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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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425/614

[民法・権利能力、意思能力、行為能力]現場編 「子供がハンコを押したから契約成立」の嘘。九歳の署名と、おなかの赤ちゃんを消そうとした叔父の誤算

挿絵(By みてみん)

 紙に名前を書けることと、その紙に人生を預けられることは、同じではありません。


 たとえば、九歳の子供が契約書に名前を書いたら。


 それは本当に、約束になるのでしょうか。


 そして。


 まだ生まれていない赤ちゃんには、財産を受け取る権利がないのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、三つの言葉に頭を抱えることになります。


 権利能力。


 意思能力。


 行為能力。


 どれも似ています。


 どれも「能力」です。


 そして、どれも間違えると。


 誰かの大切な財産が、他人のものになってしまうのです。



「息子が、家のピアノを売ってしまったんです」


 朝一番。


 事務所を訪れた女性は、そう言いました。


「……ピアノを?」


 私は思わず聞き返しました。


 女性の名前は、宮原美津子さん。


 三十二歳。


 少し大きなおなかを抱えています。


 妊娠八か月。


 その隣には、小学生くらいの男の子が座っていました。


 うつむいています。


「僕が悪いんです」


 男の子が小さな声で言いました。


「お母さんに内緒で、売っちゃったから」


「何歳?」


「九歳」


「九歳……」


 私は男の子の顔を見ました。


「自分で売ったの?」


「うん」


「誰に?」


「おじさん」


 おじさん。


 つまり親戚です。


 この時点で、少し嫌な予感がしました。


 美津子さんが膝の上から一枚の紙を取り出します。


「これを書かされたそうなんです」


 私は受け取りました。


 古い便箋。


 そこには、子供らしい丸い字でこう書かれていました。


 ――ぼくは、お父さんのピアノを三千円で宮原正雄おじさんに売ります。


 ――あとから返してとは言いません。


 署名。


 宮原健太。


 そして。


 赤い印影。


「……ハンコまで?」


「息子の学校の道具箱に入れていた認印を使わせたそうです」


 私は紙を見つめました。


「ピアノって、どんなものですか」


「主人が使っていたアップライトピアノです。結婚する前から大事にしていたもので……」


「ご主人は?」


 美津子さんの表情が曇りました。


「二か月前に、亡くなりました」


「あ……」


 私は言葉を止めました。


 交通事故だったそうです。


 まだ三十五歳。


 突然の別れ。


 家には妊娠中の妻と九歳の息子。


 そして、亡くなった夫が大切にしていたピアノが残った。


「主人は、子供が生まれたら、二人でピアノを弾かせたいって言っていたんです」


 美津子さんがおなかを撫でました。


「健太にも、少しずつ教えていて」


 男の子は唇を噛みました。


「おじさんが……」


「うん」


「お父さんの借金を返さないといけないって」


 私は顔を上げました。


「借金?」


「ピアノを売らないと、お母さんが困るって」


 男の子の目から涙が落ちました。


「だから僕、三千円もらって……」


 美津子さんが息子の肩を抱きます。


「この子は、私を助けようとしただけなんです」


 私はもう一度、便箋を見ました。


 三千円。


 このピアノについて、楽器店に尋ねたところ、状態次第では十数万円の価値があると言われたそうです。


 それを三千円。


 しかも。


 九歳の子供に署名させる。


 父親の借金という話まで持ち出して。


 私は思いました。


 これは、駄目でしょう。


 法律以前に、駄目でしょう。



「大丈夫です!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「未成年者の法律行為です! 法定代理人の同意がなければ取り消せます!」


 美津子さんが顔を上げます。


「本当ですか?」


「はい!」


 よし。


 民法です。


 行政法と違って、今回は市役所も沢渡課長も出てきません。


 私人同士のトラブル。


 民法の出番。


 そして、現代の知識が役に立つ。


「しかも健太君は九歳です。意思能力だって問題になります!」


 私は言いました。


「お母さんの同意もありませんし、これは――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「今、お前は何を考えてる」


「未成年者の行為能力です」


「それはいい」


「あと、意思能力がなければ法律行為は無効です。民法三条の二で――」


「何条?」


「三条の二です」


「……三条の二?」


 先輩が怪訝な顔をしました。


 しまった。


 私は固まりました。


 民法三条の二。


 意思能力を欠く者の法律行為を無効と明文化した規定。


 でも。


 あれは、令和の改正民法です。


 昭和六十三年には、まだありません。


「お前、どこの民法を読んでるんだ?」


「あ、いえ、その……」


「意思能力のない者がした法律行為が無効になるって考え方は、昔からある。だが三条の二なんて条文はねえぞ」


「ですよね!」


「何が『ですよね』だ」


 危ない。


 未来人。


 また民法改正の地雷を踏みました。


 相馬先輩は棚から六法を取り出し、机に置きました。


「今の条文で仕事しろ」


「はい……」


「それと、九歳だから意思能力がないと決めつけるな」


「え?」


「何を売ったか、売ったらどうなるか。本人が理解していたかを見ろ」


 私は健太君を見ました。


 健太君は涙を拭きながら言いました。


「ピアノがなくなるのは、分かってた」


「うん」


「でも、おじさんが、借金を返さないとお母さんが病院に行けなくなるって」


 美津子さんが息を呑みます。


「そんなことまで……」


 なるほど。


 単に年齢だけの問題ではありません。


 健太君は、物を売れば自分の家からなくなることは分かっていた。


 けれど、父親の借金や相続財産については理解していない。


 しかも、叔父の説明が事実と違う可能性まである。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「今、確実に使えるものは何だ」


 私は少し考えました。


「……未成年者の法律行為についての取消しです」


「そうだ」


「意思能力の有無は、別に事実を確認する必要があります」


「うん」


「九歳だから絶対に無効、とは言えません」


 所長が頷きました。


「その区別を忘れるな」


 私はノートを開きました。


 意思能力。


 行為能力。


 似ているけど、違う。


 意思能力は、自分の行為がどんな結果になるかを判断できる力。


 行為能力は、一人で有効に法律行為をすることができる資格。


 健太君に意思能力があったとしても、未成年者として法定代理人の同意が必要になる。


 逆に。


 大人であっても、泥酔して自分の行為の意味を理解できなければ、意思能力が問題になる。


 なるほど。


 年齢の話だけではないんですね。


「ところで」


 片桐所長が美津子さんを見ました。


「ご主人の遺産分割は、もう済んでいますか」


「いいえ」


「遺言は?」


「ありません」


「ピアノも、まだご主人名義の財産として残っていたわけですね」


「はい。主人のものだったので、そのままにしていました」


 所長は頷きました。


「では、もう一つ問題があります」


「何でしょう」


「健太君一人が、ピアノ全部を売れる立場だったのか」


 私は首をかしげました。


「……相続?」


「そうだ」


 相続。


 父親が亡くなれば、財産は相続人に引き継がれる。


 妻。


 子。


 そして。


 私は美津子さんのおなかを見ました。


 あ。


「所長!」


「気づいたか」


「赤ちゃん!」


 美津子さんがびくっとしました。


「あ、赤ちゃんがどうかしましたか?」


「おなかの赤ちゃんも、相続人になるんです!」


 相馬先輩が横から言いました。


「正確に言え」


「あ、はい」


 私は六法を開きました。


 民法三条。


 私権の享有は、出生に始まる。


 つまり、人は生まれることで権利能力を持つ。


 原則として、おなかの中の胎児には、まだ一般的な権利能力はない。


 でも。


 相続については例外がある。


 民法八百八十六条。


 胎児は、相続については、既に生まれたものとみなされる。


 ただし、死体で生まれたときは適用されない。


 私は息を吸いました。


「美津子さん。お子さんが生きて生まれた場合、亡くなったご主人の相続については、既に生まれていたものとして扱われるんです」


「……この子が?」


「はい」


 美津子さんの手が、おなかに触れます。


「まだ顔も見ていないのに」


「そうです」


 そこで、私は少し胸が熱くなりました。


 この赤ちゃん。


 まだ名前もない。


 声も聞いていない。


 世の中のことも知らない。


 なのに。


 父親から財産を受け継ぐ可能性を、民法はちゃんと守っている。


 九歳の兄だけでなく。


 まだ生まれていない弟か妹にも。


 法律は席を用意しているのです。


「じゃあ……」


 美津子さんが聞きました。


「主人のピアノは、この子にも関係があるんですか」


「はい。ご主人の相続財産ですから」


 もっとも、胎児については出生という条件があり、具体的な権利処理には慎重さが必要です。


 それに、遺産分割前の財産を誰がどう処分できるかは、相続人全員の権利に関わります。


 でも少なくとも。


 九歳の健太君が一人で署名したから、ピアノ全部が当然に叔父のものになる。


 そんな話ではありません。


「相馬」


 所長が言いました。


「相手の言い分を確認しろ」


「もう来てますよ」


「え?」


 相馬先輩が机から一枚の封筒を取りました。


「昨日、美津子さんが電話で相談予約したあと、俺が事情を聞いたんだ。相手から既にこんなものが届いてる」


 封筒の中には、手紙。


 差出人。


 宮原正雄。


 健太君の父親の兄でした。


 私は読みました。


 ――ピアノは健太本人との売買契約により取得したものである。


 ――本人の署名押印が存在する以上、契約は有効である。


 ――胎児はまだ出生しておらず、権利を有しない。


 ――今後返還請求には応じない。


 最後には。


 ――既に買主へ売却する予定であるため、これ以上の連絡は控えられたい。


 ……。


 私は紙を置きました。


「先輩」


「何だ」


「すごいですね」


「何が」


「間違った理屈を、ここまで自信満々に書けるのが」


「悪党ってのは、自信だけは一人前だからな」


 片桐所長が手紙を読みました。


 表情は変わりません。


「相馬」


「はい」


「ピアノはどこにある」


「正雄の経営する中古品店の倉庫です」


「転売前か」


「そうです」


「なら急ぐぞ」


 所長は手紙を置きました。


「こはる。書類を作れ」


「はい!」


 いよいよです。


 民法の反撃。


 九歳の署名。


 出生前の胎児。


 相続財産。


 そして、叔父の思惑。


 全部まとめて。


 紙一枚に、叩きつけます。



「まず、相手が本当に何をしたか確かめるぞ」


 翌朝。


 相馬先輩は私を連れて、中古品店へ向かいました。


 駅裏の商店街。


 古びた看板に、


 ――宮原古物商。


 と書かれています。


 店先には古時計。


 茶箪笥。


 中古のラジオ。


 そして奥には、例のピアノが置かれていました。


「あれ……!」


 私は思わず足を止めました。


 黒いアップライトピアノ。


 鍵盤の上には、小さな傷。


 健太君が練習のときにつけたものだそうです。


「何だ、あんたら」


 店の奥から男が現れました。


 五十歳前後。


 脂ぎった髪。


 金縁の眼鏡。


 宮原正雄。


 亡くなった父親の兄です。


「片桐事務所の相馬です。事情の確認をお願いしたい」


「行政書士?」


「そうです」


「弁護士じゃねえのか」


 正雄は鼻で笑いました。


「じゃあ、たいしたことはできねえだろ」


 うわ。


 言いました。


 全国の行政書士が聞いたら、六法を開きたくなる発言です。


「ピアノの件か?」


「はい」


「契約書があるだろ」


 正雄は引き出しから便箋を取り出しました。


 例の署名入りの紙です。


「本人が売るって言ったんだ。三千円も渡した。何が悪い」


「健太君は九歳です」


 私が言いました。


「だから?」


「九歳の子供が、親の同意なしに高額な財産を売却したんですよ」


「自分の名前を書ける年だろ」


「名前を書けることと、法律行為を単独でできることは違います」


 正雄の笑みが、少し薄れました。


 でも。


「じゃあ、親が後から文句を言えば何でも取り消せるってのか?」


「未成年者には、法律上の保護があります」


「甘やかしだな」


 私は眉をひそめました。


 甘やかし。


 そういう問題ではありません。


 子供は大人と同じ判断力や経験を備えているとは限らない。


 だから、一人で重大な契約をして財産を失わないように守る。


 それが民法です。


「それにな」


 正雄は机を叩きました。


「あのピアノは弟のものだったんだろ。弟は死んだ。息子が売るって言った。それで終わりだ」


「奥様も相続人です」


「知ってるよ」


「おなかの赤ちゃんも」


 正雄の口元が上がりました。


「まだ生まれてねえじゃねえか」


「相続については、胎児にも例外があります」


「生まれてない人間が、どうやって財産を持つんだよ」


「民法八百八十六条です」


「何?」


「胎児は、相続については既に生まれたものとみなされます」


 正雄は一瞬黙りました。


 それから笑いました。


「へえ。面白い法律だな」


 ……面白い?


「でもな」


 正雄はピアノを指差しました。


「現物は俺の店にある。売買契約書もある。取り返したかったら裁判でも何でもしろよ」


 私は言い返そうとしました。


 そのとき。


「こはる」


 相馬先輩が低い声で呼びました。


「はい」


「もういい」


「でも!」


「相手の考えは分かった」


 先輩は正雄を見ました。


「売買契約を有効だと考え、返還には応じない。そういう立場ですね」


「ああ」


「分かりました」


 相馬先輩はそれ以上、何も言いませんでした。


 店を出ます。


 私は不満でした。


「先輩!」


「何だ」


「何で引き下がったんですか!」


「引き下がった?」


「相手、完全に舐めてましたよ!」


「そうだな」


「だったらもっと言い返さないと!」


 先輩は足を止めました。


「こはる」


「はい」


「俺たちは弁護士じゃねえ」


「……はい」


「依頼人の代理人として、法律紛争の示談交渉を引き受けるわけにはいかねえ」


「それは分かってます」


「だったら、口で相手を負かそうとするな」


 先輩は煙草を一本取り出しました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 私は黙りました。


「相手が何を主張してるか分かった。ピアノがまだ倉庫にあることも確認した」


「はい」


「次は、本人名義の書面だ」


 なるほど。


 口論ではない。


 契約の効力を、法律と証拠で突きつける。


「こはる」


「はい!」


「内容証明の原案、書いてみろ」


「任せてください!」


「ただし」


「はい」


「余計なことを一行でも書いたら、全部やり直しだ」


「……厳しい!」


「法律の書面は、勢いで書くもんじゃねえ」


 こうして。


 私の初めての、民法による本格的な反撃が始まりました。



 事務所へ戻ると、片桐所長が私の原案を読みました。


 そして。


 赤鉛筆を取りました。


 嫌な予感。


「ここ」


「はい」


「『健太君には意思能力がないので契約は無効』」


「はい」


「断定するな」


 赤線。


「九歳という年齢だけで意思能力がないと決められない。具体的な判断能力と契約内容を見なければならん」


「……はい」


「次」


「はい」


「『未成年者の契約はすべて無効』」


 赤線。


「違いますね……」


「違う」


 所長が短く言いました。


「未成年者の法律行為は、原則として法定代理人の同意が必要だ。だが、同意がないから当然に無効になるわけではない」


「取消しができる、ですね」


「そうだ」


 私は慌てて書き直しました。


 未成年者の法律行為。


 法定代理人の同意が必要。


 ただし、単に権利を得たり義務を免れたりする行為などは別。


 同意のない法律行為は、原則として取り消すことができる。


 そして。


 取り消されると、法律行為は初めから無効だったものとして扱われる。


「先生!」


「所長と呼べ」


「所長!」


「何だ」


「じゃあ、今回はお母さんが法定代理人として取り消す意思を表示するんですね」


「そうだ。本人の意思を確認して、通知書を作る」


 所長は原案を机に置きました。


「ただし、それだけで終わるな」


「え?」


「相手はピアノ全体を取得したつもりでいる」


「はい」


「では、健太君が単独で処分できる財産だったか」


 あ。


「相続財産!」


「そうだ」


 私はもう一度、事情を確認しました。


 亡くなった父親。


 遺言なし。


 妻と九歳の息子。


 さらに妊娠中の胎児。


 遺産分割は未了。


 つまり。


 健太君が、単独でピアノ全体を売却できたとはいえません。


「でも所長」


「何だ」


「胎児は、まだ生まれていませんよね」


「そうだ」


「相続について権利能力が認められるって、今すぐ何でも代理できるわけじゃないですよね」


「そのとおり」


 所長が頷きました。


「出生した場合の権利を守る規定だ。胎児の権利関係を理由に、母親が当然に何でも処分できるわけではない」


「はい」


「生きて生まれれば、相続開始時にさかのぼって相続人として扱われる。そこを押さえろ」


 私は書きました。


 生きて出生した場合。


 相続において、出生前から存在したものとして扱う。


 生まれなかった場合には、その例外は適用されない。


 だから。


 今回の正雄の、


「まだ生まれていないから関係ない」


 という主張は、あまりにも乱暴です。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「三つの能力、少し分かったか」


「はい」


「言ってみろ」


「権利能力は、権利や義務の主体になれる資格」


「うん」


「意思能力は、自分の行為の結果を判断できる精神的な能力」


「うん」


「行為能力は、一人で有効な法律行為をする能力」


 先輩が頷きました。


「で、健太の場合は?」


「権利能力は当然あります。生まれていますから」


「うん」


「意思能力は、年齢だけで決めつけられません」


「そうだ」


「でも九歳なので、未成年者として行為能力に制限があります」


「そこだ」


 所長が低い声で言いました。


「三つを混同するな。それぞれ守っているものが違う」


 私は頷きました。


 そして、書面を作り直しました。



 三時間後。


 机の上には、内容証明郵便の原案がありました。


 宛先。


 宮原正雄。


 差出人。


 宮原美津子。


 私は書面を読み上げました。


「第一。未成年者宮原健太は、昭和六十三年五月十日、貴殿との間で本件ピアノに関する売買契約書に署名押印した」


「うん」


「第二。健太は九歳であり、本件売買につき法定代理人の同意を得ていない。また、本件ピアノの処分を許可した事実もない」


「うん」


「第三。よって、通知人は、健太の親権者として、右売買契約を取り消す旨の意思表示をする」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。本件ピアノは亡宮原隆の相続財産であり、遺産分割は未了である」


「うん」


「第五。亡宮原隆の相続については、その妻及び子のほか、相続開始時に胎児であった者にも、民法八百八十六条の適用が問題となる」


「よし」


「第六。健太の署名押印のみをもって、本件ピアノ全体につき適法な処分権限があったとすることはできない」


 私は一度、息を吸いました。


「以上より、本件ピアノの第三者への処分を控え、返還について速やかに書面により回答されたい」


 読み終わると、相馬先輩が言いました。


「まだ足りねえ」


「ええっ!」


「証拠だ」


 先輩が机に置いたのは、数枚の紙でした。


 ピアノの写真。


 購入時の保証書。


 亡くなった父親の名前が書かれた修理伝票。


 中古楽器店の査定メモ。


 それから。


 美津子さんが署名した事実確認書。


「相手は『子供から買った』と言っている」


「はい」


「だが、所有者だった父親は亡くなっている。遺産分割は済んでいない。親の同意もない」


「はい」


「それを全部、資料で固めるんだ」


 所長も口を開きました。


「民法の条文だけでなく、未成年者保護に関する判例上の考え方も確認しておけ」


「はい!」


「返還がなされない場合の法的手段については、弁護士に引き継ぐ準備もしておく」


 私は頷きました。


 そうです。


 内容証明を送っただけで、差押えができるわけではありません。


 裁判や強制執行には、別の手続が必要です。


 でも。


 相手が契約の有効性を主張し続ければ、どんな問題が生じるか。


 それを明確に示すことはできます。


 書面の最後には、こう記されました。


 ――本通知によっても返還がなされない場合には、弁護士への相談のうえ、訴訟その他の適切な法的措置を検討する。


 私はその一文を見ました。


 声を荒らげていない。


 相手を罵倒してもいない。


 ただ。


 事実と法律が並んでいる。


 そして。


 この書面に反論するためには、正雄は一つずつ説明しなければならない。


 なぜ九歳の子供から買ったのか。


 なぜ親権者の同意を確認しなかったのか。


 なぜ三千円だったのか。


 なぜ遺産分割前の財産を取得できたと思ったのか。


 なぜ胎児の相続上の保護を無視したのか。


 ……これは。


「所長」


「何だ」


「怖い書面ですね」


「そうか」


「はい」


 所長は静かに言いました。


「怖いのは書面じゃない」


「え?」


「説明できない事実を残したことだ」


 私は、しばらく黙りました。


 なるほど。


 法律に強い人というのは、難しい言葉を並べられる人ではない。


 相手が逃げようとしたとき。


 逃げ道を一つずつ、事実で塞げる人なのです。



 内容証明郵便を発送した翌々日。


 宮原正雄から、事務所へ電話が入りました。


「……あの、片桐さんは?」


 私は受話器を持ったまま驚きました。


 あの偉そうな声ではありません。


 やけに小さい。


「所長に代わります」


 所長が電話に出ました。


「片桐です」


『あの……書面の件で』


「はい」


『弁護士にも見せたんですが……』


 私は耳を澄ませました。


『子供との契約は取り消されているから、それを根拠にピアノ全部の所有権を主張するのは無理がある、と』


 所長は黙って聞いています。


『それに、胎児の相続の件も……』


「はい」


『生きて生まれれば、相続人になるんですね』


「その点は、通知書に記載したとおりです」


 正雄は沈黙しました。


 それから。


『……ピアノは、返します』


 私は思わず顔を上げました。


『もう転売の話も断りました』


「そうですか」


『できれば、裁判なんかには……』


 所長は落ち着いた声で言いました。


「返還されるのであれば、まずその事実を確認することになります。日時などはご本人同士で確認していただきます」


『分かりました』


 電話が切れました。


「所長!」


「何だ」


「返すって言いましたよね!」


「ああ」


「やりましたね!」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「まだだ」


「え?」


「現物が戻って、初めて一段落だ」


「あ……」


「電話一本で安心すんな」


 そうでした。


 法律の世界。


 口で「返します」と言うだけでは、まだ終わりません。


 その後、美津子さんは正雄から返還日時を記した書面を受け取り、親族の立会いのもとでピアノを引き取りました。


 三千円も返すことになりました。


 そして、正雄は自分の署名押印を入れた確認書を渡したのです。


 ――本件ピアノの引渡しを受けた売買契約について、未成年者の法定代理人による取消しを確認する。


 ――本件ピアノを宮原美津子に返還した。


 ――本件売買契約に基づく所有権その他の権利を、今後主張しない。


 相馬先輩が確認書を見て言いました。


「これだよ」


「何です?」


「書面にハンコを押させた奴が勝つ」


「またそれですか」


「今回は相手が自分の意思で押したんだ」


「はい」


「最初の子供のハンコとは、意味が違うだろ」


 私は思わず笑いました。


「確かに」


 九歳の子供が押したハンコ。


 成年者が、自分の行為の意味を理解して押したハンコ。


 同じ赤い印影でも。


 その法的な意味は同じとは限りません。



 一週間後。


 宮原美津子さんが、健太君を連れて事務所に来ました。


「ピアノ、戻ってきました」


 そう言って、写真を一枚見せてくれました。


 居間に置かれた黒いピアノ。


 上には白いレース。


 そして、父親の写真。


「よかった……!」


 私が言うと、健太君が小さく笑いました。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「僕、もう勝手に契約しない」


「うん」


「ハンコも押さない」


「そうだね」


 私は少し考えました。


「でもね、健太君」


「うん?」


「契約すること自体が悪いんじゃないよ」


「え?」


「子供だって、お店でお菓子を買うでしょう?」


「買う」


「それも売買契約なんだよ」


 健太君の目が丸くなりました。


「ええっ!」


「びっくりするよね」


「じゃあ、僕、毎日契約してる!」


「そういうこと」


 美津子さんが笑いました。


 私は続けました。


「でも、何でも一人で決めていいわけじゃない。大事なものを売ったり、大きな約束をしたりするときは、お母さんに相談してね」


「うん!」


「法律はね、健太君が失敗しないように、ちゃんと守ってくれてるんだよ」


 健太君は少し考えてから言いました。


「じゃあ、法律って優しいんだね」


 私は言葉に詰まりました。


 法律が優しい。


 そう言われるとは思っていませんでした。


 民法。


 権利能力。


 意思能力。


 行為能力。


 試験のテキストでは、どれも硬い言葉です。


 赤線を引いて。


 定義を覚えて。


 過去問を解く。


 そういう存在でした。


 でも。


 九歳の子供が、大人の言葉に騙されて財産を失わないようにする。


 まだ生まれていない赤ちゃんが、父親から受け継ぐはずのものを奪われないようにする。


 そこにあるのは。


 冷たい規則ではなく。


 人を守るための仕組みだったのです。


「ところで」


 健太君が言いました。


「赤ちゃんも、ピアノ弾けるの?」


「生まれたら、いつか弾けるかもしれないね」


「まだ生まれてないのに、ピアノの権利があるんでしょ?」


「相続については、そういう保護があるんだよ」


「すごい!」


 健太君はお母さんのおなかを見ました。


「じゃあ、赤ちゃんも一緒にピアノ守ってくれたんだ!」


 美津子さんが笑いました。


 目元が少し潤んでいます。


「そうね」


 その手がおなかを撫でました。


「お父さんが残してくれたものだからね」



 二人が帰ったあと。


 私は机の上の六法を眺めていました。


「相馬先輩」


「何だ」


「今日、三つの能力がちょっと好きになりました」


「変な趣味だな」


「ひどい」


「能力って言葉が三つ並んでるだけだろ」


「それが違うんです!」


 私はノートを開きました。


「権利能力は、誰が権利の持ち主になれるか」


「うん」


「意思能力は、自分が何をしているか判断できるか」


「うん」


「行為能力は、一人で有効な法律行為ができるか」


「だから?」


「全部、人を守るための違う仕組みなんです」


 先輩はしばらく黙りました。


 それから。


「まあな」


 短く言いました。


 片桐所長が、帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


 そして答えました。


「名前を書けることと、有効な契約ができることは違う」


「うん」


「生まれていないからといって、相続で保護されないわけでもない」


「そうだ」


「民法は、全員に同じ判断力があることを前提にしていないんですね」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私はノートの最後に、一行だけ書きました。


 ――権利を持つ力、判断する力、一人で契約する力は、それぞれ違う。


 今日の教訓。


 これなら忘れません。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 女性の声。


『うちのおじいちゃんが、お酒を飲んで酔っ払ったときに、土地を売るって約束しちゃったらしくて……』


 私は止まりました。


 相馬先輩を見る。


 先輩もこちらを見ました。


『契約書にはハンコも押してあるんです。でも、本人は全然覚えてないって……』


 ……。


 来ました。


 今度は。


 大人です。


 未成年者ではありません。


 でも。


 酔っ払って、自分が何をしているか分からない状態だったとしたら。


 そこには、別の問題がある。


「先輩」


「何だ」


「次、意思能力です」


「知ってるよ」


「しかも土地です」


「聞こえてる」


「大人なのに、契約が無効になるかもしれないんですよ!」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「こはる」


「はい!」


「先に調べることがあるだろ」


「……本当に、そのとき意思能力がなかったかどうか」


「そうだ」


 私は受話器を握り直しました。


「すみません。まず、おじい様が契約書に署名したときの状況を、詳しく教えてください」


 昭和六十三年。


 民法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。


 子供だから。


 大人だから。


 生まれていないから。


 そんな単純な理由だけで、人の財産を決めつけてはいけない。


 そして。


 私は今日、ひとつだけ確信しました。


 契約書にハンコがある。


 その一言で勝ち誇る相手ほど。


 民法を開いた瞬間、顔色が変わることがある。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「やっぱり民法って面白いですね!」


「面白がってる暇があったら、相談票を取れ!」


「はいっ!」


 法律の勉強は、まだまだ続きそうです。


 ただし。


 次からは、ハンコを見る前に。


 誰が、どんな判断力で、何を約束したのか。


 そこを確かめることにします。


 だって。


 赤い印影ひとつで、九歳の子供から父親の思い出を奪えるほど。


 民法は、薄っぺらい法律ではないのです。

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