[憲法・地方自治]法理編 こはるノート
自分たちの町のことを、自分たちで決める。
言葉にすると、とても簡単です。
けれど。
「自分たち」とは誰のことでしょう。
住民でしょうか。
市長でしょうか。
市議会でしょうか。
それとも、国や県から独立した市役所でしょうか。
答えは。
実は、一つではありません。
そして、その答えを二つに分けて考えるところから、地方自治の本当の意味が見えてくるのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓の外では、商店街の街灯が一つずつ点き始めていました。
私の机には、開いた六法と一冊のノート。
そして、宮田源三さんが置いていった駅北地区の地図。
地図の真ん中には、小さな緑色の四角があります。
児童公園。
観光バスの待機場にするため、取り壊しが検討されていた場所です。
宮田さんは、公園の存続を求める百六十二世帯の意見を集めました。
ところが、市の整備方針に反対したことで、駅前整備協議会の住民代表から外されてしまった。
市の説明は、
――県の方針です。
――地域の和を乱します。
――事業を円滑に進めるためです。
そんなものでした。
けれど、片桐事務所が法的意見書を提出し、市が選任経緯を見直した結果、宮田さんの委員交代は撤回されることになりました。
公園が残ると決まったわけではありません。
でも。
住民の声を、もう一度きちんと届けられるようになった。
そのことが、私は嬉しかったのです。
「……さて」
私はノートを開きました。
大きく書きます。
――憲法第九十二条。
「今日は地方自治です」
相馬先輩が、新聞から顔を上げました。
「また始まった」
「始まります」
「勝手にやれ」
「付き合ってください」
「嫌だ」
「所長」
奥の机へ声をかけます。
「何だ」
「先輩が住民自治を拒否しています」
「お前は住民なのか」
「事務所の構成員です」
「地方公共団体じゃねえだろ」
相馬先輩が即座に突っ込みました。
……確かに。
いきなり教材の核心を突かれてしまいました。
「じゃあ、所長。業務命令で」
「相馬、付き合え」
「……はい」
強い。
やはり片桐行政書士事務所は、地方自治より所長独裁制が似合っています。
私は咳払いしました。
「まず、条文からです」
六法を開き、読み上げます。
――地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
「憲法九十二条です」
「短いな」
相馬先輩が言いました。
「はい。でも重要です」
「どこが?」
「地方自治の本旨、という部分です」
私はそこに赤線を引きました。
地方自治の本旨。
つまり、地方自治の基本となる考え方。
そして、その中身は大きく二つ。
住民自治。
団体自治。
「先輩」
「何だ」
「この二つ、違いを説明できます?」
「住民が決めるのと、地方公共団体が決めるのと、だろ」
「……雑です」
「間違ってんのか」
「大筋では合ってます」
「じゃあいいじゃねえか」
「試験では、もう少し正確に覚えないと危ないんです!」
私はノートを二つに区切りました。
左側。
住民自治。
右側。
団体自治。
この二つの違いが、今日の最重要論点です。
「まず、住民自治からです」
私はノートの左側を指しました。
「地方自治は、住民の意思に基づいて行われなければならない、という考え方です」
「宮田さんの事件だな」
「はい」
宮田さんは、児童公園を残してほしいという住民の声を集めました。
百八十七世帯の回答。
そのうち百六十二世帯が、公園の存続を希望した。
それを協議会へ提出したところ、市の方針に反対する人物として委員から外された。
「ここで大切なのは」
私は言いました。
「住民自治だから、住民の希望が必ず通る、ということではないんです」
「そうだな」
「例えば、公園を残したい人が百六十二世帯いたとしても、それだけで観光バスの待機場を造ってはいけない、とは言えません」
相馬先輩が頷きます。
「待機場がねえと困る人もいる」
「はい」
「商店街の人間は、観光客が増えてほしいかもしれねえ」
「そうです」
「道路の安全を考えりゃ、バスの停車場所をまとめたほうがいい場合もある」
「そうなんです」
だから、行政には調整が必要です。
住民同士でも意見が違う。
その全部を無条件に実現することはできません。
では、住民自治とは何なのか。
「住民の意見が、地域の政治や行政に反映される仕組みが大切だということです」
私は説明しました。
「市長や市議会議員を選挙で選ぶことも、その一つです」
「なるほどな」
「それだけじゃありません」
私はノートに書きました。
――直接請求。
――住民監査請求。
――住民訴訟。
「これも住民自治を支える制度です」
相馬先輩が腕を組みました。
「じゃあ、具体的に言ってみろ」
「はい」
例えば。
市が住民の希望に反する条例を作ろうとしている。
あるいは、住民が新しい条例を作ってほしいと考えている。
そんなとき、法律に定められた要件を満たして、条例の制定や改廃を直接請求する道があります。
「住民が直接、条例について動けるわけか」
「はい。ただし、請求すれば必ず条例ができるわけではありません」
条例制定・改廃の直接請求では、原則として市長が意見を付けて議会へ付議し、議会が審議することになります。
「住民が提案する。そして議会が判断する」
「そういうことか」
「はい」
それから。
市のお金の使い方がおかしい。
違法または不当な公金の支出がある。
そんな場合には、住民監査請求という制度があります。
さらに、法律で定められた要件を満たせば、住民訴訟という道もある。
「ただし、住民訴訟は何でも争える制度ではありません」
私は念押ししました。
「主に、違法な財務会計上の行為などを対象にする制度です」
「公園を潰すのが嫌だから、何でも住民訴訟ってわけじゃねえんだな」
「そうです」
ここ、受験生が間違えやすいところです。
住民自治。
だから住民訴訟。
名前が似ているからといって、すべての住民の不満を裁判にできるわけではありません。
法律に定められた対象と要件が必要です。
「宮田さんの件でも」
私は言いました。
「住民自治を理由に、裁判所へ行けば必ず勝てる、という話ではありませんでした」
「ああ」
「だから私たちは、条例の設置目的、市長の委嘱権限、委員交代の理由を整理して、法的意見書を提出したんです」
片桐所長が頷きました。
「理念だけでは動かん」
「はい」
「制度と事実を結びつけろ」
「分かりました」
私はノートに大きく書きました。
――住民自治とは、住民の希望が全部通ることではなく、住民の意思に基づく地方政治・行政を実現する原則。
うん。
これなら覚えられそうです。
「じゃあ次は、団体自治です」
私はノートの右側を指しました。
「地方公共団体が、国から一定の独立性を持ち、自らの意思と責任で地域の事務を処理することです」
相馬先輩が笑いました。
「宮田さんの事件で、県がどうこう言ってたやつだな」
「そうです」
市は最初、駅前整備協議会の委員交代について、県の指導を理由にしていました。
でも。
調べてみると、県の通知は、委員を誰にするか法的に拘束するものではありませんでした。
あくまで、事業推進のための助言と調整方針。
最終的に委員を選任するのは、市長です。
「つまり」
私は言いました。
「県から助言を受けたからといって、市が自分の判断責任を免れるわけではありません」
「そうだな」
「市は、市の条例に従って、自分で判断しなければならない」
相馬先輩が頷きました。
「県が言ったから仕方ねえ、じゃ通らねえ場合があるわけだ」
「はい」
ただし。
ここで大事な注意点があります。
「団体自治って、国や県の指示を全部無視していい、という意味ではありません」
「だろうな」
「地方公共団体も、法律には従わなければなりません」
憲法九十四条。
私はページをめくりました。
――地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
「ここです」
私は『法律の範囲内で』に線を引きました。
「条例制定権は認められています。でも、法律の範囲内です」
「何でも好き勝手に条例を作れるわけじゃねえと」
「そうです」
国には国の役割がある。
地方公共団体には地方公共団体の役割がある。
地方自治は、国家の中で地方に一定の自主性を保障する仕組みです。
「それと」
私は少し声を落としました。
「昭和六十三年には、現代と違うところがあります」
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「また未来の話か」
「大事なんです!」
私はノートに書きました。
――機関委任事務。
「この制度、現代では廃止されています」
「今はあるぞ」
「そうです。昭和六十三年にはあります」
機関委任事務。
国の事務を、都道府県知事や市町村長が、国の機関として処理する仕組み。
この場合、国の指揮監督が強く及びます。
地方公共団体が、何でも自分の判断で処理できるわけではありませんでした。
「現代では、平成十一年の地方分権一括法によって大きく制度が変わり、平成十二年から機関委任事務制度が廃止されます」
「平成十二年?」
「……未来です」
「またか」
「すみません」
私は慌てて説明を続けました。
現代では、地方公共団体の事務は、大きく自治事務と法定受託事務に分けられています。
国と地方の関係も、対等・協力を基本とする方向へ改められました。
でも昭和六十三年には、まだ機関委任事務が存在する。
「だから今回も」
私は言いました。
「県の通知だと聞いて、すぐ『市が自由に決めればいい』とは言えませんでした」
「それが何の事務なのか、確認が必要だったわけだ」
「はい」
国の機関として処理している事務なのか。
市自身の事務なのか。
県の通知に法的な拘束力があるのか。
単なる助言なのか。
それを調べなければ、正確な議論ができません。
「憲法九十二条は、昭和でも現代でも同じです」
私は言いました。
「でも、その下にある地方自治法の制度は、時代によって大きく変わっています」
相馬先輩が首を傾げます。
「憲法が同じでも、地方自治の実際の形は変わるのか」
「そうです」
私は頷きました。
「憲法が示す原則は同じ。でも、それを具体化する法律や制度は、時代に応じて変わるんです」
住民自治。
団体自治。
この二つは、憲法九十二条の根本原則として変わらない。
けれど、国と地方の役割分担や、行政の運営方法は変化していく。
そして。
住民の意見をどう尊重するかという社会の感覚も、少しずつ変わっていくのです。
「では、次は憲法九十三条です」
私は六法をめくりました。
――地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
――地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
「ここも重要です」
私は言いました。
「まず、地方公共団体には議会が置かれます」
「市議会や県議会だな」
「はい」
「それから?」
「地方公共団体の長と、議会議員は、住民が直接選挙します」
相馬先輩が頷きました。
「市長を住民が選ぶ。市議会議員も住民が選ぶ」
「そうです」
私はノートに書きました。
――二元代表制。
「地方自治では、首長と議会が、それぞれ住民から直接選ばれる仕組みを取っています」
「国とは違うな」
「はい」
国では、内閣総理大臣を国民が直接選挙するわけではありません。
国会が指名します。
議院内閣制です。
一方、地方では。
市長も直接選挙。
市議会議員も直接選挙。
それぞれが住民から選ばれた代表です。
「教材によっては、これを大統領制的な仕組みと説明することもあります」
私は言いました。
「でも、試験では『二元代表制』と理解するのが正確です」
「大統領制と同じなのか?」
「完全に同じではありません」
地方自治では、首長と議会がそれぞれ独立した民意の基盤を持ちながら、相互に抑制し、協力して行政を運営します。
また、地方自治法には、不信任議決や議会解散など、独自の仕組みもあります。
「つまり」
相馬先輩が言いました。
「市長が偉いから、市議会は黙って従え、って話じゃねえ」
「そうです」
「逆も同じだな」
「はい」
私は宮田さんの事件を思い出しました。
駅前整備協議会は、市の条例で設置されていました。
条例を作ったのは、市議会。
委員を委嘱するのは、市長。
それぞれ役割が違います。
「今回、市長には委員の委嘱権限がありました」
「そうだな」
「でも、市長が自由に条例の目的を変えていいわけじゃありません」
「議会が作った条例に従わなきゃならねえからな」
「はい」
市長の権限は重要です。
けれど、その権限には法的な限界がある。
そして。
市長と議会が住民から直接選ばれるのは、地方自治を住民の意思に基づくものにするためです。
「住民自治って」
私は呟きました。
「ただ住民アンケートを取ることだけじゃないんですね」
「当たり前だろ」
「選挙や議会を通して、住民の意思が地方行政に反映されることも含む」
「そうだ」
「だから、住民の意見と市の判断が違ったら、すぐ違憲というわけではない」
片桐所長が頷きました。
「そこを間違えるな」
「はい」
「住民自治は、直接民主制だけを意味するものではない」
「そうですね」
住民は、選挙で代表を選びます。
代表が議論し、決定する。
一方で、直接請求など、住民が直接政治に関わる仕組みもある。
そうした複数の制度が、地方自治を支えているのです。
「さて」
私はノートをめくりました。
「ここから重要判例です」
相馬先輩が露骨に嫌な顔をしました。
「まだあるのか」
「あります」
「長えな、憲法」
「九十二条から九十四条だけで、かなり重要なんです」
私は判例集を開きました。
――最大判昭和三十八年三月二十七日。
東京都特別区長公選廃止事件。
「この判例、行政書士試験で重要です」
「何が争われたんだ」
「東京都の特別区について、区長の公選制を廃止することが憲法上許されるか、という問題です」
私はノートに大きく書きました。
――憲法上の地方公共団体とは何か。
「先輩。例えば、法律で『地方公共団体です』と名前を付ければ、何でも憲法九十三条の地方公共団体になると思います?」
「ならねえのか?」
「そこが、この判例のポイントです」
最高裁は、憲法上の地方公共団体に当たるためには、一定の実質が必要だと判断しました。
まず。
住民が、経済的・文化的に密接な共同生活を営んでいること。
共同体意識を持つ社会的基盤が存在すること。
そして。
沿革的にも、現実の行政上も、相当程度の地方自治の基本的機能が与えられていること。
「機能?」
相馬先輩が聞きました。
「はい。重要なのは三つです」
私はノートに書きました。
自主立法権。
自主行政権。
自主財政権。
「これ、セットで覚えます」
「それぞれ何だ」
「自主立法権は、条例などを制定する自治の権能」
「うん」
「自主行政権は、地域の事務を自ら処理する権能」
「うん」
「自主財政権は、財政面で自治を担う権能です」
相馬先輩が頷きました。
「なるほどな」
「最高裁は、当時の東京都特別区について、こうした憲法上の地方公共団体としての実体を備えていないと判断しました」
「つまり?」
「当時の東京都特別区は、憲法九十三条二項の『地方公共団体』には当たらない、としたんです」
「だから、区長を直接選挙しない制度も、直ちに憲法違反とはならなかったわけか」
「そうです」
ここ。
重要です。
東京都の特別区は、法律上は地方公共団体として扱われていました。
けれど最高裁は、憲法九十三条の適用を考えるに当たって、その名称や法律上の形式だけではなく、実質的な自治の機能を重視したのです。
「じゃあ」
相馬先輩が聞きました。
「今後、特別区の権限が増えたらどうなる?」
「そこも注意点です」
私は頷きました。
「この判例は、当時の制度と実態を前提にした判断です」
昭和三十八年当時の東京都特別区。
その時点での組織や権限が問題となりました。
後に制度が変わり、特別区の自治権は拡充されていきます。
「だから」
私は言いました。
「この判例を根拠に、どの時代の東京都特別区も、未来永劫、憲法上の地方公共団体ではないと断定するのは危険です」
「時代と制度を見ろ、ってことか」
「そうです」
現代では、特別区の区長は直接選挙で選ばれています。
ただし、それだけで最高裁が昭和三十八年判決の法理を変更したことになるわけではありません。
ここは、制度の変遷と判例の射程を分けて理解する必要があります。
私はノートに赤字で書きました。
――昭和38年判決。当時の東京都特別区は、憲法上の地方公共団体に当たらない。
その下に小さく。
――判断の基礎となった時代と制度を忘れない。
「試験では、ここを間違えないようにしないと」
「なるほどな」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、宮田さんの町内会はどうなる」
「憲法九十三条の地方公共団体ではありません」
「だよな」
「地域に共同体意識があるだけでは、憲法上の地方公共団体にはなりません」
宮田さんの町内会には、地域のつながりがあります。
住民もいる。
地域の問題もある。
でも。
自治体としての自主立法権、自主行政権、自主財政権が与えられているわけではありません。
「だから、宮田さんが町内会長だからといって、憲法九十三条で協議会委員の地位が直接保障されるわけじゃなかった」
「そういうことだ」
片桐所長が言いました。
私は頷きました。
「でも、憲法九十二条の地方自治の本旨は、市の条例や運用を考えるときの重要な原則になる」
「そうだ」
「だから今回、憲法の理念と条例の目的を結びつけたんですね」
片桐所長が静かに頷きました。
「じゃあ、今回の事件を憲法の視点で整理します」
私はノートの新しいページを開きました。
宮田さんの事件。
市長には、協議会委員の委嘱権限がある。
町内会の推薦があれば、必ず委員にしなければならないという規定はない。
したがって、委員の変更自体が直ちに違憲になるわけではない。
「ここまでは、沢渡課長の言うとおりでした」
「ああ」
「でも、問題はその先です」
条例の目的。
住民の意見を踏まえた駅前整備の検討。
市の判断。
反対意見を取りまとめた住民代表の交代。
その理由。
事業に協力的ではない。
円滑な運営に支障がある。
「ここをどう見るかです」
相馬先輩が言いました。
「実際に会議を妨害してたなら話は別だな」
「はい」
「でも宮田さんは、住民の意見を集めて提出しただけだった」
「そうです」
私は続けました。
「市の整備計画に反対すること自体を不利益な人選の理由にしたなら、条例の設置目的との関係で問題になります」
「憲法九十二条だけじゃねえな」
「はい」
憲法二十一条。
表現の自由。
憲法十四条。
法の下の平等。
これらも、行政の判断を検討するうえで関係してきます。
ただし。
「重要なのは、憲法二十一条があるから宮田さんを必ず委員にしなければならない、とは言えないことです」
「じゃあ、何が問題なんだ」
「市の計画に反対したことを理由に、合理的な根拠なく不利益な扱いをすることです」
表現の自由が保障されるからといって、発言した人があらゆる役職に就けるわけではありません。
けれど、公的な権限を使って反対意見を不当に排除することには、憲法上の疑義が生じます。
「そこで」
私はノートに書きました。
目的。
住民の意見を取り入れた整備計画の検討。
手段。
反対意見を提出した住民代表の交代。
問題。
その手段は、目的との関係で合理的か。
「今回、ここが弱かったんです」
私は言いました。
「円滑な協議を目的とすること自体は、理解できます」
「そりゃそうだ」
「でも、円滑な協議のために反対意見を持つ人を排除するのが、本当に適切なのか」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「賛成する奴だけ集めたら、協議じゃなくて拍手会だな」
「そうなんです!」
私は思わず机を叩きました。
「住民の声を聞くための協議会なのに、反対する住民代表を外す。これじゃ目的と手段が噛み合っていません」
「だから、市が判断を見直した」
「はい」
ただし。
ここでも注意が必要です。
憲法に関わるすべての問題について、同じ違憲審査基準を機械的に当てはめるわけではありません。
今回のような協議会委員の選任問題では、権限の根拠、条例の趣旨、行政裁量の範囲、判断理由などを具体的に検討する必要があります。
「目的と手段を考えるのは重要ですけど」
私は言いました。
「それだけで、何でも違憲と断定できるわけじゃありません」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
「憲法は強い。でも、使う側も正確でなければならない」
「そのとおりだ」
私は少し嬉しくなりました。
憲法を使うというのは。
ただ条文番号を叫ぶことではありません。
誰の権利や利益が問題になっているのか。
どんな行政権限が行使されたのか。
その根拠は何か。
その目的は正当か。
その手段は合理的か。
ほかの法律や条例と整合しているか。
それらを丁寧に調べ、行政に説明を求める。
その積み重ねが、憲法を現場で生かすということなのです。
「もう一つ、整理しておきたいことがあります」
私は言いました。
「何だ」
相馬先輩が聞きます。
「地方自治と、公共の福祉の関係です」
宮田さんの件で、市は公共の福祉という言葉を使っていました。
観光振興。
駅前整備。
地域全体の利益。
これらは、行政が考慮すべき重要な利益です。
けれど。
「公共の福祉って、行政が好きなことをしていいという意味ではありませんよね」
「当然だ」
「地元の和を乱すから、反対意見を言う人を排除していい、というわけでもない」
私はノートに書きました。
――公共の福祉は、行政の都合を正当化する万能の言葉ではない。
もちろん、個人の自由や権利も無制限ではありません。
他人の権利との調整や、正当な公共目的のために、一定の制約が認められることはあります。
でも、その制約には合理的な理由が必要です。
「今回で言えば」
私は説明しました。
「観光振興という公共目的があるからといって、住民の反対意見を聞かなくていいわけではありません」
「そうだな」
「公園を潰す計画が、絶対に違憲というわけでもありません」
「それもそうだ」
「公園を残す案と、観光バスの待機場を造る案を比較して、必要性や安全性、費用などを検討する。それが本来の行政判断です」
宮田さんも、そこを理解していました。
だから今、代替案の図面を作っています。
公園を残したい。
でも、観光バスの待機場も必要かもしれない。
だったら、別の場所に造れないか。
そうやって、具体的な案を持ち寄る。
「住民自治って」
私は言いました。
「住民と行政が、必ず対立する制度じゃないんですね」
「そうだ」
「住民が意見を出し、行政が検討して、最終的に責任ある判断をする」
「うん」
「その過程が大切なんですね」
相馬先輩が笑いました。
「ようやく分かったか」
「はい」
私は笑い返しました。
昭和六十三年。
まだ、現代のような制度は十分に整っていません。
国と地方の関係も、今とは違います。
地元の有力者。
町内の慣習。
役所の前例。
そうしたものが、行政判断に強く影響することもあります。
でも。
憲法の条文は同じです。
地方自治の本旨。
住民自治。
団体自治。
その原則は、昭和の社会でも、しっかり存在している。
そして後の時代には、地方分権改革や各種の住民参加制度の整備によって、その理念を具体化する仕組みが変化していくのです。
「さて、まとめます」
私はノートの最後のページを開きました。
大きく、三つの見出しを書きます。
憲法九十二条。
憲法九十三条。
憲法九十四条。
「試験で押さえるなら、まずこの三つです」
相馬先輩が頷きました。
「言ってみろ」
「九十二条は、地方自治の本旨です」
「うん」
「住民自治と団体自治の二つ」
「うん」
「九十三条は、議会の設置と、地方公共団体の長や議会議員の直接選挙」
「うん」
「九十四条は、地方公共団体の権能と、法律の範囲内での条例制定権」
「それで?」
「さらに判例です」
私は赤ペンを持ちました。
「昭和三十八年三月二十七日、最高裁大法廷判決」
相馬先輩が肩をすくめました。
「東京都特別区か」
「はい」
憲法上の地方公共団体といえるためには、社会的基盤と、相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権などの自治の基本的機能が必要。
そして、当時の東京都特別区は、その実体を備えていないと判断された。
「そこが重要です」
「分かった」
「じゃあ確認問題です」
「まだやるのか」
「一問だけです!」
私はノートを持ち上げました。
「第一問。地方自治の本旨とは、住民自治だけを意味する。正しいですか?」
「誤り。団体自治もある」
「正解!」
「簡単だな」
「第二問。団体自治が保障されている以上、地方公共団体は国の法律に従わず、自由に条例を制定できる」
「誤り。条例は法律の範囲内だ」
「正解!」
「一問だけじゃなかったのか」
「次が最後です!」
「信用ならねえ」
私は続けました。
「第三問。昭和三十八年の最高裁判例は、当時の東京都特別区について、憲法上の地方公共団体に当たらないと判断した」
「正しい」
「正解!」
「終わりか?」
「はい!」
相馬先輩が立ち上がりました。
「じゃあ帰るぞ」
「待ってください」
「何だよ」
「最後に、一行の覚え書きです」
私はノートの一番下に、ゆっくり書きました。
――地方自治の本旨は、住民が参加し、地域が自ら責任を負うこと。
「どうです?」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めました?」
「気のせいだ」
またそれです。
でも。
今日の一行は、きっと忘れません。
住民自治。
住民の意思に基づく地方行政。
団体自治。
地方公共団体が、自らの意思と責任で行政を行うこと。
この二つは、どちらか一つでは足りない。
国や県から一定の独立性を持っていても、住民の声を無視する自治体なら、住民自治が弱くなる。
一方、住民の意見を聞いていても、地域が自らの意思と責任で判断する余地がなければ、団体自治が十分に働かない。
だから。
二つ必要なのです。
私はノートを閉じました。
窓の外は、すっかり夕暮れです。
駅前の向こう。
宮田さんが守ろうとしている児童公園。
今ごろ、子どもたちは帰り支度をしているでしょうか。
ブランコ。
滑り台。
小さな砂場。
その場所が、この先どうなるのか。
まだ分かりません。
でも。
宮田さんは、もう一度、住民代表として協議会に参加できます。
そして、代替案を提出できる。
それは。
公園が残ることを保障するものではありません。
けれど。
自分たちの町の未来について、住民が意見を届けられる。
その機会を取り戻したことには、大きな意味があります。
「こはる」
片桐所長が声をかけました。
「はい」
「明日、宮田さんのところへ行くんだろう」
「はい」
「図面は専門家に確認してもらえ」
「分かっています」
「お前が勝手に道路設計をするなよ」
「しませんよ!」
相馬先輩が笑いました。
「やりそうだから怖えんだよ」
「行政書士見習いに、どこまで仕事させるつもりですか!」
「お前、何でもやりたがるだろ」
「勉強熱心と言ってください!」
片桐所長が小さく笑いました。
「いいか、こはる」
「はい」
「行政書士は、市長の代わりに判断する仕事じゃない」
「はい」
「住民の代わりに政治を決める仕事でもない」
「……はい」
「住民の意思を、行政が法的に検討できる形に整える。その手助けをする仕事だ」
私は静かに頷きました。
宮田さんが集めた住民の声。
それを、ただの不満として終わらせない。
どんな計画があるのか。
どの条例が関係するのか。
どんな手続が必要なのか。
何が問題で、何を求めるのか。
それを整理して、行政へ届ける。
そして、必要であれば憲法という最高法規に立ち返る。
そうやって。
住民と行政の間に、法律という共通の言葉を置く。
「……なるほど」
私は呟きました。
「何だ」
相馬先輩が聞きました。
「行政書士って、地方自治を支える仕事でもあるんですね」
「そうだな」
先輩は、少しだけ真面目な顔になりました。
「役所が偉いんじゃねえ」
「はい」
「条例が偉いんだ。もっと言えば、その上には法律があり、憲法がある」
「……はい」
「そして、自治ってのは、役所の建物の中だけでやるもんじゃねえ」
私は頷きました。
住民がいて。
地域があって。
選挙があって。
議会があって。
行政がある。
その全部で、地方自治は成り立っている。
だから。
地方自治の本旨という言葉は、ただの試験用語ではありません。
そこには。
町の小さな公園を残したいと願う人たちの声も、含まれているのです。
「よし」
私は立ち上がりました。
「明日は宮田さんのところで、住民自治の現場を見てきます!」
「おう」
相馬先輩が頷きました。
「ただし」
「はい?」
「朝八時集合な」
「……え?」
「現場を見るなら朝からだろ」
「八時!?」
「嫌なら九時でもいいぞ」
「じゃあ九時で!」
「決まりだ」
私はほっとしました。
ところが。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「八時だ」
「ええっ!?」
「宮田さんには八時で伝えてある」
「そんな!」
相馬先輩が吹き出しました。
「住民の意思は反映されなかったな」
「反映してくださいよ!」
「多数決でもするか?」
「します!」
私は勢いよく手を挙げました。
「九時がいい人!」
事務所に、私の手だけが上がりました。
相馬先輩は腕を組み。
片桐所長は帳簿を開いたまま。
誰も手を挙げません。
「……一対二」
私は呟きました。
「八時決定だな」
相馬先輩が言いました。
「住民自治、厳しい……」
「そもそも住民自治じゃねえよ」
「分かってます!」
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「民主主義は、いつでも自分の希望が通る制度ではない」
「……今日の復習ですか?」
「そうだ」
相馬先輩が笑いました。
「負けたな」
「くっ……!」
私は鞄を抱えました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやら、うちの事務所にも、地方自治の本旨を考える余地がありそうです。
ただし。
少なくとも明日の集合時間については。
住民自治も。
団体自治も。
私を救ってはくれないようでした。
「先輩」
「何だ」
「八時集合には、公共の福祉上の必要性があるんですか?」
「ある」
「何です?」
「朝のうちに仕事を終わらせりゃ、昼飯がうまい」
「それ、先輩個人の利益じゃないですか!」
相馬先輩が笑い。
片桐所長まで、ほんの少し口元を緩めました。
私はため息をつきながら、ノートを鞄にしまいました。
最後のページには、今日の一行。
――地方自治の本旨は、住民が参加し、地域が自ら責任を負うこと。
その文字が、夕暮れの光の中で、少しだけ誇らしく見えました。
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