[憲法・地方自治]現場編 「県が決めたことですから」の嘘。住民の声を消すお役所と、町の未来を取り戻す憲法の力
町のことは、誰が決めるのでしょう。
国でしょうか。
県でしょうか。
市長でしょうか。
それとも。
そこで暮らす、私たちでしょうか。
たぶん。
答えは一つではありません。
けれど、少なくとも。
町の未来を決めるとき、そこに暮らす人たちの声を、最初から消していいはずはないのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「町内会長を辞めさせられました」
その日の相談者は、開口一番、そう言いました。
「……え?」
私は思わず聞き返しました。
「辞めさせられた?」
「はい」
「誰にです?」
「市役所です」
ちょっと待ってください。
町内会長って、市役所が辞めさせるものなんでしょうか。
私の頭の中で、早くも黄色い警告灯が点滅しました。
相談者は、五十八歳の男性。
名前は宮田源三さん。
駅北地区の町内会長を、八年間務めてきた人でした。
元大工。
日に焼けた顔。
大きな手。
作業着の袖には、まだ木くずがついています。
「正確にはな」
宮田さんは言い直しました。
「町内会長そのものを辞めさせられたわけじゃない。市の地区代表から外されたんです」
「地区代表?」
「駅前再整備の話し合いに出る、住民側の代表です」
なるほど。
ようやく話が見えてきました。
この町では、駅前再整備事業が進んでいます。
古い商店街。
バス乗り場。
公衆便所。
自転車置場。
そして駅北地区の小さな児童公園。
それらをまとめて整備する計画でした。
市は、地域住民の意見を聞くために、駅前整備協議会を設置していたそうです。
宮田さんは、駅北地区の町内会から推薦され、協議会の住民代表を務めていました。
「ところが先月です」
宮田さんが一枚の通知を出しました。
私は読みました。
――駅前整備協議会の構成員について、今後は市長が適当と認める者を委嘱する。
――従前の地区推薦による委員選出は行わない。
「……市長が選ぶ?」
「そうです」
「どうして急に?」
宮田さんの顔が曇りました。
「公園を潰す計画に、反対したからです」
私は顔を上げました。
「公園?」
「駅北の児童公園です。子どもたちが遊ぶ場所を潰して、観光バスの待機場にするって」
「それは……」
「観光客を呼ぶのはいい。商店街が賑わうのもいい。でも、あの公園は小さい子どもが遊べる、地区でたった一つの場所なんです」
宮田さんは膝の上で拳を握りました。
「だから住民に聞いたんです」
「何をです?」
「公園を残したいかどうか」
地区の回覧板を使い、住民の意見を集めた。
回答した百八十七世帯のうち、百六十二世帯が公園の存続を希望したそうです。
宮田さんは、その結果を協議会へ提出しました。
そして。
「次の会議から、呼ばれなくなった」
「……え?」
「市役所に理由を聞いたら、言われました」
宮田さんは、唇を噛みました。
「『地域の和を乱す方は、代表として適当ではありません』と」
私は通知をもう一度見ました。
地域の和。
また出ました。
昭和六十三年。
この時代の役所が大好きな、便利すぎる言葉です。
地域の和。
円滑な行政。
全体の利益。
公共の福祉。
もちろん、大切な考え方ではあります。
でも。
反対意見を言った人を外すために使われたら、話は別です。
「それで、後任は誰になったんです?」
「駅前の観光開発会社の社長です」
「……え」
「市の計画に賛成している人です」
相馬先輩が、それまで読んでいた新聞を畳みました。
「ほう」
嫌な声です。
この人が「ほう」と言うとき、大抵そのあと役所の誰かが困ります。
「宮田さん」
相馬先輩が聞きました。
「協議会の委員ってのは、条例で決まってるのか?」
「ええ。市議会で決めた条例があるはずです」
「持ってるか」
「これなら」
宮田さんが鞄から古い冊子を出しました。
――駅前整備協議会設置条例。
私は受け取り、ページをめくりました。
そこには、こうありました。
――委員は、学識経験者、関係団体の代表者及び関係地区の住民代表のうちから、市長が委嘱する。
「……あれ?」
私は声を漏らしました。
関係地区の住民代表。
そこが重要そうです。
ただし。
「町内会が推薦した人を必ず委員にする、とまでは書いてないですね」
「そうなのか?」
宮田さんが不安そうに聞きました。
「はい。市長に委嘱の権限があります」
「じゃあ、仕方ないのか」
「まだ分かりません」
片桐所長が、静かに言いました。
「まず、市が何をしたのか確認しよう」
市役所二階。
総務課。
「また、片桐先生ですか」
沢渡課長は、私たちを見るなり眼鏡を直しました。
「最近、多いですね」
「市民が困ってるからな」
相馬先輩が答えました。
「行政運営に問題があるとおっしゃりたい?」
「まだ言ってねえよ」
「まだ、ですか」
相変わらずです。
この二人、会話の最初から牽制球しか投げません。
片桐所長が通知を机に置きました。
「宮田源三さんの件です」
「駅前整備協議会ですね」
「そうだ」
沢渡課長は頷きました。
「委員構成を見直しました」
「理由を聞きたい」
「県の指導です」
私は目を瞬かせました。
「県?」
「県の地域振興部から、観光開発事業の円滑な推進に向けて、関係者間の調整を重視するよう通知が来ています」
「その通知に、反対する住民代表を外せと書いてあるんですか?」
「いいえ」
沢渡課長は即答しました。
「県は、そういう個別の人選まで指示していません」
「じゃあ、どうして?」
「市として、事業推進に協力的な委員構成が適当だと判断したからです」
なるほど。
この人は、曖昧なことを言って逃げているわけではありません。
県の通知。
市の判断。
委員構成の見直し。
それぞれを分けて説明している。
そして。
そこが今回の厄介なところでした。
「課長」
相馬先輩が腕を組みました。
「住民の意見を聞くための協議会で、事業に賛成する奴ばかり集めてどうする」
「反対意見を排除する趣旨ではありません」
「現に反対した宮田さんを外してるだろ」
「宮田さんの発言内容だけを理由にしたわけではありません」
「ほかの理由は?」
「協議会の円滑な運営、委員間の協調性、地域全体の利益などを総合的に考慮しました」
出ました。
総合的に考慮。
行政法の万能接着剤です。
私は手を挙げました。
「課長」
「何でしょう、朝比奈さん」
「宮田さんは住民の意見を集めて提出しただけですよね」
「その点は承知しています」
「協議会で暴れたり、会議を妨害したりしたんですか?」
「そういう事実はありません」
「じゃあ、協調性に問題があるって何ですか?」
沢渡課長は少し考えました。
「市の整備方針との間に、大きな隔たりがあります」
「それは、単に反対意見があるってことじゃないですか」
「行政運営には調整も必要です」
「でも、それを理由に住民代表から外すなら――」
「朝比奈さん」
沢渡課長が、静かに私を遮りました。
「そもそも、協議会の委員を誰にするかは、市長の委嘱権限に属します」
「……はい」
「町内会が推薦すれば必ず委員になれる、という規定はありません」
「それは……そうです」
「また、宮田さんは市議会議員でも市長でもありません。憲法が直接選挙を保障する公職と、協議会の委員は別です」
う。
そこまで見抜いていますか。
沢渡課長は続けました。
「協議会の構成を変更すること自体が、直ちに違憲になるわけではありませんよ」
正しい。
悔しいけれど、そこは正しい。
住民自治だからといって、あらゆる協議会の委員を住民投票で決める必要があるわけではありません。
市長には市長の権限がある。
条例にも委嘱権限が書いてある。
では。
どこで止める?
「市の判断は、公共の福祉にもかなうものと考えています」
沢渡課長が言いました。
「観光振興は地域全体の利益につながります。特定地区の反対だけで計画を止めるわけにはいきません」
私は黙りました。
公共の福祉。
また、その言葉です。
現代なら。
住民参加。
行政の透明性。
説明責任。
パブリックコメント。
そんな言葉が、次々と浮かびます。
けれど。
ここは昭和六十三年。
行政手続法すら、まだ制定されていません。
現代の制度を、そのまま要求することはできない。
それに。
この時代には、機関委任事務という仕組みがあります。
国の事務を、知事や市町村長が国の機関として処理する。
その領域では、国の指揮監督が強く働く。
現代のように、国と地方の対等・協力関係を当然の前提として語るわけにはいきません。
私は唇を噛みました。
県が言った。
市が従った。
地元の有力者が賛成した。
だから、反対する住民の声は後回し。
昭和の空気は、重い。
法律の条文があっても、社会の力関係がそれを押し潰してくる。
そんな気がしました。
そのとき。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「憲法を開け」
「……え?」
「九十二条だ」
私は鞄から六法を取り出しました。
憲法。
第九十二条。
そこには、見慣れた文章がありました。
――地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
私は息を止めました。
……同じだ。
昭和六十三年。
それなのに、条文は現代と一字一句、同じ。
憲法は、改正されていない。
変わったのは、社会のほう。
私は何度もその一文を読みました。
地方自治の本旨。
住民自治。
団体自治。
受験生だったころ、何度も赤線を引いた言葉です。
でも。
今まで私は、それを暗記項目としか思っていませんでした。
住民自治。
住民の意思に基づく地方行政。
団体自治。
地方公共団体が、国から一定の独立性を持ち、自らの意思と責任で行政を行うこと。
その二つ。
ふと、頭の中で何かがつながりました。
「……課長」
「何でしょう」
「県の通知って、法的に市の委員構成を拘束するものなんですか?」
沢渡課長の目が、わずかに細くなりました。
「どういう意味ですか」
「この駅前整備協議会の委員選任は、国の機関委任事務として行われているんですか?」
「いいえ」
「それなら、県の通知は?」
「地域振興事業についての助言と調整方針です」
「つまり、法律に基づいて県が委員を指定する仕組みではない」
「そうです」
私は六法を閉じました。
「だったら」
声が、少し震えました。
「市が自分の責任で判断しなければならない問題ですよね」
沢渡課長は黙りました。
私は続けました。
「県の方針を参考にするのはいいんです。でも、県が言ったから住民の声を外していい、とはなりません」
「市長には委嘱権限があります」
「はい。そこは否定していません」
私は頷きました。
「でも、委嘱権限があるからって、条例が設置した協議会の目的を無視していいわけじゃありませんよね」
沢渡課長の視線が、机の上の条例へ落ちました。
「……なるほど」
初めて。
その声に、慎重さが混じりました。
事務所へ戻ると、相馬先輩が椅子を引きました。
「さて」
机の上に、駅前整備協議会設置条例。
県の通知。
市の委員変更通知。
そして、宮田さんが集めた住民の意見書。
四つの資料が並びました。
「こはる」
「はい」
「今日の敵は何だ」
「市役所です」
「違う」
「え?」
「市役所そのものを敵にするな」
相馬先輩が条例を指差しました。
「おかしいのは、判断の仕方だ」
私は頷きました。
「はい」
「じゃあ、その判断のどこがおかしい」
私は整理しました。
第一。
市は、条例で駅前整備協議会を設置している。
第二。
条例は、関係地区の住民代表を委員の一類型として予定している。
第三。
宮田さんは、実際に地区住民の意見を集め、協議会へ提出した。
第四。
市は、反対意見を提出した宮田さんを外し、開発計画に賛成する人物を後任に選んだ。
第五。
その際、市が説明した理由には、協議会の円滑な運営や県の方針が含まれている。
「つまり」
私は言いました。
「問題は、委員の変更自体じゃありません」
「そうだ」
「住民の意見を聞くために設置した協議会なのに、住民の反対意見を理由に代表を外すことが、条例の目的に合っているのか」
相馬先輩が頷きました。
「それだ」
片桐所長が、奥から一冊の判例集を持ってきました。
「もう一つ、見ておけ」
「何です?」
「昭和三十八年三月二十七日。最高裁大法廷判決」
私はページを開きました。
東京都の特別区。
区長公選制の廃止。
憲法九十三条。
「……あ」
見覚えがあります。
行政書士試験でも重要な判例です。
最高裁は、当時の東京都特別区について、憲法上の地方公共団体に当たらないと判断した。
その判断では、地域の社会的基盤だけでなく、自主立法権、自主行政権、自主財政権など、地方自治の基本的な機能が問題になりました。
「所長」
「何だ」
「地方公共団体って、法律でそう呼ばれていれば何でも憲法上の地方公共団体になるわけじゃないんですね」
「そうだ」
「名前だけじゃ足りない」
私はページを見つめました。
自治。
それは、看板ではない。
自分たちの地域を、自分たちの意思と責任で運営する実質。
そういうものが必要だということです。
「でも、今回の市は憲法上の地方公共団体ですよね」
「当然だ」
「じゃあ、町内会は?」
相馬先輩が答えました。
「地域の団体ではあるが、それだけで憲法九十三条の地方公共団体になるわけじゃねえ」
「つまり、町内会長だから憲法上当然に協議会委員になれる、とは言えない」
「そういうことだ」
私は少し残念になりました。
憲法を開けば、全部解決する。
そんな都合のいい話ではありません。
でも。
だからこそ、使い方を間違えてはいけない。
「所長」
「何だ」
「憲法九十二条だけで、市に宮田さんの再任を義務付けるのは難しいですよね」
「難しい」
「でも、条例の趣旨を解釈するときに、地方自治の本旨を無視してはいけない」
「そうだ」
「そして、反対意見を理由に排除したなら、憲法二十一条の表現の自由や、十四条の平等原則との関係も問題になる」
所長が頷きました。
「ただし、違憲と断定するな」
「はい」
「宮田さんに委員の地位を保障する明文はない。委嘱の裁量もある。だから、どんな人選でも違憲になるわけではない」
「分かっています」
「争うなら、裁量の目的と判断過程を詰めろ」
私はノートを開きました。
市の目的。
駅前整備。
協議会の目的。
関係者と住民の意見を反映した計画調整。
市が用いた手段。
反対意見を表明した住民代表の交代。
そこに、合理的なつながりがあるのか。
「……ないんじゃないですか?」
「理由を聞け」
所長が言いました。
「賛成意見だけを集める協議会なら、最初から住民代表など置く必要がない」
私は思わず顔を上げました。
それです。
住民の意見を聞く制度を作っておきながら。
都合の悪い住民の意見を消す。
それでは、何のための協議会なのでしょう。
「先輩」
「何だ」
「憲法の意見書、書いていいですか」
「書け」
「九十二条を中心に?」
「それだけじゃ弱え」
相馬先輩が机を叩きました。
「条例を読め。議会が何のために協議会を作ったか調べろ。市が委員を選ぶとき何を基準にしたか確認しろ」
「はい」
「それから憲法だ」
私は頷きました。
片桐所長が静かに言いました。
「憲法は、何でも斬るための刀じゃない」
「……はい」
「だが、行政が越えてはいけない線を越えたなら」
所長は、机の上の六法を指しました。
「抜け」
三日後。
私たちは、再び市役所を訪れました。
「法的意見書ですか」
沢渡課長が、厚い封筒を受け取りました。
「はい」
私が答えます。
「宮田さんの委員交代について、再検討を求めます」
沢渡課長は封を開けました。
表題。
――駅前整備協議会の委員選任に関する法的意見書。
本文には、まず条例の設置目的を整理しました。
協議会は、市の整備方針を追認するためだけの機関ではない。
関係団体や住民の意見を踏まえて、計画を検討するために設置されている。
住民代表の選任について、市長に一定の裁量が認められるとしても、その裁量は条例の目的に沿って行使されなければならない。
そして。
――憲法第九十二条が保障する地方自治の本旨は、住民自治及び団体自治を基礎とする。
沢渡課長の目が、そこで止まりました。
「憲法ですか」
「はい」
「協議会の委員選任に、憲法九十二条を持ち出すのは、少し大げさではありませんか」
来ました。
その反論は想定済みです。
「九十二条だけで、宮田さんを必ず委員にしろと言っているわけではありません」
「では?」
「市の条例と、市長の裁量権をどう解釈するか。その基本になるのが、地方自治の本旨です」
私は意見書の該当箇所を指しました。
「市は、地域住民の意見を取り入れるために協議会を設置しています」
「ええ」
「そこへ、住民の意見を集めた代表が来た」
「はい」
「その意見が市の計画に反対するものだった」
「そうですね」
「だから委員として不適当だと判断したなら、協議会の目的と矛盾しませんか」
沢渡課長は、すぐには答えませんでした。
代わりに、次のページをめくりました。
「憲法二十一条、表現の自由」
「はい」
「十四条、法の下の平等」
「はい」
「……ずいぶん並べましたね」
「全部を使えば勝てる、とは思っていません」
私は答えました。
「でも、反対意見を言ったこと自体を不利益な人選の理由にしたなら、その運用には憲法上の重大な疑義があります」
「委員に選ばれる権利が、誰にでもあるわけではありませんよ」
「分かっています」
「公職の選挙権とも違います」
「それも分かっています」
私は一呼吸置きました。
「だから、市長の委嘱権限を否定していません」
そして続けました。
「ただ、委嘱する相手を自由に選べるということと、反対意見を排除する目的で選べるということは、同じではありません」
沢渡課長が、ゆっくり顔を上げました。
私は続けました。
「反対意見があることで、実際に会議の運営が妨害されたなら別です。でも宮田さんは、意見を集めて提出しただけです」
「……」
「しかも、提出された意見は、百八十七世帯のうち百六十二世帯が公園を残したいというものです」
「承知しています」
「それを伝えた人を外せば、問題がなくなるんですか?」
沢渡課長は黙っています。
「公園を残したい住民が、いなくなるんですか?」
部屋が静かになりました。
「……いなくなりませんね」
沢渡課長が言いました。
私は頷きました。
「そうです」
宮田さんを外しても。
住民の意思は消えない。
ただ、役所に届かなくなるだけです。
相馬先輩が横から口を挟みました。
「世間の常識だの、地元の和だの、好きに言えばいい」
沢渡課長が先輩を見ました。
「相馬さん」
「だがな」
先輩は机の上の意見書を指しました。
「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」
低い声でした。
「住民の意見を聞くための協議会だろ。反対されたから追い出すってんなら、最初から協議会なんざ作るな」
「言葉が過ぎますよ」
「じゃあ、法律の言葉で言ってやる」
相馬先輩が身を乗り出しました。
「市長の裁量は、条例の目的から逃げるためのもんじゃねえ」
沢渡課長は、眼鏡を外しました。
「……おっしゃることは分かります」
そして、意見書を閉じました。
「ただし、こちらにも確認すべき点があります」
「何でしょう」
片桐所長が聞きました。
「宮田さんの委員交代が、反対意見の表明を理由としたものなのか。ほかに適法かつ合理的な人選上の理由があるのか。正式な決裁記録を確認する必要があります」
「当然です」
「その結果、合理的な根拠があれば、交代を維持する可能性もあります」
「承知しています」
沢渡課長は、もう一度意見書を見ました。
「ただ」
少し間を置きます。
「県の通知を根拠として、住民代表の意見を軽視することはできない。それはご指摘のとおりです」
私は思わず息を止めました。
「……課長」
「県の助言は助言です。市の条例に基づく委員選任について、最終的に責任を負うのは市です」
沢渡課長は書類を揃えました。
「今回の人選について、再検討します」
それから一週間後。
市役所から、片桐事務所へ連絡がありました。
「こはる」
相馬先輩が受話器を置きました。
「はい」
「宮田さんの件、動いたぞ」
「えっ!」
私は椅子から立ち上がりました。
「どうなりました?」
「委員交代を撤回する方向で、手続を進めるってよ」
「本当ですか!」
「理由を聞け」
「はい!」
市が改めて決裁記録を確認したところ。
委員交代の検討資料には、こう記されていたそうです。
――宮田委員は、整備計画に対して反対意見を繰り返しており、事業推進上の協調が期待できない。
私は、しばらく黙りました。
「……それだけ?」
「それだけじゃねえが、実質的な理由はそこだったらしい」
会議妨害。
守秘義務違反。
職務上の不正。
そうした具体的な問題行為は、確認されなかった。
ただ、市の計画に反対した。
そして、反対意見を取りまとめた。
それが、委員交代の中心的理由になっていた。
「所長」
私は振り返りました。
「これって……」
「まずいな」
片桐所長が静かに言いました。
「市長の裁量があるとしても、条例の目的に照らして説明がつかん」
「はい」
「県の通知でも補えない」
「はい」
そして。
市は、委員の選任基準を見直すことにした。
住民代表を選任する際には、整備計画への賛否それ自体を不利益な判断理由としない。
反対意見も含め、住民の意見を適切に反映する。
それを、今後の協議会運営方針として明文化するというのです。
「宮田さん、戻れるんですね」
「正式な委嘱手続が済めばな」
「よかった……!」
私は胸を撫で下ろしました。
でも。
「先輩」
「何だ」
「市は、公園を残すって決めたわけじゃないですよね」
「当たり前だ」
「ですよね」
「協議会に戻ることと、公園が残ることは別だ」
相馬先輩は、煙草を一本取り出しました。
「住民自治ってのは、住民の言うことを全部通す制度じゃねえ」
「……はい」
「住民の声を聞いて、議会も市長も、それぞれの責任で決める。それが自治だ」
私は頷きました。
百六十二世帯が公園を残したいと言った。
だから、必ず公園を残さなければならない。
そういうわけではありません。
観光バスの待機場も必要かもしれない。
駅前の交通安全も重要です。
商店街の活性化を望む人もいる。
予算にも限りがある。
だからこそ。
さまざまな意見を聞いて、調整し、責任を持って決める。
その過程から、都合の悪い声を排除してはいけない。
私はようやく気づきました。
地方自治の本旨。
それは、単に市役所が国や県から自由に何でも決められる、という意味ではない。
市が自分で決める。
そして、その市の政治や行政に、住民の意思が反映される。
両方が必要なのです。
翌日の午後。
宮田さんが事務所へやってきました。
「先生!」
扉を開けるなり、大きな声を出しました。
「戻れることになりました!」
「聞いています」
片桐所長が答えました。
宮田さんの目は、少し赤くなっていました。
「町内の人に報告したんです」
「はい」
「そしたら、みんな喜んでくれて」
宮田さんは、笑いました。
「公園は、まだどうなるか分かりません。でも、もう一度ちゃんと話せるんです」
「そうですね」
「役所の人にも言われました」
「何をです?」
「次の協議会では、公園を残す案だけじゃなく、バスの待機場所をほかに設けられないか、具体的に提案してくださいって」
私は少し驚きました。
「沢渡課長が?」
「ええ」
宮田さんが頷きます。
「反対だけじゃ話が進まない。代わりの案を持ってきてくれって」
……あの人らしい。
沢渡課長は、やっぱり甘くありません。
しかし。
話し合いの席から追い出すのではなく、そこで提案するよう求めた。
それは、確かな変化でした。
「私、考えてるんです」
宮田さんが言いました。
「公園の隣に、今は使っていない市有地がありましてね」
「はい」
「そこを使えば、バスの待機場を少し小さくしても何とかなるんじゃないかって」
「……いいですね」
「もちろん、道路の幅とか、車の回転とか、調べなきゃいけませんが」
宮田さんは照れくさそうに笑いました。
「大工だったから、寸法を測るのは得意なんです」
相馬先輩が笑いました。
「いいじゃねえか」
「え?」
「ただ反対するんじゃなく、代わりの案を作る。役所だって数字を出されりゃ、無視しにくくなる」
「そうですかね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「今度は図面で殴ってこい」
「先輩!」
私は思わず突っ込みました。
「言い方!」
「比喩だよ」
「分かってますけど!」
宮田さんが声を上げて笑いました。
その笑い声につられて、私も笑いました。
最初に来たとき。
宮田さんは、自分の町なのに、何も言えなくなったような顔をしていました。
でも今は違います。
手には、書きかけの図面。
鞄には、住民の意見。
そして、もう一度話し合いに参加できる見通し。
公園が残るかどうかは、まだ分かりません。
けれど。
町の未来を考える席に、戻れる。
それだけで、人の顔はこんなにも変わるのです。
夕方。
宮田さんが帰ったあと。
私は机の上に六法を置きました。
「所長」
「何だ」
「憲法って、不思議ですね」
「どうした」
「条文は、昭和も現代も全く同じなのに」
私は九十二条を開きました。
「読んだときの重さが、全然違います」
現代にいたころ。
地方自治の本旨。
住民自治。
団体自治。
そんな言葉は、試験のために覚えるだけのものでした。
住民自治は、住民の意思。
団体自治は、国からの独立。
はい、暗記完了。
次の問題。
その程度でした。
でも今。
宮田さんが、目の前にいます。
町の公園を守りたい人たちがいます。
住民の声を聞くための協議会から、住民の声を伝えた人が外された。
県の方針。
行政運営の円滑化。
地域の和。
そんな言葉で。
危うく、一つの地区の意見が届かなくなるところでした。
「……あの」
私は言いました。
「憲法九十二条って、弱い条文だと思ってました」
相馬先輩がこちらを見ます。
「弱い?」
「だって、『地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める』って。それだけですよ」
「まあな」
「自由を侵害してはならない、とか、誰でも権利がある、とか、そういう分かりやすい言葉じゃないじゃないですか」
「だから?」
「事件で使えると思わなかったんです」
片桐所長が、静かに頷きました。
「直接、誰かの委員就任を保障する条文ではない」
「はい」
「だが、地方自治の制度を作り、運用するときの根本原則になる」
「……そうですね」
「地方自治法も、条例も、役所の運用も、憲法の下にある」
私は九十二条を見つめました。
憲法。
最高法規。
国の法律も。
県の通知も。
市の条例も。
行政の判断も。
その上にある。
もちろん、憲法の一言で何でも覆せるわけではありません。
行政の判断には、判断の余地がある。
地方自治にも、法律の制約がある。
そして、住民の意思も一つではない。
でも。
だからといって。
法律に基づいて設置された協議会から、反対意見を述べた住民代表を、合理的な理由もなく排除していいわけではない。
「所長」
「何だ」
「地方自治って、二つないと駄目なんですね」
「二つ?」
「住民自治と、団体自治です」
私は指を二本立てました。
「国や県から一定の独立性を持って、市が自分の責任で決める」
「うん」
「でも、その市が住民の声を無視したら、それも自治の本旨から外れてしまう」
「そうだ」
相馬先輩が、煙草を灰皿に押しつけました。
「国の言いなりにならねえ。それだけじゃ足りねえんだよ」
「はい」
「市長が独裁者になっても困るからな」
「ですよね」
「だから議会がある。住民が直接、市長や議員を選ぶ。条例を作る権限もある」
私は憲法をめくりました。
第九十三条。
地方議会。
住民による直接選挙。
そして第九十四条。
財産の管理。
事務の処理。
行政の執行。
法律の範囲内での条例制定権。
なるほど。
九十二条。
九十三条。
九十四条。
ばらばらの暗記事項だと思っていました。
でも。
全部つながっていたのです。
地方自治の本旨を守る。
そのために。
住民が選ぶ議会と首長を置く。
地域が自分で仕事をし、法律の範囲内で条例を作る。
そして。
そこで暮らす人たちの暮らしを、自分たちの政治に反映させていく。
「……私」
私はぽつりと言いました。
「憲法なんて、行政書士の仕事で使わないと思ってました」
「三流だな」
相馬先輩が即答しました。
「そこまで言います?」
「憲法だけ振り回すのも三流だが、憲法を知らねえのも三流だ」
「厳しい!」
「当然だろ」
先輩は笑いました。
「役所の窓口に立つなら、役所が何をしていいのか、何をしちゃいけねえのか、知らなきゃ話にならねえ」
私は頷きました。
裁判を起こしたわけではありません。
違憲判決が出たわけでもありません。
私たちは、裁判所で戦ったのではない。
市役所の窓口で。
条例を読み。
事実を調べ。
意見書を書き。
市長の判断を、もう一度検討してもらった。
ただ、それだけです。
でも。
宮田さんは、町の未来を話し合う場所へ戻ることになりました。
そして、その結果。
子どもたちが遊ぶ公園の未来についても、もう一度議論できることになったのです。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「今日の教訓は?」
私は少し考えました。
そして、ノートの端に書きました。
――地方自治とは、国から自由になるだけでなく、住民の声に責任を持つこと。
相馬先輩が覗き込みました。
「長いな」
「大事なことなので」
「もっと短くしろ」
「じゃあ……」
私は書き直しました。
――町の自治は、住民の声と、地域の責任で成り立つ。
「どうです?」
「まあ、悪くねえ」
「褒めました?」
「気のせいだ」
またそれです。
私は笑いながら、ノートを閉じました。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
来ました。
「はい。お世話になっております」
『宮田さんの件について、一つご報告があります』
「何でしょう?」
『次回の駅前整備協議会では、公園の存続案と、バス待機場の代替案を併せて検討することになりました』
「……本当ですか?」
『ええ。市の計画が正しいと決めつけていては、協議会を設けた意味がありませんから』
私は思わず笑いました。
「課長がそれを言うんですね」
『私は合理的なだけです』
「知ってます」
『ただし』
「はい?」
『宮田さんには、感情論ではなく、具体的な図面と根拠資料を持ってきていただくよう伝えてください』
「分かりました」
『反対意見を尊重することと、反対意見を無条件で採用することは違いますから』
「……そうですね」
『では』
電話が切れました。
受話器を置くと、相馬先輩が聞きました。
「何だって?」
「公園の存続案、正式に検討するそうです」
「ほう」
「でも、具体的な図面を出せって」
先輩は笑いました。
「そりゃそうだ」
「ですよね」
片桐所長が、窓の外へ目を向けました。
夕焼けに染まった町。
駅前には人が行き交い。
子どもたちは、まだ明るい空の下で遊んでいるのでしょう。
その公園が、十年後もあるかどうか。
まだ誰にも分かりません。
けれど。
その未来を決める話し合いに、そこで暮らす人が加われる。
それは。
憲法が守ろうとしている、地方自治の姿の一つなのだと思います。
「こはる」
「はい」
「明日、宮田さんのところへ行け」
片桐所長が言いました。
「え?」
「代替案の図面作りを手伝うんだろう」
「はい!」
「ただし、行政書士の仕事の範囲は守れよ」
「もちろんです」
私は大きく頷きました。
「まずは市の資料を確認して、宮田さんの意見を整理します!」
相馬先輩が立ち上がりました。
「よし、俺も行くか」
「先輩も?」
「ああ」
「珍しいですね」
「何がだ」
「自分から現場へ行くなんて」
先輩は鼻で笑いました。
「お前一人じゃ、県の通知と市の条例を混同して、また変なこと言い出しそうだからな」
「言いません!」
「どうだか」
「じゃあ先輩、明日はちゃんと住民の声を聞いてくださいよ」
「おう」
「自分の意見ばっかり押しつけちゃ駄目ですからね」
「分かってるよ」
私はにやりと笑いました。
「それが住民自治です」
「うるせえ」
相馬先輩が笑います。
窓の外では、町の灯りが一つ、また一つと点き始めていました。
この町を動かすのは。
県の通知だけではありません。
市長の判断だけでもありません。
そこに暮らす人たちがいて。
意見があって。
反対があって。
議論があって。
その先に、町の未来があります。
地方自治の本旨。
それは、六法の中だけにある難しい言葉ではありません。
たとえば。
小さな公園を残したいと願う、百六十二世帯の声。
その声もまた。
地方自治を支える、大切な一部分なのです。
そして私は、この昭和六十三年で、ようやく知りました。
憲法は、国会や裁判所のためだけにあるのではありません。
町の片隅で。
自分たちの暮らしについて、もう一度話し合いたいと願う人のためにも、存在しているのです。
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