[民法・虚偽表示]現場編 「売ったふりだから返せ」の罠。嘘の登記で財産を隠した男が、善意の第三者に土地を奪われるまで
嘘は、ついた本人のところに戻ってくるとは限りません。
ときには。
その嘘を信じた人の人生まで、巻き込んでしまいます。
そして、もっと恐ろしいことに。
嘘をついた本人が、あとから、
「全部嘘だったんだから、なかったことにしろ!」
と叫んでも。
法律が、それを許さないことがあるのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は一つの奇妙な相談を受けました。
土地を買った。
代金も払った。
登記も済ませた。
なのに。
突然、知らない男が現れて、
「その土地は俺のものだ!」
と言い出したというのです。
理由は、さらに奇妙でした。
「俺は、最初から土地を売ってなんかいない」
……。
いや。
売ったんですよね?
「売ったふりをしただけだ!」
……。
はい?
私は思いました。
民法って。
やっぱり、とんでもない世界です。
「私たち、騙されたんでしょうか……」
朝九時。
事務所に現れた女性は、そう言って一枚の登記済権利証を机に置きました。
名前は、藤野澄江さん。
四十三歳。
隣には、ご主人の孝一さん。
四十七歳。
二人とも、顔色がよくありません。
「まず、落ち着いてお話しください」
片桐所長が静かに言いました。
澄江さんは、小さく頷きました。
「主人と二人で、小さな土地を買ったんです」
「どちらの土地ですか」
「駅から少し離れた、川沿いの土地です。八十坪ほどあります」
私は相談票を開きました。
八十坪。
そこそこの広さです。
「何に使う予定だったんですか?」
「花屋を開こうと思って……」
澄江さんが、少しだけ笑いました。
「私、ずっと花屋で働いていたんです。いつか、自分のお店を持ちたくて」
そう言って、膝の上の古い手帳を撫でました。
中には、鉛筆で描いた店の見取り図。
小さな店。
ガラス張りの入口。
軒先に並ぶ鉢植え。
奥には、作業台。
「主人が、退職金の前借りと貯金を合わせてくれまして」
孝一さんが照れくさそうに言いました。
「たいした金じゃありませんよ。二人で二十年、こつこつ貯めただけです」
「それで、土地を?」
「はい。売主さんから、六百万円で買いました」
「売主のお名前は?」
「大野修一さんという方です」
私は書き込みました。
大野修一。
土地の売主。
「登記も確認しました。司法書士の先生にお願いして、所有権移転登記も済ませています」
「では、現在の登記名義は?」
「私です」
澄江さんが答えました。
ここまでは、普通の売買です。
売買契約書。
代金の支払い。
所有権移転登記。
何もおかしくありません。
ところが。
「昨日、別の男性が家に来たんです」
澄江さんの声が震えました。
「その人が……」
差し出された封筒。
私は中の手紙を取り出しました。
差出人。
黒田栄一。
五十二歳。
地元で運送会社を経営する男性。
文面には、こう書かれていました。
――貴殿が取得したと称する土地は、本来、私の所有地である。
――大野修一への売買は、債権者対策のため形式上行った仮装売買にすぎない。
――したがって、同売買契約は無効であり、大野修一には所有権が移転していない。
――所有権を有しない大野修一から土地を買い受けた貴殿も、所有権を取得していない。
――速やかに所有権移転登記を抹消し、土地を返還されたい。
……。
私は読み終わって、顔を上げました。
「仮装売買?」
「はい」
「黒田さんと、大野さんは?」
「親戚だそうです」
孝一さんが答えました。
「大野さんが、黒田さんの甥に当たるそうで」
なるほど。
叔父と甥。
私はもう一度、手紙を見ました。
債権者対策。
形式上の売買。
仮装売買。
そして。
その文字が目に入った瞬間。
頭の中で、民法の条文が光りました。
――民法九十四条。
通謀虚偽表示。
「あっ!」
私は思わず立ち上がりました。
「分かりました!」
澄江さんが顔を上げます。
「本当ですか?」
「はい!」
これは、行政書士試験で何度も解いた問題です。
AとBがグルになって、嘘の売買契約をする。
でも、その売買は本当の意思に基づかない。
だから。
民法九十四条一項。
相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効。
「つまり!」
私は勢いよく言いました。
「黒田さんと大野さんの売買契約は、無効です!」
……。
澄江さんの顔が青くなりました。
「じゃ、じゃあ……」
「あっ」
しまった。
私は口を押さえました。
そうです。
無効。
その一言だけなら。
このご夫婦は、土地を失うことになります。
でも。
民法九十四条には、続きがある。
私は六法を開きました。
「大丈夫です!」
そして、次の言葉を口にしました。
「その無効は、善意の第三者には対抗できません!」
澄江さんが瞬きをしました。
「ぜんい……?」
「善意です!」
「私たちは、悪いことなんかしていません!」
「そういう善意じゃありません!」
私は慌てて説明しかけました。
すると。
「こはる」
相馬先輩の声が飛んできました。
「はい!」
「落ち着け」
「はい!」
「それと、お前」
「何ですか?」
「今、『善意無過失の第三者』って言いかけただろ」
「……!」
ぎくっ。
実は。
現代の民法を勉強していた私は、第三者保護の話になると、つい「善意無過失」という言葉を思い浮かべてしまうのです。
「九十四条二項は、どうなってる」
先輩が六法を指差しました。
「善意の第三者に対抗できない、です」
「無過失って書いてあるか?」
「ありません」
「じゃあ、勝手に足すな」
「はい……」
私は赤くなりました。
善意。
無過失。
似ているようで、全然違います。
善意とは、法律上、ある事実を知らないこと。
無過失とは、知らなかったことに不注意がないこと。
九十四条二項では、原則として、第三者に無過失までは要求されない。
重要なのは。
その人が、嘘の売買だったと知らなかったかどうか。
そして、法律上保護される第三者に当たるかどうか。
「藤野さん」
片桐所長が言いました。
「大野さんから土地を買ったとき、黒田さんとの売買が仮装だったと知っていましたか」
「いいえ!」
澄江さんが首を振ります。
「そんな話、初めて聞きました!」
「大野さんと黒田さんが、裏で話を合わせていたことも?」
「まったく知りません!」
「では、大野さんから買った経緯を、最初から確認しましょう」
所長は、机の上に白い紙を置きました。
そこへ、三つの名前を書きます。
黒田栄一。
大野修一。
藤野澄江。
そして。
二本の矢印。
黒田から大野へ。
大野から藤野へ。
「最初の矢印が、嘘だった」
所長が言いました。
「はい」
「二本目は?」
「本当の売買です」
私は答えました。
所長が頷きます。
「そこだ」
……。
なるほど。
今回、守られるべきなのは。
最初の嘘をついた二人ではありません。
その嘘を知らずに、次の売買をした人。
藤野さんなのです。
その日の午後。
私は相馬先輩と一緒に、問題の土地を見に行きました。
川沿いの道。
少し古い住宅地。
向こうには、低い山。
土地には、まだ建物がありません。
雑草が少し伸びていますが、きれいな長方形です。
「いい場所ですね」
私が言うと、澄江さんが頷きました。
「ここに、小さな温室も作るつもりだったんです」
澄江さんは土地の奥を指差しました。
「母が好きだったカーネーションを育てたくて」
「お母さんが?」
「はい。去年、亡くなりました」
私は黙りました。
「母は、私が花屋を開くのを、ずっと楽しみにしてくれていて……」
風が吹きました。
草が揺れます。
「だから、この土地だけは……」
澄江さんは、そこで言葉を止めました。
私は胸が痛くなりました。
六百万円。
二十年の貯金。
母親との約束。
それを。
知らない男が、
「最初の売買は嘘だった」
という理由で、取り上げようとしている。
……冗談じゃありません。
「こはる」
相馬先輩が呼びました。
「はい」
「感情を先に立てるな」
「でも!」
「気持ちは分かる」
先輩は土地を見渡しました。
「だから、事実を拾え」
「……はい」
「藤野さんが本当に知らなかったなら、その事実を裏づけるものを集めるんだ」
私は頷きました。
契約書。
重要事項の説明を受けた際の記録。
売買代金の領収書。
登記簿の写し。
不動産業者の広告。
そして。
いつ、誰から、どのような説明を受けたのか。
「先輩、これって……」
「何だ」
「善意の証明ですか?」
「ああ」
「でも、知らなかったことを証明するって、難しくありません?」
先輩が笑いました。
「いいところに気づいたな」
「え?」
「人間は、知ってることなら説明できる」
「はい」
「だが、知らなかったことをどう説明する?」
「……難しいです」
「だから、取引の経緯を全部並べる」
先輩は手帳を開きました。
「広告を見た日。売主と会った日。登記を確認した日。契約した日。代金を払った日」
「はい」
「それまでに、仮装売買だと疑わせる話が出ていたか」
「……出ていません」
「じゃあ、その経過を記録する」
なるほど。
知らなかった。
その一言だけでは、相手は納得しません。
だからこそ。
知らないまま、普通に売買契約をした経緯を、客観的な資料で示すのです。
「ところで先輩」
「何だ」
「登記が済んでいることも、第三者として保護される条件なんですか?」
「違う」
「えっ」
先輩は即答しました。
「九十四条二項の第三者保護について、判例は登記まで要求してねえ」
「そうでした!」
私は額を押さえました。
不動産。
所有権。
第三者。
この三つが揃うと、私は反射的に民法百七十七条の登記対抗要件を思い出してしまいます。
でも。
今回の中心は九十四条二項。
嘘の外観を作り出した人が、その外観を信頼して新たな法律上の利害関係を持った善意の第三者に、無効を主張できるのか。
それが問題です。
「登記があるのは事実として大事だ。だが、九十四条二項で保護されるための必須条件と混同するな」
「はい!」
「お前、何でもかんでも登記に結びつけるなよ」
「不動産の問題を見ると、つい……」
「試験の悪い癖だ」
……返す言葉もありません。
翌日。
事務所に一人の男が現れました。
「ここが片桐行政書士事務所か」
低い声。
大柄な体。
紺色の背広。
金の腕時計。
男は名刺を机に放り投げました。
――黒田運送株式会社 代表取締役 黒田栄一。
例の人物です。
「藤野とかいう女が、ここに相談したそうだな」
黒田は椅子に腰掛けました。
……いや。
座ってくださいとも言ってませんけど。
「片桐さんよ」
男は机を指で叩きました。
「俺の土地を返すように、あの女に言ってくれ」
片桐所長は表情を変えません。
「当事務所は、相手方の代理人として交渉する立場にはありません」
「何?」
「ご自身の権利については、弁護士に相談されるのが適切でしょう」
黒田は鼻で笑いました。
「行政書士ってのは、ずいぶん役に立たねえんだな」
……。
私は、むっとしました。
でも。
片桐所長は動じません。
「ご用件は、それだけですか」
「いや。あの女に見せたいものがある」
黒田は鞄から書類を取り出しました。
売買契約書。
黒田栄一から大野修一へ。
売買代金。
五百万円。
ただし。
別紙がありました。
私は、その文字を読んで凍りつきました。
――確認書。
――本件土地の売買契約は、債権者による差押えを免れる目的で形式上締結するものである。
――売買代金の授受は行わない。
――実質的な所有権は、引き続き黒田栄一に帰属するものとする。
署名。
黒田栄一。
大野修一。
双方の印鑑。
「どうだ!」
黒田が得意げに言いました。
「これが証拠だ!」
私は目を見開きました。
……。
あります。
完全な証拠が。
通謀虚偽表示の証拠が。
「俺と甥は、最初から土地を売買するつもりなんかなかったんだよ!」
黒田は笑いました。
「だから、あの女の登記も無効なんだ!」
私は思わず言いました。
「黒田さん」
「何だ」
「どうして、そんな売買をしたんですか?」
「決まってるだろ」
黒田は不機嫌そうに答えました。
「会社がちょっと苦しくなってな。金を貸してる連中がうるさかったんだよ」
「それで?」
「差押えでもされたら面倒だろ。だから、いったん甥の名義にした」
……。
私は絶句しました。
つまり。
債権者から財産を隠すために。
嘘の売買をした。
しかも、登記まで移した。
ところが。
甥が本当に第三者へ土地を売ってしまった。
だから今度は、
「売ったふりだった!」
と主張している。
……。
どこから突っ込めばいいのでしょう。
「大野さんが藤野さんに売ったことは?」
「勝手にやったんだよ!」
黒田が机を叩きました。
「甥の馬鹿野郎が、俺に黙って六百万円で売りやがった!」
「大野さんは、今どちらに?」
「知らねえ! 金を持って逃げた!」
……なるほど。
だから藤野さんを狙っている。
逃げた甥から金を取り返すより、今そこにある土地を奪い返した方が早い。
そう考えたのでしょう。
「とにかく!」
黒田は、確認書を指差しました。
「俺と甥の売買は無効だ! 民法にそう書いてあるんだろ!」
私は頷きました。
「はい」
「ほら見ろ!」
「民法九十四条一項です」
「そうだ!」
黒田は勝ち誇りました。
「最初から無効なら、そのあとの売買も全部無効だろ!」
私は、ゆっくり息を吸いました。
「……本当に、そうでしょうか」
「何?」
そのとき。
相馬先輩が、奥から出てきました。
「黒田さん」
「あ?」
「あなた、民法九十四条の何項を読んだ?」
「何?」
「一項だけか?」
「何を言ってる」
先輩は六法を開きました。
「法律ってのはな」
低い声。
「自分に都合のいい一行だけ読んで、勝った気になるもんじゃねえ」
黒田の眉が動きました。
「どういう意味だ」
相馬先輩は、九十四条の次の項を指差しました。
「続きがあるんだよ」
黒田が覗き込みます。
そして。
その表情が、わずかに変わりました。
――前項の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。
「……何だ、これ」
黒田が呟きました。
相馬先輩は答えません。
ただ、六法を閉じました。
「今日のお話は分かりました。必要な記録は残しておきます」
「おい!」
黒田が立ち上がりました。
「どういう意味だって聞いてるんだ!」
先輩は落ち着いた声で言いました。
「ご自身の法的な立場は、弁護士に確認してください」
「ふざけるな!」
黒田は顔を真っ赤にしました。
「俺の土地だぞ!」
……。
その声は大きかった。
でも。
私は、もう怖くありませんでした。
なぜなら。
黒田は今、自分で証明してしまったからです。
嘘の売買を。
二人で相談して。
わざと行ったことを。
そして、その嘘を信じた第三者が現れたことを。
「先輩!」
黒田が帰ったあと。
私は思わず立ち上がりました。
「あの人、自分で証拠を持ってきましたよ!」
「ああ」
「しかも、完全に通謀虚偽表示じゃないですか!」
「そうだな」
「これなら勝てますよね!」
「……こはる」
「はい」
「誰に勝つんだ?」
「黒田さんに!」
「お前は弁護士か?」
「……違います」
「俺たちが訴訟をするわけじゃねえ」
「はい……」
相馬先輩は机に書類を広げました。
「俺たちがするのは、事実を整理して、依頼人本人の意思に基づく通知書を正確に作ることだ」
「はい」
「法的な争いになれば、弁護士に引き継ぐ。そのための資料も揃える」
片桐所長が頷きました。
「こはる」
「はい」
「九十四条の要件を、この事件に当てはめろ」
私は六法を開きました。
「まず、黒田さんと大野さんです」
「うん」
「二人は、実際に売買するつもりがないのに、売買したように装いました」
「そうだ」
「しかも、そのことを二人とも知っていた」
「うん」
「だから、通謀虚偽表示です」
私は続けました。
「民法九十四条一項により、二人の間では売買が無効になります」
「その次は?」
「大野さんから土地を買った藤野さんです」
「うん」
「藤野さんは、最初の売買が嘘だったことを知りませんでした」
「それだけか?」
「……あっ」
私は資料を見ました。
藤野さんは、大野さんから土地を買っていました。
単に大野さんへお金を貸しているだけではありません。
問題の土地そのものについて。
新しく所有権を取得する立場に入った。
「所長!」
「何だ」
「藤野さんは、九十四条二項の第三者に当たります!」
「なぜだ」
「虚偽表示の当事者ではなく、その土地について新たに法律上の利害関係を取得したからです!」
所長が頷きました。
「そうだ」
私は胸が熱くなりました。
ここです。
試験では、単なる暗記でした。
第三者。
善意。
無効を対抗できない。
でも今は違います。
それぞれの言葉が、藤野さんの土地を守るための鍵になっている。
「ただし」
所長が言いました。
「黒田が確認書を持ってきたからといって、こちらの証拠整理を省くな」
「はい」
「藤野さんが何を知っていたのか。どのような取引で権利を取得したのか。資料を突き合わせる」
「分かりました!」
「それから、確認書を見せられた日時と内容も記録しておけ」
相馬先輩が言いました。
「相手が自分で『嘘の売買だ』と認めたことは大きい。だが、今後否認するかもしれん」
なるほど。
認めた。
だから終わり。
ではありません。
あとから言い逃れできないように。
いつ。
どこで。
誰が。
何を示したか。
そこまで残す。
昭和の行政書士。
書類の世界は、想像以上に泥臭いのです。
翌朝。
私の机には、内容証明郵便の原案が置かれていました。
宛先。
黒田栄一。
差出人。
藤野澄江。
私は、鉛筆を握りました。
「よし……!」
今度こそ。
間違えません。
まず。
第一項。
黒田栄一と大野修一は、土地の売買を仮装した。
第二項。
その売買は、両者の通謀虚偽表示に当たり、民法九十四条一項により無効となる。
第三項。
藤野澄江は、大野修一から土地を六百万円で買い受けた。
第四項。
藤野澄江は、売買契約締結時、先行する売買が仮装である事実を知らなかった。
第五項。
したがって、藤野澄江は、民法九十四条二項により保護される善意の第三者である。
第六項。
黒田栄一は、先行する売買の無効を藤野澄江に対抗できない。
……。
私は顔を上げました。
「所長!」
「何だ」
「書けました!」
所長が原案を受け取りました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
……またですか。
「ここ」
「はい」
「『登記があるので、九十四条二項の保護を受ける』」
「あっ」
赤線。
「登記は必要条件ではない」
「はい……」
「次」
「はい」
「『黒田には絶対に勝ち目がなく、確実に差押えを受ける』」
赤線。
「……言い過ぎですね」
「そうだ」
所長は静かに言いました。
「裁判の結果を保証するな。こちらの法律上の主張と、相手に生じるリスクを正確に示せ」
「はい」
「次」
「まだありますか!」
「『悪質極まりない詐欺行為』」
赤線。
「……感情が入りました」
「要らん」
「はい……」
相馬先輩が横から覗き込みました。
「こはる」
「はい」
「内容証明は悪口を書く紙じゃねえ」
「分かってます……」
「本当に分かってるか?」
「今、分かりました……」
先輩は私の原案を指で叩きました。
「相手が怖がるのは、お前の怒りじゃねえ」
「はい」
「反論できない事実だ」
私は黙りました。
その通りでした。
今回の黒田は。
自分が土地を隠すために、嘘の売買をした。
登記まで動かした。
それを見て、別の人が土地を買った。
そして今になって、自分たちの嘘を理由に土地を取り返そうとしている。
この経過そのものが。
黒田にとって、最も不利な事実なのです。
「それとな」
相馬先輩が言いました。
「判例も確認しろ」
「はい!」
私は判例集を開きました。
民法九十四条二項。
善意の第三者。
そこには、私が覚えていた考え方がありました。
虚偽表示の当事者や一般承継人以外で、その表示の目的について新たに法律上の利害関係を有するに至った者。
そして。
第三者の保護には、原則として無過失まで必要とされない。
登記も、九十四条二項による保護の要件ではない。
「つまり……」
私は呟きました。
「この法律は、嘘をついた人より、その嘘を知らずに取引した人を守るんですね」
「そうだ」
所長が答えました。
「なぜだと思う」
私は少し考えました。
「……そうしないと、安心して取引できないからです」
「うん」
「登記や契約書で所有者だと示している人から土地を買ったのに、あとから昔の持ち主が『実は嘘でした』と言い出したら……」
「どうなる」
「誰も安心して土地を買えません」
所長は頷きました。
「その危険な外観を、誰が作った?」
「黒田さんと大野さんです」
「そうだ」
私は、ようやく理解しました。
通謀虚偽表示。
嘘の売買。
その当事者間では無効。
でも。
自分たちで嘘の外観を作っておいて。
その外観を信じた第三者にまで、
「嘘だから無効だ!」
と押しつけることは、原則として許されない。
民法九十四条二項は。
嘘をついた者が、自分の嘘を都合よく使うことを防ぐ仕組みでもあるのです。
三時間後。
机の上には、完成した内容証明郵便が置かれていました。
もちろん、藤野さん本人に内容を説明し、その意思を確認したうえで作成したものです。
私は、最後の部分を読み上げました。
――貴殿と大野修一との間の売買が通謀虚偽表示によるものであるとしても、通知人は、その事情を知らずに本件土地を買い受けた第三者である。
――したがって、民法第九十四条第二項により、貴殿は、前記売買の無効を通知人に対抗することができない。
――通知人は、貴殿からの所有権移転登記抹消及び土地返還の要求に応じる意思はない。
――貴殿において本件土地に対する権利侵害を継続する場合には、通知人は弁護士に相談のうえ、必要な法的措置を検討する。
――なお、貴殿が先行する売買を仮装した事実については、貴殿が提示した確認書及び当日の発言内容を含め、関係資料を保全している。
私は、ゆっくり紙を置きました。
「……怖いですね」
相馬先輩が笑いました。
「だろ」
「何も脅してないのに」
「ああ」
「ただ、法律と事実を書いてあるだけなのに」
「そういうもんだ」
片桐所長が最後の確認をしました。
「よし」
短い一言。
それだけで。
私は、胸の奥が熱くなりました。
内容証明郵便。
ただの紙。
ただの文字。
でも。
そこには、藤野さんが二十年かけて貯めたお金と、これから始める花屋を守るための理屈が、一つ残らず詰め込まれていました。
内容証明を発送して、四日後。
黒田運送から電話が入りました。
「……片桐さんをお願いします」
私は受話器を握りました。
黒田栄一。
間違いありません。
でも。
声が違います。
あの威張り散らした声ではありません。
妙に低く、重たい声でした。
「所長に代わります」
片桐所長が受話器を取りました。
「片桐です」
『……あの、通知書の件ですが』
「はい」
『弁護士に見せました』
「そうですか」
しばらく沈黙。
それから。
『……あの土地は、藤野さんのものになるんですか』
所長は落ち着いた声で言いました。
「当事務所から貴殿への個別の法律相談はできません。通知書に記載した藤野さんの立場は、ご確認いただけたかと思います」
『……ええ』
黒田が、苦しそうに息を吐きました。
『弁護士から言われましてね』
「はい」
『最初の売買が嘘だったとしても、そのことを知らない第三者には、無効を主張できない場合があると』
私は、机の下で拳を握りました。
そうです。
まさにそこです。
『しかも、俺が自分で名義を移したんだから、相手がそれを信じたことについて、俺の立場は相当に悪いと……』
所長は何も言いません。
『登記だって、全部俺が承知してやったんです』
「はい」
『……あの確認書も、弁護士に見せました』
長い沈黙。
そして。
『馬鹿なことをしたと思ってます』
その声は。
四日前とは、まったく違っていました。
『……土地は、返せとは言いません』
私は顔を上げました。
『藤野さんに、登記の抹消も求めません』
「そうですか」
『書面で、その旨をお伝えします』
所長は頷きました。
「ご本人宛てに、貴殿の意思を明確にした書面を送ってください」
『……分かりました』
電話が切れました。
私は、思わず立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「折れましたよね!」
「ああ」
「黒田さん、土地を諦めましたよね!」
「そう言っている」
「やりました!」
相馬先輩が、ふっと笑いました。
「こはる」
「はい!」
「まだ終わりじゃねえぞ」
「……あっ」
「書面が届くまで確認だ」
「はい!」
そうでした。
口約束だけでは、安心できません。
数日後。
藤野さんのもとへ、一通の書面が届きました。
黒田栄一。
署名押印。
内容は、短いものでした。
――藤野澄江が本件土地を取得したことについて、今後、所有権を争わない。
――先に送付した土地返還及び登記抹消の要求を撤回する。
私は、その書面を見ました。
たった二行。
でも。
藤野さんにとっては、どれほど大きな二行だったでしょう。
「先輩」
「何だ」
「黒田さんは、最初に嘘の契約書を作って、自分の土地を隠そうとしたんですよね」
「ああ」
「それなのに、最後は本当のことを書いた書面に、ハンコを押すことになった」
相馬先輩が笑いました。
「皮肉だな」
「はい」
「だから言っただろ」
先輩は、私の肩を軽く叩きました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は笑いました。
今回ばかりは。
本当に、その通りでした。
一か月後。
藤野澄江さんが、事務所を訪れました。
今度は、一人です。
でも。
最初に来たときとは、表情がまるで違いました。
「ありがとうございました」
そう言って、小さな花束を差し出しました。
黄色いガーベラ。
白いカスミソウ。
そして、薄桃色のカーネーション。
「お店、始められることになりました」
「本当ですか!」
私は思わず声を上げました。
「はい。まだ建物はこれからですけど」
澄江さんは笑いました。
「土地の準備を、ようやく安心して進められます」
「よかった……!」
私は胸がいっぱいになりました。
澄江さんが、花束を机に置きました。
「実は、ずっと怖かったんです」
「……はい」
「知らない人の嘘で、自分たちの人生が壊されるんじゃないかって」
私は黙って聞きました。
「土地を買ったのは、私たちなのに」
「はい」
「ちゃんとお金も払ったのに」
「……はい」
「最初の人が嘘をついていたから、全部なかったことになるなんて……そんなの、あんまりだと思って」
澄江さんは、少し目を潤ませました。
「でも、法律は、ちゃんと見てくれているんですね」
私は頷きました。
「はい」
そして言いました。
「民法九十四条は、嘘をついた人たちの間では、その嘘の契約を無効にします」
「はい」
「でも、その嘘を知らずに土地を買った人まで、同じように犠牲にするわけではないんです」
澄江さんは、ゆっくり頷きました。
「……そうなんですね」
「はい」
私は、花束を見ました。
「法律って、難しいですよね」
「本当に」
「私も、まだまだ勉強中です」
澄江さんが笑いました。
「でも、こはるさん」
「はい?」
「その難しい法律があって、よかったです」
……。
私は、少しだけ言葉に詰まりました。
行政書士試験。
民法。
通謀虚偽表示。
善意の第三者。
昔は、ただの暗記項目でした。
AがBと通謀して、虚偽の売買をする。
BがCへ売る。
Cが善意なら、Aは無効を対抗できない。
……はい。
丸暗記。
正解。
次の問題。
でも。
現実には。
AもBもCも、記号ではありません。
嘘をつく人がいる。
その嘘に乗る人がいる。
そして。
何も知らずに、人生を懸けて土地を買う人がいる。
民法が守ろうとしているのは。
そういう人なのです。
夕方。
澄江さんが帰ったあと。
私は、机の上の花束を眺めていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「嫌だ」
「まだ聞いてません!」
「どうせ民法だろ」
「そうです!」
「じゃあ、聞け」
私は六法を開きました。
「今回、藤野さんは保護されましたよね」
「ああ」
「でも、もし藤野さんが、最初から嘘の売買だと知っていたら?」
相馬先輩は頷きました。
「いい質問だ」
「えっ!」
「珍しくな」
「余計な一言です!」
先輩は笑いました。
「九十四条二項は、善意の第三者を保護する規定だ」
「はい」
「だから、悪意の第三者なら、同じ保護は受けられねえ」
「つまり……」
「最初の売買が嘘だと知っていながら土地を買ったなら、黒田から無効を主張される可能性がある」
私は頷きました。
なるほど。
知っていたか。
知らなかったか。
その違いが、土地の運命を変える。
「じゃあ、もう一つ!」
「まだあるのか」
「大野さんから土地を買った人じゃなくて、大野さんにお金を貸しているだけの人だったら?」
「ほう」
先輩の目が、少し鋭くなりました。
「単なる一般債権者か?」
「はい!」
「そいつは、九十四条二項の第三者に当たると思うか?」
私は考えました。
大野さんにお金を貸した。
でも。
問題の土地を買ったわけではない。
抵当権を設定してもらったわけでもない。
土地を差し押さえたわけでもない。
ただ、大野さんにお金を返せと言えるだけ。
「……当たらない?」
「そうだ」
先輩が頷きました。
「土地について、新しく直接の法律上の利害関係を得たわけじゃねえからな」
「なるほど……!」
私は、思わずノートを開きました。
「じゃあ、抵当権を設定してもらった人は?」
「どう思う」
「土地に直接、権利を取得しています!」
「うん」
「第三者に当たります!」
「そうだ」
「では、土地を差し押さえた債権者も?」
「第三者に当たり得る」
「でも、単にお金を貸しただけの債権者は違う!」
「そういうことだ」
私は感動しました。
第三者。
何となく、当事者以外の全員だと思ってしまいそうです。
でも、違う。
その嘘の表示によって作られた権利関係を前提に、新しく法律上の利害関係を得た人。
そこが重要なのです。
「先輩!」
「何だ」
「これ、すごく面白いです!」
「お前な……」
「だって、同じ債権者でも、ただお金を貸しただけなのか、土地を差し押さえたのかで、扱いが変わるんですよ!」
「ああ」
「第三者って言葉一つなのに、奥が深い!」
相馬先輩は、ため息をつきました。
「……お前、法律の問題を解いてるときだけ妙に元気だな」
「褒め言葉として受け取ります!」
「褒めてねえ」
そのとき。
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい!」
「今日の教訓は?」
私は少し考えました。
黒田栄一。
大野修一。
藤野澄江。
嘘の売買。
それを信じた人。
そして。
守られた花屋の夢。
私は、ノートの最後に一行を書きました。
――グルでついた嘘は当事者間では無効。でも、その嘘を知らずに権利を得た第三者には、無効を押しつけられない。
「……できました!」
所長が頷きました。
「それでいい」
相馬先輩も、珍しく笑いました。
「覚えたか?」
「はい!」
「九十四条一項は?」
「通謀虚偽表示は無効!」
「二項は?」
「善意の第三者には対抗できません!」
「第三者に無過失は?」
「原則として不要!」
「登記は?」
「九十四条二項の保護要件としては不要!」
「よし」
私は思わず拳を握りました。
完璧。
今日の民法、完全勝利です。
……と。
思った、その瞬間。
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「じゃあ、最後に一問」
「はい!」
「黒田が、土地を甥に売ったふりをした理由は?」
「債権者による差押えを免れるためです!」
「そうだ」
「はい!」
「じゃあ、黒田に金を貸していた債権者は、どうなる?」
「……え?」
私は止まりました。
そうです。
今回、藤野さんは守られました。
でも。
黒田が財産を隠そうとした相手。
債権者たちは?
あの嘘の売買によって、どんな影響を受けたのでしょうか。
「先輩」
「何だ」
「……また問題が増えました」
「民法ってのは、そういうもんだ」
相馬先輩は笑いました。
「一人を守る法律が、別の場面では違う結論を出す。それを全部、筋道立てて考えるんだよ」
私は六法を見つめました。
……なるほど。
簡単ではありません。
でも。
だからこそ、面白い。
同じ土地。
同じ嘘。
それでも。
誰が。
いつ。
どんな事情を知って。
どんな権利を取得したのか。
それによって、民法の答えは変わる。
そして。
私は、机の上の花束を見ました。
薄桃色のカーネーション。
その向こうに、澄江さんの笑顔が浮かびます。
いつか、あの土地に花屋が建つ。
ガラス張りの小さなお店。
色とりどりの花。
開店を楽しみにしている夫婦。
あの二人が守られたのは。
声が大きかったからではありません。
嘘をついた相手を怒鳴りつけたからでもありません。
民法九十四条二項。
ただ、その条文が。
嘘を知らなかった人の財産を、守ってくれたからです。
「所長」
「何だ」
「私、今日の民法、好きです」
「そうか」
「はい」
私は、ノートを閉じました。
昭和六十三年。
民法九十四条。
それは、現代でも基本的な条文の仕組みが変わらず受け継がれている規定です。
古い法律。
難しい言葉。
ややこしい第三者の範囲。
でも。
その奥にあるのは、案外、単純な考え方なのかもしれません。
自分たちで作った嘘のせいで、何も知らない人を泣かせてはいけない。
私は、もう一度だけノートを開きました。
今日の教訓。
通謀虚偽表示。
善意の第三者。
そして。
嘘をついた人が、その嘘を使って勝とうとしたとき。
民法は、ときどき。
その人に、こう言うのです。
――あなたが作った嘘でしょう。
――それを信じた人にまで、責任を押しつけてはいけません。
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