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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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444/608

[民法・強迫]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)


 騙された人と、脅された人。


 どちらも、自分の望まない契約をしてしまうことがあります。


 でも。


 民法は、この二つを同じようには扱いません。


 特に。


 契約した相手が何も知らなかった場合。


 そして。


 契約によって取得された財産が、さらに別の人へ渡ってしまった場合。


 その違いは、決定的になります。


 なぜなら。


 詐欺では守られる第三者が、強迫では守られないことがあるからです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「……強迫って、恐ろしいですね」


 私が呟くと、新聞を読んでいた相馬先輩が顔を上げました。


「今さら何だ」


「だって、先日の村瀬さんの事件ですよ」


「ああ。洋裁店の土地を脅し取られかけた件か」


「はい」


 私は鉛筆を握りました。


 村瀬芳江さん。


 五十四歳。


 亡くなった夫が残した店舗兼住宅。


 娘さんを傷つけると脅され、時価二千万円以上とも言われる土地建物を八百万円で売ってしまった。


 契約相手は東栄不動産。


 しかし、直接脅したのは金融業者の黒田。


 しかも、土地はその後、大西建材という第三者に転売されていました。


「東栄不動産は、強迫を知らなかったと言いました」


「ああ」


「大西建材も、何も知らずに買いました」


「そうだな」


「なのに、結局は土地を取り戻せたんですよね」


「そうだ」


 私はノートを見つめました。


「詐欺だったら、同じ結論にならないこともありますよね?」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「ほう」


「何ですか?」


「ようやく、九十六条の急所に気づいたか」


「……褒めてます?」


「半分な」


「半分!」


 そこへ、片桐所長が奥から声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「今日は、詐欺と強迫を比べてみろ」


「はい!」


「ただし」


「はい?」


「昭和六十三年の条文でな」


 ……。


 私は固まりました。


 出ました。


 時代の壁。


 でも。


 今回は、現代の民法を知っているからこそ、違いがよく分かるところでもあります。


「分かりました!」


 私はノートの最初のページに、大きく書きました。


 ――民法第九十六条。


 詐欺又は強迫。


 今日の勉強会、開幕です。



「まず、強迫とは何か」


 片桐所長が言いました。


 私はノートに書きました。


 ――強迫。


 害悪を告知し、相手に恐怖を生じさせ、その恐怖によって自由な意思決定を妨げること。


「つまり、脅して契約させることですね」


「そうだ」


「村瀬さんの場合は、娘さんに危害を加えると脅されました」


「ああ」


「だから、売りたくなかった土地を売ってしまった」


 相馬先輩が頷きました。


「そこが大事だ」


「どこですか?」


「脅されたことと、契約したことのつながりだ」


 私は鉛筆を止めました。


「……因果関係ですね」


「そうだ」


 たとえば。


 ある男が、


『お前の店を潰してやる!』


 と怒鳴った。


 でも、言われた人はまったく怖がらず、もともと売るつもりだった土地を予定どおり売却した。


 この場合。


 脅すような言葉があったというだけで、当然に強迫による意思表示になるわけではありません。


 相手が害悪の告知によって恐怖を感じ、その恐怖が意思表示をさせる原因となったかどうか。


 そこが問題になります。


「村瀬さんは?」


 相馬先輩が聞きました。


「娘さんに何かされると思って、怖くなりました」


「うん」


「だから、売りたくなかった土地を売った」


「そうだ」


「つまり、強迫と売買契約の間につながりがある」


 私は大きく丸をつけました。


「強迫という行為があっただけではなく、その強迫によって意思表示をしたことが重要なんですね!」


「そういうことだ」


 所長が頷きました。


 私は続けました。


「ちなみに、何か悪いことを告げれば、何でも強迫になるわけじゃありませんよね」


「ほう」


「例えば、正当な権利に基づいて『借金を返さなければ法的手続を取る』と告げることと、娘さんを傷つけると脅すことでは違います」


「そうだ。ただし、権利の行使を告げる場合でも、目的や方法が不当なら問題になり得る」


「はい!」


 なるほど。


 言葉だけを見るのではない。


 何を目的に。


 どんな害を告げて。


 相手に何をさせたのか。


 そこまで考える必要があるのです。



「それでは、効果です!」


 私はページをめくりました。


 ――民法第九十六条第一項。


 詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる。


「これは、昭和六十三年でも現代でも基本的に変わりません!」


「そうだな」


 相馬先輩が頷きました。


「ここで大事なのは、『無効』じゃねえぞ」


「はい!」


 私は二つの言葉を書きました。


 無効。


 取消し。


「強迫による意思表示は、当然に無効になるわけではありません」


「うん」


「取り消すことができる、です!」


「そのとおり」


 例えば。


 村瀬さんが強迫によって土地を売った。


 その時点で、売買契約が法律上当然に消滅するわけではありません。


 村瀬さんが取消権を行使することで、契約は初めから無効だったものとして扱われます。


「だから、内容証明に取消しの意思表示を書いたんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「単に『私は脅されました』という事実だけを通知するのと、『強迫を理由に契約を取り消します』と意思表示するのは違う」


「なるほど!」


 私は頷きました。


 あの内容証明には、はっきり書きました。


 ――民法第九十六条第一項に基づき、本件売買契約を取り消す。


 大事なのは、その一文。


 もちろん、取消しは内容証明郵便でなければできないわけではありません。


 しかし。


 いつ。


 誰が。


 誰に対して。


 どの契約を取り消したのか。


 それを証拠として残す意味は大きいのです。


「先輩」


「何だ」


「内容証明って、契約を取り消す魔法の紙じゃないんですね」


「当たり前だ」


「法律上認められた取消権を、確実に相手へ伝えて、証拠に残すためのもの」


「そうだ」


「つまり、内容証明そのものが強いんじゃなくて、そこに書かれた法律上の意思表示と、その根拠が重要なんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「ようやく分かってきたじゃねえか」


 私は嬉しくなりました。


 ただし。


 ここで、一つ疑問が浮かびます。


「所長」


「何だ」


「強迫による取消しって、いつまでもできるんですか?」


 所長は、机の六法を指差しました。


「百二十六条を見ろ」


 私はページをめくりました。


 取消権の期間の制限。


 民法第百二十六条。


 ここにも。


 昭和と令和の違いが隠れていたのです。



「えっ!?」


 私は声を上げました。


「昭和の百二十六条、五年じゃない!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「いきなり何だ」


「先輩! 現代の取消権は、追認できる時から五年ですよね!」


「……誰に聞いてるんだ」


「あっ!」


 しまった。


 また未来の法律を持ち込んでしまいました。


 私は慌てて、目の前の六法を読み直しました。


 昭和六十三年の民法第百二十六条。


 追認をすることができる時から十年間。


 行為の時から二十年間。


 ……。


「十年!」


 私は机を叩きました。


「現代は五年なのに、昭和は十年!」


「そうだ」


「また法律が違う!」


「だから、今の六法を読めって言ってるだろ」


 相馬先輩が呆れました。


 私はノートに大きく書きました。


 昭和六十三年。


 追認できる時から十年。


 行為の時から二十年。


 現代。


 追認できる時から五年。


 行為の時から二十年。


「ここ、受験生が時代を間違えると大事故ですね」


「お前くらいしか間違えねえだろ」


「転生者には切実なんです!」


「また妙なことを……」


 私は苦笑しました。


 でも。


 もう一つ大切なことがあります。


「強迫された人が、追認できるようになるのは、基本的に強迫の状況を脱したときですよね」


「そうだ」


「脅され続けているのに、自由な意思で追認するかどうか決めろと言われても無理ですから」


 所長が頷きました。


「民法第百二十四条も確認しておけ」


「はい!」


 私はノートの余白に書き足しました。


 強迫による取消権の期間を考えるときは、強迫から解放され、追認できる状態になった時点が重要。


 単純に契約した日の翌日から十年、というわけではありません。


「ただし」


 所長が言いました。


「行為の時から二十年という期間もある」


「はい」


「二つの期間を混同するな」


「分かりました!」


 私は大きく頷きました。


 なるほど。


 取消権は強力です。


 でも、無期限ではない。


 法的な安定も考慮されているのです。



「さて、本題だ」


 相馬先輩が椅子を引きました。


「第三者による強迫」


「はい!」


 私はノートの真ん中に、三人の名前を書きました。


 村瀬芳江。


 黒田修一。


 東栄不動産。


「強迫したのは黒田です」


「ああ」


「でも、売買契約の相手方は東栄不動産です」


「そうだ」


「では、東栄不動産が強迫を知らなかった場合、どうなるか」


 私は鉛筆を止めました。


 そして、大きく書きました。


 ――強迫なら、取り消せる。


「ここが一番大事です!」


「説明してみろ」


 相馬先輩が言いました。


「民法九十六条二項は、第三者による詐欺についての規定です」


「うん」


「でも、第三者による強迫については、同じ制限がありません」


「そうだ」


「だから、契約相手が強迫の事実を知らなくても、取消しができるんです!」


 私は勢いよく言いました。


 相馬先輩が頷きました。


「正解だ」


 ……よし。


 でも。


 ここは、昭和と現代の違いを慎重に整理する必要があります。


「先輩。九十六条二項の文言も、現代とは違うんですよ」


「また未来か」


「これ、大事なんです!」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年の民法第九十六条第二項。


 第三者が詐欺をした場合、相手方がその事実を知っていたときに限り、取消しができる。


 一方。


 現代の民法第九十六条第二項。


 相手方がその事実を知り、又は知ることができたときに限り、取消しができる。


「違いが分かりますか?」


 私は相馬先輩を見ました。


「知ることができたとき、か」


「はい!」


 つまり。


 旧法では、原則として相手方が詐欺の事実を実際に知っていたことが必要でした。


 現代では、実際に知らなくても、注意していれば知ることができた場合には、取消しが認められることがあります。


「ただし、先輩」


「何だ」


「これは第三者による詐欺の話です!」


「そうだな」


「強迫の場合は、そこを考える必要がありません」


 私は大きな丸を描きました。


 第三者による詐欺。


 相手方の認識が重要。


 第三者による強迫。


 相手方の善意・悪意を問わず、取消しができる。


「じゃあ、問題だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「AがCに脅されて、Aの土地をBに売った」


「はい」


「BはCの強迫をまったく知らなかった。知らなかったことに落ち度もない」


「はい!」


「Aは取消しができるか?」


「できます!」


「理由は?」


「第三者による強迫だからです!」


「正解」


 私は拳を握りました。


 よし。


 完璧。


 すると相馬先輩が、にやりと笑いました。


「じゃあ、Cが強迫じゃなく、詐欺をしていたら?」


「……!」


 私は一瞬止まりました。


 しまった。


 引っかけ問題です。


「第三者による詐欺なら、相手方の認識が問題になります!」


「そうだ」


「昭和六十三年なら、原則としてBが詐欺を知っていたときに限って取消しができます!」


「よし」


「現代なら、Bが詐欺を知り、または知ることができたときです!」


「未来の話は聞いてねえ!」


「でも、比較が大事なんです!」


 相馬先輩は呆れた顔をしました。


 私は笑いました。


 でも。


 この違いには、ちゃんと理由があります。



「所長」


「何だ」


「どうして詐欺と強迫で、相手方の保護が違うんですか?」


 私は尋ねました。


 所長はしばらく考えてから言いました。


「騙された人も、脅された人も、保護が必要だ」


「はい」


「だが、意思決定の自由をどれほど奪われたかという点で、違いがある」


 私は頷きました。


 詐欺。


 嘘を信じて、間違った判断をしてしまう。


 例えば。


「この土地の地下には温泉が湧きますよ」


 と騙されて、高い土地を買った。


 本人は、事実を誤解しています。


 でも。


 その誤解に基づき、契約をするという判断をした。


 一方。


 強迫。


「契約しなければ、お前の娘を傷つける」


 そう脅されて、土地を売った。


 本人は、売りたくない。


 むしろ、売らないという意思がある。


 それなのに。


 恐怖によって、自由な選択を妨げられている。


「つまり」


 私は言いました。


「詐欺は、判断の前提となる情報を歪める」


「うん」


「強迫は、自由に判断することそのものを妨げる」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「だから、強迫された人の保護は特に強い」


 私は納得しました。


 もちろん、詐欺も重大な違法行為です。


 しかし民法は、詐欺の場合、取引相手や第三者の信頼との調整を図る場面があります。


 一方。


 強迫では、恐怖によって意思表示をさせられた本人の保護を、より強く優先するのです。


「なるほど……」


 私は鉛筆を動かしました。


 詐欺は、取引の安全との調整が必要。


 強迫は、意思決定の自由の保護を強く優先。


「これ、暗記より分かりやすいですね!」


「そうだろ」


 相馬先輩が言いました。


「法律ってのは、理由を考えれば覚えやすいんだよ」


 私は頷きました。


 でも。


 ここからが、本当の難所でした。



「では、強迫取消し前の第三者です!」


 私は新しいページを開きました。


 そこに、四人の名前を書きます。


 A。


 B。


 C。


 D。


「……おい」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「何ですか?」


「今度は誰が誰だ」


「分かりやすく整理します!」


 私は説明しました。


 Aは、強迫された売主。


 Bは、最初の買主。


 Cは、Aを脅した人物。


 Dは、Bから土地を買った第三者。


「今回の事件なら?」


 相馬先輩が聞きました。


「Aが村瀬さん」


「うん」


「Bが東栄不動産」


「うん」


「Cが黒田」


「うん」


「Dが大西建材です!」


「ややこしいな」


「法律の問題集は、もっとややこしいです!」


 私はノートに矢印を描きました。


 AがBに土地を売る。


 AはCから強迫されていた。


 Bが土地をDに転売する。


 その後、Aが強迫を理由にBとの契約を取り消す。


「さて、ここで問題です」


 私は言いました。


「Dは強迫について何も知りませんでした」


「うん」


「知らなかったことに落ち度もありません」


「うん」


「それでもAは、強迫取消しをDに対抗できるでしょうか?」


 相馬先輩が即答しました。


「できる」


「正解です!」


「お前が俺に問題を出すな」


「勉強会ですから!」


 私は大きく書きました。


 ――強迫取消し前の第三者には、善意無過失であっても取消しを対抗できる。


「これは、現代でも基本的に同じなんですよね」


「そうだな」


 私は頷きました。


 民法九十六条三項。


 詐欺による意思表示の取消しについては、一定の第三者が保護されます。


 しかし。


 強迫による取消しについては、同項による第三者保護がありません。


 だから。


 たとえ転得者Dが善意無過失でも。


 原則としてAは、強迫取消しをDに対抗できるのです。


「これ、最初に勉強したとき、すごく驚きました」


 私は言いました。


「何でだ?」


「Dは悪いことをしていないからです」


「ああ」


「なのに、土地を失う可能性がある」


 相馬先輩は頷きました。


「村瀬さんの事件と同じだな」


「はい」


 大西建材の社長は、事情を知らずに土地を買いました。


 代金も支払いました。


 登記も済ませました。


 それでも。


 村瀬さんの強迫取消しを対抗される立場にあったのです。


「所長」


「何だ」


「ここ、登記があっても結論は変わらないんですか?」


 所長は頷きました。


「強迫取消し前に権利を取得した第三者については、原則として九十六条の問題だ」


「はい」


「善意無過失だから、あるいは登記を備えているからという理由だけで、強迫取消しを排斥できるわけではない」


「なるほど」


 私はノートに線を引きました。


 ただし。


 ここで重要なのが、時間の順番です。


「先輩」


「何だ」


「取消し前の第三者と、取消し後の第三者は別ですよね」


「そうだ」


「ここを間違えると、結論が変わります」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、説明してみろ」


 私は深呼吸しました。


 さあ。


 難所です。



「強迫取消し後の第三者の場合です!」


 私はノートに別の図を描きました。


 まず。


 Aが強迫されて、Bに土地を売った。


 その後。


 AがBとの売買契約を取り消した。


 さらにその後。


 Bが土地をDに売ってしまった。


「こういう場合ですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


「取消し前にDが買った場合とは、順番が違います」


「ああ」


「ここでは、不動産なら民法百七十七条の対抗要件が問題になります」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだな」


 取消しによって、Aは土地の所有権が自分に復帰したと主張します。


 一方。


 取消し後にBから土地を取得したDも、所有権を主張する。


 この場合。


 AとDは、対抗関係に立つと考えられます。


 つまり。


 不動産なら、登記が問題になるのです。


「ここで、Dが悪意だったらどうですか?」


 私は尋ねました。


 相馬先輩が答えます。


「悪意だからというだけで、当然に登記の対抗力を失うわけじゃねえ」


「そうです!」


 私は頷きました。


 単なる悪意者と、背信的悪意者は違います。


 民法百七十七条の第三者から排除されるような背信的悪意者であるかどうかは、さらに具体的な事情が必要です。


「でも、今回の大西建材は、取消し前に土地を取得していました」


「そうだ」


「だから、取消し後の第三者の登記問題とは違うんです!」


 所長が頷きました。


「その区別が重要だ」


 私はノートに大きく書きました。


 ――取消し前の第三者と、取消し後の第三者を混同しない。


「先輩!」


「何だ」


「強迫取消しって、やっぱり難しいですね」


「そうだな」


「善意でも保護されない場合があるのに、取消し後だと登記の問題になる」


「そういうことだ」


「時間の順番が変わるだけで、適用する法律が変わるんですね」


 相馬先輩は頷きました。


「だから、実務じゃ日付が大事なんだよ」


 私は思い出しました。


 東栄不動産から大西建材への所有権移転の日付。


 村瀬さんの取消通知の日付。


 あのとき。


 相馬先輩が、何度も確認していたものです。


 そうか。


 あれは単なる事務作業ではなかった。


 どの法律関係になるのかを決めるための、重要な調査だったのです。



「ところで、こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい?」


「旧法と現代の九十六条三項の違いも整理しておけ」


「はい!」


 私はノートをめくりました。


 ここも、時代の地雷です。


 昭和六十三年の民法第九十六条第三項。


 詐欺による意思表示の取消しは、善意の第三者に対抗することができない。


 一方。


 現代の民法第九十六条第三項。


 詐欺による意思表示の取消しは、善意でかつ過失がない第三者に対抗することができない。


「先輩!」


「何だ」


「違いは、無過失です!」


「……また未来の法律か」


「重要です!」


 私は書きました。


 昭和六十三年。


 条文上は、善意の第三者。


 現代。


 善意無過失の第三者。


「つまり、現代では善意だけでなく、無過失も明文上の保護要件になったんですね」


「そういうことか」


「はい!」


 ただし、これは詐欺取消しの場合。


 強迫取消しには、もともと九十六条三項が適用されません。


「だから、強迫の場合は、旧法でも現代でも、基本的に善意無過失の第三者に対抗できます!」


 私は勢いよく言いました。


 相馬先輩が頷きました。


「そこが今回の中心だな」


「はい!」


 私はノートに二重線を引きました。


 昭和でも令和でも。


 強迫取消しに関する本人保護の強さは、基本的に引き継がれている。


 一方、詐欺取消しについては、第三者保護の条件が改正によって変わっている。


「現代で無過失が加わったのは、どうしてでしょう?」


 私は考えました。


 善意。


 つまり、事情を知らなかったこと。


 でも。


 普通に注意すれば詐欺に気づけたのに、何も調べなかった人まで保護してよいのでしょうか。


「例えば」


 私は言いました。


「土地が極端に安い値段で売られていて、不自然な事情がいくつもあったのに、買主が何も確認しなかった場合です」


「うん」


「本人は本当に知らなかったとしても、注意すれば知ることができたかもしれません」


「そうだな」


「そういう第三者を、無条件に保護する必要があるのか、という問題ですね」


 所長が頷きました。


「取引の安全と、騙された本人の保護。その調整だ」


「はい」


 私は鉛筆を走らせました。


 善意だけでなく、無過失も求める。


 そうすることで、詐欺の被害者を保護できる範囲が広がる。


 なるほど。


 民法の改正は、単なる言葉の変更ではありません。


 誰を、どこまで守るか。


 その線引きを見直しているのです。



「さて」


 相馬先輩が六法を閉じました。


「最後に、実務の話だ」


「はい!」


「村瀬さんの件で、俺たちは何をした?」


 私は考えました。


「強迫の事実を整理しました」


「うん」


「契約書と登記簿を確認しました」


「うん」


「目撃者や写真など、証拠を集めました」


「そうだ」


「それから、村瀬さん本人の意思に基づいて、取消通知書を作成しました」


「よし」


 私は頷きました。


 そして続けました。


「でも、相手方との示談交渉はしていません」


「そうだ」


「登記の手続は司法書士へ、紛争の解決や訴訟は弁護士へ引き継ぎました」


「そのとおり」


 片桐所長が静かに言いました。


「行政書士は、何でもできるわけじゃない」


「はい」


「だが、事実を正確に整理して、法律上意味のある書面を作ることはできる」


「はい!」


 私は、あの内容証明を思い出しました。


 感情的な言葉は、ほとんどありませんでした。


 ただ。


 強迫の事実。


 民法九十六条。


 取消しの意思表示。


 第三者保護規定が適用されないこと。


 そして、今後必要となる法的措置。


 それらが、順序よく並んでいました。


「所長」


「何だ」


「内容証明の一番怖いところって、何でしょう」


 所長は少し考えました。


 そして。


「相手に、現実を見せることだ」


 そう言いました。


「現実?」


「ああ」


 所長は続けました。


「法律を知らない相手は、自分に都合のいい理屈だけで考える」


「はい」


「ハンコがあるから有効だ」


「はい」


「知らなかったから責任はない」


「はい」


「第三者に売ったから、もう取り戻せない」


 私は頷きました。


 東栄不動産が主張していたことです。


 でも。


 法律は、そんなに単純ではありません。


「その理屈が、本当に通用するのか」


 所長が言いました。


「事実と条文を突き合わせれば、答えは変わることがある」


「……はい」


「それを、相手に理解させるんだ」


 私は胸が熱くなりました。


 なるほど。


 法律家の仕事とは。


 単に相手を言い負かすことではない。


 事実を調べ、適用される法律を見つけ、法的な結果を明らかにすること。


 そして。


 依頼人が、必要な手続を選べるようにすることなのです。


 ◇


「よし!」


 私はノートを見直しました。


 今日は、ずいぶん勉強しました。


 強迫の意味。


 取消しの効果。


 第三者による強迫。


 取消し前の第三者。


 取消し後の第三者。


 昭和と現代の条文の違い。


 取消権の期間。


 ……。


「多い!」


 私は思わず叫びました。


 相馬先輩が顔を上げました。


「何だよ」


「九十六条一つで、覚えることが多すぎませんか!」


「民法なんてそんなもんだ」


「でも、整理すると、ちゃんと筋が通ってますね」


「ほう」


 私は鉛筆を持ち直しました。


「強迫された人は、契約を取り消せる」


「うん」


「第三者に強迫された場合も、相手方の善意無過失にかかわらず取消しができる」


「うん」


「強迫取消し前に権利を取得した第三者にも、原則として取消しを対抗できる」


「そうだ」


「でも、取消し後に権利を取得した第三者との関係では、登記などの対抗要件が問題になる」


「正解」


 私は笑いました。


「つまり!」


 相馬先輩が嫌そうな顔をしました。


「また始まった」


「強迫は、意思決定の自由を奪うから、本人保護が特に強いんです!」


「そうだな」


「ただし、取消し前後の第三者の区別は忘れない!」


「よし」


 片桐所長も頷きました。


「それでいい」


 私は、大きく息を吐きました。


 よかった。


 ようやく頭の中が整理できました。


 でも。


 最後に一つだけ、確認しておきたいことがありました。


「所長」


「何だ」


「強迫された人は、必ず契約を取り消さなければならないんですか?」


 所長は首を横に振りました。


「いや」


「ですよね」


 そうです。


 強迫による意思表示は、取り消すことができる。


 つまり。


 取消権が認められるということです。


 必ず取り消さなければならない、というわけではありません。


 強迫から解放され、自由に判断できる状態になった本人が、契約を維持したいと考える場合もあります。


 法律上の要件を満たして追認すれば、原則として、もはやその原因による取消しはできなくなります。


「だから、本人の意思が大事なんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「強迫から解放されたあとも、他人が勝手に契約をどうするか決めるわけじゃない」


 私は静かに頷きました。


 なるほど。


 民法が守ろうとしているのは、自由な意思決定です。


 だからこそ。


 強迫された本人が、自由を取り戻したあとにどうしたいのか。


 そこも尊重される。


 これが、民法の考え方なのです。



 窓の外。


 夕焼けが商店街の屋根を赤く染めていました。


 私はノートの最後のページを開きました。


 今日の一行。


 ここに。


 絶対に忘れない言葉を書きます。


 私はゆっくりと鉛筆を動かしました。


 ――詐欺は第三者の善意が壁になる。強迫は善意の壁を越えて取り消せる。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、いいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 その一行を見つめていると。


 あの事件のことが、はっきりと思い出されました。


 娘を守るために、震える手で実印を押した村瀬さん。


 何も知らずに土地を買い、権利を失う可能性に直面した大西さん。


 そして。


「自分は脅していない」


「強迫なんて知らなかった」


「第三者に転売したから、もう手遅れだ」


 そう主張していた東栄不動産。


 しかし。


 民法九十六条は、その理屈を許しませんでした。


 強迫によって奪われた意思決定の自由。


 それを回復するために。


 強迫取消しは、詐欺取消しよりも強い第三者対抗力を認めている。


 そのことが。


 今なら、よく分かります。


「先輩」


「何だ」


「今日、強迫を勉強してよかったです」


「そうか」


「はい」


 私は笑いました。


「だって、法律って、悪い人を罰するためだけにあるわけじゃないんですね」


「……ああ」


「怖くて逆らえなかった人が、あとから自分の意思を取り戻すための仕組みでもある」


 相馬先輩はしばらく黙っていました。


 そして。


「まあな」


 短く答えました。


 片桐所長も、静かに頷きました。



「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「一つ質問だ」


「何ですか?」


「俺が今、お前を脅して掃除させたら、それは強迫か?」


「……え?」


 私は目を丸くしました。


「例えばだ」


 先輩はにやりと笑いました。


「掃除しなかったら、今日のおやつは抜きだ!」


「横暴です!」


「で、民法九十六条の強迫か?」


「うっ……」


 私は考えました。


 害悪の告知。


 恐怖。


 意思決定への影響。


 しかし。


 そもそも、掃除を命じることや、おやつを抜くという発言が、法律上どのように評価されるのか。


 状況にもよります。


「その程度の話で、必ず民法九十六条の強迫になるとは限りません!」


「正解」


「でも、先輩!」


「何だ」


「私はおやつを楽しみにしているので、精神的な被害は甚大です!」


「大げさだ!」


 相馬先輩が笑いました。


 私は腕を組みました。


「じゃあ、私からも質問です!」


「何だよ」


「先輩が『掃除しなかったら六法で叩くぞ』って言ったら?」


「言わねえよ!」


「言ったら?」


「……状況次第だろ」


「そうです!」


 私は頷きました。


「脅しの内容や、相手の恐怖、意思表示との因果関係を考える必要があります!」


「分かったから掃除しろ!」


「先輩!」


「今度は何だ!」


「それは強迫ですか!」


「ただの業務指示だ!」


 片桐所長が、帳簿から顔を上げました。


「こはる」


「はい!」


「掃除を頼む」


「……はい」


 私は渋々、箒を手に取りました。


 すると。


 相馬先輩が笑いながら言いました。


「ほらな。強迫だの取消しだの言っても、掃除はなくならねえんだよ」


「ぐぬぬ……!」


 私は箒を握りしめました。


 でも。


 少し考えてから、顔を上げました。


「先輩!」


「何だ!」


「私が掃除をするのは、脅されたからじゃありません!」


「ほう」


「所長に頼まれて、自分の意思で引き受けたからです!」


「そうかい」


「つまり、自由な意思決定です!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「分かった分かった!」


 私は笑いました。


 窓の外では、商店街の明かりが一つ、また一つと灯っていきます。


 あの洋裁店でも。


 きっと今ごろ、ミシンの音が響いているのでしょう。


 娘さんの帰りを待ちながら。


 大西さんの作業着の裾を直しながら。


 もう誰にも脅かされることなく。


 自分の意思で、店を続けている。


 その日常を思い浮かべると。


 私は、少しだけ嬉しくなりました。


 民法九十六条。


 詐欺又は強迫。


 たった三項の条文。


 でも。


 そこには、人の自由を守るための、確かな線引きがある。


 詐欺と強迫を混同しない。


 第三者による詐欺と強迫を区別する。


 取消し前と取消し後の第三者を区別する。


 昭和の条文と現代の条文を混同しない。


 そして。


 何より。


 契約書に署名したという事実だけで、その人が自由に契約したと決めつけない。


 それが、今日の学びです。


 私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――詐欺は第三者の善意が壁になる。強迫は善意の壁を越えて取り消せる。


 よし。


 これなら忘れません。


「こはる!」


「はい!」


「ノート見てねえで掃除しろ!」


「今、民法九十六条の復習をしていたんです!」


「復習は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私、強迫には屈しません!」


「誰も脅してねえだろ!」


 ……なるほど。


 民法九十六条を覚えたからといって。


 掃除をしなくていい理由にはならないようです。

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