[民法・被保佐人]法理編 こはるノート
人を守ることと、人の自由を奪うことは、同じではありません。
自分で買い物ができる。
畑を耕すこともできる。
近所の人と話すこともできる。
けれど。
三百万円の借金や、土地を六年間貸す契約となると、話は別です。
その契約によって、何を失うか。
将来、どんな責任を負うか。
そこを十分に判断できない人もいます。
だから民法には、保佐という仕組みがある。
ただし。
昭和六十三年の保佐と、現代の保佐は、同じではありません。
名前が違う。
条文が違う。
そして。
誰が契約を取り消せるのかという、決定的な違いまであるのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「今日、ものすごく重要なことに気づきました」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「また未来の法律か?」
「はい!」
「元気よく答えるな」
私は鉛筆を握り直しました。
「昭和の準禁治産者と、現代の被保佐人。ほとんど同じだと思っていたんです」
「ほう」
「でも、違いました」
「何がだ」
私はノートに大きく書きました。
――誰が取り消せる?
相馬先輩の目が、少し鋭くなりました。
「……いいところに気づいたな」
「褒めましたね!」
「まだだ」
今日もまた。
民法の落とし穴を、一つずつ埋めていくことになりそうです。
「まず、昨日の事件を振り返ります!」
私はノートを開きました。
相談者。
野村清一さん。
六十二歳。
家庭裁判所から準禁治産宣告を受けている男性。
保佐人は、妹の和子さん。
悪徳業者。
東栄開発株式会社。
社長、黒田勝彦。
そして問題になったのは、二つの契約でした。
一つ目。
三百万円の金銭消費貸借契約。
二つ目。
土地を六年間貸す賃貸借契約。
「清一さんは、どちらも和子さんの同意を得ずに契約してしまったんです」
「そうだったな」
「でも、最終的には契約が取り消されて、土地も守れました」
「うん」
相馬先輩が頷きました。
「で、どうして取り消せた?」
「準禁治産者が、保佐人の同意を得ずに重要な契約をしたからです!」
「根拠は?」
「旧民法十二条!」
「よし」
私は得意になりました。
ここまでは完璧です。
「では、先輩!」
「何だ」
「そもそも、準禁治産者って、どういう人なんでしょう?」
「お前が説明しろ」
「やっぱりそうなりますよね……」
私は六法を開きました。
昭和六十三年。
民法には、現在の成年後見制度がありません。
当時の制度は。
禁治産。
準禁治産。
というものでした。
「現代の被保佐人に対応するのが、昔の準禁治産者なんですね」
「そうだ」
「そして、準禁治産者には保佐人が付きます」
「うん」
ただし。
私はノートに赤線を引きました。
――制度は似ていても、完全に同じではない。
昭和の準禁治産制度には、精神上の障害によって判断能力が十分でない人だけでなく、浪費者についても宣告を認める仕組みがありました。
一方。
現代の被保佐人は、精神上の障害によって事理を弁識する能力が著しく不十分であり、家庭裁判所から保佐開始の審判を受けた人です。
「浪費する人だからという理由だけで、現代の保佐開始が認められるわけではないんですね」
「時代が変われば、制度も変わるってことか」
「はい!」
私は頷きました。
ここ、大切です。
単に呼び名を変えただけではありません。
本人の能力をどこまで制限するべきか。
どうすれば必要な支援を受けながら、自分らしく生きられるか。
そうした考え方の変化が、制度改正の背景にあるのです。
「ちなみに、現代の成年後見制度は平成十一年の改正で整備されて、平成十二年から施行されます」
「……平成十二年?」
「はい」
「今は昭和六十三年だぞ」
「分かってます!」
「なら、まだ十二年も先だ」
私は固まりました。
そうでした。
未来の制度。
まだ影も形もありません。
「こはる」
片桐所長が奥から声をかけました。
「はい!」
「今の法律と、これからの法律を混ぜるな」
「はい……」
「ただし、制度を比べること自体は悪くない」
私は顔を上げました。
「本当ですか?」
「なぜ制度が変わるのかを考えることは、大事だ」
私は大きく頷きました。
よし。
今日も堂々と、未来の民法と昭和の民法を比べていきます。
ただし。
実際の書面には、絶対に未来の条文を書かない。
そこだけは、忘れないようにします。
「次は、被保佐人の行為能力です!」
私はノートに大きく書きました。
――原則、単独で法律行為ができる。
――重要な行為には、保佐人の同意が必要。
「これが一番大事です!」
相馬先輩が頷きました。
「清一さんも、普段の買い物は自分でしてたな」
「はい!」
清一さんは、畑仕事をしています。
種を買う。
肥料を買う。
収穫した野菜を売る。
そうした日常の取引まで、すべて保佐人の同意が必要になるわけではありません。
「つまり、被保佐人になったら、何も一人でできなくなるというのは間違いです」
「そうだな」
「でも、重要な財産に関する契約は別です」
私は昨日の借用書を思い出しました。
三百万円。
清一さんにとって、決して小さくない金額です。
「借金をする場合には、保佐人の同意が必要になります」
「それが旧民法十二条か」
「はい。現代では民法十三条です」
私はノートに二本の線を引きました。
昭和六十三年。
準禁治産者。
旧民法十二条。
現代。
被保佐人。
民法十三条。
「ちなみに、先輩」
「何だ」
「現代の民法十三条一項には、保佐人の同意が必要な行為が十種類あります」
「十種類?」
「はい!」
「面倒だな」
「そうなんです!」
私は思わず机を叩きました。
「行政書士試験では、この十種類を覚えないといけないんですよ!」
「じゃあ、言ってみろ」
「はい!」
私は鉛筆を持ち直しました。
第一。
元本を領収し、又は利用すること。
第二。
借財又は保証をすること。
第三。
不動産その他重要な財産に関する権利の得喪を目的とする行為をすること。
第四。
訴訟行為をすること。
第五。
贈与、和解又は仲裁合意をすること。
第六。
相続の承認、放棄、又は遺産の分割をすること。
第七。
贈与の申込みを拒絶し、遺贈を放棄し、負担付贈与の申込みを承諾し、又は負担付遺贈を承認すること。
第八。
新築、改築、増築、又は大修繕をすること。
第九。
民法六百二条に定める期間を超える賃貸借をすること。
第十。
これらの行為を、制限行為能力者の法定代理人としてすること。
「……以上です!」
私は息を吐きました。
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「長えな」
「長いんです!」
「全部覚えるのか?」
「覚えます!」
「ご苦労なこった」
私は首を振りました。
「でも、丸暗記するより、理由を考えた方が覚えやすいんです」
「理由?」
「はい」
私はノートに大きく書きました。
――財産を大きく減らす危険がある行為。
――重大な義務を負う行為。
――重要な権利を失う行為。
「この三つを考えると、だいたい理解できます」
たとえば。
三百万円を借りる。
返済義務を負います。
誰かの借金を保証する。
他人が返せなければ、自分が支払う危険があります。
土地を売る。
大切な財産を失います。
遺産を放棄する。
本来受け取れる財産を失う可能性があります。
贈与をする。
自分の財産を無償で渡します。
「だから、保佐人の同意が必要なんですね」
「なるほどな」
相馬先輩が頷きました。
私は続けました。
「ただし、ここで一つ注意です」
「何だ」
「単に権利を得たり、義務を免れたりするだけの行為については、現代の民法でも例外があります」
「ほう」
「だから、十種類に似ているからといって、何でも一律に同意が必要とは限りません」
私は赤線を引きました。
――本人に不利益を与えない行為まで、むやみに制限しない。
なるほど。
ここにも、民法の考え方が表れています。
保護は必要。
でも、制限しすぎてもいけない。
その調整が、大切なのです。
「さて、先輩」
「何だ」
「昨日の事件で、一番分かりやすいのは、借金でした」
「ああ」
「三百万円の借財ですから」
「そうだな」
「でも、土地の賃貸借は、少し難しかったですよね」
私はノートをめくりました。
――民法六百二条。
短期賃貸借。
「昨日の土地は、六年間貸す契約でした」
「そうだったな」
「しかも、資材置場として貸す契約です」
私は契約書の条件を書きました。
土地。
六年間。
月額五千円。
ここで問題になったのが、期間です。
「旧民法十二条は、民法六百二条に定める期間を超える賃貸借について、保佐人の同意を必要としていました」
「うん」
「そして、現代の民法十三条一項九号も、六百二条の期間を基準にしています」
私は期間を書き並べました。
樹木の栽植や伐採を目的とする山林。
十年。
それ以外の土地。
五年。
建物。
三年。
動産。
六か月。
「ちなみに、先輩」
「何だ」
「山林なら何でも十年というわけではありません」
「ほう?」
「樹木の栽植や伐採を目的とする山林の賃貸借が十年なんです」
「なるほど」
「それ以外の土地なら、原則として五年の区分です」
私は頷きました。
ここも、試験では大切なところです。
単に。
山林、十年。
土地、五年。
とだけ覚えると、ひっかけ問題に引っかかりかねません。
「清一さんの場合は?」
相馬先輩が聞きました。
「建物所有を目的としない土地の賃貸借でした」
「うん」
「六年間です」
「それで?」
「五年を超えているので、保佐人の同意が必要です!」
「正解」
私は嬉しくなりました。
でも。
「先輩。五年間なら、絶対に同意が不要なんですか?」
相馬先輩が少し笑いました。
「どう思う?」
「……絶対、とは言えません」
「なぜだ」
「その土地に関する契約が、別の意味で重要な財産上の権利の得喪に当たる場合も考えられるからです」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
私は書き足しました。
――期間だけで機械的に判断しない。
土地の利用目的。
契約内容。
法律上の性質。
別の規定の適用。
それらも確認する必要があります。
特に、建物所有を目的とする土地賃貸借では、借地に関する特別法の問題も生じます。
「法律って、本当に面倒ですね……」
「面倒だから、確認するんだ」
相馬先輩が言いました。
「数字だけ覚えて、契約書を読まなかったらどうなる?」
「……間違えます」
「そうだ」
私は頷きました。
五年。
三年。
十年。
数字は覚えやすい。
でも。
どんな契約に、その数字が使われるのか。
そこまで理解しなければ、現場では役に立たないのです。
「そして!」
私はノートをめくりました。
「今日、一番重要なところです!」
相馬先輩が顔を上げました。
「何だ」
「取消権です!」
私は大きく書きました。
――同意がない契約は、当然に無効?
「いいえ!」
私は自分で答えました。
「取り消すことができる、です!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
これは、未成年者のときにも勉強しました。
無効と取消しは、違います。
無効なら、初めから効力が認められません。
取消しができる法律行為は、取消権が行使されるまでは、ひとまず有効なものとして扱われます。
そして。
適法に取り消されると、初めから無効だったものとして扱われます。
「清一さんの契約も、最初から当然に無効だったわけではないんですね」
「そうだ」
「保佐人の同意がないから、取り消すことができた」
「うん」
私は頷きました。
ところが。
ここで、事件の書類を読み返した私は、ある一文に目を止めました。
――保佐人である野村和子は、取消権を行使する。
「……あれ?」
私は固まりました。
「先輩」
「何だ」
「昭和六十三年って、保佐人自身に取消権がありましたっけ?」
相馬先輩が、ゆっくりこちらを見ました。
「……ようやく気づいたか」
「え?」
「六法を開け」
私は慌てて旧民法を開きました。
旧民法十二条。
その第三項。
保佐人の同意を要する行為について、同意を欠く行為は取り消すことができる。
でも。
「……誰が取り消せるか、ここには書いていません」
「そうだ」
「現代の民法なら、被保佐人本人だけでなく、保佐人も取消権を行使できますよね?」
「今は違う。昭和の制度を調べろ」
私は判例集と注釈書を引き寄せました。
しばらくして。
「……あっ!」
声が出ました。
昭和の準禁治産制度では、保佐人は当然に本人の取消権を行使できる立場ではありません。
原則として、取消権を持つのは準禁治産者本人。
保佐人には、同意を与える役割がありましたが、現代の保佐人と同じように、独立した取消権が与えられていたわけではなかったのです。
「……先輩!」
「何だ」
「私、昨日の内容証明で、和子さんにも取消権があるみたいに書こうとしていました!」
「そうだな」
「危ない!」
「危ねえな」
私は頭を抱えました。
すると、片桐所長が机の引き出しから控えを取り出しました。
「だから、発送前に直した」
「え?」
私は控えを受け取りました。
そこには、清一さん本人による取消しの意思表示が、明確に記されていました。
和子さんについては、保佐人として同意を与えていない事実の確認と、清一さん本人の通知を支える立場として整理されています。
「……所長!」
「何だ」
「直してくださっていたんですね!」
「本人の取消しが必要だからな」
私は胸を撫で下ろしました。
そして。
心の中で、深く反省しました。
現代の法律では正しくても。
昭和の法律では、間違いになる。
これは単なる言葉の違いではありません。
取消権を持たない人が取消しを通知しても、それだけでは適法な取消しにならない。
法律実務では、致命的な間違いです。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「誰が取消権を持ってるか。それを確認しねえで内容証明を書くな」
「はい!」
「法律行為が取り消せるかどうかだけじゃ足りねえ」
「はい!」
「誰が、どんな権限で、どんな意思表示をするか。そこまで見ろ」
私は大きく頷きました。
なるほど。
条文を覚えること。
実際に書類を作ること。
この二つの間には、まだまだ深い溝があるのです。
「では、現代の保佐人について整理します!」
私はノートを新しいページに開きました。
――現代の保佐人の権限。
同意権。
取消権。
追認権。
そして。
代理権。
「現代では、この四つを区別して覚えます」
「どう違うんだ」
相馬先輩が尋ねました。
「まず、同意権です」
私は説明しました。
「被保佐人が重要な契約をしようとするとき、保佐人が事前に同意する権限です」
「清一さんの借金なら?」
「和子さんが同意するかどうか、という話です」
次。
取消権。
「同意が必要なのに、同意なしで契約してしまった場合、取り消すことができる権限です」
「うん」
「現代では、被保佐人本人も、保佐人も、法律の定めに従って取消権を行使できます」
ここは、昭和の制度との大きな違いです。
そして。
追認権。
「同意なしで行われた契約について、あとから認めて確定的に有効にする権限です」
「なるほどな」
私は頷きました。
たとえば。
清一さんが、保佐人の同意なしに重要な契約をした。
でも。
後から事情を確認すると、本人の利益になる契約だった。
そんな場合。
取り消すのではなく、追認して契約を確定させる道もあります。
「ただし、現代の保佐人が追認する場合には、その権限や本人との関係について、法律上の条件を確認する必要があります」
「何でも勝手に認めていいわけじゃないんだな」
「そうです!」
私は大きく頷きました。
そして。
最後。
代理権。
「ここが、さらに重要です」
私は書きました。
――保佐人になっただけでは、当然に一般的な代理権を持たない。
「え?」
相馬先輩が首をかしげました。
「保佐人なんだろ?」
「はい」
「本人を守るんだろ?」
「はい」
「だったら、本人の代わりに契約できるんじゃないのか?」
「それが違うんです!」
私は勢いよく答えました。
「現代では、家庭裁判所から特定の法律行為について代理権付与の審判を受けて、初めてその範囲の代理権を持つんです!」
片桐所長が頷きました。
「保佐人という地位だけで、何でも代理できるわけではないということだな」
「そうです!」
そして。
代理権付与には、本人の同意が必要です。
ここも重要。
保佐人が必要だと思ったからといって、一方的に本人の財産を全部管理できるわけではありません。
「……なるほど」
相馬先輩が呟きました。
「本人を守るための制度だからこそ、本人の意思を無視できないってことか」
「はい!」
私は嬉しくなりました。
そうです。
現代の制度が大切にしているのは。
保護と自己決定の両立。
必要な支援はする。
でも、本人が自分で決められる部分は残す。
それが、成年後見制度の重要な考え方なのです。
「では、先輩!」
「何だ」
「保佐人が同意してくれなかったら、被保佐人は重要な契約を絶対にできないんでしょうか?」
相馬先輩が考えました。
「……同意が必要なんだろ?」
「はい」
「だったら、できないんじゃないのか?」
「そこが違うんです!」
私はノートに書きました。
――同意に代わる家庭裁判所の許可。
「現代の民法十三条三項です!」
たとえば。
被保佐人が、自分の利益になる不動産を購入しようとした。
価格も適正。
生活にも必要。
財産を害する危険もない。
それなのに。
保佐人が、個人的な感情だけで同意を拒んでいる。
「そんな場合、本人はどうすればいいんでしょう?」
「困るな」
「ですよね」
私は続けました。
「保佐人が本人の利益を害するおそれがないのに同意しない場合には、家庭裁判所が本人の請求によって、同意に代わる許可を与えることができるんです」
「ほう」
「保佐人の同意がなくても、その許可があれば行為ができるんですね」
私は赤線を引きました。
――保佐人の判断が、常に絶対ではない。
これも、民法の大切な仕組みです。
保佐人は、本人を支える立場です。
本人の人生を支配する立場ではありません。
「所長」
「何だ」
「もし和子さんが、清一さんの畑仕事を全部やめさせようとしたら、どうなるんでしょう?」
所長は少し考えました。
「まず、本人が何を望んでいるかを聞く」
「はい」
「何をするにも保佐人が決める、という制度ではない」
「そうですよね」
私は頷きました。
清一さんは、畑仕事が大好きです。
自分で種を選び。
畝を作り。
野菜を育てる。
そこには、清一さん自身の生活があります。
法律は、その暮らしを守るためにある。
保佐人の都合で、何でも取り上げるためにあるわけではないのです。
「次は、身上配慮義務です!」
私はノートをめくりました。
――現代民法八百七十六条の五第一項。
保佐人は、保佐の事務を行うに当たり、被保佐人の意思を尊重し、その心身の状態及び生活の状況に配慮しなければならない。
「これ、私はすごく大事な条文だと思うんです」
相馬先輩が顔を上げました。
「どうしてだ」
「清一さんを見て、分かったんです」
私は、机の隅に置かれたトマトを見ました。
昨日、清一さんが持ってきてくれたもの。
真っ赤で。
少し形が不揃いで。
でも、とても美味しそうなトマト。
「清一さんは、大きな契約の判断が苦手です」
「そうだったな」
「でも、畑仕事は得意です」
「うん」
「自分で生活して、野菜を育てて、近所の人とも交流しています」
私は続けました。
「もし保佐人が、清一さんの代わりに何でも決めてしまったら、どうなるでしょう」
相馬先輩は黙っていました。
「危ないから畑をやめなさい」
「土地は私が管理します」
「あなたは何も決めなくていい」
そんなことを言われ続けたら。
清一さんは、どう思うでしょう。
自分には何もできない。
自分の考えには価値がない。
そう感じてしまうかもしれません。
「でも、現代の民法は、本人の意思を尊重するよう求めているんです」
「なるほどな」
相馬先輩が頷きました。
「守るっていうのは、本人の代わりに全部決めることじゃねえんだな」
「そうです!」
私は大きく頷きました。
そして。
昭和六十三年の六法を見ました。
まだ、現代の民法八百七十六条の五という規定はありません。
でも。
昔の制度を知ると、現代の法律がどうして本人の意思を尊重する方向へ進んだのか。
その意味が、よく分かります。
法律は、財産だけを見ているわけではない。
その財産を使って、どんな生活を送りたいのか。
そこまで考えるようになったのです。
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「ここまで分かったなら、確認問題だ」
「来ましたね!」
「準備はいいか」
「はい!」
私は背筋を伸ばしました。
「第一問」
「はい!」
「昭和六十三年。準禁治産者が、保佐人の同意なしに三百万円を借りた。どうなる?」
「旧民法十二条により、取り消すことができます!」
「正解」
「やった!」
「第二問」
「はい!」
「その契約は、同意がなかった瞬間から当然に無効か?」
「いいえ! 取り消すことができる契約です!」
「よし」
「第三問」
「はい!」
「昭和六十三年の保佐人は、当然に本人と同じ取消権を持つか?」
「持ちません!」
「よし!」
私は拳を握りました。
ここ。
絶対に忘れません。
「第四問」
「はい!」
「現代の被保佐人が、保佐人の同意なしに重要な契約をしたら?」
「原則として取り消すことができます!」
「誰が?」
「本人と、法律上取消権を持つ保佐人などです!」
「正解」
「第五問」
「はい!」
「現代の保佐人は、当然に代理権を持つか?」
「持ちません!」
「どうすればいい?」
「特定の法律行為について、家庭裁判所の代理権付与の審判が必要です! そして本人の同意も必要です!」
「よし!」
相馬先輩が笑いました。
「じゃあ、第六問」
「はい!」
「清一さんが、畑で使う百円の紐を買う。保佐人の同意は?」
「通常は不要です!」
「第七問」
「はい!」
「三百万円の借金は?」
「必要です!」
「第八問」
「はい!」
「建物所有を目的としない土地を六年間貸す契約は?」
「民法六百二条の五年を超えるので、保佐人の同意が必要です!」
「第九問」
「はい!」
「保佐人が、本人に不利益がないのに同意を拒否したら、現代では?」
「本人が家庭裁判所に、同意に代わる許可を求めることができます!」
「よし!」
私は、もう止まりません。
「第十問!」
今度は私から言いました。
相馬先輩が眉をひそめます。
「何でお前が出題してるんだ」
「いいじゃないですか!」
「何だよ」
「保佐人が一番大切にしなければならないものは?」
相馬先輩は、しばらく考えました。
そして。
「……本人の利益か?」
「はい!」
「それと?」
「本人の意思です!」
私は頷きました。
保護すること。
本人の意思を尊重すること。
その両方。
どちらか一方だけでは、足りないのです。
窓の外は、もう夕暮れでした。
私はノートを見直しました。
昭和六十三年。
準禁治産者。
旧民法十二条。
現代。
被保佐人。
民法十一条。
民法十二条。
民法十三条。
そして、民法八百七十六条の五。
名前は変わりました。
制度も変わりました。
でも。
大切なのは、誰を、何から守るための制度なのか。
そこでした。
「所長」
「何だ」
「私、昨日の黒田社長の言葉が、少し気になっていたんです」
「どの言葉だ」
「兄さんが自分で決めたんだろ、っていう言葉です」
所長は黙って聞いていました。
「確かに、本人が決めることは大切です」
「そうだな」
「でも、自分で決めたと言えば、どんな契約でも有効になるわけじゃありません」
「うん」
「逆に、判断能力が不十分だからといって、全部他人が決めていいわけでもない」
所長が頷きました。
「そのとおりだ」
私は、少し考えました。
「民法って、難しいですね」
「なぜだ」
「自由を守ろうとすると、本人の判断を尊重したくなる」
「うん」
「でも、財産を守ろうとすると、危険な契約を制限する必要がある」
「そうだ」
「その二つが、ぶつかることもあるんですよね」
所長は帳簿を閉じました。
「だから、事情を見るんだ」
「……事情?」
「条文だけで人を決めるな」
私は、はっとしました。
「何をしようとしていたのか。何を理解していたのか。何を望んでいたのか」
所長は静かに続けました。
「そこを確かめてから、法律を使え」
私は頷きました。
そうです。
清一さんは、畑を守りたかった。
借金をして、土地を失う危険を負いたかったわけではありません。
黒田は、その判断の難しさにつけ込もうとした。
だから。
法律は、清一さんを守った。
でも。
清一さん自身が畑仕事を続けたいという意思まで、取り上げる必要はなかった。
むしろ。
その意思を守るために、契約を取り消したのです。
「よし!」
私はノートの最後のページを開きました。
今日のまとめ。
ここに、一行を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――保佐は「普段は一人で、重要な契約は同意を得る」。同意を欠けば取消し、代理権は別に確認。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長えな」
「一行です!」
「字が小せえ」
「そこは気にしないでください!」
先輩は笑いました。
「まあ、悪くねえ」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
三百万円の借金。
六年間の土地賃貸借。
保佐人の同意。
そして。
悪徳業者が、内容証明を受け取って青ざめた顔。
あの事件を思い出せば。
民法十三条の意味が、自然に浮かんできます。
人は、誰もが同じ判断力を持っているわけではありません。
だからといって。
判断が苦手な人を、何もできない人として扱っていいわけでもありません。
その人にできることを残しながら。
大きな危険から守る。
それが、保佐という仕組みなのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強は終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「……またですか」
「見習いだろ」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「私にも自己決定権があります」
「あるな」
「掃除をするかどうか、自分で決めたいと思います!」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「そうか」
「はい!」
「じゃあ、所長に聞け」
私は奥を見ました。
「所長!」
「何だ」
「掃除について、私の意思を尊重していただけませんか!」
所長は帳簿から顔を上げました。
「尊重する」
「本当ですか!」
「そのうえで、掃除を頼む」
「……!」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな!」
「何がですか!」
「意思を尊重することと、希望が全部通ることは別だろ!」
私は固まりました。
……確かに。
身上配慮義務も。
本人の意思の尊重も。
本人の希望が、必ずすべて実現するという意味ではありません。
でも。
「先輩!」
「何だ!」
「私の意思は、確かに確認されました!」
「そうだな!」
「そして、掃除をしたくないという意思も明確です!」
「知ってるよ!」
「なのに、掃除を頼むんですか!」
「頼む!」
「ひどい!」
私は箒を手に取りました。
相馬先輩は笑っています。
所長も、口元を少し緩めました。
私はため息をつきながら、床を掃き始めます。
窓の外には、夕暮れの町。
あのどこかで。
清一さんは、今日も畑に立っているのでしょう。
土の匂いを感じながら。
明日の天気を考えながら。
自分の手で、野菜を育てているのでしょう。
準禁治産者。
被保佐人。
保佐人。
難しい言葉です。
でも。
その言葉の向こうにいるのは。
自分の土地で。
自分の仕事をして。
自分らしく暮らしたいと願う、一人の人間です。
私は、箒を止めました。
そして。
ノートの最後の一行を、もう一度読みました。
――保佐は「普段は一人で、重要な契約は同意を得る」。同意を欠けば取消し、代理権は別に確認。
よし。
完璧です。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「またノート見てるな!」
「学習内容の確認です!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「今度は何だ!」
「私、保佐人が欲しいです!」
「はあ!?」
「掃除をしないように、同意してくれる保佐人です!」
相馬先輩は、しばらく黙りました。
そして。
「……お前な」
「はい!」
「保佐人ってのは、掃除を免除してくれる人じゃねえんだよ!」
「ですよね!」
「分かってるなら掃除しろ!」
「はいっ!」
私は笑いながら、箒を動かしました。
どうやら。
民法十三条をどれだけ覚えても。
掃除から逃れることはできないようです。
残念ながら。
それは、昭和でも令和でも。
変わらないようでした。




