家庭裁判所は、本人または利害関係人の請求によって、失踪宣告を取り消さなければならない。


「つまり」


 私は言いました。


「正一さんが生きていると証明されたのに、家庭裁判所が『でも七年経ったから駄目です』とは言えないんですね」


「そうだ」


 私は思い出しました。


 信夫さんの言葉。


 ――兄貴は、もう死んだ人間なんだよ。


 でも。


 民法第三十二条は、そうした主張に対して、正面から答えを用意していた。


 生存が証明されたなら。


 失踪宣告は取り消される。


「法律って、ちゃんと戻る道を作っているんですね」


 私が呟くと、所長は静かに頷きました。



「でも!」


 私は鉛筆を止めました。


「ここからが難しいんですよね!」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「ああ」


「失踪宣告が取り消されても、全部が元どおりになるとは限らない」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――失踪宣告取消しと、善意でした行為の保護。


 民法第三十二条第一項後段。


 失踪宣告後、その取消し前に善意でした行為の効力には影響を及ぼさない。


「先輩」


「何だ」


「善意って、優しい人って意味じゃないんですよね」


「法律の勉強を何年やってるんだ」


「確認です!」


 法律上の善意。


 原則として、ある事情を知らないこと。


 今回でいえば、失踪者が実際には生きていることなど、宣告による死亡擬制と異なる事情を知らないことが問題になります。


「つまり」


 私は言いました。


「正一さんが死亡したものとみなされていることを信じ、本人が生きていると知らずに取引した人がいたら、その取引は保護される場合がある」


「そうだ」


 ここで私は、昨日の事件を思い出しました。


 正一さんの弟、信夫さん。


 製材所の土地を売却。


 買主は、東海土地開発。


 ところが。


 信夫さんには、正一さんの生存を知らせる手紙が届いていた。


 さらに、買主側にも同じ事情が伝えられていた。


「だから、善意の保護を受けられるかが問題になったんですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「ここで判例だ」


 私は、昨日使った判例集を開きました。


 大審院昭和十三年二月七日判決。


 失踪宣告取消し前の取引における善意について、契約当事者双方が善意であることを要するとした判例です。


「双方善意……」


 私はノートに書きました。


 売主が善意。


 買主も善意。


 両方が事情を知らなければならない。


「少なくとも、この判例の考え方では、そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「じゃあ、片方が事情を知っていたら?」


「双方善意の要件を満たしません!」


「正解」


 私は、昨日の信夫さんの顔を思い出しました。


 最初は笑っていた。


 でも。


 正一さんの生存を知らせる手紙を突きつけられた瞬間。


 顔色が変わった。


 理由が、今なら分かります。


 単に、兄が生きているという事実が怖かったのではありません。


 その事実を知りながら土地を売ったことが、法律上の保護を受けるうえで致命的な問題になり得たのです。


「ただし!」


 私は言いました。


「ここも、注意が必要ですね」


「何だ」


「善意じゃないからといって、相手の全財産が自動的にこちらへ移るわけじゃありません!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 失踪宣告取消しの効果。


 売買契約の効力。


 所有権の帰属。


 登記。


 その後の第三者への転売。


 さまざまな事情が絡みます。


「だから、現場編では弁護士に引き継いだんですね」


「そういうことだ」


 私は大きく頷きました。


 行政書士は、争いになっている財産を依頼人の代理人として交渉して取り返す立場ではありません。


 でも。


 本人の生存を証明する資料を集める。


 相続関係を整理する。


 登記の経緯を調べる。


 本人名義の通知書を作る。


 そうした実務の積み重ねによって、弁護士が動くための材料を整えることができます。


「法律って、条文を知っているだけでは使えないんですね」


 私が呟くと、片桐所長が言いました。


「事実がなければ、条文は働かん」


 私は、その言葉をノートの端に書きました。



「さて」


 相馬先輩が言いました。


「もう一つ、厄介な問題があるな」


「はい」


 私は頷きました。


 ――現存利益。


 民法第三十二条第二項。


 失踪宣告によって財産を得た者は、取消しによって権利を失う。


 ただし。


 現に利益を受けている限度においてのみ、その財産を返還する義務を負う。


「これ、最初に読んだとき、意味が分かりませんでした」


「そうか?」


「はい!」


 私はノートに例を書きました。


 失踪宣告によって、相続人が百万円を取得した。


 その後、失踪者本人が生きて帰ってきた。


 失踪宣告が取り消された。


「さあ!」


 私は言いました。


「相続人は百万円を返さなければならないのでしょうか?」


「現に利益を受けている限度、だったな」


「はい」


 では、百万円をそのまま預金していた場合。


「これは?」


「百万円が残っているな」


「そうです!」


 原則として、その百万円は返還の対象になります。


 では。


 百万円を生活費に使った場合。


「これも、全部返さなくていいんですか?」


「そう単純じゃねえ」


 相馬先輩が言いました。


 私は頷きました。


 ここが重要です。


 現存利益とは、手元に現金が残っていることだけを意味しません。


 たとえば、本来は自分の収入から支払うはずだった生活費を、取得した百万円から支出した。


 その結果、自分の財産が減らずに済んだ。


 そんな場合。


 支出したお金自体はなくなっていても、その分だけ利益が残っていると評価されることがあります。


「なるほど!」


 私は手を打ちました。


「現金がないから、現存利益ゼロとは限らない!」


「そうだ」


 では、旅行や娯楽に使ってしまい、代わりに残っている財産的利益もない場合はどうでしょう。


 この場合には、現存利益がないと評価される余地があります。


「でも先輩」


「何だ」


「最初から本人が生きていると知っていて、財産を受け取った人まで、同じように保護していいんですか?」


 相馬先輩は、少し笑いました。


「いいところに気づいたな」


「褒めました?」


「まだだ」


「またですか!」


 先輩は判例集を指差しました。


「現存利益の範囲に限って返せばいいという規定を、事情を知っている悪意の取得者にまで、そのまま有利に働かせていいか。そこは判例の考え方も押さえろ」


 私は頷きました。


 失踪宣告を信じて、事情を知らずに財産を取得した人。


 本人が生きていると知りながら、財産を取り込んだ人。


 この二人を、まったく同じように保護するのは不公平です。


 判例上も、返還義務を現存利益に限定する保護は善意の取得者を前提とすると理解されています。


 悪意の場合には、一般の不当利得の規定などに基づく、より広い返還義務が問題になります。


「だから」


 私は言いました。


「正一さんの弟が、どの時点で何を知っていたかが重要だったんですね」


「そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 現存利益。


 取得した財産が、現在どのような形で利益として残っているか。


 ただし、悪意の取得者の返還義務は別途検討が必要。


「……これ、単に百万円が残っているかどうかって話じゃないんですね」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 民法。


 やっぱり、一筋縄ではいきません。



「ところで」


 私は六法をめくりました。


「先輩」


「何だ」


「今回、昭和六十三年と現代で、何か法律の違いはありますか?」


 相馬先輩が怪訝な顔をしました。


「また変なことを言い始めたな」


「いえ、転生者には大事です。将来改正されるかもしれないって話です!」


「何だそりゃ」


 私は慌てて言いました。


「例えば、失踪宣告の七年と一年とか!」


「何だ。変わると思ってるのか?」


「い、いえ……」


 私は内心で苦笑しました。


 実は。


 今回の失踪宣告。


 現代の民法と昭和六十三年の民法で、基本的な制度の骨格は共通しているのです。


 普通失踪。


 七年間。


 特別失踪。


 危難が去った後一年間。


 失踪宣告取消し。


 民法第三十二条。


 そして、善意の行為の保護や現存利益。


 これらは、現代の民法でも基本となる仕組みです。


「……珍しい」


 私は思わず呟きました。


「何がだ?」


 相馬先輩が聞きました。


「あ、いえ!」


 これまでの民法の事件では。


 意思能力の明文化。


 成年後見制度の導入。


 成年年齢の引下げ。


 何かと時代の違いに苦労してきました。


 でも。


 失踪宣告は、基本となる条文と考え方が、長い間受け継がれている。


 それだけ、この制度が扱う問題が普遍的なのかもしれません。


 家族が突然いなくなる。


 生死が分からない。


 残された人が困る。


 そして、ときには本人が帰ってくる。


 これは昭和でも、令和でも変わらない問題です。


「ただ」


 私は考えました。


 現代では、戸籍や住民記録、本人確認の仕組み、各種の情報照会など、周辺の実務環境が大きく変わっています。


 しかし。


 それでも生死が分からない人はいる。


 だから制度は残っている。


「所長」


「何だ」


「法律って、変わる部分と、変わらない部分があるんですね」


「当然だ」


「でも、理由を考えると面白いです」


 片桐所長は頷きました。


「制度が解決しようとする問題を見ろ」


「……はい」


「言葉だけ覚えても、使いどころが分からん」


 私は、その言葉もノートに書きました。



 窓の外が、少しずつ暗くなってきました。


 私は、ここまでの内容を読み返しました。


 普通失踪。


 特別失踪。


 死亡したものとみなされる時点。


 本人の権利能力。


 失踪宣告の取消し。


 善意の行為。


 現存利益。


 最初は、何となく七年と一年だけを覚えればいいと思っていました。


 でも。


 それだけでは、正一さんの事件を解決することはできませんでした。


「所長!」


 私は顔を上げました。


「確認問題をお願いします!」


「いいだろう」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「普通失踪の期間は?」


「七年間です!」


「死亡したものとみなされるのは?」


「七年間の期間が満了した時です!」


「特別失踪は?」


「死亡の原因となるべき危難が去った後、一年間生死不明であることです!」


「死亡したものとみなされるのは?」


「危難が去った時です!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 でも、所長の問題は続きました。


「七年経っただけで、自動的に死亡したものと扱われるか」


「いいえ! 利害関係人の請求に基づく家庭裁判所の失踪宣告が必要です!」


「失踪宣告を受けた本人が、別の土地で生きていたら?」


「本人の権利能力そのものは失われません!」


「生存が証明されたら?」


「本人又は利害関係人の請求により、家庭裁判所は失踪宣告を取り消さなければなりません!」


 所長が頷きました。


「では、取消しによって、それまでの取引はすべて無効になるか」


「なりません!」


「なぜだ」


「失踪宣告後、取消し前に善意でした行為の効力は保護されるからです!」


「判例上、契約当事者の善意については?」


「双方が善意であることが必要とされています!」


 よし。


 ここまで正解。


「最後だ」


 所長が言いました。


「失踪宣告によって財産を得た人は、取消し後、必ず取得した財産の全額を返還するのか」


「いいえ!」


 私は答えました。


「民法第三十二条第二項は、現に利益を受けている限度での返還義務を定めています。ただし、悪意の取得者については別の検討が必要です!」


 所長が頷きました。


「よし」


「やった!」


 私は思わず拳を握りました。


 すると。


「じゃあ、俺からも一問」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「失踪宣告を取り消すために、行政書士が家庭裁判所で本人の訴訟代理人になれるか?」


「なれません!」


「正解」


「本人による申立てや、弁護士への依頼など、適切な手続を取ります!」


「そうだ」


 私は続けました。


「行政書士は、権限の範囲内で事実証明書類や通知書を整えることができますが、紛争の代理交渉や裁判手続の代理はできません!」


 相馬先輩が笑いました。


「よく覚えたな」


「正一さんの事件で、散々言われましたから!」


「そうか」


 私は少し得意になりました。


 でも。


 ここで、ふと疑問が浮かびました。



「先輩」


「何だ」


「正一さんって、本当は死んでいなかったんですよね」


「ああ」


「じゃあ……失踪宣告が取り消されたら、奥さんとの結婚はどうなるんですか?」


 相馬先輩が、ぴたりと動きを止めました。


「……ほう」


「え?」


「そこに気づいたか」


 私は目を丸くしました。


「何ですか、その反応!」


 先輩は少し考えてから言いました。


「失踪宣告の効果は、財産だけじゃねえ」


「……あ」


 そうでした。


 法律上、死亡したものとみなされる。


 ということは。


 婚姻関係にも影響します。


 失踪宣告により、配偶者は法律上、死亡したものとみなされる。


 残された配偶者は、再婚することもあり得る。


「じゃあ!」


 私は言いました。


「失踪した夫が生きて帰ってきたら、再婚した奥さんはどうなるんですか!?」


 相馬先輩が頷きました。


「そこも、簡単じゃねえ」


 私は頭を抱えました。


「またですか!」


「まただ」


 失踪宣告取消し前の婚姻などについても、民法第三十二条第一項後段の善意でした行為の保護が問題になります。


 ただし、身分関係では財産取引とは異なる検討も必要です。


 そして、正一さんの場合。


 奥さんは、既に亡くなっていました。


 だから今回、再婚の問題は起きませんでした。


 でも。


 もし奥さんが生きていて、その間に別の男性と再婚していたら。


 そこには、別の法律問題が生じていたはずです。


「……難しい」


 私は呟きました。


「でも、考えないわけにはいきませんね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「失踪宣告は、人の生活全体に関わるからな」


 私は、正一さんの写真を思い出しました。


 若い頃の夫婦。


 製材所。


 九年間の空白。


 その間にも、周囲の人生は進んでいた。


 法律が取り消せるのは、失踪宣告です。


 でも。


 過ぎた時間そのものを取り消すことはできない。


 そこが、この制度の難しさなのだと思いました。



「よし!」


 私は最後のページを開きました。


「今日のまとめです!」


 相馬先輩が笑いました。


「ようやくか」


「ようやくって何ですか!」


「長かっただろ」


「民法は深いんです!」


「便利な言葉だな」


 私は鉛筆を整えました。


 普通失踪。


 七年。


 特別失踪。


 一年。


 この二つを区別する。


 死亡したものとみなされる時点も違う。


 そして。


 生きて帰った人。


 その人には、失踪宣告を取り消す道がある。


 ただし。


 善意の取引は保護される場合がある。


 財産の返還には、現存利益という制限がある。


 悪意の取得者には、より重い返還義務が問題になる。


 私は、少し考えました。


 どうすれば。


 全部まとめて、一行で覚えられるでしょう。


「……うーん」


 鉛筆が止まりました。


「どうした」


 相馬先輩が聞きました。


「短くまとめるのが難しいんです」


「じゃあ、最初に一番大事なところを書け」


「一番大事なところ……」


 私は、正一さんを思い出しました。


 九年ぶりに帰ってきた男性。


 自分の家に入れてもらえなかった人。


 生きているのに、死んだと言われた人。


 そして。


 もう一度、木工所を始めたいと笑った人。


 私は、鉛筆を走らせました。


 ――普通失踪は「七年経過時」、特別失踪は「危難終了時」に死亡とみなし、生存が証明されれば取り消す。ただし善意の行為は守る。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「またそれですか!」


「一行の覚え書きだろ?」


「一行に収まってます!」


「字が小せえ」


「気持ちで読んでください!」


 相馬先輩が笑いました。


 片桐所長も、わずかに口元を緩めました。


 私は、もう一度ノートを見ました。


 失踪宣告。


 普通失踪。


 特別失踪。


 失踪宣告取消し。


 最初は、ただの暗記項目でした。


 七年。


 一年。


 第三十条。


 第三十一条。


 第三十二条。


 でも。


 今は違います。


 その数字の向こうに、人の生活が見える。


 失踪した人。


 待っていた家族。


 財産を取得した人。


 取引した人。


 そして。


 帰ってきた人。


 民法は、そのすべてを無視できないのです。



「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会、もう終わったな」


「はい!」


「じゃあ、掃除だ」


「……またですか」


「まただ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「もし私が七年間行方不明になったら、掃除当番はどうなりますか?」


 相馬先輩が、少し考えました。


「別の奴に回す」


「ええっ!」


「当たり前だろ」


「七年間も待ってくれないんですか!?」


「待つわけねえだろ!」


 私は、わざと深刻な顔をしました。


「では、七年後に私が帰ってきたら?」


「掃除しろ」


「即答!」


「生きて帰ってきたんだろ?」


「はい!」


「だったら掃除できるだろ」


「……」


 どうやら。


 民法をどれだけ理解しても。


 見習い行政書士の掃除当番だけは、失踪宣告では消せないようでした。

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