[民法・失踪宣告]現場編 「七年経ったから、もう死んだ人間だ」の嘘。生きて帰った父を追い出す悪徳親族と、失踪宣告取消しを突きつける内容証明の刃
七年待てば、人は死んだことになる。
でも。
七年ぶりに帰ってきた人間に向かって、
「お前は法律上、もう死んでいる」
と言い放ったら。
その人は、どこへ帰ればいいのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は初めて知ることになります。
民法には。
生きている人間を、死んだものとして扱う制度がある。
そして。
死んだことにされた人間を、もう一度法律の世界へ連れ戻す制度もあるのだと。
その名前は。
――失踪宣告。
ただし。
死んだことになっている本人が、事務所の扉を開けて入ってくるなんて。
私も、さすがに予想していませんでした。
「私は……生きているんです」
朝九時。
事務所に入ってきた男性は、そう言いました。
「……はい?」
私は鉛筆を止めました。
男性は五十代半ば。
日に焼けた顔。
古びた背広。
右足を少し引きずっています。
手には、擦り切れた革鞄。
「生きていることを、証明していただきたいんです」
……。
私は、隣の相馬先輩を見ました。
先輩も男性を見ています。
「おっさん」
「はい」
「まず座れ」
「……ありがとうございます」
「それから、名前を聞こう」
「杉浦正一と申します」
杉浦正一さん。
五十六歳。
もともと、この町で小さな製材所を営んでいたそうです。
ところが。
昭和五十四年。
仕事先へ向かう途中で、突然消息を絶ちました。
以来、家族にも連絡がない。
警察に捜索願も出された。
しかし、手掛かりは見つからなかった。
「……九年前ですね」
私が言うと、正一さんは頷きました。
「はい」
「その間、どちらに?」
「遠くの町で、働いていました」
「九年間も?」
正一さんは、鞄を握りしめました。
「事故に遭いまして……長い間、身元も分からない状態だったんです」
聞けば。
遠方で事故に巻き込まれ、重い頭部外傷を負った。
身元を示すものは失われ、記憶にも障害が残った。
病院。
施設。
そして、知人の紹介で始めた住み込み仕事。
少しずつ記憶が戻り、ようやく故郷を思い出したというのです。
「全部を思い出したわけではありません。でも、家の場所と、妻の名前は……」
正一さんの声が震えました。
「それで、帰ってきたんです」
「奥様は?」
私が尋ねると、男性は俯きました。
「……三年前に亡くなりました」
「あ……」
「娘は嫁に行っていました。だから、せめて家だけでもと思って……」
正一さんは、ゆっくり顔を上げました。
「ところが、私の家には、弟が住んでいたんです」
「弟さん?」
「はい。杉浦信夫です」
そして。
正一さんは、信じられない言葉を口にしました。
「弟に言われました」
――兄貴は、もう死んだ人間なんだよ。
私は目を見開きました。
「……え?」
「戸籍にも、そう書いてあるそうです」
正一さんが鞄から一枚の紙を取り出しました。
戸籍謄本。
その身分事項には、確かに記載がありました。
――失踪宣告。
私は息を呑みました。
「失踪宣告……!」
民法第三十条。
生死不明の人について、一定の期間が経過すると、家庭裁判所が失踪宣告をすることができる制度。
そして。
失踪宣告を受けると。
法律上、死亡したものとみなされる。
「だから弟は言うんです」
正一さんが続けました。
「家も土地も、もう自分たちのものだと」
「えっ」
「私の製材所も売ってしまったそうです」
「売った!?」
「はい」
正一さんは、机の上にもう一枚の紙を置きました。
それは、弟の信夫が渡してきた書面でした。
――貴殿は家庭裁判所の失踪宣告により死亡したものとみなされ、既に相続が開始している。
――したがって、旧所有財産について権利を主張することはできない。
――今後、当方所有不動産への立入りを禁ずる。
最後に。
――異議がある場合には、裁判所で解決されたい。
私は、紙を握りしめました。
「……何ですか、これ」
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「落ち着け」
「でも!」
私は正一さんを見ました。
「ご自分の家なんですよね?」
「はい」
「それなのに、入るなって?」
「……はい」
正一さんは、小さく笑いました。
笑顔というより、泣くことを我慢しているようでした。
「自分の家に帰ったつもりだったんですが……」
そして、ぽつりと言いました。
「どうやら私は、帰ってきてはいけない人間だったようです」
……。
私は、もう黙っていられませんでした。
「大丈夫です!」
私は立ち上がりました。
「生きているんですから、失踪宣告を取り消せばいいんです!」
正一さんが顔を上げます。
「取り消せるんですか?」
「はい! 民法第三十二条です!」
よし。
今度こそ。
現代で勉強した民法の知識が使えます。
民法第三十条。
失踪宣告。
第三十一条。
失踪宣告の効力。
第三十二条。
失踪宣告の取消し。
「本人が生きていることを証明すれば、家庭裁判所は失踪宣告を取り消さなければならないんです!」
「本当ですか!」
「はい!」
私は勢いよく続けました。
「それに、取り消されれば、相続で取得した財産は原則として返還の問題になります!」
そのとき。
「待て」
相馬先輩が口を挟みました。
「はい?」
「お前、今、相続した財産は全部戻ってくると思ってねえか?」
「え?」
「それから、さっきの話だ。製材所は売られたんだろ」
「はい」
「誰が買った?」
「……それは」
「買った奴は、正一さんが生きていると知っていたのか?」
私は言葉に詰まりました。
「知らなかったら……?」
「話が変わる」
「え?」
先輩は六法を開きました。
「第三十二条を最後まで読め」
私は目を落としました。
失踪宣告の取消し。
失踪者が生存することが証明されたとき、家庭裁判所は宣告を取り消さなければならない。
ここまでは、いい。
でも。
その続き。
――失踪の宣告後その取消し前に善意でした行為の効力に影響を及ぼさない。
「……善意?」
私は呟きました。
「そうだ」
「法律でいう善意は、事情を知らないこと……」
「で?」
私は紙を見つめました。
あ。
「第三者への売却が、保護される場合がある……?」
「そういうことだ」
私は固まりました。
失踪宣告を取り消せば、すべて元どおり。
そんな単純な話ではなかったのです。
「それに」
先輩が続けました。
「財産を取得した奴の返還義務にも、特別な規定がある」
私は第三十二条第二項を見ました。
――現に利益を受けている限度においてのみ、その財産を返還する義務を負う。
「現に利益を受けている限度……」
「現存利益だ」
私は頭を抱えました。
出ました。
民法特有の、簡単そうに見えて簡単ではない言葉。
生きて戻った人。
その人が失った財産。
でも、財産を受け取った側にも、事情を知らなかった人がいるかもしれない。
民法は、その両方を考えなければならないのです。
「所長!」
私は片桐所長を見ました。
「これ、難しくないですか!?」
「難しいな」
「もっとこう、本人が生きていたら全部返して終わり、じゃ駄目なんですか?」
「駄目だ」
「即答!」
所長は静かに言いました。
「失踪宣告は、行方不明者の財産や身分関係を、いつまでも不確定にしないための制度だ」
「はい」
「宣告を信じて取引した者まで、無制限に不利益を受けるなら、誰も安心して財産を扱えなくなる」
なるほど。
本人を守る。
家族も守る。
取引相手も守る。
だからこそ。
一つの制度の中に、いくつもの仕組みがある。
「それと、こはる」
「はい」
「今回、気をつけることがもう一つある」
「何ですか?」
「失踪宣告を受けても、本人の権利能力が消えるわけではない」
私は顔を上げました。
「……そうでした!」
失踪宣告。
法律上、死亡したものとみなす。
でも。
本当に本人が生きていたなら。
別の場所で働くこともできる。
物を買うこともできる。
契約することもできる。
法律上死亡したものとみなされることと、生きている本人の権利能力そのものが失われることは、同じではない。
「つまり」
私は正一さんを見ました。
「正一さんは、この九年間、法律上何もできない人間になっていたわけじゃないんです」
「……そうなんですか」
「はい」
正一さんの目が少し潤みました。
「よかった……」
私は胸が苦しくなりました。
生きている。
話している。
歩いている。
それなのに。
法律上は死んでいると言われる。
その理不尽さ。
そして。
法律そのものは、そんな正一さんを完全に消し去っていたわけではない。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「登記を調べろ」
「はい!」
「それから、失踪宣告の審判書と確定関係の資料。いつ、誰が、何を相続したか確認する」
「はい!」
「もう一つ」
「何でしょう」
「正一さんが生存していることを裏づける資料を集める」
私は頷きました。
そうです。
ここは昭和六十三年。
スマートフォンもありません。
気軽に動画を送ることもできません。
本人確認も、現代ほど簡単ではない。
事故の病院記録。
勤務先の証明。
当時の写真。
親族しか知らない事情。
積み上げられる証拠は、全部必要です。
「相馬」
所長が言いました。
「相手の考えを確認しておけ」
「分かりました」
相馬先輩が立ち上がりました。
「行くぞ、こはる」
「はい!」
こうして。
生きて帰った人間の居場所を取り戻すための、調査が始まりました。
杉浦家の家は、駅から少し離れた坂道の途中にありました。
瓦屋根の古い日本家屋。
庭には立派な柿の木。
そして。
門柱には、新しい表札。
――杉浦信夫。
「……兄の名前は、もうないんですね」
正一さんが呟きました。
私は何も言えませんでした。
相馬先輩が門を開けます。
「ごめんください」
しばらくして、玄関が開きました。
「何だよ」
現れたのは、六十歳前後の男。
杉浦信夫。
正一さんの弟です。
「片桐行政書士事務所の相馬です。事実関係の確認で伺いました」
「行政書士?」
信夫は鼻で笑いました。
「兄貴が連れてきたのか」
「はい」
「弁護士じゃないのかよ」
「行政書士です」
「だったら、何もできねえだろ」
……。
またです。
この町の悪党は、行政書士という単語を聞くと、どうして一度は笑うのでしょうか。
「何しに来た?」
「失踪宣告と、その後の財産処分について事実を確認したいんです」
「そんなもん、全部終わってる」
信夫は玄関脇の棚から、書類を取り出しました。
「見ろよ」
家庭裁判所の失踪宣告の審判書の写し。
確定関係の資料。
そして、登記簿謄本。
「ちゃんと裁判所が認めたんだ」
信夫は得意そうに言いました。
「兄貴は七年間行方不明だった。だから死んだことになった。それで相続したんだよ」
「相続関係は?」
相馬先輩が聞きます。
「兄貴の奥さんと娘、それから俺たちの母親で手続きをした」
「……お母様?」
「母親は兄貴の失踪宣告のあとで亡くなった。家の持分も、いろいろ整理したんだ」
相馬先輩の眉が動きました。
「整理、ですか」
「ああ。難しいことは司法書士に頼んだよ」
私は、書類を見ました。
杉浦正一。
失踪宣告による死亡扱い。
土地建物。
そして、その後の相続と持分移転。
……ん?
私は首をかしげました。
正一さんには妻と娘がいた。
ならば。
失踪宣告により相続が開始しても、弟が当然に直接相続人になるわけではありません。
「先輩」
私は小声で言いました。
「信夫さん、どうして家を全部……」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「そこが問題だな」
信夫は嫌な笑みを浮かべました。
「何をこそこそ話してる」
「登記に至る書類を確認したいんです」
「何でだよ」
「正一さんの死亡扱いだけで、あなたが当然に全財産を相続するわけではありませんから」
信夫の笑みが消えました。
「……何?」
「奥様と娘さんがいらしたんですよね」
「だから何だ」
「その方々の相続権も関係します」
「ちゃんと書類は作った!」
「でしたら、その書類を確認できるはずです」
信夫は舌打ちしました。
「家のことに口出すなよ」
「口出しではありません。事実の確認です」
「兄貴は死んだんだ!」
突然。
信夫が声を荒らげました。
「七年経ったから死んだ! 裁判所がそう決めたんだよ!」
その瞬間。
正一さんが、静かに言いました。
「信夫」
「……何だよ」
「俺は、ここにいる」
信夫は黙りました。
「お前の目の前にいる」
正一さんの声は震えていました。
「それでも、俺は死んでいるのか」
……。
私は胸が締めつけられました。
信夫は、しばらく何も言いませんでした。
しかし。
次の瞬間。
「戸籍を見ろ!」
そう怒鳴りました。
「そこに死亡扱いって書いてあるだろ!」
そして、私たちを指差しました。
「家を返せって言うなら、裁判所に行け!」
相馬先輩は、静かに頷きました。
「分かりました」
「何?」
「あなたの主張は確認できました」
「……それだけか?」
「はい」
相馬先輩は、正一さんに向き直りました。
「帰りましょう」
「……はい」
私たちは門を出ました。
その背中に。
信夫の笑い声が飛んできました。
「七年も消えてた人間が、今さら帰ってきたって遅えんだよ!」
私は振り返りかけました。
でも。
「こはる」
先輩が止めました。
「はい」
「今、言い返して何になる」
「……でも」
「俺たちは弁護士じゃねえ。代理人として財産返還の示談交渉をする仕事じゃない」
「はい……」
「それに」
先輩は小さく笑いました。
「相手は、こっちが何を調べるか分かってねえ」
「……え?」
「裁判所が出した紙を、絶対に覆らないお札か何かだと思ってる」
私は目を見開きました。
「先輩……」
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
出ました。
相馬先輩の決め台詞。
でも。
今回だけは、少し違いました。
相手が持っているのも、裁判所の書面です。
それに対して、私たちは何を武器にするのか。
答えは、まだ見えていませんでした。
翌日。
私たちは資料を集め始めました。
まず、家庭裁判所の失踪宣告関係資料。
次に、戸籍。
そして不動産登記簿。
正一さんの勤務先にも、本人の了承を得て確認を依頼しました。
昭和五十四年に事故で搬送された病院。
その後、療養していた施設。
住み込みで働いていた製材業者。
幸いにも、当時の診療記録や、勤務関係の書類が残っていました。
さらに。
正一さんが事故前から持っていた古い傷跡。
若い頃に右手の指を骨折した痕。
家族写真。
これらも照合していきます。
「これだけ揃えば……」
私が言うと、片桐所長が頷きました。
「本人の生存を証明する重要な資料になる」
「はい!」
でも。
問題は、それだけではありませんでした。
登記簿を調べると、家の土地建物は既に信夫名義になっていました。
信夫は、正一さんの妻と娘から持分を買い取るなどして、権利を集めていたのです。
しかも。
製材所の土地は、第三者へ売却済み。
「……ああ」
私は頭を抱えました。
「ややこしい!」
相馬先輩が笑いました。
「民法だからな」
「何でも民法のせいにしないでください!」
「じゃあ、一つずつ整理しろ」
「はい」
私は紙に書きました。
まず。
正一さんは九年前に消息不明。
その後、七年間生死不明。
家庭裁判所が失踪宣告。
そして。
ここで重要なのは。
普通失踪では、宣告が確定した日に死亡したものとみなされるわけではないこと。
七年間の期間が満了した時点で、死亡したものとみなされる。
「……あれ?」
私は手を止めました。
「先輩」
「何だ」
「失踪宣告の審判が出た日と、死亡したものとみなされる日って、違うんですね」
「そうだ」
「宣告が出た日じゃなくて、七年経過した時!」
「そのとおり」
私は、戸籍と登記関係の資料を見比べました。
死亡とみなされる日。
妻が亡くなった日。
母親が亡くなった日。
そして、登記が移った日。
日付を間違えると、相続人も、財産の流れも、全部変わる。
「これ……怖いですね」
「だから時系列を作るんだよ」
先輩が言いました。
「相続は、誰がいつ死んだかで結論が変わる」
「はい」
「失踪宣告は、それを法律上確定させる制度なんだ」
私は頷きました。
それから、ふと思いました。
「そういえば」
「何だ」
「海難事故とか、戦争で行方不明になった人も、七年間待つんですか?」
「違う」
先輩は六法を指差しました。
「第三十条第二項」
私は読みました。
戦地。
沈没した船舶。
その他、死亡の原因となるべき危難。
その危難が去った後、一年間生死が明らかでないとき。
失踪宣告ができる。
「一年!」
「そうだ」
「普通失踪と違うんですね!」
「ああ」
「しかも……」
私は第三十一条を見ました。
「特別失踪は、危難が去った時に死亡したものとみなされる……!」
相馬先輩が頷きました。
「そこを間違えるな」
普通失踪。
七年間。
七年経過時に死亡したものとみなす。
特別失踪。
危難が去った後一年間。
死亡したものとみなされるのは、危難が去った時。
私は小さく唸りました。
「法律、細かい……」
「人の生死を扱うんだ。細かくて当然だろ」
……確かに。
でも。
今回の正一さんの場合は、事故に遭ったことだけを理由に、当然に特別失踪になるわけではありません。
どんな危難に遭遇し、その危難がいつ去ったのか。
その法的要件を満たすかは別の問題。
実際に家庭裁判所が行ったのは、七年間の生死不明を理由とする普通失踪の宣告でした。
だからこそ。
その前提を確認しておく必要があったのです。
そして。
三日後。
事件を動かす、一枚の紙が見つかりました。
「……これ、何ですか?」
私は、机の上に置かれた手紙を見ました。
古い便箋。
差出人は、正一さんが働いていた製材所の社長。
宛先は。
――杉浦信夫様。
私は首をかしげました。
「信夫さん宛て?」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「正一さんの勤務先で保管されていた控えだ」
私は日付を見ました。
昭和六十二年十一月。
つまり、昨年。
失踪宣告の審判が確定した後です。
そこには、こう書かれていました。
――先日ご照会いただいた杉浦正一氏について、当方に同姓同名の従業員がおります。
――記憶障害があり、詳しい身元は確認中ですが、ご本人に家族写真を示したところ、杉浦家の方々について記憶している様子が見られました。
――身元確認のため、一度ご連絡をいただきたく存じます。
……。
私は固まりました。
「……え?」
さらに。
その下。
社長の手書きのメモがありました。
――十一月二十日、杉浦信夫氏より電話あり。
――本人の帰郷については親族内で対応するので、当面こちらから連絡しないでほしいとのこと。
私は、紙を握りしめました。
「先輩」
「何だ」
「これ……」
「ああ」
「信夫さん、知ってたんですか?」
「少なくとも、兄が生存している可能性を具体的に知らされていた」
相馬先輩は言いました。
「しかも、本人確認の協力を断っている」
「……!」
私は顔を上げました。
「じゃあ、失踪宣告が間違っているかもしれないって、分かっていた?」
「その疑いが強い」
さらに調査すると。
信夫は、昭和六十三年の春に、正一さんの製材所跡地を不動産業者へ売却していました。
そして、その買主。
地元の不動産会社、東海土地開発。
担当者は、信夫からこんな説明を受けていたのです。
――兄は昔行方不明になったが、生きているかもしれないという連絡が来ている。
――ただ、失踪宣告はまだ取り消されていない。
――登記は俺たちのものだから、今のうちに売ってしまおう。
……。
私は目を閉じました。
いや。
待ってください。
それは。
「善意じゃない……!」
思わず声が出ました。
相馬先輩が頷きます。
「そういうことだ」
私は民法第三十二条を開きました。
――失踪の宣告後その取消し前に善意でした行為。
この善意。
法律用語では、事情を知らなかったこと。
つまり、失踪者が生きている事実を知らずに取引した者を保護する規定。
そして。
昭和十三年二月七日。
大審院判決。
失踪宣告取消し前の契約について、この善意の保護を受けるには、取引の双方当事者が善意であることを要するという考え方。
「所長!」
私は声を上げました。
「これ、使えます!」
「ああ」
「信夫さんも買主も、事情を知っていた可能性が高い!」
「そうだな」
「なら、善意の取引として保護されるとは言えません!」
片桐所長は頷きました。
「ただし、書き方には気をつけろ」
「はい?」
「今ある証拠だけで、すべての法律関係が自動的に元に戻ると断定するな」
「……はい」
「土地の返還には、名義の移転経緯や第三者の権利も関係する。そこは弁護士が確認すべき問題だ」
私は頷きました。
そうです。
行政書士は、裁判で本人の代理人になることはできません。
紛争の相手方と示談交渉を引き受けることもできません。
でも。
正一さん本人が意思を示すための書面を整え、資料を整理し、関係する事実を明確にすることはできます。
そして、家庭裁判所への失踪宣告取消しの申立てなど、必要な裁判所手続は、本人が適切に進められるよう、弁護士へつなぐ。
そのための準備なら。
今、できる。
「所長」
私は言いました。
「相手は『裁判所が死んだと認めた』って言ってましたよね」
「ああ」
「でも、その裁判所が、本人の生存を確認すれば、宣告を取り消さなければならない」
「そうだ」
「しかも、それまでの取引が全部保護されるわけじゃない」
「そのとおり」
私は大きく息を吸いました。
「……書きます!」
所長が頷きました。
「正一さんの意思を確認して、通知書の原案を作れ」
「はい!」
こうして。
紙の上で死んだことにされた男の反撃が、始まりました。
机の上に、六法。
判例集。
登記簿謄本。
診療記録。
勤務証明書。
そして、信夫宛ての手紙の写し。
私は、正一さんが本人名義で発送する内容証明郵便の原案を書き上げました。
タイトル。
――失踪宣告取消しに関する通知書。
差出人。
杉浦正一。
宛先。
杉浦信夫。
「読んでみろ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
私は、少し緊張しながら読み上げました。
「第一。通知人杉浦正一は、昭和五十四年に消息を絶ったものの、現在生存しており、本人であることを確認できる各種資料が存在する」
「うん」
「第二。通知人についてなされた普通失踪の宣告は、生存の証明がある場合、民法第三十二条第一項により、本人又は利害関係人の請求に基づき家庭裁判所が取り消すべきものである」
「うん」
「第三。失踪宣告による死亡の擬制は、本人が現実に生存する場合、その権利能力そのものを消滅させる趣旨ではない」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第四。通知人の財産に関しては、失踪宣告取消しにより、民法第三十二条第二項に基づく権利関係の回復及び返還義務の問題が生ずる」
「よし」
「第五。貴殿が第三者へ売却した不動産について、貴殿及び買主が通知人の生存を知りながら売買を行った疑いを裏づける資料が存在する」
私は一度、息を吸いました。
「第六。失踪宣告取消し前の行為に関する民法第三十二条第一項後段の保護については、契約当事者双方の善意を要するとした大審院昭和十三年二月七日判決が存在する」
相馬先輩が腕を組みました。
「そこだな」
「はい」
「もう少し続けろ」
「第七。通知人は、家庭裁判所に対する失踪宣告取消しの申立てを予定している。貴殿においては、関係財産の処分経緯、売買関係資料及び現在の権利関係を明らかにするよう求める」
私は最後の一文を読みました。
「本通知に対する回答がなく、関係財産の処分等が継続される場合には、弁護士への相談のうえ、所有権その他の権利に基づく請求及び必要な法的措置を検討する」
読み終わりました。
事務所が静かになります。
「……どうでしょう」
私は所長を見ました。
片桐所長は、原案を読みました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
「ここ」
「はい!」
「『本人が生きているから、全財産を直ちに返還せよ』と書かなかったのはいい」
「はい」
「だが、この部分は整理し直せ」
所長が指差したのは、財産返還の箇所でした。
「第三十二条第二項には、現存利益という制限がある」
「はい」
「相手が事情を知っていたなら、返還義務の範囲についても別の検討が必要になる。だから、返還の範囲をここで一律に断定するな」
「……分かりました」
私は書き直しました。
「それから」
所長が続けました。
「家の所有関係は、信夫が正一さんから直接相続したわけではない。奥さんや娘さん、その後の持分移転が関係する」
「はい」
「その部分の書類が全部揃わないうちに、家全体の所有権が正一さんに戻ると書くな」
「はい!」
私は赤線を引きました。
民法。
失踪宣告。
取消し。
相続。
善意。
現存利益。
権利能力。
同じ事件なのに、次から次へと論点が現れます。
「先輩」
「何だ」
「これ、全部を一つの条文で解決しようとしたら失敗しますね」
「そうだ」
「本人が生きていることと、財産をどこまで返してもらえるかは別」
「ああ」
「善意の第三者が保護される場合と、事情を知っている相手は違う」
「そういうことだ」
相馬先輩は、原案の最後を指差しました。
「それと、こはる」
「はい」
「これを送るだけで裁判に勝ったと思うなよ」
「……はい」
「内容証明は、書いた内容が真実だと郵便局が認める制度じゃねえ。どんな文面を、いつ、誰に送ったかを証拠に残す手段だ」
「はい」
「勝負を決めるのは、その中に書かれた事実を支える証拠だ」
私は、机の上の資料を見ました。
診療記録。
勤務証明。
手紙。
登記簿。
相続関係書類。
すべてが、少しずつつながっている。
そして。
片桐所長が言いました。
「怖いのは内容証明じゃない」
「……はい」
「相手が、自分に不利な事実を説明できないことだ」
私は頷きました。
なるほど。
七年の沈黙。
その裏に何があったのか。
誰が、何を知っていたのか。
それを一つずつ明らかにする。
この書面は、そのための刃だったのです。
内容証明郵便を発送した三日後。
片桐事務所に電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『……相馬さんはいるか』
低い声。
杉浦信夫でした。
「少々お待ちください」
私は受話器を先輩に渡しました。
「相馬です」
『あの書面、何だ』
「正一さんご本人の通知書です」
『ふざけるな!』
受話器から怒鳴り声が漏れました。
『失踪宣告は裁判所が出したんだぞ! こっちは正式な手続を踏んでるんだ!』
「そのとおりです」
『だったら――』
「正式な手続で取り消されることもあります」
沈黙。
『……何?』
「民法第三十二条です。通知書の記載をご確認ください」
『そんなことは分かってる!』
……分かってる?
私は首をかしげました。
昨日まで、取り消せること自体を認めていなかったのに。
『それより!』
信夫の声が、急に小さくなりました。
『昭和六十二年の手紙……あれは何だ』
私は息を呑みました。
そこです。
信夫が本当に恐れているのは。
失踪宣告の取消しそのものではない。
兄が生きているかもしれないと知らされていたこと。
それを隠したまま。
家を自分のものにし。
土地を売ったこと。
「その手紙については、発信元と控えの存在を確認しています」
相馬先輩が答えました。
『……』
「必要であれば、弁護士へ引き継ぐ資料にもなります」
『おい……』
「はい」
『土地を買った会社にも、何か言ったのか?』
「私どもが代理人として交渉することはありません。関係資料は、ご本人と担当弁護士へお渡しする予定です」
『……弁護士』
信夫の声が震えました。
『待て。そこまでしなくても……』
私は拳を握りました。
来ました。
急に弱気です。
でも。
相馬先輩は、そこで追い打ちをかけませんでした。
「今後の対応については、ご本人同士、必要に応じてそれぞれの弁護士を通じてご確認ください」
『……分かった』
電話が切れました。
「先輩!」
「何だ」
「効きましたね!」
「ああ」
「すごいです!」
「まだ何も終わってねえよ」
「……あ」
そうでした。
これから家庭裁判所へ申立てをする。
失踪宣告を取り消してもらう。
そして、複雑な財産関係を整理する。
電話一本で、すべて解決したわけではありません。
でも。
今まで、
「死んだ人間に権利はない」
と笑っていた相手が。
初めて。
法律の中身を恐れ始めたのです。
それから、正一さんは弁護士の協力を得て、家庭裁判所に失踪宣告取消しの申立てを行いました。
片桐事務所で集めた資料も、弁護士へ引き継がれました。
診療記録。
勤務関係の資料。
戸籍。
そして、本人確認のための証拠。
慎重に確認が進められます。
やがて。
正一さんの生存が認められ、失踪宣告を取り消す審判がなされました。
その審判が確定すると、戸籍上の訂正手続も進みました。
そして。
信夫が売却した製材所の土地についても、状況が変わりました。
弁護士の調査により、信夫と買主の双方が、売買当時、正一さんの生存を知っていたと認められる有力な証拠が確認されたのです。
買主の社内文書。
信夫との打合せ記録。
そして。
あの製材所社長からの手紙。
東海土地開発は、顧問弁護士から法的リスクを説明され、態度を変えました。
もし裁判になれば。
失踪宣告取消し前の善意の取引として保護される、という主張は通らない可能性が高い。
取得した権利そのものを争われる。
場合によっては、所有権に基づく請求や登記の是正を求められる。
さらに、敗訴した場合には、判決内容に応じた強制執行の問題も生じる。
それを理解したのです。
結局。
当事者双方の弁護士を通じた協議により、製材所跡地については正一さんの権利を回復するための合意が成立しました。
もちろん。
すべてが、そのまま元どおりになったわけではありません。
正一さんの妻は、もう戻りません。
家には、弟一家の生活があります。
財産についても、相続人や第三者との関係を個別に整理しなければなりません。
それでも。
製材所の跡地だけは。
もう一度、正一さんのもとへ戻ることになったのです。
ある日の午後。
正一さんが事務所を訪れました。
今度は、少し明るい表情です。
「皆さん、本当にありがとうございました」
そう言って、深く頭を下げました。
「正一さん!」
私は立ち上がりました。
「土地、戻ることになったんですね!」
「はい」
正一さんは頷きました。
「家のほうは、まだ整理が必要なんですが……」
「はい」
「弟も、ようやく話を聞くようになりました」
「そうですか……」
私は胸を撫で下ろしました。
正一さんは鞄から、一枚の写真を取り出しました。
古い製材所。
積み上げられた木材。
若い頃の正一さん。
その隣には、奥さんらしい女性。
「これは?」
「昔の写真です」
正一さんが微笑みました。
「妻と二人で、製材所を始めた頃の」
私は写真を見つめました。
「……奥様、お若いですね」
「ええ」
「仲が良さそうです」
「よく喧嘩しましたよ」
正一さんは笑いました。
「木材の仕入れのことで、毎日のように」
そして。
静かに言いました。
「家に帰ったとき、妻がいないことが一番つらかった」
私は黙りました。
「でもね」
正一さんは写真の端を撫でました。
「製材所の土地が戻ってきたら、もう一度、何か始めてみようと思うんです」
「何をですか?」
「小さな木工所でも」
「木工所……!」
「家具を直したり、子供たちに木の玩具を作ったり」
正一さんは、少し照れくさそうに笑いました。
「九年もいなくなった人間が、今さら商売なんて、笑われますかね」
私は、思い切り首を横に振りました。
「笑いません!」
「……」
「だって、正一さんは生きてるんですから!」
正一さんの目が丸くなりました。
「生きてる人が、何か始めて、何が悪いんですか!」
少し声が大きくなりました。
相馬先輩が、隣で咳払いします。
「こはる」
「はい?」
「声がでけえ」
「すみません!」
正一さんが笑いました。
その笑顔を見て。
私は、ようやく思いました。
ああ。
この人は。
本当に帰ってきたんだ。
法律の上だけではありません。
これからの人生へ。
もう一度。
正一さんが帰ったあと。
私は机に向かい、民法の六法を開きました。
「相馬先輩」
「何だ」
「失踪宣告って、不思議ですね」
「何がだ」
「七年経ったら死んだものとみなすなんて、最初は冷たい制度だと思いました」
「ああ」
「でも……」
私は、正一さんが座っていた椅子を見ました。
「残された家族だって、いつまでも何もできないと困りますよね」
「そうだな」
「相続もできない。財産の処分にも困る。新しい生活も始められない」
「だから制度がある」
私は頷きました。
失踪宣告。
人の死を軽く扱うための制度ではない。
いつまでも生死が分からないという状態の中で、残された人たちの生活を前へ進めるための制度。
普通失踪。
七年。
特別失踪。
一年。
そして。
もし本人が生きて帰ってきたら。
失踪宣告を取り消す。
ただし。
その間に行われた取引の安全も考える。
財産を返す場合も、現存利益などの問題を整理する。
誰か一人だけを守るのではない。
関係する人たちの利益を、できる限り公平に調整する。
それが、民法なんですね。
「ところで」
私は言いました。
「先輩」
「何だ」
「今回の事件で、ちょっと疑問があるんです」
「言ってみろ」
「失踪宣告で死亡したものとみなされた人が、実際には生きていた場合、その人の権利能力は残るんですよね」
「ああ」
「じゃあ……」
私は六法を閉じました。
「正一さんが、行方不明だった九年間に、別の町で結んだ契約はどうなるんですか?」
相馬先輩が私を見ました。
「どうなると思う?」
「ええと……」
私は考えました。
失踪宣告を受けた。
法律上、死亡したものとみなされた。
でも。
本人は生きていた。
権利能力は残る。
ならば。
「契約が当然に無効になるわけじゃない……?」
「そうだ」
「やっぱり!」
「死亡したものとみなすという効果は、本人が実際に生きて活動している場所での権利能力を奪うものじゃねえ」
「はい!」
私は、思わず笑いました。
なるほど。
失踪宣告は、法律上の死亡を擬制する制度。
でも。
本人の存在そのものを消す魔法ではない。
「じゃあ先輩!」
「何だ」
「失踪宣告って、法律が人間を死なせる制度じゃないんですね!」
先輩は、少し驚いた顔をしました。
それから。
「……そうだな」
短く答えました。
「法律関係に区切りをつける制度だ」
私は頷きました。
区切り。
それは、残された人のために必要なことがある。
でも。
生きて帰ってきた人の人生まで、そこで終わらせていいわけではない。
法律は、そこにも道を残している。
私はノートを開きました。
今日の教訓。
何を書こう。
少し考えます。
それから。
鉛筆を走らせました。
――失踪宣告は「死亡したものとみなす」制度であって、「生きている人の権利を消す」制度ではない。
「……よし!」
私はノートを閉じました。
相馬先輩が覗き込みます。
「何だ、それ」
「今日の教訓です!」
「長えな」
「いいじゃないですか!」
「試験で書くには長いだろ」
「でも、忘れません!」
先輩が笑いました。
そして。
「こはる」
「はい?」
「もう一つ覚えとけ」
「何ですか?」
「七年経ったからって、人間が死ぬわけじゃねえ」
「……はい」
「七年経ったことに、法律が一定の効果を与えるだけだ」
私は、ゆっくり頷きました。
そうです。
法律は、時間を決めることができる。
財産の帰属を決めることもできる。
一定の場合に、人を死亡したものとして扱うこともできる。
でも。
人が生きているという事実そのものは。
法律の紙一枚で、消せるものではないのです。
その日の夕方。
私は、正一さんが置いていった写真を思い出していました。
古い製材所。
木材の山。
笑っている若い夫婦。
そして。
九年ぶりに帰ってきた男。
帰る家は変わっていました。
妻も、もういません。
失った時間も戻りません。
それでも。
正一さんには、まだ未来があります。
木工所。
小さな家具。
子供たちの玩具。
そんなものを作りながら、生きていく未来。
それを。
「七年経ったから、もう死んだ人間だ」
そんな一言で、奪っていいわけがありません。
私は窓の外を見ました。
夕焼けに染まる町。
どこかで、製材所の機械の音が聞こえた気がしました。
「所長」
「何だ」
「民法って、時々すごく冷たい言葉を使いますね」
「ああ」
「死亡したものとみなす、とか」
「そうだな」
「でも、その制度の中に、ちゃんと救いも用意されている」
所長は帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「法律は、失われた時間を返せない」
「……はい」
「だが、これからの時間を守ることはできる」
私は、その言葉を胸に刻みました。
そして、もう一度ノートを開きました。
失踪宣告。
普通失踪は七年。
特別失踪は危難が去った後一年。
死亡とみなす時点は、それぞれ違う。
生存が証明されれば、家庭裁判所が宣告を取り消す。
宣告が取り消されても、善意の取引には保護がある。
財産の返還には、現存利益という考え方もある。
そして何より。
生きている本人の権利能力は、消えない。
私は、小さく微笑みました。
よし。
これなら。
きっと忘れません。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
年配の女性の声。
『主人が、十年前に船の事故で行方不明になりまして……』
私は鉛筆を止めました。
船の事故。
……まさか。
『最近になって、主人が残した土地のことで、親戚から連絡が来たんです』
「はい」
『もう七年経っているから、死亡したことにして相続できるはずだって……』
私は、思わず相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ています。
船の事故。
死亡の原因となるべき危難。
そして、生死不明。
これは。
「先輩……!」
「何だ」
「今度は、普通失踪じゃないかもしれません!」
「そうだな」
「特別失踪です!」
「まだ決めつけるな。事故の状況を聞け」
「はい!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。船が沈没したのか、事故がどのように起きたのか、詳しく教えていただけますか?」
受話器の向こうから、女性の声が続きました。
私はメモを取り始めました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
民法の世界は、今日も不思議です。
人がいなくなったら。
何年待つのか。
いつ死亡したものと扱うのか。
生きて帰ったら、どうするのか。
そして。
その間に動いた財産は、誰のものになるのか。
どれも、試験のテキストでは短い文章です。
でも。
その一行の向こうには。
帰りを待つ人がいて。
生活に困る人がいて。
財産を狙う人もいて。
それから。
帰ってくる人もいる。
私は受話器を置くと、相馬先輩に言いました。
「先輩!」
「何だ」
「失踪宣告って、死亡の問題だと思ってました」
「ああ」
「でも、違うんですね」
「何がだ」
「生きている人と、残された人が、どうやって人生を続けるかっていう問題なんですね」
先輩は、しばらく黙りました。
それから。
「……まあ、そうだな」
と答えました。
「ただし」
「はい?」
「感動してるところ悪いが、相談票を書け」
「……はい」
「船の事故の日付も確認しろ」
「はい!」
「危難が去った日もだ」
「分かりました!」
「それから、失踪宣告がもう出てるかどうか」
「はい!」
私は鉛筆を握りました。
今日の私は、もう知っています。
七年と一年。
その違いが、人の相続を左右すること。
そして。
失踪宣告という、少し怖い名前の制度が。
決して、人の命を紙の上で好き勝手に消していい制度ではないことを。
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