[民法・成年被後見人]現場編 「ボケた老人のハンコなら、家を奪える」の罠。三百万円の売買契約と、昭和の禁治産制度が突きつける取消しの刃
人は、歳を取ると忘れ物が増えます。
財布を置いた場所。
昨日食べた夕飯。
さっき聞いた話。
でも。
忘れっぽくなったからといって、その人の財産を勝手に奪っていいわけではありません。
まして。
契約書にハンコが押してある。
その一言だけで、長年暮らした家を取り上げていいはずがないのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、民法の教科書に出てきた一つの言葉を、思い出していました。
成年被後見人。
判断能力が著しく低下した人を保護する制度。
ところが。
昭和六十三年の六法を開いた瞬間。
私は思わず声を上げることになります。
「……き、禁治産者!?」
文字だけで、何だか怖い。
でも。
その古めかしい制度が、一人のおばあさんの家を守ることになるとは。
このときの私は、まだ知りませんでした。
「母の家が、売られてしまったんです」
朝九時。
事務所へ駆け込んできた女性は、そう言いました。
名前は、杉浦和子さん。
四十六歳。
手には茶封筒。
顔色が悪い。
「売られた……?」
私は聞き返しました。
「どなたが売ったんですか?」
「母です」
「お母様が?」
「でも、母は……」
和子さんは言葉を詰まらせました。
「もう、自分の家がどこにあるかも、分からないことがあるんです」
私は手を止めました。
詳しく聞くと、こういうことでした。
和子さんの母親、杉浦ハルさん。
七十八歳。
夫に先立たれ、駅から少し離れた一軒家で暮らしていました。
築四十年。
小さな庭。
梅の木。
縁側。
若い頃から夫婦で守ってきた家です。
ところが数年前から、ハルさんの物忘れがひどくなりました。
お金の計算ができない。
買い物に出ると、帰り道が分からなくなる。
自分の娘を、亡くなった姉と間違えることもある。
医師の診察を受け、現在は和子さんが生活を支えているそうです。
「それなのに……」
和子さんは、封筒から一枚の紙を取り出しました。
不動産売買契約書。
売主。
杉浦ハル。
買主。
丸福不動産株式会社。
売買代金。
三百万円。
「三百万円……?」
私は思わず声を上げました。
「土地も建物も全部ですか?」
「はい」
「場所は?」
「駅南の住宅地です。土地は六十坪あります」
六十坪。
しかも駅に近い。
いくら昭和六十三年とはいえ、三百万円という価格には違和感があります。
「不動産屋さんには、土地だけでも二千万円近い値段がつくかもしれないと言われました」
……。
三百万円。
二千万円。
ずいぶんな差です。
「母は、お金を受け取ったことも覚えていません」
「領収書は?」
「契約書には、代金を受領したと書いてあります。でも、家にも通帳にも、それらしいお金は見当たらなくて……」
和子さんは唇を噛みました。
「母は、契約したこと自体を覚えていないんです」
私は契約書を見つめました。
署名。
杉浦ハル。
その横には、赤い印影。
確かに本人の名前です。
でも。
「お母様は、契約したとき、どんな状態だったんでしょうか」
「分かりません。ただ、あの会社の社長が何度も家へ来ていたようなんです」
和子さんは、さらに一通の通知を取り出しました。
――本件不動産については売買契約が成立している。
――売主は速やかに建物を明け渡すこと。
――明渡しに応じない場合、相応の措置を講ずる。
差出人。
丸福不動産。
代表取締役。
黒田重蔵。
「母は、家を出ていけと言われているんです」
和子さんの声が震えました。
「庭の梅の木を、毎日眺めるのが楽しみなのに……」
私は契約書を握りしめました。
これは。
何とかしないと。
「大丈夫です!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「成年被後見人の法律行為は、民法九条によって原則として取り消せます!」
和子さんが顔を上げます。
「本当ですか!?」
「はい! しかも家を売る契約なんて、日用品の購入じゃありません!」
よし。
民法です。
今回こそ現代知識が役に立ちます。
成年被後見人。
民法七条。
精神上の障害により、事理を弁識する能力を欠く常況にある者。
家庭裁判所の後見開始の審判。
民法八条。
成年被後見人に成年後見人を付する。
民法九条。
成年被後見人の法律行為は、原則として取消しができる。
完璧!
「では、まず後見開始の審判が出ているか確認して――」
「待て」
相馬先輩の声。
「はい?」
「今、何て言った?」
「成年被後見人です」
「……何だそれ」
……。
しまった。
嫌な予感。
「せ、成年被後見人です」
「だから何だ、その言葉は」
「判断能力が低下した方を保護する制度で……」
「お前が言いたいのは、禁治産者のことか?」
……きん。
ちさん。
しゃ。
私は固まりました。
そうでした。
昭和六十三年。
まだ成年後見制度がありません。
平成十一年の民法改正。
平成十二年施行。
それまで、この時代には禁治産制度が存在しているのです。
「……禁治産者、でした」
「しっかりしろ」
「はい……」
相馬先輩は棚から六法を取り出しました。
「今の法律で仕事しろ」
「はい」
「それに、もっと大事なことがある」
「何ですか?」
「そのばあさん、禁治産の宣告を受けているのか?」
私は和子さんを見ました。
「家庭裁判所で、お母様について禁治産の宣告を受けたことはありますか?」
「……あります」
「え?」
和子さんは茶封筒を探りました。
「二年前に、家庭裁判所で手続をしました。母の財産を守るために、必要だと言われて……」
取り出されたのは、家庭裁判所の審判書の謄本でした。
そこには。
――杉浦ハルを禁治産者とする。
そう記されていました。
「所長!」
私は思わず叫びました。
「あります!」
片桐所長が書類を受け取ります。
「後見人は?」
「私です」
和子さんが答えました。
「夫はもう亡くなっていますので、家庭裁判所で私が選ばれました」
所長は審判書の内容を確認しました。
「なるほど」
そして。
「相馬」
「はい」
「状況が変わったな」
相馬先輩が頷きました。
「ええ。これは、単に判断能力が低かったと主張する事件じゃありませんね」
私は首をかしげました。
「どういうことですか?」
「こはる」
所長が言いました。
「禁治産者の法律行為は、原則として取り消すことができる」
「はい」
「では、その保護を受けるために、毎回、契約時の判断能力の欠如を証明しなければならないか」
……あ。
「いいえ!」
「そうだ」
私は契約書を見直しました。
ハルさんについては、既に禁治産の宣告がなされている。
契約したとき、たまたま調子がよかった。
署名ができた。
ハンコを押せた。
そういう事情があったとしても、それだけで禁治産者の法律行為に関する取消しの仕組みが消えるわけではありません。
「つまり……」
私は顔を上げました。
「契約時に意思能力がなかったから無効、という主張とは別に、禁治産者本人がした行為として取消しを検討できるんですね!」
「そうだ」
所長が頷きました。
「まず宣告の有無と、契約の日付を押さえろ」
私は日付を確認しました。
禁治産宣告。
二年前。
売買契約。
三週間前。
間違いありません。
「……これは強いですね」
相馬先輩が言いました。
「そうだな」
所長は短く答えました。
でも。
相馬先輩は、すぐに私を見ました。
「ただし、まだ一つある」
「何ですか?」
「お前、さっき『日用品の購入だから取り消せない』って言いかけたな」
「はい」
「昭和の民法九条を読め」
私は六法を開きました。
民法第九条。
――禁治産者ノ行為ハ之ヲ取消スコトヲ得。
……。
「あれ?」
「どうした」
「ただし書が……」
「ないだろ」
「……ありません!」
私は目を見開きました。
現代の民法九条には、日用品の購入その他日常生活に関する行為について、取消しを認めない例外があります。
でも。
昭和六十三年の九条には、まだその例外がない。
「えっ!? じゃあ、禁治産者がパンを買った場合も!?」
「条文上は取消しの対象になる」
「洗剤も!?」
「そうだ」
「毎日の買い物まで!?」
「お前、朝からうるせえな」
相馬先輩が呆れました。
「だからこそ、制度が厳しすぎるって問題もあるんだよ」
私は黙りました。
人を守るために、法律行為を取り消せる。
それは分かります。
でも。
パンを買う。
牛乳を買う。
日々の小さな買い物をする。
そこまで法律上不安定になってしまうのは、確かに窮屈です。
……なるほど。
現代の民法が、日常生活に関する行為を例外とした理由が、少しだけ見えてきました。
でも。
今は昭和。
そして今回の問題は、パンではありません。
家です。
二千万円近い価値があるかもしれない不動産を、三百万円で売る契約。
しかも後見人には知らせていない。
「先輩」
「何だ」
「これは、旧法でも取消しが問題になる契約ですよね」
「ああ」
相馬先輩は口元を上げました。
「今度は、時代を間違えるなよ」
「はい!」
その日の午後。
私は相馬先輩と一緒に、丸福不動産を訪ねました。
目的は、資料と事情の確認。
相手との示談交渉を引き受けるためではありません。
私たちは行政書士です。
弁護士ではありません。
依頼人の代理人として紛争の示談交渉をすることはできない。
だからこそ。
事実を調べ、本人が意思表示するための書面を整える。
それが仕事です。
丸福不動産は、駅前の雑居ビルにありました。
大きな応接セット。
灰皿。
壁には土地の販売図面。
そして。
「杉浦の件か?」
奥から現れた男が、そう言いました。
黒田重蔵。
五十代半ば。
派手な背広。
太い金の指輪。
いかにも儲かっていそうな顔です。
「片桐行政書士事務所の相馬です」
「行政書士?」
黒田は鼻で笑いました。
「弁護士じゃねえのか」
「そうです」
「じゃあ、話は簡単だ」
黒田は机から契約書の控えを取り出しました。
「本人が売ると言った。契約書もある。ハンコもある」
「はい」
「三百万円だ。ちゃんと契約書にも書いてある」
私は聞きました。
「代金は、どのようにお渡ししたんですか?」
「現金だよ」
「受領した記録は?」
「契約書に書いてあるだろ」
「ほかに記録はありますか?」
「そんなもの、いちいち残す必要があるのか?」
……。
あります。
少なくとも、三百万円という大金の授受を説明するなら。
もっとも、今ここで言い争っても仕方ありません。
相馬先輩が口を開きました。
「杉浦ハルさんについて、禁治産の宣告があったことはご存じでしたか」
黒田の眉が動きました。
「……何?」
「禁治産です」
「ああ、あれか」
黒田は肩をすくめました。
「娘が財産管理してるとか何とか、そんな話は聞いたな」
私は息を呑みました。
知っていた?
「でもな」
黒田は笑いました。
「本人はちゃんと話ができたぞ」
「……」
「名前も書いた。ハンコも押した」
「……」
「契約した日は、調子がよかったんだろ」
私は口を開きかけました。
でも。
相馬先輩が私を制しました。
「そういうご認識なんですね」
「ああ」
黒田は椅子にもたれました。
「それに、契約書には書いてある」
黒田が一行を指差します。
――売主は、本契約について異議を述べず、後日これを取り消さないものとする。
「ほらな」
黒田は得意げでした。
「取消しはしないって約束だ」
……。
うわ。
出ました。
悪徳業者が大好きな言葉。
契約書に書いてある。
「だから、あんたらが何を言おうと、もう決まったことなんだよ」
黒田は笑いました。
「素人相手だからって、こっちが手を抜いてると思うなよ」
私は、契約書を見ました。
取消しをしない。
そう書いてあります。
でも。
禁治産制度は、本人の判断能力を保護するための制度です。
その本人に。
「私は保護を受けません」
と契約時に一筆書かせるだけで、取消制度を骨抜きにできるのでしょうか。
そんなはずはありません。
それでも私は、まだ言い返しませんでした。
ここで私たちが行うべきなのは、代理交渉ではないからです。
「分かりました」
相馬先輩は静かに立ち上がりました。
「ご説明は確認しました」
「それだけか?」
「はい」
「だったら、さっさと娘に伝えろ。今月中に家を空けろってな」
相馬先輩は答えませんでした。
ただ。
契約書をもう一度見てから、こう言いました。
「内容は正確に記録しておきます」
黒田は笑いました。
「好きにしろ」
その余裕が。
数日後には、きれいに消えることになります。
「先輩!」
事務所に戻るなり、私は叫びました。
「何であんなに余裕なんですか!」
「知らねえよ」
「禁治産者ですよ! しかも、その制度を知ってたみたいじゃないですか!」
「だな」
「絶対おかしいです!」
相馬先輩は椅子に腰掛けました。
「こはる」
「はい」
「怒るのはいい」
「はい」
「だが、怒っただけで契約が消えるか?」
「……消えません」
「じゃあ何が必要だ」
私は答えました。
「取消しの意思表示です」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
また出ました。
先輩の持論。
でも今回は。
その意味が、少し分かります。
片桐所長が、机の上に資料を並べました。
家庭裁判所の審判書。
契約書。
登記簿謄本。
不動産の評価資料。
医師の診断書。
和子さんの事情説明書。
そして、黒田の会社から届いた明渡請求の通知。
「こはる」
「はい」
「この事件で、最も重要な証拠はどれだ」
私は少し考えました。
「診断書ですか?」
「違う」
「え?」
「今回、取消しの根拠として最も重要なのは、禁治産宣告が契約前に存在したことだ」
私は審判書を見ました。
確かに。
診断書だけで、当然に禁治産者になるわけではありません。
当時の制度では、家庭裁判所による禁治産宣告が必要です。
そして。
ハルさんには、既に宣告が出ている。
「所長」
「何だ」
「判断能力が低下していることと、禁治産者として法律上の保護を受ける立場にあることは、区別しないといけないんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「そこを混同するな」
私は大きく頷きました。
医師の診断。
家庭裁判所の宣告。
契約の日付。
この三つが、事件の骨組みになっています。
「でも所長」
「何だ」
「現代なら、成年後見人が代理権、取消権、追認権を持ちますよね」
「その用語は今の制度じゃない」
「あっ」
またやりました。
未来の民法。
「今は禁治産者の後見人です」
相馬先輩が六法を叩きました。
「もっとも、後見人が財産管理や本人の代理を担い、取消しを行えるという基本的な仕組みはある。そこは押さえろ」
「はい!」
私は和子さんを見ました。
「和子さんは、お母様の後見人として、今回の契約を取り消す意思表示ができるんですね」
「そういうことだ」
相馬先輩が言いました。
「ただし、取消しをするかどうかは、和子さん自身に確認する」
「はい」
「俺たちが勝手に決めるんじゃねえ」
所長も頷きました。
「本人と後見人の事情をよく聞くことだ」
私は、和子さんに改めて確認しました。
「今回の売買契約について、後見人として取り消したいというご意思でよろしいですか?」
「はい」
和子さんは、はっきり答えました。
「母の家を守りたいんです」
その声には、迷いがありませんでした。
「まず、取消しだ」
片桐所長が言いました。
「はい!」
「次に、代金の授受の事実を確認する」
「はい」
「それから、登記の状態も確認しろ」
私は登記簿謄本を開きました。
所有者。
杉浦ハル。
「まだ所有権移転登記はされていません!」
「そうか」
所長は頷きました。
「ならば、登記の動きにも注意する必要がある。必要なら、弁護士へ速やかに引き継ぐ」
「はい」
既に別の人に転売されていたら。
登記が移っていたら。
問題はもっと複雑になります。
相手方の契約を取り消すだけで、すべての問題が自動的に片づくとは限りません。
だから。
今のうちに、証拠を整える。
「こはる。書いてみろ」
「はい!」
私は便箋を取りました。
宛先。
丸福不動産株式会社。
代表取締役、黒田重蔵。
差出人。
杉浦和子。
杉浦ハル後見人。
私は鉛筆を走らせました。
――本件売買契約は、判断能力を欠く者による契約であり、当然に無効である。
「違う」
所長の赤鉛筆が入りました。
「えっ!」
「何を根拠にする」
「……禁治産者の取消しです」
「そうだ」
私は慌てて書き直しました。
意思能力がなかったことによる無効。
禁治産者の法律行為の取消し。
結果として契約の効力が否定されることはあっても、法律上の筋道は違います。
今回、確実に使える根拠は。
禁治産宣告と、旧民法九条。
「次」
私は書きました。
――本件売買契約は、日用品の購入ではないため取り消すことができる。
「こはる」
「はい?」
「また未来へ行ったな」
「……あっ!」
相馬先輩が笑いました。
「日用品の例外は、今の九条にはねえぞ」
「そうでした!」
「この事件で、わざわざそんな条件をつける必要もねえ」
「はい……」
私は深呼吸しました。
まずい。
現代知識が邪魔をしています。
旧法。
旧法。
昭和六十三年。
「もう一度、書きます!」
私は原稿用紙を引き寄せました。
二時間後。
ようやく、内容証明郵便の原案が完成しました。
私は読み上げました。
「第一。本通知人は、杉浦ハルの後見人として本通知を行う」
「うん」
「第二。杉浦ハルは、貴社との売買契約締結以前に、家庭裁判所の禁治産宣告を受けている」
「続けろ」
「第三。昭和六十三年某月某日、杉浦ハルは貴社との間で、本件土地建物について売買契約書に署名押印した」
「うん」
「第四。本通知人は、旧民法第九条に基づき、右売買契約を取り消す旨の意思表示をする」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
私は続けました。
「第五。契約書に記載された取消権不行使の約定によって、禁治産者に認められる法律上の保護を排除することはできない」
「よし」
「第六。本件取消しにより、貴社が右売買契約に基づいて本件土地建物の所有権取得を主張する根拠は失われる」
「うん」
「第七。貴社において、売買代金として金員を交付した事実がある場合には、その日時、金額及び交付方法を明らかにされたい。取消しに伴う返還関係については、その事実を確認したうえで処理する」
「よし」
「第八。貴社は、右売買契約を根拠とする建物明渡請求及び所有権移転登記請求を撤回する旨、書面にて回答されたい」
最後に。
私は一行を読み上げました。
――なお、本通知によっても本件契約に基づく権利主張が継続される場合には、弁護士への相談のうえ、訴訟その他必要な法的措置を検討する。
読み終わりました。
相馬先輩は腕を組みました。
「まあ、いいだろう」
「本当ですか!?」
「まだ所長の確認がある」
私は所長を見ました。
所長は黙って原案を読みます。
一行。
また一行。
そして。
「相馬」
「はい」
「金銭授受の資料をもう一度確認しておけ」
「承知しました」
「こはる」
「はい!」
「この書面は、誰の意思表示だ」
「和子さんです。ハルさんの後見人として行う取消しです」
「そうだ」
所長は頷きました。
「俺たちが相手と和解するための書面じゃない。本人側の法的意思を、正確に伝えるための書面だ」
「はい」
「それを忘れるな」
私は頷きました。
内容証明郵便。
それ自体に、裁判所の判決のような強制力があるわけではありません。
でも。
いつ、誰が、どんな内容の意思表示をしたか。
その証拠を残すことができます。
しかも今回の通知には。
家庭裁判所の宣告。
契約の日付。
後見人の地位。
民法九条。
取消しの意思表示。
そうした事実と法律が、順番に積み上げられていました。
相手が、
「契約書にハンコがある」
と言ったところで。
そのハンコだけでは、取消しの問題を消せない。
むしろ。
禁治産者と知りながら安く買ったのであれば、その経緯まで詳しく説明しなければならない。
「所長」
「何だ」
「これ、相手には相当怖い書面ですね」
「そうか」
「はい」
所長は静かに言いました。
「怖いのは、法律を知らなかったことじゃない」
「え?」
「法律上保護される相手から、無理な契約を取ったことだ」
私は、しばらく黙りました。
なるほど。
書面が人を追い詰めるのではありません。
自分がしたことを、法律の前で説明できない。
それが、いちばん怖いのです。
内容証明郵便を発送してから四日後。
丸福不動産の黒田から、事務所に電話が入りました。
「……片桐さんは、いるかね」
私は受話器を持ったまま驚きました。
あの威勢のいい声ではありません。
何だか、妙に小さい。
「所長に代わります」
所長が電話に出ました。
「片桐です」
『……あの、杉浦さんの件ですが』
「はい」
『内容証明が届きましてね』
「そうですか」
『うちの顧問弁護士にも見せたんですが……』
私は、思わず耳を澄ませました。
『禁治産者だったんですね』
「通知書に記載されております」
『いや、その……』
黒田は言葉を濁しました。
『本人が普通に話せたものですから』
所長は答えません。
『それで、契約書にもハンコがありまして……』
「はい」
『ですが、弁護士から、その事情だけでは取消しを防げないと言われましてね』
私は息を止めました。
来ました。
法律の刃が、ようやく届いたのです。
『……このまま契約が有効だと言い張るのは、難しいと』
「そうですか」
『裁判になったら、こちらも相当厳しいと』
所長は静かに聞いています。
『登記もまだですし……その、こちらとしては、もう家を買い取る話はやめようかと』
私は思わず机を叩きそうになりました。
やった!
でも。
所長は浮かれません。
「取消しを受けたことについて、貴社の見解を、後見人の杉浦和子さん宛てに書面でお知らせください」
『……分かりました』
「それから、代金の授受についても事実関係を明らかにしてください」
『はい……』
黒田が小さな声で答えました。
電話が切れます。
「所長!」
「何だ」
「折れましたね!」
「ああ」
「やりました!」
相馬先輩が言いました。
「まだだ」
「え?」
「今度は、書面が届くまで安心するな」
「……はい」
そうでした。
口で言うだけでは、まだ終わりません。
三日後。
丸福不動産から、和子さん宛てに書面が届きました。
――貴殿による売買契約の取消通知を受領したことを確認する。
――当社は本件不動産について所有権移転登記を請求せず、建物明渡しも求めない。
――本件売買契約に基づく権利を、今後主張しない。
代表取締役。
黒田重蔵。
署名。
会社の実印。
私は思わず声を上げました。
「これです!」
相馬先輩が笑いました。
「何だ?」
「先輩が言ってたやつです!」
「何をだよ」
「書面にハンコを押させた奴が勝つ!」
相馬先輩は鼻で笑いました。
「今回は、相手が自分の意思で押したんだ」
「はい!」
「その違いが大事だ」
ただし、金銭の問題は残っていました。
黒田は三百万円を支払ったと主張していたからです。
しかし。
後日、和子さんが弁護士に相談し、通帳や領収書、黒田側の経理資料を確認した結果。
契約書に書かれた三百万円について、実際に全額が支払われたことを裏づける資料は出てきませんでした。
黒田側が提示できたのは、ハルさんに現金五万円を渡したとする出金記録だけ。
その五万円についても、受領の経緯には不明な点がありました。
結局、関係者による確認を経て、金銭の返還関係も弁護士の助言のもとで整理されました。
そして。
杉浦家の土地と建物は、ハルさんの名義のまま守られたのです。
一週間後。
和子さんが、母親のハルさんを連れて事務所にやってきました。
「本当にありがとうございました」
和子さんが頭を下げます。
「母の家を、守ることができました」
「よかったです!」
私は笑いました。
その隣。
ハルさんが、静かに座っています。
白い髪。
小さな背中。
手には、布の手提げ袋。
「……ここは、どこだったかねえ」
ハルさんが呟きました。
「お母さん。行政書士さんの事務所よ」
和子さんが優しく答えます。
「ああ、そうかい」
ハルさんは頷きました。
そして。
私を見て、にっこり笑いました。
「お嬢さん、これ」
「え?」
手提げ袋から取り出したのは、小さな包み。
中には。
梅干し。
「うちの梅なんだよ」
「梅……?」
「庭に木があってねえ」
ハルさんは嬉しそうに言いました。
「毎年、たくさん実がなるの」
私は包みを見つめました。
あの家の。
梅の木。
「ありがとう、ございます」
思わず、声が小さくなりました。
ハルさんは続けました。
「うちの人が植えた木でね」
「……はい」
「もう、ずいぶん昔のことだけど」
ハルさんは窓の外を見ました。
「毎年、花が咲くんだよ」
その声には、穏やかな喜びがありました。
契約したことは覚えていない。
お金の管理は難しい。
自分の娘を間違えることもある。
でも。
梅の木のことは覚えている。
夫が植えた木。
春になると咲く白い花。
そして、毎年作る梅干し。
ハルさんにとっては、かけがえのないものなのです。
「お母さん」
和子さんが言いました。
「おうちは、もう大丈夫だからね」
「家?」
「そう。あの家に、これからも住めるのよ」
ハルさんは少し首をかしげました。
それから。
「ああ、よかった」
と言いました。
本当に理解できたのかは、分かりません。
でも。
その笑顔を見て、私は思いました。
守られたのは。
土地六十坪でも。
築四十年の建物でも。
二千万円という財産価値でもありません。
ハルさんが、ハルさんとして暮らしていく場所。
そのものだったのです。
二人が帰ったあと。
私は机の上の六法を眺めていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「禁治産者って、すごい名前ですよね」
「ああ」
「何だか、人間の自由を全部取り上げるみたいで」
相馬先輩は煙草に火をつけました。
「実際、かなり厳しい制度だ」
「ですよね」
私は六法を開きました。
禁治産者の法律行為。
取消しができる。
現代のような、日用品購入の明文の例外はない。
「先輩」
「何だ」
「パンを買うことまで取り消せるって、ちょっと怖いです」
「そうだな」
「でも」
私は顔を上げました。
「家を騙し取られそうになったときには、その厳しい制度が守ってくれたんですよね」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「後見人の役目は何だ」
「財産を管理して、必要な法律行為を本人に代わって行うことです」
「うん」
「不利益な契約を取り消すこともできます」
「そうだ」
所長は続けました。
「だが、それだけか」
私は少し考えました。
「……本人の生活を守ること、ですか?」
所長が頷きました。
「そうだ」
私は、ハルさんの笑顔を思い出しました。
梅の木。
縁側。
夫との思い出。
「財産を守るって、数字だけの問題じゃないんですね」
私が言うと、所長は短く答えました。
「そうだな」
私は頷きました。
そして。
思い出しました。
現代の民法八百五十八条。
成年後見人は、本人の意思を尊重し、その心身の状態や生活の状況に配慮しなければならない。
身上配慮義務。
でも。
昭和六十三年には、まだ現在の形の規定はありません。
当時の八百五十八条は、禁治産者の後見人が、その資力に応じて療養看護に努めることなどを定めていました。
現代のように、本人の意思の尊重を明文で掲げた制度ではないのです。
私は思いました。
ああ。
だから、改正されるんだ。
保護する。
でも、本人の意思も大切にする。
本人ができることは、できるだけ本人に任せる。
パンを買う自由。
好きなものを選ぶ自由。
そして。
どこで、どんなふうに暮らしたいか。
その思いを尊重すること。
人を守る制度が、人の自由を必要以上に奪ってしまっては、本末転倒です。
……なるほど。
現代の成年後見制度は、そういう方向へ変わっていくんですね。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「何、にやにやしてる」
「いえ」
「また変なこと考えてるだろ」
「ちょっとだけ、未来の民法のことを」
「またか!」
「でも先輩!」
「何だ!」
「今の法律を知ると、未来でなぜ変わるのかも分かるんです!」
「未来未来って、お前はいったい何者なんだよ!」
……。
まずい。
転生者の秘密。
危うく自分から暴露するところでした。
「ほ、法律の進歩を想像するのが好きなだけです!」
「変な趣味だな」
「放っておいてください!」
私は慌ててノートを開きました。
そして。
今日の教訓を、一行だけ書きました。
――判断能力を失っても、財産も、暮らしも、その人のもの。後見は奪う制度ではなく、守る制度。
よし。
これなら忘れません。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
若い男性の声。
『父のことで、相談したいんですが』
「はい。どうされましたか?」
『父は、家の財産管理が難しくなっていまして……』
「はい」
『それで、母が父の代わりに大きな契約をする必要があるんです』
私は頷きました。
後見の問題でしょうか。
『でも、父は禁治産の宣告までは受けていないんです』
「なるほど」
『ある程度のことは分かるんですが、大きなお金の判断が難しくて……』
……。
あ。
これは。
別の制度です。
「先輩」
私は受話器を押さえました。
「何だ」
「判断能力が全部なくなっているわけじゃないそうです」
「うん」
「でも、大きな財産の管理が難しいって」
「それで?」
「禁治産の宣告は受けてないって」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「じゃあ、何を考える?」
私は六法を見ました。
禁治産者。
そして、その次にある制度。
準禁治産者。
現代でいう被保佐人に対応する、昭和の古い制度。
ただし、両者は要件も仕組みも完全に同じではありません。
「あっ!」
私は顔を上げました。
「今度は準禁治産です!」
相馬先輩がにやりとしました。
「そうだ」
「先輩!」
「何だ」
「民法って、次から次へと新しい敵が出てきますね!」
「敵じゃねえよ」
「じゃあ何ですか?」
「守る相手に合わせて、仕組みが違うんだ」
私は少し黙りました。
なるほど。
確かに。
判断能力がほとんどない人。
判断能力が不十分だけれど、ある程度は自分で決められる人。
その二人に。
まったく同じ制限を課す必要があるのでしょうか。
答えは、たぶん。
違います。
「先輩!」
「何だよ!」
「今度こそ、昭和の条文から読みます!」
「当たり前だ!」
「現代の成年後見制度と混ぜません!」
「最初からそうしろ!」
私は笑いながら、相談票を手に取りました。
昭和六十三年。
民法の世界は、今日も古めかしい言葉でいっぱいです。
禁治産者。
準禁治産者。
後見人。
取消し。
追認。
言葉は難しい。
仕組みも複雑。
でも。
その一つひとつには、人の財産を守る理由があります。
今日、私が守ることに関われたのは。
一軒の家でした。
そして。
そこに咲く梅の花。
おばあさんの記憶。
亡くなった夫との暮らし。
そういうものです。
法律は、契約書のハンコだけを見ているわけではありません。
その人が、どんな状態で。
どんな法律上の保護を受けていて。
何を失おうとしているのか。
そこまで見なければ、本当の意味で人を守ることはできない。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり民法って、面白いですね!」
「面白がってる暇があったら電話の続きを聞け!」
「はいっ!」
私は受話器を握り直しました。
「お待たせしました。まず、お父様の現在の状態と、家庭裁判所で何か手続をされたことがあるか、順番に教えてください」
そして、心の中で呟きました。
次は、準禁治産者。
昭和の民法。
まだまだ手強そうです。
でも。
これだけは、もう間違えません。
人を守るための制度を、本人の財産を奪う道具にしてはいけない。
あの梅の木の下で。
ハルさんが、来年も笑っていられるように。
民法は。
そのためにも、あるのです。
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