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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 統治

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420/614

[憲法・違憲審査権]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 憲法違反だと思ったら、最高裁判所へ。


 そんな便利な制度があれば、世の中の理不尽はもう少し簡単に片付くのかもしれません。


 でも。


 裁判所は、憲法について何でも答えてくれる相談所ではありません。


 裁判所が向き合うのは、教科書の問題ではなく、現実に起きた事件です。


 そして。


 その事件を解決するために必要なとき、憲法という最高法規が姿を現す。


 私は今日、その意味をようやく理解しました。



 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 窓の外では、商店街の街灯が一つずつ灯り始めています。


 市民会館で開かれた三浦美津子さんの展示会。


 市政批判を含む新聞を展示するという理由で、当初は利用を拒否された事件です。


 市役所は、


 公共の福祉。


 地域秩序。


 地元の和。


 そんな言葉を並べて、不許可にしました。


 けれど、私たちが憲法二十一条や十四条を根拠に法的意見書を提出すると、判断は見直されました。


 最終的には使用が許可され、展示会も無事に開催。


 市の再整備計画に賛成する人と、反対する人が、同じ展示を見ながら話し合う光景まで生まれました。


 めでたし、めでたし。


 ……で終われば、物語としては綺麗です。


 ですが。


 行政書士受験生としては、まだ終われません。


「相馬先輩」


「何だ」


「今日は憲法八十一条です」


「また始まったか」


「始まります」


 私は机にノートを広げました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート。


 と書いてあります。


「この前の事件、実は八十一条の勉強としては、かなり重要だったんですよ」


「ほう」


「最高裁に訴えれば何とかなると思っていた私が、根本的に間違っていたという話なので」


「自覚があるなら結構だ」


「先輩、もう少し優しく指導できません?」


「憲法に優しく指導する義務が書いてあるなら考えてやる」


「そんな条文ありません!」


 奥の机で帳簿をつけていた片桐所長が、静かに言いました。


「朝比奈」


「はい」


「始めろ」


「はい!」


 こうして。


 片桐行政書士事務所の、夕方の憲法講座が始まりました。



 まず、ノートの一番上。


 日本国憲法第八十一条。


 私は条文集を開きました。


『最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。』


「ここです」


 私は赤ペンで線を引きました。


「違憲審査権」


「どういう権限だ」


 相馬先輩が聞きます。


「法律や命令、規則、処分が、憲法に適合しているかどうかを審査する権限です」


「何のためにある」


「憲法が最高法規だからです」


 私は次のページを開きました。


 憲法九十八条。


 憲法は、国の最高法規です。


 つまり。


 国会が作った法律でも。


 内閣が作った政令でも。


 行政機関が作った規則でも。


 憲法に反することは許されません。


「じゃあ、国会が全員賛成で決めた法律ならどうだ?」


 相馬先輩が聞きました。


「全員賛成でも、憲法に違反する法律なら問題になります」


「民主的に決めたのに?」


「はい」


「国会は国権の最高機関だろ?」


「そうです。でも、憲法より上にいるわけではありません」


 ここが大事です。


 国会は、国権の最高機関。


 法律を制定する唯一の立法機関。


 それでも。


 国会の作った法律が、憲法に違反することはあり得ます。


 多数決で決めたから、何をしてもいい。


 そんな話にはなりません。


「つまり」


 私は言いました。


「民主主義にも、憲法という限界があるんです」


 片桐所長が頷きました。


「多数決で奪ってはいけないものがある」


「はい」


 例えば。


 表現の自由。


 信教の自由。


 法の下の平等。


 財産権。


 選挙権。


 多数派が気に入らないからというだけで、少数派の権利を奪うことはできません。


 三浦さんの事件も、そうでした。


 地元の有力者が反対している。


 市の計画に批判的だ。


 だから市民会館を使わせない。


 そんな判断が無制限に認められるなら。


 憲法二十一条の表現の自由は、人気のある意見しか守れなくなってしまいます。


「なるほどな」


 相馬先輩が腕を組みました。


「じゃあ、八十一条があるから、憲法違反だと思った法律は何でも最高裁に持ち込めるんだな?」


「いいえ!」


 私は即答しました。


「そこが今回の最大の罠です!」



 私はノートに、大きく二つの言葉を書きました。


 ――付随的違憲審査制。


 ――抽象的違憲審査制。


「まず付随的違憲審査制です」


 相馬先輩が嫌そうな顔をしました。


「名前が長えな」


「法律用語ですから」


「短くしろ」


「無理です」


 私は説明を続けました。


「付随的違憲審査制というのは、具体的な事件が裁判所に持ち込まれて、その事件を解決するために必要な場合に、法律や処分の憲法適合性を審査する仕組みです」


「具体的な事件?」


「はい」


 私は三浦さんの事件を思い出しました。


 三浦さんは、市民会館を使いたかった。


 申請した。


 不許可になった。


 その結果、展示会を開けなくなった。


 ここには、具体的な権利利益の争いがあります。


「もし市役所が最後まで不許可を維持していたら、三浦さんはどうする?」


 相馬先輩が聞きました。


「不服申立てなどの手続を検討したうえで、要件が整えば、弁護士に依頼して不許可処分の取消訴訟などを提起することが考えられます」


「そこで憲法違反を主張するのか」


「はい。ただし、訴訟の目的は、抽象的に憲法の解釈を教えてもらうことではありません」


 私はノートに書きました。


 ――具体的な不許可処分を争う。


「その処分が違法かどうかを判断する過程で、必要になれば憲法二十一条などの問題も審査されるわけです」


「そういうことだ」


 片桐所長が言いました。


「では、抽象的違憲審査制は?」


「具体的な事件がなくても、法令そのものが憲法に適合しているかを審査する制度です」


 例えば。


 ある法律を読んで、


 この法律は表現の自由を侵害していると思う。


 だから、まだ誰も具体的な不利益を受けていないけれど、裁判所に違憲かどうかを判断してほしい。


 そんな形です。


「日本では?」


 相馬先輩が聞きました。


「原則として、できません」


「なぜだ」


「日本の裁判所は、具体的な法律上の争訟を離れて、抽象的に法令の合憲性を判断する機関ではないからです」


「判例は?」


 来ました。


 判例問題。


 私はノートをめくりました。


「昭和二十七年十月八日。警察予備隊違憲訴訟です」


「説明してみろ」


「当時、警察予備隊の設置などが憲法に違反するとして、具体的な個人の権利侵害に関する紛争とは切り離して、違憲判断を求めた事件です」


 私は赤ペンで丸をつけました。


「最高裁判所は、具体的な法律上の争訟がないのに、抽象的に法令の憲法適合性を判断する権限はないという立場を示しました」


「つまり?」


「最高裁判所は、何でも憲法違反かどうか答えてくれる相談所ではない!」


 相馬先輩が頷きました。


「ようやく覚えたな」


「痛いほど覚えました」


 本当に。


 三浦さんから最初に相談を受けたとき。


 私は、


 市民会館の規則が憲法違反なんだから、最高裁に判断してもらえばいい。


 と考えました。


 でも、それでは駄目です。


 必要なのは、


 どんな具体的事件が起きたのか。


 誰のどんな権利利益が問題になっているのか。


 どのような救済を求めるのか。


 その整理です。


「つまり」


 私は言いました。


「日本の違憲審査は、事件が主役で、憲法判断はその事件に付随するんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「ただし、具体的な事件があれば必ず憲法判断をするわけでもない」


「はい」


 ここも重要です。


 裁判所は、憲法問題に踏み込まなくても、法律や条例の解釈によって事件を解決できる場合があります。


 その場合、あえて憲法判断を示さないこともある。


 三浦さんの事件なら。


 仮に訴訟になっても、施設の使用許可に関する条例の解釈や、不許可判断の合理性の問題として解決される可能性があります。


 つまり。


 憲法違反だと主張したからといって、必ず違憲判決が出るわけではない。


「……憲法って、思ったより慎重に使われるんですね」


「当然だ」


 相馬先輩が言いました。


「憲法は最後の砦だ。何でもかんでも憲法問題にする必要はねえ」



「次は、八十一条の文言です」


 私は条文を指しました。


 ――最高裁判所は。


「ここ、引っかけ問題になりそうですよね」


「何がだ」


「違憲審査権を持っているのは最高裁判所だけか、という問題です」


「どうなんだ」


「最高裁判所だけではありません」


 私は答えました。


「下級裁判所も、具体的な事件を審理する中で違憲審査を行えます」


「八十一条には最高裁判所って書いてあるぞ」


「はい。でも、下級裁判所に違憲審査権がないという意味ではありません」


 私は条文の最後を指しました。


 ――終審裁判所である。


「ここです」


 最高裁判所は、憲法適合性について最終的な判断をする権限を持つ裁判所です。


 けれど。


 地方裁判所。


 高等裁判所。


 そういった下級裁判所も、具体的な事件の審理で必要があれば、憲法問題を判断できます。


「例えば」


 私は言いました。


「三浦さんの件が取消訴訟になった場合、最初から最高裁判所に持ち込むわけではありません」


「そうだな」


「まず管轄のある裁判所で事件を争います。そこで憲法問題が審理されることもあります」


「最高裁判所は?」


「最終的な審査を行う立場です」


 私はノートに書きました。


 最高裁判所だけが違憲審査できる。


 ――誤り。


 下級裁判所にも違憲審査権がある。


 ――正しい。


「これは覚えやすいですね」


「油断するなよ」


 相馬先輩が言いました。


「まだ八十一条は終わってねえぞ」


「……嫌な予感がします」



 次。


 違憲審査の対象。


 私は条文を読み直しました。


 ――一切の法律、命令、規則又は処分。


「広いですね」


「ああ」


「法律だけじゃない」


「そうだ」


 国会が作る法律。


 行政機関が制定する命令や規則。


 そして。


 行政庁が行う個別具体的な処分。


「ここが三浦さんの事件に直結します」


 私は不許可通知の写しを取り出しました。


 ――市民会館展示室使用申請について、不許可とする。


「市が行った個別の不許可処分も、具体的な訴訟の中で憲法適合性が問題になる可能性があるんです」


「だから、規則だけじゃなく、処分の運用も大事なんだな」


「はい」


 どれほど立派な条例や規則があっても。


 その運用が、特定の人の表現だけを不当に制限していたら、問題になります。


「法律そのものは合憲でも、適用の仕方が違憲になることは?」


 相馬先輩が聞きました。


「あり得ます」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 法令そのものの問題。


 そして、法令を個別の事件に適用する行為の問題。


 両方あり得るのです。


「じゃあ、条文に書かれていないものは全部対象外か?」


「……違います」


 私は次の見出しを書きました。


 ――条約と立法不作為。


「ここが、試験ではかなり大切です」


 相馬先輩が眉を上げました。


「立法不作為?」


「国会が必要な法律を作らないことです」


「作った法律じゃなく、作らなかったことが問題になるのか?」


「そうなんです」


 法律を作る。


 その内容が憲法に反していれば問題になる。


 それは分かりやすい。


 でも。


 本来、国会が必要な立法措置を取るべきなのに、取らなかった。


 そのために、国民の憲法上の権利が侵害された。


 こういう場合も、憲法上の問題になり得ます。


「実際に判例があります」


 私は日付を書きました。


 昭和六十年十一月二十一日。


 在宅投票制度廃止事件。


「これは昭和六十三年の今、すでに存在する判例ですね」


「説明してみろ」


「以前は、一定の事情がある人について、投票所に行かずに投票できる制度がありました」


「ほう」


「ところが、不正利用などの問題から制度が廃止され、その後、同様の在宅投票制度が設けられない状態が続いたんです」


 私は続けました。


「その結果、歩行困難で投票所へ行けない人が、投票の機会を失いました」


「それで?」


「国会が制度を復活させなかったことが違憲だとして、国家賠償請求をしたんです」


 相馬先輩が腕を組みました。


「結果は?」


「請求は認められませんでした」


「どうしてだ」


「最高裁判所は、国会議員の立法行為について、国家賠償法上の違法性が認められるのは、原則として極めて例外的な場合だという立場を示したんです」


 私はノートに書きました。


 立法不作為が問題となることはある。


 しかし。


 立法をしなかったからといって、直ちに国家賠償責任が生じるわけではない。


「ここ、混同しやすいです」


「何と何だ」


「違憲かどうかの問題と、国家賠償法上の違法性の問題です」


 私は二つの言葉に線を引きました。


 憲法上、問題があるか。


 国家賠償責任を負うほどの違法性があるか。


 この二つは、同じではありません。


「つまり、憲法上の問題を指摘できても、すぐ賠償金がもらえるわけじゃねえと」


「そうです」


「世の中、そう甘くねえな」


「本当に」


 私はノートを見つめました。


 選挙権。


 民主主義の根幹です。


 それでも、立法不作為に対する国家賠償責任は、簡単には認められない。


 裁判所は、国会の立法活動について慎重に判断する。


 立法府と司法府の役割分担があるからです。


「でも」


 私は呟きました。


「だからといって、国会が法律を作らないことが、絶対に憲法審査の対象にならないわけじゃない」


「そこだ」


 片桐所長が言いました。


「できないことと、認められにくいことを混同するな」


「はい」


 これは、行政書士試験でも大切な区別です。


 対象にならない。


 対象にはなるが、請求が認められない。


 この二つは全く違います。



「次は条約です」


 私が言うと、相馬先輩が顔をしかめました。


「おい、まだあるのか」


「あります」


「八十一条、文字数のわりに面倒くせえな」


「それが憲法です」


 私はノートに、


 ――条約も違憲審査の対象になり得る。


 と書きました。


「憲法八十一条には、条約という言葉は直接出てきません」


「だな」


「でも、条約についても憲法適合性が問題となる場合があります」


「具体例は?」


「砂川事件です」


 私は日付を書きました。


 昭和三十四年十二月十六日。


 最高裁判所大法廷判決。


「日米安全保障条約に関わる事件ですね」


「ああ」


「最高裁判所は、高度の政治性を有する条約について、その内容が一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り、司法審査になじまないという趣旨の判断を示しました」


「つまり?」


「条約だから絶対に違憲審査できない、とは言っていません。ただし、高度に政治的な問題では、裁判所の審査が非常に慎重になるんです」


 片桐所長が頷きました。


「統治行為論だな」


「はい」


 国家の統治に関する高度に政治的な問題について、司法がどこまで判断するか。


 ここには、権力分立との関係があります。


 裁判所が、国会や内閣の政治判断をすべて置き換えるわけではありません。


 でも。


 憲法の外に、何でも自由にできる聖域が存在する。


 そう単純な話でもありません。


「つまり」


 私はまとめました。


「違憲審査の対象は広い。でも、司法審査の具体的な範囲や判断の仕方には限界がある」


「そうだ」


 所長が短く答えました。



「次は、違憲判決の判例です!」


 私は勢いよく新しいページを開きました。


 相馬先輩が露骨に嫌そうな顔をしました。


「まだ続くのか」


「ここ、試験で大事なんです!」


「全部覚える気か?」


「もちろんです」


 私は判例一覧を書き始めました。


 ただし。


 ここで、私はペンを止めました。


「……あれ?」


「どうした」


「危ないところでした」


「何がだ」


「未来の判例まで書きそうになりました」


 そう。


 ここは昭和六十三年。


 まだ平成ではありません。


 現代の行政書士試験で学ぶ違憲判決の中には、この時代にはまだ存在しないものがたくさんあります。


 例えば。


 在外日本人選挙権訴訟。


 国籍法三条一項違憲判決。


 非嫡出子相続分差別違憲決定。


 再婚禁止期間違憲訴訟。


 これらは、まだ先の時代の判例です。


 だから、昭和六十三年の実務で使うことはできません。


「また未来の話か」


 相馬先輩が呆れました。


「危なかったです」


「お前、その未来癖を直せ」


「直したいです」


「今ある判例だけで考えろ」


「はい」


 私は改めて、昭和六十三年までの重要判例を書き出しました。


 まず。


 昭和四十八年四月四日。


 尊属殺重罰規定違憲判決。


「これは有名ですね」


「何が問題だった」


「自分の父母などの尊属を殺害した場合、通常の殺人罪より極端に重い刑罰を定めていた旧刑法二百条です」


 私は説明しました。


「最高裁判所は、尊属に対する尊重という立法目的自体は否定しませんでした。でも、刑罰の加重が著しく不合理で、憲法十四条に違反すると判断したんです」


「目的は分かるが、手段がやりすぎだったと」


「そうです」


 次。


 昭和五十年四月三十日。


 薬事法距離制限事件。


「薬局の開設に、既存の薬局との距離制限が設けられていた事件です」


「何が問題だ」


「職業選択の自由、憲法二十二条です」


 私はノートに線を引きました。


「薬局の乱立による弊害を防ぐという目的との関係で、距離制限という手段が必要かつ合理的かが争われました」


「結果は?」


「違憲です」


 最高裁判所は、距離制限による規制が、目的に照らして必要かつ合理的なものとはいえないと判断しました。


「これも目的と手段ですね」


「ああ」


「憲法の審査って、何となく不公平だから駄目、ではないんですね」


「そうだ」


 片桐所長が言いました。


「何を守ろうとしたのか。そのために何を制限したのか。ほかに方法はなかったのか。そこまで見る」


「はい」


 次。


 昭和五十一年四月十四日。


 衆議院議員定数不均衡訴訟。


 そして昭和六十年七月十七日の同種事件。


「一票の価値の平等が問題になった事件ですね」


「選挙区によって票の重みが違う問題か」


「はい」


 住んでいる場所によって、一票の価値が大きく異なる。


 それが憲法十四条などとの関係で問題になる。


 最高裁判所は、昭和五十一年判決や昭和六十年判決で、当時の定数配分規定について違憲の判断を示しました。


 ただし、選挙そのものを無効にするかは、別の問題になります。


「……え?」


 私は思わず顔を上げました。


「違憲なのに、選挙は無効にしない場合があるんですか?」


「ある」


 所長が答えました。


「違憲という判断と、具体的な救済方法は、必ずしも同じではない」


「……なるほど」


 ここも大事です。


 憲法違反だから、何もかも最初から全部なくなる。


 そんな単純な仕組みではありません。


 そして。


 昭和六十二年四月二十二日。


 森林法共有林分割制限事件。


「これは、つい去年の判例です」


 私は少し声を弾ませました。


 昭和六十三年の私にとって、本当に新しい判例です。


「共有林の持分が二分の一以下の共有者について、分割請求を制限していた森林法の規定が問題になりました」


「何の権利だ」


「財産権です。憲法二十九条」


 私は続けました。


「森林の細分化を防ぐという目的は理解できます。でも、共有者の権利を大きく制限する手段が合理的かどうかが問題になりました」


「結果は?」


「違憲です」


 昭和六十二年。


 つい一年前。


 最高裁判所は、森林法の分割制限規定を憲法二十九条二項に違反すると判断しました。


「これ、すごいことですよね」


 私は言いました。


「国会が作った法律でも、最高裁判所が憲法違反だと判断する」


「ああ」


「憲法が本当に最高法規なんだって実感できます」


 相馬先輩は頷きました。


「だが、そう簡単に違憲判決が出るわけじゃねえ」


「そうですね」


 最高裁判所が法律やその規定を違憲と判断する事例は、多くありません。


 それだけに。


 一つ一つの判例が、憲法の考え方を学ぶうえで非常に重要になります。



「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「お前、さっきから違憲判決を随分ありがたがってるな」


「だって、憲法の番人ですよ」


「じゃあ、違憲判決が出なければ憲法には意味がねえのか」


「……え?」


 私は止まりました。


「三浦さんの件はどうだった」


「……市役所が処分を見直しました」


「裁判になったか?」


「なっていません」


「違憲判決は?」


「出ていません」


「じゃあ憲法は役に立たなかったのか?」


 私は首を横に振りました。


「いいえ!」


「だろ」


 そうです。


 三浦さんの事件。


 最高裁判所は登場していません。


 地方裁判所も登場していません。


 違憲判決も出ていません。


 それでも。


 憲法二十一条の表現の自由。


 憲法十四条の平等原則。


 そして、行政の処分も司法審査の対象となり得るという憲法上の仕組み。


 それらが、市役所の判断を見直すための法的根拠になりました。


「つまり」


 私は言いました。


「違憲審査権って、実際に裁判所が行使する場面だけが重要なんじゃないんですね」


「そうだ」


「裁判所による審査の可能性があるからこそ、行政も普段から憲法を守らなければならない」


「そのとおりだ」


 片桐所長が言いました。


「憲法は、裁判所に持ち込んで初めて効力を持つものではない」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 憲法は、裁判になる前から国の最高法規。


 行政にも立法にも、憲法を尊重し、守る責任がある。


「じゃあ」


 私は言いました。


「行政書士が憲法を勉強する意味って、ここにあるんですね」


「どういう意味だ」


「私たちは違憲判決を出せません。裁判所で訴訟代理もできません。でも、行政が憲法に反するような判断をしようとしたとき、その問題を法的に指摘して、適法な判断を求めることはできる」


「そうだ」


 所長が頷きます。


「ただし、憲法論だけで役所が動くと思うな」


「はい」


「事実を調べる。根拠法令を確認する。行政の判断過程を検討する。そのうえで、憲法との関係を考える」


「はい」


「順番を間違えるな」


 私は頷きました。


 これが現場です。


 最初から、


 憲法違反だ!


 と叫ぶだけでは、何も進みません。


 三浦さんの事件でも、私たちは調べました。


 どんな展示を予定していたのか。


 なぜ不許可になったのか。


 ほかの展示会は許可されているのか。


 具体的な危険はあったのか。


 市は代替的な対応を検討したのか。


 そうした事実を積み重ねたからこそ、意見書に説得力が生まれたのです。


「憲法って」


 私は呟きました。


「最後に抜く刀なんですね」


「そういうことだ」


 相馬先輩が笑いました。


「最初から振り回す奴は、だいたい自分で転ぶ」


「……私のことですね」


「自覚があって結構」



 私は最後の見出しを書きました。


 ――昭和六十三年と現代の違い。


「ここ、憲法の面白いところです」


 相馬先輩が首をかしげました。


「また未来か」


「今回はちゃんと区別します」


 私は条文集を持ち上げました。


「日本国憲法は、公布以来、一度も改正されていません」


「ああ」


「だから、昭和六十三年の憲法八十一条も、現代の八十一条も、一字一句同じです」


「なら、何が違うんだ」


「積み重なった判例と、社会の人権感覚です」


 私はノートに二本の線を引きました。


 昭和六十三年。


 すでに存在する違憲判決。


 尊属殺重罰規定。


 薬事法距離制限。


 衆議院議員定数不均衡。


 森林法共有林分割制限。


 そして現代。


 その後にも、新しい違憲判断が積み重ねられていきます。


 ただし、それらは今の昭和六十三年では、まだ未来の出来事です。


「例えば」


 私は言いました。


「平成十七年には、在外国民の選挙権をめぐる重要な最高裁判決が出ます」


「平成?」


「……未来です」


「またか」


「説明のためです!」


 私は慌てて続けました。


「外国に住む日本国民が国政選挙で投票できない制度について、憲法上の問題が争われるんです」


 将来の最高裁判所は、選挙権行使の機会を確保するために必要不可欠な立法措置を、正当な理由なく長期間怠る場合などには、例外的に国家賠償法上の違法性が認められ得るという判断を示します。


 そして、その事件では在外選挙制度に関する立法不作為の違憲性と国家賠償責任が認められました。


「昭和六十年の在宅投票制度廃止事件とは、結論が違うんだな」


「そうなんです」


「でも、憲法の条文は変わっていない」


「はい」


 私は頷きました。


 条文は同じ。


 でも、具体的な事件が違う。


 権利侵害の内容が違う。


 立法措置の必要性や、国会が対応しなかった事情も違う。


 さらに、社会の状況や判例法理も積み重なっていく。


 だから、同じ憲法を使っても、判断の内容が変わることがあります。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「時代が進んだから、昔の判例が全部間違いになるわけではない」


「はい」


「後の判例が前の判例をどう扱ったか。事案の違いは何か。それを見ろ」


「分かりました」


 私はノートに書きました。


 ――条文が同じでも、判例と社会状況によって憲法の具体的な意味は深まっていく。


 それにしても。


 憲法って、不思議です。


 法律の条文は、改正されることがあります。


 行政不服審査法も、行政事件訴訟法も、時代によって制度が変わります。


 でも日本国憲法は、条文が変わっていません。


 それなのに。


 表現の自由。


 平等。


 選挙権。


 財産権。


 それらをめぐる具体的な判断は、長い年月の中で積み重なっていく。


 憲法は動かない。


 でも。


 憲法が守る社会は、動き続けているのです。



「さて」


 私はノートを見直しました。


「今日のまとめです」


 相馬先輩が椅子の背にもたれました。


「やっと終わりか」


「大事なところだけ確認します」


 私は指を折りました。


「まず、憲法八十一条は違憲審査権を定めています」


「ああ」


「次に、日本は付随的違憲審査制を採用しています」


「具体的な法律上の争訟が必要だな」


「はい。抽象的に法令の合憲性だけを審査してもらうことは、原則としてできません」


「判例は?」


「昭和二十七年十月八日、警察予備隊違憲訴訟です」


「よし」


「そして、違憲審査権は最高裁判所だけのものではありません」


「下級裁判所も審査できる」


「はい。最高裁判所は終審裁判所です」


「対象は?」


「法律、命令、規則、処分。個別具体的な公権行為も含まれます。さらに、立法不作為や条約についても憲法適合性が問題となる場合があります」


「立法不作為の判例は?」


「昭和六十年十一月二十一日、在宅投票制度廃止事件です」


「結果は?」


「国家賠償請求は認められませんでした。ただし、立法不作為が憲法上の審査の問題になり得ないという意味ではありません」


 相馬先輩が頷きました。


「いいだろう」


 私は少し嬉しくなりました。


「では、最後に一行の覚え書きを書きます」


 ノートの一番下。


 赤ペンを持ちます。


 少し考えました。


 違憲審査権。


 付随的違憲審査制。


 具体的事件。


 終審裁判所。


 最高法規。


 全部入れたい。


 でも、一行です。


 私はゆっくり書きました。


 ――違憲審査は、抽象的な憲法相談ではない。具体的な事件を通じて最高法規を守る仕組み。


「長えな」


 相馬先輩が言いました。


「内容が大事です」


「もっと短くできねえのか」


「じゃあ、超短縮版」


 私は下に書き足しました。


 ――事件があって、必要なら憲法を審査する。


「それでいい」


 片桐所長が言いました。


 私はノートを閉じました。



 窓の外は、すっかり暗くなっていました。


 駅前の街灯。


 商店街の明かり。


 少し遠くには、市民会館の建物が見えます。


 あの建物では、三浦さんが自分の新聞を展示しました。


 市を批判する文章。


 それに反対する人の意見。


 どちらも、同じ町に暮らす人たちの声です。


 憲法は、誰か一人の意見を正解にするためのものではありません。


 権力が、気に入らない意見を不当に封じないようにする。


 多数派が、少数派の権利を勝手に奪わないようにする。


 そのための大切なルールです。


 そして、もし権力が一線を越えたなら。


 具体的な事件の中で、裁判所がその憲法適合性を審査し得る。


 私は今日まで、違憲審査権を単なる試験用語だと思っていました。


 付随的違憲審査制。


 抽象的違憲審査制。


 警察予備隊違憲訴訟。


 八十一条。


 全部、暗記項目。


 でも今は違います。


 市民会館を使えなかった三浦さん。


 新聞を読んで考えを変えた住民。


 法的意見書を読み、判断を見直した沢渡課長。


 そうした一人一人の姿が、条文の向こうに見えるようになりました。


「……所長」


「何だ」


「憲法って、裁判にならなくても人を守ることがあるんですね」


「ある」


「でも、裁判所による審査の仕組みがあるからこそ、その力が現場にも届く」


「そうだ」


 所長は帳簿を閉じました。


「覚えておけ」


「はい」


「行政書士の仕事は、違憲判決を取ることではない」


「はい」


「依頼人の問題を、法律に従って解決することだ」


 私は深く頷きました。


 憲法の番人は、最高裁判所。


 でも。


 人々の暮らしを守るために、憲法を意識しなければならないのは、裁判所だけではありません。


 行政庁も。


 国会も。


 そして、町の法律家も。


 それぞれの立場で、最高法規を尊重しなければならないのです。


「よし」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「帰るぞ」


「はい!」


 私はノートを鞄へ入れました。


 そこで、ふと気づきました。


「……先輩」


「何だ」


「今日の残業担当、私じゃありませんでした?」


「そうだな」


「でも、もう仕事終わってますよね?」


「ああ」


「じゃあ帰っていいんですね!」


「いいぞ」


 私は思わず笑いました。


「やった! 自由だ!」


 すると、片桐所長が静かに言いました。


「朝比奈」


「はい?」


「帰る前に、明日の相談資料を整理しておけ」


「……え?」


 机の上。


 新しい書類の山。


「……所長」


「何だ」


「これは、労働者の自由を不当に制約しているのでは?」


 相馬先輩が吹き出しました。


「また憲法か!」


「いや、だって!」


「じゃあ最高裁に訴えろよ」


「だから、具体的な事件が必要なんですって!」


「事件ならあるだろ。お前が帰れねえ」


「そんな雑な整理で裁判所が動くわけないでしょう!」


 片桐所長が書類を一枚差し出しました。


「朝比奈」


「はい」


「それは明日の午前中に整理すればいい」


「……え?」


「今日は帰れ」


 沈黙。


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩は、もう笑いをこらえきれていません。


「……所長」


「何だ」


「最初からそう言ってください!」


「お前が勝手に騒いだ」


「ぐうの音も出ません!」


 相馬先輩が腹を抱えて笑いました。


「憲法八十一条より先に、人の話を最後まで聞け!」


「はい!」


 私は鞄を肩にかけました。


 そして、今日のノートの最後を思い出しました。


 事件があって、必要なら憲法を審査する。


 でも。


 事件だと思っていたものが、そもそも事件ですらなかった。


 そんなこともあります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も最高裁判所の出番はありませんでした。


 それでいいのです。


 裁判所に行かずに済むなら。


 誰かの権利が守られるなら。


 それが、きっと一番いい。


 私は事務所の明かりを消しました。


 そして心の中で、もう一度だけ呟きました。


 ――憲法は、裁判になって初めて人を守るのではない。裁判にならない日常にも、最高法規は生きている。


 ……あ。


 一行の覚え書きが、また増えてしまいました。


 相馬先輩に見つかったら、きっと怒られます。


 でも。


 今日くらいは、二行でもいいでしょう。


 憲法八十一条。


 違憲審査権。


 私はようやく、その条文が守ろうとしているものを、少しだけ理解できた気がしました。

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