[民法・被補助人]現場編 「少し物忘れがあるなら、財産は俺が管理する」の罠。昭和には存在しない補助制度と、本人の意思を奪おうとした悪徳業者の誤算
人を守ることと、その人から自由を奪うことは、同じではありません。
少し物忘れが増えたから。
難しい契約が苦手になったから。
お金の計算に時間がかかるようになったから。
だからといって。
その人が、自分の財産について何も決められなくなるわけではありません。
むしろ。
誰かの助けが必要になったときこそ。
その人自身の意思が、大切になることがあります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一つの恐ろしい契約書と向き合うことになりました。
そして。
現代なら当たり前に存在するはずの制度が、この時代には影も形もないことを思い知らされるのです。
その制度の名前は。
――補助。
民法の成年後見制度の中で、比較的軽い判断能力の低下がある人を、必要な範囲で支える仕組みです。
ところが。
昭和六十三年の六法には。
その二文字が、まだ存在しなかったのです。
「母の財産が、全部取られそうなんです!」
朝一番。
事務所の扉を開けた女性は、そう叫びました。
三十代後半。
紺色のカーディガン。
手には茶封筒。
顔色が悪い。
「落ち着いてください」
私は椅子を勧めました。
「まず、お名前を」
「小野寺真由美です」
「どのようなご相談でしょうか」
「母が……八百万円の借金を背負わされそうなんです」
「八百万円!?」
思わず声が出ました。
昭和六十三年。
八百万円といえば、相当な金額です。
「お母様が借りたんですか?」
「違います!」
真由美さんは首を振りました。
「保証人にされたんです」
「保証人……」
「しかも、母は何の保証人になったのか、よく分かっていなかったんです!」
私は身を乗り出しました。
「詳しく教えてください」
真由美さんは、茶封筒から一枚の紙を取り出しました。
――金銭消費貸借契約書。
債権者。
東海信用商事株式会社。
債務者。
杉浦建設有限会社。
借入金額。
金八百万円。
そして。
連帯保証人。
小野寺千鶴。
六十八歳。
「……連帯保証人」
私は唇を噛みました。
普通の保証人よりも、重い責任を負う立場です。
「お母様は、どうして署名されたんですか?」
「それが……」
真由美さんは目を伏せました。
「母は、最近少し物忘れが増えているんです」
「物忘れ?」
「買い物もできますし、一人で生活もできます。お金の管理も、普段は自分でしています。でも、難しい説明を一度にされると、混乱してしまうことがあって……」
「なるほど」
「それを知っている人が、母に近づいたんです」
私は嫌な予感がしました。
「誰ですか?」
「東海信用商事の社長、黒田です」
黒田。
五十代の金融業者。
町の小さな会社や商店に金を貸している人物だそうです。
「母は、昔から小さな和菓子屋を営んでいます」
「和菓子屋さんですか」
「はい。父が亡くなってからも、一人で続けているんです」
真由美さんは、少しだけ微笑みました。
「桜餅が評判で。春になると、遠くから買いに来る人もいるくらいで」
私は頷きました。
六十八歳。
一人で和菓子屋を切り盛りする女性。
少し物忘れはある。
でも、自分の店を守り、自分の暮らしを営んでいる。
「黒田は母に、こう言ったそうです」
真由美さんの声が低くなりました。
「『杉浦建設が金を借りるから、昔からの知り合いとして確認のハンコを押してほしい』と」
「確認?」
「はい。母が『保証人になるの?』と聞いたら、『形だけだ。あなたがお金を払うことは絶対にない』って」
私は契約書を見ました。
連帯保証人。
はっきり書かれています。
「でも……」
真由美さんが続けました。
「母は、その言葉を信じてしまったんです」
そして署名した。
実印まで押した。
それから二か月。
杉浦建設は返済を滞らせた。
すると。
黒田から突然、通知が届いたのです。
――連帯保証人として、残債務全額の支払を請求する。
支払期限。
十日以内。
さらに。
――履行なき場合は、所有不動産に対する法的措置を検討する。
「母の店も、土地も、母の名義なんです」
真由美さんは震える声で言いました。
「黒田は、それを最初から知っていたんだと思います」
私は契約書を握りしめました。
八百万円。
和菓子屋。
六十八歳の女性。
そして。
判断能力が少し低下していることにつけ込んだ、悪質な勧誘。
これは。
絶対に放っておけません。
「大丈夫です!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「こういう場合は、被補助人の制度を使えます!」
真由美さんが顔を上げます。
「被補助人?」
「はい!」
来ました。
民法。
成年後見制度。
行政書士試験でも重要な論点です。
「精神上の障害によって事理を弁識する能力が不十分な方については、家庭裁判所が補助開始の審判をする制度があるんです!」
私は説明を続けました。
「被補助人は、基本的には自分で契約できます。でも、必要な行為についてだけ補助人の同意を必要とすることができるんです!」
そう。
これです。
成年後見。
保佐。
補助。
その中でも、補助は本人の自己決定を尊重しながら、必要な部分だけを支援する制度。
「借金や保証契約について同意権を付与してもらえば――」
「待て」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい?」
「何だ、その『被補助人』ってのは」
「え?」
「初めて聞くぞ」
私は固まりました。
「……被補助人ですよ?」
「だから何だ、それは」
「民法十五条の……」
言いかけて。
頭の中で警報が鳴りました。
あ。
ああああっ!
しまった!
私は今、何年にいるんでしたっけ!?
昭和六十三年!
一九八八年!
成年後見制度の導入は、一九九九年の民法改正!
施行は二〇〇〇年!
つまり。
まだ十二年も先です!
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「六法を持ってこい」
「……はい」
私は棚から民法を取り出しました。
慌てて開きます。
十五条。
そこに。
現代の補助開始の規定はありません。
「……ない」
「何がだ」
相馬先輩が聞きました。
「補助開始の審判が……」
「当たり前だろ」
先輩は呆れた顔をしました。
「今は禁治産者と準禁治産者の時代だぞ」
「ですよね……」
「何が『ですよね』だ」
私は額を押さえました。
またです。
未来の民法。
またしても、昭和の現場で使おうとしてしまいました。
「じゃあ、準禁治産者として……」
「それも待て」
片桐所長が遮りました。
「はい?」
「千鶴さんは、準禁治産の宣告を受けているのか」
真由美さんが首を振りました。
「いいえ。そういう手続は何もしていません」
「そうですか」
所長は頷きました。
「では、準禁治産者であることを理由に、この保証契約を取り消すことはできません」
「……そんな」
真由美さんの顔が曇りました。
私も黙りました。
現代なら。
判断能力の低下が比較的軽い人でも、必要な部分だけ支援する補助制度があります。
しかし。
この昭和六十三年には、存在しません。
しかも。
現代の制度であっても、契約した後で補助開始の審判を受けたからといって、過去の契約を当然に取り消せるわけではない。
そのことにも気づきました。
「……所長」
「何だ」
「では、どうすれば」
所長は契約書を見ました。
「本人に会おう」
「え?」
「千鶴さん自身に話を聞く」
私は顔を上げました。
「ご家族だけでは駄目なんですか?」
「駄目だ」
所長は短く言いました。
「財産を失おうとしているのは、誰だ」
「……千鶴さんです」
「なら、まず本人だ」
その一言で。
私は、何か大切なことを教えられた気がしました。
翌日。
小野寺千鶴さんが事務所にやって来ました。
薄紫色の着物。
白髪をきれいに結っています。
手には、小さな風呂敷。
「ご迷惑をおかけします」
そう言って、丁寧に頭を下げました。
「いえ、こちらへどうぞ」
私は椅子を勧めました。
千鶴さんは座ると、風呂敷を開きました。
「これ、今朝作った桜餅です」
「えっ!」
「相談に乗っていただくのに、手ぶらでは申し訳なくて」
中には、桜色の和菓子が並んでいました。
きれいです。
葉の香りがふわりと広がります。
「ありがとうございます!」
私は思わず笑顔になりました。
千鶴さんも微笑みます。
その表情は穏やかでした。
会話も普通です。
自分の名前も。
店の場所も。
暮らしのことも。
しっかり理解しています。
ただ。
「黒田さんに何度も説明されたんですけどねえ」
千鶴さんは困ったように笑いました。
「難しい言葉が多くて。途中から、よく分からなくなってしまって」
「保証人という言葉は、知っていましたか?」
私が尋ねました。
「ええ。知っていますよ」
「どういうものだと思っていました?」
「お金を借りた人が返せなくなったとき、代わりに責任を負う人でしょう?」
私は驚きました。
理解しています。
「では、どうして署名されたんですか?」
「黒田さんが、これは普通の保証とは違うと言ったんです」
「違う?」
「名前だけ貸してくれればいい。絶対に私に請求しない。そういう約束になっていると」
千鶴さんは手元を見ました。
「私、何度も聞いたんですよ」
「何をですか?」
「本当に、お金を払わなくていいんですねって」
私は黙りました。
「黒田さんは、そのたびに笑って」
千鶴さんは小さく息を吐きました。
「『千鶴さんは心配性だな。昔からの付き合いでしょう』って」
……。
私は胸が苦しくなりました。
千鶴さんは、何も考えずに署名したのではありません。
保証人になることの危険性を、ちゃんと気にしていた。
だから質問した。
何度も確かめた。
でも。
その質問に、黒田は虚偽の説明を重ねたのです。
「千鶴さん」
片桐所長が尋ねました。
「もし、杉浦建設が返済できなければ、ご自分が八百万円を支払うことになると説明されていたら、署名しましたか」
「しません」
即答でした。
「絶対に?」
「はい」
千鶴さんは顔を上げました。
「あの店は、主人と四十年かけて守ってきたものです」
声が、少し震えました。
「桜餅の作り方も、主人が亡くなる前に一緒に考えたんです」
千鶴さんは膝の上で手を握りました。
「私は、あの店を続けたい」
そして。
「誰かに迷惑をかけるために、あそこを守ってきたんじゃありません」
静かな言葉でした。
でも。
その声には、はっきりした意思がありました。
私は思いました。
この人を。
ただ「判断能力が不十分な人」という一言で片づけてはいけない。
理解できることがある。
難しいこともある。
助けが必要な場面もある。
でも。
自分の人生を、どう生きたいか。
その気持ちは、誰よりも本人が持っているのです。
「所長」
私は尋ねました。
「千鶴さんのような方を、昭和の制度ではどう守ればいいんでしょうか」
所長は少し考えました。
「準禁治産制度の利用を検討する余地はある」
「はい」
「だが、心神耗弱に当たるかは、医学的事情なども踏まえて判断される。少し物忘れがあるというだけで、宣告が認められるとは限らん」
「そうですね」
「それに、宣告されていない今の契約については、別の問題を考えなければならない」
私は頷きました。
「意思能力でしょうか?」
「一つの可能性ではある」
所長は千鶴さんを見ました。
「しかし、この方は保証の危険を理解して、何度も質問している」
「はい」
「署名時に意思能力がなかったと、簡単には断定できない」
私は唇を噛みました。
では。
どうする。
そのとき。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「相手の説明を、もう一度考えてみろ」
「説明?」
「保証人だと分かっていた。危険も感じていた。だから質問した」
「はい」
「それに対して、黒田は何と言った」
私は思い出しました。
名前だけ。
形式だけ。
絶対に請求しない。
……あ。
「先輩」
「何だ」
「これって……」
「言ってみろ」
「詐欺ではありませんか?」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「やっと出たな」
私は六法を開きました。
民法九十六条。
詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる。
これです。
現代でも昭和でも。
基本となる考え方は同じ。
相手を欺き、その誤信によって意思表示をさせた場合。
その意思表示は、取り消すことができる。
「千鶴さんが難しい契約を苦手としていたことは、重要な事情です」
私は言いました。
「でも、今回の決定的な問題は、それだけじゃありません」
「そうだ」
「黒田が、支払義務について嘘をついていたことです!」
所長が頷きました。
「ただし」
「はい」
「嘘だったと証明できなければならん」
……。
そこです。
いつもの壁。
法律の理屈が正しくても。
証拠がなければ、相手は平気で否定する。
「千鶴さん」
私は尋ねました。
「黒田さんから、何か書面をもらっていませんか?」
「書面?」
「保証の説明が書かれたものです」
千鶴さんは考え込みました。
「……ああ」
「ありますか?」
「そういえば、紙を一枚もらいました」
私は身を乗り出しました。
「どんな紙ですか?」
「黒田さんが、その場で書いてくれたものです」
「何と書かれていました?」
「ええと……」
千鶴さんは少し考えました。
「保証は形式上のものだから、私に支払ってもらうことはない、って」
……。
私は相馬先輩を見ました。
先輩も私を見ました。
「千鶴さん」
相馬先輩が低い声で尋ねました。
「その紙、まだありますか?」
「はい」
「どこに?」
「店の帳簿の間に挟んであります」
先輩は立ち上がりました。
「こはる」
「はい!」
「行くぞ」
「どこへですか?」
「和菓子屋だ」
先輩は上着を手に取りました。
「八百万円を動かした紙が、帳簿の間で寝てるかもしれねえ」
私は慌てて立ち上がりました。
昭和の法律。
昭和の証拠集め。
今度も、泥臭い戦いになりそうです。
小野寺和菓子店。
商店街の一角。
木製の看板には、
――御菓子司 小野寺。
と書かれています。
店先には、桜餅。
草餅。
豆大福。
そして、小さな木札。
――本日のおすすめ 栗まんじゅう。
「いい店ですね」
私が言うと、千鶴さんが笑いました。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て。
私は、ますます思いました。
この店を、守らなければ。
千鶴さんは奥から帳簿を持ってきました。
赤い布張り。
使い込まれた帳簿です。
「たしか、このあたりに……」
ページをめくります。
そして。
「あった」
一枚の紙。
便箋の切れ端。
そこには、万年筆でこう書かれていました。
――本件保証は取引上の形式としてお願いするものです。
――小野寺千鶴様に実際の支払をお願いすることはありません。
――東海信用商事 黒田。
私は息を呑みました。
「……これ」
相馬先輩が受け取りました。
じっと読みます。
「千鶴さん」
「はい」
「これは、黒田本人が書いたんですね」
「ええ。私が何度も心配したので」
「その場で?」
「はい」
「署名も本人が?」
「そうです」
先輩は頷きました。
「こはる」
「はい」
「この紙、何を意味すると思う」
私は考えました。
保証人の署名がある。
連帯保証契約書もある。
でも、それと同時に。
債権者自身が。
支払を求めないと書いている。
「契約内容について、別の合意があった可能性があります」
「そうだ」
「そして、仮に黒田が最初からその約束を守るつもりもなく、千鶴さんを信用させるために書いたのなら……」
「詐欺を裏づける証拠になる」
先輩が頷きました。
私は紙を見つめました。
ただし。
この一枚だけで、詐欺が必ず成立すると断定できるわけではありません。
黒田が何を認識していたのか。
保証契約書と、この覚書の関係はどうなっているのか。
説明の経緯。
その後の行動。
全部を調べる必要があります。
「相馬先輩」
「何だ」
「契約書だけを見ると、千鶴さんが不利ですよね」
「ああ」
「でも、この紙を合わせると、全然違います」
「そうだな」
先輩は紙を封筒に入れました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
「今回は黒田の署名ですね」
「そういうことだ」
私は思わず笑いました。
でも。
先輩は、すぐに真顔に戻りました。
「まだ証拠は足りねえ」
「え?」
「これが、単なる支払猶予の約束だったと言い逃れするかもしれん」
「……確かに」
「債務者の杉浦建設にも事情を確認する。本人が持っている資料も洗い出す」
なるほど。
一枚の紙で勝ち誇ってはいけない。
相手の反論まで考えておく。
それが、昭和の代書屋の戦い方なのです。
数日後。
私たちは、さらに重要な資料を手に入れました。
杉浦建設の元経理担当者が、千鶴さん本人の求めに応じて提供した、当時の打合せ記録の写しです。
そこには。
――黒田社長より、担保として小野寺家不動産を念頭に保証人を確保する方針との説明あり。
と記されていました。
さらに。
――本人が保証を渋る場合は、請求しない旨を強調する。
……。
私は紙を持つ手に力が入りました。
「先輩」
「何だ」
「これ……」
「ああ」
先輩の声が低くなりました。
「最初から、財産を狙っていた疑いがある」
私は深く息を吸いました。
もちろん、この内部記録の作成経緯や信用性も確かめる必要があります。
ですが。
千鶴さんの話。
黒田本人の覚書。
杉浦建設側の記録。
三つが、一本の線でつながり始めていました。
黒田は。
千鶴さんが保証を怖がっていることを知っていた。
その不安を消す説明をした。
そして、実際には不動産からの回収を考えていた可能性がある。
もしそうなら。
契約書に実印があることなど。
黒田を守る盾にはなりません。
「保証人が、何を言ってるんだか」
東海信用商事の応接室。
黒田社長は、革張りの椅子にふんぞり返っていました。
口元には余裕の笑み。
机の上には、例の金銭消費貸借契約書。
「小野寺さんが自分で署名したんだろ?」
黒田は言いました。
「実印も押してある。印鑑証明もある。何の問題があるんだ」
私は唇を噛みました。
相馬先輩は、落ち着いた声で答えました。
「契約当時の説明について、事実確認をお願いします」
「事実確認?」
「千鶴さんに、実際の支払を求めることはないと説明したそうですね」
黒田の笑みが、わずかに薄れました。
「そんなこと、覚えてねえな」
「そうですか」
「年寄りの記憶違いだろ」
……。
私は思わず顔を上げました。
年寄りの。
記憶違い。
なんて言い草でしょう。
「千鶴さんは、何度も確認したとおっしゃっています」
「だから?」
黒田は鼻で笑いました。
「あの婆さん、最近物忘れがひどいんだよ」
私は拳を握りました。
「難しいことなんか、よく分かってねえんだろ」
「……なら!」
私は思わず口を開きました。
「そんな方に、どうして八百万円もの連帯保証をさせたんですか!」
黒田の目が細くなりました。
「お嬢ちゃん」
「はい」
「契約ってのはな、大人が自分の責任でするもんなんだよ」
黒田は書面を指で叩きました。
「嫌なら署名しなきゃよかった。それだけだ」
……。
私は言葉を失いました。
すると。
相馬先輩が、静かに言いました。
「ご説明は承りました」
「何?」
「連帯保証契約は有効であり、千鶴さんに支払義務がある。社長のお考えは、そういうことですね」
「ああ」
「分かりました」
先輩は立ち上がりました。
「本日は失礼します」
私は驚きました。
「先輩!」
「行くぞ」
「でも!」
「いいから」
黒田は笑いました。
「行政書士なんか連れてきたって無駄だよ!」
……。
ものすごく腹が立ちました。
ですが。
事務所を出たところで、相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい!」
「俺たちは弁護士じゃねえ」
「……はい」
「依頼人の代理人として、相手と法律紛争の示談交渉を引き受けることはできねえ」
「分かっています」
「なら、口で勝とうとするな」
先輩は煙草を取り出しました。
「黒田の立場は分かった」
「はい」
「次は、本人名義の内容証明だ」
私は顔を上げました。
「反撃ですね!」
「そうだ」
先輩は煙草に火をつけました。
「ただし、感情で書くなよ」
「はい!」
「相手が何と言い逃れようと、事実と法律で反論できる書面にしろ」
私は頷きました。
よし。
黒田社長。
あなたが笑っていられるのも、今のうちです。
と言いたいところですが。
私は、口には出しませんでした。
その代わり。
六法を開くことにしたのです。
片桐行政書士事務所。
午後三時。
机の上には、資料が並んでいました。
連帯保証契約書。
黒田の覚書。
杉浦建設の打合せ記録。
千鶴さんの事実確認書。
そして。
民法。
「まず、原案を書いてみろ」
片桐所長が言いました。
「はい!」
私は鉛筆を走らせました。
――小野寺千鶴は、判断能力が不十分な被補助人であるため、本件保証契約を取り消す。
「……」
所長が赤鉛筆を取りました。
一本。
大きな線。
「こはる」
「はい」
「また未来の法律を書いたな」
「……あっ!」
しまった!
完全に手癖です!
「この時代に被補助人はいない」
「はい……」
「しかも、仮に現代の補助制度があったとしても、補助開始だけを理由に過去の契約が取り消せるわけではない」
「そうでした……」
所長は原案を戻しました。
「書き直せ」
「はい!」
私は紙を破りました。
そして。
もう一度、書き始めます。
今度は。
昭和六十三年に、実際に存在する法律で。
――通知書。
――通知人 小野寺千鶴。
――被通知人 東海信用商事株式会社。
私は読み上げました。
「第一。通知人は、昭和六十三年六月三十日、貴社との間で、杉浦建設有限会社の債務八百万円について、連帯保証契約書に署名押印した」
「うん」
「第二。契約締結に先立ち、通知人は、保証人として支払義務を負うことがあるのか、複数回確認した」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第三。これに対し、貴社代表者黒田は、本件保証は形式上のものであり、通知人に実際の支払を請求することはない旨を説明し、同趣旨の書面を交付した」
「うん」
「第四。通知人は、右説明を信じ、実際に支払を請求されることはないものと誤信して署名押印した」
私は一度、息を吸いました。
「第五。しかし、貴社はその後、本件保証を根拠として通知人に支払を請求した。さらに、契約締結当時の打合せ記録には、通知人の所有不動産を回収の引当てとして想定し、保証を渋る場合には請求しない旨を強調するとの記載がある」
所長が頷きました。
「慎重に続けろ」
「第六。以上の経緯から、貴社代表者は、通知人に支払義務を負わせる意思を有しながら、その事実を秘して虚偽の説明を行い、通知人を誤信させて保証契約を締結させたものと考える」
私は鉛筆を置きました。
そして。
最後の一文。
「第七。よって、通知人は、民法第九十六条第一項に基づき、本件連帯保証契約に係る意思表示を、詐欺を理由として取り消す」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私はほっとしました。
ところが。
「まだだ」
所長が言いました。
「えっ!」
「相手は、どう反論してくる」
私は考えました。
「……形式上というのは、返済される見込みが高いという意味だった、とか?」
「そうだ」
「それから、請求しないという覚書も、単なる見込みを述べただけだ、と言い出すかもしれません」
「うん」
「でも、その後すぐに全額請求している。しかも、内部記録では、最初から不動産を回収の引当てに考えていた可能性がある」
所長が頷きました。
「そこを整理しろ」
「はい!」
私は書き足しました。
黒田の説明。
覚書の文言。
打合せ記録。
千鶴さんが署名した理由。
それらのつながりが分かるように。
相馬先輩が言いました。
「いいか、こはる」
「はい」
「千鶴さんの物忘れだけを理由に、契約が無効だとか取り消せるとか、決めつけるな」
「はい」
「物忘れがあっても、自分で有効に契約できる人はいる」
「そうですね」
「逆に、普段は判断力に問題がない人だって、嘘をつかれれば騙される」
私は頷きました。
そうです。
今回の争点は。
千鶴さんが六十八歳だから、ではない。
少し物忘れがあるから、でもない。
黒田が、故意に虚偽の説明をして契約させたかどうか。
そこです。
「所長」
私は尋ねました。
「もし千鶴さんに何の物忘れもなかったとしても、今回の詐欺取消しは問題になりますよね」
「当然だ」
「つまり」
私は言いました。
「本人を『判断能力が低い人』として扱わなくても、守る方法があるんですね」
所長が静かに頷きました。
「そうだ」
私は、その言葉に少し救われた気がしました。
法律は。
人の能力を奪わなければ、助けられないわけではないのです。
内容証明郵便の末尾には、こう記されました。
――本通知により、本件保証契約に係る意思表示を取り消したので、通知人に対する保証債務の履行請求を撤回されたい。
――なお、右取消しの効力を争い、なお請求を継続する場合には、弁護士に相談のうえ、債務不存在確認訴訟その他の適切な法的措置を検討する。
私は書面を見つめました。
これなら。
黒田は、単に実印のある契約書を振りかざすだけでは済みません。
千鶴さんに何を説明したのか。
なぜ支払わなくてよいと書いたのか。
なぜ不動産からの回収を想定していたのか。
なぜ、その説明を信じて署名した人に、後から全額を請求したのか。
その一つ一つが、争点になるのです。
「所長」
「何だ」
「もし黒田が裁判で負けたら……」
「詐欺取消しが認められれば、その保証契約を根拠とする請求は通らん」
「差押えも?」
「その保証債務を根拠に適法な強制執行をすることはできなくなる。ただし、訴訟や執行には別途手続がある」
「なるほど……」
私は頷きました。
内容証明そのものに、判決や差押命令の効力があるわけではありません。
でも。
これ以上争えば、裁判で契約の成立経緯を詳しく調べられる。
虚偽説明の証拠も出てくる。
それが黒田にとって、どれほど危険なことか。
この書面は、静かに示していました。
「こはる」
所長が言いました。
「怖い書面になったか」
私は頷きました。
「はい」
「何が怖い」
「相手を脅していないのに、相手が自分の行為を説明しなければならなくなるところです」
所長は短く笑いました。
「それでいい」
私は少し嬉しくなりました。
そして。
千鶴さんに完成した通知書を読んでもらいました。
難しい言葉は、一つずつ説明しました。
千鶴さんは、何度か質問しました。
そのたびに、私は答えました。
ゆっくり。
急がず。
最後に。
「これは、私が契約を取り消すという手紙なんですね」
千鶴さんが言いました。
「はい」
「私の名前で送るんですね」
「そうです」
千鶴さんは頷きました。
「送ってください」
そして。
自分の手で。
署名し、印鑑を押しました。
その赤い印影を見たとき。
私は、不思議な気持ちになりました。
同じ人の。
同じ印鑑。
けれど。
今度は、きちんと説明を受けて。
納得したうえで。
自分の意思を表すために押した印鑑でした。
内容証明郵便が届いてから、三日後。
東海信用商事の黒田は、顧問弁護士の事務所を訪れていました。
「……どういうことだ」
黒田は、机の上の通知書を見つめていました。
弁護士は落ち着いた声で言いました。
「この書面に書かれた事情が事実なら、危険ですね」
「危険?」
「保証契約が、詐欺を理由に取り消される可能性があります」
「しかし、署名も実印もある!」
「それは契約締結を示す重要な証拠です」
弁護士は頷きました。
「ですが、詐欺によって署名させたのであれば、話は別です」
黒田の顔がこわばりました。
「それに」
弁護士は、一枚の紙を指しました。
――実際の支払をお願いすることはありません。
「これは、あなたが書いたんですか」
「……ああ」
「千鶴さんに、支払を求める可能性を説明したんですか」
「だから、形式上の保証だと……」
「聞いているのは、そこではありません」
弁護士の声が少し厳しくなりました。
「あなたは、支払を請求するつもりがないと伝えながら、実際には相手の不動産から回収することを考えていたんですか」
「……」
「もしそうなら、詐欺の故意を推認させる事情になります」
黒田は黙りました。
弁護士は続けます。
「杉浦建設側の打合せ記録についても、確認が必要です」
「そんな内部の紙が、証拠になるのか?」
「当然、作成者や内容の信用性は争点になります。ただし、あなたの覚書と一致する点があります」
黒田の額に汗が浮かびました。
「このまま訴訟になれば、契約締結までの説明が調べられることになります」
「……」
「保証契約の効力が否定されれば、千鶴さんから回収することはできません」
黒田は唇を噛みました。
「しかも」
弁護士は静かに言いました。
「事情によっては、民事上の問題だけでは済まない可能性もあります」
黒田の顔から、すっと血の気が引きました。
あのとき。
六十八歳の女性なら、強く請求すれば払うだろうと思った。
娘が騒いでも、実印があると言えば黙ると思った。
行政書士が来ても、何もできないと笑った。
ところが。
今、机の上にあるのは。
難しい法律用語を並べただけの紙ではありません。
自分が書いた覚書。
自分が指示したとされる回収方針。
自分が相手に説明した言葉。
それらが、民法九十六条につながっている。
「……先生」
黒田は小さな声で言いました。
「どうすればいい」
弁護士は答えました。
「少なくとも、これ以上の請求を続けるかどうか、慎重に考えるべきです」
黒田は、しばらく黙っていました。
そして。
「……請求は取り下げる」
絞り出すように言いました。
それから二日後。
小野寺千鶴さんの自宅に、一通の書留郵便が届きました。
差出人。
東海信用商事株式会社。
中には、一枚の通知書。
――当社は、貴殿に対する本件連帯保証債務の履行請求を撤回いたします。
――本件保証契約については、貴殿の取消しの意思表示を争わず、今後、当該契約に基づく請求を行いません。
――なお、当社において保管する保証契約書については、失効したものとして処理いたします。
千鶴さんは、それを持って事務所へ来ました。
「先生方……」
声が震えています。
「もう、八百万円を払わなくていいんでしょうか」
私は書面を確認しました。
相馬先輩も確認しました。
片桐所長が頷きます。
「相手方は保証契約の取消しを争わず、請求しないと明記しています」
「……そうですか」
千鶴さんは椅子に座りました。
そして。
両手で顔を覆いました。
「よかった……」
小さな声でした。
「お店を、手放さずに済むんですね」
私は胸が熱くなりました。
「はい」
千鶴さんは何度も頷きました。
「主人に申し訳なくて……」
「……」
「私が、よく分からない紙にハンコを押したばっかりに……」
私は首を振りました。
「千鶴さん」
「はい」
「千鶴さんは、何度も質問したんですよね」
「ええ」
「お金を払うことになるのか、確かめたんですよね」
「はい」
「だったら、千鶴さんは何も考えていなかったわけじゃありません」
私は静かに言いました。
「それに、質問に嘘で答えた相手の責任は、別に考えなければいけません」
千鶴さんは顔を上げました。
「……そうですね」
それから。
少し笑いました。
「私、もう年だから」
私は黙って聞きました。
「難しいことは、昔より苦手になったんです」
「はい」
「でもね」
千鶴さんは、まっすぐ私を見ました。
「自分の店をどうしたいかくらいは、まだ自分で決めたいんです」
私は頷きました。
「もちろんです」
「娘は、もう店を閉めたらって言うんですけどね」
千鶴さんは笑いました。
「私は、もう少し桜餅を作りたい」
「素敵だと思います」
「来年も、その次の年も」
その声には、迷いがありませんでした。
千鶴さんは。
誰かに代わりに人生を決めてもらいたいわけではない。
ただ。
難しい契約をするとき。
分からないことがあったとき。
その部分だけ、助けてほしかった。
それだけなのです。
千鶴さんが帰ったあと。
私は机の上の六法を開いていました。
「……先輩」
「何だ」
「今回、私、最初から間違えてました」
「いつものことだな」
「ひどい!」
「で?」
私は苦笑しました。
「千鶴さんを守るために、すぐ被補助人にしようと考えたんです」
「ああ」
「でも、制度が存在しなかっただけじゃありません」
私は続けました。
「そもそも、最初に確認すべきなのは、本人がどうしたいかだったんですね」
相馬先輩は煙草を消しました。
「そうだな」
「財産を守るために、全部を誰かが管理する必要はない」
「うん」
「必要なところだけ、助ければいい」
私は六法を見つめました。
現代の民法。
補助開始。
被補助人。
補助人。
私は、その言葉を思い出しました。
判断能力が不十分な人。
しかし、原則として自分で法律行為ができる。
家庭裁判所が、必要な範囲で同意権や代理権を付与する。
本人以外から補助開始を申し立てる場合には、本人の同意が必要になる。
そして。
補助人は、本人の意思を尊重し、その心身の状態や生活状況に配慮しなければならない。
……ああ。
そういうことだったんですね。
私は、ようやく腑に落ちました。
現代の補助制度は。
ただ、契約を取り消すためだけの制度ではない。
本人に代わって、何もかも決める制度でもない。
本人ができることは、本人がする。
難しいところは、必要なだけ支える。
その考え方に、意味があるのです。
「でも」
私は呟きました。
「昭和六十三年には、まだその制度がないんですよね」
「ねえな」
相馬先輩が答えました。
「今は禁治産と準禁治産だ」
「はい」
「制度がねえなら、今ある法律を使って守るしかねえ」
私は頷きました。
民法九十六条。
詐欺による取消し。
今回、千鶴さんを守ったのは、その条文でした。
けれど。
心の中に残ったのは、もう一つ。
人を助けるとき。
その人の人生を、勝手に奪ってはいけない。
ということです。
夕方。
事務所の扉が、もう一度開きました。
「こんにちは」
千鶴さんでした。
手には、風呂敷。
「どうされたんですか?」
私が尋ねると、千鶴さんは笑いました。
「お礼を持ってきました」
風呂敷の中には。
桜餅。
草餅。
そして。
栗まんじゅう。
「こんなに!」
「皆さんで召し上がってください」
私は思わず笑いました。
「ありがとうございます!」
すると。
千鶴さんが、少し申し訳なさそうに言いました。
「それと、もう一つお願いがあるんです」
「何でしょう?」
「これから、大きな契約をするときは、娘にも一緒に説明を聞いてもらおうと思うんです」
「はい」
「でも、最後に決めるのは、私でいいんですよね?」
私は頷きました。
「もちろんです。法律上、別の制限がある場合などを除けば、ご本人が判断して決めることが基本です」
千鶴さんは嬉しそうに笑いました。
「よかった」
そして。
「私、まだ店を続けたいから」
その言葉を聞いて。
私は思いました。
守るべきものは。
八百万円だけではなかったのです。
和菓子屋の土地。
小さな店舗。
四十年続いた暖簾。
亡くなった夫との思い出。
そして。
千鶴さん自身が、自分の人生を選ぶ自由。
民法は。
その全部に関わっているのです。
千鶴さんが帰ったあと。
私はノートを開きました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日の教訓、書きます」
「勝手に書け」
「聞いてくださいよ!」
「何でだよ」
私は鉛筆を握りました。
そして。
大きく、一行。
――人を守る法律は、その人の意思まで奪ってはいけない。
「どうですか!」
相馬先輩は、ちらりとノートを見ました。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
奥で帳簿を閉じていた片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい!」
「今日、千鶴さんを守ったのは何だ」
私は答えました。
「民法九十六条です!」
「それだけか」
私は考えました。
詐欺取消し。
黒田の覚書。
内部記録。
千鶴さん本人の説明。
そして。
「……千鶴さん自身が、何度も質問していたことです」
所長が頷きました。
「そうだ」
「本人が、自分の財産を守ろうとした。その言葉が、証拠につながったんですね」
「うん」
私は、もう一度ノートを見ました。
被補助人。
昭和六十三年には、まだ存在しない制度。
でも。
その制度が将来生まれる意味を。
私は、少しだけ理解した気がしました。
法律が人を守る方法は、一つではありません。
何もかも代わりに決めることだけが、保護ではない。
自分でできることを残しながら。
困ったところを支える。
それも、立派な保護なのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「さっきから、何を考えてる」
「未来の民法です」
「またか」
「先輩!」
「何だ」
「将来、補助っていう制度ができたら、すごく便利だと思いませんか?」
「知らねえよ」
「判断能力が少し不十分な人でも、基本的には自分で契約できるんです!」
「ほう」
「ただし、特定の行為についてだけ、補助人の同意を必要とすることができる!」
「ふうん」
「しかも、補助人に代理権を与える場合も、必要な行為に限定できるんです!」
相馬先輩は、少し考えました。
「じゃあ、補助人になった奴は、何でも勝手に契約できるわけじゃねえんだな」
「そうです!」
「なるほどな」
私は嬉しくなりました。
「同意権と代理権も別々なんです!」
「面倒だな」
「大事なんです!」
私は力説しました。
「同意権があるからって、本人に代わって何でも契約できるわけじゃありません!」
「ほう」
「それに、同意権を与えられた行為でなければ、原則として本人が単独で法律行為をできるんです!」
相馬先輩は頷きました。
「確かに、何でもかんでも制限するよりは筋が通ってるな」
「ですよね!」
私は思わず身を乗り出しました。
ところが。
「で、こはる」
「はい?」
「その補助って制度は、今の六法の何条にあるんだ?」
「……」
私は固まりました。
「昭和六十三年の六法には……」
「ないんだろ?」
「……はい」
「だったら今は使うな」
「はいっ!」
また怒られました。
でも。
今度は、少しだけ違います。
未来の制度を知っていること。
それ自体は、悪いことではない。
ただ。
その知識を、今ある法律と混同してはいけない。
そして。
法律がどれだけ変わっても。
人の財産と意思を守るという、大切な考え方は忘れてはいけないのです。
窓の外。
夕暮れの商店街に、店の明かりが灯り始めました。
小野寺和菓子店も、そろそろ暖簾を下ろす頃でしょう。
あの小さな店で。
千鶴さんは、明日の桜餅の仕込みをしているかもしれません。
自分の手で。
自分の考えで。
自分の暮らしを続けるために。
私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。
――人を守る法律は、その人の意思まで奪ってはいけない。
よし。
これは、忘れません。
そのとき。
相馬先輩が、栗まんじゅうを一つ手に取りました。
「こはる」
「はい?」
「これ、うまいぞ」
「本当ですか!」
「ああ」
「私も食べます!」
私は風呂敷を覗き込みました。
……。
ない。
「あれ?」
私は皿を見ました。
空です。
「先輩」
「何だ」
「栗まんじゅう、全部食べました?」
「ああ」
「全部!?」
「うまかったからな」
「ひどい!」
私は抗議しました。
「私の分もあったでしょう!」
「名前は書いてなかったぞ」
「そういう問題じゃありません!」
相馬先輩は、にやりと笑いました。
「じゃあ民法で取り返してみろ」
「……!」
私は六法に手を伸ばしました。
そして。
止まりました。
……いや。
待ってください。
栗まんじゅうが誰の所有だったか。
誰に贈与されたのか。
その分配について合意があったのか。
全部、考え始めたら。
ものすごく面倒な話になります。
「先輩」
「何だ」
「今回は、法律を使わないことにします」
「ほう」
「その代わり!」
「何だよ」
「明日、千鶴さんのお店に買いに行きます!」
相馬先輩は笑いました。
「そりゃいい」
私も笑いました。
そうです。
人を守る法律があって。
安心して商売を続けられる人がいて。
その人の作ったお菓子を、買いに行ける。
それで十分です。
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