[民法・詐欺]現場編 「騙されても、ハンコを押したら終わり」の嘘。善意の第三者を盾にした悪徳不動産屋と、昭和の民法が突きつける取消しの刃
嘘を信じて押したハンコは、本当に取り消せないのでしょうか。
騙された。
それでも契約書には、自分の名前がある。
印鑑も押してある。
だから、もう取り返せない。
もし、そんな理屈が通るなら。
この世で一番強いのは、正直者ではありません。
嘘をつくのが上手な人間です。
けれど。
民法は、そんな世界を許していません。
ただし。
騙された人が、必ず財産を取り戻せるとも限らないのです。
なぜなら。
騙した人間の向こう側に、何も知らない第三者が現れることがあるから。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は知ることになります。
民法九十六条。
詐欺による意思表示の取消し。
その条文が持つ、恐ろしいほど鋭い刃を。
そして。
昭和の民法では、現代よりもずっと厳しい壁が待っていることを。
「私が、あの店を売るわけないでしょう!」
事務所の扉が開いた瞬間。
女性の声が響きました。
私は思わず鉛筆を落としました。
「えっ?」
入ってきたのは、六十代後半くらいの女性。
白髪をきちんと結い、紺色の割烹着を着ています。
手には古い風呂敷包み。
目は真っ赤でした。
「お願いします。店を取り返してください」
女性は、そう言って頭を下げました。
名前は、松井千鶴さん。
六十八歳。
駅から少し離れた商店街で、四十年以上、小さな和菓子屋を営んできたそうです。
店の名前は、
――松井菓子舗。
夫と二人で始めた店。
三年前に夫が亡くなってからも、一人で暖簾を守ってきました。
「そのお店が、どうしたんですか?」
私が尋ねると、千鶴さんは風呂敷から一枚の紙を取り出しました。
土地建物売買契約書。
売主。
松井千鶴。
買主。
東栄不動産株式会社。
売買代金。
八百万円。
「……八百万円?」
私は契約書を見つめました。
「土地と建物、全部ですか?」
「はい」
「お店も?」
「はい……」
千鶴さんは震える声で言いました。
「でも、私は売るつもりなんてなかったんです」
私は首をかしげました。
契約書には、署名も押印もある。
代金八百万円も、既に受け取っている。
そして。
所有権移転登記まで済んでいました。
「どうして契約したんですか?」
千鶴さんは唇を噛みました。
「……取り壊されると言われたからです」
「取り壊し?」
「市の道路拡張で、商店街が全部なくなるって」
私は顔を上げました。
「道路拡張ですか?」
「はい。東栄不動産の社長さんが、そう言ったんです」
千鶴さんは続けました。
「来年には道路になる。どうせ取り壊されるんだから、今売った方がいいって」
「それで……」
「市から立退きの話が来る前なら、八百万円で買ってやるって」
私は契約書を握り直しました。
「実際に、道路拡張の計画はあるんですか?」
千鶴さんの目から涙が落ちました。
「なかったんです」
「……え?」
「昨日、近所の人に聞いたんです。道路なんて広がらないって」
私は息を呑みました。
「市にも電話しました。うちの店を取り壊す計画なんて、ありませんって……」
……。
なるほど。
話が見えてきました。
存在しない道路拡張計画。
それを口実に、店を安く売らせる。
「相馬先輩!」
「聞こえてる」
新聞を読んでいた相馬先輩が、顔を上げました。
「典型的な詐欺じゃねえか」
そうです。
詐欺。
民法九十六条。
私は立ち上がりました。
「千鶴さん、大丈夫です!」
「え……?」
「騙されてした意思表示は、取り消すことができます!」
これです。
民法九十六条一項。
詐欺による意思表示は、取り消すことができる。
私は得意になりました。
「契約書にハンコがあっても、騙されたなら取消しが問題になります!」
「本当ですか?」
「はい!」
よし。
今度こそ。
現代で勉強した民法が、そのまま使える。
……と思ったのですが。
「こはる」
相馬先輩が低い声で言いました。
「はい?」
「まず、契約書の裏を見ろ」
「裏?」
私は紙を裏返しました。
そこには、小さな文字でこう書かれていました。
――売主は、本件不動産の売却について十分に説明を受け、自己の自由な意思に基づいて契約したことを確認する。
――本契約成立後、売主は理由のいかんを問わず、契約の取消しを求めないものとする。
「……何ですか、これ」
私は思わず眉をひそめました。
相馬先輩が鼻で笑いました。
「悪党の好きそうな文章だな」
「取消しを求めないって……」
「だからって、詐欺まで自由にできるわけじゃねえ」
千鶴さんが不安そうに尋ねました。
「でも、私、そこにもハンコを押してしまって……」
片桐所長が、静かに口を開きました。
「松井さん」
「はい」
「まず、相手が何を言ったのか、順番に聞かせてください」
「はい……」
「いつ、どこで、誰が、何を言ったか」
所長は帳簿を開きました。
「一つずつです」
その声は、不思議と落ち着いていました。
私は思いました。
そうです。
詐欺だと怒るだけでは足りない。
何を信じて。
どう騙されて。
その結果、なぜ契約したのか。
全部つながらなければならないのです。
千鶴さんの話を整理すると、こうでした。
一か月前。
東栄不動産の社長、黒崎剛が店を訪れた。
年齢は四十五歳。
地元でいくつか土地を買い集めている不動産業者です。
黒崎は、一枚の地図を見せたそうです。
赤い線。
道路予定地。
その線が、松井菓子舗の真上を通っていた。
「この辺りは道路になります」
黒崎はそう言った。
「市の方でも、もう話が進んでいるんですよ」
千鶴さんは驚きました。
「そんな話、聞いていません」
「まだ正式発表前ですからね」
「でも……」
「正式に発表されたら、買い手なんてつきませんよ」
そう言われた。
さらに。
「古い建物ですから、補償もたいして期待できません」
「店を続けたいなら、今のうちに売って別の場所へ移った方がいい」
そう畳みかけられたそうです。
もちろん。
実際の収用補償の仕組みは、そんな単純ではありません。
けれど千鶴さんには、それを確かめる知識がなかった。
「私、怖くなって……」
千鶴さんは俯きました。
「道路になるなら、仕方ないと思ってしまったんです」
その後、黒崎は何度も店を訪れました。
契約を急がせた。
考える時間を与えなかった。
そして三週間前。
八百万円で売買契約を結んだ。
代金は支払われ、登記も移った。
「でも、店は来月まで使っていいと言われていたんです」
千鶴さんが言いました。
「だから、まだ暖簾は出しています」
「なるほど……」
私は頷きました。
物件はまだ千鶴さんが使っている。
ただし、登記上の所有者は変わっている。
危険です。
非常に危険です。
「お店の本当の価値は、どのくらいなんですか?」
私が尋ねると、千鶴さんは小さな紙を取り出しました。
「知り合いの不動産屋さんに聞いたら、土地と建物で二千万円くらいはするだろうって……」
「二千万円!?」
八百万円。
差額、千二百万円。
もちろん、不動産の価格だけで詐欺と決めつけることはできません。
安く売る理由はいくらでもあります。
でも。
存在しない道路計画。
偽の地図。
契約を急がせる言葉。
そして、相場を大きく下回る価格。
これだけ揃うと、偶然では済みません。
「所長」
私は言いました。
「これは、欺罔行為ですよね」
「そう考える余地が大きい」
「相手を騙して、誤信させて、その結果として契約させた」
「うん」
「だから民法九十六条一項で取消し!」
私は六法を開きました。
詐欺による意思表示は、取り消すことができる。
よし。
ここは昭和でも同じです。
「所長、すぐ内容証明を――」
「待て」
所長が言いました。
「登記簿は取ったか」
「え?」
「現在の所有者を確認しろ」
「買主の東栄不動産じゃないんですか?」
「それを確かめるんだ」
私は首をかしげました。
でも。
この一言が。
今回の事件で、最大の落とし穴を見つけることになります。
翌日。
法務局で登記簿を確認した私は、思わず声を上げました。
「……えっ!?」
所有者。
東栄不動産ではありません。
別の会社でした。
――丸福開発株式会社。
「先輩!」
「何だ」
「もう転売されてます!」
「そうだろうな」
「そうだろうなって!?」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「安く買い叩いた土地を、ずっと自分の会社に置いておくと思うか?」
「でも、たった三週間ですよ!」
「三週間もあれば十分だ」
私は登記簿を見直しました。
千鶴さんから東栄不動産へ。
その数日後。
東栄不動産から丸福開発へ。
所有権が移っている。
「先輩、これって……」
「ああ」
「第三者です!」
第三者。
民法九十六条三項。
詐欺による意思表示の取消しと、第三者との関係。
……しまった。
私は頭を抱えました。
ここが出てくるんですね!
「でも、大丈夫です!」
私は勢いよく言いました。
「第三者が善意無過失でなければ、取消しを対抗できます!」
相馬先輩が、ぴたりと止まりました。
「……何だって?」
「善意無過失です!」
「こはる」
「はい!」
「六法を開け」
「え?」
「九十六条三項だ」
私は慌てて六法を開きました。
そこに書かれていたのは。
――前二項ノ規定ニ依ル詐欺ニ因ル意思表示ノ取消ハ善意ノ第三者ニ対抗スルコトヲ得ス。
……。
私は固まりました。
「……善意?」
「そうだ」
「無過失は?」
「条文には書いてねえ」
……しまったあああ!
私は心の中で叫びました。
現代の民法九十六条三項。
そこには、
善意で、かつ過失がない第三者。
と明記されています。
けれど。
昭和六十三年の条文は違う。
書かれているのは、善意の第三者。
それだけ。
「先輩!」
「何だ」
「じゃあ、第三者が調べれば詐欺に気づけた場合でも、知らなかったら保護されるんですか!?」
「条文の文言はそうなってる」
「そんな!」
「ただし、第三者に無過失まで要求すべきだという学説もある。そこは議論があるところだ」
先輩は六法を指差しました。
「だが、少なくとも今の条文に『善意無過失』なんて書いてあるつもりで仕事するな」
「……はい」
危ない。
また未来の民法を持ち込んでしまいました。
私はノートを開きました。
昭和六十三年。
詐欺取消し前の第三者について、九十六条三項は「善意」と規定。
現代。
「善意かつ無過失」と明文化。
「じゃあ……」
私は千鶴さんのことを思い出しました。
「丸福開発が、詐欺を知らなかったら……」
「厄介だな」
「お店を取り戻せないかもしれない」
「そういうことだ」
私は唇を噛みました。
騙されたのは千鶴さん。
悪いのは黒崎。
なのに。
転売先が保護されれば、千鶴さんは店を取り戻せない可能性がある。
「納得できません……」
「気持ちは分かる」
相馬先輩が言いました。
「だがな、こはる」
「はい」
「丸福開発が本当に何も知らず、正当な取引だと信じて買ったならどうする?」
「……え?」
「そいつまで全部失わせるのか?」
私は黙りました。
確かに。
知らずに購入した第三者も、騙された人とは別の意味で守る必要がある。
だから民法は、詐欺取消しの効果を無制限に第三者へ押しつけない。
なるほど。
被害者だけを見ればいいわけではない。
取引の安全。
それも民法が守るものなのです。
「でも先輩」
「何だ」
「本当に知らなかったんでしょうか」
私は登記簿を見つめました。
丸福開発。
代表取締役。
福田和彦。
……。
「この人、黒崎社長とはどういう関係なんですか?」
相馬先輩がにやりとしました。
「いい質問だ」
そして。
机の引き出しから、一枚の名刺を取り出しました。
「黒崎の義理の兄だ」
「……え?」
「丸福開発の社長は、黒崎の姉の旦那だ」
私は目を丸くしました。
「親戚!?」
「そうだ」
「じゃあ、グルじゃないですか!」
「待て」
先輩が言いました。
「親戚だから悪意だと決めつけるな」
「……はい」
「必要なのは、詐欺の事実を知っていた証拠だ」
証拠。
そうです。
第三者が親戚。
会社同士が仲良し。
それだけでは、法律上の悪意を証明できません。
「調べるぞ」
先輩は立ち上がりました。
「何をですか?」
「黒崎と福田の間で、どんな話があったのか」
私は頷きました。
この事件。
ただの詐欺では終わりません。
騙した人。
騙された人。
そして、転売先。
三人の関係を、正確に整理しなければならないのです。
「契約書にハンコがあるだろうが!」
東栄不動産の事務所。
黒崎剛は、最初から怒鳴っていました。
大きな革張りの椅子。
金色の腕時計。
灰皿には煙草の吸い殻が山になっています。
「いまさら騙されたなんて言われても困るんだよ!」
私は思わず口を開きました。
「でも、道路拡張の話は――」
「道路ができると思ったんだろ!」
黒崎は笑いました。
「思い込みで契約したのは、あの婆さんじゃねえか!」
……。
何という言い草。
私は拳を握りました。
けれど。
相馬先輩は静かでした。
「黒崎社長」
「あ?」
「道路計画について、市から何か資料を受け取ったんですか」
「企業秘密だ」
「公表されている計画ですか」
「知らねえよ」
「松井さんには、市の話が進んでいると説明したそうですね」
「さあな」
「地図も見せたそうですが」
「昔の地図かもしれねえな」
黒崎は鼻で笑いました。
「とにかく、もう売ったんだよ。丸福開発にな」
「その点も確認しました」
相馬先輩が言いました。
「なら話は早え」
黒崎は机を叩きました。
「俺の会社には、もう土地がねえ!」
私は眉をひそめました。
「だから何ですか?」
「だから、取り返したければ丸福に言えってことだ!」
黒崎が笑いました。
「でも無理だろうな。あっちは第三者だ」
……。
その言葉。
私は聞き逃しませんでした。
第三者。
黒崎は、明らかに民法九十六条三項を意識しています。
「しかも丸福は、何も知らずに買ったんだ」
黒崎は得意げでした。
「善意の第三者ってやつだよ」
私は息を呑みました。
この男。
法律を知らないどころか。
都合のいい部分だけ、よく知っています。
「善意の第三者なら保護されるんだろ?」
黒崎は笑いました。
「法律ってのは便利だなあ!」
私は言い返そうとしました。
けれど。
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい……」
「帰るぞ」
「えっ?」
「相手の言い分は聞いた」
先輩は黒崎に向かって頭を下げました。
「本日は、事実関係の確認に伺いました。ありがとうございました」
「何だ、もう帰るのか?」
「はい」
「やっぱり行政書士じゃ、何もできねえか!」
黒崎の笑い声が、事務所に響きました。
私は悔しくてたまりませんでした。
外へ出るなり、先輩に言いました。
「何で何も言い返さなかったんですか!」
「言い返してどうする」
「だって!」
「俺たちは弁護士じゃねえ」
相馬先輩の声が低くなりました。
「依頼人の代理人として、法律紛争の示談交渉をやるわけにはいかねえ」
「……はい」
「俺たちがやるのは、事実を整理して、本人が出す書面を作ることだ」
先輩は立ち止まりました。
「こはる」
「はい」
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
……。
また、それですか。
でも。
今回は、その言葉の意味が分かる気がしました。
怒鳴り合いではない。
相手の説明を、証拠と突き合わせる。
矛盾を逃さない。
そして。
本人の意思に基づく内容証明に、必要な事実と法的根拠を積み上げる。
それが、私たちの仕事です。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「丸福開発が詐欺を知っていた証拠を探すんですね」
「ああ」
「でも、どうやって?」
先輩は歩きながら言いました。
「松井さんが見た地図だ」
「地図?」
「黒崎は道路予定地を赤く塗った地図を見せたんだろ」
「はい」
「誰が作った?」
……。
私は足を止めました。
そうです。
あの地図。
作った人間がいるはず。
「先輩!」
「何だ」
「図面の作成者ですね!」
「そこから調べるぞ」
昭和六十三年。
スマホもありません。
メールもありません。
検索して一瞬で会社のつながりを調べることもできません。
でも。
紙は残る。
人は覚えている。
そして。
嘘をついた人間は、思わぬところに足跡を残すものなのです。
二日後。
私は一枚の紙を握りしめていました。
「……先輩」
「何だ」
「これ、すごいです」
「ああ」
「すごすぎます!」
「声がでけえ」
きっかけは、松井菓子舗の隣にある文具店でした。
店主の小林さんが、千鶴さんに奇妙な話をしていたのです。
「黒崎さんが来る前に、丸福開発の人が地図を持ってきたよ」
え?
丸福開発?
私は驚きました。
小林さんは続けました。
「うちの店でも、道路が広がる予定だって話をしてね」
さらに。
「そのとき、変な地図を忘れていったんだ」
小林さんは、店の引き出しから紙を取り出しました。
道路予定図。
赤い線。
そして、右下。
小さく記された文字。
――作成 丸福開発株式会社。
……。
私は目を見開きました。
「これ……!」
しかも。
紙には鉛筆書きのメモが残っていました。
――松井菓子舗周辺。八百万円以下でまとめたい。
――道路話で早期決断を促す。
私は息を呑みました。
「……え?」
丸福開発が作った地図。
しかも、道路話で早期決断を促す。
これは。
かなり危険な記録です。
ただし。
この一枚だけで、誰がいつ書いたのか、確実に分かるわけではありません。
そこで片桐所長は、すぐに事実確認を指示しました。
小林さんには、本人が記憶していることを、そのまま記した事実確認書を作成してもらいました。
いつ誰が来たか。
どんな説明をしたか。
誰が地図を置いていったか。
鉛筆のメモは、受け取ったときからあったのか。
小林さんは言いました。
「丸福の福田社長本人だったよ」
「社長本人ですか!?」
「ああ。黒崎さんと一緒に来ていた」
私は目を丸くしました。
「一緒に!?」
「そうだよ。黒崎さんが、今なら安く買えるって話していてね」
私は相馬先輩を見ました。
先輩もこちらを見ました。
……。
これは。
丸福開発が、何も知らなかったとは言いにくい。
少なくとも、その説明を合理的に疑う具体的な証拠がある。
「所長!」
事務所へ戻った私は叫びました。
「第三者が悪意だった可能性があります!」
片桐所長は、地図と事実確認書を見比べました。
「うん」
「これなら、民法九十六条三項の善意の第三者だという主張を崩せるかもしれません!」
「そうだな」
相馬先輩が言いました。
「親戚だとか、安く買ったとか、それだけじゃ弱い」
「はい」
「だが、道路計画を利用して売らせる話に本人が参加していたなら別だ」
私は頷きました。
法律が保護する善意の第三者。
それは、単に自分を善意だと言い張った人間ではありません。
詐欺の事情を知っていたなら、その保護は受けられない。
「それに」
所長が言いました。
「黒崎自身が道路計画を利用して契約させたことも、立証を考えねばならん」
「はい!」
「市の道路担当部署から確認した事実も、記録に残せ」
私は頷きました。
千鶴さんには、市に確認した日時や担当部署、説明内容を改めて書き出してもらいました。
加えて、当時公表されていた道路計画図も取り寄せました。
そこには。
松井菓子舗の土地を通る道路予定線など、存在しなかったのです。
私は思いました。
黒崎は、地図を見せれば信じると思った。
契約書にハンコを押させれば終わりだと思った。
そして。
親戚の会社に転売すれば、もう取り返されないと思った。
でも。
悪党の計画には、決定的な穴がありました。
自分たちの嘘を。
紙に残してしまったことです。
「よし、こはる」
片桐所長が言いました。
「内容証明の原案を書け」
「はい!」
私は机に向かいました。
相手は東栄不動産。
そして丸福開発。
ただし、どちらに、何を、どの根拠で通知するのか。
そこを間違えてはいけません。
私はまず、こう書きました。
――貴社の詐欺行為によって締結された売買契約は、当然に無効である。
「……駄目だ」
相馬先輩が即座に言いました。
「ええっ!?」
「当然に無効、じゃねえ」
「……あ」
私は固まりました。
そうでした。
詐欺による意思表示は。
無効ではなく。
取り消すことができる。
「先輩!」
「何だ」
「取消しです!」
「そうだ」
「詐欺があっただけで、自動的に最初から無効になるわけじゃない!」
「取消権を行使する必要がある」
私は慌てて書き直しました。
民法九十六条一項。
詐欺による意思表示の取消し。
そして。
取消しによって、法律行為は初めから無効だったものとして扱われる。
「よし」
片桐所長が頷きました。
「そこは大事だ」
「はい!」
「ところで、取消権には期間の制限があるな」
「あります!」
私は勢いよく答えました。
「追認できる時から五年、行為の時から二十年です!」
相馬先輩が頷きました。
「今度は間違えなかったな」
「はい!」
民法百二十六条。
ここは現代でも基本の期間は同じ。
ただし、単に騙された日から五年と覚えてはいけません。
追認できる時から五年。
また、行為の時から二十年。
千鶴さんの契約は三週間前。
期間の問題で直ちに取消権を失う状況ではありません。
「先輩、五年って長いようで短いですね」
「ああ」
「でも今回は、まだ間に合います」
「それ以前に急ぐ理由があるだろ」
「……転売先です」
「そうだ」
私は頷きました。
時間が経つほど、権利関係は複雑になりかねない。
さらに別の第三者へ転売されたら。
問題はもっと厄介になります。
「それと、こはる」
所長が言いました。
「第三者による詐欺との区別も忘れるな」
「はい?」
「今回、最初の買主は誰だ」
「東栄不動産です」
「千鶴さんを騙したのは?」
「東栄不動産の黒崎社長です」
「なら、まず問題になるのは九十六条一項だ」
「はい」
「これが、まったく別の者に騙されて、事情を知らない相手と契約した場合だったら?」
私は考えました。
「……九十六条二項?」
「そうだ」
私は六法を開きました。
昭和六十三年の民法九十六条二項。
第三者が詐欺を行った場合には、契約相手がその詐欺を知っていたときに限って、取り消せる。
「……あれ?」
私は眉をひそめました。
「先輩」
「何だ」
「これも、現代と違います!」
「またか」
「現代なら、相手方が詐欺を知っていた場合だけじゃなく、知ることができた場合にも取り消せるんです!」
相馬先輩が六法を指差しました。
「だが今は違う」
「はい……」
「第三者による詐欺なら、相手方が知っていたことが必要だ」
私は頷きました。
ただ知らなかったことに過失がある。
それだけでは、昭和の九十六条二項の文言上、取消しの要件を満たさない。
……厳しい。
現代の民法を知っている私には、なおさら厳しく感じます。
「でも、今回は直接騙した黒崎が買主側です」
「そうだ」
「だから九十六条一項で取消しを考える」
「そのとおり」
「そして丸福開発は、取消し前に権利を取得した第三者です」
「うん」
「そこは九十六条三項ですね!」
所長が頷きました。
「ようやく整理できたな」
「はい!」
私は、少し胸を張りました。
けれど。
所長は続けました。
「最後に、絶対に忘れるな」
「何でしょう」
「不動産だ。登記が絡む」
「はい」
「転売先との関係も、取消し前なのか後なのかで整理が変わり得る。今回確認した登記の順序と、第三者の認識を正確に書け」
「はい!」
「そして、相手が返還に応じなければ、訴訟や登記の回復について弁護士と連携する」
私は頷きました。
内容証明。
それ自体に、裁判の判決のような強制力はありません。
けれど。
相手に対して、いつ、どのような意思表示をしたのかを明確に残すことができます。
そして。
相手の法的リスクを、正面から突きつけることもできるのです。
三時間後。
机の上には、二通の内容証明郵便の原案がありました。
一通は、東栄不動産へ。
もう一通は、丸福開発へ。
差出人は、松井千鶴さん本人。
相手に対する交渉代理ではなく、千鶴さんの意思を確認したうえで作成する通知書です。
私は一通目を読み上げました。
「通知人は、貴社との間で締結した本件土地建物売買契約につき、民法第九十六条第一項に基づき、詐欺を理由として取り消す旨の意思表示をする」
「うん」
「貴社代表者は、実在しない道路拡張計画が存在する旨を告げ、当該計画によって本件不動産が取り壊されるものと通知人に誤信させた」
「続けろ」
「通知人は、右説明が真実であると信じたため、本件不動産の売却を決意した」
私は一度、息を吸いました。
「しかし、本件不動産を対象とする右道路拡張計画は存在せず、貴社の説明は虚偽であった」
相馬先輩が頷きました。
「いいぞ」
「よって、通知人は本件売買契約を取り消し、右契約に基づく原状回復を求める」
ここで所長が言いました。
「代金の扱いも明確にしろ」
「あ、はい!」
千鶴さんは八百万円を受け取っています。
取消しによって売買を元に戻すなら、代金の返還も問題になります。
一方的に店だけ取り戻し、代金もそのまま保持できるわけではありません。
私は書き足しました。
「通知人は、受領済み売買代金の返還についても、原状回復に必要な手続を行う意思がある」
「よし」
続けて、二通目。
丸福開発宛てです。
私は読み上げました。
「貴社は、本件売買契約について、通知人が道路拡張計画の存在を誤信している事情を知りながら、本件不動産を取得したものと認められる」
「根拠は?」
相馬先輩が聞きました。
「丸福開発の作成名義がある道路予定図、当該図面に記載された売却勧誘に関するメモ及び関係者の事実確認書です」
「うん」
「よって、貴社は民法第九十六条第三項にいう善意の第三者に該当しないものと考える」
所長が静かに頷きました。
「断定的な事実と、評価を分けてあるな」
「はい!」
私は続けました。
「通知人は、前記売買契約の取消しを貴社に対しても主張し、本件不動産に関する所有権登記の回復について、必要な協力を求める」
そして最後。
――本通知後も解決に至らない場合、通知人は弁護士への相談のうえ、所有権及び登記に関する訴訟、損害賠償請求その他適切な法的手続を検討する。
読み終わりました。
私はふうっと息を吐きました。
「……できました」
相馬先輩が原案を見つめました。
「悪くねえ」
「本当ですか!?」
「ああ」
「やった!」
「ただし」
「はい」
「詐欺の証拠は、まだ裁判所が認定したわけじゃねえ」
「はい」
「相手が全部争ってきた場合に備えて、弁護士へ渡す資料も整理しておけ」
私は頷きました。
そのとおりです。
証拠が揃った。
だから必ず勝つ。
そんな単純な話ではありません。
けれど。
争いになったとき、相手が説明しなければならないことは明確になりました。
存在しない道路計画を、なぜ説明したのか。
偽の地図を、なぜ用意したのか。
売却を急がせた理由は何か。
丸福開発が、なぜその地図を作ったのか。
そして。
詐欺の事情を知らなかったと、どう説明するのか。
「所長」
「何だ」
「これ、かなり怖い書面ですね」
「そうか」
「はい」
所長は短く答えました。
「嘘に、証拠を合わせることは難しい」
私は黙りました。
その言葉が、胸に残りました。
相手が口先で作った物語。
それを、現実の証拠で崩していく。
民法は、ただ難しい条文を覚えるための法律ではありません。
人の嘘を。
人の権利と照らし合わせるための法律でもあるのです。
千鶴さんに二通の内容を説明すると、彼女は何度も読み返しました。
「本当に、これを出していいんでしょうか」
「ご本人が取消しを希望されるなら、その意思を通知する書面です」
片桐所長が答えました。
「でも、相手が怒ったら……」
「その可能性はあります」
「……」
「ただ、何もせずにいることにも危険があります」
千鶴さんは目を閉じました。
そして。
ゆっくり頷きました。
「出してください」
その声は、震えていました。
「主人と守ってきた店です。私、売りたくて売ったんじゃありません」
私は、その言葉を聞きました。
取消権。
民法九十六条。
教科書では、たった数行の規定。
でも。
その数行に。
四十年分の人生がかかっているのです。
内容証明郵便が届いた翌々日。
東栄不動産の黒崎から、電話が入りました。
「……片桐さんは、いますか」
私は思わず受話器を見ました。
あの男です。
怒鳴っていた黒崎。
行政書士には何もできないと笑っていた黒崎。
その声が。
妙に小さい。
「所長に代わります」
所長が受話器を取りました。
「片桐です」
『あの……内容証明の件ですが』
「はい」
『あの地図、どこから……』
所長は静かに答えました。
「通知書には、根拠となる資料の概要を記載しております」
『……』
「ご不明な点があれば、ご自身の弁護士にご相談ください」
電話の向こうで、何かを飲み込む音がしました。
『……福田が、相当怒ってまして』
「そうですか」
『あいつも内容証明を受け取ったもんですから』
私は思わず顔を上げました。
丸福開発にも届いた。
当然です。
二通、出しましたから。
『その……裁判になると、まずいんでしょうか』
所長は即答しませんでした。
「当事務所は、訴訟の結果を断定する立場にはありません。争いになれば、関係資料を弁護士に引き継ぐことになります」
『……そうですか』
黒崎は沈黙しました。
やがて。
『福田と話してみます』
それだけ言って、電話を切りました。
私は受話器を見つめました。
「所長!」
「何だ」
「効いてますよね!」
「まだ分からん」
「でも、明らかに態度が違いました!」
相馬先輩が横から言いました。
「相手が怖がるのは、こっちの怒鳴り声じゃねえ」
「はい!」
「裁判になったとき、何を説明しなきゃならねえか分かったからだ」
私は頷きました。
嘘の道路計画。
偽の地図。
安値での買い取り。
親族会社への転売。
そして。
第三者が詐欺を知っていた可能性を示す証拠。
これらが法廷に出されたら。
黒崎と福田は、すべてについて説明を求められることになる。
しかも。
民法九十六条の問題だけで終わるとは限りません。
不法行為による損害賠償。
登記の回復。
詐欺行為が重大なら、刑事上の問題が生じる可能性もあります。
だからといって、私たちが脅して金品を要求するわけではありません。
ただ。
相手がしたことと。
その法律上の意味を、書面にした。
それだけです。
その三日後。
千鶴さんから電話がありました。
『朝比奈さん!』
「はい!」
『丸福開発から、手紙が来たんです!』
「手紙ですか?」
『……土地を戻す方向で、話をしたいって』
私は椅子から立ち上がりました。
「本当ですか!?」
相馬先輩がこちらを見ました。
私は受話器を押さえて、小さく叫びました。
「先輩! 折れました!」
「まだだ」
「えっ?」
「書面の中身を確認しろ」
……そうでした。
先輩はいつも慎重です。
後日。
千鶴さんが持参した手紙には、丸福開発の社印が押されていました。
――本件不動産につき、松井千鶴殿への所有権回復に必要な手続を行う意向である。
――具体的な条件及び登記手続については、関係者間で協議のうえ、適切に処理したい。
私は何度も読み返しました。
「……本当に、戻すって」
片桐所長は頷きました。
「まだ手続は必要だ」
「はい」
「代金の返還、転売代金の清算、登記の回復。関係者の権利を整理する必要がある」
そうです。
契約を取り消す。
だから、すべてが自動的に元通りになる。
そんな簡単なものではありません。
千鶴さんが受け取った八百万円も、どう返還するか決めなければならない。
東栄不動産と丸福開発の間の代金関係もある。
登記の回復には、必要な書類と手続がある。
「所長」
「何だ」
「ここからは、弁護士さんですか?」
「紛争の解決交渉が必要なら、そうだ」
所長は頷きました。
「登記の手続は、司法書士とも連携する」
私は胸を張りました。
「はい!」
行政書士は、万能ではありません。
裁判所で依頼人の代理人として戦うこともできない。
法律紛争の示談交渉を業として引き受けることもできない。
でも。
必要な書面を作り、証拠を整理し、専門家へ正確に引き継ぐことができる。
そして、その前の段階で。
相手自身が態度を変えることもある。
今回が、そうでした。
二週間後。
千鶴さんは、また事務所に来ました。
今度は、泣いていませんでした。
「ありがとうございました」
そう言って、小さな菓子折りを差し出しました。
中には、栗饅頭。
松井菓子舗の看板商品です。
「……わあ!」
私は思わず声を上げました。
「これ、いただいていいんですか?」
「もちろん」
千鶴さんは笑いました。
「今日、またお店で焼いてきたんです」
聞けば。
弁護士の立会いのもと、関係会社との返還条件について合意がまとまり、代金の返還と必要な登記手続が進められたそうです。
そして。
その日の朝。
司法書士から、所有権の登記が千鶴さんに戻ったとの連絡が入った。
「……戻ったんですね」
私は言いました。
「はい」
千鶴さんは、深く頷きました。
「あの店は、また私のものになりました」
私は胸がいっぱいになりました。
あの古い和菓子屋。
夫と二人で守った暖簾。
毎朝、暗いうちから餡を炊き。
近所の子供たちに饅頭を売り。
祭りの日には行列ができた。
そんな店を。
偽の地図一枚で奪おうとした男がいた。
でも。
その店は、戻ってきた。
「朝比奈さん」
「はい?」
「私、ずっと思っていたんです」
千鶴さんが言いました。
「自分が馬鹿だったんだって」
「……」
「契約書にハンコを押したのは、私ですから」
私は黙って聞きました。
「騙されたなんて言っても、誰も信じてくれないと思っていました」
「千鶴さん……」
「でも、違ったんですね」
千鶴さんは、ゆっくり笑いました。
「法律って、騙した人だけを守るものじゃないんですね」
私は頷きました。
「はい」
そして言いました。
「自分でハンコを押したとしても、騙されて意思表示をしたなら、取り消せる場合があるんです」
千鶴さんの目が潤みました。
「主人が生きていたら、きっと喜びます」
私は、何も言えませんでした。
ただ、頭を下げました。
法律が守ったもの。
それは。
土地や建物だけではありません。
その場所で積み重ねられた、誰かの人生だったのです。
夕方。
事務所には、栗饅頭の甘い香りが漂っていました。
「……おいしい!」
私は思わず声を上げました。
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「お前、三個目だろ」
「勉強すると糖分が必要なんです!」
「いつ勉強した」
「ずっとしてました!」
「食ってるだけじゃねえか」
私は無視しました。
そして。
ノートを開きました。
「先輩」
「何だ」
「今日、すごいことに気づきました」
「またか」
「詐欺って、騙されたら絶対に全部取り消せるわけじゃないんですね」
先輩が頷きました。
「ああ」
「本人を直接騙したのか、第三者が騙したのか」
「うん」
「契約相手が詐欺を知っていたのか」
「そうだ」
「それから、取消し前に財産を取得した第三者がいたのか」
「うん」
「その第三者が善意なのか悪意なのか」
「そこだ」
私は鉛筆を握りました。
この違い。
行政書士試験では、文章問題として出てきます。
AがBに騙された。
Cが土地を買った。
善意か悪意か。
取消し前か後か。
……正直。
受験生の頃は、登場人物が増えるだけで頭が混乱していました。
でも。
今は違います。
千鶴さん。
黒崎。
福田。
三人の顔が浮かぶからです。
「所長」
「何だ」
「どうして、民法は善意の第三者を守るんでしょう」
片桐所長は少し考えました。
「騙された者だけでなく、取引を信じた者も守る必要があるからだ」
「はい」
「だが、詐欺を知っていた者まで同じように守る理由はない」
私は頷きました。
なるほど。
民法は。
被害者だけに味方する法律ではない。
契約した人。
信じて取引した人。
後から財産を取得した人。
それぞれの立場を見て、公平を考える。
そして。
嘘を知りながら利用した人間にまで、善意の第三者という盾を与えるものではないのです。
「先輩」
「何だ」
「もう一つ、分かりました」
「何だよ」
「昭和の民法って、現代より厳しいところがありますね」
「そりゃ、何と比べてるのか知らねえが」
……危ない。
また未来の話をしてしまいました。
「と、とにかく!」
私は慌てて話題を戻しました。
「条文に書いてあることと、頭の中で覚えていることは、ちゃんと確認しないと駄目ですね!」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「昔の条文だろうが何だろうが、今使える法律で考えろ」
「はい!」
私は大きく頷きました。
昭和六十三年。
詐欺による意思表示は、取り消すことができる。
その基本は、現代も変わりません。
でも。
第三者による詐欺。
第三者保護。
そこには、改正による違いがある。
私は、この事件で初めて。
九十六条を、単なる暗記項目ではなく。
人の財産を守るための、現実の仕組みとして理解できた気がしました。
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「はい?」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「契約書にハンコがあるからといって、詐欺による取消しができなくなるわけではありません」
「うん」
「でも、第三者が関係すると、誰が何を知っていたかが重要になります」
「そうだ」
「そして、取消しの意思表示をしただけで、不動産の登記まで自動的に戻るわけではありません」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートの最後に、一行を書きました。
――詐欺は「騙されたか」だけでなく、「誰が騙し、誰が知り、いつ第三者が現れたか」で結論が変わる。
今日の教訓。
これなら忘れません。
私は鉛筆を置きました。
すると。
相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい?」
「で、誰が嘘をついたか分かっても、証拠がなけりゃどうなる?」
「……困ります」
「そうだ」
「だから、地図や証言を集めたんですね」
「そういうことだ」
私は栗饅頭を見ました。
千鶴さんの店が戻った。
その結果として、今日もこのお菓子が焼かれている。
もし、私たちが民法九十六条一項だけを見て、
「騙されたから取消しです!」
と叫んで終わっていたら。
転売先の丸福開発に、
「うちは善意の第三者です」
と言われて、行き詰まっていたかもしれません。
でも。
所長は、最初から登記を確認した。
相馬先輩は、第三者の認識を疑った。
そして。
嘘の地図が見つかった。
だから、道が開けた。
私は、ふっと笑いました。
「やっぱり、民法って面白いですね」
「また始まった」
相馬先輩が言いました。
「だって!」
私は立ち上がりました。
「九十六条って、たった三項しかないんですよ!」
「そうだな」
「なのに、こんなに人の人生が変わるんです!」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「そりゃそうだ」
「え?」
「法律ってのは、そういうもんだろ」
私は黙りました。
先輩が、短く続けました。
「一行で、人の財産が動くこともある」
「……はい」
「だから、一行を間違えるな」
私は、ノートを見つめました。
詐欺。
欺罔行為。
意思表示。
取消し。
善意の第三者。
受験生の頃は、難しい言葉が並んでいるだけでした。
でも今は。
その向こうに、千鶴さんの顔が見えます。
四十年守ってきた和菓子屋。
亡くなった夫との思い出。
そして、嘘の地図に押しつぶされそうになった、小さな暖簾。
民法は。
その暖簾を守るためにも、存在しているのです。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「もう一個、栗饅頭を食べていいですか!」
「駄目だ!」
「どうしてですか!」
「俺の分だ!」
「先輩、さっき二個食べてましたよね!」
「それがどうした!」
「不公平です!」
「民法を使って饅頭を奪おうとするな!」
……。
なるほど。
民法は、公平を考える法律です。
ですが。
先輩の饅頭を取り上げる権利まで、私に与えてくれるわけではないようです。
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