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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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439/618

[民法・錯誤]現場編 「勘違いしたのはそっちだろ」の罠。買主も売主も信じた一つの嘘と、昭和の民法が突きつける無効の刃

挿絵(By みてみん)

 勘違いは、時として嘘より恐ろしい。


 嘘なら、誰かが真実を知っています。


 けれど。


 売った人も。


 買った人も。


 二人とも同じことを信じていたら。


 いったい誰が、その間違いの責任を負うのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は一枚の契約書を見て、思わず叫びました。


「これ、錯誤取消しができるんじゃないですか!」


 すると、相馬先輩が。


「取消し?」


 恐ろしく低い声で聞き返しました。


「はい!」


「民法九十五条を読んでみろ」


「はい!」


 私は六法を開きました。


 そして。


 三秒後。


「……無効?」


 固まりました。


 そうです。


 この時代。


 錯誤の効果は、現代とは違うのです。


 令和の民法では、原則として取消し。


 しかし、昭和六十三年の民法では。


 要素の錯誤による意思表示は、無効。


 ……。


 またです。


 また未来の民法で、仕事をするところでした。



「父ちゃんが死ぬ前に残してくれた金なんです」


 朝九時。


 事務所を訪れた青年は、そう言って頭を下げました。


 年齢は二十七歳。


 名前は、杉浦直人さん。


 駅前商店街で、小さな印刷屋を営んでいます。


 店の名前は、杉浦印刷所。


 父親の代から続く、町の印刷屋さんです。


「その金を、全部使っちまったんです」


「何に使われたんですか?」


 私が尋ねると、直人さんは一枚の写真を取り出しました。


 そこには、大きな印刷機が写っていました。


「中古の印刷機です」


「印刷機?」


「百八十万円しました」


「ひゃ、百八十万円!?」


 私は写真を見つめました。


 昭和六十三年。


 百八十万円。


 大金です。


「うちは今まで、チラシや伝票ばかり刷ってきたんです。でも、それじゃ仕事が減る一方で……」


 直人さんは唇を噛みました。


「近所の菓子屋や和菓子屋から、厚紙の化粧箱を作れないかって相談されていたんです」


「化粧箱?」


「贈答用の箱です。厚い紙に、店の名前や模様を印刷するんです」


 なるほど。


 菓子箱。


 お土産物。


 贈答品。


 駅前の観光振興にも関係しそうな仕事です。


「でも、うちの古い印刷機じゃ、厚紙が通らないんです。だから、厚紙に印刷できる機械を探していたんです」


 直人さんは写真を指差しました。


「それで、見つけたのがこれでした」


 中古印刷機。


 東洋機工製。


 型式TP―2〇〇。


 販売店は、駅南の大黒機械商会。


「店の社長に、何度も確認したんです」


 直人さんの声が震えました。


「厚さ〇・8ミリの紙が通せるかって」


「はい」


「そうしたら、通せるって」


「それで購入されたんですね」


「はい」


 直人さんは膝の上で拳を握りました。


「ところが……」


 私は嫌な予感がしました。


「ところが?」


「機械を入れて、厚紙を通したら、全部詰まったんです」


「えっ?」


「紙が折れ曲がって、印刷できないんです」


「故障ですか?」


「最初は、そう思いました」


 直人さんは別の紙を取り出しました。


 メーカーから届いた回答書です。


 私は読みました。


 ――当該機種の対応紙厚は最大〇・4ミリメートルです。


 ――厚紙〇・8ミリメートルへの印刷には対応しておりません。


 ――当該機種について、〇・8ミリメートル対応仕様は製造されておりません。


 ……。


 私は顔を上げました。


「つまり」


「はい」


「最初から、目的の仕事に使えない機械だった?」


「そうなんです!」


 直人さんの声が大きくなりました。


「これじゃ、買った意味がないんです!」


 百八十万円。


 父親の遺したお金。


 印刷所の将来。


 全部を懸けた機械が。


 必要な仕事には使えない。


「返品をお願いしたんです」


「はい」


「でも、社長は……」


 直人さんは、もう一枚の書類を出しました。


 大黒機械商会からの回答でした。


 私は読みました。


 ――本件印刷機は中古品につき、現状有姿にて販売したものである。


 ――買主は現物を確認したうえで購入している。


 ――売買契約は有効に成立しており、返品及び返金には応じられない。


 最後には。


 ――買主の思い違いによる損失について、当社は責任を負わない。


 ……。


 私は紙を置きました。


「思い違い?」


「そう言われました」


「でも、店の人が使えるって説明したんですよね?」


「はい」


「だったら……!」


 私は立ち上がりました。


「民法九十五条です!」


 来ました。


 錯誤。


 行政書士試験でも重要な論点です。


「法律行為の基礎とした事情について、その認識が真実に反していた場合には、錯誤による取消しが――」


「こはる」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「何を取り消すって?」


「錯誤取消しです!」


「……ほう」


 嫌な声です。


 先輩が六法を机に置きました。


「九十五条、読め」


「はい!」


 私は勢いよく条文を開きました。


 民法第九十五条。


 そこに書かれていたのは。


 ――意思表示ハ法律行為ノ要素ニ錯誤アリタルトキハ無効トス。


 ……。


 私は止まりました。


「む、無効……」


「そうだ」


「取消しじゃなくて?」


「無効だ」


「えええっ!?」


 やってしまいました。


 令和の民法では、重要な錯誤を理由に取り消せる。


 でも。


 昭和六十三年。


 旧民法九十五条。


 要素の錯誤がある意思表示は、無効。


「未来の法律でも読んでんのか?」


「い、いえ!」


「じゃあ、条文をちゃんと読め」


「はい……」


 私は椅子に座り直しました。


 なんてことでしょう。


 無効と取消し。


 結果が似ている場面もありますが、法律上は違う仕組みです。


 そして。


 問題は、それだけではありませんでした。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「その勘違いは、何についてのものだ」


「え?」


「何を買ったつもりだった」


 私は直人さんを見ました。


「厚紙に印刷できる機械です」


「実際に買ったものは?」


「薄い紙にしか対応していない印刷機です」


「機種そのものを取り違えたのか」


「……違います」


 私は写真を見ました。


 注文した機種。


 納入された機種。


 どちらもTP―2〇〇。


 そこに間違いはありません。


「同じ機械です」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「では、何を間違えた」


 私は考えました。


 買いたかった機械と、実際に注文した機械が違う。


 そういう勘違いではありません。


 この機械なら厚紙に印刷できる。


 そう信じて購入した。


 でも、実際には印刷できなかった。


「あっ」


 私は顔を上げました。


「動機の錯誤!」


 相馬先輩が頷きました。


「ようやく気づいたか」


 そうです。


 表示の錯誤。


 動機の錯誤。


 同じ勘違いでも、中身が違う。


 たとえば。


 TP―2〇〇を注文するつもりで、間違えてTP―2〇と注文書に書いた。


 それなら、意思と表示が食い違う問題です。


 でも今回は違う。


 TP―2〇〇を買う意思は、確かにあった。


 ただ。


 その機械の能力について、間違った認識をしていた。


 つまり。


 購入を決めた理由に、勘違いがあったのです。


「所長!」


「何だ」


「これ、動機の錯誤なら、なおさら確認しなきゃいけないことがあります!」


「言ってみろ」


「その動機が、相手に表示されていたかどうかです!」


 所長は小さく頷きました。


「そうだ」


 私は直人さんに向き直りました。


「杉浦さん!」


「は、はい!」


「印刷機を買うとき、厚紙に印刷するためだって、相手に伝えましたか?」


「もちろんです!」


「口頭だけですか?」


「え?」


「何か、書類に残っていますか?」


 直人さんはしばらく考えました。


 そして。


「あっ!」


 鞄を開きました。


「これならあります!」


 取り出したのは、一枚の見積依頼書。


 私は受け取りました。


 そこには、はっきりと書かれていました。


 ――使用目的:贈答用化粧箱の厚紙印刷。


 ――必要条件:紙厚〇・8ミリメートルへの対応。


 ――上記用途に適する中古印刷機の見積りを希望する。


 ……。


 私は思わず笑いました。


「あります!」


 相馬先輩が顔を上げました。


「何がだ」


「動機の表示です!」


 しかも。


 単なる口頭説明ではありません。


 紙に残っている。


 使用目的。


 必要条件。


 全部、書いてある。


「こはる」


 所長が言いました。


「まだ喜ぶな」


「えっ?」


「相手がその条件を承知して、契約した証拠はあるか」


 ……。


 私は再び止まりました。


 そうでした。


 こちらが一方的に紙へ書いただけでは、相手に届いたかどうか分かりません。


 でも。


 直人さんは、少し嬉しそうに言いました。


「それなら、裏を見てください」


「裏?」


 私は紙をひっくり返しました。


 そこには、青いゴム印。


 ――大黒機械商会 見積受付。


 受付日。


 担当者名。


 そして。


 手書きの一文。


 ――当社推奨機種TP―2〇〇。紙厚〇・8ミリ対応可。


 私は息を呑みました。


「……これ」


 相馬先輩が紙を覗き込みます。


「ほう」


 所長も身を乗り出しました。


 そして短く言いました。


「原本を保管しろ」


「はい!」


 私は両手で紙を持ちました。


 ここにありました。


 直人さんが、何を目的に契約したのか。


 その目的を、販売店が承知していたこと。


 そして、販売店も対応可能だと説明していたこと。


 全部をつなぐ一枚です。


 でも。


 この事件には、まだ厄介な壁が残っていました。



「だから、契約書に書いてあるだろうが!」


 翌日。


 大黒機械商会。


 事実関係を確認するため、直人さんに同行した私たちは、社長の怒鳴り声を聞くことになりました。


 社長の名前は、大黒義一。


 五十代半ば。


 金色の腕時計。


 立派な革張りの椅子。


 事務机の上には、分厚い契約書が置かれていました。


「現状有姿!」


 大黒社長が契約書を叩きます。


「中古品だから保証はしないって、ちゃんと書いてある!」


「……でも」


 直人さんが言いました。


「厚紙に使えるって、社長が……」


「俺だってそう思ってたんだよ!」


 大黒社長は吐き捨てました。


「メーカーの古い資料にそう書いてあったんだ!」


 ……ん?


 私は顔を上げました。


「社長も、そう思っていた?」


「ああ!」


「本当に?」


「何だよ」


「紙厚〇・8ミリに対応していると、社長も信じていたんですか?」


「当たり前だ!」


 社長は引き出しから、古い商品資料を取り出しました。


 黄色く変色した紙。


 そこには。


 ――TP―2〇〇 最大紙厚〇・8ミリ。


 と印刷されていました。


「ほら!」


 社長は紙を突きつけました。


「俺はこれを見て仕入れたんだ!」


 私は資料を受け取りました。


 紙の下には、販売代理店の名前。


 作成年月。


 昭和五十七年。


「これはメーカーの資料ですか?」


「代理店が作ったやつだ」


「メーカーには確認されましたか?」


「そこまでしてねえよ!」


「では、直人さんに説明したときも、この資料を信じていたんですね?」


「そうだって言ってるだろ!」


 私は黙りました。


 ……なるほど。


 これは。


 ちょっと面白いことになってきました。


 直人さんは、厚紙に対応していると信じて買った。


 大黒社長も、対応していると信じて売った。


 ところが。


 メーカーの正式回答では、対応していなかった。


 つまり。


 二人とも。


 同じ勘違いをしていた。


「先輩」


 私は小声で言いました。


「これ……」


「ああ」


「共通錯誤、ですよね?」


 相馬先輩が私を見ました。


「いいところに気づいたな」


 やった。


 珍しく褒められました。


 ……と思った、その瞬間。


「だが、まだ安心するな」


「えっ?」


「相手の次の言葉を聞け」


 先輩は大黒社長を見ました。


 社長が、にやりと笑いました。


「それにな」


 来ました。


「杉浦さんよ」


「……はい」


「あんた、機械を見に来ただろ」


「はい」


「試し刷りもしたよな」


「しました」


「じゃあ、自己責任じゃねえか!」


 大黒社長は机を叩きました。


「型式だって書いてある! メーカーに聞くこともできた! それをしなかったのは、あんたの落ち度だろ!」


 直人さんが俯きました。


「それは……」


「買ってから勘違いでしたって言われても、困るんだよ!」


 社長は勝ち誇ったように笑いました。


「大きな買い物なんだから、もっと慎重に調べるべきだったんじゃないのか?」


 私は唇を噛みました。


 厄介です。


 相手の言い分にも、検討しなければならない部分がある。


 民法九十五条。


 旧法には、こんな規定があります。


 ――表意者ニ重大ナル過失アリタルトキハ自ラ其無効ヲ主張スルコトヲ得ス。


 重大な過失。


 単なる不注意ではありません。


 普通なら当然払うべき注意を、著しく欠いていたような場合です。


 そして。


 今回、直人さんは百八十万円もの機械を買っています。


 メーカーへ問い合わせれば、性能を確認できたかもしれない。


 そこを突かれたのです。


「こはる」


 相馬先輩が低く言いました。


「今の話も記録しろ」


「はい」


 私は手帳を開きました。


 大黒社長は、さらに言いました。


「中古機械なんて、使ってみなきゃ分からんだろ!」


「では」


 相馬先輩が言いました。


「一つ確認します」


「何だよ」


「社長は、この機械が〇・8ミリの厚紙に対応していると信じていたんですね」


「ああ」


「その認識で、杉浦さんに販売した」


「そうだ」


「見積依頼書に記載された使用目的も、承知していた」


「当たり前だ」


「そして、その用途に適していると回答した」


「だからそうだって!」


 先輩は頷きました。


「分かりました」


「何が分かったんだよ」


「双方の認識です」


 大黒社長は鼻で笑いました。


「何だ。結局、俺だって間違えてたって話か」


「そうですね」


「だったら、お互い様じゃねえか!」


 ……。


 私は思わず顔を上げました。


 お互い様。


 大黒社長。


 今、言いましたね。


 自分も間違えていた、と。


「もう帰ってくれ!」


 社長が椅子にもたれました。


「行政書士なんか連れてきても無駄だ! 弁護士じゃねえんだから、裁判もできねえだろ!」


 相馬先輩は表情を変えませんでした。


「そのとおりです」


「何?」


「私たちは訴訟代理人ではありません。依頼人の代理人として示談交渉をすることもできません」


 先輩は手帳を閉じました。


「本日は、事実の確認をさせていただきました」


「……それだけか?」


「はい」


 社長は拍子抜けしたような顔をしました。


 先輩は立ち上がります。


「行くぞ、こはる」


「はい!」


 私たちは店を出ました。


 直人さんは、肩を落としていました。


「やっぱり、無理なんでしょうか……」


「そんなことありません!」


 私が言いかけると。


「こはる」


 相馬先輩が呼びました。


「はい」


「まだ結論を急ぐな」


「でも……!」


「証拠は揃いつつある」


 先輩は手帳を軽く叩きました。


「大事なのは、今からだ」


 そして。


 あの口癖を言いました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 私は頷きました。


 そうです。


 相手を怒鳴り負かす必要はない。


 どちらが法律上、どんな立場にあるのか。


 それを整理する。


 そのために、私たちがいるのです。



「重過失があるかもしれない、か」


 事務所へ戻ったあと。


 片桐所長は、私たちの報告を黙って聞いていました。


「はい」


 私は答えました。


「百八十万円の機械です。メーカーに確認しなかったことを、相手は重過失だと主張しています」


「それで?」


「それで……」


 私は六法を見ました。


「旧民法九十五条ただし書です」


 重大な過失があった場合、原則として表意者は自ら錯誤による無効を主張できない。


 そこは分かります。


 でも。


 私は、さっきの店での会話を思い出しました。


 買主も勘違い。


 売主も勘違い。


 それも。


 まったく同じ点について。


「所長」


「何だ」


「二人とも同じ勘違いをしていた場合は、どうなるんですか?」


 片桐所長は、ゆっくりと顔を上げました。


「そこだ」


 ……え?


「こはる。九十五条ただし書は、誰を守るための規定だ」


「誰を……?」


 私は考えました。


 重大な不注意をした人が、あとから一方的に契約を無効だと言い出す。


 そうすると、相手は困る。


 取引の安全が損なわれる。


「……相手方を守るため、ですか?」


「そうだ」


 所長は頷きました。


「では、相手方も同じ錯誤に陥っていた場合は?」


 私は目を見開きました。


「……あっ」


「相手方も誤った前提で契約していたなら、その相手方を、常に同じように保護する必要があるか」


 私は机の上の資料を見つめました。


 なるほど。


 売主が正しい事実を信じて取引していた場合と。


 売主自身も間違った事実を信じていた場合。


 それは同じではありません。


「所長!」


「うん」


「双方が共通の錯誤に陥っていた場合、表意者に重過失があっても、無効を主張できる余地があるんですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が古い判例集を持ってきました。


「最高裁の判例も確認しろ」


「はい!」


 私はページを開きました。


 そこには、古い裁判例の考え方が整理されていました。


 相手方も表意者と同一の錯誤に陥っていたような場合。


 表意者に重大な過失があったとしても、相手方が錯誤無効の主張を封じることは、信義則上許されないと判断されることがある。


 私は息を呑みました。


「……これです」


 まさに。


 今回の事件の急所。


「でも」


 私は顔を上げました。


「大黒社長は、書面に『現状有姿』って書いてます」


「ああ」


「そこは問題になりませんか?」


「なる」


 所長は即答しました。


「だから、その一文だけを見て結論を出すな」


「はい」


「契約全体を見ろ」


 私は売買契約書を開きました。


 売買対象。


 TP―2〇〇。


 売買代金。


 百八十万円。


 中古品。


 現状有姿。


 そして。


 契約書の備考欄。


 私は、その一文を見つけました。


 ――本機は、買主提出の見積依頼書記載の用途に供する機械として販売する。


 ……。


「所長!」


「見つけたか」


「はい!」


 私は契約書を掲げました。


「使用目的が、契約書にも取り込まれています!」


 所長が頷きました。


 見積依頼書には、厚紙〇・8ミリ対応という条件。


 契約書には、その見積依頼書の用途に供するための機械だという記載。


 つまり。


 ただ、どんな機械でもいいから百八十万円で買ったのではありません。


 厚紙印刷という具体的な目的を前提に、売買契約をした。


 そして。


 売主もそれを承知していた。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「現状有姿ってのは、便利な言葉だ」


「はい」


「だがな」


 先輩は契約書の備考欄を指差しました。


「中古品の傷や摩耗を引き受ける話と、取引の根本にある性能の認識が間違っていた話は、同じじゃねえ」


「……はい!」


「ただし、現状有姿の条項が絶対に無意味だと決めつけるな。契約でどんな危険を誰が引き受けたか、具体的に見る必要がある」


 私は頷きました。


 なるほど。


 相手が。


「契約書に書いてある!」


 と叫んだら。


 こちらは。


「では、契約書を全部読みましょう」


 と返す。


 これです。


 これが民法の怖いところです。


 大きな文字で書かれた免責条項より。


 小さな備考欄の一文が、事件の核心を突くこともある。


「よし」


 片桐所長が言いました。


「こはる。通知書の原案を作れ」


「はい!」


「ただし、錯誤で無効だと断定する前に、要素性、動機の表示、過失の程度、双方の認識を全部整理しろ」


「はい!」


「相手が既に第三者へ転売していないかも確認しておけ」


「あっ」


 私は顔を上げました。


 第三者。


 そうです。


 仮に印刷機が別の人の手に渡っていたら。


 事情はさらに複雑になります。


 令和の民法には、錯誤取消しと善意無過失の第三者について明文の規定があります。


 でも、昭和六十三年には、その条文がありません。


 旧法の判例や解釈を確かめなければならない。


「……所長」


「何だ」


「民法って、本当に油断できませんね」


「今さらだな」


 相馬先輩が笑いました。


「一行間違えれば、相手に反論の口実を与えるぞ」


「はい!」


 私は原稿用紙を取り出しました。


 今度こそ。


 未来の条文を混ぜずに。


 昭和の民法で。


 戦います。


 ◇


 三時間後。


 机の上には、内容証明郵便の原案がありました。


 差出人。


 杉浦直人。


 宛先。


 大黒機械商会代表者 大黒義一。


 私は緊張しながら、読み上げました。


「第一。本件売買契約は、通知人が厚さ〇・8ミリメートルの厚紙に印刷する目的で締結したものである」


「うん」


「第二。右目的及び必要性能は、契約締結前に交付した見積依頼書に明示され、貴社はこれを受領したうえ、当該性能を備える旨回答した」


「うん」


「第三。本件売買契約書の備考欄においても、右見積依頼書記載の用途に供する機械として販売する旨が明記されている」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。ところが、製造元の回答によれば、本件印刷機の対応紙厚は最大〇・4ミリメートルであり、契約締結当時から、右使用目的に適合する性能を有していなかった」


「よし」


「第五。したがって、通知人は、本件契約の基礎とされた重要な事情について錯誤に陥っていた」


 私は一度、息を吸いました。


「第六。貴社もまた、本件印刷機が厚紙〇・8ミリメートルに対応するものと認識し、その認識を前提として販売したことを、昭和六十三年七月十日の面談において認めている」


 相馬先輩が口元を緩めました。


「そこだ」


「はい!」


 私は続けました。


「第七。本件は、当事者双方が契約の基礎となる同一の事情について錯誤に陥っていたものであり、民法第九十五条本文に定める法律行為の要素の錯誤に該当するものと考える」


 そこで、片桐所長が手を上げました。


「こはる」


「はい」


「ただし書への反論が薄い」


「あっ」


「重大な過失があると主張されることを予想して書け」


「はい!」


 私は原案を書き直しました。


 買主は、専門業者による説明を受けたこと。


 見積依頼書を交付し、必要性能を具体的に確認したこと。


 売主自身も、古い代理店資料を根拠に同じ性能を信じていたこと。


 買主がメーカーへ直接確認しなかった事実だけで、直ちに重過失が認定されるわけではないこと。


 そして。


 仮に重過失が問題になったとしても、双方が同一の錯誤に陥っていた事情から、錯誤無効の主張を封じることは信義則上相当でないと考えられること。


 すべてを書き加えました。


「第八。よって通知人は、本件売買契約につき、民法第九十五条による無効を主張する」


 私は続けます。


「第九。貴社に対し、既払代金百八十万円の返還を求める。通知人は、本件印刷機の返還に応ずる用意がある」


「うん」


「第十。本通知到達後十四日以内に、返還手続について書面で回答されたい」


 最後。


「なお、解決に至らない場合には、弁護士に相談のうえ、不当利得返還請求訴訟その他の法的手続を検討する」


 私は読み終えました。


 部屋が静かになりました。


「……どうでしょうか」


 相馬先輩が原稿を見つめました。


 片桐所長も、しばらく黙っていました。


 そして。


「よし」


 所長が言いました。


「これを基礎に、本人の意思を最終確認して整えろ」


「はい!」


 私は胸を撫で下ろしました。


 相馬先輩が笑いました。


「最初の原案より、ずいぶんマシになったな」


「褒めました?」


「まだだ」


「またそれですか!」


 先輩は、内容証明の原稿を指差しました。


「よく見ろ」


「はい」


「相手が何を説明しなきゃならなくなる?」


 私は書面を見直しました。


 まず。


 なぜ、厚紙対応の機械として販売したのか。


 次に。


 なぜ、見積依頼書に用途を確認したうえで、対応可能と回答したのか。


 さらに。


 なぜ、契約書に使用目的を明記したのか。


 そして。


 売主自身も同じ勘違いをしていたのに、なぜ買主だけがすべての損失を負担すべきなのか。


 私は顔を上げました。


「……言い逃れするのが難しくなっています」


「そうだ」


「ただ『現状有姿だから』と言うだけじゃ、この問題全部には答えられない」


「そのとおり」


 相馬先輩は机の上の印鑑ケースを見ました。


「口で勝つんじゃねえ」


 そして。


「相手に、書面で答えさせるんだ」


 私は頷きました。


 内容証明。


 魔法の紙ではありません。


 送っただけで、強制的にお金が戻ってくるわけでもない。


 まして。


 行政書士が裁判の代理人になるわけでもありません。


 けれど。


 事実と法律を、一つずつ正確に積み重ねる。


 そうすることで。


 相手は、自分が抱えている法的リスクを、初めて真正面から見ることになるのです。



 内容証明を送ってから、四日目。


 事務所に電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……大黒だ』


 私は受話器を持ったまま固まりました。


 あの社長です。


 しかし。


 声が違います。


 あの威勢のよさは、どこへ行ったのでしょう。


『片桐先生は、いるか』


「少々お待ちください」


 私は所長に受話器を渡しました。


「片桐です」


『……あの、通知書の件なんだが』


「はい」


『知り合いの弁護士に見せたんだ』


「そうですか」


『そしたら……』


 電話の向こうで、沈黙がありました。


『この件は、単なる中古品の故障とは違うって言われた』


 所長は黙って聞いています。


『買う目的が書面に出ている。しかも、こっちも同じ勘違いをしている』


「はい」


『重過失があるから絶対に無効を主張できない、って話でもないらしいな』


 私は息を呑みました。


 大黒社長は続けました。


『裁判になったら、百八十万円の返還を命じられる可能性があるって……』


 声が小さくなりました。


『判決が出ても払わなかったら、強制執行の話にもなるって……』


 そうです。


 内容証明だけでは、財産を差し押さえられません。


 でも。


 裁判で支払義務が認められ、必要な債務名義が得られれば。


 強制執行という現実のリスクが生じる。


 大黒社長は、ようやくそこまで考えたのでしょう。


『……機械は、返してもらっていい』


 私は顔を上げました。


『金も、返す方向で考えている』


 所長は落ち着いた声で答えました。


「そのご意向でしたら、杉浦さんご本人へ書面でお伝えください。具体的な返還条件については、当事者間で確認していただくことになります」


『分かった』


 社長は少し黙りました。


 そして。


『……俺も、間違えてたんだよ』


 その言葉には。


 前のような威勢は、ありませんでした。


『本当に、〇・8ミリまで刷れると思ってた』


 所長は静かに言いました。


「その事情も含めて、今回の契約を考える必要があったのだと思います」


『……そうだな』


 電話が切れました。


 私は所長を見ました。


「所長!」


「何だ」


「返金するって!」


「ああ」


「やりましたね!」


 しかし。


 相馬先輩が、私の頭を軽く小突きました。


「まだだ」


「痛っ!」


「金が戻るまで終わりじゃねえ」


「……はい」


 そうでした。


 口約束だけで安心してはいけません。


 それこそ。


 今回の事件で学んだことなのですから。


 その後。


 大黒機械商会から、直人さん宛てに書面が届きました。


 売買契約の効力に争いがあることを踏まえ、機械の返還と引換えに売買代金百八十万円を返金する。


 そういう内容でした。


 直人さんは、自ら返還条件を確認しました。


 必要な確認書は、本人の依頼を受けた片桐事務所が作成しました。


 機械の状態。


 付属品。


 代金返還日。


 返還方法。


 当事者双方が内容を確認し、署名押印。


 そして。


 機械の返還と、百八十万円の返金が実行されたのです。


「……本当に戻ってきました」


 一週間後。


 直人さんは、通帳を握りしめて事務所を訪れました。


 その目は、少し赤くなっていました。


「父ちゃんの金が……」


 私は何も言えませんでした。


「もう、戻らないと思ってました」


 直人さんは通帳を見つめました。


「こんな失敗して、父ちゃんに申し訳なくて……」


 片桐所長が、静かに言いました。


「機械を選ぶときの確認は、今後もっと慎重になさってください」


「はい」


「ただ」


 所長は続けました。


「今回、必要な性能を相手に伝え、書面に残していたことは、大きかったと思います」


 直人さんは顔を上げました。


「書いておいて、よかったです」


 私は頷きました。


 本当に。


 よかった。


 見積依頼書。


 そこに書かれた、たった一つの使用目的。


 それがなければ。


 単に、直人さんが勝手に期待していただけなのか。


 相手にも示した、契約の根本に関わる事情だったのか。


 その区別が、ずっと難しくなっていたでしょう。


「ところで」


 直人さんが言いました。


「朝比奈さん」


「はい?」


「僕、まだ印刷屋を続けてもいいんでしょうか」


 私は驚きました。


「どういうことですか?」


「新しい仕事を始めようとして、失敗したんです」


 直人さんは苦笑しました。


「また同じことをやりそうで、怖いんです」


 私は少し考えました。


 そして。


「杉浦さん」


「はい」


「勘違いは、誰にでもあります」


 直人さんが顔を上げます。


「でも、勘違いをしたからって、必ず全部を失わなきゃいけないわけじゃないんです」


 私は通帳を見ました。


「だからこそ、民法があるんだと思います」


 直人さんは、しばらく黙っていました。


 それから。


 小さく笑いました。


「……そうですね」


 帰り際。


 直人さんは、玄関で深く頭を下げました。


「次に機械を買うときは、ちゃんとメーカーにも確認します」


「はい!」


「それから」


「はい?」


「新しい店の箱ができたら、一番に持ってきます」


 私は笑いました。


「楽しみにしてます!」


 直人さんは、少しだけ背筋を伸ばして帰っていきました。



 夕方。


 事務所の窓から、オレンジ色の光が差し込んでいました。


 私は机に向かっていました。


 目の前には、旧民法。


 そして。


 ノート。


「……難しいですね、錯誤」


 思わず呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「今さらか」


「だって、勘違いですよ?」


「ああ」


「勘違いって、もっと簡単な話だと思ってました」


「どんな話だ」


「間違えた。だから取り消す。それで終わり、みたいな」


 相馬先輩は鼻で笑いました。


「それじゃ世の中、契約なんかできねえよ」


「……ですよね」


 確かに。


 気が変わったから。


 思っていたより儲からなかったから。


 もっと安いものを見つけたから。


 そんな理由で、誰でも自由に契約の効力を覆せるのなら。


 取引は成り立ちません。


 だから。


 錯誤は、単なる勘違いなら何でもいいわけではない。


 法律行為の要素に関わる重要な錯誤であること。


 動機の錯誤なら、その動機が相手方に表示されていたかどうか。


 重大な過失の有無。


 そして。


 相手方自身も同じ錯誤に陥っていたかどうか。


 それらを見なければならない。


「先輩」


「何だ」


「今回、もし直人さんが厚紙に印刷する目的を一度も伝えていなかったら、どうなっていたんでしょう」


「かなり厳しい話になっただろうな」


「……ですよね」


「ただし、明確な言葉で伝えていなくても、取引の経緯から表示されていたと認められる場合はある」


「黙示の表示ですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 言葉にして伝える。


 書面に残す。


 あるいは、取引の事情から相手にも分かる形になっている。


 それが、大事なのです。


「それと」


 私は六法を見ました。


「昭和六十三年の民法九十五条」


「ああ」


「錯誤は、要素の錯誤なら無効」


「そうだ」


「現代では取消し」


「……お前、また妙なことを言い始めたな」


「あっ」


 しまった。


 また未来の話です。


 でも。


 私には、どうしても気になることがありました。


 昔の民法では、錯誤は無効。


 現代の民法では、錯誤は取消し。


 しかも現代では。


 表示の錯誤。


 動機の錯誤。


 重過失がある場合の例外。


 共通錯誤。


 第三者の保護。


 こうした問題について、条文がずいぶん詳しくなっています。


 なぜでしょう。


 きっと。


 契約の勘違いを理由に効力を覆すことと、取引の安全を守ること。


 その両方を、もっと分かりやすく整理する必要があったからなのでしょう。


「こはる」


 片桐所長が声をかけました。


「はい」


「今日の事件で、一番重要だったものは何だ」


 私は考えました。


 民法九十五条。


 要素の錯誤。


 動機の表示。


 共通錯誤。


 重過失。


 どれも重要です。


 でも。


 どれか一つだけでは、今日の事件は解決できませんでした。


 私は答えました。


「……契約の前提を、きちんと確かめることです」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「何を約束したかだけじゃなくて、何を前提に、その約束をしたのか」


「うん」


「その前提が、相手にも伝わっていたかどうか」


「そうだ」


 私は続けました。


「それに、相手も同じ勘違いをしていたなら、買主だけの責任だと決めつけられない」


 所長は静かに言いました。


「いいだろう」


 私は笑いました。


 やった。


 今日の教訓。


 見つけました。


 私はノートの最後に、一行だけ書きました。


 ――錯誤で問われるのは、勘違いした事実だけでなく、その勘違いが契約にとって何を意味したか。


「……できました!」


 私は鉛筆を置きました。


 相馬先輩が覗き込みます。


「ほう」


「どうですか?」


「悪くねえな」


「褒めましたね!」


「たまにはな」


「珍しい!」


「調子に乗るな」


 私は笑いました。


 でも。


 もう一度、今日の事件を思い返しました。


 百八十万円。


 父親の遺産。


 印刷屋の将来。


 そのすべてを懸けて購入した機械。


 買主は信じていた。


 厚紙に使えると。


 売主も信じていた。


 厚紙に使えると。


 けれど。


 真実は違っていた。


 誰かが意図的に嘘をついたわけではない。


 それでも。


 間違った前提のまま契約が続けば、片方だけが大きな損失を負うことになる。


 だから民法は。


 単に、


「契約したんだから守れ」


 というだけでは終わらないのです。


 当事者が、何を信じて契約したのか。


 その認識は、取引にとってどれほど重要だったのか。


 相手はそれを知っていたのか。


 誰が、どのような注意を払っていたのか。


 そこまで確かめて。


 契約の効力を判断する。


 なるほど。


 錯誤。


 ただの勘違いではありません。


 人の財産と生活を左右する、重大な法律問題だったのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「一つ問題だ」


「おっ!」


 私は身を乗り出しました。


「何ですか?」


「お前が、百万円で機械を買おうとしたとする」


「はい」


「ところが、注文書に間違えて十万円と書いた」


「はい!」


「これは?」


「表示の錯誤です!」


「そうだ」


「実際の意思と、表示した内容が違います!」


「よし」


 相馬先輩が続けました。


「じゃあ、百万円で買うつもりの機械を百万円で注文した。だが、その機械が持っていると信じていた性能は、実際にはなかった」


「動機の錯誤です!」


「よし」


「その性能が契約の重要な前提で、相手にも表示されていたかが問題になります!」


「ほう」


 先輩が笑いました。


「少しは分かってきたじゃねえか」


「はい!」


 私は得意になりました。


「しかも、昭和六十三年の民法では、錯誤の効果は無効です!」


「そうだ」


「令和だと取消しです!」


「また令和か!」


「でも大事なんです!」


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 女性の声でした。


『私、土地を買ったんですけど……』


 私は身構えました。


 土地。


 民法。


 嫌な予感しかしません。


『近くに新しい駅ができるって聞いて、それで買ったんです』


「はい」


『ところが、そんな計画は最初からなかったって言われて……』


 ……。


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩も、こちらを見ました。


 今度は。


 土地です。


 しかも。


 駅の新設。


 動機の錯誤。


 真っ先に確認すべきことは。


「……その駅の話を、売主さんにも伝えていましたか?」


 私は受話器を握り直しました。


 女性は答えました。


『ええ。でも、契約書には書いてないんです』


 ……。


 私は目を閉じました。


 またです。


 また、厄介な話です。


「相馬先輩!」


「聞こえてる」


「動機の表示が問題になりそうです!」


「そうだな」


「しかも契約書には書いてないそうです!」


「だから聞こえてるって!」


 私は受話器を握り直しました。


「すみません。契約するまでの経緯を、最初から教えてください」


 昭和六十三年。


 民法の世界は、今日も甘くありません。


 人は勘違いをする。


 思い込みもする。


 誰かの説明を信じて、大きな契約を結ぶことだってある。


 けれど。


 すべての勘違いで、契約をなかったことにできるわけではない。


 そして逆に。


 契約書にハンコがあるからといって、すべての勘違いを無視していいわけでもない。


 私は今日、それを学びました。


 法律が見ているのは。


 紙に書かれた約束だけではありません。


 その約束をするために、当事者が何を前提としていたのか。


 そこまで見ているのです。


「先輩!」


「今度は何だ!」


「民法九十五条って、すごいですね!」


「感心してる暇があったら、相談票を取れ!」


「はいっ!」


 私は慌てて鉛筆を握りました。


 今日の教訓。


 ――勘違いは誰にでもある。けれど、契約の根本を揺るがす勘違いまで、必ず自己責任とは限らない。


 百八十万円を取り戻した印刷屋さんは。


 きっと今頃、新しい仕事の計画を立て直しているでしょう。


 父親が残してくれた、大切なお金で。


 今度こそ、本当に必要な機械を買うために。


 そして私は。


 昭和の民法九十五条を、もう一度開きました。


 ――意思表示ハ法律行為ノ要素ニ錯誤アリタルトキハ無効トス。


 無効。


 取消しではありません。


 この違いだけは、もう絶対に間違えません。


 ……たぶん。


 だって、私にとって一番厄介な錯誤は。自分が今、昭和六十三年にいることを、つい忘れてしまうことだから。

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