[民法・詐欺]法理編 こはるノート
騙された人は、法律で守られます。
でも、騙された人が、必ず勝つとは限りません。
なぜなら、民法は、嘘をついた人間だけを見ているわけではないからです。
騙された人。騙した人。そして、その契約を信じて、あとから財産を買った人。
三人が登場した瞬間、たった一つの詐欺事件が、恐ろしく複雑になります。
しかも。
昭和六十三年の民法と、現代の民法では第三者を守る条件まで違うのです。
……困りました。
また、未来の法律が邪魔をしています。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……詐欺って、三人目が出てくると急に難しくなりますね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何だ、まだ昨日の事件を考えてるのか」
「はい!」
「もう店は戻っただろ」
「戻りました。でも、試験ではそれだけじゃ済まないんです!」
私はノートを広げました。
松井千鶴さん。
六十八歳。
四十年以上営んできた和菓子屋を、悪徳不動産業者の黒崎に騙されて売却してしまった女性です。
黒崎は、存在しない道路拡張計画を持ち出しました。
偽の地図まで見せて。
「どうせ道路になる。今売らなければ損をする」
そう言って、千鶴さんの土地建物を八百万円で買い取った。
本当は二千万円程度の価値が見込まれる物件でした。
しかも。
黒崎はすぐに、義理の兄が経営する丸福開発へ転売していたのです。
「危なかったですよね……」
私は呟きました。
「何がだ」
「もし丸福開発が本当に善意の第三者だったら、千鶴さんは店を取り戻せなかったかもしれません」
「そうだな」
「でも、丸福開発が偽の道路予定図を作っていた」
「ああ」
「だから、詐欺を知らなかったという主張を崩す証拠になった」
相馬先輩が頷きました。
「法律は、事実があって初めて使える」
「はい!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は民法九十六条を、完全攻略します!」
「……また始まったな」
「先輩も付き合ってください!」
「何で俺が」
すると奥から、片桐所長の声がしました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
「まず、詐欺とは何か!」
私はノートに大きく書きました。
――詐欺。
相手を騙して、誤った認識を抱かせ、その結果として意思表示をさせること。
「相馬先輩、詐欺って聞くと何を思い浮かべます?」
「金を騙し取る奴だろ」
「ですよね!」
一般的には、詐欺と聞くと犯罪を思い浮かべます。
でも。
民法で問題になるのは、騙されたことによって意思表示をしてしまった場合です。
「ここで重要なのが、欺罔行為です」
「ぎもうこうい?」
「はい。相手を騙す行為です」
私は昨日の事件を思い出しました。
黒崎は千鶴さんに言いました。
――この店は、道路拡張で取り壊されます。
しかし。
そんな道路計画は存在しなかった。
「これが欺罔行為ですね」
「そうだな」
「でも、嘘をついたというだけでは足りません」
相馬先輩がこちらを見ました。
「ほう。続けろ」
私はノートに矢印を書きました。
黒崎が嘘をつく。
↓
千鶴さんが、その嘘を信じる。
↓
道路になるなら仕方がないと思う。
↓
土地建物を売る意思表示をする。
「このつながりが大事なんです!」
私は言いました。
「もし千鶴さんが、道路の話を信じていなかったら?」
「どうなる」
「それでも、老後のために店を売ろうと考えていたなら?」
相馬先輩が頷きました。
「道路の嘘が、売却を決めた原因だったとは限らねえな」
「そうです!」
詐欺による取消しを考えるときは、単に嘘があったというだけでは足りません。
騙す行為があったこと。
それによって相手が誤信したこと。
その誤信によって意思表示をしたこと。
この因果関係が重要になります。
「千鶴さんの場合は明確でした」
私は言いました。
「道路拡張がなければ、そもそも売るつもりがなかった」
「そうだな」
「だから、黒崎の嘘が契約の決定的な原因になったんです」
片桐所長が静かに言いました。
「それを、証拠で固めた」
「はい!」
私は頷きました。
偽の地図。
道路計画が存在しないことを確認した資料。
契約までの経緯。
関係者の証言。
全部が、一本の線でつながりました。
「つまり、欺罔行為と意思表示の間を証明するんですね」
「そうだ」
私は赤鉛筆で囲みました。
――嘘をつかれたことと、その嘘を信じて契約したことは、分けて考える。
なるほど。
これなら、試験でも実務でも忘れません。
「では、次です!」
私はページをめくりました。
――民法九十六条一項。
詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる。
「これは昭和でも現代でも、基本は同じです!」
「珍しく安心してるな」
「だって、改正民法の地雷がありませんから!」
「何の話だ」
未来人の苦労です。
もちろん、説明できません。
「ここで、先輩に問題です」
「あ?」
「黒崎に騙されて契約した千鶴さん。その売買契約は、詐欺があった瞬間から当然に無効ですか?」
「違う」
「正解です!」
私は勢いよく書きました。
――詐欺による意思表示は、取消しができる。
――当然に無効になるわけではない。
「これ、試験で間違えやすいんですよね」
「そうか?」
「はい!」
民法には、無効と取消しがあります。
似ているようで、違う。
無効は、初めから法律上の効力が認められないこと。
一方、取消しができる法律行為は、取消権を行使するまでは、いったん効力を持つものとして扱われます。
「そして、取り消すと?」
相馬先輩が聞きました。
「初めから無効だったものとみなされます!」
「そうだ」
私は頷きました。
今回の事件でも。
騙された。
だから、すぐ登記が千鶴さんに戻る。
そういうわけではありませんでした。
千鶴さん本人が取消しの意思表示をした。
その後。
返還や登記の回復について、必要な手続を進めた。
「だから内容証明が重要だったんですね」
「そうだな」
「いつ、誰が、どんな契約を、何を理由に取り消したのか」
「うん」
「それを明確に記録できました」
片桐所長が言いました。
「ただし、内容証明そのものが裁判の判決になるわけではない」
「はい」
「相手が争うなら、訴訟が必要になる場合もある」
「だから弁護士さんに引き継いだんですね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――取消しの意思表示と、現実に財産を取り戻す手続は区別する。
法律の効果。
その効果を実現するための手続。
この二つも、混同してはいけないのです。
「さて、こはる」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「はい!」
「もし黒崎じゃなく、別の人間が千鶴さんを騙していたらどうなる?」
「……来ましたね」
「何が」
「第三者による詐欺です!」
私はノートに三人の名前を書きました。
A。
千鶴さん。
B。
土地を買う人。
C。
嘘をついた人。
「たとえば、こうです」
私は言いました。
「千鶴さんが、丸福開発に土地を売ったとします」
「うん」
「でも千鶴さんを騙したのは、売買契約の相手である丸福開発ではなく、外部の黒崎だった」
「うん」
「黒崎が偽の道路計画を見せて、丸福開発に売った方がいいと勧めた」
この場合。
騙した人間と、契約相手が違います。
「ここで民法九十六条二項です!」
私は六法を開きました。
昭和六十三年の条文。
第三者が詐欺を行った場合、相手方がその事実を知っていたときに限り、詐欺を理由に取り消すことができる。
「つまり!」
私は言いました。
「買主の丸福開発が、黒崎の詐欺を知っていたなら、千鶴さんは取り消せます!」
「そうだ」
「でも、知らなかったら?」
「昭和の九十六条二項では、原則として詐欺を理由に取り消せねえ」
私は頷きました。
ここが重要です。
本人を直接騙した契約相手。
第三者が騙した場合の契約相手。
同じようで、法律の扱いが違う。
「どうしてですか?」
私は尋ねました。
片桐所長が答えました。
「何も知らない相手まで、他人の嘘のために契約を覆されるのは酷だからだ」
「……なるほど」
確かに。
騙された千鶴さんは被害者です。
でも。
買主が詐欺を知らなかったとすれば、その買主も騙した人間とは別の立場です。
民法は、契約相手の信頼も守ろうとしている。
「ただ、先輩」
「何だ」
「ここで昭和と令和が違うんです!」
私はノートに二本の線を引きました。
昭和六十三年。
相手方が詐欺を知っていた場合。
現代。
相手方が詐欺を知っていた場合、または知ることができた場合。
「……増えてるな」
相馬先輩が言いました。
「そうなんです!」
現代の民法九十六条二項では、相手方が詐欺を知らなくても、注意すれば知ることができた場合には取消しが認められます。
「たとえば!」
私は続けました。
「黒崎が見せた地図に、思いっきり『架空道路計画・営業用資料』って書いてあったとします!」
「間抜けな詐欺師だな」
「例えです!」
買主はその地図を見ていた。
少し確認すれば、嘘だと分かった。
それなのに、何も調べずに土地を取得した。
「現代なら、相手方に過失があるとして、取消しが認められる可能性があります」
「だが昭和六十三年の条文では違う」
「はい」
私は頷きました。
当時の九十六条二項は、相手方が知っていたことを要件としています。
知らなかったが、知ることができた。
それだけでは足りない。
「……厳しいですね」
「そうだな」
「現代の改正では、注意すれば詐欺に気づけた人まで、無条件に守る必要はないと考えたんですね」
所長が頷きました。
「人を信頼することと、必要な注意を怠ることは違うからな」
私は、その言葉を書き留めました。
――第三者による詐欺では、契約相手が何を知っていたかが鍵になる。現代法では過失も問題になる。
これで二項。
整理完了です。
「そして!」
私は鉛筆を掲げました。
「今回の事件の最大の山場!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「うるせえな」
「民法九十六条三項です!」
詐欺取消し前の第三者。
ここです。
ここを間違えると、事件の結論がひっくり返ります。
「千鶴さんの事件を、もう一度並べます」
私はノートに書きました。
A=千鶴さん。
B=黒崎の東栄不動産。
C=福田の丸福開発。
まず。
AがBに騙されて、土地を売った。
次に。
Bが、その土地をCに転売した。
そのあと。
Aが詐欺を理由に、AB間の売買を取り消した。
「ここで問題です!」
私は相馬先輩を見ました。
「Cは、土地を返さなければいけませんか?」
「Cが詐欺を知っていたかどうかによるな」
「そうです!」
昭和六十三年の民法九十六条三項。
詐欺による意思表示の取消しは、善意の第三者に対抗することができない。
つまり。
Cが詐欺を知らなかった善意の第三者なら、Aは原則として詐欺取消しをCに主張できません。
逆に。
Cが詐欺を知っていたなら、九十六条三項による保護は受けられません。
「だから丸福開発が、黒崎の嘘を知っていたことが重要だったんです!」
「ああ」
「偽の道路予定図を作った側だったから、詐欺を知っていたことを示す材料になった!」
「そうだな」
私は頷きました。
第三者だから守られる。
そんな単純な話ではありません。
詐欺の事情を知りながら財産を買った者まで、当然に保護されるわけではないのです。
「でも、先輩」
「何だ」
「ここで、また現代との違いです!」
私はノートに大きく書きました。
昭和六十三年。
善意の第三者。
現代。
善意かつ無過失の第三者。
「違いは、過失です!」
「ああ」
昭和の条文には、善意という言葉しかありません。
現代の条文には、善意で、かつ過失がないことが明記されています。
「つまり、現代では!」
私は言いました。
「第三者が詐欺を知らなかったとしても、注意すれば気づけたなら保護されないんです!」
相馬先輩が頷きました。
「それが今の法律なら、そういうことになるな」
「はい!」
ただし。
私はここで赤鉛筆を止めました。
「……あ、でも」
「どうした」
「昭和の条文に無過失って書いていないからといって、当時、過失を問題にする考え方が全くなかったわけじゃないんですよね」
所長が頷きました。
「そうだ」
昭和の条文は、善意とだけ定めています。
しかし、過失のある第三者まで保護すべきかについては、学説上の議論がありました。
そして現代の改正では、第三者の善意無過失が明文化されたのです。
「だから、試験では適用される時代の条文を正確に読むことが大事なんですね」
「そうだ」
私はノートに二重線を引きました。
昭和六十三年の九十六条三項。
善意。
現代の九十六条三項。
善意無過失。
たった二文字の違い。
無過失。
でも。
この二文字があるかどうかで、土地を取り戻せるかという重大な問題に影響するのです。
「先輩」
「何だ」
「民法改正って、言葉を分かりやすくするだけじゃないんですね」
「ああ」
「誰を、どこまで守るか。その線引きも変わるんですね」
片桐所長が頷きました。
「法律は、利益の調整でもあるからな」
私は、その言葉が好きになりました。
「ところで、所長」
私は聞きました。
「丸福開発の登記がまだ済んでいなかったら、結論は変わったんでしょうか」
所長は顔を上げました。
「いい質問だ」
「えっ!」
私は思わず身を乗り出しました。
「褒められました!」
相馬先輩が呆れました。
「話を聞け」
「はい!」
所長は六法を開きました。
「昭和四十九年の最高裁判例がある」
「昭和四十九年……?」
「詐欺による取消し前の第三者の保護について、登記が必要か問題になった事件だ」
私は鉛筆を握り直しました。
昭和四十九年九月二十六日の最高裁判決。
この判例では。
民法九十六条三項で保護される第三者は、必ずしも登記を備えた者に限られないとされています。
「……えっ!?」
私は驚きました。
「登記がなくても、保護されることがあるんですか!?」
「そうだ」
所長が答えました。
「九十六条三項は、取消しによって不利益を受ける第三者を保護するための規定だ」
「はい」
「だから、善意の第三者について、必ず登記まで要求するものではないと考えた」
私はノートを見つめました。
なるほど。
今回、丸福開発は登記を備えていました。
でも。
登記を備えていたからといって、詐欺を知っていた者が善意になるわけではありません。
逆に。
取消し前に利害関係を取得した善意の第三者なら、登記がなくても九十六条三項の保護を受け得る。
「つまり!」
私は言いました。
「九十六条三項で守られるかどうかと、不動産の登記があるかどうかは、分けて考える必要があるんですね!」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「登記簿を見るのは大事だ。だが、登記があるから絶対に勝つ、というわけでもねえ」
私は頷きました。
千鶴さんの事件で、最初に所長が登記簿を確認させた理由。
それは、単純に登記の有無だけで結論を決めるためではありませんでした。
誰が。
いつ。
どんな権利を取得したのか。
そこを確かめるためだったのです。
「じゃあ、もう一問だ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「千鶴さんが先に取消しをした。そのあと黒崎が、丸福開発へ土地を転売したら?」
私は止まりました。
「……え?」
「取消し後に第三者が現れた場合だ」
……。
あ。
これは。
また別の問題です!
「九十六条三項ではないんですか?」
「判例では、取消し後の第三者は別に考える」
私は慌ててノートを開きました。
取消し前の第三者。
取消し後の第三者。
……名前は似ています。
でも、結論を出す仕組みが違います。
片桐所長が説明しました。
「取消し前に第三者が権利を取得した場合は、九十六条三項による保護が問題になる」
「はい」
「しかし、取消し後に第三者が権利を取得した場合は、判例上、民法百七十七条の対抗問題として処理する」
「百七十七条!」
私は思わず声を上げました。
不動産物権変動の対抗要件。
登記です。
「つまり、取消しによって千鶴さんに所有権が戻ったとしても……」
「うん」
「その登記を回復する前に、別の人へ転売されて登記を取られたら……」
「問題になるな」
私は頭を抱えました。
「うわああ……!」
「何だよ」
「取消し後も油断できないじゃないですか!」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「だから、取消しの通知を出して終わりじゃねえんだよ」
なるほど。
取消し前の第三者。
九十六条三項。
善意かどうかが問題になる。
取消し後の第三者。
百七十七条。
原則として登記の先後が問題になる。
もちろん、背信的悪意者など、さらに検討すべき例外もあります。
でも。
まずは、取消しの前か後か。
そこが分岐点になるのです。
「先輩」
「何だ」
「詐欺の問題なのに、最後は登記の話になるんですね」
「不動産ならな」
「民法って、論点がつながっているんですね……」
私は深く頷きました。
一つの条文だけ覚えていても、現実の事件では足りない。
意思表示。
取消し。
第三者。
登記。
全部がつながっている。
だから、法律の勉強は面白い。
……そして、難しいのです。
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「期間についても確認しておけ」
「はい!」
私はノートに書きました。
――民法百二十六条。
取消権の期間の制限。
「詐欺による取消権は、いつまでも使えるわけじゃありません」
私は言いました。
「一つ目!」
追認をすることができる時から五年間。
「二つ目!」
行為の時から二十年間。
「この期間を過ぎると、取消権は消滅します」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、五年はいつから数える?」
「追認できる時からです!」
「騙された日からじゃねえんだな」
「はい!」
ここが大切です。
詐欺による取消しについては、詐欺の状況から脱し、取消しの原因となる事情を認識するなど、追認できる状態になった時が問題になります。
単純に、契約した日から五年。
それではありません。
「千鶴さんの場合は?」
「三週間前に契約して、最近になって道路計画が嘘だったと分かりました」
「そうだな」
「だから、今回の事件は期間の点では問題になりませんでした」
私は頷きました。
でも。
もし、千鶴さんが何年も放置していたら。
問題はさらに複雑になったでしょう。
「それから、二十年という期間もあります」
私は言いました。
「こちらは行為の時からです」
「そうだ」
「だから、五年と二十年を別々に確認する必要があるんですね」
私は赤鉛筆で囲みました。
――五年は追認できる時から。
――二十年は行為の時から。
片桐所長が言いました。
「それと、取消権を失う理由は期間だけではない」
「え?」
「追認だ」
私は顔を上げました。
追認。
取り消すことができる行為を、有効なものとして確定させる意思表示です。
「詐欺だったと知ったあと、取消権を持つ人が適法に追認すれば、原則としてもう取り消せません」
「そうだ」
「だから、詐欺を知ったあとで、どんな行動をしたかも重要なんですね」
私は頷きました。
契約時の事情。
騙されたことを知った時期。
その後の行動。
そして期間。
時系列を確認することには、ちゃんと意味があるのです。
「……あれ?」
私はノートを眺めながら、ふと気づきました。
「先輩」
「何だ」
「九十六条って、詐欺だけじゃありませんよね」
「ああ」
「強迫もあります」
相馬先輩が頷きました。
「そうだな」
私は六法を開きました。
民法九十六条一項。
詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる。
「じゃあ、詐欺と強迫は同じなんですか?」
「違う」
片桐所長が答えました。
「どう違うか、考えてみろ」
私は少し考えました。
詐欺は、騙す。
強迫は、脅す。
「詐欺は嘘を信じて意思表示をする場合です」
「うん」
「強迫は、恐怖によって意思表示をする場合です」
「そうだ」
そして。
私は九十六条三項を見ました。
「……あ!」
「気づいたか」
「第三者保護の規定には、詐欺って書いてあります!」
詐欺による意思表示の取消し。
善意の第三者には対抗できない。
しかし。
強迫による意思表示の取消しについては、この規定はありません。
「じゃあ、強迫の場合は……」
私は息を呑みました。
「善意の第三者に対しても、取消しを主張できるんですか?」
「原則として、そうだ」
所長が答えました。
「どうしてだと思う」
私は考えました。
騙された人。
脅された人。
どちらも被害者です。
でも。
脅されて契約した人は、自由に意思を決めること自体を妨げられている。
「……本人の意思の自由を、より強く守る必要があるからですか?」
「そういうことだ」
所長が頷きました。
私はノートに書きました。
詐欺取消し。
取消し前の善意の第三者が保護される場合がある。
強迫取消し。
九十六条三項の第三者保護は適用されない。
「これ、ひっかけ問題になりそうですね!」
「試験のことしか考えてねえな」
「試験に出ますから!」
ただし、強迫についても取消し後に第三者が現れた場合などは、別の問題が生じます。
だから。
詐欺か強迫か。
取消し前か後か。
この順番で考える必要があります。
窓の外は、すっかり夕暮れになっていました。
私は今日のノートを見直しました。
詐欺。
民法九十六条。
たった三項。
けれど。
そこには、いくつもの分岐点があります。
「所長!」
「何だ」
「確認問題をお願いします!」
「いいだろう」
所長は少し考えました。
「AがBに騙されて土地を売った。Aは取り消せるか」
「はい! 原則として、民法九十六条一項で取り消せます!」
「その契約は、詐欺があっただけで当然に無効になるか」
「なりません! 取消しが必要です!」
「では、CがAを騙し、Aが事情を知らないBに土地を売った。昭和六十三年の民法では?」
「Bが詐欺を知らなかったなら、九十六条二項による取消しはできません!」
「Bが詐欺を知っていたら?」
「取り消せます!」
「では、現代の民法では?」
「Bが知っていた場合だけでなく、知ることができた場合にも取り消せます!」
よし。
ここまでは完璧。
所長が続けます。
「AがBに騙されて土地を売り、その後、取消し前にBがCへ売った。昭和六十三年の九十六条三項では?」
「Cが善意の第三者なら保護されます!」
「Cが詐欺を知っていたら?」
「保護されません!」
「現代では?」
「Cが善意かつ無過失であることが必要です!」
私は拳を握りました。
やった。
昭和と現代。
ちゃんと区別できています。
ところが。
「では」
所長が言いました。
「Cが取消し後に土地を取得した場合は?」
「……民法百七十七条の対抗問題です!」
「よし」
「登記の先後が原則として重要になります!」
所長が頷きました。
私は思わず笑いました。
「覚えました!」
すると。
相馬先輩が口を挟みました。
「じゃあ俺からも一問」
「はい!」
「詐欺取消しの期間は?」
「追認できる時から五年、行為の時から二十年です!」
「詐欺と強迫、善意の第三者保護は同じか?」
「違います! 九十六条三項は詐欺による取消しについての規定です!」
「じゃあ、昭和六十三年の九十六条三項には何て書いてある?」
「善意の第三者です!」
「無過失は?」
「条文には書いてありません!」
「よし」
相馬先輩が笑いました。
私は胸を張りました。
「先輩!」
「何だ」
「もう現代の民法と混同しません!」
「本当か?」
「たぶん!」
「たぶんかよ!」
……。
やっぱり、未来の知識は厄介です。
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「はい?」
「今回の事件で、一番大切だったものは何だ」
私は考えました。
民法九十六条。
詐欺取消し。
善意の第三者。
登記。
内容証明。
どれも大切です。
でも。
私は首を振りました。
「……証拠です」
「うん」
「偽の道路計画を使って騙したこと」
「うん」
「丸福開発が、その計画に関わっていたこと」
「そうだ」
「それを証明できなければ、法律を知っていても、店を取り戻すのは難しかったと思います」
所長が頷きました。
「そのとおりだ」
相馬先輩が煙草を消しました。
「法律ってのは、唱えりゃ勝てる呪文じゃねえ」
「はい」
「九十六条って言えば土地が戻るなら、誰も苦労しねえよ」
「そうですね」
私は笑いました。
詐欺。
取消し。
善意の第三者。
教科書では、簡単な図で説明されます。
A。
B。
C。
矢印。
それだけ。
でも、現実には。
Aには、四十年守った和菓子屋がある。
Bには、人を騙して利益を得ようとする思惑がある。
Cには、取引の安全という法律上の問題がある。
その三人を、たった一つの条文で整理しようとする。
だから。
民法は難しい。
「所長」
「何だ」
「私、今日、少し分かった気がします」
「何がだ」
「どうして現代の民法では、善意無過失という言葉が加わったのか」
所長は黙って聞いています。
「昔の条文では、第三者を守るために善意と書かれていた」
「うん」
「でも、詐欺を知らなかったとしても、必要な注意を怠った人まで守るべきなのかという問題がある」
「そうだな」
「だから現代では、注意すれば気づけたかどうかも、条文上はっきり問題にするようになったんですね」
所長が頷きました。
私は続けました。
「民法って、改正されることで、誰をどう守るかという考え方が少しずつ整理されていくんですね」
「そうだ」
その言葉を聞いて、私は鉛筆を握り直しました。
そして。
今日の最後のページを開きました。
ここに、一行の覚え書きを書きます。
少し考えて。
ゆっくり。
――詐欺は取り消せる。ただし「誰が騙したか」「誰が知っていたか」「第三者は取消しの前か後か」を見極めよ。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
千鶴さんの和菓子屋。
黒崎の偽の地図。
丸福開発の転売。
そして。
内容証明を受け取った黒崎の、あの小さな声。
全部、思い出せるからです。
「さて、こはる」
相馬先輩が立ち上がりました。
「はい?」
「勉強会は終わりだな」
「はい!」
「じゃあ、帳簿を片付けろ」
「え?」
「六法も棚に戻せ」
「はい……」
「それから湯呑みを洗え」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「私、気づいたんです」
「またか」
「先輩はいつも、私に雑用を押しつけていますよね」
「見習いだろ」
「でも、私、騙されているかもしれません!」
「は?」
私は真剣な顔をしました。
「『法律の勉強ができる』って言われて、この事務所で働いています!」
「できてるだろ」
「なのに掃除や片付けまでやらされるなんて!」
相馬先輩が呆れました。
「仕事だろうが」
「これは、詐欺による意思表示の取消しを検討すべきでは!?」
「何を取り消すんだよ!」
「雑用を引き受けた意思表示です!」
先輩は頭を抱えました。
「こはる」
「はい!」
「俺がいつ、お前に『掃除は一切しなくていい』って言った?」
「……言ってません」
「じゃあ、何を騙した?」
「……」
「嘘をついたか?」
「……ついてません」
「その嘘を信じて、お前は雑用を引き受けたのか?」
「……違います」
私は黙りました。
なるほど。
詐欺には、欺罔行為が必要です。
相手を騙す行為がない。
誤信もない。
その誤信による意思表示もない。
……。
「先輩」
「何だ」
「詐欺取消し、無理そうです」
「当たり前だ!」
私はため息をつきました。
すると片桐所長が、奥から静かに言いました。
「こはる」
「はい!」
「勉強は終わったか」
「はい!」
「なら、片付けを頼む」
「……はい」
相馬先輩が笑いました。
「ほらな」
「何ですか!」
「民法九十六条じゃ、掃除からは逃げられねえだろ」
「くっ……!」
私は渋々、湯呑みを集めました。
でも。
少しだけ、嬉しくもありました。
今日の私は、ちゃんと詐欺の要件を使って考えられたからです。
嘘があるか。
誤信があるか。
その誤信によって意思表示をしたか。
第三者がいるか。
相手が何を知っているか。
そして。
取消しの前か、後か。
これだけ整理できれば。
もう、ABCの図を見ても怖くありません。
……たぶん。
私は湯呑みを洗いながら、窓の外を見ました。
夕暮れの商店街。
遠くから、子供たちの声が聞こえてきます。
あのどこかに。
松井菓子舗があります。
今夜もきっと、千鶴さんは餡を炊いているのでしょう。
明日の朝。
また店の暖簾を掛けるために。
騙された。
それでも。
人生を諦めなくていい。
そんな道を、民法は用意している。
私は、ノートの最後の一行を思い出しました。
――詐欺は取り消せる。ただし「誰が騙したか」「誰が知っていたか」「第三者は取消しの前か後か」を見極めよ。
よし。
完璧です。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「湯呑みを洗い終わったら、机も拭け!」
「先輩!」
「何だ!」
「今の私は、民法九十六条を完全に理解しています!」
「そうか!」
「だから、先輩が私を騙して雑用を押しつけようとしても無駄です!」
「誰も騙してねえ!」
「ちゃんと事実を確認します!」
「だったら、まず目の前の汚れを確認しろ!」
……。
なるほど。
民法九十六条を理解したからといって。
雑用が減るわけではないようです。
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