[憲法・財政民主主義と租税法律主義]現場編 「市長が決めたので、全員から徴収します」の嘘。税金は誰が決めるのか――昭和の役所を止めた、憲法という最後の金庫番
お金を集めるのは、簡単です。
必要だから。
みんなのためだから。
町を良くするためだから。
そう言って、一人千円ずつ集めればいい。
でも。
その千円を払わなければならない理由を、誰が決めたのでしょう。
市長でしょうか。
役所でしょうか。
それとも。
お金を払う、私たち自身でしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「……税金って、勝手に作れるんでしたっけ?」
その日の朝。
私は、机の上に置かれた一枚の通知を見つめていました。
通知の題名は、
――駅前環境整備協力金納付のお願い。
金額。
一店舗につき、月額三千円。
対象。
駅前商業区域内で営業する事業者。
徴収開始。
来月一日。
「月三千円……」
私は指折り数えました。
一年で三万六千円。
十年なら三十六万円。
小さな店には、結構な負担です。
しかも通知の最後には、こう書いてありました。
――本協力金の納付状況については、各種営業関係申請等の行政指導に際し、参考とする場合があります。
「……これ、怖くないですか?」
私が言うと、相馬誠司先輩が煙草をくわえたまま顔を上げました。
「何がだ」
「払わないと、役所で不利になるかもしれないって」
「そう読めるな」
「しかも協力金ですよね?」
「ああ」
「協力って、自分の意思でやるものじゃないんですか?」
「普通はな」
「じゃあ、払わなくてもいい?」
「それを聞きに来た人がいる」
相馬先輩が顎で向かいの椅子を示しました。
そこには、小柄な女性が座っていました。
年齢は五十歳くらい。
紺色の割烹着。
指先には、小麦粉が少し残っています。
「駅前で、うどん屋をやっています」
女性は頭を下げました。
「宮田澄江と申します」
宮田さん。
駅前通りで二十年以上、夫婦でうどん屋を営んできたそうです。
店の名前は『みやた食堂』。
かけうどん一杯、二百八十円。
天ぷらうどん、四百円。
昭和の値段です。
安い。
ものすごく安い。
でも。
「三千円って、うちには大きいんです」
宮田さんは困ったように笑いました。
「材料費も上がってますし、主人も腰を痛めてましてね」
「事情は分かります」
私は頷きました。
「それで、市役所へ相談されたんですね」
「はい」
「何と言われました?」
「駅前を綺麗にするため、皆さんに負担していただくんだと」
「なるほど」
「街灯を増やしたり、歩道を直したりするそうです」
それ自体は悪いことではありません。
駅前が綺麗になる。
暗い道に街灯がつく。
段差がなくなる。
町にとって、良いことでしょう。
問題は。
「払わなかったら、どうなるんです?」
私が聞くと、宮田さんの表情が曇りました。
「商工会の集まりで、市の担当の方が言ったんです」
「何と?」
「協力していただけないお店については、今後の営業上の相談でも、その姿勢を考慮せざるを得ない、と」
「……え?」
「みんな払うんだから、一軒だけ拒むのは町の和を乱す、とも」
私は言葉を失いました。
町の和。
また、それですか。
昭和六十三年。
この時代の地方都市では、何かと登場する便利な言葉です。
町内会。
商工会。
地元の有力者。
長年の慣習。
みんながやっている。
だから、あなたもやりなさい。
私は現代から来た行政書士受験生です。
現代だって同調圧力はあります。
ありますけど。
昭和のそれは、何というか。
空気ではありません。
コンクリートです。
逆らうと、埋められそうな勢いです。
「宮田さん」
片桐所長が静かに聞きました。
「この協力金について、条例は示されましたか」
「条例?」
「市議会で決めたルールです」
「いえ……市長さんが決めた新しい制度だと」
片桐所長の手が止まりました。
「市長が?」
「はい」
「条例ではなく?」
「市長の方針だそうです」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「こはる」
「はい」
「市役所だ」
「ですよね」
私は通知を鞄に入れました。
ただし。
このときの私は、まだ気づいていませんでした。
今回の問題が、単なる協力金の話ではないことに。
そして。
受験生時代、ほとんど丸暗記で済ませていた憲法の条文が、
役所の徴収計画を根本から揺さぶることになるとは。
市役所二階。
総務課。
窓の向こうに、駅前再整備の完成予想図が掲げられていました。
広い歩道。
植樹帯。
新しい街灯。
整備されたバス停。
確かに立派です。
お金がかかるのも分かります。
ただし。
立派な計画なら、どんな方法でお金を集めても許される。
そんな法律はありません。
「また片桐先生ですか」
沢渡課長が書類から顔を上げました。
灰色の背広。
細い眼鏡。
今日も、感情をすべて庁内規程に封印してきたような顔です。
「今回は何でしょう」
相馬先輩が通知を差し出しました。
「駅前環境整備協力金」
「ああ」
沢渡課長は頷きました。
「その件ですか」
「これは何だ」
「駅前環境整備に関する事業者の協力金です」
「見りゃ分かる。法的な性質を聞いてる」
「市が実施する環境整備事業に対し、地域の受益者である事業者の皆様に協力をお願いするものです」
きれいな説明です。
でも。
「課長」
私は口を挟みました。
「これ、任意なんですか?」
「協力金ですから、形式上は任意です」
「形式上?」
「地域全体の利益に関わることです。事業者の皆様には、相応の社会的責任があります」
「じゃあ、払わなくても不利益はないんですね?」
沢渡課長は少し間を置きました。
「行政として、協力状況を把握すること自体は不合理ではありません」
「質問に答えてません」
「朝比奈さん」
沢渡課長が眼鏡を直します。
「行政は地域社会の秩序も考慮しなければなりません。公共の福祉という観点もあります」
出ました。
公共の福祉。
憲法の世界で、最も便利に使われがちな言葉の一つ。
もちろん、公共の福祉という考え方自体は重要です。
個人の自由が無制限に認められるわけではありません。
ただし。
何でもかんでも公共の福祉と言えば通るなら、
憲法なんて、ほとんど意味がなくなってしまいます。
「課長」
片桐所長が言いました。
「この協力金の徴収根拠を確認したい」
「市長決裁による実施要領です」
「条例は」
「制定していません」
「地方税法上の税として設けたものではない?」
「ええ。税ではありません。あくまでも協力金です」
沢渡課長は落ち着いていました。
「税として徴収する制度であれば、当然、地方税法や条例との整合性を検討します。しかし本件は任意の協力です」
なるほど。
沢渡課長は、そこを区別している。
無知な役人が勝手に税を作ったわけではない。
税ではないという法的構成を選んだ。
そのうえで、
地域の協力。
公益性。
任意の負担。
そう説明している。
厄介です。
この人は、いつもそうです。
自分の立場を守る論理を、ちゃんと用意している。
「では」
私は通知の末尾を指しました。
「納付状況を営業関係の行政指導で参考にする、というのは?」
「協力姿勢を含めて、地域との関係を総合的に把握する趣旨です」
「営業許可の判断にも使うんですか?」
「許認可の要件は、それぞれの法令に従います」
「じゃあ、この協力金を払わないことは、許可拒否の理由にはならない?」
「法令上の根拠なしに、そのような扱いはできません」
あれ。
そこは即答。
やっぱり賢い。
「ですが」
沢渡課長が続けました。
「行政指導を行う際に、地域協力の実情を把握することまで禁じられているわけではありません」
私は黙りました。
言葉の隙間。
そこに、役所の逃げ道が残されています。
許可拒否とは言わない。
強制徴収とも言わない。
ただ、協力しない店の名前は残る。
地元には、全員が払うのが当然という空気が生まれる。
役所が命令しなくても。
誰も逆らえなくなる。
「納付対象は、どうやって決めたんです?」
私は尋ねました。
「駅前商業区域の事業者です」
「区域の線引きは?」
「事業実施要領によります」
「その要領には、どう書いてあります?」
沢渡課長が書類を取り出しました。
そして読み上げます。
「駅前環境整備事業によって相当の利益を受けると認められる事業者を対象とする」
「相当の利益……?」
「ええ」
「それ、誰が判断するんですか」
「担当部局です」
「どれくらい利益があれば、相当なんです?」
「個々の実情に応じて判断します」
「じゃあ、駅前通りから一本入った裏道のお店は?」
「対象となる場合があります」
「二本入ったところは?」
「事情によります」
「三本なら?」
「朝比奈さん」
「はい」
「具体的な地理的条件を確認しないまま、答えられる問題ではありません」
正論。
ものすごく正論。
でも。
ここで私は、妙な違和感を覚えました。
誰から取るのか。
なぜ取るのか。
いくら取るのか。
何を基準に決めるのか。
その答えが、どれも曖昧です。
しかも。
月三千円という金額だけは、はっきり決まっている。
私は通知を見つめました。
協力金。
任意。
公共の福祉。
市長決裁。
地域の受益。
言葉は並んでいる。
でも、本質は何なのでしょう。
このお金は。
本当に自由な意思で払う寄附のようなものなのか。
それとも。
名前だけを協力金にした、事実上の税金なのか。
帰り道。
私は珍しく、黙っていました。
駅前には、昭和の商店街が広がっています。
八百屋。
魚屋。
薬局。
文房具店。
小さな喫茶店。
どの店にも生活があります。
月三千円。
大きな会社なら、気にも留めない金額かもしれません。
でも。
宮田さんのうどん屋にとっては、何杯分の利益でしょう。
「おい」
相馬先輩が言いました。
「どうした」
「……難しいですね」
「何がだ」
「みんなのための事業って、反対しづらいんですよ」
「そうだな」
「しかも、協力金です。税金じゃないって言われたら……」
「税金じゃなきゃ何でもいいのか?」
「そうは思いません」
「だったら考えろ」
先輩が煙草の箱を指で叩きます。
「名前じゃねえ。中身だ」
名前じゃない。
中身。
その言葉で。
私の頭の中に、受験生時代のテキストが開きました。
憲法。
財政。
八十三条。
八十四条。
租税法律主義。
私は立ち止まりました。
「……あ」
「何だ」
「先輩」
「何だよ」
「憲法って、昭和六十三年でも同じですよね?」
相馬先輩が眉をひそめました。
「当たり前だろ」
「改正されてない」
「されてねえな」
「一字一句?」
「お前、何を言ってる」
そうでした。
日本国憲法。
昭和二十一年公布。
昭和二十二年施行。
私が生きていた令和の時代まで、
一度も改正されていません。
条文は同じ。
昭和でも。
令和でも。
全く同じ。
「……あるじゃないですか」
私は呟きました。
「何が」
「金庫の鍵です」
「は?」
「国や自治体がお金を集めるとき、勝手に鍵を開けちゃいけないっていう原則です!」
相馬先輩が私を見ました。
そして。
「……帰るぞ」
「ええっ?」
「所長に話せ」
「もうちょっと反応してくださいよ!」
「分かる言葉で話せ!」
はい。
興奮すると説明が飛ぶ。
未来人の悪い癖です。
事務所へ戻ると、私は憲法の六法を開きました。
「所長!」
「何だ」
「八十三条です!」
片桐所長が顔を上げました。
「読め」
私は声に出しました。
「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」
財政民主主義。
国が税金を集める。
国が予算を使う。
国債を発行する。
公共事業を行う。
その財政活動は、国民の代表者で構成される国会の統制を受ける。
国のお金は、政府の私物ではない。
だから、国会の議決が必要になる。
「それで?」
所長が促しました。
「八十四条です」
私は次の条文を指しました。
「新たに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする」
相馬先輩が椅子へ腰を下ろします。
「租税法律主義か」
「はい!」
私は頷きました。
「税金を取るには、法律上の根拠が必要です。総理大臣が勝手に新税を作れないように、市長だって独断で税金を作れるわけじゃありません」
「ただし」
片桐所長が言いました。
「今の話は市の財政だ」
「あ」
「憲法八十三条は、直接には国の財政について定めた条文だ。地方税の話なら、地方自治の仕組みも見なければならん」
「……九十二条と九十四条」
「そうだ」
地方公共団体にも自治権があります。
地方税については、憲法の地方自治に関する規定と地方税法に基づき、地方議会の議決による条例で定める仕組みがある。
だから。
地方税だから必ず国会が税率を一つ一つ決めなければならない、というわけではありません。
でも。
市長が思いついたから、
明日から全員三千円。
という話にもならない。
「つまり」
私は言いました。
「市の財政だって、民主的な手続を飛ばせない」
「そういうことだ」
ここで片桐所長は、一本の鉛筆を机に置きました。
「だが、まだ足りん」
「え?」
「沢渡課長は何と言った」
「協力金は税ではない、と」
「そうだ」
所長が頷きました。
「税でなければ、八十四条の租税法律主義をそのまま適用して終わり、とは言えん」
私は黙りました。
そうです。
課長は、そこを分かっている。
役所だって寄附や任意の協力金を受け取ることはあります。
また、特定の行政サービスに対する手数料や、施設利用の対価としての使用料という制度もある。
お金を徴収する制度が、全部税金になるわけではない。
「じゃあ、どうすれば……」
私が呟くと、相馬先輩が笑いました。
「決まってんだろ」
「何がです?」
「実態を調べるんだよ」
先輩が指を三本立てました。
「誰から取る」
「駅前区域の事業者」
「何の対価だ」
「道路や街灯の整備です。でも、お店ごとに何かを利用した対価ではありません」
「払わなかったら」
「不利益を受けると思わせている」
「だったら」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「まず、本当に任意なのかを徹底的に確かめろ」
私は頷きました。
そして所長が、もう一つ言いました。
「課税要件だ」
「……はい?」
「もし実質が租税なら、誰に、何について、どんな基準で、いくら課すのか。そこが法的に定められていなければならん」
私は手元の実施要領を見ました。
――相当の利益を受けると認められる事業者。
相当。
認められる。
担当部局が判断。
「……曖昧ですね」
「そうだ」
「これじゃ、誰が対象なのか、役所の判断で変わってしまいます」
「そこも問題になる」
所長が静かに言いました。
「法律で決めなければならないことを、役所の自由な判断に丸投げしてはいけない」
私はペンを握りました。
課税要件法定主義。
課税要件明確主義。
受験生だった私には、
名前が似ていて面倒くさい二つの原則。
それが今。
宮田さんの三千円を守るための、具体的な武器になろうとしていました。
「所長」
「何だ」
「意見書を書きます」
「何について」
「協力金という名前だけじゃなく、実態を確認すべきだということです」
「続けろ」
「任意なら、納付しない自由があるはずです。行政指導や許認可で不利益を示唆して、事実上強制するのはおかしい」
「うん」
「逆に、負担を義務づけるなら、その法的根拠と手続が必要です」
「うん」
「実質的な租税であるなら、地方税法と条例の根拠が問題になる。徴収対象も、役所が好きに決められるものじゃありません」
所長が頷きました。
「それでいい」
相馬先輩が立ち上がりました。
「よし。明日は窓口だ」
「まだ書いてません!」
「今日中に書け」
「無茶ですよ!」
「法律は待ってくれねえぞ」
「先輩、それ言えば何でも通ると思ってません?」
「思ってる」
「堂々と言わないでください!」
翌日。
市役所総務課。
沢渡課長の机の上に、一通の意見書が置かれました。
題名。
――駅前環境整備協力金制度の法的性質及び運用に関する意見書。
片桐行政書士事務所。
相談者からの委任に基づいて作成した、法的問題点を整理した書面です。
裁判ではありません。
違憲訴訟でもありません。
私たち行政書士には、法廷で訴訟代理をする権限はありません。
でも。
役所が法令に反する運用をしようとしているなら、
その問題を文書で指摘することはできます。
必要な申請書類や資料を整え、行政庁に適法な判断を求める。
それが、私たちの仕事です。
「……憲法第八十四条ですか」
沢渡課長は意見書を読みながら言いました。
「しかし、本件は税ではないと説明したはずです」
「承知しています」
片桐所長が答えました。
「だから、税であると断定した書面にはしていません」
沢渡課長の目が止まりました。
「では?」
「二つの可能性を整理しています」
所長が指を置きました。
「第一に、本件が任意の協力金である場合」
私は頷きました。
そこは、昨日何度も書き直した箇所です。
「課長」
私は言いました。
「本当に任意なら、宮田さんが払わなくても、営業上の許認可や行政指導で不利益に扱われないと明示してください」
「先ほど申し上げたとおり、法令上の根拠なしに許可を拒否することはありません」
「では、この文章は削除できますよね」
私は通知の末尾を指しました。
――納付状況については、各種営業関係申請等の行政指導に際し、参考とする場合があります。
「これがあると、普通の人はどう思うでしょう」
「……」
「払わないと、あとで役所に睨まれる」
沢渡課長は黙っていました。
「それって、本当に自由な協力ですか?」
「行政指導の一環として協力を求めること自体は、直ちに違法ではありません」
「はい。そこは争っていません」
私は答えました。
「問題は、断る自由が実質的に残っているかです」
相馬先輩が続けます。
「うどん屋のおばちゃんに、市役所から『今後の申請で参考にします』って紙が来たら、どう思う?」
「……」
「払わなきゃ商売がやりにくくなると思うだろ」
沢渡課長は意見書をめくりました。
「第二の可能性は?」
片桐所長が答えました。
「この協力金が、名称にかかわらず、事業者に義務として課される公租公課に当たる場合です」
室内の空気が変わりました。
「本件が租税に当たるかどうかは、徴収の実態をさらに検討する必要があります」
所長の声は静かでした。
「ただし、仮に税として構成するのであれば、地方税法に基づく条例上の根拠を欠いたまま課すことはできません」
沢渡課長は頷きました。
「それは承知しています」
「市長決裁だけでは足りない」
「税であれば、そうでしょう」
「そして、誰に課すか、何を課税の対象とするか、どんな基準で金額を決めるかについても、適法な定めが必要になる」
私は意見書の次の箇所を開きました。
「課長。実施要領には『相当の利益を受けると認められる事業者』とあります」
「ええ」
「利益が相当かどうかは、誰が判断するんですか?」
「担当部局です」
「基準は?」
「区域、業種、事業との関連性などを勘案します」
「それを定めた文書はありますか?」
「……内部の運用資料はあります」
「対象者が事前に、自分に納付義務があるかどうか判断できる程度に明確ですか?」
沢渡課長は答えませんでした。
代わりに、意見書の一文をじっと見つめています。
私はそこを読み上げました。
「租税として義務づける場合には、課税要件について、法律及び適法な委任に基づく規範による根拠と、明確な基準が必要となる」
課税要件法定主義。
課税要件明確主義。
税金を取る側が、その場の判断で好き勝手に対象や金額を変えられないようにするための原則です。
「そして」
私は続けました。
「この協力金を新しい市税として導入するなら、市長だけで決めるわけにはいきません」
沢渡課長がこちらを見ました。
「地方議会の議決を経る条例が必要だと?」
「はい。地方税法の仕組みに従ってです」
「そう簡単な話ではありません。新税については国との関係もあります」
「もちろんです」
私は頷きました。
地方税の新設には、地方税法上の枠組みや、税の種類に応じた手続があります。
特に法定外の税を新しく設けようとするなら、それに応じた法定の手続も問題になります。
「だからこそです」
私は言いました。
「簡単にできないことを、協力金という名前にすれば簡単にできる、という話にはなりません」
沢渡課長の指が止まりました。
私は一度息を吸いました。
「憲法八十三条は、国の財政を国会の議決に基づいて処理するという原則を定めています」
「ええ」
「八十四条は、租税を課したり変更したりするための法律上の根拠を求めています」
「ええ」
「地方公共団体についても、地方自治の保障と地方税法の仕組みを通じて、住民代表による統制が必要です」
沢渡課長は黙って聞いていました。
「町を綺麗にする目的は、否定しません」
「……」
「でも、そのためのお金を誰から、どんな基準で集めるかは、行政が好きに決めていい問題ではありません」
私は意見書に手を置きました。
「これが、財政民主主義ですよね」
沈黙。
しばらく誰も話しませんでした。
そのとき。
相馬先輩が、いつもの調子で言いました。
「課長」
「何でしょう」
「町の和ってのは便利だな」
「……」
「みんなが払うから、お前も払え」
「……」
「払わなきゃ町のためにならない」
「……」
「で、結局その金を集める権限は誰が持ってるんだ?」
沢渡課長の目が細くなりました。
相馬先輩は続けます。
「世間の常識?」
「……」
「商工会の空気?」
「……」
「市長の思いつき?」
そして。
「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」
その一言が、妙に静かに響きました。
沢渡課長は、怒りませんでした。
言い返しもしませんでした。
ただ。
ゆっくりと、実施要領を読み直しました。
「片桐先生」
「はい」
「一点、確認させてください」
「どうぞ」
「今回の意見書は、この協力金が当然に違憲であると主張するものではありませんね」
「そうです」
片桐所長は即答しました。
「任意の協力金という制度そのものを、否定しているわけではありません」
「では、何を問題視しているのですか」
「任意と説明しながら、納付しない場合の不利益を示唆していること。そして、徴収対象の基準が曖昧なまま、負担を事実上義務づける運用になっていないかという点です」
所長が続けました。
「実質的な租税徴収に当たるなら、租税法律主義との関係を避けられません。任意の協力金なら、任意であることを徹底すべきです」
沢渡課長は小さく息を吐きました。
「……なるほど」
その声で分かりました。
届いた。
感情論ではなく。
役所が実際に負う法的リスクとして。
届いたのです。
「法務担当と商工観光課に、運用を再確認させます」
沢渡課長が言いました。
「対象区域の定めも含めて?」
「ええ」
「納付しない事業者の扱いも?」
「当然です」
私は思わず身を乗り出しました。
「では、宮田さんは――」
「朝比奈さん」
沢渡課長が遮りました。
「まだ結論は出していません」
「……はい」
「ただし」
課長は意見書を机に揃えました。
「徴収の任意性に疑義を生じさせる通知表現については、放置すべきではないと考えます」
そして、庁内電話に手を伸ばしました。
「実施要領と通知文の再点検を指示します。来月からの徴収開始についても、その結果が出るまで延期する方向で調整します」
私は固まりました。
相馬先輩が、口元を少し緩めました。
「早い判断だな」
「問題のある制度を開始してから修正するより、開始前に確認するほうが合理的です」
沢渡課長が答えました。
いつもの顔。
いつもの声。
でも。
さっきまで動かなかった行政の判断が、
確かに動き始めていました。
五日後。
宮田さんが、事務所へ飛び込んできました。
「先生!」
「どうしました?」
「これ!」
差し出されたのは、市役所から届いた新しい通知でした。
私は受け取ります。
――駅前環境整備協力金の実施について。
そこには、こう書かれていました。
協力金の徴収開始を延期すること。
制度の法的性質及び負担のあり方について再検討すること。
協力は任意であり、納付しないことのみを理由に、許認可その他の行政上の不利益な取扱いをしないこと。
そして。
従前の納付案内は撤回すること。
「……やりましたね」
私は思わず呟きました。
宮田さんが頷きます。
「商工会にも連絡が来たそうです」
「何と?」
「市が正式な説明会を開いて、整備費用の負担について改めて意見を聞くって」
私は片桐所長を見ました。
「所長」
「何だ」
「これって……」
「一歩前進だ」
所長は静かに答えました。
「協力金という仕組みがすべてなくなったわけではない。今後、適法な方法で負担を求める制度が設けられる可能性もある」
「はい」
「だが、今のまま徴収を始めることは止められた」
その通りです。
市の事業が消えたわけではありません。
駅前整備が中止されたわけでもありません。
街灯は必要です。
歩道も直したほうがいい。
そのお金を誰かが負担しなければならないことも変わりません。
でも。
だからといって、
役所が曖昧なルールで集めていいわけではない。
「宮田さん」
私は言いました。
「町の整備に協力しなくていい、という話ではないんです」
「はい」
「ただ、払わなければならないお金なら、きちんとした法的根拠が必要ですし、任意なら断る自由があるんです」
宮田さんは少し考えてから、笑いました。
「それ、当たり前のことですよね」
「……そうですね」
「当たり前のことが、こんなに難しいんですねえ」
私は返事に詰まりました。
本当に。
法律を勉強していると、よく思います。
当たり前のことを当たり前に守るために、
どうしてこんなに分厚い法律が必要なのだろう。
でも。
今日、その理由が少し分かりました。
当たり前のことほど。
空気や権威で、簡単に壊されるからです。
その日の夕方。
宮田さんは、事務所に大きな鍋を持ってきました。
「……何ですか、これ」
私が尋ねると、宮田さんはにこにこ笑いました。
「うどんのおつゆです」
「え?」
「先生方にお礼をと思って」
鍋を開ける。
ふわり。
鰹と醤油の香り。
あ。
駄目です。
これは駄目です。
お腹が鳴ります。
「うどんも持ってきましたよ」
宮田さんが包みを広げました。
相馬先輩が一番に立ち上がります。
「おお、ありがてえ!」
「先輩、早い!」
「礼は素直に受け取るもんだ」
「さっきまで煙草吸ってたでしょう!」
「腹は別だ」
片桐所長が咳払いしました。
「相馬」
「はい」
「器を出せ」
「所長まで!」
どうやら、今日の事務所は法律事務所から食堂に転職するらしいです。
私は湯気の立つうどんを受け取りました。
丼の中には、
刻んだ葱。
薄い蒲鉾。
それから、小さな油揚げ。
一口。
「……おいしい」
思わず声が漏れました。
宮田さんが嬉しそうに笑います。
「よかった」
「これ、二百八十円なんですか?」
「かけうどんですから」
「安すぎません?」
「昔からのお客さんが多いから、なかなか上げられなくて」
その言葉に、私は少しだけ胸が詰まりました。
三千円。
数字だけなら、小さな額です。
でも。
宮田さんは、その三千円を稼ぐために、
何杯のうどんを作るのでしょう。
何本の葱を刻み、
何杯の出汁を取り、
何人のお客さんに頭を下げるのでしょう。
税金というのは。
帳簿の数字ではありません。
誰かが働いて得たお金です。
だからこそ。
国も自治体も、
必要だからといって好き勝手に取れない。
そこには、民主的な正当性が要る。
国会。
地方議会。
法律。
条例。
徴収対象。
税率。
手続。
どれも堅苦しい言葉です。
でも。
その堅苦しさが、
一人のうどん屋さんの財布を守ることがある。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「今日の件で、何を学んだ」
私は箸を止めました。
「……名前に騙されないことです」
「うん」
「協力金と言っても、本当に任意なのかを見る」
「うん」
「税金として取るなら、法律や条例の根拠が要る」
「そうだ」
「それから」
私は少し考えました。
「お金の集め方も、民主主義の問題なんだってことです」
所長が頷きました。
「忘れるな」
「はい」
「財政は、権力の問題でもある」
私は顔を上げました。
所長は続けました。
「金を集め、使う権限を誰が持つか。それを誰が統制するか。そこを曖昧にすれば、行政は際限なく強くなる」
私は黙って聞きました。
「だから憲法は、財政についても権力を縛っている」
権力を縛る。
憲法の役割。
国民の自由を守る。
行政の権限を制限する。
権力の暴走を防ぐ。
それは、表現の自由や営業の自由のような場面だけではありません。
お金の問題でも、同じです。
むしろ。
お金の問題だからこそ、
権力を縛る必要がある。
「昔の私は」
私は呟きました。
「憲法って、実務であまり使わないと思ってました」
相馬先輩が顔を上げます。
「馬鹿だな」
「直球すぎません?」
「今日使っただろ」
「はい」
「憲法を持ち出したから、市役所が全部負けたわけじゃねえ」
「はい」
「憲法を土台にして、法律や制度のどこが問題なのか突きつけた。だから向こうも検討せざるを得なくなった」
私は頷きました。
そうです。
ただ、
違憲だ!
と叫べば勝てるわけではありません。
最高法規という伝家の宝刀は、
むやみに振り回すものではない。
何が憲法上の問題なのか。
どの法律に、どんな根拠が必要なのか。
どんな運用が許されないのか。
そこまで詰めて初めて、
役所の判断を動かす力になる。
「所長」
「何だ」
「憲法って、すごいですね」
「今さらか」
「はい。今さらです」
私は笑いました。
窓の外では、駅前の街灯が灯り始めています。
あの街灯を増やすには、お金がかかる。
歩道を直すにも、お金がかかる。
町を良くするには、誰かが負担しなければならない。
でも。
その負担の決め方まで含めて、
民主主義なのです。
私は、空になった丼を見つめました。
憲法八十三条。
財政民主主義。
憲法八十四条。
租税法律主義。
覚えにくい言葉でした。
受験生だったころは、
財政の章なんて、正直あまり好きではありませんでした。
税金。
予算。
国会の議決。
数字ばかり。
地味です。
でも今日。
その地味な条文が、
うどん屋さんの生活を守るために働きました。
私は、そっと呟きました。
「……税金は、役所の財布じゃない」
所長がこちらを見ます。
「何だ」
「今日の教訓です」
私は少し笑いました。
「お金を集める権力にも、法律の鍵が必要なんですね」
所長は小さく頷きました。
「そうだ」
そのとき。
相馬先輩が丼を置きました。
「こはる」
「はい」
「もう一杯」
「……は?」
「うどん」
「自分でよそってください」
「見習いだろ」
「行政書士見習いです!」
「所長」
相馬先輩が振り返ります。
「こはるに給仕を命じる権限はありますか」
所長は平然と答えました。
「ない」
「えっ」
私が驚いた瞬間。
「ただし、頼むことはできる」
「……所長?」
「こはる。おかわりを頼む」
私は腕を組みました。
「任意ですか?」
「任意だ」
「断っても不利益はありませんね?」
「ない」
「じゃあ、断ります」
相馬先輩が吹き出しました。
「お前、今日の勉強をそこで使うな!」
「使える知識は使います!」
片桐所長は少しだけ口元を緩めました。
「相馬」
「はい」
「自分でよそえ」
「へいへい」
先輩が鍋を持ち上げます。
ところが。
「……所長」
「何だ」
「これ、鍋の底が見えてます」
「そうか」
「残りが少ないです」
「そうだな」
「誰が最後の一杯を食うか、決めないと」
私は即座に言いました。
「民主的に決めましょう!」
「多数決か?」
「はい!」
「三人だな」
「そうです!」
所長。
相馬先輩。
私。
三人のうち、二人が賛成すれば決まる。
これぞ民主主義。
ところが。
片桐所長が静かに言いました。
「そのうどんは、宮田さんが私たち三人にくださったものだ」
「はい」
「だから、多数決で一人に全部与えるのが適切とは限らん」
私は固まりました。
相馬先輩が笑いました。
「ほら、どうする。民主主義の先生」
「……公平に分けます」
「最初からそうしろ」
「はい……」
所長が立ち上がり、鍋を覗き込みました。
「三人分には足りるな」
「え?」
「少しずつなら」
相馬先輩が肩をすくめます。
「まあ、それでいいか」
私は思わず笑いました。
誰か一人が全部持っていくのではなく。
誰か一人に無理を押しつけるのでもなく。
みんなが納得できるように、決める。
もちろん。
国の財政は、うどんの鍋ほど単純ではありません。
予算の配分も。
税の負担も。
誰もが完全に満足する答えは、きっとありません。
だからこそ。
勝手に決めてはいけない。
決める権限と、その手続が必要なのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日、私たちが守ったのは、
月三千円という小さなお金でした。
でも。
その小さなお金の向こうには、
大きな原則がありました。
――国民の負担を、権力者の一存で決めてはならない。
憲法は、誰かの財布を勝手に開けるための鍵を、政府や役所に無制限には渡していません。
その鍵を管理するのは、
法律であり、
議会であり、
最後には、主権者である私たち自身なのです。
「こはる」
所長が言いました。
「はい」
「うどんが伸びる」
「あっ!」
私は慌てて箸を取りました。
憲法の最高法規性は、
今日も確かに強かった。
ただし。
伸びてしまったうどんを元に戻す力までは、
さすがの憲法にもないようでした。
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