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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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436/610

[民法・心裡留保]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 人は、本心と違うことを言う生き物です。


「大丈夫です」


 本当は、大丈夫じゃない。


「気にしていません」


 本当は、ものすごく気にしている。


「お金は返さなくて結構です」


 本当は、一円でも返してほしい。


 では。


 そんな言葉を口にした人は、あとから必ず撤回できるのでしょうか。


 答えは。


 いいえ。


 民法は、そんなに甘くありません。


 けれど。


 本心ではないと知りながら、その言葉を利用する相手まで守るわけでもありません。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、大きくこう書いてあります。


 ――こはるノート・民法編。


 今日のテーマは。


 心裡留保。


 民法第九十三条。


 そして。


 つい最近まで、私が「冗談の法律」だと思っていた条文です。


「……先輩」


「何だ」


「民法って、人間不信になりません?」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「いきなり何だ」


「だって、本心じゃない言葉まで有効になることがあるんですよ」


「そうだな」


「じゃあ、『大丈夫です』って言ったら、何でも我慢しなきゃいけないんですか?」


「そんなわけねえだろ」


「ですよね!」


「まず、それが法律上の意思表示なのか考えろ」


 ……。


 私は止まりました。


「あ」


「いきなり九十三条に飛びつくな」


 先輩は、新聞を畳みました。


「挨拶と契約は違う。そこからだ」


 なるほど。


 今日も、いきなり一問間違えたようです。



「じゃあ、長谷川澄江さんの事件を振り返ります!」


 私は、ノートに大きく書きました。


 ――婚礼写真八十万円事件。


「お前、事件の名前を勝手につけるな」


「覚えやすいでしょう!」


「まあな」


 澄江さん。


 五十六歳。


 娘の結婚式のために、白鳳写真館と八十万円の婚礼撮影契約を結んだ女性です。


 しかし。


 写真館は、約束した撮影の重要な部分を実施できませんでした。


 澄江さんは返金を求めます。


 ところが。


 写真館の倉田社長は、披露宴の直後、娘や親族の前で返金問題を持ち出しました。


「お母さん。娘さんの結婚式を台無しにしたいんですか?」


 そんな言葉で、澄江さんを追い詰めたのです。


 澄江さんは、本当は返金してほしかった。


 それなのに。


「もう、返金はいりません」


 そう言ってしまった。


 さらに、返金請求権放棄確認書に署名してしまった。


 その後。


 写真館は、その言葉と署名を盾に、返金を拒絶しました。


「でも、最終的には六十五万円が戻ってきました」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「決め手は、九十三条ただし書でしたね」


「そうだ」


 ただし。


 今回、心裡留保だけで六十五万円という金額が決まったわけではありません。


 写真館がどの仕事を履行したのか。


 どの仕事が履行されなかったのか。


 返金や損害賠償について、どのような根拠があるのか。


 それらも、別に整理しました。


 心裡留保が問題にしたのは、あくまで。


 ――澄江さんの「返金請求権を放棄する」という意思表示に、効力があるのか。


 そこだったのです。


「所長」


「何だ」


「九十三条は、もともとの返金請求権を発生させる条文ではないんですね」


「そうだ」


「返金請求権があるとして、それを放棄した意思表示が有効なのかを判断する」


 片桐所長が頷きました。


「その区別を忘れるな」


 私は、ノートに赤線を引きました。


 よし。


 まずは、事件の急所を押さえました。



「では、最初の問題です!」


 私はノートの真ん中に、大きく書きました。


 ――心裡留保とは何か。


「先輩、答えてください!」


「何で俺が試験を受けるんだよ」


「復習です!」


「お前の復習だろ」


「一緒に覚えれば二倍お得です!」


「何がお得なんだ……」


 相馬先輩はため息をつきました。


「本心とは違うと分かっていながら、わざとその意思表示をすることだろ」


「正解です!」


 私は丸をつけました。


 心裡留保。


 正確には、表意者が、その意思表示が自分の真意と異なることを知りながら行う意思表示です。


「ここで大事なのは、『知っている』という部分です」


「誰がだ?」


「まず、意思表示をする本人です」


 私は澄江さんの事件を書き出しました。


 澄江さんの本心。


 ――返金してほしい。


 外に出した意思表示。


 ――返金請求権を放棄する。


 そして。


 澄江さん自身が、その二つが食い違っていると認識していた。


「だから、心裡留保の問題になるんですね」


「そうだ」


「もし、うっかり言い間違えた場合は?」


「また別の問題だな」


 私は頷きました。


 心裡留保では、表意者自身が真意との食い違いを認識しています。


 自分の意思と違うことを、知らずに表示してしまう錯誤とは、そこが違う。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「澄江さんが本当に返金を諦めるつもりで署名して、翌日後悔しただけなら?」


「心裡留保じゃねえ」


「ですよね!」


 大事なのは。


 あとから、どう思ったかではありません。


 意思表示をした、その瞬間。


 本心と違うと分かっていたか。


 そこです。


「でも、こはる」


 片桐所長が言いました。


「今回のように相手から圧力を受けた事件なら、もう一つ区別する必要がある」


「何でしょう?」


「本当は嫌でも、その場で請求権を放棄すること自体は決断した場合だ」


 私は鉛筆を止めました。


「……あ」


「不本意な決断と、真意のない意思表示は、必ずしも同じではない」


 なるほど。


 本当はお金が欲しい。


 でも、娘のために仕方なく返金請求権を放棄しよう。


 そう決断したなら、単に嫌だったというだけで心裡留保になるわけではありません。


 一方。


 返金請求権を放棄するつもりは全くない。


 ただ、その場を収めるために放棄するという形だけを取った。


 こちらなら、心裡留保が問題になります。


「つまり……」


 私は書きました。


 ――『嫌だった』ことと、『放棄する意思がなかった』ことは違う。


「そこだ」


 所長が頷きました。


 現場編では、澄江さんが返金を求め続けていたこと、倉田がその事情を知っていたこと、形式的な署名を求めた経緯を、証拠で積み重ねました。


 あれは単に、可哀想だから助けるためではなかった。


 法律上の要件を、一つずつ確認するためだったのです。



「さて、次!」


 私は大きく書きました。


 ――心裡留保の原則は、有効。


「ここが一番納得しにくいところです!」


「そうか?」


「だって、本心じゃないんですよ?」


「だったら聞くが」


 相馬先輩が、机に置いてあった万年筆を持ち上げました。


「俺がこの万年筆を五千円で売ると言ったら?」


「買いません」


「即答するな」


「だって、私の給料では高いです!」


「例え話だ!」


 先輩は咳払いしました。


「俺が五千円で売ると言って、お前が買うと約束したとする」


「はい」


「あとになって俺が『本当は売るつもりなんかなかった』と言い出したら?」


「困ります」


「だろ?」


「はい……」


「お前が俺の本心を知らなかったら、なおさらだ」


 私は、はっとしました。


 なるほど。


 もし、自分の内心だけを理由に、いつでも契約を無効にできたら。


 安心して買い物もできません。


 契約書に署名しても。


 代金を支払っても。


 あとから、


「本心じゃなかった」


 と言われれば、それで終わり。


 そんな社会では、取引が成り立ちません。


「だから原則有効なんですね!」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――自分の内心だけで、相手方の正当な信頼を壊してはいけない。


 そこで、所長が口を開きました。


「では、なぜ例外がある?」


「相手が真意ではないと知っているなら、守るべき信頼がないからです!」


「そうだ」


 私は勢いよく続けました。


「知っていた場合だけじゃありません。知ることができた場合も無効です!」


 民法九十三条ただし書。


 今回の主役です。


 相手方が、真意でないことを知っていた。


 いわゆる悪意。


 または。


 相手方が、真意でないことを知ることができた。


 つまり、注意すれば分かったのに、見落としていた場合です。


「ここでいう悪意って、性格が悪いって意味じゃないですよね」


「そうだ」


「知っていること、ですね」


 私はノートに書きました。


 悪意。


 ――知っている。


 善意。


 ――知らない。


 有過失。


 ――注意すれば知ることができたのに、知らなかった。


「そして、九十三条ただし書のポイントは……」


 私は指を立てました。


「相手方が悪意、または有過失なら、意思表示は無効!」


「正解だ」


 相馬先輩が頷きました。


 ここは、試験でも大切です。


 原則有効。


 例外無効。


 順番を逆にすると、すべて間違えてしまう。


「じゃあ、澄江さんの事件では?」


 所長が聞きました。


「倉田社長が、返金請求権の放棄は真意ではないと知っていたことを示す証拠がありました」


「うん」


「少なくとも、事情を確認すれば分かったと評価できる余地もありました」


「そうだ」


「だから、九十三条ただし書を根拠に、債務免除の無効を主張したんですね」


 所長が頷きました。


 私は、大きく丸をつけました。


 やっと。


 八十万円の婚礼写真事件と、九十三条が頭の中で一本につながりました。



「ただし、先輩」


「何だ」


「今回、もう一つ重要な条文がありましたよね」


「五百十九条だな」


「はい!」


 私はページをめくりました。


 ――債務免除。


 澄江さんは、お金を返してほしかった。


 でも、返金請求権を放棄するという書面に署名した。


 これがなぜ怖かったのか。


 それは。


 債務免除が、相手方の承諾を必要としない意思表示だからです。


「所長」


「何だ」


「相手が『免除してください』と申し込んで、こちらが『承諾します』という契約でなくても、債務を免除できるんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 債権者が債務者に対して、債務を免除する意思を表示する。


 それによって、債権が消滅する。


 だから。


「返金はいりません」


 という言葉が、本当に債務免除の意思表示と評価されれば。


 それだけで、大切な返金請求権を失うことがあり得るのです。


「……怖い」


 私は呟きました。


「だから、言葉を正確に扱う必要があるんだ」


 相馬先輩が言いました。


 ただし。


 これもまた、言葉だけで機械的に決まるわけではありません。


「返金はいりません」が、単なるその場の会話なのか。


 今後一切請求しないという法律上の意思表示なのか。


 その解釈も問題になります。


 そして、仮に債務免除の意思表示だったとしても。


 心裡留保。


 錯誤。


 詐欺や強迫。


 その他の事情が問題となる場合があります。


「今回の倉田のやり方って、強迫の問題にもなり得ませんか?」


 私が聞くと、片桐所長が頷きました。


「検討は必要だ」


「ですよね」


「ただし、嫌なことを言われたというだけで、当然に民法上の強迫が成立するわけではない」


 私は頷きました。


 相手がどのような害悪を告知したか。


 それによって意思表示をさせたのか。


 具体的な事情を確認する必要があります。


「今回は心裡留保を中心に、倉田が澄江さんの真意を認識していた事情を調べたんですね」


「そうだ」


 なるほど。


 一つの事件でも、問題となる法律は一つとは限らない。


 でも。


 使えそうな条文を片っ端から並べるより、事実に合う条文を選ぶ方が大切なのです。



「さて!」


 私はノートの新しいページを開きました。


「いよいよ、昭和と令和の違いです!」


 相馬先輩が、嫌そうな顔をしました。


「また未来の話か」


「大切なんです!」


「はいはい」


「先輩、昭和六十三年の九十三条を読んでください!」


「自分で読め」


「では読みます!」


 私は六法を開きました。


 昭和六十三年の民法九十三条。


 意思表示は、表意者がその真意でないことを知ってした場合でも、原則として有効。


 ただし。


 相手方が表意者の真意を知り、または知ることができたときは無効。


 私は、そこで鉛筆を止めました。


「所長」


「何だ」


「現代の九十三条って、少し表現が違うんです」


「どう違う?」


「現在の一項ただし書では、相手方が『その意思表示が表意者の真意ではないこと』を知り、または知ることができた場合、と書かれています」


 相馬先輩が首をかしげました。


「……同じことじゃねえのか?」


「結論の方向は同じです。でも、より明確になったんです!」


 昭和の条文は、相手方が「表意者の真意」を知っているかのような表現でした。


 しかし。


 問題の核心は、表意者の本当の希望の中身を、相手が完全に知っていたかどうかではありません。


 表示された意思が、本心ではないと知っていたか。


 そこなのです。


「たとえば、倉田社長です」


 私は言いました。


「澄江さんが最終的に何万円の返金を希望していたか、その細かい金額まで知らなくてもいいんです」


「うん」


「返金請求権を本当に放棄するつもりがないと分かっていたなら、そこが重要なんです」


 所長が頷きました。


「それは理にかなっている」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――現代の改正では、相手方の認識の対象が、より明確な表現になった。


 そして。


 もう一つ。


 もっと大きな違いがあります。


「九十三条二項です!」


 私は勢いよく言いました。


「また存在しない条文を言い出しやがった」


「昭和にはありません! 現代にはあるんです!」


 相馬先輩は、呆れた顔をしました。


 でも。


 ここが、今日の大事な制度ギャップです。


 現代の民法九十三条二項には。


 心裡留保による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗できない。


 というルールが明文化されています。


「でも、昭和六十三年には、二項がないんですよね」


「そうだ」


「だから当時は、民法九十四条二項の類推適用という考え方で、第三者保護を検討するんです」


 私は、赤鉛筆を握りました。


 ――昭和六十三年:九十三条に第三者保護の明文なし。九十四条二項の類推適用が問題となる。


 ――令和:九十三条二項に、善意の第三者保護を明文化。


「どうして、わざわざ改正したんでしょう?」


 私は、所長に尋ねる形で考えました。


 そして、自分で答えました。


「以前から解釈で対応していた問題を、条文で分かりやすく示すためですね」


 片桐所長が頷きました。


「明文があれば、法的な判断の手掛かりになる」


「はい」


 私は、少し嬉しくなりました。


 なるほど。


 法律の改正は、必ずしも全く新しいルールを作ることだけではありません。


 これまで解釈や学説で整理されていた考え方を、条文に明記することもある。


 それによって。


 何を確認しなければならないか。


 誰が保護されるのか。


 どこに注意すべきか。


 そうしたことが、分かりやすくなるのです。


「ただし、先輩」


「何だ」


「二項ができたからといって、第三者なら誰でも無条件に守られるわけじゃないんです」


「そうだな」


「善意であることが必要です」


 私は頷きました。


 次は、そこを整理します。



「では、確認問題です!」


 私はノートに登場人物を書きました。


 A。


 B。


 C。


「またアルファベットか」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「行政書士試験ですから!」


「仕方ねえな」


 私は説明しました。


「Aさんは、Bさんに対して、本当は譲る気のない高価な骨董品を贈与すると意思表示しました」


「うん」


「Bさんは、Aさんの真意ではないと知っていました」


「うん」


「この贈与の意思表示は?」


「無効だ」


「正解です!」


 九十三条ただし書。


 Bは悪意です。


 Aの真意と異なることを知っている。


 だから、意思表示は無効。


「では、そのあとです」


 私はCを書き加えました。


「Bさんが、その骨董品をCさんに売却したとします」


「うん」


「Cさんは、Aさんが真意ではない意思表示をした事情を知りませんでした」


「善意だな」


「はい!」


 私は、勢いよく続けました。


「では、AさんはCさんに対して、心裡留保による無効を主張できるでしょうか?」


 相馬先輩が答えました。


「善意の第三者として保護されるなら、対抗できねえ」


「正解です!」


 私は大きく丸をつけました。


 ここが、第三者保護。


 なぜ、Cさんを保護するのか。


 それは。


 AとBの間で、表に出た意思表示が存在した。


 Cはその取引関係を信頼して、新たに利害関係を持つに至った。


 それなのに。


 あとからAが、


「本当は譲る気なんかなかった」


 と主張するだけで、何の事情も知らなかったCが権利を失うとしたら。


 取引の安全が害されてしまいます。


「だから、善意の第三者を守るんですね」


「そうだ」


「では先輩!」


「何だ」


「Cさんが、最初から事情を知っていたら?」


「悪意だな」


「はい!」


 悪意の第三者なら、九十三条二項による保護は受けられません。


 Aは、心裡留保による無効をCに対しても主張できることになります。


「つまり!」


 私は、ノートに書きました。


 ――悪意の相手方には無効。善意の第三者は保護。悪意の第三者は保護されない。


「ただし、こはる」


 所長が言いました。


「骨董品なら、物の引渡しや即時取得といった別の規律も問題になり得る」


「はい」


「今の例は、九十三条による第三者保護の基本を理解するためのものだ」


「分かりました!」


 私は頷きました。


 法律には、複数の仕組みがあります。


 一つの条文だけで、現実の事件をすべて解決できるとは限りません。


 それでも。


 まず、基本的な考え方を理解する。


 そこが大事なのです。



「先輩、今度は少しひねります」


「まだ問題があるのか」


「あります!」


 私はノートに書きました。


 ――AはBに対し、真意ではない贈与の意思表示をした。


 ――Bは真意ではないと知っていた。


 ――Bから権利を取得したCは、事情を知らなかった。


「ここまでは同じですね」


「ああ」


「でも、Cさんに過失があったら?」


 相馬先輩が、少し考えました。


「九十三条二項には、何て書いてある?」


「善意の第三者です」


「そうだ」


「善意無過失、とは書かれていません!」


 私は、大きく丸をつけました。


 これ。


 行政書士試験では、とても重要です。


 相手方Bについては。


 悪意、または有過失なら、意思表示は無効。


 一方。


 現代の九十三条二項で保護される第三者Cについては。


 条文上、善意が要求されています。


 善意無過失とは書かれていません。


「だから、相手方と第三者を混同したら駄目なんですね」


「そうだ」


 私は、ノートを見ました。


 ややこしい。


 実にややこしい。


「先輩」


「何だ」


「民法って、わざと受験生を混乱させてません?」


「法律は、お前の試験のために作られたんじゃねえよ」


「それはそうですけど!」


 でも。


 ここは区別して覚えれば、かなり整理できます。


 相手方。


 第三者。


 それぞれ、守るべき信頼と法律上の要件が違う。


 だから。


 誰が善意なのか。


 誰が悪意なのか。


 誰に過失があったのか。


 その人物を、正確に特定する必要があるのです。



「ところで、こはる」


 相馬先輩が、煙草を消しました。


「はい?」


「今回の澄江さんの事件には、第三者が出てきたか?」


 私は考えました。


「写真館の倉田社長が相手方です」


「そうだ」


「娘さんや親戚の人もいました」


「それで?」


「……あ」


 私は気づきました。


 娘さんや親戚は、意思表示を目撃した人です。


 でも。


 九十三条二項の意味で、当然に第三者になるわけではありません。


「先輩!」


「何だ」


「第三者って、当事者以外なら誰でもいいわけじゃないんですね!」


「そうだ」


 心裡留保による無効の第三者保護で問題となるのは、その意思表示を前提とする法律関係について、新たに法律上の利害関係を取得した人です。


 単なる目撃者。


 親戚。


 友人。


 事情を知っている近所の人。


 それだけでは、第三者保護の問題にはなりません。


「じゃあ、こんな場合はどうでしょう?」


 私は新しい例を書きました。


 澄江さん。


 写真館。


 そして、別の金融会社。


「もし、写真館が澄江さんから返金請求権を免除されたと主張して、その法律関係を前提に第三者との取引をしていたら?」


 相馬先輩は頷きました。


「その場合には、第三者にどんな権利が生じたのか、具体的に検討する必要があるな」


「はい」


 私は鉛筆を動かしました。


 心裡留保による無効。


 第三者がいる。


 だから、自動的に第三者が勝つ。


 そんな単純な話ではない。


 まず。


 第三者が、法律上どんな地位を取得したか。


 次に。


 心裡留保による無効を対抗される関係にあるか。


 そして。


 善意かどうか。


 その順番です。


「所長」


「何だ」


「やっぱり、現場の事件って、試験問題より難しいですね」


「そうだな」


「試験なら、A・B・Cだけで済むのに」


「現場には、もっと人がいる」


「ですよね……」


 私は、苦笑しました。


 でも。


 だからこそ、基本を正確に覚える意味がある。


 A・B・Cで考えられなければ。


 本物の相談者と悪徳業者を相手にしたとき、もっと混乱してしまうのです。



 窓の外が、少しずつ暗くなってきました。


 私は、ノートのページをめくりました。


「さて、最後にもう一つ!」


 相馬先輩が、顔をしかめました。


「まだあるのか」


「重要な判例です!」


「何の?」


「養子縁組です!」


 先輩は、少し意外そうな顔をしました。


「九十三条から養子縁組か」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――最高裁判所・昭和二十三年十二月二十三日判決。


 今回の心裡留保の学習では、ぜひ区別したい論点です。


「先輩」


「何だ」


「本当は養子になるつもりがないのに、養子縁組の届出だけした場合はどうなるでしょう?」


「縁組をする意思がないんだな?」


「はい」


「じゃあ、縁組そのものが無効になる問題だ」


「正解です!」


 私は頷きました。


 養子縁組。


 これは単なる財産上の契約とは違います。


 法律上の親子関係を作る身分行為です。


 だから。


 形式的な届出だけがあっても、真に養親子関係を成立させる意思がなければ、縁組は無効となります。


「ここで大切なのは!」


 私は声を強めました。


「相手が知っていたかどうかに関係なく、縁組意思がなければ無効になることです!」


 相馬先輩が頷きました。


「九十三条ただし書だけで考える話じゃねえ、ということだな」


「そうです!」


 私は、ノートに書きました。


 売買や債務免除などの財産上の意思表示。


 ――心裡留保の原則有効・例外無効を検討する。


 真の縁組意思を欠く養子縁組。


 ――身分行為としての縁組意思が必要。これを欠けば無効。


「だから先輩」


「何だ」


「同じ『本心じゃない』でも、法律行為の種類によって、使うルールが違うんですね」


「そうだ」


 所長も頷きました。


「まず、その法律行為が何なのかを見ろ」


「はい!」


 売買。


 贈与。


 債務免除。


 養子縁組。


 どれも、人の意思に関係する法律行為です。


 でも。


 同じ条文で全部を処理することはできません。


 法律行為の性質によって、守ろうとしている利益が違うからです。


「なるほど……」


 私は、鉛筆を置きました。


 民法。


 覚えることが多すぎます。


 でも。


 ただ丸暗記するより、ずっと頭に残りそうです。



「よし」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「今日の勉強は終わりだな」


「まだです!」


「何だと!?」


「確認問題です!」


 私は、ノートを閉じました。


 そして。


「先輩、問題を出してください!」


「俺が?」


「はい!」


「仕方ねえな……」


 相馬先輩は、少し考えました。


「Aが、本当は売る気がないと知りながら、Bに『売る』と言った。Bは本気だと信じていた。原則どうなる?」


「有効です!」


「Bが冗談だと知っていたら?」


「無効です!」


「Bが注意すれば冗談だと分かった場合は?」


「無効です!」


「Bが善意無過失なら?」


「心裡留保であることだけを理由には無効になりません!」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、無効になった意思表示を前提に、善意の第三者Cが権利を取得した場合は?」


「現代の民法九十三条二項では、Aはその無効をCに対抗できません!」


「昭和六十三年なら?」


「九十三条二項は存在しません!」


「それで?」


「民法九十四条二項の類推適用による第三者保護が問題になります!」


「よし」


 私は、少し得意になりました。


 ここまでは完璧です。


「では、Cが悪意なら?」


「九十三条二項による保護は受けられません!」


「Cに過失があっても、事情を知らなかったら?」


「現代の九十三条二項では、善意が要件です。無過失までは要求されていません!」


「なかなかやるじゃねえか」


「褒めましたね!」


「まだだ」


 相馬先輩は笑いました。


「じゃあ、養子縁組をする意思が全くないのに、形式的に届出をしたら?」


「真の縁組意思がないので無効です!」


「相手が知らなかった場合は?」


「それでも縁組意思がなければ無効です!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 やった。


 心裡留保。


 原則有効。


 相手方が悪意または有過失なら無効。


 善意の第三者保護。


 昭和と令和の条文の違い。


 養子縁組の例外的な扱い。


 全部、頭の中で整理できました。


「所長!」


「何だ」


「今日は完璧です!」


 片桐所長が、帳簿から顔を上げました。


「では、最後に一問」


「はい!」


「倉田社長が、澄江さんの返金請求権放棄が真意ではないことを知っていたとする」


「はい」


「それだけで、八十万円全額の返還が認められるか?」


 ……。


 私は、止まりました。


「……いいえ!」


 所長が頷きました。


「理由は?」


「九十三条で免除が無効になっても、返金請求権の発生と金額は別問題だからです!」


「そうだ」


「契約内容、履行状況、解除や損害賠償などの根拠を、改めて確認する必要があります!」


 所長が、静かに頷きました。


「よし」


 ……!


 私は、思わず笑いました。


「やりました!」


 相馬先輩が、鼻で笑いました。


「ようやく現場の考え方が身についてきたな」


「えへへ」


 私は、ノートを見つめました。


 そうです。


 条文を覚えるだけでは、足りません。


 その条文で何が解決できるのか。


 何は解決できないのか。


 そこまで考えて初めて、法律を使えるようになるのです。



 私は最後のページを開きました。


 今日の一行。


 何を書こうか。


 少し考えます。


 澄江さんの顔が浮かびました。


 娘の結婚式。


 八十万円の写真契約。


 約束どおりに撮影されなかった、大切な一日。


 そして。


「もう、返金はいりません」


 そう言ってしまった母親。


 本当は、返してほしかった。


 それを、相手も知っていた。


 だから。


 民法九十三条ただし書が、事件の鍵になったのです。


 私は、鉛筆を握りました。


 そして、ゆっくり書きました。


 ――心裡留保は、本人が本心と違うと知っていても原則有効。相手が真意でないと知り、または知ることができたなら無効。善意の第三者は保護される。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「ええっ!?」


「一行に詰め込みすぎだ」


「でも、全部大事なんです!」


「なら、覚え方を短くしろ」


 私は、少し考えました。


 そして。


 もう一行。


 大きく書きました。


 ――本人の本心より、相手が知っていたか。第三者が知らなかったか。


「……どうですか!」


 相馬先輩は、しばらく黙りました。


 それから。


「まあ、覚えやすいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「絶対褒めました!」


 私は笑いました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、明かりが灯っていきます。


 どこかの家では。


 澄江さんが、娘さんの結婚写真を眺めているのでしょう。


 あの日。


 本当は返金してほしかった。


 でも。


 娘の晴れの日を守りたかった。


 だから、本心とは違う言葉を口にした。


 その一言を、写真館の社長は利用しようとしました。


 けれど。


 法律は、ただ言葉だけを見ているわけではありません。


 本人は、何を考えていたのか。


 相手は、何を知っていたのか。


 そして第三者は、どのような事情のもとで権利を取得したのか。


 そこまで考える。


 心裡留保。


 民法九十三条。


 難しい言葉です。


 でも。


 その裏にあるのは。


 自分で口にした言葉への責任と、事情を知りながらその言葉を利用する相手を保護しないという、公平の考え方でした。



「さて、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「勉強が終わったなら、掃除だ」


「……またですか!?」


「見習いだろ」


「昨日もやりました!」


「今日も頼む」


 私は、腕を組みました。


「……分かりました。喜んで掃除します!」


 相馬先輩が、にやりとしました。


「ほう」


「……」


「喜んで、か?」


「……はい」


「本心か?」


 私は、にっこり笑いました。


「もちろんです!」


 ……。


 先輩が、私を見ました。


「こはる」


「はい?」


「それ、心裡留保だろ」


 ……!


 私は、思わず指を立てました。


「そうです! 先輩は私の真意を知っています!」


「知ってるな」


「つまり、九十三条ただし書です!」


「だから?」


「私の『喜んで掃除します』は、無効です!」


 ……。


 沈黙。


 相馬先輩が、ゆっくり口を開きました。


「こはる」


「はい!」


「俺が頼んだのは、喜ぶことか?」


「……え?」


「掃除だ」


 ……。


 私は、止まりました。


「お前は掃除すること自体も、嫌々ながら承知したんだろ?」


「……はい」


「なら、『喜んで』が本心じゃなくても、掃除の約束が当然になくなるわけじゃねえ」


 ……。


 私は、ゆっくり片桐所長を見ました。


「所長……」


「何だ」


「先輩が、民法を悪用しています」


「していない」


 所長は、帳簿を閉じました。


「掃除は頼んだ」


「……!」


「よろしく」


 ……。


 私は、箒を手に取りました。


「分かりましたよ!」


 相馬先輩が笑います。


「ほら、掃除しろ」


「でも先輩!」


「何だ!」


「次は絶対に負けませんから!」


「何と戦ってるんだよ!」


「民法です!」


「民法を敵にするな!」


 私は笑いながら、床を掃き始めました。


 窓の外。


 昭和六十三年の町に、夜が近づいています。


 車のエンジン音。


 商店街のシャッターが下りる音。


 遠くから聞こえる、子供たちの声。


 そのすべてが、今は少し違って見えました。


 あの町のどこかで。


 誰かが、本心ではない言葉を口にしているかもしれません。


 強がり。


 冗談。


 その場しのぎ。


 誰かのためについた、悲しい嘘。


 でも。


 その言葉が法律上の意思表示となるとき。


 民法は、相手方の信頼と本人の真意の食い違いを、慎重に見つめます。


 そして。


 真意ではないと分かっていた人間にまで、いつも言葉どおりの効力を与えるわけではありません。

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