↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
440/614

[民法・錯誤]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 人は、間違える。


 数字を間違える。


 名前を間違える。


 物の性能を勘違いする。


 そして、ときには。


 人生を左右するような契約まで、間違った思い込みで結んでしまう。


 けれど。


 民法は、すべての勘違いを救ってくれるわけではありません。


 なぜなら。


 契約した相手にも、守られるべき利益があるからです。


 では。


 どんな勘違いなら、契約の効力を覆せるのでしょうか。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、大きくこう書いてあります。


 ――こはるノート・民法編。


「……錯誤って、怖いですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「今度は何だ」


「たった一つの勘違いで、百八十万円が消えかけたんですよ」


「ああ」


「しかも、買った人も売った人も、同じ勘違いをしてたんです」


「そうだったな」


 私は昨日の事件を思い出しました。


 杉浦印刷所の直人さん。


 父親の遺した百八十万円で、中古の印刷機を購入した。


 目的は、厚さ〇・八ミリの紙に印刷すること。


 ところが、購入した機械は、最大〇・四ミリの紙にしか対応していなかった。


 しかも。


 売主の大黒機械商会も、対応できると思い込んでいた。


 買主も。


 売主も。


 同じ間違った前提で契約していたのです。


「最終的には、お金が戻りましたけど」


 私は言いました。


「簡単な事件じゃありませんでしたね」


「そりゃそうだ」


 相馬先輩が煙草を取り出しました。


「勘違いしたから契約をなかったことにしてくれ、なんて話が全部通ったら、商売にならねえ」


「ですよね」


「だから、民法には条件がある」


 私は鉛筆を握りました。


「はい! 今日はその条件を整理します!」


 奥の机から、片桐所長が声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「最初に、一つだけ確認しておけ」


「何でしょう?」


「昭和六十三年の民法で考えろ」


 私は固まりました。


 ……。


 先に釘を刺されました。


「分かってますよ!」


「昨日、錯誤取消しと言っていたのは誰だ」


「……私です」


「今は?」


「錯誤無効です!」


「よし」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、始めるか」


 こうして。


 こはるノート・錯誤編。


 昭和と令和をまたぐ、少々厄介な勉強会が始まったのです。



「まず、錯誤とは何か」


 私はノートに書きました。


 ――錯誤。


 簡単に言えば、勘違い。


「でも、法律で問題になる錯誤には、大きく分けて二つあります」


 相馬先輩が頷きました。


「言ってみろ」


「表示の錯誤と、動機の錯誤です!」


 私は二つの言葉を並べました。


 ――表示の錯誤。


 ――動機の錯誤。


「先輩。この二つ、名前だけだと分かりにくくありません?」


「お前は何でも分かりにくいって言うな」


「だって、受験生にとっては大問題なんです!」


 私は鉛筆を持ち直しました。


「まず、表示の錯誤からです」


 表示の錯誤。


 これは、自分が本当に考えていたことと、外に表した意思表示が食い違っている場合です。


「たとえば」


 私は言いました。


「百万円で機械を売るつもりだったのに、契約書に十万円と書いてしまった場合です」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「本人の頭の中では百万円」


「うん」


「でも、紙には十万円」


「そうだ」


「意思と表示が違うんです」


 私はノートに大きく書きました。


 百万円で売りたい。


 ↓


 間違えて十万円と書いた。


 ↓


 表示の錯誤。


「これなら分かりやすいですね!」


「そうだな」


「でも、先輩」


「何だ」


「百万円を十万円と書いたら、いつでも無効になるんですか?」


「ならねえ」


「ですよね!」


 ここが重要です。


 単に数字を間違えたというだけで、必ず錯誤無効が認められるわけではありません。


 その間違いが、契約の重要な部分に関わっている必要があります。


「百万円と十万円なら、大きな違いですね」


「ああ」


「でも、たとえば百万円の契約で、封筒の宛名にちょっと書き間違いをしただけなら?」


「それだけで契約全部を無効にする理由にはならねえだろ」


「そうなんです!」


 私は頷きました。


 法律が問題にするのは、何でもない小さな勘違いではありません。


 その契約をするかどうか。


 どんな内容で契約するか。


 そういう重要な判断に関わる錯誤なのです。


「ただし、百万円を十万円と書いた人に重大な過失があったら、また問題になります」


「そうだ」


「たとえば、金額を何度も確認するよう求められていたのに、ろくに確認せず署名したような場合ですね」


「それだけで重過失と決まるわけじゃねえが、検討すべき事情にはなる」


 私は赤線を引きました。


 なるほど。


 表示の錯誤。


 まずは、心の中と外への表示が食い違っている。


 そのうえで、重要性や重過失を考える。


「じゃあ、次は動機の錯誤です!」


 私はページをめくりました。



「動機の錯誤は、昨日の印刷機事件そのものです」


 私はノートに書きました。


 ――動機の錯誤。


 契約をしようと決めた理由や、その前提となる事情についての勘違い。


「直人さんは、TP―2〇〇という印刷機を買うつもりでした」


「ああ」


「実際に買ったのもTP―2〇〇です」


「そうだ」


「つまり、注文する機種は間違えていません」


 私は続けました。


「でも、その機械なら〇・8ミリの厚紙に印刷できると思っていた」


「うん」


「実際にはできなかった」


「そうだ」


「だから、動機の錯誤なんです!」


 相馬先輩が頷きました。


 そうです。


 表示の錯誤は、意思と表示の食い違い。


 動機の錯誤は、意思表示をすることになった理由や前提の勘違い。


 似ているけれど、違います。


「先輩、土地の例でも考えてみましょう」


「ほう」


「駅の近くに土地を買おうとした人がいたとします」


「うん」


「甲土地を買うつもりだったのに、間違えて乙土地を買うと申し込んだ」


「表示の錯誤だな」


「正解です!」


「何で俺が採点されてるんだ」


 私は構わず続けました。


「では、甲土地を買うつもりで、実際に甲土地を買った。でも、近くに新駅ができると信じていたのに、そんな計画は存在しなかった」


「動機の錯誤か」


「そうです!」


 私はノートに書きました。


 ――買う土地そのものを間違えた。


 表示の錯誤。


 ――土地を買う理由となった事情を間違えた。


 動機の錯誤。


「でも、ここで問題です!」


 私は相馬先輩を指差しました。


「何だよ」


「買主が勝手に『駅ができるはずだ』と思っていただけでも、契約は無効になりますか?」


「ならねえ場合がある」


「そのとおりです!」


 私は大きく頷きました。


 駅ができると思って土地を買った。


 しかし、その話は相手に一度も伝えていない。


 売主は、買主が何を期待しているか知らない。


 それなのに。


 買主が後になって、


「駅ができないから契約をなかったことにする!」


 と言い出したら。


 売主は困ります。


 だから。


 動機の錯誤には、特別な問題があります。


「相手に、その動機が表示されていたかどうかですね!」


「そうだ」


 私は赤鉛筆で囲みました。


 ――動機の表示。


「ここが、昨日の事件の決定打でした」


 直人さんは、ただ心の中で、


「厚紙を印刷したい」


 と思っていただけではありません。


 見積依頼書に書いていた。


 紙厚〇・8ミリ。


 贈答用化粧箱の印刷。


 販売店はそれを受け取り、対応可能だと回答した。


 しかも、契約書にも用途が取り込まれていた。


「つまり」


 私は言いました。


「機械の性能が、単なる個人的な期待ではなく、契約の重要な前提になっていたんです」


「そうだ」


 片桐所長が静かに言いました。


「ただし、こはる」


「はい」


「動機を伝えたという事実だけで、必ず錯誤が認められるわけではない」


「……はい」


「その動機が、契約の重要な前提になっていたか。それを確かめる必要がある」


 私は頷きました。


 たとえば。


「この土地を買ったら、毎朝きれいな朝日が見られる気がする」


 そんな個人的な期待と。


「新駅が建設されるという具体的な計画を前提に、この土地を購入する」


 という事情。


 同じように見えても、契約における意味は違うでしょう。


「所長」


「何だ」


「動機の表示って、必ず契約書に書かなければ駄目なんですか?」


「そうとは限らん」


「ですよね!」


 私はノートに書き足しました。


 明示。


 黙示。


 二つの方法があります。


「明示は、言葉や書面ではっきり示す場合です」


「うん」


「たとえば『新駅ができるからこの土地を買う』と伝える」


「そうだ」


「黙示は、取引の経緯や事情から、その動機が相手にも示されていたと認められる場合です」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、相手が知っていそうだった、というだけで簡単に決めつけるなよ」


「はい!」


 そこは重要です。


 黙示の表示があったかどうか。


 そこには、契約までのやり取りが関係します。


 だからこそ。


 見積依頼書。


 注文書。


 手紙。


 打合せ記録。


 そうした書類が、後から重要になるのです。


「昨日の直人さんは、書類を残していて助かりましたね」


「ああ」


 相馬先輩が言いました。


「口約束が無意味なわけじゃねえ。だが、争いになったとき、何を言ったか証明できなきゃ苦しい」


 私は頷きました。


 民法は、ただ条文を覚えるだけでは足りない。


 その条文に当てはまる事実を、どう証明するか。


 そこまで考えなければならないのです。



「さて、次が重要な錯誤です」


 私はノートの中央に、大きく書きました。


 ――法律行為の要素の錯誤。


 昭和六十三年の民法九十五条。


 この時代の条文は、今のように表示の錯誤と動機の錯誤を分けて書いていません。


 条文には、簡潔に。


 ――法律行為ノ要素ニ錯誤アリタルトキハ無効トス。


 と書かれています。


「先輩」


「何だ」


「この『要素』って言葉、分かりにくいですよね」


「またそれか」


「だって、要素って何ですか!」


 私は両手を広げました。


「試験で『要素の錯誤』って出てくるたび、何が要素なのか悩んでました!」


 片桐所長が言いました。


「その勘違いがなければ、契約をしなかったか」


 私は顔を上げました。


「……はい」


「それだけでなく、取引の性質から見ても重要な錯誤といえるか」


「なるほど」


 私は書きました。


 本人が、その事実を知っていたら契約しなかったと考えられること。


 そして。


 通常の取引の観点から見ても、その勘違いが重要といえること。


「つまり、本人が勝手に重要だと思っているだけじゃ足りないんですね」


「そうだ」


 昨日の印刷機を考えてみます。


 直人さんは、厚紙に印刷するために購入した。


 その性能がないと知っていたら、買わなかった。


 しかも。


 百八十万円の印刷機を購入するとき、必要な厚紙に対応するかどうかは、取引上も重要な事情です。


「だから、要素の錯誤に当たり得るんですね」


「そうだ」


「逆に、買った機械の塗装が思っていたより少し暗い色だった、という程度なら?」


「それだけで売買全体を無効にできるとは限らねえな」


 私は頷きました。


 なるほど。


 錯誤は、勘違いなら何でもいいわけではない。


 重要性が必要。


 ここです。


「それじゃ、重大な過失に行きます!」


 私はページをめくりました。


「いよいよ厄介なところですね」


「昨日、社長が持ち出してきた話だな」


「はい!」


 旧民法九十五条ただし書。


 ――表意者ニ重大ナル過失アリタルトキハ自ラ其無効ヲ主張スルコトヲ得ス。


「つまり、自分に重大な過失があるときは、原則として自分から錯誤無効を主張できない」


「そうだ」


「どうしてでしょう?」


 相馬先輩が答えました。


「そんな重大な不注意まで、全部相手に押しつけたら困るからだろ」


「そのとおりです!」


 私は頷きました。


 契約は、当事者双方の信用のうえに成り立っています。


 片方がひどく不注意な勘違いをしていた。


 それを理由に、いつでも自由に契約を覆せたら。


 取引の安定が損なわれます。


「でも先輩」


「何だ」


「単なる不注意と、重大な過失は違うんですよね」


「もちろんだ」


 私はノートに書きました。


 ――単なる過失。


 通常必要な注意を怠ったこと。


 ――重大な過失。


 通常期待される注意を著しく欠いたこと。


「昨日の直人さんは、メーカーに問い合わせなかったことを責められました」


「ああ」


「でも、専門の販売店に用途を伝えて、対応可能だと説明を受けていた」


「そうだ」


「だから、メーカーに直接確認しなかったという一事だけで、直ちに重大な過失だと断定できないんですね」


「そういうことだ」


 私は大きく頷きました。


 そして。


 今回の事件には、もう一つ重要な事情がありました。


 共通錯誤です。



「先輩!」


「何だ」


「昨日の事件、一番面白かったのはここです!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――共通錯誤。


「買主だけじゃなく、売主も同じ勘違いをしていた!」


「そうだったな」


「これが、重要だったんです!」


 直人さんは、印刷機が厚紙〇・8ミリに対応していると信じていた。


 大黒社長も、そう信じていた。


 つまり。


 二人とも、同じ誤った前提に立っていた。


「所長」


「何だ」


「買主に重大な過失があったとしても、売主自身も同じ錯誤に陥っていたなら、錯誤無効を主張できる余地があるんですよね」


「そうだ」


 所長は頷きました。


「相手方も同じ錯誤に陥っているのに、表意者の重大な過失だけを理由に無効主張を封じるのが相当でない場合がある」


 私はノートに赤線を引きました。


 なるほど。


 これが旧法の判例法理です。


 そして、現代の民法では。


 この考え方が条文にも整理されています。


 現行民法九十五条三項二号。


 表意者と相手方が同一の錯誤に陥っていた場合。


 表意者に重大な過失があっても、錯誤取消しが認められ得る。


「先輩、これ、すごくありません?」


「何がだ」


「昔は判例を調べないと分かりにくかったルールが、現代では条文に書いてあるんです!」


「……また未来の話か」


「でも、これが民法改正の面白いところなんです!」


 私は力説しました。


「改正されたからって、全部新しい考え方になったわけじゃないんです!」


 片桐所長が顔を上げました。


「そうだな」


「昔から認められていた判例の考え方が、後から条文に整理されることもある」


 所長が頷きました。


「判例は、実際の紛争から生まれる」


 私はその言葉を書き留めました。


 なるほど。


 法律は。


 机の上だけでできているわけではありません。


 誰かが勘違いをして。


 誰かが財産を失いそうになって。


 裁判で争われて。


 その積み重ねが、後の法改正につながっていくこともあるのです。


「でも先輩」


「何だ」


「共通錯誤なら、何でも無効になるんですか?」


「そんなわけねえだろ」


「ですよね!」


 私は書きました。


 共通錯誤だからといって、重要性の要件がなくなるわけではありません。


 動機の錯誤であれば、その動機が契約の基礎になっていたかも問題です。


 また、当事者がその危険を契約で引き受けていたかどうかも、事情によって重要になります。


「要するに」


 私は言いました。


「共通錯誤は、重過失の問題を突破する重要な事情になり得る。でも、それだけで何でも解決する魔法ではない」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「ようやく分かってきたな」


「褒めましたね!」


「調子に乗るな」


 私は笑いました。


 でも。


 昨日の大黒社長が、


「俺だって間違えてたんだ!」


 と怒鳴ったこと。


 あの一言には、大きな意味があったのです。


 本人は、自分を守るつもりで言ったのでしょう。


 でも。


 その言葉が、双方の共通錯誤を裏づける重要な事実になっていた。


 法律って。


 本当に面白いです。



「さて、ここからが時代錯誤の本番です!」


 私は勢いよくノートを開きました。


 相馬先輩が嫌な顔をしました。


「何だよ、本番って」


「昭和と令和の違いです!」


「またか」


「今回は、めちゃくちゃ重要なんです!」


 私は二つの言葉を書きました。


 ――昭和六十三年 錯誤無効。


 ――令和 錯誤取消し。


「先輩、無効と取消しって、違いますよね」


「違うな」


「でも、どっちも契約の効力がなくなるんじゃないですか?」


 片桐所長が言いました。


「その効力を、どのような仕組みで否定するかが違う」


 私は頷きました。


 無効。


 法律行為の効力が、初めから認められない。


 取消し。


 取り消すことのできる法律行為について、取消権者が取消しの意思表示をすると、初めから無効だったものと扱われる。


「だから、現代の錯誤は、取り消すまでは原則として契約が有効に扱われるんですね」


「そういう整理になるな」


「でも昭和では、要素の錯誤に当たれば無効」


 私はノートに二重線を引きました。


「なぜ、改正されたんでしょう?」


 相馬先輩が肩をすくめました。


「未来の立法者に聞け」


「それじゃ勉強になりません!」


 私は笑いました。


 でも。


 現代の法律を知っている私には、少し分かります。


 錯誤の制度は、主に勘違いをした表意者を保護するためのものです。


 本人が錯誤を理由に契約の効力を否定したいかどうか。


 その意思を尊重する必要があります。


 だから現代では、錯誤を取消しという制度に整理したのです。


「例えば」


 私は言いました。


「勘違いして契約したけれど、その後、本人が『このまま契約を続けたい』と思うこともありますよね」


「ああ」


「取消しなら、本人が取り消すかどうかを選べます」


「そうだな」


「しかも、取消権には期間制限があります」


 私は民法百二十六条を開きました。


 取消権は、追認することができる時から五年間行使しないときは、時効によって消滅する。


 また、行為の時から二十年を経過した場合も同様です。


「現代の錯誤取消しにも、この期間制限が関係するんです」


「ほう」


 相馬先輩が頷きました。


 私は書きました。


 ――追認できる時から五年。


 ――行為の時から二十年。


「ただし、先輩」


「何だ」


「これを、昭和六十三年の錯誤無効にそのまま当てはめちゃいけません」


「当たり前だろ」


「ですよね!」


 私は赤線を引きました。


 ここは、転生受験生にとって最大の罠です。


 令和の錯誤は、取消し。


 だから、取消権の期間制限が問題になる。


 でも昭和六十三年の錯誤は、無効。


 現行法の錯誤取消権の期間制限を、そのまま旧法の錯誤無効に持ち込むわけにはいきません。


「あと、無効なら誰でも自由に主張できるんですか?」


 私は所長に尋ねました。


「錯誤無効については、そう単純ではない」


 所長が答えました。


「表意者を保護するための制度だからな」


 私は頷きました。


 旧法でも、錯誤無効は通常の絶対的な無効とまったく同じように扱われるわけではありません。


 表意者自身が無効を主張する意思を持たないのに、相手方が勝手に錯誤無効を持ち出して契約を覆すことは、原則として許されないとする判例の考え方があります。


 また、表意者の重大な過失を理由に無効を主張できない場合でも、相手方がそれを問題にせず無効を認めるような事情も考えられます。


「つまり、昭和の『無効』も、文字だけ見て判断しちゃ駄目なんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「条文と判例を合わせて考えろ」


 私はその言葉を大きく書きました。



「次は、第三者です」


 私はノートをめくりました。


「昨日、所長が確認しろって言ったところですね」


「ああ」


「もし、大黒社長が印刷機を別の人に売っていたら、どうなるのか」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 私は考えました。


 錯誤によって契約の効力が覆る。


 でも、その後に新しい買主が現れていたら。


 その人にも、守られるべき利益があります。


「例えば、こうです」


 私はノートに登場人物を書きました。


 A。


 B。


 C。


「Aが、土地をBに売った」


「うん」


「その売買には、Aの重要な錯誤があった」


「うん」


「ところが、Bはその土地をCに転売した」


「そうだ」


「Cは、Aの錯誤について何も知らず、知らなかったことに過失もない」


 私は顔を上げました。


「現代の民法だと、どうなるでしょう?」


 相馬先輩が肩をすくめます。


「お前が知ってるんだろ」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 現行民法九十五条四項。


 錯誤による意思表示の取消しは、善意でかつ過失がない第三者に対抗することができない。


「つまり、善意無過失の第三者は保護されるんです!」


「なるほどな」


「でも、昭和六十三年の民法九十五条には、この四項がありません」


「そうだ」


 旧法では、錯誤は無効。


 その第三者との関係についても、現代と同じ条文で解決することはできません。


 錯誤無効と第三者との関係は、旧法の判例や取引の事情を踏まえて検討する必要があります。


「先輩」


「何だ」


「怖いですね」


「何がだ」


「最初の契約だけ考えていたら、別の人の権利まで見落としちゃう」


「そうだな」


 私は頷きました。


 だから昨日。


 所長は、印刷機が転売されていないか確認するよう指示したのです。


 法律問題は。


 AとBだけで終わるとは限りません。


 Cが現れた瞬間。


 話が大きく変わることがあります。


「ちなみに」


 私は続けました。


「善意って、法律では『事情を知らないこと』です」


「うん」


「性格が優しいって意味じゃありません」


「知ってるよ」


「そして、無過失は『知らなかったことについて過失がない』という意味です」


 私はノートに書きました。


 善意。


 事情を知らない。


 無過失。


 知らなかったことについて落ち度がない。


「ただ知らなかっただけじゃ駄目な場合があるんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 たとえば。


 契約の経緯を見れば重大な問題に気づけたはずなのに、何も調べなかった。


 そんな事情があれば、無過失とはいえない可能性があります。


 だから。


 第三者保護にも、条件があるのです。



 ここまで整理すると。


 ノートは、かなり埋まっていました。


 表示の錯誤。


 動機の錯誤。


 要素の錯誤。


 重大な過失。


 共通錯誤。


 無効と取消し。


 第三者保護。


 そして、取消権の期間制限。


「……多い!」


 私は机に突っ伏しました。


「多すぎます!」


 相馬先輩が笑いました。


「これくらいで音を上げるな」


「だって、たった二文字ですよ!」


「何が」


「錯誤!」


「そうだな」


「たった二文字なのに、こんなに覚えることがあるんです!」


 相馬先輩は肩をすくめました。


「法律ってのは、そんなもんだ」


 私は顔を上げました。


 でも。


 そこで、ふと思いました。


「……あれ?」


「何だ」


「これ、全部を別々に覚える必要って、ないのかもしれません」


 片桐所長が顔を上げました。


「どういうことだ」


「昨日の事件を順番に思い出せば、自然につながるんです」


 私はノートの端に、杉浦印刷所と書きました。


 まず。


 直人さんは、どんな機械を買うつもりだったのか。


 厚紙に印刷できる機械です。


 次。


 実際に注文した機械は、予定していた機械と同じだったか。


 同じでした。


 だから、表示の錯誤ではなく、動機の錯誤。


 次。


 その動機は、相手に表示されていたか。


 見積依頼書と契約書に残っていました。


 次。


 その勘違いは重要だったか。


 厚紙に印刷できないなら、購入する目的が達成できません。


 次。


 直人さんに重大な過失があったか。


 そこは事情を見て判断する必要があります。


 さらに。


 相手方も同じ勘違いをしていたか。


 していました。


 共通錯誤です。


 最後。


 契約の効力をどう扱うか。


 昭和六十三年では、要素の錯誤による無効。


 現代では、錯誤による取消し。


「……あっ!」


 私は思わず声を上げました。


「分かりました!」


 相馬先輩が顔をしかめます。


「何がだ」


「全部、一つの事件でつながるんです!」


 私はノートを指差しました。


「無理に条文を丸暗記するんじゃなくて、事件の順番で考えればいいんですよ!」


 片桐所長が小さく頷きました。


「そうだ」


 私は嬉しくなりました。


 法律の勉強。


 覚えることは多い。


 でも。


 なぜ、その要件があるのか。


 誰を守るための制度なのか。


 そこまで考えると、条文の意味が分かってきます。


「所長」


「何だ」


「錯誤の制度って、勘違いした人だけを守るものじゃないんですね」


「そうだ」


「契約相手の利益も守っている」


「うん」


「だから、重要性とか重過失とか、いろんな条件がある」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は鉛筆を握り直しました。



「では、確認問題です!」


 私は宣言しました。


 相馬先輩が嫌な顔をしました。


「またか」


「はい!」


「誰に出すんだ」


「先輩です!」


「何でだよ!」


「勉強会ですから!」


 私は笑いました。


「第一問!」


 相馬先輩がため息をつきました。


「はいはい」


「百万円で売るつもりだった機械を、間違えて十万円で売ると表示した。これは?」


「表示の錯誤」


「正解!」


「次」


「第二問!」


 私は続けました。


「駅ができると信じて土地を買ったが、実際には駅の建設計画がなかった。これは?」


「動機の錯誤」


「正解!」


「第三問!」


「まだあるのか」


「動機の錯誤で、契約の効力を覆すために重要となる事情は?」


「その動機が契約の前提として相手方に表示されていたか」


「正解!」


 私は頷きました。


「第四問!」


 相馬先輩が新聞を置きました。


「かかってこい」


「表意者に重大な過失がある場合、錯誤無効は必ず主張できませんか?」


「必ずとは限らねえ。相手方も同じ錯誤に陥っていた場合などには、無効を主張できる余地がある」


「正解!」


 私は思わず拍手しました。


「先輩、すごい!」


「馬鹿にしてんのか」


「褒めてます!」


「ならいい」


 私は最後の問題を出しました。


「第五問!」


「まだあるのか!」


「昭和六十三年の民法九十五条。要素の錯誤の効果は?」


「無効」


「正解!」


「じゃあ、お前にも一問だ」


「えっ?」


 相馬先輩がにやりとしました。


「現代の民法九十五条。重要な錯誤の効果は?」


「取消しです!」


「正解」


「ふふん!」


「じゃあ、昭和六十三年の錯誤無効に、現代の民法百二十六条の取消権の期間制限を、そのまま当てはめられるか?」


「当てはめられません!」


「よし」


「錯誤無効と錯誤取消しは、違う制度です!」


 私は胸を張りました。


「もう間違えません!」


 相馬先輩が笑いました。


「本当か?」


「本当です!」


「じゃあ、明日も確認するか」


「……えっ」


「一週間後にも確認するか」


「ええっ?」


「一か月後にも」


「先輩!」


「何だ」


「勉強が終わらないじゃないですか!」


「法律の勉強なんて、そんなもんだろ」


 私は机に突っ伏しました。


 ……確かに。


 試験勉強に、近道はないのかもしれません。


 でも。


 ただ丸暗記して忘れるより。


 事件と一緒に覚えた知識のほうが、ずっと残る。


 それだけは、分かった気がしました。



 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 駅前の通りに、街灯が灯り始めています。


 遠くから、自転車のベルが聞こえました。


 私はノートの最後のページを開きました。


 今日の一行。


 何を書こう。


 表示の錯誤。


 動機の錯誤。


 要素の錯誤。


 重過失。


 共通錯誤。


 無効と取消し。


 全部、大事です。


 でも。


 私は、昨日の直人さんの顔を思い出しました。


 返ってきた百八十万円の通帳。


 赤くなった目。


 そして。


「また印刷屋を続けてもいいんでしょうか」


 という言葉。


 あの人は、悪いことをしたわけではありません。


 ただ。


 必要な性能について、勘違いをしてしまった。


 しかも、その勘違いは相手も共有していた。


 だからこそ。


 民法は、その契約の効力を見直す道を用意していたのです。


 でも同時に。


 契約相手にも、守られるべき利益があります。


 だから。


 勘違いなら何でもいいわけではない。


 その勘違いが重要だったか。


 相手に表示されていたか。


 重大な過失があったか。


 共通錯誤だったか。


 そうした事情を、一つずつ見ていく。


 私は鉛筆を走らせました。


 ――錯誤は「表示か動機か」を見極め、重要性・動機の表示・重過失を確認する。昭和は無効、令和は取消し。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


 相馬先輩が覗き込みます。


「長えな」


「一行です!」


「字が小せえ」


「内容が多いんです!」


 先輩は笑いました。


「まあ、覚えられるならいいんじゃねえか」


「ありがとうございます!」


 片桐所長が、帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「最後に一つ」


「何でしょう?」


「錯誤を主張する前に、最初に確認すべきことは何だ」


 私は少し考えました。


 条文。


 判例。


 重要性。


 過失。


 いろいろあります。


 でも。


 私は答えました。


「……何を、どう勘違いしたのかです」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「それを確かめないと、表示の錯誤なのか、動機の錯誤なのかも分かりません」


「うん」


「そして、その勘違いが契約にどう関係しているかも分かりません」


 所長が短く言いました。


「よし」


 私は笑いました。


 法律は。


 いきなり条文から始まるわけではない。


 まず、事実。


 誰が。


 何を信じて。


 何を約束したのか。


 そこから始まるのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、今日も掃除当番だぞ」


「……えっ」


「昨日もそうだったろ」


「でも先輩!」


「何だ」


「私、今日は勉強会があるから掃除はしなくていいと思ってたんです!」


「誰がそんなこと言った」


「……誰も」


「じゃあ、ただの思い込みだな」


 私は固まりました。


 ……。


 まさか。


「先輩!」


「何だ」


「これ、動機の錯誤じゃありませんか!」


「何の契約だよ!」


「掃除しなくていいと思ってたのに!」


「思ってただけだろ!」


「でも!」


「お前の動機なんか、俺は聞いてねえ!」


 ……。


 私は口を閉じました。


 確かに。


 私が勝手に、


「勉強会があるから、掃除は免除される」


 と思っていただけです。


 誰にも伝えていません。


 そもそも、掃除当番を決める話が、民法九十五条の錯誤を論じるような法律行為なのかも怪しい。


「……所長」


 私は助けを求めました。


「何だ」


「今日の掃除当番、錯誤無効になりませんか?」


 片桐所長は、帳簿から顔を上げませんでした。


「ならん」


「即答!?」


「掃除しろ」


「……はい」


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほらな」


「先輩!」


「何だ」


「民法九十五条って、万能じゃないんですね!」


「当たり前だ!」


 私は箒を手に取りました。


 そして、窓の外を見ました。


 夕暮れの町。


 どこかで、直人さんは印刷所の明かりをつけているのでしょう。


 父親の残したお金を、今度こそ大切に使いながら。


 また新しい仕事に挑戦するために。


 法律は。


 間違えた人を、何でも無条件に許すわけではありません。


 でも。


 間違えたというだけで、すべてを諦めさせるわけでもない。


 その勘違いが、どんなものだったのか。


 誰に、どんな影響を与えたのか。


 それを丁寧に確かめる。


 そこに。


 民法の公平さがあるのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「箒持ったまま、何ぼんやりしてんだ!」


「錯誤について考えてたんです!」


「考えるのは掃除が終わってからにしろ!」


「先輩!」


「今度は何だ!」


「私、今日の勉強会で大事なことが分かりました!」


「何だよ!」


 私は笑って答えました。


「勘違いは、誰にでもある。でも、その勘違いが契約の運命を変えるかどうかは、民法が決めるんです!」


 相馬先輩が一瞬黙りました。


 そして。


「……まあ、悪くねえな」


 と呟きました。


「褒めましたね!」


「掃除しろ!」


「はいっ!」


 私は笑いながら、床を掃き始めました。


 机の上には。


 開いたままの六法。


 そして。


 こはるノート。


 最後の一行には、こう書かれています。


 ――錯誤は「表示か動機か」を見極め、重要性・動機の表示・重過失を確認する。昭和は無効、令和は取消し。


 よし。


 これなら、忘れません。


 ……たぶん。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。