[民法・被保佐人]現場編 「保佐人のハンコなんか要らない」の罠。三百万円の借金と五年の土地賃貸――悪徳業者を追い詰めた昭和の民法十二条
人を騙すのに、難しい法律はいりません。
ただ。
「ここにハンコを押してください」
そう言えばいい。
相手が契約の意味を十分に理解していなくても。
あとから困ることになると分かっていても。
紙に名前を書かせて、ハンコを押させる。
それだけで、財産を奪えると思っている人間がいます。
けれど。
民法には、そんな人間が見落としている仕組みがあります。
本人の自由は、できるだけ守る。
でも、人生を左右する大きな契約には、誰かの支えが必要になることがある。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は一枚の借用書を見て、思わず声を上げました。
「三百万円!?」
相談者は、六十二歳の男性。
その妹さんが、隣で泣いていました。
そして。
その借用書には、とんでもない落とし穴が隠されていたのです。
「兄が、土地を取られそうなんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、そう言いました。
名前は、野村和子さん。
五十八歳。
その隣に座っているのが、兄の野村清一さん。
六十二歳。
紺色の作業着を着た、小柄な男性でした。
手には、古い布袋。
その中から、何枚もの書類を取り出します。
「これを、書いてしまったんです」
和子さんが机に置いたのは、一枚の借用書でした。
――金銭消費貸借契約書。
借入金額。
三百万円。
借主。
野村清一。
貸主。
東栄開発株式会社。
署名。
押印。
そして、もう一枚。
――土地賃貸借契約書。
私は首をかしげました。
「借金だけじゃないんですか?」
和子さんが頷きました。
「兄の畑を、あの会社に貸す契約もしたそうなんです」
「畑を?」
「はい」
私は契約書を読みました。
所在地。
市内の駅西地区。
地目。
宅地。
現況。
家庭菜園。
面積。
二百平方メートル。
賃貸借期間。
昭和六十三年四月一日から、昭和六十九年三月三十一日まで。
六年間。
賃料。
月額五千円。
「六年で、月五千円……」
私は眉をひそめました。
その土地は駅前再整備の予定区域に近く、最近、周囲の地価が上がっているそうです。
しかも。
契約書の末尾には、こんな一文がありました。
――借主が金銭債務を履行しない場合、貸主は本件土地の買受けを求めることができるものとし、売買条件については別途協議する。
……。
嫌な予感がします。
三百万円を貸す。
土地を安く借りる。
返済できなければ、土地の買受けを求める。
ただし、その条項だけで当然に所有権が移るわけではありません。
それでも。
土地を手放させるための圧力には、十分なりそうでした。
「清一さん」
私は尋ねました。
「この三百万円、何に使ったんですか?」
清一さんは、しばらく黙っていました。
それから。
「……使ってない」
「え?」
「まだ、もらってないんだ」
私は目を瞬かせました。
「お金を?」
「うん」
「一円も?」
「うん」
和子さんが説明しました。
「会社の人は、融資の手続が済んだら振り込むと言っているそうです。でも、その前に契約書へハンコを押させて……」
なるほど。
借金の契約書はある。
しかし、金銭の交付はまだ。
しかも、土地の賃貸借契約まで結んでいる。
そして何より。
「兄は、難しい話になると、よく分からなくなってしまうんです」
和子さんが小さく言いました。
「日常生活はできます。買い物も、畑仕事も、一人でできます。でも、大きなお金の計算や、複雑な契約の意味を理解するのは難しくて……」
清一さんは、申し訳なさそうに笑いました。
「俺、馬鹿だからな」
「違います!」
私は思わず言いました。
清一さんが驚いて顔を上げます。
「そういうことじゃありません!」
私は少し声を落としました。
「得意なことと、苦手なことがあるだけです」
清一さんは、しばらく私を見ていました。
そして。
「畑仕事なら、誰にも負けんよ」
そう言いました。
私は頷きました。
「はい!」
そのとき。
片桐所長が口を開きました。
「和子さん」
「はい」
「お兄さんについて、家庭裁判所の手続はされていますか」
「はい」
和子さんは鞄から一枚の書類を出しました。
「三年前に、手続をしました」
私は受け取りました。
家庭裁判所。
審判書の謄本。
そこに記されていたのは。
――野村清一を準禁治産者とする。
――野村和子を保佐人とする。
「……準禁治産者?」
私は、固まりました。
じゅん。
きん。
ちさんしゃ。
うわあ。
出ました。
昭和の民法です。
「分かりました!」
私は勢いよく六法を開きました。
「被保佐人ですね!」
「……何?」
相馬先輩が顔を上げました。
「被保佐人です!」
「何だ、その言い方は」
「民法十一条です! 精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分な人について、家庭裁判所が保佐開始の審判をするんです!」
私は自信満々でした。
現代の行政書士試験。
行為能力。
被保佐人。
保佐人の同意権。
取消権。
追認権。
代理権。
全部、勉強しました。
これは得意分野です。
「しかも!」
私は続けました。
「民法十三条一項二号! 借財や保証には保佐人の同意が必要です!」
「十三条?」
相馬先輩が眉をひそめました。
「はい!」
「お前、また妙なことを言い出したな」
「え?」
先輩は棚から六法全書を取り出しました。
机に置きます。
ぱらぱら。
ページをめくる。
そして。
「ここを読め」
私は覗き込みました。
民法。
第十二条。
――準禁治産者カ左ニ掲ケタル行為ヲ為スニハ其保佐人ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス。
……。
「あれ?」
「何が、あれ、だ」
「十三条じゃない……」
「十二条だ」
私は固まりました。
現代の民法十三条。
被保佐人の重要な法律行為。
でも。
昭和六十三年では。
旧民法十二条。
準禁治産者。
「また未来の条文か」
相馬先輩が呆れました。
「す、すみません……」
「お前の頭の中の六法は、どこの出版社が出してるんだ」
「未来出版社です……」
「ふざけるな」
はい。
転生者、再び失敗しました。
しかも。
今回の違いは、単なる名前だけではありません。
昭和六十三年の制度は、準禁治産制度。
現代の成年後見制度は、まだありません。
保佐開始の審判。
被保佐人。
そんな現代の制度を、そのまま持ち込むことはできないのです。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「名前は違っても、見るべきものは同じだ」
「……はい」
「この契約には、何が必要だった」
私は旧民法十二条を読みました。
第一号。
元本を領収し、又は利用すること。
第二号。
借財又は保証をすること。
第三号。
不動産又は重要なる動産に関する権利の得喪を目的とする行為をすること。
そして。
第九号。
民法六百二条に定める期間を超える賃貸借をすること。
「……あ!」
私は顔を上げました。
「借金!」
「うん」
「土地の賃貸借!」
「そうだ」
「両方とも、保佐人の同意が必要になるんです!」
所長が頷きました。
私は和子さんを見ました。
「和子さん。今回の契約に、同意しましたか?」
「していません!」
「書面でも?」
「いいえ!」
「口頭でも?」
「ありません!」
和子さんは首を振りました。
「契約したこと自体、昨日まで知りませんでした!」
私は大きく頷きました。
これです。
昭和の民法十二条。
準禁治産者が、保佐人の同意を得ずに重要な法律行為をした場合。
その行為は、取り消すことができる。
それなら。
「契約を取り消せます!」
私は言いました。
和子さんの目に、希望が戻りました。
「本当ですか?」
「はい!」
ところが。
「待て」
相馬先輩が言いました。
「お前、もう一つ確認してねえぞ」
「え?」
「保佐人の同意が、そもそも必要な契約だったのか」
「必要ですよ! 借金ですし!」
「借金はそうだ。だが土地の方は?」
「六年の賃貸借です」
「だから?」
「ええと……」
私は六法をめくりました。
民法六百二条。
処分能力や権限に制限のある者が、一定の期間を超えて賃貸借をすることはできないという規定。
そして。
建物所有を目的としない土地の賃貸借などについて、旧民法十二条が引用する期間の上限が定められています。
宅地については五年。
建物については三年。
山林については十年。
ただし、土地の利用目的や借地法など、別の法律の適用にも注意が必要です。
「今回の土地は、宅地で、契約目的は資材の一時保管……」
私は契約書を見直しました。
「建物所有目的ではないと記載されています」
「うん」
「六年間」
「そうだ」
「五年を超えています!」
相馬先輩が頷きました。
「やっと見つけたか」
なるほど。
借金だけではない。
土地の賃貸借にも、別の切り口がある。
しかも。
二つの契約が同じ日に結ばれている。
これは偶然でしょうか。
私は、そうは思えませんでした。
「契約書があるんだ。文句があるなら裁判でも起こせ」
翌日。
私たちは、東栄開発株式会社の事務所を訪れました。
正確には。
清一さんと和子さんに付き添い、契約書の原本や交付済み書類を確認するためです。
もちろん、行政書士である私たちが、二人の代理人として示談交渉をするわけではありません。
そこは大事です。
弁護士ではありませんから。
けれど。
相手がどんな書類を作ったのか。
契約の内容は何か。
どんな経緯で署名させたのか。
そうした事実の整理は、書面を作るうえで欠かせません。
駅前の雑居ビル。
二階。
東栄開発株式会社。
応接室に現れたのは、社長の黒田勝彦。
五十代半ば。
高そうな腕時計。
濃紺の背広。
そして。
人を見下すような笑い方をする男でした。
「何だ。今さら借金をやめたいって?」
黒田は椅子にふんぞり返りました。
「本人が契約したんだろ」
清一さんが、小さな声で言いました。
「……畑を貸すだけだと思ってた」
「何だと?」
「土地を少し貸せば、畑の水路を直す金を出してくれるって……」
「だから、三百万円貸すんだろ」
黒田は笑いました。
「そんなに難しい話じゃない」
私は尋ねました。
「融資金は、まだ渡していないんですよね」
「これからだ」
「では、清一さんには、どのような説明を?」
「契約書を読んで説明したよ」
「借金の返済義務や、土地の買受け条項についても?」
「当然だ」
黒田は机を指で叩きました。
「本人が分かりましたって言ったんだ。ハンコも押した。それで終わりだろ」
和子さんが口を開きました。
「兄は、家庭裁判所で準禁治産の宣告を受けています」
黒田の眉が動きました。
「……何?」
「私は、兄の保佐人です」
「だから?」
「私は、こんな契約に同意していません」
黒田は一瞬、黙りました。
ですが。
すぐに笑いました。
「保佐人?」
「はい」
「そんなもの、関係ないだろ」
「……え?」
「兄さんは大人だ。六十二歳だろ。自分で契約する自由くらいあるはずだ」
私は、思わず立ち上がりかけました。
でも。
相馬先輩に視線で止められました。
黒田は続けます。
「だいたい、妹が兄貴の人生を決めるのか?」
和子さんが唇を噛みました。
「そういうことでは……」
「兄さんが自分で決めたんだろ!」
黒田の声が大きくなりました。
「何でも妹の許可がいるってんなら、子供扱いじゃないか!」
……。
私は少し驚きました。
言っていることの一部だけなら。
それほど間違っていないようにも聞こえます。
本人の意思を尊重する。
できることは、自分で決める。
それは大切です。
でも。
大事な部分が抜けていました。
「黒田さん」
私は静かに言いました。
「清一さんは、普段の買い物も、畑仕事に必要な道具を買うことも、自分でできます」
「だろ?」
「はい」
私は続けました。
「でも、だからこそ、法律は全部を禁止しているわけではないんです」
「……何?」
「日常生活は、自分で決められる。けれど、借金や重要な財産に関する契約は、保佐人の同意が必要になる」
黒田は鼻で笑いました。
「じゃあ、あんたの言う法律だと、本人は何にもできねえのか?」
「いいえ」
私は首を振りました。
「何でもできないわけではありません」
「だったら――」
「何でも一人でできるわけでもありません」
黒田の笑みが止まりました。
相馬先輩が静かに言いました。
「今回の契約については、当事者ご本人に法的な確認をしていただく必要がありそうですね」
「何の確認だ」
「現在有効な契約だとお考えなのか。それとも、同意の必要性を確認されるのか」
「契約書がある!」
黒田は机を叩きました。
「本人の署名も、ハンコもある!」
その言葉を聞いた瞬間。
私は、心の中で思いました。
ああ。
また、この人も。
ハンコさえあれば、法律に勝てると思っている。
事務所へ戻ると。
私は、すぐに内容証明郵便の原案を書き始めました。
もちろん。
清一さんと和子さんから、それぞれ事情を聞き、本人たちの意思を確認したうえでの書類作成です。
「よし!」
私は鉛筆を走らせました。
――貴社との契約は、被保佐人が保佐人の同意を得ずに行ったものであるため、民法十三条第四項に基づき取り消す。
「……こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「やり直し」
「ええっ!?」
「何度言わせるんだ」
私は原稿を見ました。
……あ。
「現代の民法を書いてました……」
「昭和六十三年だ」
「はい……」
先輩は赤鉛筆を取りました。
被保佐人。
赤線。
民法十三条第四項。
赤線。
「今は準禁治産者だ」
「はい」
「取消しの根拠は旧民法十二条第三項だ」
「はい!」
「それから」
「まだありますか?」
「お前、保佐人の代理権についてどう考えてる」
「代理権付与の審判があれば、特定の法律行為について代理できるんですよね!」
私は答えました。
相馬先輩が、しばらく黙りました。
……。
あ。
また、やりました。
「お前なあ……」
「はい……」
「今は、その現代の仕組みじゃねえ」
そうでした。
現代の成年後見制度では、保佐人に特定の法律行為について代理権を付与する審判が認められます。
でも。
昭和六十三年の準禁治産制度に、現在の代理権付与審判をそのまま持ち込むことはできません。
当時の保佐人の中心的な役割は、重要な法律行為についての同意です。
一般的な代理権が当然に与えられるわけではありません。
「つまり……」
私は呟きました。
「和子さんが保佐人だからといって、清一さんの財産を何でも勝手に処分できるわけじゃない」
「そうだ」
「清一さん本人の意思も大切にしないと」
「当たり前だ」
片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい」
「清一さんは、どうしたいと言っていた」
私は相談票を見ました。
そこには、清一さんの言葉がありました。
――借金はしたくない。
――畑は貸したくない。
――自分で野菜を作り続けたい。
私は顔を上げました。
「契約を取り消して、畑を守りたいと言っています」
「では、それを書け」
「はい!」
所長は頷きました。
「本人の意思を消すな」
私は、少し胸が熱くなりました。
そうです。
保佐人という制度は。
本人から人生を取り上げるためのものではありません。
本人が、大きな契約で不利益を受けないようにするためのもの。
守るべきものは。
本人の生活。
本人の財産。
そして。
本人が、どう生きたいかという気持ちなのです。
「さて、問題はもう一つある」
相馬先輩が言いました。
「何でしょう?」
「土地だ」
「六年間の賃貸借ですね」
「そうだ」
先輩は契約書を指差しました。
「宅地について五年を超える賃貸借。旧民法十二条の同意が必要な行為に当たる」
「はい」
「だが、そこだけに頼るな」
「え?」
「何のために土地を借りる契約なのか。その説明と実際の使い道が一致しているか。そこも調べるんだ」
私は契約書を見直しました。
土地の利用目的。
資材一時保管用地。
そして。
清一さんの説明。
――畑の水路を直す金を出してくれる。
……。
何か、変です。
「先輩」
「何だ」
「会社が土地を借りる話と、畑の水路を直す話、噛み合ってませんよね」
「そうだな」
「しかも、三百万円の融資までくっついています」
「そうだ」
私は書類を並べました。
金銭消費貸借契約書。
土地賃貸借契約書。
そして。
黒田が清一さんに渡した名刺の裏。
そこには手書きで、
――水路工事費として融資。
――土地は会社が一時利用。
と記されていました。
「……これは」
私は息を呑みました。
会社の説明と、契約書の内容。
そこに食い違いがある。
もちろん、それだけで詐欺だと断定はできません。
けれど。
本人が何を理解し、何に同意したつもりだったのか。
その判断材料にはなります。
相馬先輩が言いました。
「内容証明は、相手を罵倒するための紙じゃねえ」
「はい」
「事実を並べるんだ」
「はい!」
「それから、その事実に、今の民法を当てる」
「分かりました!」
私は原稿を書き直しました。
まず。
清一さんは、家庭裁判所の準禁治産宣告を受けていること。
次に。
和子さんが保佐人に選任されていること。
そして。
同意のない借財。
同意のない長期賃貸借。
それぞれの取消し。
さらに。
融資金がまだ交付されていないこと。
土地がまだ会社に引き渡されていないこと。
私は、一つずつ書きました。
書面は、清一さん本人の意思による取消しの通知と、保佐人である和子さんによる確認・取消しの通知を明確に区別する形にしました。
そして最後に。
――本件各契約につき、旧民法第十二条所定の保佐人の同意を欠くことから、通知人らは、それぞれ有する取消権に基づき、右各契約を取り消す旨通知する。
――本件各契約に基づく融資金の交付は受けず、土地の引渡しにも応じない。
――本通知後も契約上の権利を主張される場合には、弁護士への相談のうえ、適切な法的措置を検討する。
私は読み終えました。
「……どうでしょう?」
相馬先輩は、しばらく原稿を眺めていました。
そして。
「悪くねえ」
「本当ですか!」
「ただし、判例も確認しろ」
「はい!」
私は判例集を開きました。
制限行為能力者を保護するための取消制度。
保佐人の同意が必要な行為。
そして、同意を欠く契約の効力。
相馬先輩は、古い判例の頁を指で叩きました。
「準禁治産者の行為について、保佐人が事後に同意できるとした大審院判例もある。大正五年二月二日だ」
「事後の同意……」
「契約の後から、保佐人が認める道もあるってことだ」
「じゃあ!」
私は顔を上げました。
「和子さんが後から同意すれば、今回の契約を生かすこともできるんですね!」
「そうだ。ただし、和子さんが同意するかどうかは別だ」
私は頷きました。
なるほど。
保佐人の同意制度は。
何でも契約を壊すための制度ではありません。
必要なら同意する。
本人に不利益な契約なら取り消す。
大切なのは、本人を守ること。
そのための仕組みなのです。
片桐所長が、原稿を受け取りました。
一行ずつ。
丁寧に目を通します。
そして。
「よし」
短く言いました。
「これで送ろう」
私は思わず拳を握りました。
やった!
内容証明郵便。
完成です。
内容証明郵便が届いた翌日。
東栄開発の黒田から、事務所に電話が入りました。
「……片桐さんは、いるか」
私は受話器を握りました。
あの威勢のよさは、ありません。
「少々お待ちください」
片桐所長に代わります。
「片桐です」
『あの……昨日の書面ですが』
「はい」
『準禁治産者とか、保佐人とか……』
「はい」
『本当に、あの契約は取り消せるんですか』
所長は落ち着いた声で答えました。
「ご本人と保佐人から、取消しの意思表示を記載した通知が届いているはずです。記載した条文をご確認ください」
『いや、それは……』
黒田が言葉を濁しました。
『うちの顧問に見せたんです』
「そうですか」
『……まずいことになった、と』
私は顔を上げました。
相馬先輩も、新聞を置きました。
『借金の契約だけじゃなく、土地の方も同意が必要だって……』
「はい」
『しかも、同意してない保佐人から取消しの通知が来ている』
黒田の声が震えていました。
『これで裁判になったら、うちは勝てないかもしれないって言うんです』
片桐所長は、何も言いません。
黒田は続けました。
『土地だって、まだ引き渡してもらってない。三百万円も渡してない。それなのに、うちが契約どおりだと押し通すのは危険だと……』
私は息を呑みました。
相手の法律家が、問題を理解したのです。
準禁治産宣告。
保佐人の選任。
同意のない借財。
同意のない長期賃貸借。
そして、取消しの意思表示。
この状態で、黒田が契約の履行を強引に求めれば、訴訟で敗れる危険がある。
さらに、争いが長引けば、裁判費用や損害賠償など、別の負担も問題になり得る。
内容証明だけで差押えができるわけではありません。
しかし。
判決などを経て金銭債務が確定し、任意に履行しなければ、強制執行を受ける可能性もある。
黒田は、そこまで考えたのでしょう。
昨日までの余裕が、消えていました。
『……契約書は、撤回します』
黒田が言いました。
『いや、取り消されたことを認めます。もう土地も借りません。金も貸しません』
片桐所長は静かに言いました。
「そのご意向は、ご本人たちに書面でお伝えください」
『はい……』
「当事務所は代理交渉を引き受けておりませんので、必要な確認はご本人同士で行っていただきます」
『分かりました』
電話が切れました。
「……所長」
私は呟きました。
「はい」
「何だ」
「折れましたよね」
「そうだな」
「黒田が!」
「ああ」
私は椅子から立ち上がりました。
「やりました!」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「まだだ」
「え?」
「書面を取れ」
「あ……」
「口で認めただけじゃ終わらねえ」
そうでした。
法律の仕事は、最後まで気が抜けません。
数日後。
黒田から、清一さんと和子さん宛てに確認書が届きました。
――本件金銭消費貸借契約及び土地賃貸借契約について、通知人らによる取消しを確認する。
――東栄開発株式会社は、右各契約に基づく金銭債権、土地使用権その他の権利を主張しない。
――本件各契約に関する履行請求を今後行わない。
そこには。
黒田の署名。
そして。
会社の印鑑。
相馬先輩が、確認書を見て言いました。
「これだ」
「何です?」
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は笑いました。
「またそれですか!」
「何度でも言う」
先輩は確認書を机に置きました。
「ただし、ハンコだけじゃねえ。誰が、何を、どんな権限で約束したか。そこを外すな」
私は大きく頷きました。
一週間後。
清一さんと和子さんが、事務所を訪れました。
「ありがとうございました」
和子さんが深く頭を下げました。
「兄の土地、守れました」
「よかったです!」
私は笑顔で答えました。
でも。
清一さんは、何か言いたそうにしていました。
「どうしました?」
私が尋ねると。
清一さんは、布袋から小さな包みを取り出しました。
「これ」
「え?」
「畑で採れたんだ」
包みの中には。
きゅうり。
なす。
それから、真っ赤なトマト。
「よかったら、食べてくれ」
「ええっ!?」
私は慌てました。
「そんな、いただくわけには……」
清一さんは笑いました。
「金はないけど、野菜はある」
私は言葉に詰まりました。
清一さんは続けます。
「俺、難しい契約は、よく分からん」
「……はい」
「でもな」
清一さんは、自分の手を見ました。
太い指。
土の染み込んだ爪。
何十年も、畑を耕してきた手です。
「土のことは、分かる」
「はい」
「雨が来る前の匂いも、分かる」
「……はい」
「野菜が、もうすぐ実をつけるってことも、分かる」
清一さんは、少し照れくさそうに笑いました。
「だから、畑は続けたいんだ」
私は、胸がいっぱいになりました。
そうです。
清一さんは、何もできない人ではありません。
大きな契約の判断が難しい。
それだけで。
自分の暮らしを決める力まで、全部失うわけではないのです。
「こはるちゃん」
和子さんが言いました。
「兄は、買い物もできます。畑仕事もできます。近所の人とも仲よくしています」
「はい」
「でも、家族は時々、心配だからって、何でも兄の代わりに決めようとしてしまうんです」
私は黙って聞きました。
「今回も、私がもっとしっかりしていれば、こんなことにならなかったんじゃないかって……」
「和子さん」
「はい」
「清一さんには、清一さんの生活があります」
私は言いました。
「全部を代わりに決めることが、必ずしも守ることになるとは限らないと思います」
和子さんは、目を潤ませました。
「……そうですね」
清一さんが笑いました。
「和子は心配性だからな」
「兄さんが心配させるんでしょう!」
二人は顔を見合わせました。
そして。
笑いました。
その光景を見て。
私はようやく、今日の事件の意味が分かった気がしました。
二人が帰ったあと。
私は机に向かっていました。
開いているのは、昭和六十三年の六法。
旧民法十二条。
準禁治産者。
保佐人。
同意。
取消し。
たった数行の条文が。
三百万円の借金を止めました。
六年間の土地賃貸借を止めました。
そして。
一人の男性が、畑で野菜を作り続ける生活を守りました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日、ちょっと分かったことがあります」
「ほう」
「保佐人って、本人の代わりに何でも決める人じゃないんですね」
「そうだな」
「本人が一人でできることは、本人がする」
「うん」
「でも、重要な契約には、保佐人の同意が必要になる」
「そうだ」
「そして、同意が必要なのに、同意を得ずにした契約は取り消せる」
相馬先輩が頷きました。
「やっと分かったか」
「はい!」
私はノートを開きました。
そして。
現代の民法を思い出しました。
被保佐人。
民法十三条。
保佐人の同意権。
取消権。
追認権。
特定の法律行為についての代理権付与。
さらに。
現代の民法八百七十六条の五。
保佐人は、本人の意思を尊重し、その心身の状態や生活状況に配慮しなければならない。
いわゆる、身上配慮義務です。
でも。
それは、今の昭和六十三年には、まだ存在しない現代の制度。
私は、そっと六法を閉じました。
昔の制度と、現代の制度。
名前も違う。
条文番号も違う。
保佐人の権限についての仕組みも違う。
けれど。
人を守るという目的には、つながるものがある。
「所長」
「何だ」
「どうして、こんな制度が必要なんでしょう」
片桐所長は、少し考えました。
そして。
「契約は自由だからだ」
そう言いました。
「……え?」
「自由に契約できるからこそ、その自由を悪用する者もいる」
私は黙りました。
「何を約束したか、十分に理解できない者に、重大な責任を負わせていいのか」
「……いいえ」
「だが、判断が苦手だからといって、すべての自由を奪っていいのか」
「それも、違います」
所長が頷きました。
「その間を考えるのが、保佐だ」
私は、しばらく動けませんでした。
なるほど。
自由を守る。
財産を守る。
その両方を考えなければならない。
だからこそ。
全部を禁止するのではなく。
危険の大きな契約について、同意を必要とするのです。
「でも所長!」
私は顔を上げました。
「昭和の準禁治産って、言葉が怖すぎませんか!」
相馬先輩が吹き出しました。
「またそれか!」
「だって、『禁』って字が入ってるんですよ!」
「法律の名前に文句を言うな!」
「現代では、被保佐人になるんです!」
「未来の話はいい!」
「しかも、代理権の仕組みまで変わるんですよ!」
「だから、今の法律を覚えろ!」
私は笑いました。
でも。
この時代の言葉を知ったからこそ。
現代の成年後見制度が、何を大切にしようとしているのか。
少しずつ、見えてきた気がしました。
人を守ること。
本人の自由を奪うこと。
この二つは、同じではありません。
私はノートの最後に、一行を書きました。
――保佐は、本人の自由を奪うためではなく、重要な契約から本人の暮らしを守るためにある。
「……よし!」
私は鉛筆を置きました。
「今日の教訓、完成です!」
「見せてみろ」
相馬先輩がノートを覗き込みました。
「……まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい! 片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
女性の声。
『母が、父の遺産を全部放棄するっていう書類に、ハンコを押してしまったんです』
私は鉛筆を握り直しました。
「お母様が?」
『はい。母は準禁治産の宣告を受けているんですが、親戚に言われるまま……』
……。
来ました。
またです。
今度は。
相続。
旧民法十二条。
相続の承認や放棄にも、保佐人の同意が必要になります。
ただし、相続放棄には家庭裁判所への申述という手続もあり、単に親戚へ書類を渡しただけで相続放棄が成立するわけではありません。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「相続です!」
「聞こえてる!」
「準禁治産者の相続放棄です!」
「だから、まず事情を聞け!」
「はいっ!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、書類に署名された日と、家庭裁判所で何か手続をされたかどうかを教えてください」
昭和六十三年。
民法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
借金。
保証。
不動産。
長期賃貸借。
相続。
贈与。
大きな契約には、大きな責任がついてきます。
だから。
法律は、誰にでも同じ判断力を要求しているわけではないのです。
私は、机の隅に置かれたトマトを見ました。
清一さんが、畑で育てたもの。
あの手で。
あの土地で。
何十年も続けてきた暮らしの証。
もし、あのまま契約が進んでいたら。
清一さんは、畑を失っていたかもしれません。
自分の得意な仕事をする場所を。
毎日の楽しみを。
自分らしく生きるための、大切なものを。
でも。
一枚の審判書と。
一枚の内容証明が。
それを守った。
私は思いました。
民法って。
お金を数えるためだけの法律じゃないんですね。
そのお金の向こうにある。
誰かの生活を守る法律なんです。
「こはる!」
「はい!」
「電話しながら、ぼんやりするな!」
「してません!」
「じゃあ、相談票を取れ!」
「はいっ!」
私は急いでペンを取りました。
今日もまた。
誰かの大切な財産を守るために。
古い六法を開きます。
準禁治産者。
保佐人。
旧民法十二条。
なんとも古めかしい言葉ですが。
その条文の向こうには。
自分の畑で、明日も野菜を育てたいと願う、一人の人間がいるのです。
そして。
その願いを守るためなら。
私は、昭和の民法だって、何度でも読み直してみせます。
ただし。
次こそは。
現代の条文番号を書かないように、気をつけます。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「民法十二条!」
「おう!」
「準禁治産者!」
「そうだ!」
「保佐人の同意!」
「よし!」
「取消し!」
「それだ!」
私は拳を握りました。
完璧です。
……と思った、その瞬間。
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「はい!」
「では、保佐人が同意していれば、何でも有効になるのか」
「……え?」
私は固まりました。
所長は帳簿を閉じます。
「本人に意思能力がなかった場合は、どうする」
……。
あ。
そうでした。
保佐人の同意が必要かどうかと。
本人に、その法律行為の意味を理解する意思能力があったかどうか。
それも、また別の問題です。
私は、ゆっくり六法を開き直しました。
「……所長」
「何だ」
「民法って、本当に一筋縄ではいきませんね」
「そうだな」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「だから面白えんだろ」
私は、思わず笑ってしまいました。
確かに。
そうかもしれません。
ただし、次の相談でも。
誰かが大切なものを失わずに済むように。
まずは。
その人が、何を理解し、何を望んでいるのか。
そこから、調べることにします。
契約書にハンコがあることと、その契約が取り消せないことは、同じではないのです。
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