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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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426/701

[民法・権利能力、意思能力、行為能力]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 ハンコを押したからといって、その契約が必ず有効になるわけではありません。


 名前を書けても。


 字が読めても。


 お金の計算ができても。


 それだけでは、法律上、一人で契約できるとは限らないのです。


 そして。


 まだ名前を書くことすらできない、お母さんのおなかの中の赤ちゃんにも。


 法律が守っている権利があります。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「……民法って、ずるいですよね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「いきなり何だ」


「能力って言葉が三つもあるんですよ」


「三つ?」


「権利能力、意思能力、行為能力」


「ああ」


「名前が似すぎです」


「法律に文句を言うな」


「だって、受験生の頃は全部ごちゃごちゃになってたんです!」


 相馬先輩は煙草をくわえました。


「じゃあ、昨日のピアノを思い出せ」


 私は手を止めました。


 宮原健太君。


 九歳。


 亡くなった父親のピアノを、叔父に三千円で売ってしまった男の子。


 契約書には、自分の名前とハンコ。


 しかも叔父は、


「本人が署名したから契約成立だ」


 と主張していました。


 さらに。


 お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんについては、


「まだ生まれていないから、相続する権利はない」


 とまで言っていた。


 でも結局。


 未成年者の法律行為の取消しと、相続財産の権利関係を整理した内容証明を送ったことで、叔父はピアノを返還した。


 あの事件。


 三つの能力が、全部登場していたのです。


「よし」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は、三つを完全に区別します!」


「昨日もそんなこと言ってなかったか」


「昨日は昨日です。今日は今日です」


「面倒な奴だな」


「試験に出ますから!」


 そこへ、奥から片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……所長まで」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。



「まず、権利能力です」


 私はノートに大きく書きました。


 ――権利能力。


 権利を取得し、義務を負うことのできる法律上の資格。


「つまり」


 私は言いました。


「財産の持ち主になったり、借金を負ったり、相続人になったりできる資格です」


「そうだな」


「これは原則として、出生によって始まります」


 民法第三条。


 私権の享有は、出生に始まる。


 私はそこに二重線を引きました。


「ここ、昭和でも令和でも基本は同じなんですよね」


「ああ」


「やっと時代錯誤を起こさずに済みそうです」


「お前は何と戦ってるんだ」


 未来の民法です。


 もちろん口には出せません。


「所長、権利能力って、何歳からですか?」


「生まれたときからだ」


「そうです。大事なのは、ゼロ歳でもあること」


 私はノートに書きました。


 生まれたばかりの赤ちゃん。


 権利能力あり。


 九歳の子供。


 権利能力あり。


 大人。


 権利能力あり。


 高齢者。


 権利能力あり。


「じゃあ健太君は?」


 相馬先輩が聞きました。


「当然、権利能力があります」


「ピアノを相続する資格もあるな」


「はい」


「でも、勝手にピアノ全部を売っていいわけじゃない」


「そうなんです!」


 そこです。


 権利能力があることと、自分一人で財産を処分できることは違う。


 九歳でも、財産を所有できます。


 相続もできます。


 お金を受け取ることもできます。


 でも。


 だからといって、何でも一人で契約できるわけではありません。


「つまり、権利能力は『権利の持ち主になれるか』という話なんです」


「そうだ」


「契約を一人でできるかどうかは、また別の問題」


 私は大きく丸をつけました。


 なるほど。


 ここを最初に分けるだけで、頭がかなり整理されます。


 そして。


 今回の事件では、もう一人いました。


「おなかの赤ちゃんです」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「ああ。あの叔父が関係ないって言ってた子だな」


「はい」


 私はノートの端に、小さな丸を描きました。


 その中に、


 ――胎児。


 と書きます。


「胎児には、原則として権利能力がありません」


「出生してねえからな」


「でも例外があります」


 所長が静かに言いました。


「三つだ」


「はい!」


 私は一つずつ書きました。


 不法行為による損害賠償請求権。


 相続。


 遺贈。


「まず、不法行為による損害賠償請求権です」


 民法第七百二十一条。


 たとえば。


 妊娠中のお母さんが交通事故に遭った。


 その事故によって、おなかの赤ちゃん自身にも損害が生じた。


 そんな場合。


「まだ生まれていなかったから、赤ちゃん自身の損害賠償請求は一切認めない」


 となったら、おかしいですよね。


「そりゃそうだ」


 相馬先輩が言いました。


「生まれる前だったってだけで、加害者が責任を免れるのは変だ」


「はい」


 そこで民法は、胎児について、不法行為による損害賠償請求権に関して既に生まれたものとみなす規定を置いています。


「ただし、ここで大事なのが出生です」


 私は赤線を引きました。


 生きて生まれた場合に、胎児だった時点にさかのぼって保護される。


「おなかの中にいる間から、普通の大人とまったく同じように権利を行使できる、というわけではありません」


「そこを混同するなってことか」


「そうです」


 次。


 相続。


 民法第八百八十六条。


「これは健太君の事件ですね」


 私はノートに家族の名前を書きました。


 父・宮原隆。


 死亡。


 母・美津子。


 長男・健太。


 胎児。


 遺言なし。


 相続開始は、父親が亡くなったときです。


 その時点で、美津子さんは妊娠していました。


「ここで叔父さんは言いました」


 私は少し声を低くしました。


「まだ生まれてねえじゃねえか!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「似てねえ」


「物真似の評価は求めてません!」


 でも。


 叔父の主張には、大きな問題がありました。


 民法第八百八十六条。


 胎児は、相続については、既に生まれたものとみなされます。


 ただし、死体で生まれたときは、この規定は適用されません。


「つまり、生きて生まれれば、相続開始時にさかのぼって相続人として扱われる」


「そういうことだ」


「赤ちゃんがまだ生まれていないから、最初から相続人として考える必要がない、とは言えないんですね」


 私は大きく頷きました。


 たとえば。


 父親が亡くなった翌日に赤ちゃんが生まれた場合。


 父親が死亡した瞬間には、まだ胎児でした。


 でも、その子が相続できないとしたら。


 たった一日の出生時期の違いで、父親から財産を受け継げなくなってしまう。


 それは不公平です。


「だから民法は、相続について特別扱いしているんですね」


「そうだ」


 所長が言いました。


「ただし、胎児の段階で誰がどう権利を行使できるかは、別の問題だ」


「はい」


 ここは重要です。


 胎児の相続上の保護と、胎児のために今すぐ誰かが自由に遺産分割や処分をできることは、同じではありません。


 実務では、出生を待ってから権利関係を確定させる必要が生じる場面があります。


 まして。


 叔父が勝手に、


「胎児はいないものとして扱う」


 などと決められるはずがありません。


「では、三つ目」


 私は書きました。


 遺贈。


 民法第九百六十五条。


「遺贈って何だ」


 相馬先輩が聞きました。


「遺言によって財産を与えることです」


「相続とは違うのか」


「違います」


 相続は、法律に従って相続人が財産を承継すること。


 一方、遺贈は、遺言によって財産を与えることです。


 たとえば。


 おじいさんが遺言書に、


 ――これから生まれる孫に、私の預金を遺贈する。


 と書いた場合。


 その孫が相続開始時にはまだ胎児であっても、法律上の保護が問題になります。


「相続だけ認めて、遺贈は認めない、となったら不自然ですからね」


「なるほどな」


 私はノートに三つを囲みました。


 不法行為。


 相続。


 遺贈。


「この三つ、行政書士試験ではセットで覚えたいところです」


「語呂合わせでも作るか?」


 相馬先輩が言いました。


「不・相・遺!」


「何だそれ」


「不法行為、相続、遺贈!」


「変な呪文だな」


「覚えられれば勝ちです」


「試験って怖えな」


 私は笑いました。


 でも。


 この三つの例外には、共通する考え方があります。


 まだ生まれていないというだけで、将来生まれてくる子供に不利益を与えない。


 そこを守るための制度なのです。



「次は、意思能力です」


 私はノートをめくりました。


 ――意思能力。


 自分の行為の意味や結果を理解し、判断できる精神的能力。


「九歳の健太君に問題になったところですね」


「ああ」


「でも、先輩は言いました。九歳だから意思能力がないと決めつけるな、と」


「言ったな」


「最初、びっくりしました」


 私は受験生時代を思い出します。


 意思能力。


 一般に十歳程度が一つの目安。


 そんな説明を読むことがあります。


 だから私は、


 九歳。


 十歳未満。


 意思能力なし。


 契約無効!


 と短絡しそうになりました。


「でも、違うんですよね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「年齢だけで機械的に決まるもんじゃねえ」


 その人が。


 何をしようとしていたのか。


 その結果どうなると理解していたのか。


 契約の内容はどのくらい複雑だったのか。


 そうした事情を具体的に見ます。


「たとえば」


 私は言いました。


「九歳の子供が十円のお菓子を買うことと、不動産を売る契約をすることでは、必要な理解が違います」


「当たり前だな」


「ですよね」


 健太君の場合。


 ピアノを渡せば、自分の家からなくなることは理解していました。


 でも。


 父親の相続財産であること。


 家族全員の権利が関係すること。


 三千円という価格が妥当なのか。


 そうしたことまで、十分に理解していたとは限りません。


「ただ」


 私はノートに線を引きました。


「意思能力がなかった、と主張するなら、そのときの具体的な状況が重要です」


「そうだ」


「年齢だけでは、結論を出せません」


 ここで私は、昨日の電話を思い出しました。


 お酒を飲んで酔っ払ったおじいさんが、土地を売る契約をしてしまったという相談。


「あの件も意思能力ですね」


「そうだな」


「成年者でも、泥酔して自分の行為を判断できない状態なら、意思能力が問題になります」


 所長が頷きました。


「意思能力は、成年か未成年かだけで決まるものではない」


「はい」


「普段は十分な判断能力がある人でも、契約時に意思能力を欠いていることはあり得る」


 なるほど。


 大人だから有効。


 子供だから無効。


 そんな単純な話ではない。


「所長。では、意思能力がない状態でした法律行為は、どうなるんですか?」


「無効だ」


「ですよね!」


 私は勢いよく書きました。


 意思能力を欠く状態で行われた法律行為は、無効。


「ただし!」


 私は自分で言いました。


 相馬先輩が顔を上げます。


「何だ」


「昭和六十三年と現代で、条文の置き方が違います!」


「また始まったな」


 そうです。


 ここが、今回の時代錯誤ポイント。


 現代の民法には、第三条の二があります。


 意思能力を有しなかったときにした法律行為は、無効とする。


 その趣旨が明文化されています。


「でも、昭和六十三年には三条の二がないんですよね」


「ねえな」


「意思能力を欠く法律行為が無効という考え方自体は、当時から認められていた」


「そうだ」


「でも、現在のような明文の条文はなかった」


 私はノートに大きく書きました。


 昭和六十三年。


 意思能力を欠く法律行為は無効と解される。


 ただし、現在の民法三条の二は存在しない。


 令和。


 民法三条の二に明文化。


「これ、転生者にとって怖いですよ」


「何がだ」


「現代で条文番号まで覚えていると、昭和でもその条文を使いたくなるんです」


「使うな」


「はい」


 相馬先輩は呆れた顔をしました。


「未来の法律を知ってても、今使えなきゃ意味ねえだろ」


「それが転生者の悲しいところです」


「また訳の分からんこと言ってるな」


 でも、本当に。


 民法は、条文が変わっても、その根底にある考え方が変わらないことがあります。


 意思能力のない人に、理解できない契約の責任をそのまま負わせてよいのか。


 答えは、昔も今も同じ方向を向いています。


 ただ、現代ではその原則が条文上も明確になった。


「法律って、改正されるたびに全部別物になるわけじゃないんですね」


 私が言うと、所長が頷きました。


「考え方を引き継ぐ改正もある」


 私は、その言葉をノートの端に書きました。



「さて」


 相馬先輩が煙草を消しました。


「一番面倒なのが残ってるな」


「行為能力ですね」


「ああ」


 私はページをめくりました。


 ――行為能力。


 単独で有効に法律行為を行うことのできる法律上の能力。


「健太君の事件で、決定打になったところです」


 まず。


 法律行為とは何か。


 私はノートに書きました。


 売買契約。


 贈与契約。


 遺言。


 意思表示に基づいて、一定の法律効果を発生させる行為。


「たとえば、ピアノを三千円で売る契約」


「うん」


「売主はピアノを引き渡す義務を負う」


「うん」


「買主は代金を支払う義務を負う」


「そうだ」


 法律行為は、ただの会話ではありません。


 約束によって、法律上の権利や義務が発生する。


 だからこそ。


 自分の行為の意味を十分に理解できない人や、判断について保護が必要な人を、そのまま放置するわけにはいかないのです。


「ここで登場するのが、制限行為能力者です」


 私は言いました。


「制限行為能力者?」


 相馬先輩が首をかしげました。


「……また妙な言葉を使ったな」


「あっ」


 しまった。


 私は額を押さえました。


 現代の用語です。


 この時代の民法には、現在の成年後見制度がまだありません。


「こはる」


 片桐所長が静かに言いました。


「昭和六十三年の制度を言ってみろ」


「はい……」


 私は六法を開き直しました。


 未成年者。


 禁治産者。


 準禁治産者。


「そうだ」


 所長が頷きます。


 禁治産者。


 準禁治産者。


 現代では、あまり聞かなくなった言葉です。


 でも昭和六十三年には、現役の法律用語。


「禁治産者って、名前がかなり強烈ですよね」


「昔からそういう制度だ」


「でも、現代では変わるんです」


 私は思わず説明しました。


 現代の制度では。


 成年被後見人。


 被保佐人。


 被補助人。


 そして未成年者。


 これらが制限行為能力者として整理されています。


「ただし、先輩」


「何だ」


「現代でも『補助人』そのものが制限行為能力者というわけではありません」


「そりゃそうだろ。補助する側なんだからな」


「そのとおりです!」


 補助人は、支援する立場の人。


 保護を受ける本人は、被補助人です。


 名前が似ているので、ここも試験では注意が必要です。


「しかし、現代ではどうして名前が変わったんですか?」


 私は自分で問いかけました。


 禁治産。


 準禁治産。


 こうした古い制度には、本人の能力を広く制限する性格がありました。


 その後、本人の意思を尊重し、必要な範囲で支援するという考え方が重視されるようになります。


 そして平成十一年の民法改正で成年後見制度が整備され、平成十二年から施行される。


「でも昭和六十三年では、まだ先の話です」


「そうだな」


 相馬先輩が言いました。


「だから今は禁治産者、準禁治産者だ」


「はい」


 私は書きました。


 昭和六十三年。


 未成年者・禁治産者・準禁治産者。


 現代。


 未成年者・成年被後見人・被保佐人・被補助人。


「現代では、保護の必要性に応じた制度になっているんですね」


「まあ、未来の話はそれくらいにしとけ」


「はい」


 私は苦笑しました。


 でも。


 この改正の方向は、民法の大切な考え方につながっています。


 人を守る。


 けれど、必要以上に自由を奪わない。


 その両方を考えなければならないのです。



「じゃあ、健太君に戻ります」


 私はノートの真ん中に、


 ――九歳。


 と書きました。


「未成年者は、原則として法定代理人の同意を得なければ、法律行為ができません」


「うん」


「当時の民法四条ですね」


 昭和六十三年の成年年齢は二十歳。


 だから九歳の健太君は、当然未成年者です。


「現代では成年年齢が十八歳に引き下げられましたけど」


「また未来か」


「これも大事なんです!」


 私は書き足しました。


 昭和六十三年。


 成年年齢二十歳。


 現代。


 成年年齢十八歳。


 ただし、今回の九歳の健太君については、どちらの時代でも未成年者です。


「健太君は、ピアノを三千円で売る契約をしました」


「うん」


「お母さんの同意はありません」


「そうだ」


「だから、原則として取り消すことができます」


「正解」


 私は少し嬉しくなりました。


 でも。


「意思能力がなかった場合の無効と、未成年者の同意のない法律行為の取消しは、違うんですよね」


「そこを説明してみろ」


 相馬先輩が言いました。


 私はノートに二本の線を引きました。


 一方は、無効。


 もう一方は、取消し。


「無効は、初めから法律行為の効力が認められないことです」


「うん」


「取消しは、取り消すことができる人が取消権を行使すると、初めから無効だったものとして扱われる」


「そうだ」


 健太君の事件では。


 九歳だからといって、必ず意思能力がないとは断定できませんでした。


 でも、未成年者であることは明らか。


 しかも、母親の同意もない。


 だから。


 母親が法定代理人として、売買契約を取り消す旨を内容証明で通知した。


「ここが決定打だったんですね」


「そうだ」


 ただし。


 未成年者の行為が、すべて取り消せるわけではありません。


「たとえば、単に権利を得るだけの行為などは、法定代理人の同意を要しません」


「うん」


「それから、処分を許された財産の範囲内でする行為なども、例外があります」


 私はノートに小さく書きました。


 未成年者だから全部取消し。


 これは間違い。


「じゃあ、お小遣いでお菓子を買う場合は?」


 相馬先輩が聞きました。


「親が処分を許したお金の範囲なら、基本的に自分で買えます」


「そうだな」


「でも、父親の相続財産である高価なピアノを売るのは別です」


「そこだ」


 相馬先輩が頷きました。


 私は少し考えました。


「先輩、もし健太君が、叔父に『僕は二十歳です』って嘘をついていたらどうなります?」


「ほう」


 先輩がこちらを見ました。


「いいところに気づいたな」


 私は驚きました。


「褒めました?」


「まだだ」


「何でですか!」


 相馬先輩は笑いました。


「未成年者が、詐術を用いて相手方に成年者だと信じさせた場合などには、取消しが制限されることがある」


「はい」


 ここは重要です。


 制限行為能力者を保護する制度にも、取引相手を守るための例外があります。


 ただし。


 単に年齢を言い間違えたとか、黙っていただけで、常に詐術になるわけではありません。


 相手を誤信させるため、どのような行為をしたのか。


 具体的な事情が問題になります。


「健太君の事件では?」


「叔父は最初から九歳だと知っていた」


「そうです」


「しかも、契約を持ちかけたのは叔父の側」


「はい」


「成年者だと騙されたわけでもない」


 私は頷きました。


 だから今回、詐術による取消権の制限を持ち出す余地は乏しいのです。



「さて、もう一つ」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「ピアノの相続財産としての扱いだ」


「あ、はい」


「健太君が未成年者でなかったとしても、あの契約には別の問題があったな」


「はい」


 私はノートに書きました。


 ――自分に権利のない財産全体を、勝手に処分できるわけではない。


 亡くなった父親のピアノ。


 遺産分割未了。


 母親も相続人。


 胎児も、出生した場合には相続人として扱われる。


「だから健太君一人でピアノ全部の所有権を移せるかどうかは、別問題だったんです」


「そうだ」


「売買契約を結ぶことと、所有権を相手に移転できることも、区別が必要ですね」


 私は書き足しました。


 他人の物を売る契約が、当然に無効になるとは限らない。


 しかし、その契約だけで、他人の所有権まで勝手に移転できるわけではない。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「これ、かなり大事ですね」


「何がだ」


「契約の有効性と、物を処分する権限は別なんです」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 正雄は、


 契約書がある。


 署名もある。


 ハンコもある。


 だからピアノは全部俺のものだ。


 そう主張していました。


 でも。


 仮に健太君との売買契約について、未成年者の取消しが問題にならなかったとしても。


 そのことだけで、相続人全員の権利が消えるわけではありません。


「叔父さんは、問題を一つしか見ていなかったんですね」


「いや」


 相馬先輩が言いました。


「見たくない問題から目を逸らしてたんだろ」


 私は苦笑しました。


 確かに。


 契約書の一枚だけを盾にする。


 でも、そこに至る事情を調べると。


 年齢。


 親権者の同意。


 相続財産。


 胎児。


 所有権。


 いくつもの法律問題が出てくる。


「だから、内容証明に全部並べたんですね」


「そうだ」


「相手が一つの理屈で押し切れないように」


 片桐所長が静かに言いました。


「一つの条文に飛びつくな」


「はい」


「事実から、必要な法律を拾え」


 私は、その言葉をノートに書きました。



 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 私はここまでの内容を見直しました。


 権利能力。


 意思能力。


 行為能力。


 最初は、似たような三つの言葉でした。


 でも。


 宮原家のピアノ事件を思い出すと、きれいに分かれます。


「所長」


「何だ」


「ちょっと確認問題を出してもらっていいですか?」


「いいだろう」


 所長は少し考えました。


「生まれたばかりの赤ん坊には、権利能力があるか」


「あります!」


「一人で土地を売る契約はできるか」


「有効に単独ですることはできません」


「では、九歳の子供に意思能力はあるか」


「年齢だけでは決められません。契約の内容や本人の理解の程度によります」


「未成年者が法定代理人の同意なくした売買は?」


「原則として、取り消すことができます!」


「意思能力がない状態でした法律行為は?」


「無効です!」


 よし。


 ここまでは完璧。


 所長が続けます。


「胎児には、原則として権利能力があるか」


「ありません」


「例外は?」


「不法行為による損害賠償請求権、相続、遺贈です!」


「相続について、胎児はどう扱われる」


「既に生まれたものとみなされます。ただし、死体で生まれた場合には適用されません」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は思わず拳を握りました。


 やった。


 民法の基本三能力。


 今なら間違えません。


「じゃあ俺からも一問」


 相馬先輩が口を挟みました。


「はい!」


「昭和六十三年の民法三条の二には、何が書いてある?」


「存在しません!」


「おお」


「令和の知識を混ぜません!」


「よし」


 相馬先輩が笑いました。


 私は得意になって続けました。


「昭和六十三年には、成年後見人や被補助人という現在の制度も、まだありません!」


「そうだ」


「当時は禁治産者、準禁治産者!」


「よし」


「成年年齢は二十歳!」


「よし」


「現代は十八歳!」


「未来の話はもういい!」


 また怒られました。


 でも。


 この違い。


 行政書士試験を勉強するうえでは、とても大事だと思います。


 民法は、長い歴史の中で、何度も改正されてきました。


 権利能力の基本。


 意思能力の考え方。


 未成年者の保護。


 これらの根本には、昔から続く考え方があります。


 一方で。


 用語。


 条文。


 制度。


 成年年齢。


 そうした部分は、時代によって変わっています。


「だから」


 私は言いました。


「民法って、古い制度を知ると、今の制度がどうしてこうなったのか分かりやすいんですね」


「そうか?」


 相馬先輩が聞きました。


「はい」


 昔の禁治産制度を知ると。


 どうして現代では成年後見制度が整えられたのか。


 意思能力について、以前は明文がなかったと知ると。


 どうして現代では民法三条の二が置かれたのか。


 そして。


 未成年者の保護を考えると。


 どうして契約自由の原則があっても、全員を同じようには扱わないのか。


 その理由が見えてくる。


「法律って、ただ覚えるだけじゃもったいないですね」


 私は言いました。


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


 私は最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――権利能力は「持てるか」、意思能力は「分かるか」、行為能力は「一人でできるか」。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、覚えやすいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん一生忘れません。


 あのピアノのことを思い出せばいい。


 九歳の健太君。


 自分の名前を書いた。


 ハンコも押した。


 でも、それだけで一人前の契約ができるわけではなかった。


 お母さんのおなかの中の赤ちゃん。


 まだ名前を書けない。


 言葉も話せない。


 でも、生きて生まれれば、父親の相続について法律上の保護を受けられる。


 法律は。


 人を、契約書の署名欄だけで見ていない。


 その人がどんな立場にいるのか。


 どんな判断力を持っているのか。


 どんな保護が必要なのか。


 そこまで考えているのです。



「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会、もう終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「え?」


「六法も戻せ」


「はい」


「床も掃け」


「……それ、私の仕事ですか?」


「見習いだろ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「私には権利能力があります」


「あるな」


「意思能力もあります」


「たぶんな」


「たぶんって何ですか!」


「で?」


「そして、私は自分の意思で掃除をするかどうか決める能力もあります!」


 相馬先輩がにやりとしました。


「そうか」


「はい!」


「じゃあ、所長が決めた業務分担に文句があるなら、所長に言え」


 私は奥を見ました。


「所長」


「何だ」


「掃除について、私の意思を尊重していただけませんか」


 所長は帳簿から顔を上げずに言いました。


「尊重する」


「本当ですか!」


「そのうえで、掃除を頼む」


「……!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほらな」


「何ですか!」


「お前に意思能力があることと、所長が掃除を頼めないことは別問題だ」


「ぐっ……」


 確かに。


 法律上の能力があることは、何でも自分の希望どおりになることを意味しません。


 ここでもまた。


 権利能力。


 意思能力。


 行為能力。


 それぞれの意味を混同してはいけないのでした。


「分かりましたよ!」


 私は箒を手に取りました。


「掃除します!」


「いい返事だ」


「でも先輩!」


「何だ」


「掃除が終わったら、今度は先輩に問題を出します!」


「は?」


「禁治産者と準禁治産者の違いです!」


「何で俺が試験を受けるんだよ!」


「勉強会です!」


「勝手に決めるな!」


 私は笑いながら床を掃き始めました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。


 あのどこかで。


 健太君は、戻ってきたピアノを弾いているのでしょう。


 まだ生まれていない弟か妹のために。


 亡くなったお父さんが残してくれた音を、少しずつ覚えながら。


 権利能力。


 意思能力。


 行為能力。


 言葉は硬い。


 覚えるのも、ちょっと面倒。


 でも。


 その三つを区別できるだけで、守れるものがある。


 九歳の子供の財産。


 これから生まれる赤ちゃんの相続上の利益。


 判断する力を失った人の生活。


 そういうものです。


 私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――権利能力は「持てるか」、意思能力は「分かるか」、行為能力は「一人でできるか」。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで掃除しろ!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私の意思能力は正常です!」


「知ってるよ!」


「だから、掃除が嫌だって分かってます!」


「それはただの怠けだ!」


 ……なるほど。


 意思能力があると、自分がどれだけ掃除を嫌がっているかも、はっきり理解できるようです。


 残念ながら。


 それだけでは、掃除を免れる法律上の権利にはならないのでした。

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