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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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427/616

[民法・未成年者]現場編 「十九歳なら大人と同じでしょ」の罠。親の同意なき百二十万円の契約と、悪徳業者を追い詰める取消権の刃

挿絵(By みてみん)

 大人に見えることと、法律上の大人であることは、同じではありません。


 たとえば。


 十九歳。


 仕事もしている。


 自分でお金を稼いでいる。


 契約書の内容も読める。


 ハンコだって持っている。


 それでも。


 昭和六十三年の民法は、その人をまだ「未成年者」と呼びます。


 そして、その一線を知らなかった大人が。


 たった一枚の内容証明で、青ざめることになりました。



 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「百二十万円、払えって言われたんです」


 その日の相談者は、そう言って一枚の契約書を机に置きました。


 若い男性でした。


 少し日に焼けた顔。


 作業着の袖には、機械油の染み。


 名前は、遠山直樹。


 十九歳。


 町工場で働いているそうです。


「百二十万円……?」


 私は思わず聞き返しました。


「何を買ったんですか?」


「資格の教材です」


「教材?」


「はい。将来、工場の仕事に役立つって言われて……」


 直樹さんは俯きました。


「最初は、月々五千円くらいで済むって話だったんです」


「それが?」


「契約書をよく見たら、教材代が百二十万円で……」


 私は契約書を受け取りました。


 ――技術者能力開発総合講座。


 ――受講料及び教材費 一金百二十万円。


 ――分割払契約。


 ――申込者は、本契約の内容を十分理解し、自らの責任において契約を締結する。


 ……。


 嫌な文章です。


 特に最後。


「自らの責任において」。


 この一文が、やけに大きく印刷されています。


「教材は届いたんですか?」


「はい」


「どんなものです?」


「段ボール三箱です。古い教科書みたいな本が入ってました」


「古い?」


「工場の先輩に見せたら、内容が十年以上前の技術だって」


 私は眉をひそめました。


「それで百二十万円?」


「はい……」


 直樹さんは膝の上で拳を握りました。


「でも、僕が一番困ってるのは、母ちゃんなんです」


「お母さん?」


「はい。契約のことを知って、泣いちゃって……」


 そこで、隣に座っていた女性が顔を上げました。


 遠山澄江さん。


 四十五歳。


 直樹さんのお母さんです。


「この子、父親を早くに亡くしてるんです」


 澄江さんは言いました。


「中学を出てから働いて、家計を助けてくれて……」


「……はい」


「だから、自分の勉強のためにお金を使いたいって言われたとき、私、嬉しかったんです」


 私は黙って聞きました。


「でも、百二十万円なんて……」


 澄江さんの声が震えました。


「この子の給料、何か月分になると思います?」


 直樹さんは俯いたままでした。


「母ちゃん。俺が馬鹿だったんだ」


「そんなこと……」


「仕事ができるようになれば、もっと稼げるって言われて」


 彼は唇を噛みました。


「だから、契約したんだ」


 私は契約書を見つめました。


 十九歳。


 自分で働いている。


 でも。


 百二十万円。


 それは、簡単に背負っていい金額ではありません。


 そして、私はあることに気づきました。


「あれ?」


 思わず声が出ました。


「直樹さん、十九歳ですよね?」


「はい」


「結婚は?」


「してません」


「じゃあ……」


 私は一瞬、考えました。


 現代の民法では、十八歳で成年です。


 だから十九歳なら、原則として自分一人で契約できます。


 親の同意がなくても。


 百二十万円の契約だって。


 もちろん、詐欺や錯誤など別の問題があれば話は違います。


 でも。


 未成年者だから取り消せる、という話にはならない。


 ……はず。


「こはる」


 相馬先輩が呼びました。


「はい?」


「お前、何を考えてる」


「十九歳ですから、もう成年者……」


 言いかけて。


 止まりました。


 あ。


 しまった。


 またです。


 また未来の民法です。


「……じゃありませんでした!」


 私は慌てて言い直しました。


「昭和六十三年!」


「そうだ」


「この時代の成年年齢は二十歳!」


「当たり前だろ」


 相馬先輩は呆れた顔をしました。


「お前、十九歳を勝手に大人にするな」


「すみません!」


 危なかった。


 令和四年四月一日から、成年年齢は十八歳。


 でも、それは三十四年も先の話。


 今は昭和六十三年。


 十九歳は、原則として未成年者なのです。


「ということは!」


 私は顔を上げました。


「法定代理人の同意がなければ、原則として契約を取り消せます!」


 澄江さんが目を見開きました。


「本当ですか?」


「はい!」


 ところが。


「まだ喜ぶな」


 相馬先輩が遮りました。


「え?」


「未成年者なら、どんな契約でも取り消せると思ってんのか」


「……違うんですか?」


「違うに決まってんだろ」


 先輩は机の上に六法を置きました。


「例外がある」


 そうでした。


 民法は、未成年者を保護します。


 でも。


 未成年者がした行為を、何でもかんでも取り消せるわけではない。


 そこには。


 思った以上に細かい線引きがあるのです。



「まず確認するぞ」


 相馬先輩が直樹さんを見ました。


「母親から、この契約について同意をもらったか?」


「いいえ」


「契約書を見せたことは?」


「ありません」


「契約後に、母親が認めたことは?」


「ないです」


 澄江さんが強く首を振りました。


「知っていたら、絶対に止めました」


「分かった」


 相馬先輩が頷きました。


「父親は亡くなっている。母親が親権者ということだな」


「はい」


「それと、直樹君」


「はい」


「この教材代は、何の金から払う予定だった?」


「給料です」


「給料をどう使うか、親から自由に任されていたか?」


「生活費を入れた残りは、好きに使っていいって言われてました」


 私は顔を上げました。


 え。


 それは。


「先輩!」


「気づいたか」


「処分を許された財産!」


 しまった。


 ここに例外がありました。


 未成年者でも、法定代理人が自由に使っていいと許した財産なら、その範囲で処分できる。


 たとえば。


 毎月のお小遣い。


 親が用途を決めずに自由に使っていいと渡したお金。


 あるいは、目的を決めて使うことを許したお金。


 その範囲なら、未成年者でも自分で使えるのです。


「じゃあ、直樹さんのお給料も……?」


 私は不安になりました。


 でも、相馬先輩は首を振りました。


「慌てるな」


「はい」


「手元の金を自由に使えることと、将来にわたって百二十万円の支払義務を負うことは違う」


「……あ」


 そうでした。


 直樹さんは、自由に使えるお金を持っていた。


 でも。


 百二十万円の借金同然の負担まで、母親が許していたわけではない。


「直樹君」


 相馬先輩が聞きました。


「母親から、教材を分割払いで買っていいと言われたか?」


「いいえ」


「百二十万円の支払義務を負っていいと?」


「そんなこと、言われてません」


 先輩は頷きました。


「なら、処分を許された財産の話だけで、あの契約を有効だとは言えねえ」


 なるほど。


 お小遣いを自由に使える。


 だからといって。


 百二十万円の契約まで自由に結べるわけではない。


 似ているようで、まったく違います。


「それから、もう一つ」


 片桐所長が口を開きました。


「直樹君。自分で商売をする許可は、受けているか」


「商売?」


「営業だ」


「いいえ。工場で雇ってもらって働いてるだけです」


「そうか」


 所長が頷きました。


 私はまた六法を開きました。


 未成年者でも、法定代理人から一定の営業を許されれば、その営業については成年者と同じように法律行為ができる。


 でも。


 直樹さんは、自分で店を経営しているわけではありません。


 普通の従業員です。


「営業の許可も関係なさそうですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「未成年者だって、一人で有効にできる行為がある。だが今回の百二十万円の契約は、その例外には当たりそうにねえ」


「はい!」


 私は拳を握りました。


 よし。


 これなら。


 未成年者の取消権で勝負できます!


 ……と思った、そのときでした。


 直樹さんが小さな声で言いました。


「あの……」


「はい?」


「相手の人、僕が十九歳なのは知ってたんです」


 私は頷きました。


「そうでしょうね」


「それで……」


 直樹さんは鞄から、もう一枚の紙を取り出しました。


「こんなのも書かされたんです」


 私は受け取りました。


 ――申込者確認書。


 そこには、こう書かれていました。


 ――私は、本契約を締結するに足る判断力と収入を有することを確認します。


 ――本契約について、親族その他第三者から異議が申し立てられた場合も、契約を履行します。


 署名。


 遠山直樹。


 押印。


「……何ですか、これ」


 私は呟きました。


「相手は、この紙があるから取り消せないって」


 直樹さんの声が震えました。


「自分で責任を取るって約束しただろう、って」


 私は紙を見つめました。


 なるほど。


 悪徳業者は、そこまで考えていたわけです。


 十九歳。


 本人に収入がある。


 自分で責任を取ると署名させる。


 それで親の同意なんて関係ない、と。


 でも。


「先輩」


「何だ」


「これって、未成年者の保護を外せるんですか?」


「外せるわけねえだろ」


 即答でした。


「法律が未成年者を守ってるのに、業者が勝手に作った紙一枚で、その保護を全部消せるなら苦労しねえよ」


「ですよね!」


「ただし」


 先輩が指を立てました。


「年齢を偽ったり、親の同意があるように装ったりした場合は、別の問題が出る」


 私は息を呑みました。


 詐術。


 未成年者が、自分には行為能力があると相手に信じさせるために欺く行為をした場合。


 そのときは、取消権が制限されることがある。


「直樹さん」


 私は聞きました。


「年齢を二十歳以上だと偽りましたか?」


「いいえ」


「お母さんが同意している、と言いましたか?」


「言ってません」


「相手から、そういう説明を求められましたか?」


「いえ。向こうが、十九歳でも働いていれば大人と同じだって……」


 私は顔を上げました。


 なんということでしょう。


 業者自身が、十九歳だと知っていた。


 そのうえで契約を持ちかけた。


 しかも。


 本人に責任を取るという紙まで書かせていた。


「所長」


 私は言いました。


「これ、業者は最初から未成年者だと分かっていたんですよね」


「そうだな」


「なら、直樹さんが成年者だと偽ったわけじゃありません」


「そうだ」


 片桐所長は静かに契約書を閉じました。


「相馬」


「はい」


「相手の主張を、もう少し確認しておけ」


「分かりました」


 先輩が立ち上がりました。


「こはる、行くぞ」


「はい!」


 こうして。


 百二十万円の契約をめぐる、民法の反撃が始まりました。



 駅前の雑居ビル。


 三階。


 ――東海能力開発センター。


 立派な看板が掲げられていました。


 中へ入ると、背広姿の男性が現れました。


「何でしょう?」


「片桐行政書士事務所の相馬です。契約に関する事実の確認に伺いました」


 男性の名は、黒田義彦。


 営業責任者。


 五十歳前後。


 金縁の眼鏡。


 そして、いかにも商売慣れした笑顔。


「ああ、遠山君の件ですか」


 黒田は笑いました。


「何か問題でも?」


「本人は十九歳です」


 私が言いました。


「知ってますよ」


「親権者の同意がありません」


「それが?」


 ……それが?


 私は思わず目を丸くしました。


 黒田は椅子に座り直しました。


「お嬢さんねえ。今どき十九歳なんて、立派な社会人ですよ」


「……はい?」


「働いてるんでしょう? 給料ももらってる。自分で契約するくらい、当然じゃないですか」


「でも、民法上は未成年者です」


「法律、法律って」


 黒田は鼻で笑いました。


「十九歳にもなって、親が駄目って言ったら何でも取り消せるんですか?」


「原則として、法定代理人の同意が必要な法律行為については、取り消すことができます」


「そんな馬鹿な話があるか!」


 黒田は机を叩きました。


「本人が納得して買ったんですよ!」


 私は言い返そうとしました。


 けれど。


 相馬先輩が先に口を開きました。


「黒田さん」


「何です?」


「契約当時、遠山君が十九歳であることは知っていたんですね」


「ええ」


「母親の同意がないことも?」


「本人に聞けばいいでしょう」


「確認はしなかった?」


「してませんよ。必要ないと思ってましたから」


 相馬先輩は手帳に書き込みました。


「分かりました」


 黒田が笑いました。


「ほら。何も問題ないでしょう?」


 ……問題しかありません。


 でも先輩は表情を変えませんでした。


「それと、確認書についてですが」


「ああ、これね」


 黒田は引き出しから書類を取り出しました。


「本人が、自分の責任で契約すると約束したんです」


 先輩は尋ねました。


「その書面によって、未成年者の取消権がなくなるとお考えですか」


「当然でしょう」


「そうですか」


「こっちも商売なんでね。親が後から出てきて契約をひっくり返されたら困るんですよ」


 黒田は私たちを見下すように笑いました。


「だいたい、行政書士さんでしょう?」


「そうですが」


「弁護士じゃないんだから、裁判もできないでしょうに」


 出ました。


 相手が必ず言う台詞。


 弁護士じゃないんだから。


 何もできないだろう。


 私は思わず拳を握りました。


 でも。


 相馬先輩は笑っただけでした。


「そうですね」


「ほら!」


「俺たちは訴訟代理人にはなれません」


「でしょう?」


「法律紛争について、依頼人の代理人として示談交渉をすることもできません」


「じゃあ何しに来たんです?」


 先輩は手帳を閉じました。


「事実関係を確認するためです」


「それだけ?」


「ええ」


 黒田は拍子抜けした顔になりました。


「だったら、もう帰ってくださいよ」


「分かりました」


 先輩は立ち上がりました。


 私も慌てて立ち上がります。


「先輩!」


「何だ」


「もう帰るんですか?」


「ああ」


「でも、相手は……!」


 先輩は私を見ました。


 その目が言っていました。


 ここで口論してどうする。


 私は唇を閉じました。


 事務所を出ます。


 階段を下りながら、私は言いました。


「先輩!」


「何だ」


「悔しくないんですか!」


「何が」


「あんなに馬鹿にされて!」


「別に」


「別にって!」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「こはる」


「はい」


「相手は、大事なことを全部しゃべってくれたぞ」


「……え?」


「本人が十九歳と知っていた」


「はい」


「親の同意は確認していない」


「はい」


「本人に確認書を書かせれば、取消権を封じられると思っている」


「……はい!」


「十分だろ」


 私は足を止めました。


 なるほど。


 相手を口で負かす必要なんてなかった。


 必要な事実を、確認できたのです。


「先輩」


「何だ」


「じゃあ、次は?」


 相馬先輩はにやりと笑いました。


「書面だ」


 そして。


 いつもの台詞を言いました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 私は笑いました。


 来ました。


 昭和の代書屋。


 本領発揮です。



 事務所へ戻ると、片桐所長が六法を開いていました。


「こはる」


「はい!」


「まず、条文を確認しろ」


「民法第五条ですね!」


 私は勢いよく答えました。


 ところが。


 所長の手が止まりました。


「……何条だ?」


「第五条です!」


「何の規定だ」


「未成年者の法律行為です!」


 相馬先輩が、嫌な笑みを浮かべました。


「こはる」


「はい?」


「お前、また未来の六法を読んでねえか?」


 ……。


 あ。


 私は慌てて六法を覗き込みました。


 そこには。


 旧民法第四条。


 ――未成年者カ法律行為ヲ為スニハ其法定代理人ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス。


 ……。


「第四条……!」


「そうだ」


 相馬先輩が笑いました。


「今の民法だとでも思ったか?」


 やってしまいました。


 現代の民法では、成年年齢を定めるのが第四条。


 未成年者の法律行為を定めるのが第五条。


 でも。


 昭和六十三年の旧民法では。


 成年年齢は第三条。


 未成年者の法律行為は第四条。


 処分を許された財産については第五条。


 営業の許可は第六条。


 ……条文番号まで違う!


「先輩!」


「何だ」


「民法って、怖くありませんか!」


「お前が勝手に怖がってるだけだ」


「だって、内容を覚えてても条文番号を間違えたら!」


「だから、今の六法を開けって言ってんだろ」


 私は肩を落としました。


 未来人。


 まさか、未成年者の基本条文でも転ぶとは。


 片桐所長は淡々と言いました。


「こはる」


「はい」


「条文番号を覚えていることと、法を正しく使えることは違う」


「……はい」


「この時代の条文で、書類を作れ」


「分かりました!」


 私は鉛筆を握りました。


 そして、まずは原案を書きました。


 ――貴社と遠山直樹との間で締結された技術者能力開発総合講座受講契約について、通知人は、直樹の親権者として、民法第四条に基づきこれを取り消す。


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


 私は書き進めました。


 ――直樹は契約締結時十九歳であり、未成年者である。


 ――本件契約について、法定代理人の同意を得た事実はない。


 ――本件契約は百二十万円の支払義務を負うものであり、単に権利を得、又は義務を免れる行為には当たらない。


 ――また、本件契約は法定代理人が処分を許した財産の範囲内の行為でもなく、許可された営業に関する行為でもない。


 私は息を吸いました。


「どうですか!」


 相馬先輩が紙を取りました。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ただ、まだ足りねえ」


「……またですか!」


 先輩は赤鉛筆を取りました。


「この確認書だ」


 例の、


 ――私は、自らの責任において契約を履行します。


 という書類です。


「相手はこれを盾にしてる」


「はい」


「だから、そこも先回りしておけ」


 私は頷きました。


 その確認書に署名したのは、直樹さん本人。


 十九歳。


 契約時の年齢を偽っていない。


 母親の同意があるとも偽っていない。


 相手は、未成年者だと知っていた。


 つまり。


 単なる「本人が責任を取る」という文言で、未成年者保護を排除できるわけではない。


 そして、詐術によって相手を欺いた事情も見当たらない。


「なるほど……」


 私は鉛筆を動かしました。


 すると。


 片桐所長が静かに言いました。


「もう一つ、大事なことがある」


「何でしょう?」


「取消しは、頼み事じゃない」


「……え?」


「相手に『取り消してください』とお願いするんじゃない」


 私は目を丸くしました。


「取消権を持つ者が、取消しの意思表示をするんだ」


 ……あ。


 そうでした。


 民法の取消し。


 これは、相手が承諾して初めて成立するお願いではありません。


 法律上の取消権がある者が、その権利を行使する。


 相手が嫌だと言っても。


 要件を満たしていれば、その効力が生じる。


「つまり……」


 私は原案を見直しました。


「『契約解除に応じてください』じゃなくて、『契約を取り消します』と書くんですね」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「ただし、誰が、どの契約を、どんな権限で取り消すのか。それを明確にしろ」


「はい!」


 私は書き直しました。


 差出人。


 遠山澄江。


 遠山直樹の親権者。


 宛先。


 東海能力開発センター代表者。


 契約年月日。


 契約番号。


 契約金額。


 法的根拠。


 取消しの意思表示。


 既払金がある場合の返還請求。


 今後の請求停止。


 そして、教材の返還についての通知。


 一つずつ。


 逃げ道を塞いでいきます。



「できました!」


 三時間後。


 私は完成した内容証明郵便の原案を、片桐所長の前に置きました。


 所長は黙って読み始めました。


 私は背筋を伸ばしました。


 内容は、こうです。


 ――通知書。


 ――通知人は、遠山直樹の親権者である。


 ――直樹は、昭和六十三年六月二十日、貴社との間で受講料及び教材費合計百二十万円の契約を締結した。


 ――しかし、契約締結当時、直樹は満十九歳であり、旧民法第三条に定める成年年齢に達していない。


 ――本件契約について、通知人は同意を与えていない。


 ――本件契約は、旧民法第四条所定の例外に該当せず、同第五条及び第六条所定の財産処分又は許可された営業行為にも該当しない。


 ――よって通知人は、直樹の親権者として、旧民法第四条第二項及び取消権に関する規定に基づき、本件契約を取り消す旨の意思表示をする。


 ――なお、直樹は本契約に際して年齢を偽っておらず、法定代理人の同意を得たとの虚偽の申告もしていない。


 ――貴社が作成した申込者確認書への署名押印のみをもって、未成年者の取消権が排除されるものではない。


 ――したがって、貴社において本契約に基づく代金請求を継続する法的根拠はない。


 ――本件取消しに伴う原状回復については、教材返還のための合理的な方法を書面により通知されたい。


 ――既払金については、その返還を求める。


 ――なお、取消し後も請求が継続される場合には、弁護士への相談のうえ、適切な法的措置を検討する。


 読み終えた片桐所長は、しばらく黙っていました。


 私は緊張しました。


「……所長?」


「うん」


「どうでしょう」


「悪くない」


 ……!


 褒められた!


 と思った瞬間。


「ただし」


 来ました。


 ただし。


「返還する教材の状態を確認しておけ」


「……はい?」


「取り消した場合、受け取ったものをどう返すかも問題になる」


 そうでした。


 契約を取り消したからといって、受け取った教材が突然消えるわけではありません。


 取消しに伴う返還関係。


 そこもきちんと処理しなければなりません。


「直樹君は、教材をどうしている?」


「段ボールに入れたままだそうです」


「書き込みは?」


「ほとんどありません」


「なら、その状況も記録しておけ」


 所長が頷きました。


「それから」


「はい」


「相手が取り消しに応じない場合、行政書士だけで解決しようとするな」


「……はい」


「訴訟が必要なら弁護士に引き継ぐ。こちらは適法な範囲で書類を整える」


 私は頷きました。


 そうです。


 私たちは弁護士ではありません。


 本人の代理人として裁判で戦うことも、紛争の示談交渉を請け負うこともできません。


 でも。


 依頼人本人の意思を正確に文書化することはできます。


 契約書を調べる。


 事実を整理する。


 法律の要件を確認する。


 そして。


 本人名義の通知書を、間違いのない形に整える。


 その書面は。


 相手に、法律上の問題を直視させることができるのです。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「相手に反論の余地があるとしたら、どこだ?」


 私は少し考えました。


「……親の同意があったと主張すること?」


「他には?」


「直樹さんが成年者だと偽ったとか」


「うん」


「処分を許された財産の範囲だとか、営業を許されていたとか」


「そうだ」


「でも、それぞれ確認済みです」


 相馬先輩が頷きました。


「そこだ」


 私は書面を見つめました。


 相手が何を言ってくるか。


 先に考える。


 そして。


 事実と法律で、一つずつ答えを用意する。


 これが。


 内容証明の本当の強さなのです。


 内容証明郵便が発送されて、三日後。


 東海能力開発センターの黒田が、事務所へ電話をかけてきました。


「……片桐さんは?」


 私は受話器を握り直しました。


 声が違います。


 あの、余裕たっぷりだった黒田ではありません。


 妙に小さい声。


「少々お待ちください」


 所長に代わります。


「片桐です」


『あの……遠山さんの件で』


「はい」


『内容証明、届きました』


「そうですか」


『それで、その……』


 黒田は言葉を濁しました。


『十九歳って、本当に未成年なんですか?』


 私は思わず机に突っ伏しそうになりました。


 そこからですか!


 相馬先輩が横で笑いを堪えています。


 所長は淡々と答えました。


「昭和六十三年の民法では、成年年齢は二十歳です」


『……そうなんですか』


「はい」


『でも、本人は働いてますよね?』


「働いていることと、成年に達していることは別です」


『……』


 沈黙。


 それから。


『弁護士に聞いたんですけど……』


 黒田の声がさらに小さくなりました。


『親の同意がなければ、取り消される可能性が高いって』


 私は顔を上げました。


『しかも、こちらが十九歳だと知って契約したなら、年齢を偽られたとも言えないって……』


「そうですか」


『それで、確認書も見せたんです』


「はい」


『自分で責任を取るって書いてあるんですよ』


「はい」


『でも弁護士が、その紙があっても未成年者の取消権を当然には封じられないって……』


 黒田は、ため息をつきました。


『……困りました』


 私は思いました。


 困ったのは、直樹さんです。


 あなたではありません。


『もし裁判になったら、うちが負けるんですかね』


 所長は落ち着いた声で答えました。


「具体的な紛争の見通しは、御社の弁護士とご相談ください」


『……はい』


『あの、遠山さんに伝えていただきたいことがありまして』


「当事務所は代理人として交渉する立場にはありません。ご本人へ書面でお伝えください」


『分かりました』


 電話が切れました。


 私は相馬先輩を見ました。


「先輩!」


「何だ」


「効いてます!」


「まだだ」


「ええっ!」


「相手が困ってるだけじゃ、依頼人の生活は守れねえ」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「きちんと請求が止まって、必要な返金がされて、初めて一段落だ」


 ……そうでした。


 内容証明は、魔法ではありません。


 送れば自動的にお金が戻るわけではない。


 相手が動くかどうか。


 そこまで見届けなければならないのです。



 さらに五日後。


 遠山澄江さんから、事務所へ電話が入りました。


『あの……!』


「はい!」


『向こうから手紙が来ました!』


 私は息を呑みました。


「何て書いてありますか?」


『契約の取消しを確認するって……!』


「本当ですか!」


『百二十万円の請求は、もうしないって!』


 私は思わず立ち上がりました。


「やりましたね!」


 相馬先輩がこちらを見ます。


「こはる。確認書を見ろ」


「あ、はい!」


 翌日。


 澄江さんと直樹さんが事務所にやって来ました。


 持ってきた書類には、東海能力開発センターの社印が押されていました。


 ――契約取消確認書。


 ――遠山直樹との間に締結された技術者能力開発総合講座受講契約について、親権者による取消しの意思表示を受領したことを確認する。


 ――本件契約に基づく未払代金の請求を行わない。


 ――既払金二万円は、教材返還確認後、全額返還する。


 私は書面を何度も読みました。


 百二十万円。


 その請求が、消えた。


 しかも、既に払った二万円も戻る。


「よかった……!」


 私は思わず言いました。


 澄江さんは、両手で顔を覆いました。


「本当に……よかったです」


 直樹さんは俯いていました。


「母ちゃん、ごめん」


 小さな声でした。


「俺、迷惑かけて……」


 澄江さんは首を振りました。


「いいんだよ」


「でも……」


「あんた、勉強したかったんだろ」


 直樹さんが顔を上げました。


「……うん」


「仕事ができるようになりたかったんだろ」


「うん」


 澄江さんは笑いました。


「それは、悪いことじゃないよ」


 私は胸が熱くなりました。


 そうです。


 直樹さんは、遊びたくて百二十万円の契約をしたわけではありません。


 もっと技術を身につけたい。


 家族を助けたい。


 もっと稼げるようになりたい。


 そう思った。


 その気持ちを、業者に利用されたのです。


「直樹さん」


 私は言いました。


「十九歳で働いて、家族を助けているのは、立派なことだと思います」


「……はい」


「でも、全部一人で背負わなくていいんです」


 直樹さんが私を見ました。


「民法は、二十歳になるまでは、原則として親の同意を必要としています」


「はい」


「それは、十九歳の人が何もできないからじゃありません」


 私は少し考えました。


「大きな契約で、一生困るようなことにならないようにするためです」


 直樹さんは黙っていました。


 それから。


「……俺、子供扱いされるのが嫌だったんです」


 ぽつりと言いました。


「働いてるのに、いつまでも親に相談しろって言われるのが」


「うん」


「でも……」


 彼は母親を見ました。


「相談してれば、こんなことにならなかったんですよね」


 澄江さんが笑いました。


「今度から、一緒に考えよう」


「……うん」


 その光景を見ながら、私は思いました。


 未成年者を守る法律。


 それは、本人を馬鹿にするための法律ではありません。


 誰だって、判断を間違えることがあります。


 大人だって騙される。


 まして、社会経験の少ない若者なら。


 うまい話に心を動かされることもある。


 だから。


 法律は、その人を守るために、一定の契約について取消しという道を用意しているのです。



 ところが。


 話は、そこで終わりませんでした。


「そういえば、所長」


 直樹さんが帰ったあと、私は聞きました。


「何だ」


「未成年者が一人でできる法律行為って、ほかにもありますよね?」


「ある」


「たとえば?」


 相馬先輩が横から口を挟みました。


「金をもらうだけの約束だ」


「……あ!」


 そうでした。


 単に権利を得る行為。


 たとえば、負担のない贈与を受ける。


 その場合、未成年者は一人で有効に行うことができます。


「逆に、借金を免除してもらう場合もですね!」


「そうだ」


 単に義務を免れる行為。


 これも、原則として法定代理人の同意を必要としません。


 私は頷きました。


「じゃあ、お小遣いでお菓子を買うのも?」


「親が自由に使っていいと許した金なら、その範囲内でな」


「はい!」


「じゃあ、自分で商売している未成年者は?」


「許可された営業については、成年者と同じ行為能力があります!」


「そうだ」


 私は嬉しくなりました。


 未成年者は契約できない。


 そんな丸暗記では駄目です。


 原則がある。


 例外がある。


 そして、例外にも範囲がある。


 ここまで分かって、初めて現場で使えるのです。


「それから」


 相馬先輩が言いました。


「取消しだ」


「……はい?」


「未成年者自身も、取り消せる場合がある」


 私は目を丸くしました。


 そうです。


 取消権は、法定代理人だけのものではありません。


 取り消すことができる法律行為について、未成年者本人にも取消権がある。


「じゃあ……」


 私は言いました。


「未成年者が、自分で取消しの意思表示をするのに、親の同意が必要だったら変ですよね」


「そういうことだ」


「取消しのために親の同意が必要だとしたら、保護が働きにくくなります」


 片桐所長が頷きました。


「一人でできる行為には、それぞれ理由がある」


「はい!」


 私はノートを開きました。


 未成年者が単独でできる法律行為。


 単に権利を得る行為。


 単に義務を免れる行為。


 処分を許された財産の処分。


 許可された営業に関する行為。


 取消権の行使。


 それぞれ、理由が違う。


 でも。


 共通しているのは。


 未成年者の生活と利益を守ることです。



 夕方。


 事務所の窓から、赤い夕日が差し込んでいました。


 私は完成した契約取消確認書を、ファイルに綴じました。


 遠山直樹。


 十九歳。


 百二十万円の教材契約。


 親の同意なし。


 契約取消し。


 そして、請求停止。


「相馬先輩」


「何だ」


「もし直樹さんが、二十歳だったらどうなっていたんでしょう」


 先輩は新聞から顔を上げました。


「同じ理屈では取り消せねえな」


「ですよね」


「詐欺だの錯誤だの、別の問題を調べることになる」


「はい」


 私は考えました。


 たった一歳。


 十九歳と二十歳。


 それだけで。


 今回の法律上の扱いは、大きく変わります。


 しかも。


 私が元いた現代では、成年年齢は十八歳。


 同じ十九歳でも。


 令和なら成年者。


 昭和六十三年なら未成年者。


 法律が変わると、人の立場まで変わる。


「……すごいですね」


 私は呟きました。


「何がだ」


「同じ十九歳なのに、時代が違うだけで法律の保護が変わるんです」


「当たり前だろ」


「当たり前ですけど!」


 私は笑いました。


 未来から来た私にとって。


 民法は、知っているようで知らない法律です。


 考え方が同じところもある。


 言葉が違うところもある。


 条文番号まで変わっているところもある。


 そして。


 その違いを間違えると。


 守れるはずの人を、守れなくなるかもしれない。


「所長」


「何だ」


「今日、一つ分かりました」


 片桐所長が顔を上げました。


「言ってみろ」


「未成年者だから契約が全部無効、というわけじゃない」


「そうだ」


「親の同意が必要な法律行為は、同意なく行うと原則として取り消せる」


「うん」


「でも、未成年者が一人でできる行為もある」


「そうだ」


「だから、まず何を契約したのか、どんな許可や同意があったのかを確認する必要があるんですね」


 所長は静かに頷きました。


「それでいい」


 私はノートを開きました。


 そして。


 今日の教訓を、一行で書きました。


 ――未成年者は原則として親の同意が必要。でも、守るための取消しと、自分でできる例外を忘れない。


「できました!」


 私は顔を上げました。


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、悪くねえな」


「褒めました?」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 そのとき。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい! 片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 女性の声でした。


『娘の契約のことで、相談したいんですが……』


「はい!」


『娘は、十八歳なんです』


 私は思わず顔を上げました。


 十八歳。


 昭和六十三年なら、もちろん未成年者。


「どんな契約ですか?」


『実は……』


 女性は少し言いにくそうにしました。


『娘、結婚していたんです』


「……え?」


『でも、先月離婚しまして』


 私は止まりました。


 結婚。


 離婚。


 そして、十八歳。


 ……あ。


 これは。


「先輩!」


「何だ!」


「婚姻による成年擬制です!」


 相馬先輩が顔を上げました。


「……ほう」


「この時代には、民法七百五十三条があります!」


 そうです。


 昭和六十三年には。


 未成年者でも、法律上有効に婚姻すると、成年に達したものとみなされる制度がありました。


 そして。


 いったん婚姻によって成年とみなされた者は、離婚したからといって、当然に未成年者へ戻るわけではありません。


 つまり。


 十八歳だから、親の同意がなければ契約を取り消せる。


 そう簡単には言えないのです。


「……!」


 私は受話器を握り直しました。


 危ない。


 また、年齢だけで判断するところでした。


「すみません。娘さんの婚姻の時期と、契約を結んだ日を教えていただけますか?」


『はい。実は……』


 私は相談票を取りました。


 相馬先輩が、にやりと笑います。


「こはる」


「はい!」


「未成年者の法律行為、面白くなってきただろ」


「面白いです!」


「でもな」


「はい?」


「十八歳だから未成年者、十九歳だから未成年者って、年齢だけで飛びつくなよ」


「……はい」


「婚姻してる場合もある。処分を許された財産もある。営業の許可もある」


「はい!」


「それに、法定代理人が後から追認してる可能性だってある」


「……!」


 そうです。


 未成年者の法律行為。


 親の同意。


 取消し。


 追認。


 どれも、単独で覚えているだけでは足りません。


 事件の事実に当てはめて。


 初めて、答えが出る。


「先輩!」


「何だ!」


「私、民法って好きかもしれません!」


「昨日も言ってただろ!」


「昨日より好きになりました!」


「変な奴だな!」


 私は笑いながら、相談票に鉛筆を走らせました。


 昭和六十三年。


 未成年者とは、原則として二十歳未満の人。


 でも。


 二十歳未満だから、全部の契約を取り消せるわけではない。


 そして。


 成年者に見えるからといって、未成年者の保護を奪っていいわけでもない。


 大切なのは。


 その人が、法律上どんな立場にいるのか。


 どんな行為をしたのか。


 誰の同意や許可があったのか。


 それを一つずつ確かめること。


 今日の百二十万円の契約は、その大切さを教えてくれました。


 たった十九歳の青年が。


 家族を助けたいと思っただけで。


 一生背負うかもしれない負担を抱え込まされる。


 そんな理不尽を防ぐために。


 民法には、取消権という仕組みがあります。


 そして。


 その権利を知っているかどうかで。


 人の人生は、大きく変わることがあるのです。


「こはる!」


「はい!」


「相談票に『令和』とか書くなよ!」


「書きません!」


「『十八歳で成年』とかもな!」


「分かってます!」


「本当か?」


「先輩!」


「何だ!」


「今日はちゃんと、昭和の民法で戦います!」


 相馬先輩は笑いました。


「それでいい」


 窓の外。


 夕暮れの町に、工場の汽笛が響きました。


 遠山直樹さんも、今ごろ仕事を終えるころでしょう。


 百二十万円の請求に怯えることなく。


 明日もまた、工場へ行ける。


 新しい技術を覚えられる。


 家族と夕食を囲める。


 そんな、当たり前の生活を守るために。


 今日も民法は、静かに働いています。


 ――十九歳だから、もう大人。


 その一言で、若者に百二十万円を背負わせようとした業者。


 けれど。


 昭和六十三年の民法は、そんな乱暴な決めつけを許しませんでした。


 なぜなら。


 法律が守ろうとしているのは、契約書のハンコではなく。


 そのハンコを押した人間の、これからの人生なのです。

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