[民法・虚偽表示]法理編 こはるノート
嘘をついた人が、嘘を理由に得をする。
そんなことが、許されていいのでしょうか。
たとえば。
借金を取り立てられそうになった人が、友人と相談して、土地を売ったふりをする。
契約書も作る。
登記も移す。
もちろん、お金のやり取りはありません。
全部、嘘です。
ところが。
その友人が、事情を知らない別の人に、本当に土地を売ってしまった。
すると、元の持ち主が怒り出します。
「最初の売買は嘘だったんだ!」
「だから無効だ!」
「土地を返せ!」
……。
ちょっと待ってください。
その嘘。
あなたが自分で作ったものですよね?
なのに。
何も知らずに土地を買った人が、損をしなければならないのでしょうか。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は、その答えを探していました。
机の上には、一冊のノート。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
そして、今日の見出し。
――民法九十四条・通謀虚偽表示。
「……先輩」
「何だ」
「民法って、嘘つきにも優しいんですか?」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「いきなり何だ」
「だって、嘘の契約は無効なんですよね?」
「ああ」
「だったら、嘘をついた人は最初から責任を負わなくて済むんですか?」
先輩は新聞を畳みました。
「こはる」
「はい」
「お前、昨日の黒田をもう忘れたのか?」
私は首を振りました。
「忘れるわけありません!」
黒田栄一。
運送会社の社長。
債権者から土地を差し押さえられるのを恐れ、甥の大野修一と共謀して土地を売ったふりをした男。
ところが、その大野が、藤野澄江さんに本当に土地を売ってしまった。
六百万円。
二十年かけて貯めたお金。
花屋を開くための土地。
それを黒田は、
「最初の売買は無効だから、土地を返せ!」
と主張した。
でも。
私たちは、藤野さん本人名義の内容証明郵便を作成しました。
民法九十四条二項。
善意の第三者への対抗禁止。
その条文を示された黒田は、弁護士に相談した末、土地の返還要求を撤回したのです。
「つまり!」
私は鉛筆を握りました。
「嘘の契約が無効になることと、その無効を誰にでも主張できることは、違うんですね!」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
よし。
今日の勉強会。
最初の一問は、正解です。
「まず、通謀虚偽表示とは何か、ですね」
私はノートの真ん中に書きました。
――通謀虚偽表示。
「通謀って、すごく悪そうな言葉ですよね」
「実際、ろくでもねえ相談をしてることが多いからな」
「ですよね」
私は笑いました。
通謀。
つまり、相手と意思を通じ合わせること。
虚偽表示。
本当の意思とは違う表示をすること。
二つを合わせると。
相手方と示し合わせて、本当はするつもりのない法律行為を、したように装うこと。
これが、通謀虚偽表示です。
「先輩。今回の事件なら?」
「黒田と大野だ」
「はい」
私はノートに名前を書きました。
黒田栄一。
大野修一。
「黒田さんは、土地を本当に売るつもりがありませんでした」
「ああ」
「大野さんも、本当に買うつもりがありませんでした」
「そうだ」
「でも、二人で相談して売買契約書を作りました」
「うん」
「そして、登記まで移しました」
私は赤鉛筆で囲みました。
――二人とも嘘だと知っていた。
「ここが大切なんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「片方だけが嘘をついているのと、二人で嘘をついているのは違う」
「あっ!」
私は顔を上げました。
「心裡留保!」
「そうだ」
以前、勉強した民法九十三条です。
心裡留保。
表意者が、本心ではないと知りながら意思表示をすること。
たとえば。
本人は本気で契約するつもりがない。
でも、相手には本気の契約であるかのように伝える。
この場合、原則として意思表示は有効。
ただし、相手方が真意でないことを知っていた場合や、知ることができた場合には無効になります。
「それに対して、九十四条は?」
相馬先輩が聞きました。
「最初から相手もグルです!」
「そうだ」
「二人で示し合わせて、嘘の意思表示をする」
「うん」
「だから、通謀虚偽表示!」
私は大きく書きました。
――九十三条は、一人の本心と表示の食い違い。
――九十四条は、相手と示し合わせた嘘の表示。
「なるほど……」
私は鉛筆を止めました。
似ているようで、違います。
たとえば。
Aが、本心では売るつもりがないのに、Bへ売ると言った。
Bは、本気の売買だと思っている。
これは、九十三条の問題です。
でも。
AもBも、
「本当は売らないけど、売ったことにしておこう」
と合意していたら。
九十四条。
通謀虚偽表示。
「二人の頭の中を、ちゃんと区別しないといけないんですね」
「そうだ」
先輩が頷きました。
「誰が、何を、どこまで知っていたか。それが民法では大事なんだよ」
「では、次です!」
私はページをめくりました。
――民法九十四条一項。
相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。
「ここは簡単ですね!」
私は言いました。
「黒田さんと大野さんの売買は無効!」
「どうしてだ?」
「本当に売買する意思がなかったからです!」
「そうだ」
「代金も払っていません!」
「うん」
「しかも、差押えを免れるために嘘の契約を作りました!」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、こはる」
「はい」
「代金が払われていないだけで、必ず通謀虚偽表示になるわけじゃねえぞ」
「あっ」
私は慌てて鉛筆を止めました。
そうでした。
本当に売買契約を結んだ。
でも、買主が代金を払わない。
そういう場合だってあります。
そのときは、単なる債務不履行などの問題です。
代金未払い。
イコール通謀虚偽表示。
ではありません。
「重要なのは、当事者が本当に法律効果を発生させる意思を持っていたか、ですね」
「そうだ」
今回の黒田と大野は違いました。
売買契約書を作った。
でも、売買代金を授受するつもりはない。
実質的な所有権も移すつもりはない。
そのことを二人とも承知していた。
だから。
民法九十四条一項。
無効。
「所長!」
私は奥に声をかけました。
「何だ」
「九十四条一項は、昭和と現代で違うんですか?」
片桐所長が六法から顔を上げました。
「基本は同じだ」
「やっぱり!」
私は嬉しくなりました。
最近の民法は、時代錯誤が多かったのです。
成年被後見人。
禁治産者。
契約不適合責任。
瑕疵担保責任。
消滅時効。
旧法と現代法の違いに、何度も頭を抱えてきました。
でも。
通謀虚偽表示。
民法九十四条。
この基本的な条文の仕組みは、昭和六十三年も現代も変わりません。
「よかった……!」
私は胸を撫で下ろしました。
「今回は、未来の条文を口走らずに済みます!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「未来って何だよ」
「あっ」
しまった。
「い、いえ! 未来永劫、民法を愛するという意味です!」
「意味が分からねえ」
「私も、ちょっと分かりません!」
所長が小さくため息をつきました。
「……勉強を続けろ」
「はい!」
「さて」
私はノートの次のページを開きました。
――民法九十四条二項。
ここからが、本番です。
私は条文を読みました。
――前項の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。
「これです!」
私は机を叩きました。
「昨日、藤野さんの土地を守った条文!」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、どういう意味か説明してみろ」
「はい!」
私は、三人の名前を書きました。
A=黒田栄一。
B=大野修一。
C=藤野澄江。
「まず、AとBが嘘の売買契約をしました」
「うん」
「九十四条一項で無効です」
「そうだ」
「でも、BがCに土地を売りました」
「うん」
「Cは、AB間の売買が嘘だと知りませんでした」
「その場合?」
「AはCに対して、最初の売買が無効だと主張できません!」
相馬先輩が頷きました。
「正解だ」
私は嬉しくなりました。
でも。
ここで、疑問が湧きます。
「先輩」
「何だ」
「そもそも、最初の売買が無効なら、大野さんは土地の所有者じゃないですよね?」
「ああ」
「だったら、どうして藤野さんは土地を取得できるんですか?」
相馬先輩が、にやりとしました。
「そこだ」
「え?」
「九十四条二項の一番大事なところだよ」
先輩は紙に一本の線を引きました。
黒田から大野。
「ここは無効だ」
「はい」
続けて、もう一本。
大野から藤野。
「でも、藤野は、その嘘を知らない」
「はい」
「しかも、黒田自身が大野を所有者に見せかける外観を作っている」
「……はい」
「それなのに、黒田が『本当は俺の土地だ』と主張できたら、どうなる?」
私は考えました。
「……藤野さんが土地を失います」
「そうだ」
「でも、藤野さんは何も知らなかった」
「ああ」
「そして、その原因は黒田さん自身が作った嘘です」
先輩が頷きました。
「だから、その嘘の外観を作った者に不利益を負担させ、外観を信じて取引した善意の第三者を保護するんだ」
なるほど。
つまり。
九十四条二項は、嘘の契約そのものを有効にする規定ではありません。
嘘の契約は、当事者間では無効のまま。
でも。
その無効を、善意の第三者には主張できない。
その結果、第三者は、仮装譲受人から取得した権利を守られる。
「先輩!」
「何だ」
「これ、すごく大事ですね!」
「そうだろ」
「無効なのに、第三者には無効と言えない!」
「そういうことだ」
私は大きく赤線を引きました。
――当事者間では無効。しかし、善意の第三者には無効を対抗できない。
これです。
この二段階。
九十四条を理解する鍵は、ここにありました。
「でも先輩」
「何だ」
「善意って、優しい人のことじゃないんですよね?」
「当たり前だ」
私は笑いました。
法律用語の善意。
これは、道徳的に善良な人という意味ではありません。
ある事実を知らないこと。
今回なら。
黒田と大野の売買が仮装だったことを知らない。
これが善意です。
「逆に、悪意は?」
相馬先輩が聞きました。
「知っていることです!」
「そうだ」
たとえば。
藤野さんが大野から土地を買う際、
「この土地、実は黒田さんのものなんだけど、借金から隠すために僕の名義にしてあるんです」
と説明されていた。
それを知ったうえで買ったとしたら。
「……悪意ですね」
「ああ」
「その場合、九十四条二項の保護は受けられません」
「そうだ」
私は頷きました。
でも。
まだ疑問があります。
「じゃあ、ちょっと怪しいと思っていたけど、調べなかった人は?」
相馬先輩が、新聞を置きました。
「おっ」
「何ですか」
「いいところに来たな」
私は鉛筆を構えました。
「それが、善意と無過失の違いだ」
なるほど。
善意。
知らないこと。
無過失。
知らなかったことに不注意がないこと。
「つまり、善意でも過失がある場合って、あるんですね」
「ある」
「でも九十四条二項には、無過失という言葉がありません」
「そうだ」
「だから、原則として、善意であれば足りる!」
相馬先輩が頷きました。
「判例も、その立場だ」
私は感動しました。
ここ、試験で間違えやすいところです。
民法には、善意だけで保護される制度もあれば、善意無過失が必要な制度もあります。
全部同じだと思うと。
見事に引っかかります。
「先輩」
「何だ」
「これ、試験問題を作る人が大好きそうですね」
「何で分かる」
「受験生が間違えそうだからです!」
「嫌な見方だな」
私は笑いました。
そして、ノートに書きました。
――九十四条二項の第三者は、善意であればよく、原則として無過失までは不要。
「ただし、善意か悪意かは、具体的な事情から判断されるんですよね」
「ああ」
藤野さんの事件では。
売買広告。
売買契約書。
代金の支払い。
登記の経緯。
そうした資料を確認しました。
なぜなら。
「知らなかった」
と口で言うだけでは、争いになったときに困るからです。
「法律の要件と、証拠集めは別なんですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「そうだ」
「善意無過失まで必要ないからといって、事実確認を省いていいわけではない」
「はい」
「実際の紛争では、相手が何を知っていたかが争われる」
私はノートに書きました。
――条文で守られることと、裁判でその事実を認めてもらうことは、同じではない。
なるほど。
昭和の実務。
ここが、一番難しいところなのかもしれません。
「次に、登記です!」
私は勢いよくページをめくりました。
相馬先輩が顔をしかめます。
「また登記か」
「だって、不動産ですから!」
「そうだな」
「しかも、第三者です!」
「それもそうだ」
「だったら、民法百七十七条が気になります!」
相馬先輩は笑いました。
「じゃあ、言ってみろ」
私は深呼吸しました。
民法百七十七条。
不動産に関する物権の変動は、登記をしなければ第三者に対抗することができない。
不動産取引では、非常に重要な条文です。
「でも!」
私は言いました。
「九十四条二項の第三者として保護されるためには、登記は必要ありません!」
「そうだ」
私はノートに大きく書きました。
――九十四条二項の善意の第三者は、登記がなくても保護される。
「どうしてですか?」
相馬先輩が聞きました。
「うっ」
……。
出ました。
理由を聞かれると、急に難しくなる問題。
「えっと……」
私は考えました。
黒田と大野。
嘘の売買。
その無効を主張する黒田。
大野から買った善意の藤野。
「……そもそも、黒田さんと藤野さんは、普通の二重譲渡の関係とは違うからですか?」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
通常の二重譲渡なら。
同じ土地を、AがBとCの二人に売った。
BとCのどちらが優先するか。
登記が重要になります。
でも、九十四条二項は違います。
A自身が、Bを権利者であるかのように見せかけた。
Cが、その外観を信頼して権利を取得した。
その場合に、Aが虚偽表示の無効を主張できるか。
それを決める規定です。
「だから、九十四条二項で保護される第三者については、登記まで要求しないんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
ただし。
これは、登記がいつでも不要という意味ではありません。
別の第三者との優劣など、異なる法律関係では、民法百七十七条の問題が生じることもあります。
「所長」
「何だ」
「同じ不動産でも、どの法律関係を問題にしているかで、登記の意味が変わるんですね」
「そうだ」
「九十四条二項と百七十七条を、ごちゃごちゃにしない」
「それが大事だ」
私は大きく丸をつけました。
よし。
これも覚えました。
「さて」
相馬先輩が立ち上がりました。
「こはる」
「はい!」
「ここからが、本当に面倒なところだ」
「えっ」
「九十四条二項の『第三者』だ」
私は鉛筆を握り直しました。
第三者。
普通に考えれば、契約当事者以外の人。
でも。
民法九十四条二項では、そんな単純な話ではありません。
「定義を言ってみろ」
先輩が言いました。
「はい!」
私はノートを見ました。
――虚偽表示の当事者またはその一般承継人以外の者であって、その表示の目的について新たに法律上の利害関係を有するに至った者。
「……長い!」
思わず叫びました。
「文句を言うな」
「だって、一回聞いただけじゃ分かりません!」
「じゃあ、分解しろ」
「分解?」
相馬先輩は、紙に三つの言葉を書きました。
当事者ではない。
新しく。
法律上の利害関係を得た。
「この三つを見ろ」
「はい」
「ただの他人じゃ駄目だ」
「はい」
「その嘘の表示を前提に、目的物について新しい法律上の利害関係を得た者だ」
私は頷きました。
なるほど。
今回の藤野さん。
黒田と大野の仮装売買には関与していない。
そのあと、大野から土地を買った。
土地の所有権を取得する立場になった。
「だから第三者なんですね!」
「そうだ」
では。
どんな人が第三者になるのでしょうか。
「先輩!」
「何だ」
「具体例でいきましょう!」
「そう来ると思ったよ」
私は新しいページを開きました。
「第一問!」
私は鉛筆を掲げました。
「AとBがグルになって土地を売ったふりをしました!」
「うん」
「そのあと、BがCに土地を売りました!」
「うん」
「Cは、仮装売買だと知りません!」
相馬先輩が言いました。
「第三者に当たる」
「正解!」
「お前が問題を出してるんだろ」
「気にしないでください!」
これは、藤野さんの事件そのものです。
仮装譲受人Bから、不動産を買ったC。
典型的な九十四条二項の第三者です。
「第二問!」
私は続けました。
「BがCに土地を売るのではなく、Cのために抵当権を設定しました!」
相馬先輩が頷きました。
「これも第三者だ」
「はい!」
抵当権。
借金の担保として、不動産に設定する権利です。
Bが所有者であるという外観を信頼して、Cが土地に抵当権を取得した。
その場合。
Cは、仮装売買の目的物について、新しく法律上の利害関係を得ています。
「だから、善意なら保護されるんですね」
「そうだ」
「第三問!」
私は勢いづきました。
「Bにお金を貸しているCが、B名義の土地を差し押さえました!」
「どう思う?」
先輩が聞きました。
私は考えました。
お金を貸しただけ。
それなら単なる一般債権者。
でも。
今回は差押えをしています。
土地について、強制執行上の具体的な法律上の利害関係が生じています。
「……第三者に当たります!」
「正解だ」
私は嬉しくなりました。
「つまり、差押債権者は、九十四条二項の第三者になり得るんですね!」
「そうだ」
ここ、大事です。
単なる一般債権者。
差押債権者。
同じ債権者でも、法律上の立場が違います。
「第四問!」
私は続けました。
「AとBが、存在しない貸金債権を作り出しました!」
「ほう」
「Bが、その仮装債権をCに譲渡しました!」
「うん」
「Cは善意です!」
相馬先輩が頷きました。
「Cは第三者に当たり得る」
「はい!」
土地だけではありません。
債権についても、通謀虚偽表示は問題になります。
たとえば。
本当は借金などない。
でも、AとBが相談して、
「AはBに百万円を借りている」
という嘘の借用証書を作った。
そのあと。
Bが、その債権をCへ譲渡した。
Cは、債権が仮装されたものだと知らなかった。
この場合も、Cは仮装債権について新たな法律上の利害関係を取得した者として、九十四条二項の保護が問題になります。
「なるほど……」
私は頷きました。
通謀虚偽表示。
土地の売買だけの話ではありません。
所有権。
抵当権。
債権。
いろいろな法律関係で、同じ考え方が使われるのです。
「さて」
相馬先輩が、にやりとしました。
「次は、第三者に当たらない例だ」
「来ましたね!」
私は鉛筆を握り直しました。
「第一問!」
先輩が言いました。
「Bに金を貸しているC。ただし、土地の差押えはしていない」
「はい!」
「Bは、Aから土地を買ったことになっている。もちろん仮装売買だ」
「はい」
「Cは第三者か?」
私は即答しました。
「当たりません!」
「理由は?」
「単なる一般債権者だからです!」
Bにお金を貸している。
それだけでは、B名義の特定の土地について、新しい法律上の権利を取得したことにはなりません。
Bの財産が増えれば、返済を受けやすくなる。
それは事実です。
でも。
単に返済を期待できるというだけでは、九十四条二項の第三者には当たりません。
「じゃあ、何が変われば第三者になり得る?」
「その土地を差し押さえた場合です!」
「正解」
私はノートに書きました。
――一般債権者は原則として第三者ではない。
――差押債権者は第三者に当たり得る。
「これ、絶対に間違えたくないです!」
「試験に出そうだな」
「はい!」
相馬先輩が続けました。
「第二問」
「どうぞ!」
「Aの土地に、第一順位と第二順位の抵当権が設定されている」
「はい」
「第一順位の抵当権者が、抵当権を放棄したふりをした」
「……はい?」
私は首をかしげました。
「すると、第二順位の抵当権者が言った」
相馬先輩は声を低くしました。
「第一順位が消えたんだから、俺が一番だ!」
「……なるほど」
「この第二順位抵当権者は、九十四条二項の第三者に当たるか?」
私は考えました。
順位が上がる。
有利になる。
でも。
新しく抵当権を取得したわけではない。
もともと第二順位の抵当権を持っていた。
仮装放棄によって、順位が上昇したと主張しているだけ。
「……当たらない!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
「新しく法律上の利害関係を取得したわけではないからですね!」
「その理解でいい」
なるほど。
ここは少し難しいです。
第三者。
単に利益を受ける人、という意味ではありません。
虚偽表示を前提として、新たな法律上の利害関係を取得したかどうか。
そこを見る。
「第三問」
先輩が続けました。
「土地を借りている人が、借地上に自分の建物を持っていた」
「はい」
「その建物を、友人に売ったふりをした」
「はい」
「それを知った土地の所有者が、『その建物はもう借地人のものじゃないんだから』と主張した」
私は考えました。
土地の所有者。
建物の仮装譲渡には参加していない。
だから、当事者以外の人ではあります。
でも。
建物を譲り受けたわけではありません。
建物に新しい担保権を取得したわけでもありません。
仮装譲渡によって、建物について直接の新しい法律上の利害関係を得たわけではない。
「……九十四条二項の第三者には当たりません!」
「正解だ」
私は頷きました。
ただの第三者。
法律上保護される第三者。
この二つは違うのです。
「第四問」
相馬先輩が言いました。
「AがBに土地を売ったふりをした」
「はい」
「Bが、その土地に建物を建てた」
「はい」
「そして、その建物をCに貸した」
私は首をかしげました。
「Cは建物の賃借人ですね」
「そうだ」
「じゃあ、Cは土地の仮装売買について、九十四条二項の第三者に当たるか?」
私は考えました。
Cは建物を借りています。
土地について、直接所有権を取得したわけではありません。
土地に抵当権を設定してもらったわけでもありません。
土地を差し押さえたわけでもありません。
「……当たりません!」
「そのとおり」
私は大きく息を吐きました。
「難しい!」
相馬先輩が笑いました。
「だろ」
「でも、分かってきました」
「ほう」
「第三者という言葉に飛びついちゃ駄目なんですね」
「そうだ」
「その人が、嘘の表示の目的について、新しくどんな法律上の利害関係を得たのか」
「うん」
「そこを見る!」
私はノートに赤線を引きました。
――第三者かどうかは、単に当事者以外かではなく、目的物について新たな法律上の利害関係を得たかで判断する。
「所長!」
私は奥に声をかけました。
「何だ」
「一つ、気になることがあります!」
「言ってみろ」
「第三者は、どの時点で善意ならいいんですか?」
片桐所長が顔を上げました。
「ほう」
珍しく、少しだけ興味を示しました。
「例えば、藤野さんが大野さんから土地を買ったときは、嘘の売買だと知らなかった」
「うん」
「でも、そのあと、黒田さんから手紙が届いて、初めて仮装売買だと知った」
「そうだな」
「この場合、あとから悪意になったから、保護されなくなるんですか?」
相馬先輩が笑いました。
「それじゃ、昨日の事件は全部ひっくり返っちまうな」
「あっ!」
確かに。
黒田が、
「最初の売買は嘘だった!」
と伝えた瞬間に藤野さんが悪意になるなら。
誰でも、あとから真相を知らせるだけで、善意の第三者を保護する制度を無意味にできてしまいます。
「重要なのは、原則として、第三者が法律上の利害関係を取得した時点で善意だったかどうかだ」
所長が言いました。
「なるほど!」
私は書きました。
――善意・悪意の判断時期は、原則として第三者が新たな法律上の利害関係を取得した時点。
「つまり、藤野さんは土地を買ったとき、仮装売買だと知らなかった」
「そうだ」
「そのあと黒田さんから真相を知らされても、すでに成立した九十四条二項の保護を失うわけではない!」
「そのとおり」
私は胸を撫で下ろしました。
「よかった……」
「何がだ」
「藤野さんが守られた理由が、また一つ分かりました」
所長が頷きました。
「事実を時系列で見ることも大切だ」
なるほど。
民法は、誰が知っていたかだけではありません。
いつ知ったのか。
そこも重要なのです。
「ところで」
私はノートをめくりました。
「九十四条二項って、もう一つ有名な論点がありますよね」
相馬先輩が顔を上げました。
「何だ」
「類推適用です!」
「……ほう」
先輩が腕を組みました。
「そこまで行くか」
「はい!」
私は少し得意になりました。
現代の行政書士試験では、非常に重要な論点です。
たとえば。
本当の所有者Aがいる。
Bが、勝手に登記を自分名義にしてしまった。
AとBは、グルではありません。
つまり。
通謀していません。
「じゃあ、九十四条一項の通謀虚偽表示ではありませんね」
「そうだ」
「でも、AがB名義の登記を知りながら長期間放置していたとしたら?」
相馬先輩が頷きました。
「事情によっては、九十四条二項の類推適用が問題になる」
私は鉛筆を握りました。
類推適用。
条文が直接定めている場合ではない。
でも、その条文と共通する理由がある場合に、同じ考え方を及ぼすことです。
「今回の黒田さんは、自分で嘘の外観を作りました」
「ああ」
「だから九十四条二項が直接適用されます」
「そうだ」
「でも、本人が通謀していなくても、自分に帰責性のある虚偽の権利外観が存在し、それを第三者が信頼した場合には?」
「類推適用が検討される」
所長が静かに言いました。
「ただし、こはる」
「はい」
「本人が単に登記を知らなかった場合と、虚偽の登記を承認したり、自ら作出に関与した場合とでは違う」
「はい」
「帰責性の程度を見ずに、何でも第三者を保護するわけではない」
私は頷きました。
なるほど。
ここでも重要なのは、外観を信頼した人と、その外観を作った、あるいは放置した本人との利益衡量です。
「それに、先輩」
「何だ」
「類推適用の類型によっては、善意だけでなく無過失まで問題になりますよね」
「ああ」
「だから、直接適用の『善意で足りる』という結論を、すべての類推適用事例にそのまま広げちゃ駄目なんですね」
「そういうことだ」
私はノートに赤線を引きました。
――通謀虚偽表示がある場合は九十四条二項の直接適用。
――通謀がなくても、本人に帰責性のある虚偽の外観が存在する場合には、九十四条二項の類推適用が問題になる。
――類推適用では、事案により第三者の善意・無過失が問題となる。
よし。
ここは覚えておきたいところです。
そして。
私は、ふと気づきました。
「所長」
「何だ」
「昭和六十三年にも、九十四条二項の類推適用ってあるんですよね?」
「判例法理として認められている」
「ですよね!」
つまり。
これも、未来の民法だけの話ではありません。
古くから積み重ねられてきた判例の考え方です。
「民法って、条文が同じでも、判例で具体的な適用範囲が広がっていくんですね」
所長が頷きました。
「条文だけ読んで終わるな、ということだ」
「はい!」
時計の針は、午後六時を回っていました。
窓の外には、夕暮れの町。
遠くから、自転車のベルが聞こえます。
私はノートを見返しました。
通謀虚偽表示。
民法九十四条一項。
当事者間では無効。
民法九十四条二項。
善意の第三者には無効を対抗できない。
そして、第三者の範囲。
善意と無過失。
登記の要否。
類推適用。
……。
「先輩」
「何だ」
「多すぎません?」
「何が」
「九十四条だけで、こんなに覚えることがあるんですよ!」
相馬先輩が笑いました。
「民法なんて、そんなもんだ」
「うう……」
私は机に突っ伏しました。
でも。
少し考えると、不思議でした。
最初は難しかったことが。
藤野さんの事件を思い出すと、急に理解できるのです。
黒田と大野。
二人で嘘をついた。
だから当事者間では無効。
藤野さん。
嘘を知らずに土地を買った。
だから善意の第三者。
黒田は、自分たちの嘘を理由に土地を取り返せない。
そして。
もし、藤野さんが最初から嘘を知っていたら、保護されない。
ただの一般債権者なら、九十四条二項の第三者ではない。
土地を差し押さえた債権者なら、第三者に当たり得る。
「……あれ?」
私は顔を上げました。
「どうした」
相馬先輩が聞きました。
「先輩、もしかして……」
「何だ」
「具体的な事件で覚えると、条文って忘れにくいんじゃないですか?」
相馬先輩は、少し呆れた顔をしました。
「今さらかよ」
「えっ」
「お前、それを勉強してたんじゃねえのか?」
「……!」
そうでした。
私は笑いました。
現代の行政書士受験生だった頃。
私は、何度も同じ問題を間違えました。
善意。
悪意。
第三者。
登記。
丸暗記して。
忘れて。
また覚えて。
でも。
今回は違います。
藤野さんが、泣きそうな顔で事務所に来たこと。
黒田が、自信満々で嘘の売買契約書を見せてきたこと。
内容証明を読んで、弁護士に相談した黒田が態度を変えたこと。
そして。
花屋を開けると喜んでいた、藤野さんの笑顔。
その一つ一つが。
九十四条の意味を、私の頭の中に刻み込んでいました。
「よし」
私は、ノートの最後のページを開きました。
「仕上げの確認問題です!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「またか」
「最後です!」
「本当だな?」
「たぶん!」
「信用できねえな……」
私は鉛筆を掲げました。
「第一問!」
「おう」
「AとBがグルになって、土地を売ったふりをしました。この売買は?」
「無効だ」
「正解!」
「第二問!」
「おう」
「Bが善意のCに土地を売りました。AはCに対して、最初の売買の無効を主張できますか?」
「できねえ」
「正解!」
「第三問!」
「おう」
「Cには、善意のほかに無過失も必要ですか?」
「九十四条二項の直接適用なら、原則として要らねえ」
「正解!」
「第四問!」
「まだあるのか」
「Cが保護されるために、登記は必要ですか?」
「九十四条二項の保護要件としては不要だ」
「正解!」
「第五問!」
「……おう」
「Bにお金を貸しているだけの一般債権者は、第三者ですか?」
「違う」
「第六問!」
「おい!」
「B名義の土地を差し押さえた債権者は?」
「第三者に当たり得る!」
「第七問!」
「まだ続くのかよ!」
「Bから抵当権の設定を受けた人は?」
「第三者だ!」
「第八問!」
「いい加減にしろ!」
「善意の第三者が、権利取得後に仮装売買を知ったら、保護を失いますか?」
「原則として失わねえ!」
「正解!」
私は満足して、鉛筆を置きました。
「完璧です!」
相馬先輩が深いため息をつきました。
「……疲れた」
「お疲れさまでした!」
「お前が言うな!」
そのとき。
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい!」
「最後に、一つ答えろ」
「はい!」
「どうして九十四条二項は、善意の第三者を守るんだ?」
私は少し考えました。
条文の文字ではありません。
試験の答えでもありません。
私が、あの事件で見たもの。
それを思い出しました。
「……嘘の外観を作った人が、その嘘を信じた人にまで不利益を押しつけるのは、公平ではないからです」
所長が頷きました。
「そうだ」
「それに、そんなことが許されたら、安心して取引できなくなります」
「うん」
「だから、民法は、嘘の外観を作った人より、それを知らずに信頼して取引した人を保護するんです」
所長が、小さく笑いました。
「それでいい」
私は胸が熱くなりました。
よし。
今日の勉強。
これで完成です。
私は、最後の一行を書きました。
――通謀虚偽表示は当事者間で無効。ただし、善意で新たな権利関係に入った第三者には、その無効を対抗できない。
そして、その下に小さく付け足しました。
――善意で足りる。登記は保護要件ではない。第三者の範囲に注意。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「普通だ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
今日の一行は、忘れません。
黒田さん。
嘘の売買をした。
大野さん。
その嘘に乗った。
藤野さん。
何も知らずに土地を買った。
民法九十四条。
嘘をついた二人の間では、契約は無効。
でも。
嘘を知らずに、新しく法律上の利害関係を得た人には、その無効を押しつけられない。
だから。
藤野さんの土地は守られた。
それが、法律の答えです。
「ところで」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日、藤野さんから葉書が届いたぞ」
「えっ!」
私は顔を上げました。
先輩が机から一枚の葉書を取り出しました。
そこには、手書きの文字。
――花屋の工事が始まりました。
――来年の春には、小さなお店を開けそうです。
――お店の名前は「花の澄」に決めました。
――開店したら、ぜひ来てください。
私は、思わず笑いました。
「先輩!」
「何だ」
「絶対に行きましょう!」
「暇があればな」
「冷たい!」
「仕事があるだろ」
「でも、花屋さんですよ!」
「分かってるよ」
私は葉書を胸に当てました。
民法九十四条。
難しい条文です。
覚えることも多い。
善意。
第三者。
登記。
類推適用。
判例。
でも。
その条文が守ったものは、決して難しいものではありません。
二十年の貯金。
夫婦の夢。
亡くなった母親との約束。
そして。
春になれば咲くはずの、たくさんの花。
法律の勉強は、まだまだ続きます。
でも。
私は、少しずつ分かってきました。
条文を覚えることは、大切です。
判例を覚えることも、大切です。
だけど。
その条文が、誰を守るためにあるのか。
そこまで理解できたとき。
法律は、ただの暗記科目ではなくなるのです。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノートをしまえ!」
「はい!」
「それから、机を片付けろ!」
「……また掃除ですか?」
「当たり前だ!」
私は、少し考えました。
「先輩」
「何だ」
「もし私が、掃除をしたふりをしたら?」
「は?」
「そして先輩も、掃除が終わったふりをしてくれたら?」
相馬先輩が、ゆっくりこちらを見ました。
「……お前、何を言ってる」
「二人でグルになって、掃除をしたという虚偽表示を……」
「するな!」
「ですよね!」
私は笑いました。
「でも先輩!」
「今度は何だ!」
「それって、通謀虚偽表示ですか?」
相馬先輩は、しばらく黙りました。
そして。
「……ただの嘘だ」
「えっ」
「掃除したふりをしただけじゃ、法律行為の虚偽表示とは限らねえだろ!」
「……!」
私は固まりました。
そうでした。
通謀虚偽表示。
ただ二人で嘘をつけば成立するものではありません。
法律上の効果を発生させる意思表示を、相手と示し合わせて偽ること。
そこが必要なのです。
「……最後の最後で、間違えました」
私は肩を落としました。
相馬先輩が笑いました。
「まだまだだな」
「うう……」
「ほら、掃除しろ」
「はい……」
私は箒を手に取りました。
窓の外。
夕暮れの町に、明かりが灯っていきます。
あの川沿いの土地では、きっと今日も工事が進んでいるのでしょう。
やがて。
小さな花屋が建ちます。
その店先に並ぶ花を、私はいつか見に行きたいと思いました。
民法九十四条。
通謀虚偽表示。
難しい名前です。
でも。
私は、もう忘れません。
だって。
嘘の契約は無効。でも、その嘘を知らずに信じた人の夢まで、無効にしてはいけない。
それが。
今日、私が学んだ民法なのです。
「こはる!」
「はい!」
「さっきから、同じところばかり掃いてるぞ!」
「あっ!」
「ちゃんと掃除しろ!」
「はいっ!」
……。
ちなみに。
掃除をした虚偽をしても。
床の埃の表示は、まったく消えません。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




