[民法・心裡留保]現場編 「返金はいりませんと言いましたよね」の罠。娘の結婚式を人質に取った悪徳写真館と、母親の涙を見抜いた内容証明の刃
人は、ときどき、本心とは正反対のことを口にします。
怒っているのに、「怒っていません」。
悲しいのに、「大丈夫です」。
本当はお金を返してほしいのに。
「もう、お金は返していただかなくて結構です」
そう言ってしまうこともあります。
けれど。
その言葉を相手が本心ではないと知っていたら?
あるいは、本心ではないと知ることができたのに、その言葉を利用したら?
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、民法九十三条という法律が、冗談だけを扱う条文ではないことを知りました。
心裡留保。
しんりりゅうほ。
真意ではないと知りながら、あえて違う意思表示をすること。
そして。
その一言が、母親の大切な八十万円を奪おうとしていたのです。
「娘の結婚式を、台無しにされたんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、膝の上でハンカチを握りしめていました。
名前は、長谷川澄江さん。
五十六歳。
駅前商店街で洋裁店を営んでいます。
「結婚式ですか?」
私が尋ねると、澄江さんは頷きました。
「先月、娘が結婚したんです」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも……」
澄江さんは、鞄から厚い封筒を取り出しました。
中には、一枚の契約書。
――婚礼写真撮影及びアルバム制作契約書。
契約金額。
八十万円。
「は、八十万円!?」
私は思わず声を上げました。
昭和六十三年。
八十万円といえば、かなりの大金です。
撮影だけでなく、親族の集合写真、披露宴の記録、豪華な婚礼アルバムなどがセットになった特別プランだったそうです。
「主人が亡くなってから、私が一人で娘を育ててきました」
澄江さんは、小さく笑いました。
「せめて結婚式だけは、ちゃんとしてやりたくて」
私は黙って聞きました。
「娘が小さい頃から、写真が好きだったんです」
「そうなんですね」
「だから、八十万円も奮発したんです」
ところが。
式の二日前。
写真館から連絡が入りました。
カメラマンが手配できなくなった。
機材にも不具合が出た。
契約していた特別撮影はできない。
「代わりの人も、探してくれなかったんですか?」
「簡単な写真なら撮れると言われました。でも、契約していた内容とは全然違って……」
結婚式当日。
写真館から派遣されたのは、経験の浅い若い助手一人。
親族の集合写真は、全員が揃う前に撮影。
披露宴の重要な場面では、フィルム交換に手間取って撮り逃し。
花嫁が父親の遺影に向かって手を合わせた瞬間も、残されていませんでした。
「それで、返金を求めたんですね?」
「はい」
澄江さんは頷きました。
「八十万円を先に払っていましたから。契約どおりの仕事ができなかったのなら、少なくとも相応のお金は返してほしいと」
当然の要求です。
少なくとも、契約内容と実際の履行状況を確認する必要があります。
「ところが、写真館の社長が……」
澄江さんの声が震えました。
「娘の前で、私にこう言ったんです」
私は身を乗り出しました。
「何と?」
「お母さんが返金を求めているせいで、せっかくの結婚式が台無しになりますよ、って」
……。
私は眉をひそめました。
「それは、どういう意味ですか?」
「ちょうど、披露宴が終わった直後だったんです」
澄江さんは、目を閉じました。
「娘も、お婿さんも、親戚も、みんなそこにいました」
写真館の社長は、その場で言ったそうです。
「お母さん。ここでお金の話をするんですか?」
「……」
「娘さんの一生に一度のお祝いですよ?」
周囲の視線が集まった。
娘は泣きそうな顔をしていた。
親戚たちも、何事かと見ていた。
そのとき。
澄江さんは、思わず言ってしまったのです。
「……もう、返金は結構です」
私は顔を上げました。
「え?」
「『お金は返していただかなくて結構です。今日は娘を祝ってやってください』って……」
……。
なるほど。
「本当に返金してもらわなくてもいいと思ったんですか?」
「いいえ!」
澄江さんは、即座に答えました。
「そんなわけありません!」
その声が、事務所に響きました。
「八十万円ですよ! 一年近く節約して、貯めたお金なんです!」
澄江さんの目から涙がこぼれました。
「返してほしいに決まっています!」
私は、胸が痛くなりました。
「でも、娘の前でお金のことで揉めたくなかったんです」
澄江さんは続けました。
「だから、あの場だけ収めようと思って……」
私は、ゆっくり頷きました。
なるほど。
これは。
冗談ではありません。
でも。
本心とも違います。
澄江さんは、お金を返してほしい。
それなのに、返金は不要だと口にした。
本人も、それが本心ではないと分かっていた。
「……心裡留保」
私は呟きました。
「え?」
「民法九十三条です」
私は、六法を開きました。
これなら。
澄江さんを守れるかもしれません。
「大丈夫です!」
私は勢いよく言いました。
「本心ではない意思表示ですから、無効です!」
澄江さんが顔を上げます。
「本当ですか!?」
「はい!」
よし。
民法。
心裡留保。
知っています。
本心ではない意思表示。
だから、無効!
「……こはる」
相馬先輩が、新聞を畳みました。
「はい?」
「今、何つった?」
「心裡留保なので無効です!」
「何で?」
「本心じゃないからです!」
先輩は、深くため息をつきました。
「お前なあ……」
「はい?」
「九十三条、最初から読んでみろ」
……。
嫌な予感。
私は六法を開きました。
民法九十三条。
意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。
……。
私は固まりました。
「あれ?」
「何だ?」
「……原則、有効」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「自分で本心じゃないと分かっていても、意思表示は原則として有効だ」
「えええっ!?」
私は思わず叫びました。
「でも、先輩!」
「何だ」
「澄江さんは、本当は返金してほしいんですよ!?」
「そうだな」
「なのに、返金はいらないって言ったから有効なんですか!?」
「原則はな」
「そんな!」
私は六法を睨みました。
民法。
冷たすぎませんか。
八十万円ですよ。
母親が娘のために貯めたお金ですよ。
しかも、相手はそれを知っているかもしれない。
なのに。
本心ではないと分かっていても、原則有効?
「こはる」
片桐所長が、静かに言いました。
「続きがある」
「……はい?」
「ただし書だ」
私は、慌てて条文を読み進めました。
ただし、相手方が表意者の真意ではないことを知り、又は知ることができたときは、その意思表示は無効とする。
……!
「所長!」
「何だ」
「相手が本心じゃないと知っていたら、無効です!」
「そうだ」
「知ることができた場合も!」
「そうだ」
私は、澄江さんを見ました。
「澄江さん」
「はい」
「写真館の社長は、あなたが本当は返金を求めていることを知っていましたか?」
澄江さんは、驚いた顔をしました。
「もちろんです」
「どうして、そう言えるんですか?」
「だって……」
澄江さんは、鞄から一枚の紙を取り出しました。
それは。
返金要求書の控えでした。
結婚式の前日。
写真館へ渡したものです。
――契約した撮影内容が履行されない場合、支払済代金八十万円について返金を求めます。
日付。
署名。
そして。
写真館の受領印。
私は、ゆっくり顔を上げました。
「……これ」
「はい」
「社長は、受け取っていたんですね?」
「ええ。目の前で読みました」
私は、相馬先輩を見ました。
先輩が、にやりと笑いました。
「こはる」
「はい!」
「急所が見えたな」
けれど。
事件は、それだけでは終わりませんでした。
「実は、こんな手紙も届いているんです」
澄江さんが、もう一通の封筒を取り出しました。
差出人。
白鳳写真館。
代表取締役、倉田義明。
私は、手紙を読みました。
――貴殿は昭和六十三年某月某日、披露宴終了後、弊社に対する返金請求権を放棄する旨を明確に意思表示した。
――右意思表示により、弊社の返金義務は免除された。
――したがって、今後の返金請求には一切応じない。
……。
私は、紙を置きました。
「……ひどい」
思わず、声が出ました。
澄江さんは、俯いています。
「私、あの場でそう言ったことは、確かです」
「はい」
「でも……」
その手が震えました。
「本当は、返してほしかったんです」
私は、胸が締めつけられました。
この人は。
お金を諦めたわけではない。
娘の結婚式を守りたかった。
それだけです。
「所長」
私は言いました。
「相手は、債務の免除を主張しているんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
民法五百十九条。
債務免除。
債権者が債務者に対して、債務を免除する意思を表示したとき、その債権は消滅する。
ただし、そもそも返金債権がどの範囲で発生しているかは、契約内容と履行状況によって決まります。
今回の写真館は。
澄江さんが持っている返金請求権が、あの一言で消えた。
そう主張しているのです。
「……怖いですね」
私は呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きました。
「『いりません』の一言で、債権が消えることがあるなんて」
「そうだ」
「でも、それが本心じゃなかったら?」
「九十三条だ」
相馬先輩は、机を叩きました。
「重要なのは、相手が何を知っていたかだ」
私は頷きました。
社長が、澄江さんの真意を知っていた。
あるいは。
知ることができた。
そこを証明できれば。
民法九十三条ただし書によって、免除の意思表示が無効となる可能性がある。
「所長!」
「何だ」
「証拠を集めます!」
「そうだ」
所長が頷きました。
「ただし、返金請求権が存在すること自体も確認しろ」
「はい!」
「九十三条だけで八十万円が戻るわけではない」
私は、はっとしました。
そうです。
債務免除が無効でも、元の債権が存在しなければ、お金を請求できません。
だから。
契約書。
支払記録。
実際に提供された撮影サービス。
履行されなかった内容。
その資料も必要です。
「よし」
私は、相談票を開きました。
今回の敵は。
契約を履行しなかった写真館。
そして。
母親の涙を、債権放棄の証拠に変えようとする社長です。
「お母さんが、ご自分で言ったんでしょう?」
翌日。
澄江さんは、白鳳写真館へ向かいました。
私は、本人が持参する資料の整理と発言内容の記録を補助するため、同行しました。
駅前の大通り。
三階建ての立派な写真館。
ガラス張りのショーウインドーには、豪華な婚礼写真が飾られています。
応接室へ通されると、黒い革張りの椅子に男が座っていました。
五十歳前後。
金縁の眼鏡。
高そうな背広。
白鳳写真館の社長。
倉田義明。
倉田は、私たちを見ると鼻で笑いました。
「何ですか、行政書士まで連れてきて」
……。
出ました。
この手の人間が必ず言う台詞。
「弁護士じゃないんでしょう?」
倉田は、椅子に深く座り直しました。
「なら、裁判で争うこともできませんよね」
私は唇を噛みました。
そのとおりです。
行政書士は、訴訟代理人にはなれません。
法律紛争の示談交渉を依頼人の代理人として引き受けることもできません。
でも。
だからといって、法律上の事実が消えるわけではありません。
「倉田さん」
澄江さんが、静かに言いました。
「私は、返金を求めています」
倉田は笑いました。
「でも、返金はいらないと言いましたよね?」
「それは……」
「親戚の皆さんの前で、はっきり言った」
倉田は、机から一枚の紙を取り出しました。
――返金請求権放棄確認書。
そこには、こう書かれていました。
――長谷川澄江は、白鳳写真館に対する返金請求権を放棄した。
そして。
澄江さんの署名。
……!
「署名まであるじゃありませんか」
倉田は得意げでした。
私は、思わず紙を見つめました。
「……これは?」
澄江さんの顔が青ざめました。
「その紙……」
「覚えていませんか?」
倉田は笑いました。
「披露宴のあと、私が持っていった紙ですよ」
澄江さんの手が震えました。
「あのとき、娘が泣いていて……」
「そうですね」
「あなたが、これに名前を書けば全部終わると言ったから……」
倉田は、満足そうに頷きました。
「そうです。ご自分で署名したんです」
私は、息を呑みました。
これは。
かなり厄介です。
単なる口頭の発言ではない。
署名入りの書面まである。
ただし。
それでも、心裡留保の問題が消えるわけではありません。
署名があることと、その意思表示が有効かどうかは、別の話です。
「倉田さん」
澄江さんが、用意した質問書を見ながら言いました。
「私は、結婚式の前日に返金を求める書面を渡していますよね?」
「ええ」
「そのことは、覚えていますか?」
「もちろん」
「では、披露宴の直後、私が本当に返金を諦めたと思ったんですか?」
倉田は、少し笑いました。
「そんなこと、私には分かりませんね」
「……」
「口に出した言葉が、すべてでしょう」
その言葉。
私は、忘れないと思いました。
口に出した言葉が、すべて。
でも。
民法は、そんな単純な法律ではありません。
「倉田さん」
澄江さんが続けました。
「あなたは、私にこう言いましたね」
「何ですか?」
「娘の結婚式を台無しにしたいのか、って」
倉田の笑みが、少し薄れました。
「……それが何か?」
「私は、娘の前で揉めたくなかったんです」
「だから、返金を放棄したんでしょう?」
「いいえ!」
澄江さんが、初めて声を強めました。
「私は、お金を返してほしかった!」
応接室が、静まり返りました。
「でも、娘に泣いてほしくなかったんです!」
倉田は、鼻で笑いました。
「今さら、そんなことを言われてもね」
そして。
決定的な一言を口にしました。
「お母さんが本心では嫌がっていたことくらい、私だって分かっていましたよ」
……。
私は、顔を上げました。
倉田は続けました。
「でもね、商売は商売なんです」
……。
相馬先輩が言った言葉を思い出しました。
相手が何を知っていたか。
そこが急所。
私は、手帳に今の発言を記録しました。
倉田は、まだ気づいていません。
自分が何を口にしたのか。
その言葉が、どれほど重要なのかを。
「先輩!」
事務所に戻るなり、私は叫びました。
「倉田、認めました!」
「何をだ」
「澄江さんが本心では嫌がっていたって!」
相馬先輩は、ゆっくり顔を上げました。
「ほう」
「『分かっていました』って、はっきり言いました!」
先輩は、机に置かれた手帳を見ました。
「発言の記録は?」
「あります!」
「日時は?」
「あります!」
「前後のやり取りも?」
「全部書きました!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
でも。
片桐所長が、静かに言いました。
「まだ足りん」
「えっ!?」
「何が分かっていたのか、正確に見る必要がある」
私は、止まりました。
「……何が、ですか?」
「単に不満があると知っていたのか」
「はい」
「それとも、返金請求権を放棄する意思が本当はないと知っていたのか」
……。
私は、息を呑みました。
そうです。
ここは、違います。
不満があること。
返金してほしいと思っていること。
それと。
法的な免除の意思表示が真意ではないこと。
必ずしも同じではありません。
「所長……」
「何だ」
「もっと具体的な証拠が必要ですね」
「そうだ」
私は、頷きました。
そして。
澄江さんに連絡しました。
披露宴の当日、あの場に誰がいたか。
署名したとき、何と言ったか。
倉田が、何を言ったか。
そのすべてを、改めて確認することにしました。
翌日。
澄江さんの娘さんが、事務所を訪れました。
名前は、長谷川美紀さん。
二十七歳。
結婚したばかりの新婦です。
「母が、ご迷惑をおかけして……」
「いいえ」
私は、首を振りました。
「美紀さん。結婚式のあと、写真館の社長が何と言ったか、覚えていますか?」
美紀さんは、頷きました。
「覚えています」
その声が震えました。
「私、母が泣いているのを見ていたんです」
……。
「母は、社長さんに何度も言っていました」
「何と?」
「お金は返してほしい。でも、娘の前でこれ以上揉めたくないって」
私は、鉛筆を止めました。
「それを、社長さんは聞いていましたか?」
「はい」
「間違いありませんか?」
「はい」
美紀さんは、涙を拭いました。
「それなのに社長さんは……」
「はい」
「『だったら、返金はいらないって言ってください』って」
……!
私は、顔を上げました。
「そのあと?」
「母が、返金はいらないって言ったんです」
「はい」
「そしたら、社長さんが紙を出してきて……」
美紀さんは、俯きました。
「『これに署名すれば、娘さんの前でもう騒ぎません』って……」
……。
私は、ゆっくり息を吐きました。
なるほど。
これは。
ただの冗談とは、まったく違います。
澄江さんは、本心では返金を求めていた。
倉田も、それを聞いていた。
そのうえで。
返金不要という言葉を言わせた。
さらに、署名までさせた。
相手が真意ではないと知っていたことを示す、極めて重要な事情です。
「美紀さん」
私は言いました。
「その場に、ほかに誰かいましたか?」
「夫と、叔母がいました」
「同じやり取りを聞いていましたか?」
「はい」
私は頷きました。
よし。
証人がいる。
そして。
澄江さんが返金を求める意思を持ち続けていたことを示す、前日の返金要求書もある。
「先輩!」
私は、相馬先輩を見ました。
「聞こえてた」
先輩は、にやりとしました。
「これなら、九十三条ただし書の急所を突ける」
私は、強く頷きました。
昭和六十三年。
スマートフォンはありません。
披露宴の様子を、誰もが動画で撮影しているわけでもありません。
もちろん、当日の会話を全部録音している人もいません。
だから。
証拠は、自分の足で集めるしかないのです。
美紀さん。
新郎。
澄江さんの妹。
それぞれから、当日の状況を聞き取りました。
重要なのは、同じ話を無理に揃えることではありません。
誰が、何を見聞きしたか。
覚えていないことは、覚えていない。
推測は、推測。
事実は、事実。
そこを区別して記録します。
そして。
事実確認書。
各人が、内容を確認して署名押印。
私は、書類の束を見つめました。
そこには、同じ出来事が、異なる立場から記録されていました。
新婦は、母親が泣いていたことを覚えている。
新郎は、倉田が「返金は不要だと言ってください」と求めたことを覚えている。
澄江さんの妹は、「本当は返金してほしい」という澄江さんの発言を聞いていた。
さらに。
署名前に倉田が、もう騒がないと約束したことも、複数の人が聞いていました。
私は、ゆっくり頷きました。
これで。
単なる「後から気が変わった」という話ではないことを、示せる可能性が高まったのです。
「こはる」
相馬先輩が、契約書を机に置きました。
「内容証明を書け」
「はい!」
私は、鉛筆を握りました。
宛先。
白鳳写真館。
代表取締役、倉田義明。
差出人。
長谷川澄江。
表題。
――債務免除の意思表示の無効及び返金請求に関する通知書。
「第一」
私は、読み上げました。
「通知人は、貴社との間で、婚礼写真撮影及びアルバム制作契約を締結し、代金八十万円を支払った」
「うん」
「第二。貴社は、契約に定められた撮影及び制作の一部を履行できず、通知人は返金を求めた」
「うん」
「第三。通知人は、披露宴終了後、貴社代表者から、娘の前で返金を求め続けることを非難され、式後の混乱を避けるため、返金不要との発言をした」
「続けろ」
私は息を吸いました。
「第四。右発言は、返金請求権を放棄する真意に基づくものではなく、通知人はそのことを認識していた」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
「第五。貴社代表者は、通知人が返金を求め続けていることを認識したうえで、返金不要との発言及び署名を求めた」
私は、声を強めました。
「第六。したがって、右債務免除の意思表示は、民法第九十三条ただし書により無効である旨を通知する」
読み終わりました。
所長が、書面を受け取りました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
嫌な予感。
「ここ」
「はい?」
「返金額が八十万円となっている」
「はい」
「根拠は?」
……。
私は、止まりました。
「……契約代金が八十万円なので」
「それだけでは足りん」
所長は、静かに言いました。
「一部の撮影は行われている」
「はい」
「契約全体の解除が認められるのか。一部の代金返還なのか。損害賠償なのか」
私は、頷きました。
そうです。
民法九十三条ただし書で免除が無効になっても。
当然に八十万円全額が返ってくるわけではありません。
返金請求権の存在と範囲は、別に確認しなければならない。
「所長」
「何だ」
「返金額については、契約内容と履行状況から整理します」
「そうだ」
「契約で約束された内容と、実際に行われた内容を比較します」
「うん」
「そして、どの範囲の返還や損害賠償を求める根拠があるかを確認します」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は、契約書を見直しました。
特別撮影。
親族集合写真。
披露宴記録。
婚礼アルバム。
各項目の内訳。
そして、実際に提供されたサービス。
記録には、未実施の撮影項目が複数ありました。
また、完成予定だったアルバムも、契約内容を満たしていません。
写真館が作成した業務報告書にも、その事実が記載されていました。
私は、書面を修正しました。
返金及び損害賠償の根拠を整理し、金額については契約と実際の履行状況に基づいて明示する。
争いが残る部分については、弁護士へ引き継ぐ準備もする。
「……できました」
私は、鉛筆を置きました。
相馬先輩が、書面を手に取りました。
じっくり読んで。
にやりと笑いました。
「こはる」
「はい!」
「これ、倉田が読んだらどうなると思う?」
「……怒るでしょうね」
「怒るだろうな」
「でも……」
私は、事実確認書の束を見ました。
「反論するの、大変ですよね」
先輩が頷きました。
「そうだ」
返金要求書を受け取っていた。
澄江さんが、本当は返金を求めていると聞いていた。
それなのに、娘の前で返金不要と言わせた。
さらに署名を求めた。
そして。
それを法的な債務免除だと言い張っている。
「裁判になったら、説明しなきゃならねえ」
相馬先輩が言いました。
「どうして、真意じゃないと分かっていたのに、返金不要の署名を取ったのか」
私は、ゆっくり頷きました。
なるほど。
これが。
内容証明の刃。
相手を罵倒しない。
脅さない。
ただ、事実と法律を並べる。
そして。
相手自身が残した矛盾を、逃げられない形にする。
「所長」
私は言いました。
「怖いですね」
「何がだ」
「書面に書くと、倉田のしたことが、こんなにはっきり見えるんですね」
所長は、静かに言いました。
「法律は、言葉の裏にある事実を見落とすなと教えている」
私は、その言葉を胸に刻みました。
内容証明郵便は、澄江さん本人の名義で発送されました。
三日後。
事務所に電話が入りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……長谷川さんの件で』
男の声。
倉田でした。
「どのようなご用件でしょうか?」
『片桐先生は、いらっしゃいますか』
私は、受話器を所長に渡しました。
「片桐です」
『あの……通知書を受け取りまして』
「はい」
『その……』
倉田の声は、以前とはまるで違っていました。
『あのときの発言について、証人がいると……』
「通知書に記載されたとおりです」
『……』
『実は、顧問弁護士に見せたんですが……』
私は、耳を澄ませました。
『民法九十三条の問題になると言われまして……』
所長は、黙って聞いています。
『こちらが、返金不要の発言を本心ではないと知っていたと認定されれば、免除は無効になり得ると……』
「その点は、通知書に記載されています」
『……はい』
倉田は、しばらく沈黙しました。
それから。
『返金について、長谷川さん本人と話をしたいのですが……』
所長は、静かに答えました。
「そのご意向は、ご本人に直接お伝えください。当事務所が代理人として示談交渉を行うことはできません」
『……分かりました』
電話が切れました。
私は、所長を見ました。
「所長!」
「何だ」
「倉田、折れそうですね!」
「まだだ」
「……はい」
「実際にどう対応するかを確認しろ」
私は頷きました。
そうです。
電話で何を言ったかではなく。
何をしたか。
それが重要です。
一週間後。
澄江さんが事務所へやってきました。
その顔には、少しだけ笑顔が戻っていました。
「先生……!」
「どうしました!?」
「写真館から、返金の申し出がありました!」
私は、思わず立ち上がりました。
「本当ですか!?」
「はい!」
澄江さんは、鞄から一枚の書類を取り出しました。
――返金及び確認書。
そこには。
――白鳳写真館は、長谷川澄江に対し、婚礼写真撮影及びアルバム制作契約に関し、金六十五万円を返金する。
――長谷川澄江の返金不要の発言及び署名をもって、返金請求権が放棄されたとの主張は行わない。
――双方は、残存する成果物の取扱い及び本件に関する精算内容について確認する。
と記されていました。
写真館の署名押印。
澄江さんの署名押印。
さらに。
銀行振込の控え。
六十五万円。
私は、何度も確認しました。
「……本当に返ってきたんですね」
「はい」
澄江さんは、頷きました。
「向こうから、謝罪もありました」
六十五万円。
八十万円全額ではありません。
ただし、契約で提供された一部のサービスや、残された写真の取扱いを整理したうえで、澄江さん自身が内容を確認して合意した金額です。
私は、深く息を吐きました。
「よかった……!」
澄江さんは、涙を拭いました。
「本当に、ありがとうございました」
私は慌てて首を振りました。
「いえ、私たちは書類を作っただけです」
「それでも……」
澄江さんは、静かに言いました。
「私、自分の言った言葉で、全部終わったと思っていたんです」
私は黙りました。
「本当は返してほしいのに、返金はいりませんって言ってしまった」
「はい」
「それでも、もう取り返しがつかないと思っていました」
その声が震えました。
「でも、違ったんですね」
私は、ゆっくり頷きました。
「はい」
「私が、本当はどう思っていたか」
澄江さんは続けました。
「相手がそれを知っていたか」
「はい」
「そこが、大事だったんですね」
私は、笑いました。
「そうです」
民法九十三条。
心裡留保。
難しい名前の法律。
でも。
その中身は、意外なほど人間くさい。
言葉と本心が違うことはある。
そのとき、相手は何を知っていたのか。
そこを、法律は見ているのです。
数日後。
澄江さんが、娘さんを連れて事務所を訪れました。
「皆さんに、見ていただきたいものがあって」
そう言って、鞄から一冊のアルバムを取り出しました。
濃紺の表紙。
金色の文字。
――美紀・健一 婚礼記念。
「これは……?」
私が尋ねると、美紀さんが笑いました。
「親戚が撮ってくれていた写真を集めて、別の写真屋さんに作ってもらったんです」
私は、ゆっくりページを開きました。
白無垢姿の美紀さん。
親族の集合写真。
披露宴で笑う新郎。
そして。
最後のページ。
そこには、澄江さんが娘の手を握っている写真がありました。
「……素敵ですね」
私は、思わず呟きました。
美紀さんが頷きました。
「母が、私のために作ってくれたんです」
澄江さんは、照れくさそうに笑いました。
「大したものじゃありませんけどね」
「そんなことありません!」
私は、首を振りました。
「すごく素敵です!」
美紀さんが、母親を見ました。
「お母さん」
「何?」
「私、あのとき、お母さんが無理してるの、分かってたよ」
澄江さんが、驚いた顔をしました。
「……え?」
「返金はいらないって言ったとき」
「……」
「本当は、お金を返してほしかったんでしょう?」
澄江さんの目から、涙がこぼれました。
「……うん」
美紀さんは、母親の手を握りました。
「私のために、我慢しなくてよかったのに」
「……ごめんね」
「謝らないで」
美紀さんは、笑いました。
「私、お母さんが一番大事だから」
私は、言葉を失いました。
民法。
意思表示。
債務免除。
心裡留保。
試験では、どれも硬い言葉です。
でも。
その言葉の裏には。
娘を傷つけたくなかった母親がいる。
母親の気持ちを分かっていた娘がいる。
そして。
その優しさを利用した人間がいる。
法律は、その違いを見ているのです。
夕方。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日、心裡留保がちょっと好きになりました」
「変な趣味だな」
「ひどい!」
私は、六法を開きました。
「だって、最初は冗談の話だと思ってたんです」
「まあ、典型例はそうだな」
「でも、今回みたいな場合もあるんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
心裡留保。
冗談だけではありません。
本当は違うことを考えているのに、あえて別の意思を表示する。
その場を収めるため。
強がるため。
誰かを守るため。
理由は、いろいろあります。
「でも、先輩」
「何だ」
「どうして原則有効なんでしょう?」
相馬先輩は、少し考えました。
「相手が、本気だと信じて取引することもあるからだろ」
「はい」
「自分だけが本心じゃなかったからって、何でも無効にできたら困る」
私は頷きました。
そうです。
意思表示は、外に出された言葉や行動です。
それを信じた相手の利益も、法律は守らなければなりません。
でも。
「相手が、本心じゃないと知っていたら?」
私が言うと、先輩が答えました。
「そんな奴の信頼まで守る必要はねえ」
「ですよね!」
私は、笑いました。
なるほど。
心裡留保。
原則有効。
例外無効。
その理由が、やっと分かった気がしました。
「ところで、こはる」
片桐所長が、奥から言いました。
「はい!」
「第三者との関係は、どうなる?」
私は、反射的に答えました。
「心裡留保による無効は、善意の第三者に対抗できません!」
「根拠は?」
「民法九十三条二項です!」
……。
沈黙。
相馬先輩が、ゆっくりこちらを見ました。
「……こはる」
「はい?」
「今、何つった?」
……。
しまった。
「……九十三条二項」
「ねえよ」
「……はい」
「昭和六十三年には、ねえよ!」
「すみません!」
私は、頭を抱えました。
またやってしまいました。
現代の民法。
令和の改正民法。
心裡留保による無効は、善意の第三者に対抗できない。
それが、民法九十三条二項に明文化されています。
でも。
昭和六十三年には、まだその条文がありません。
当時は、民法九十四条二項の類推適用という判例上の考え方が問題になるのです。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「未来の条文を使うな」
「はい……」
「目の前の六法を読め」
「はい……」
「試験で間違えるぞ」
「気をつけます!」
私は、ノートに赤字で書きました。
――昭和六十三年には、民法九十三条二項は存在しない。
そして。
もう一つ。
――第三者保護は、当時の判例法理と民法九十四条二項の類推適用で考える。
よし。
これで、時代錯誤は防げるはずです。
……たぶん。
「そういえば先輩」
私は、ふと思いました。
「もし澄江さんが、本当に返金を諦めるつもりで署名していたら?」
「そりゃ、話が違うな」
「ですよね」
「心裡留保じゃねえ」
私は頷きました。
そうです。
あとから後悔しただけ。
そんな場合は、心裡留保とは違います。
そのとき、本当はどうするつもりだったのか。
そこが重要です。
さらに。
相手がその真意を知っていたか。
知ることができたか。
そこまで確認しなければならない。
「だから、最初に『本心じゃないから無効です』って言ったのは間違いだったんですね」
「そうだ」
「反省します……」
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「法律は、結論から考えるな」
「……はい」
「まず、事実だ」
私は、頷きました。
澄江さんは、返金を求めていた。
それを、書面でも示していた。
写真館の社長は、返金要求を知っていた。
さらに。
娘の前で騒ぎたくないという事情を利用して、返金不要と言わせた。
そこまで揃って、初めて。
民法九十三条ただし書が、事件の鍵になったのです。
「所長」
私は言いました。
「法律って、条文を覚えるだけじゃ足りないんですね」
「そうだ」
「誰が、何を知っていたか」
「うん」
「何を考えて、どんな言葉を口にしたか」
「そうだ」
「そこまで見ないと、正しい結論にはたどり着けない」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は、ノートの最後に一行を書きました。
――心裡留保は「本心じゃない」だけでは無効にならない。相手が真意を知り、または知ることができたかが決め手になる。
「……できた!」
私は、ノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が、ちらりと見ました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「絶対褒めました!」
私は笑いました。
そのとき。
相馬先輩が、机の上の帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい?」
「今日の掃除、お前がやれ」
「ええっ!?」
「見習いだろ」
「でも、昨日も私がやりましたよ!」
「今日も頼む」
私は、腕を組みました。
「……分かりました。喜んで掃除します!」
相馬先輩が、こちらを見ました。
「本当か?」
「……」
「喜んで、か?」
「……」
私は、にっこり笑いました。
「もちろんです!」
……。
先輩が、にやりとしました。
「こはる」
「はい?」
「それ、心裡留保か?」
……。
しまった。
「……先輩」
「何だ」
「私が本当に喜んでると思います?」
「思わねえな」
「ですよね!」
「じゃあ、真意と違うと分かってるわけだ」
「そうです!」
私は、得意になりました。
「つまり、先輩は私の真意を知っている! だから、民法九十三条ただし書で――」
「待て」
「はい?」
「俺は、お前の『喜んで』って気持ちを買ったわけじゃねえぞ」
「……え?」
「掃除を頼んだんだ」
……。
私は、止まりました。
相馬先輩は笑いました。
「お前、掃除すること自体は承知したんだろ?」
「……はい」
「じゃあ、『喜んで』が本心じゃなくても、掃除するって話は別だ」
……。
私は、ゆっくり片桐所長を見ました。
「所長……」
「何だ」
「先輩が、民法を悪用しています」
「していない」
所長は、帳簿から顔を上げずに答えました。
「掃除は頼んだ」
「……!」
「よろしく」
……。
私は、箒を手に取りました。
「分かりましたよ!」
相馬先輩が笑います。
「ほら、掃除しろ」
「でも先輩!」
「何だ!」
「私、今度は絶対に心裡留保を間違えませんから!」
「なら、さっさと掃除しろ!」
「はいっ!」
私は、笑いながら床を掃き始めました。
窓の外。
夕暮れの町に、明かりが灯っていきます。
そのどこかで。
澄江さんは、娘さんの結婚写真を眺めているのでしょう。
あの日。
本当は返金してほしかった。
でも、娘の前では揉めたくなかった。
だから。
「もう、返金はいりません」
そう言ってしまった。
その一言を、写真館の社長は利用しようとした。
でも。
民法は、その言葉だけで、すべてを決めるわけではありません。
言った本人が、本当は何を考えていたのか。
それを相手が知っていたのか。
知ることができたのか。
そこまで考える。
民法九十三条。
心裡留保。
難しい名前。
ちょっと覚えにくい条文。
でも。
私は今日、その意味を少しだけ理解できた気がしました。
人は、いつも本心を口にできるわけではない。
誰かを守るために。
場を収めるために。
ときには、涙を飲み込んで。
本心とは違うことを言ってしまう。
そんなとき。
その言葉を信じた相手の正当な利益を守りながら。
事情を知っている者による不当な利用は許さない。
民法は、その公平を考えているのです。
私は、箒を止めました。
今日の教訓。
――言葉と本心が違っても、原則として意思表示は有効。ただし、相手が真意ではないと知り、または知ることができたなら無効になる。
よし。
完璧です。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「箒、止まってるぞ!」
「今、民法九十三条を復習してたんです!」
「掃除しながらやれ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私、掃除が大好きです!」
「嘘つけ!」
「ほら! 私の真意を知ってますね!」
「知ってるよ!」
「じゃあ、九十三条ただし書で――」
「掃除は消えねえ!」
……。
残念ながら。
心裡留保を覚えただけでは、掃除の仕事はなくならないようです。
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