[民法・未成年者]法理編 こはるノート
十九歳は、大人でしょうか。
働いている。
給料をもらっている。
自分で契約書にハンコを押せる。
それでも。
昭和六十三年の民法は、原則として十九歳を未成年者と呼びます。
では。
未成年者が結んだ契約は、すべて取り消せるのでしょうか。
答えは、違います。
親の同意がなくても、一人でできる契約があります。
親が後から認めれば、有効になる契約もあります。
さらに。
同じ十八歳でも、結婚しているかどうかで、法律上の扱いが変わることさえあるのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……十九歳って、難しいですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「いきなり何だ」
「昨日の遠山直樹さんです」
「ああ。百二十万円の教材を買わされた青年か」
「はい」
十九歳。
町工場で働く青年。
将来のために勉強しようとして、高額な教材契約を結んでしまった。
相手は東海能力開発センター。
営業責任者の黒田は、
「十九歳にもなって働いているんだから、大人と同じだ」
と言い張っていました。
しかも。
――自らの責任で契約を履行する。
そんな確認書にまで署名させていた。
けれど。
親権者の同意がなかったこと。
業者自身が直樹さんの年齢を知っていたこと。
そして、未成年者保護の例外に当たらないこと。
それらを整理した内容証明郵便によって、母親の取消しの意思表示を伝えた結果。
業者は契約の取消しを認め、百二十万円の請求を取りやめた。
「いい事件でしたね」
私が言うと、相馬先輩が眉をひそめました。
「被害に遭った本人にとっちゃ、いい事件じゃねえだろ」
「それはそうですけど!」
私は慌てて言い直しました。
「民法の勉強として、です!」
「だったら、何を覚えた」
「未成年者は、親の同意がなければ契約を取り消せる!」
「……それだけか?」
「え?」
「じゃあ、未成年者が駄菓子屋で十円の飴を買ったら?」
「えっと……」
「親の同意がないから取り消せるのか?」
「……場合によります」
「そうだろ」
先輩は新聞を畳みました。
「今日は、その『場合による』を全部整理しろ」
私は鉛筆を握りました。
よし。
今日のテーマ。
未成年者。
その行為能力。
そして。
法定代理人の四つの権限。
ここを理解すれば、行政書士試験の問題も怖くありません。
……たぶん。
「まず、最初の問題です!」
私はノートに大きく書きました。
――未成年者とは?
「二十歳未満!」
勢いよく答えました。
相馬先輩が頷きます。
「今はな」
「はい!」
そうです。
昭和六十三年。
旧民法第三条。
成年年齢は二十歳。
だから十九歳の直樹さんは未成年者です。
十八歳も。
十七歳も。
原則として未成年者。
「でも、現代では違うんですよね」
私は呟きました。
「何?」
「い、いえ!」
危ない。
また未来の話をするところでした。
でも、私のノートには必要です。
私は小さく書きました。
――令和四年四月一日以降、成年年齢は十八歳。
つまり。
同じ十九歳でも、昭和六十三年と現代では扱いが違います。
昭和六十三年。
十九歳は未成年者。
令和。
十九歳は成年者。
「ということは……」
私は鉛筆を止めました。
「直樹さんが現代にいたら、未成年者という理由では取り消せないんですね」
「お前、また未来の話か」
「確認です!」
もちろん、現代でも詐欺や錯誤など別の理由で契約の効力が問題になることはあります。
でも。
十九歳という年齢だけでは、もう未成年者取消しはできない。
成年年齢の違いは、それほど大きいのです。
「ただし」
片桐所長が奥から言いました。
「年齢だけで終わるな」
「はい?」
「この時代には、婚姻による成年擬制がある」
……来ました。
昨日の最後に電話がかかってきた、十八歳の女性の事件。
私はノートをめくりました。
「婚姻による成年擬制です!」
私は大きく書きました。
――旧民法第七百五十三条。
未成年者が婚姻をしたときは、これによって成年に達したものとみなす。
「つまり、結婚すると大人になるってことですか?」
私が聞くと、相馬先輩が頷きました。
「民法上の扱いとしてはな」
「じゃあ、十八歳で結婚した女性は?」
「婚姻による成年擬制が働く」
「その人が百二十万円の契約を結んだら?」
「未成年者という理由だけでは取り消せねえな」
私は頷きました。
ここが重要です。
昭和六十三年には、原則として二十歳未満が未成年者。
でも、有効に婚姻した未成年者は、成年に達したものとみなされる。
だから。
十八歳でも。
十九歳でも。
婚姻による成年擬制が働いていれば、未成年者としての行為能力の制限はなくなります。
「ところで先輩」
「何だ」
「離婚したら、どうなります?」
相馬先輩がこちらを見ました。
「昨日の相談だな」
「はい」
十八歳で結婚し、その後離婚した女性。
母親は、
「娘はまだ十八歳だから、親の同意がない契約は取り消せるはずだ」
と思っていた。
でも。
「離婚しても、未成年者には戻らないんですよね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――婚姻によって成年擬制が働いた場合、離婚しても原則としてその効果は失われない。
「どうしてですか?」
私は聞きました。
片桐所長が答えました。
「婚姻してから、本人が結んだ契約はどうなる」
「……あ」
「離婚した瞬間、また未成年者としての制限が復活したら、取引関係が複雑になる」
なるほど。
一度、成年者として法律行為ができる状態になった。
その人が結婚生活の中で契約を結ぶ。
財産を管理する。
借金をすることもある。
そして離婚した。
その瞬間に未成年者としての制限が戻るとしたら、本人も取引相手も困ってしまう。
「だから、離婚しても成年擬制は失われないんですね」
「そうだ」
私は大きく丸をつけました。
そして、余白に書き足しました。
――現代では、成年年齢の十八歳への引下げに伴い、婚姻による成年擬制の規定は削除された。
令和の民法には、もうこの制度はありません。
十八歳になれば、婚姻していなくても成年者だからです。
かつては、結婚という出来事によって、二十歳未満でも成年者として扱われた。
でも今は、十八歳という年齢そのもので成年になる。
「なるほど……」
私は鉛筆を止めました。
「昔の制度を知ると、現代の制度が分かりやすいですね」
「そうか?」
「はい!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「お前、本当に法律の違いが好きだな」
「試験に出ますから!」
「便利な言い訳だな」
「次は、本題です!」
私はノートに大きく書きました。
――未成年者の行為能力。
「先輩。未成年者は、単独で契約できないんですよね?」
「原則としては、法定代理人の同意が必要だ」
「はい!」
ここが出発点。
未成年者が法律行為をするには、原則として法定代理人の同意が必要です。
たとえば。
高額な教材を購入する。
不動産を売却する。
借金をする。
そうした法律行為を、未成年者が自分一人で有効に行えるとは限りません。
「じゃあ、親の同意がない契約は、最初から無効なんですか?」
私が聞くと、相馬先輩は首を振りました。
「違う」
「ですよね!」
「取り消すことができる、だ」
私は二重線を引きました。
――同意のない法律行為は、原則として取消し可能。
ここが重要です。
無効。
取消し。
似ているけれど、違います。
無効なら、原則として最初から法律上の効力が認められません。
一方。
取り消すことができる法律行為は、取消しがされるまでは一応有効なものとして扱われます。
そして。
取消権が行使されると、初めから無効だったものとみなされる。
「直樹さんの契約もそうですね」
「ああ」
「お母さんが取り消す意思表示をしたことで、契約の効力が覆った」
「そうだ」
「相手が『嫌だ』と言っても、要件を満たしていれば取消しの効力は生じる」
「そのとおりだ」
つまり。
取消しは、相手にお願いする制度ではありません。
法律が認めた権利を行使する制度です。
私はその違いに、赤線を引きました。
「でも、どうして契約を最初から無効にしないんでしょう?」
私が尋ねると、片桐所長が答えました。
「未成年者にとって有利な契約もあるからだ」
「……あ」
たとえば。
十九歳の青年が、自分の欲しかった品物を適正な価格で購入した。
親も後から事情を知り、問題ないと考えた。
それなら、その契約を有効なままにする道があってもいい。
未成年者の保護とは。
未成年者がした契約を全部壊すことではありません。
不利益な契約から守りつつ、有益な契約は維持できるようにする。
そのために。
民法は、取消しという仕組みを用意しているのです。
「さて、こはる」
相馬先輩が言いました。
「未成年者が一人でできる行為を挙げろ」
「はい!」
私はノートに四つの欄を作りました。
――単に権利を得る、又は義務を免れる行為。
――処分を許された財産の処分。
――許可された営業に関する行為。
――取消権の行使。
「この四つですね!」
「よし。一つずつ説明しろ」
「ええっ!」
「丸暗記じゃ駄目なんだろ?」
「……そうでした」
私は鉛筆を握り直しました。
まず。
単に権利を得る行為。
「先輩、私に一万円ください!」
「嫌だ」
「即答しないでください!」
「何で俺がお前に金をやるんだ」
「例です!」
私は説明しました。
たとえば、親戚のおじさんが、
「この一万円、何の負担もないお祝いとしてあげる」
と言った場合。
未成年者は、単に権利を得るだけです。
そのため、このような贈与を受ける法律行為には、法定代理人の同意が必要ありません。
「じゃあ、借金を免除してもらう場合は?」
相馬先輩が聞きました。
「単に義務を免れる行為です!」
「そうだ」
たとえば、未成年者が負っている借金について、債権者が無条件で免除すると申し出た場合。
その免除を受けることは、義務がなくなるだけの行為です。
だから、原則として単独で有効に行えます。
「でも」
片桐所長が口を開きました。
「条件が付いたらどうなる」
「条件?」
「十万円を贈与する。ただし、代わりに毎月十時間働いてもらう」
「……あ!」
それは、単に権利を得るだけではありません。
新たな負担も生じます。
「だから、単に利益があるというだけでは駄目なんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
重要なのは、本人が得をすると思ったかどうかではない。
法律上、単に権利を得るか、義務を免れるだけなのか。
その違いです。
「次は、処分を許された財産です!」
私はノートをめくりました。
「例えば、お小遣いですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
親から、
「この五百円は好きに使っていい」
と言われた。
その五百円で、お菓子を買う。
本を買う。
そんな行為は、処分を許された財産の範囲内です。
「でも」
私は言いました。
「『参考書を買うために渡した三千円』なら、その目的の範囲内で使う必要があります」
「そうだな」
ここが大事。
法定代理人が目的を定めて処分を許した財産なら、その目的の範囲内。
目的を定めずに処分を許した財産なら、その許された範囲内で自由に処分できます。
「じゃあ、直樹さんの場合は?」
相馬先輩が聞きました。
「お給料の残りを自由に使っていいと言われていました」
「うん」
「でも、それだけで百二十万円の分割払契約を結ぶことまで許されていたとは言えません」
「そこだ」
私は頷きました。
自由に使っていいお金。
それと。
将来の収入を当てにして、多額の支払義務を負う契約。
これは別です。
「ただし、直樹さんの給料全部が、当然に法定代理人の管理下にあるという意味でもありませんね」
私は確認しました。
片桐所長が頷きました。
「個別の事情を見なければならん」
お金の出所だけでは決まらない。
何を許されていたのか。
どの範囲で自由に使えるのか。
契約によって、どんな義務を負うのか。
それを確認する。
昨日、相馬先輩が細かく事情を尋ねていた理由が、ようやく分かりました。
「三つ目!」
私は鉛筆を持ち直しました。
――営業を許された未成年者。
「これは、ちょっと意外ですよね」
「何がだ」
「未成年者でも、商売については大人と同じように契約できる場合があるんです」
相馬先輩が頷きました。
たとえば。
十九歳の青年が、親から自転車修理業を営む許可を得たとします。
自分の店を持つ。
修理用の部品を仕入れる。
客から修理を頼まれる。
料金を受け取る。
そのたびに親の同意が必要だったら、営業が成り立ちません。
「だから、許可された営業については成年者と同じ行為能力を認めるんですね」
「そうだ」
「でも、何でもできるわけじゃありませんよね」
「もちろんだ」
許可された営業に関する行為。
そこが範囲です。
自転車修理業を許されたからといって、全然関係のない高額な土地取引や投機的契約まで、当然に自由にできるわけではありません。
「それと」
私は付け加えました。
「営業を続けることが難しい事情が生じた場合には、法律に従って許可の取消しや制限が問題になります」
「そうだな」
未成年者を守るための制度。
でも同時に。
実際に営業するなら、必要な契約を自分で行えるようにする。
保護と自立。
民法は、その両方を考えているのです。
「ところで先輩」
「何だ」
「直樹さんも働いていましたよね」
「ああ」
「でも、営業を許された未成年者ではなかった」
「そうだ」
「雇われて働くことと、自分で営業することは別なんですね」
相馬先輩が頷きました。
「そこを混同すると、えらいことになるぞ」
私は大きく丸をつけました。
「最後は、取消権の行使です!」
私はノートの四つ目に赤線を引きました。
「未成年者自身も、取り消すことができるんですよね」
「そうだ」
たとえば。
十九歳の青年が、親の同意なく高額な契約を結んでしまった。
その契約が取消し可能なら。
本人自身も、取消権を行使できます。
「ここで面白いのが」
私は言いました。
「取消しをするために、また親の同意をもらわなければならない、としたらおかしいことです」
「どうしてだ?」
「自分を守るための取消権なのに、それを使うことまで制限されたら、保護が十分に働かないからです」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
取り消すことができる法律行為について、未成年者本人も取消権を行使できます。
これは、元の契約を結ぶこととは違います。
「じゃあ、昨日の直樹さんも、自分で取消しの意思表示をすることができたんですね」
「そうだ」
「今回は、お母さんが親権者として取り消した」
「ああ」
私は頷きました。
同じ取消しでも。
誰が権利を持っているのか。
誰の名義で意思表示するのか。
そこまで整理しなければならない。
内容証明を書くときに、絶対に間違えてはいけないところです。
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「次は法定代理人だ」
「はい!」
私はノートの真ん中に、大きく書きました。
――法定代理人。
「未成年者の場合、原則として親権者ですね」
「そうだ」
親権者が法定代理人として、未成年者の法律行為について必要な役割を果たします。
そして。
親権者がいない場合などには、未成年後見人が選任され、法定代理人となることがあります。
「直樹さんの場合は?」
所長が聞きました。
「父親が亡くなっていて、母親の澄江さんが親権者でした」
「そうだ」
「だから、お母さんが契約を取り消す意思表示をした」
「うん」
私は頷きました。
では。
法定代理人には、どんな権限があるのでしょうか。
「四つです!」
私はノートに書きました。
代理権。
同意権。
取消権。
追認権。
相馬先輩が言いました。
「じゃあ、順番に説明してみろ」
「はい!」
まず。
代理権。
法定代理人が、未成年者を代理して法律行為を行う権限です。
たとえば。
未成年者名義で必要な契約を、親権者が代理して結ぶ。
「つまり、本人に代わって契約するんですね」
「そうだ」
次に。
同意権。
未成年者本人が契約することについて、法定代理人が同意を与える権限です。
たとえば。
十九歳の青年が、必要な機械を購入したい。
親が内容を確認し、購入に同意する。
その同意があれば、本人が契約することができます。
「代理権と同意権は違いますね」
私は言いました。
「代理権は、親が本人に代わって行為する」
「うん」
「同意権は、本人がする行為を親が認める」
「そうだ」
私は二重線を引きました。
似ているけど、違う。
ここは試験で狙われそうです。
そして。
三つ目。
取消権。
「これが昨日の決定打ですね!」
「ああ」
親の同意が必要な法律行為を、未成年者が同意なく行った。
その場合。
法定代理人は、法律の定めに従って取り消すことができます。
昨日の百二十万円の教材契約が、まさにそうでした。
そして。
四つ目。
追認権。
「……これが、ちょっと怖いんですよね」
私が呟くと、相馬先輩が笑いました。
「どうしてだ?」
「取り消せる契約を、後から有効に確定させることができるからです」
そうです。
たとえば。
十九歳の青年が、親の同意なく五万円の機械を購入した。
本来は、取り消すことができる契約だった。
でも。
親が後から事情を知り、
「その契約で問題ない。認める」
と追認した場合。
その契約は、もはや未成年者であることを理由に取り消せなくなります。
「つまり、取消権と追認権は、逆方向なんですね」
「そうだ」
取消し。
契約の効力を覆す。
追認。
取り消すことのできる契約を、確定的に有効にする。
「所長」
「何だ」
「もし直樹さんのお母さんが、契約書を見て『それでいいよ』と後から正式に追認していたら?」
「今回と同じ取消しはできなかっただろうな」
「ですよね!」
私は鉛筆を止めました。
なるほど。
だから昨日、先輩は聞いていたのです。
契約前に同意があったか。
契約後に親が認めたか。
そこまで確認していました。
取消しを考えるときには、単に契約時の同意の有無だけでなく、追認の有無も重要になる。
「先輩」
「何だ」
「事実確認って、本当に大事ですね」
「今ごろ気づいたのか」
「昨日より深く気づきました!」
「便利な言い方だな」
「それじゃあ、一つ質問です」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「未成年者の母親が、本人の代わりに契約した。これは何権だ?」
「代理権!」
「未成年者本人が契約する前に、親がいいと言った」
「同意権!」
「親の同意なく契約してしまったので、後から取り消した」
「取消権!」
「親の同意なく契約したが、後から親が有効だと認めた」
「追認権!」
「よし」
私は拳を握りました。
四つ。
完璧です。
「じゃあ、もう一問」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「十九歳が、親の同意なしに十万円を無条件でもらう約束をした」
「単に権利を得る行為なので、原則として同意不要!」
「五百円のお小遣いで菓子を買った」
「処分を許された財産の範囲なら有効!」
「親から許可された自転車修理業のために、必要な工具を仕入れた」
「許可された営業に関する行為なので、成年者と同じ行為能力があります!」
「親の同意なく結んだ契約を、自分で取り消した」
「取消権の行使は単独でできます!」
相馬先輩は頷きました。
「悪くねえ」
「褒めましたね!」
「調子に乗るな」
私は笑いました。
でも。
こうして具体例で考えると、四つの例外が自然に頭に入ってきます。
単に権利を得る。
単に義務を免れる。
処分を許された財産。
許可された営業。
そして、取消し。
ただ暗記するより、ずっと分かりやすい。
やっぱり。
法律は、事件と結びつけると覚えやすいのです。
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「昨日の黒田という男が、一番勘違いしていたのは何だ?」
私は考えました。
百二十万円の契約書。
十九歳の青年。
自分で働いている。
本人が署名押印した。
自ら責任を負うと書いている。
黒田は、それだけで契約を押し通せると思っていました。
「……本人が責任を取ると約束すれば、未成年者保護を排除できると思っていたことです」
私は答えました。
所長が頷きました。
「そうだ」
未成年者が、
「私は大人と同じ責任を負います」
と書いたとしても。
それだけで、法律上の未成年者でなくなるわけではありません。
そもそも。
未成年者の保護を、本人の簡単な約束だけで放棄できるとしたら。
悪徳業者は、契約書に一行追加するだけで、未成年者保護を無意味にできてしまう。
「だから、あの確認書だけでは駄目だったんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「ただし、未成年者の側が嘘をついて相手を騙した場合は、話が違ってくる」
「詐術ですね」
「ああ」
私はノートに書きました。
――詐術による取消権の制限。
未成年者が、自分を成年者だと信じさせるために欺く行為をした場合などには、取消権が制限されることがある。
たとえば。
十九歳なのに、
「私は二十五歳です」
と偽り。
さらに偽造した証明書まで示して、相手に成年者だと信じさせた場合。
そのような事情があれば、未成年者だからという理由で取り消すことができなくなる可能性があります。
「でも、直樹さんの場合は違いました」
「そうだな」
「業者は、十九歳だと知っていた」
「うん」
「本人が年齢を偽ったわけでも、親の同意があると偽ったわけでもありません」
「そうだ」
だから。
黒田が作った確認書は、今回の取消しを封じる決定打にはならなかった。
私は頷きました。
相手を守る制度もある。
未成年者を守る制度もある。
民法は、その両方の公平を考えているのです。
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私はノートを閉じかけました。
でも。
もう一つだけ気になることがありました。
「所長」
「何だ」
「未成年者が取り消したとき、受け取った物はどうなるんですか?」
所長が頷きました。
「いい質問だ」
私は少し嬉しくなりました。
「取消しがされれば、契約は初めから無効だったものとみなされる」
「はい」
「だから、受け取った物や金の返還が問題になる」
「そうですよね」
直樹さんの場合。
百二十万円の教材契約。
教材は段ボール三箱。
既に二万円を支払っていた。
取消しが成立したからといって、教材をもらったまま、当然に二万円だけ返してもらえるという単純な話ではありません。
双方が受け取ったものをどう返すか、整理が必要です。
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「未成年者には、ここでも保護がある」
「……はい?」
「返還義務の範囲だ」
私は六法を開きました。
未成年者などの制限行為能力者が、その行為を取り消した場合。
旧民法では、現に利益を受けている限度で償還義務を負うという特則がありました。
現代の民法でも、取消しに伴う原状回復について、制限行為能力者を保護する規定が置かれています。
「つまり……」
私は言いました。
「未成年者を守るために契約を取り消したのに、返還義務のせいで結局大きな負担を背負わせたら、本末転倒になるんですね」
「そういうことだ」
もっとも。
何でも返さなくていいという意味ではありません。
受け取った物が手元にある。
現に利益が残っている。
そうした場合には、その状況に応じた返還が問題になります。
「直樹さんの教材は、ほとんど未使用でした」
「ああ」
「だから、教材を返して、二万円を返してもらう形で整理できたんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
取消し。
原状回復。
現存利益。
それぞれがつながっている。
民法は、本当に奥が深いです。
「さて、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「最後に確認だ」
「来ましたね!」
私は背筋を伸ばしました。
「昭和六十三年の成年年齢は?」
「二十歳!」
「現代は?」
「十八歳!」
「昭和六十三年の未成年者の法律行為の基本条文は?」
「旧民法第四条!」
「現代は?」
「民法第五条!」
「未成年者が親の同意なくした法律行為は?」
「原則として、取り消すことができます!」
「無効か?」
「いいえ! 取消し可能です!」
「親が後から認めたら?」
「追認によって、確定的に有効になります!」
「未成年者自身は、取消しができるか?」
「できます!」
「法定代理人の四つの権限は?」
「代理権、同意権、取消権、追認権!」
「婚姻した未成年者は?」
「昭和六十三年の民法では、婚姻による成年擬制が働きます!」
「離婚したら?」
「原則として、未成年者には戻りません!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は思わず拳を握りました。
やりました。
未成年者。
行為能力。
法定代理人。
成年擬制。
一通り整理できました。
「じゃあ最後に」
片桐所長が言いました。
「はい!」
「なぜ、未成年者を保護する制度がある」
私は少し考えました。
法律の条文。
取消権。
親権者の同意。
営業の許可。
追認。
それから。
遠山直樹さんの顔。
十九歳。
働いている。
家族を助けたい。
もっと技術を身につけたい。
そんな気持ちから、百二十万円の契約を結んでしまった青年。
私は答えました。
「……判断力や経験が十分でない人が、不利な契約で人生を壊されないようにするためです」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
「でも」
私は続けました。
「ただ守るだけじゃないんですね」
「うん」
「未成年者にも、自分でできる行為がある」
「そうだ」
「お小遣いを使うことも、許された営業をすることもできる」
「うん」
「親が後から認めることもできる」
私はノートを見つめました。
「民法は、未成年者の自由を全部奪っているわけじゃないんですね」
所長は静かに言いました。
「保護と自立だ」
その一言で。
私は、今日の勉強の意味が分かった気がしました。
未成年者を守る。
でも、何もさせないわけではない。
経験や判断力が十分でないところは保護する。
自分でできるところは認める。
そして、成長に合わせて、少しずつ社会の中で自立していく。
そのための仕組みが、民法の行為能力制度なのです。
私はノートの最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――未成年者は「原則、親の同意」。例外は「利益・許可された財産・営業・取消し」、そして親には「代理・同意・取消し・追認」。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長えな」
「ええっ!」
「一行の覚え書きって言っただろ」
「一行です!」
「文字数が多すぎる」
「情報量が必要なんです!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「試験勉強ってのは、そんなに詰め込むもんなのか」
「はい!」
「大変だな」
「大変なんです!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
百二十万円の契約。
十九歳の青年。
親の同意なし。
相手は、自分で責任を取ると書いてあるから有効だと言い張った。
でも。
法律は、そんな簡単な紙一枚で未成年者の保護を失わせたりしなかった。
そして。
母親が取消権を行使したことで、契約の効力は覆った。
直樹さんの百二十万円の負担は、なくなったのです。
私はノートを閉じました。
「ところで先輩」
「何だ」
「もし私が十九歳だったら、先輩から借りたお金も取り消せるんですか?」
「……は?」
「たとえば、先輩から一万円借りて」
「うん」
「親の同意がなかったから、契約を取り消します!」
相馬先輩は眉をひそめました。
「お前な」
「はい!」
「金を借りた事実まで消えると思ってんのか」
「……あ」
「取消しが成立すりゃ、受け取った金の返還が問題になるだろ」
「ですよね!」
「都合のいいところだけ覚えるな」
私は苦笑しました。
法律の保護。
それは、借りたお金を踏み倒すための魔法ではありません。
不当な負担から守るための仕組みです。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「私が十九歳で、一万円を無条件でもらった場合は?」
「単に権利を得るだけなら、同意はいらねえ」
「ありがとうございます!」
「誰がやるって言った!」
「例です!」
「例で金を要求するな!」
私は笑いました。
相馬先輩も、少しだけ笑いました。
そのとき。
片桐所長が奥から言いました。
「こはる」
「はい!」
「明日は、婚姻による成年擬制の相談書類を整理してもらう」
「はい!」
「離婚した十八歳の女性だ」
「分かりました!」
「年齢だけで結論を出すなよ」
「もちろんです!」
私は元気よく答えました。
すると、相馬先輩が横から言いました。
「お前、昨日は十九歳を成年者だと思い込んでたくせに」
「それは未来の民法が悪いんです!」
「法律のせいにするな!」
「だって、三十四年後には本当に十九歳が成年者になるんですよ!」
「また未来の話か!」
……しまった。
私は慌てて口を押さえました。
片桐所長は、何も言いませんでした。
ただ。
いつものように帳簿を閉じました。
そして、ぽつりと。
「法律は、時代によって変わる」
と言いました。
私は顔を上げました。
「だが」
所長は続けました。
「目の前の人を守るために、今ある法律を正しく使う。それは変わらん」
私は静かに頷きました。
昭和六十三年。
十九歳は、原則として未成年者。
令和では、十九歳は成年者。
制度は変わります。
条文番号も変わります。
成年年齢も変わります。
婚姻による成年擬制という制度も、やがて姿を消します。
でも。
法律が目指しているものには、変わらない部分があります。
人を不当な契約から守ること。
判断力や経験の違いを考慮すること。
そして。
本人が少しずつ、自分の人生を選べるようにすること。
私はノートをもう一度開きました。
最後の一行を見つめます。
――未成年者は「原則、親の同意」。例外は「利益・許可された財産・営業・取消し」、そして親には「代理・同意・取消し・追認」。
よし。
覚えました。
今度こそ、間違えません。
「こはる!」
相馬先輩が呼びました。
「はい!」
「勉強が終わったなら、机を片付けろ!」
「はい!」
「六法も戻せ!」
「分かりました!」
「ついでに掃除も頼む!」
「……先輩!」
「何だ!」
「私、未成年者だったら、掃除も取り消せますか!」
相馬先輩は一瞬黙りました。
それから。
「……お前な」
「はい!」
「掃除を頼まれたことと、法律行為の取消しは別だろ!」
「ですよね!」
「何を勉強してたんだ!」
私は笑いながら箒を手に取りました。
窓の外。
夕暮れの町に、工場の明かりが灯り始めています。
遠山直樹さんも、今ごろ仕事を終えているでしょう。
百二十万円の請求書に怯えることなく。
明日の仕事を考えながら。
家に帰ることができる。
そして。
いつか、自分の力で本当に必要な勉強を選び直すことができる。
民法は。
そのための時間を、彼に取り戻してくれたのです。
私は箒を動かしながら、心の中でもう一度呟きました。
未成年者を守る法律は、子供扱いするための法律ではない。
大人になるまでの人生を、奪われないようにする法律なのだ。
「こはる!」
「はい!」
「手が止まってるぞ!」
「今、法律の本質を考えてたんです!」
「考えるのは掃除が終わってからにしろ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私の意思は、掃除より勉強を望んでいます!」
「知るか!」
……なるほど。
どうやら私には。
未成年者の取消権より先に。
この掃除当番を取り消す方法を、研究する必要がありそうです。
残念ながら。
今のところ、そのような取消権は民法に見当たらないのでした。
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