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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 統治

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419/614

[憲法・違憲審査権]現場編 「最高裁で違憲にしてもらえばいい」の罠。裁判所は憲法の相談所じゃない――具体的な事件から最高法規を突きつける、昭和の行政書士の戦い方

挿絵(By みてみん)


 憲法違反なら、最高裁判所が何とかしてくれる。


 そう思っていました。


 だって、日本国憲法第八十一条には、ちゃんと書いてあります。


 最高裁判所は、法律や命令、規則、処分が憲法に適合するかどうかを決定する権限を持つ。


 つまり、憲法の番人。


 国の偉い人が間違えたら、最高裁判所が正してくれる。


 なんて頼もしい制度でしょう。


 ただし。


 その番人には、少し厄介な性格があります。


 実際の事件がなければ、原則として憲法違反かどうかを判断してくれないのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 私は、その当たり前のようで恐ろしい仕組みを、一枚の不許可通知から思い知ることになりました。



「憲法違反なんでしょう? だったら最高裁判所に訴えてください!」


 朝から威勢のいい声が響きました。


 相談者は、三十二歳の女性。


 名前は三浦美津子さん。


 駅前商店街で小さな印刷屋を営みながら、地域の出来事を伝える手作り新聞を発行している人でした。


 新聞の名前は『こさい町だより』。


 月に一度。


 商店街の催し。


 町内会のお知らせ。


 学校の運動会。


 そして、ときどき市政への批判。


「今回、市民会館で展示会を開こうと思ったんです」


 三浦さんは机に申請書を置きました。


「町の写真と、昔の新聞記事を並べるんです。駅前再整備の話も取り上げて」


「いいですね」


 私は頷きました。


「それで、会館の利用許可を申請したら?」


「不許可になりました」


 紙を一枚、差し出されました。


 ――市民会館展示室使用申請について、不許可とする。


 理由。


 ――公共の福祉及び地域秩序の維持に照らし、施設の管理運営上、適当でないため。


「……公共の福祉?」


 私は思わず声に出しました。


 便利な言葉です。


 便利すぎて、嫌な予感しかしません。


「何を展示する予定だったんですか」


 三浦さんは新聞を広げました。


 見出しは、


『駅前再整備計画、本当に住民のため?』


 でした。


 内容を読む。


 市が進める駅前再整備。


 古い商店の立退き。


 移転費用の負担。


 公開された説明資料と、住民に伝えられた内容の食い違い。


 さらに、市議会での質疑を引用した記事。


「……これ、市役所に都合が悪そうですね」


「そうなんです」


「だから展示できない?」


「担当者に言われました。『市政批判を公共施設で展示すると、地元の和を乱す』って」


 私は固まりました。


 地元の和。


 昭和の最終兵器です。


 理由を問えば、地元の和。


 公平性を問えば、昔からの慣習。


 権利を主張すれば、みんなに迷惑。


 そして最後は、


 公共の福祉。


 憲法の言葉を使って、憲法上の権利を押さえ込む。


 なかなか高度な皮肉です。


「でも、ほかの展示会は許可されてるんです」


 三浦さんが続けました。


「去年、市の駅前再整備計画を紹介する展示会は開かれました。市の計画に賛成する商店会の催しも」


「つまり、賛成の展示はいいけど、批判は駄目?」


「そういうことです」


 相馬先輩が新聞を手に取りました。


「へえ」


 嫌な笑い方です。


「市民会館なのに、市を褒める市民しか使えねえのか」


「そうみたいです」


「だったら名前変えろよ。市長応援会館に」


「先輩、まだ断定しないでください」


「分かってるよ」


 三浦さんが身を乗り出しました。


「私、新聞で調べたんです。憲法八十一条ってあるでしょう?」


「はい」


「最高裁判所が憲法違反を決められるんですよね?」


「そうです」


「だったら、市民会館の規則を憲法違反だって判断してもらえばいいんですよね?」


 私は勢いよく頷きました。


「そうですね! そもそも市の運用自体がおかしいんですから、最高裁判所に――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「何を訴えるんだ」


「だから、市民会館の規則が違憲だって」


「その規則が違憲かどうかだけを、最高裁に聞きに行くのか?」


「ええ」


「誰の、どんな事件として?」


「……え?」


 私は止まりました。


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけます。


「お前、最高裁判所を何だと思ってんだ」


「憲法の番人です」


「それはそうだ」


「じゃあ」


「番人だからって、町の人間が『この決まり、憲法違反ですか?』って聞いたら、何でも答えてくれるわけじゃねえ」


 私は口を開けました。


 閉じました。


 もう一回開けました。


「……そうでした」


 思い出しました。


 憲法八十一条。


 違憲審査権。


 そして。


 付随的違憲審査制。


 日本の裁判所は、具体的な法律上の争訟を離れて、法律や規則が違憲かどうかだけを抽象的に審査する機関ではありません。


 有名な判例があります。


 昭和二十七年十月八日。


 警察予備隊違憲訴訟。


 最高裁判所は、具体的な法律上の争訟がないのに、抽象的に法令の合憲性を判断することはできないという立場を示しました。


 つまり。


 憲法違反っぽい規則を見つけた。


 だから最高裁判所に審査してもらおう。


 そんな仕組みではないのです。


「……先輩」


「何だ」


「私、完全に最高裁判所を憲法相談窓口だと思ってました」


「お前、行政書士試験の勉強やり直せ」


「今ものすごく反省してます」


 三浦さんが不安そうに言いました。


「じゃあ、憲法違反でも何もできないんですか?」


 その瞬間。


 片桐所長が顔を上げました。


「いいえ」


 短い声でした。


「三浦さんには、具体的な事件があります」


「具体的な事件?」


「市民会館の使用を申し込み、不許可とされた」


「はい」


「まず争うべきは、その不許可判断です」


 私は通知書を見ました。


 そうか。


 もう事件は起きている。


 抽象的に規則の合憲性を問う必要はない。


 実際に不許可とされた三浦さんがいる。


 使いたかった展示室がある。


 拒否された日付がある。


 示された理由がある。


 つまり。


 憲法違反を議論するための材料が、現実の行政処分として目の前に存在している。


 所長は続けました。


「朝比奈。仕事だ」


「はい!」


「まず事実を集めろ。憲法論はそのあとだ」



 市役所二階。


 総務課。


 私たちを迎えた沢渡課長は、不許可通知を見るなり小さく頷きました。


「市民会館の件ですね」


「はい」


 私は言いました。


「三浦美津子さんの展示室使用不許可について、理由を確認させてください」


「通知のとおりです」


「公共の福祉と地域秩序の維持、ですね」


「ええ」


 沢渡課長は淡々と答えます。


「今回の展示には、市政への批判的内容が多く含まれています。駅前再整備は地域の利害が対立している事業です。公共施設で一方の主張を展示すれば、混乱を招くおそれがあります」


「混乱というのは?」


「住民同士の対立です」


「具体的な危険は確認されていますか」


「地元関係者から反対意見が寄せられています」


「何件ですか」


「数件です」


「展示室の中で暴力沙汰が起きるという情報は?」


「そこまでの情報はありません」


「施設が破損する危険は?」


「現時点で具体的な情報はありません」


「利用定員や消防上の問題は?」


「申請内容を見る限り、ありません」


 私は手帳に書き込みました。


 反対意見はある。


 でも具体的な危険は確認されていない。


 相馬先輩が腕を組みます。


「じゃあ、市政批判そのものが問題なんじゃねえのか」


「そう単純ではありません」


 沢渡課長が即答しました。


「市民会館は公共施設です。特定の政治的立場の宣伝に利用されることについて、管理者として慎重になる必要があります」


「市の計画を紹介する展示会は開催されましたよね」


 私が聞きました。


「あれは市の事業説明です」


「賛成する商店会の展示は?」


「あちらは地域振興を目的とした催しです」


「三浦さんの展示も、地域の将来を考える催しですよね」


「主催者の目的だけで同一視はできません」


 なるほど。


 言い方は冷静です。


 単に「役所を批判するな」と言っているわけではありません。


 施設管理。


 政治的中立。


 利用者間の公平。


 地域秩序。


 いかにも行政らしい言葉が並びます。


 でも。


 私は聞かずにはいられませんでした。


「課長」


「何でしょう」


「政治的中立というのは、市に賛成する意見だけを展示することですか」


 沢渡課長の目が少し細くなりました。


「そうは申し上げていません」


「では、三浦さんだけ不許可にする理由は?」


「展示内容と、現在の地域情勢を総合的に判断しています」


「具体的に、どの展示物が、どのような支障を生じさせるんですか」


「そこは担当課で検討しています」


「検討記録はありますか」


「あります」


「施設管理上の支障と、展示内容への評価は、分けて検討されていますか」


 一瞬。


 課長の視線が私の手帳へ移りました。


「……確認が必要ですね」


 その返事で分かりました。


 この人は、決して無能ではありません。


 むしろ。


 危険なところを理解しているからこそ、慎重に言葉を選んでいます。


「朝比奈さん」


「はい」


「行政には施設管理上の裁量があります」


「承知しています」


「地元の対立が激しい時期に、紛争を拡大させないことも公共の福祉に関わります」


「はい」


「裁量判断が気に入らないからといって、直ちに憲法違反とはなりませんよ」


 正論です。


 悔しいくらい正論です。


 私は一瞬、言葉に詰まりました。


 昭和六十三年。


 世間の目。


 地元の和。


 波風を立てないこと。


 役所に睨まれないこと。


 この町では、それらが法律より強いように感じる瞬間があります。


 現代なら、市政批判は民主主義に不可欠な表現だ、と比較的自然に言えるでしょう。


 でも、この時代。


 地元の有力者を批判しただけで、商売上の付き合いまで壊れることがある。


 誰も口にしないだけで、みんな空気を読んでいる。


 憲法の条文は同じなのに。


 社会の空気が、あまりにも重い。


 私は通知書を握りしめました。


 そのとき。


「こはる」


 片桐所長が静かに言いました。


「憲法は変わったか」


「……え?」


「昭和六十三年と、お前が勉強してきた憲法は違うのか」


 私は顔を上げました。


 違いません。


 日本国憲法。


 昭和二十一年公布。


 昭和二十二年施行。


 そして現代に至るまで、一度も改正されていない。


 一字一句、同じ条文です。


 憲法二十一条。


 表現の自由。


 憲法十四条。


 法の下の平等。


 憲法八十一条。


 違憲審査権。


 そして憲法九十八条。


 最高法規。


 私は、ゆっくり息を吸いました。


「……変わっていません」


「なら、使え」


 所長はそれだけ言いました。


 私は手帳を閉じました。


「沢渡課長」


「何でしょう」


「もう一度、整理させてください」


 私は不許可通知を机に置きました。


「市民会館の管理上、利用制限が必要な場合があることは理解しています」


「ええ」


「ただし、制限の目的と手段には、合理的な関係が必要です」


「続けてください」


「今回、市が懸念しているのは、住民間の対立ですよね」


「そうです」


「では、その対立を防ぐために、三浦さんの展示会を全面的に不許可にする必要があるのでしょうか」


 沢渡課長は黙りました。


「例えば、警備上の注意事項を定める。会場内での迷惑行為を禁止する。必要に応じて職員が状況を確認する。そういった対応は検討されましたか」


「……そこまでは」


「それなら、展示内容を見て、反対意見が出そうだから使用させないという判断は、表現の自由を過度に制限していませんか」


 私は続けました。


「それに、市の計画を支持する展示は認められています」


「それぞれ事情が違います」


「もちろんです。だからこそ、その違いを具体的に説明する必要があります」


 沢渡課長の表情が変わりました。


 怒ったのではありません。


 計算を始めた顔です。


 法律上の危険。


 裁量判断の根拠。


 処分が争われた場合の見通し。


「朝比奈さん」


「はい」


「憲法違反だとおっしゃりたいのですか」


「違憲の疑いが強いと考えています」


 私は言いました。


「ただし、私たちが憲法違反を確定させるわけではありません」


「……ほう」


「最終的な司法判断は裁判所の仕事です。私たちは、今ここで、市に適法な判断を求めています」


 相馬先輩が、横でにやりと笑いました。


「そういうことだ」


 先輩が机を指で叩きます。


「世間の常識? 地元の和? 俺たちが守ってんのは法律だ」


 沢渡課長は眼鏡を直しました。


「法的意見書を提出するおつもりですか」


「はい」


 所長が答えました。


「不許可処分の憲法適合性を含め、判断の再検討を求めます」


 沢渡課長は、しばらく黙っていました。


 そして。


「書面を拝見しましょう」


 そう答えたのです。



 事務所へ戻ると、私はすぐに机へ向かいました。


 表題。


 ――市民会館展示室使用不許可処分に関する法的意見書。


 最初に整理したのは、三浦さんが実際に受けた不利益です。


 市民会館の使用を申請した。


 展示内容は市政への批判を含んでいた。


 市は公共の福祉と地域秩序を理由に不許可とした。


 一方、市の方針を紹介する展示や、これを支持する団体の催しには使用が認められていた。


 さらに。


 具体的な暴力や施設損壊の危険を裏づける事情は、現時点で示されていない。


「ここまでは事実ですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「次は法的評価です」


 私は憲法の条文を開きました。


 二十一条。


 表現の自由。


 十四条。


 法の下の平等。


 そして八十一条。


 違憲審査権。


「所長」


「何だ」


「ここに八十一条を入れたいです」


「どういう意味で」


「市の不許可処分も違憲審査の対象になり得る、ということを示したいんです」


「それなら書け」


「はい!」


「ただし」


 所長が赤鉛筆を取りました。


「行政書士が違憲判決を下すような文章にするな」


「……あ」


 危ない。


 またやりかけました。


「『憲法八十一条により、この処分は違憲である』では駄目ですか」


「駄目だ」


「ですよね」


「八十一条は、裁判所の違憲審査権を定めた条文だ。処分の違憲性を主張する根拠と、違憲性を判断する裁判所の権限を混同するな」


 私は大きく頷きました。


 つまり。


 市の不許可処分が表現の自由を不当に侵害しているのではないか。


 これは二十一条などの問題。


 その憲法適合性を、具体的な訴訟の中で裁判所が審査し得る。


 こちらが八十一条の問題。


 似ています。


 でも、役割は違います。


「じゃあ、こうですか」


 私は書き直しました。


 ――本件不許可処分は、憲法第二十一条が保障する表現の自由を制約するものであり、その必要性及び合理性について慎重な検討を要する。


 ――また、展示内容の政治的立場によって異なる取扱いがなされている場合には、憲法第十四条との関係も問題となる。


 ――行政庁の個別具体的な処分も、具体的な法律上の争訟において憲法適合性の審査対象となり得ることから、本件処分についても、将来の司法審査を見据えた適法性の再検討が必要である。


 相馬先輩が読んで、頷きました。


「いいんじゃねえか」


「本当ですか」


「ただ、長い」


「法的意見書なので」


「読む側のことも考えろ」


 所長が赤鉛筆を入れました。


 削る。


 削る。


 さらに削る。


 最終的には、論点が三つに絞られました。


 第一。


 市政批判という表現内容を理由として、公共施設の使用を制限することの憲法上の問題。


 第二。


 具体的な施設管理上の支障が明らかでないまま、全面的な不許可とする判断の必要性・合理性。


 第三。


 異なる政治的立場の展示会を、合理的理由なく不平等に扱っていないか。


 そして最後に。


 不許可処分の再検討を求める。


「所長」


「何だ」


「違憲って言葉、もっと強く書かなくていいんですか」


 所長は首を横に振りました。


「強い言葉ほど、雑に使うな」


「……はい」


「憲法は脅し文句ではない」


 その一言が、妙に胸に残りました。


 最高法規。


 だから強い。


 でも。


 強いからこそ、簡単に振り回してはいけない。


 法律上の根拠が積み重なったとき。


 事実が揃ったとき。


 行政が越えてはいけない一線が見えたとき。


 初めて抜く。


 それが、片桐所長のやり方なのです。



 三日後。


 私たちは市役所を再訪しました。


 沢渡課長は、法的意見書を最後まで読みました。


 途中、一度も口を挟みませんでした。


 読み終える。


 紙を揃える。


 そして、静かに言いました。


「なかなか厳しい指摘ですね」


 私は背筋を伸ばしました。


「事実関係に誤りがあれば、確認させてください」


「いいえ。そこは担当課の記録とも、おおむね一致しています」


「では」


「ただし、憲法違反だと直ちに認めるわけにはいきません」


 当然です。


 この人が、そんな簡単に折れるはずはありません。


「市民会館には、施設管理上の裁量があります」


「はい」


「公共の福祉に基づく一定の利用制限も否定されません」


「はい」


「問題は、その判断が合理的な範囲に収まっていたか、ということでしょう」


 私は頷きました。


「そのとおりです」


 沢渡課長は別の書類を取り出しました。


「実は、担当課に確認しました」


「……え?」


「不許可判断の検討記録です」


 机に置かれたのは、内部の決裁資料でした。


 もちろん、秘密の書類を勝手に見せてくれるわけではありません。


 課長が示したのは、説明可能な範囲の判断経過です。


「施設管理上の支障として挙げられていたのは、地元関係者からの反対意見でした」


「はい」


「しかし、具体的な危険性についての検討は十分ではありませんでした」


 私は息をのみました。


「それと」


 沢渡課長が続けます。


「展示内容そのものへの否定的評価と、施設管理上の支障の判断が、明確に区別されていませんでした」


 相馬先輩が腕を組み直しました。


「つまり?」


「市政批判を含む展示であることが、不許可判断に不適切な影響を与えた可能性があります」


 沢渡課長は、淡々と言いました。


 まるで会議資料を読み上げるように。


 でも。


 その言葉が、どれほど大きいか。


 私には分かりました。


 市役所が、自分たちの判断過程に問題があった可能性を認めたのです。


「課長」


 所長が言いました。


「処分はどうする」


「原処分を取り消す方向で、必要な決裁手続を進めます」


 私は思わず立ち上がりかけました。


「本当ですか!」


「まだ正式な決裁前です」


「あ、はい」


「ただし、現時点の資料からは、当初の不許可を維持する合理的な根拠が十分に示せません」


「……そうですか」


「利用上の条件については、他の展示会と同じ基準で審査することになります」


 沢渡課長が眼鏡を直しました。


「市政批判であるという理由だけで、不許可にすることは適切ではありません」


 やった。


 と思いました。


 でも、沢渡課長はそこで私を見ました。


「朝比奈さん」


「はい」


「一つ確認しておきます」


「何でしょう」


「今回、市が判断を見直すとしても、最高裁判所が違憲判断をしたわけではありません」


「もちろんです」


「裁判所の違憲審査権を持ち出せば、必ず行政が従うということでもありません」


「分かっています」


「なぜ、そこまで理解していて八十一条を意見書に入れたのですか」


 私は少し考えました。


 そして答えました。


「市の規則や処分が、憲法の外にあるわけじゃないからです」


 沢渡課長は黙って聞いています。


「行政の判断にも憲法は及びます。具体的な処分が争われた場合、裁判所がその憲法適合性を審査する可能性があります」


「ええ」


「だから、市役所の段階で憲法に適合する判断をしなければならないと思うんです」


 私は通知書を見ました。


「裁判で違憲だと言われるまで、間違った運用を続けていいわけじゃありませんから」


 しばらく沈黙がありました。


 そして。


 沢渡課長が、ほんの少しだけ笑いました。


「……なるほど」


「何です?」


「違憲審査権の使い方としては、なかなか現実的ですね」


 褒められた。


 たぶん。


 この人の場合、褒め言葉が褒め言葉に聞こえないのが難点です。


「ただし」


 沢渡課長が続けました。


「今後、仮にこの種の紛争が裁判所に持ち込まれたとしても、必ず憲法判断が示されるとは限りません」


「……え?」


「裁判所は、憲法判断をしなくても事件を解決できる場合には、まず法律や条例の解釈、処分の適法性などによって判断することがあります」


 私は固まりました。


「つまり」


「不許可処分が取り消されても、憲法違反かどうかについて、裁判所が明示的に判断しない場合もあるということです」


 なるほど。


 また一つ。


 憲法の番人の性格が分かりました。


 最高裁判所は、


 憲法について何でも答えてくれる先生ではありません。


 具体的な紛争を解決する裁判所です。


 必要があれば憲法を判断する。


 必要がなければ、ほかの法律問題で解決することもある。


 それが、日本の違憲審査制度。


 私が知っていたはずの知識でした。


 でも。


 市役所の窓口で聞くと、教科書の何倍も重く感じます。



 それから一週間後。


 三浦さんのもとに、新しい通知が届きました。


 従前の不許可処分を取り消す。


 そのうえで、展示室の使用を許可する。


 通常の施設利用条件を守ること。


 それだけでした。


「……本当に?」


 三浦さんは、事務所で通知書を何度も読み返しました。


「使っていいんですか?」


「はい」


 私は笑いました。


「市民会館で展示会を開けます」


「新聞も?」


「申請された内容について、使用が認められました」


「市の再整備を批判する記事も?」


「はい」


 三浦さんは俯きました。


 肩が小さく震えました。


「……よかった」


 その一言に、全部が入っていました。


「私ね」


 三浦さんが言いました。


「市役所に逆らったら、もう商売できないんじゃないかと思ってたんです」


「……はい」


「印刷屋なんて、地元のお客さんがいなきゃ続けられませんから」


 そうです。


 この時代。


 役所と揉めるのは怖い。


 地元の有力者に睨まれるのも怖い。


 仕事が減るかもしれない。


 仲間外れにされるかもしれない。


 だから。


 黙る。


 言いたいことがあっても、黙る。


 それが賢い生き方だと、誰かが言う。


 でも。


「三浦さん」


「はい」


「憲法二十一条は、人気のある意見だけを守る条文じゃないんです」


 私は言いました。


「反対される意見や、権力に都合の悪い意見を述べる自由も、守るためにあるんです」


 三浦さんは顔を上げました。


「そうなんですか」


「はい」


 私は少し笑いました。


「だから、今回みたいな場面でこそ、大切なんだと思います」


 三浦さんは通知書を胸に抱きました。


「展示会、絶対に成功させます」


「応援しています」


「朝比奈さんも来てください」


「もちろんです!」


 横から相馬先輩が口を挟みました。


「俺も行くぞ」


「先輩、新聞に興味あるんですか」


「市役所が嫌がる記事だろ?」


「その理由で行くのはやめてください」


 三浦さんが吹き出しました。


 所長も少しだけ口元を緩めました。



 展示会当日。


 市民会館の小さな展示室には、思ったより多くの人が集まっていました。


 古い駅前の写真。


 昔の商店街。


 再整備計画の図面。


 そして、三浦さんの新聞。


『駅前再整備計画、本当に住民のため?』


 展示の前で、年配の男性が腕を組んでいました。


「……俺は、この再整備に賛成なんだがな」


 三浦さんが、少し緊張した顔になります。


「そうですか」


「ああ。駅前は古くなってる。工事は必要だ」


「はい」


「でも、この新聞を読んだら、移転する店の話もちゃんと聞かにゃいかんと思ったよ」


 三浦さんが目を見開きました。


「ありがとうございます」


 男性は笑いました。


「意見が違っても、話くらいはできるだろ」


 私は、しばらく二人を見つめていました。


 これだ。


 これなのです。


 市役所が恐れた、地元の対立。


 でも。


 反対意見を封じなければ、必ず混乱するのでしょうか。


 むしろ。


 意見の違う人たちが、同じ資料を見て、話し合う。


 そんな場所を失わせることのほうが、民主主義にとって危険なのかもしれません。


「こはる」


 相馬先輩が隣へ来ました。


「はい」


「いい顔してんな」


「そうですか?」


「ああ。憲法を覚えたての受験生みてえな顔だ」


「それ、褒めてます?」


「半分な」


「残り半分は?」


「まだまだ甘い」


 相馬先輩は展示室を見回しました。


「今回、行政が自分で判断を直した。だから裁判にならずに済んだ」


「はい」


「もし市が拒否し続けたら?」


「不服申立てや訴訟による救済を検討することになります」


「誰が訴訟を担当する」


「弁護士です。私たちは訴訟代理できません」


「そうだ」


 先輩が頷きます。


「じゃあ、違憲審査をするのは?」


「裁判所です」


「最高裁だけか?」


 私は首を横に振りました。


「いいえ。下級裁判所も、具体的な事件の審理で必要なら違憲審査を行えます」


「八十一条は?」


「最高裁判所が、憲法適合性について最終的に判断する権限を持つ終審裁判所だと定めています」


「よし」


 ちょっと待ってください。


 展示会に来たはずなのに、抜き打ち憲法試験が始まっています。


「先輩」


「何だ」


「休日くらい休ませてください」


「見習いに休日があると思うな」


「憲法以前に労働環境の問題です!」


 相馬先輩が笑いました。


 そのとき。


「朝比奈さん」


 背後から声がしました。


 振り向く。


 沢渡課長でした。


 灰色の背広。


 いつもの眼鏡。


 今日は公務ではなく、個人として見に来たそうです。


「課長!」


「盛況ですね」


「はい!」


 沢渡課長は展示された新聞を読みました。


 しばらくしてから言いました。


「内容には、私も異論があります」


「……でしょうね」


「市の説明が十分に伝わっていない部分もある」


「それなら、市として説明すればいいんじゃないですか」


 私が言うと、沢渡課長は頷きました。


「そのとおりでしょう」


 私は少し驚きました。


「課長が素直だ……」


「何か?」


「いえ、何でも」


 沢渡課長は窓の外へ目を向けました。


「市民が行政を批判する。それに行政が資料や説明で応じる。そういう方法もあるわけですね」


「はい」


「不許可にするより、手間はかかりそうですが」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「民主主義なんて、手間がかかるもんだろ」


「……否定はしません」


 沢渡課長は小さく頷きました。


 そして私に言いました。


「朝比奈さん」


「はい」


「今回の意見書、勉強になりました」


「えっ」


「もっとも、憲法八十一条を持ち出されたときは、少々大げさだと思いましたが」


「……すみません」


「しかし」


 沢渡課長は少しだけ笑いました。


「処分が具体的な権利利益の問題となったとき、行政の判断が司法審査から無縁ではいられない。その指摘は正しかったと思います」


 私は何も言えませんでした。


 沢渡課長は、そこで言葉を続けました。


「裁判で負けるから改める、だけでは困りますからね」


「……はい」


「行政は、裁判になる前から憲法と法律を守るべきです」


 そして、いつもの無表情に戻りました。


「では、失礼します」


 去っていく背中を見ながら、私は呟きました。


「……やっぱり、あの人、敵なのか先生なのか分かりません」


「役所の人間だよ」


 相馬先輩が言いました。


「それ以上でも、それ以下でもねえ」



 夕方。


 事務所へ戻ると、私は憲法の条文集を開きました。


 八十一条。


 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。


 私は、その一文を指でなぞりました。


 昔は、もっと派手な制度だと思っていました。


 最高裁判所が、


 この法律は憲法違反!


 この規則も憲法違反!


 この行政処分も憲法違反!


 と次々に裁いてくれる。


 そんなイメージでした。


 でも現実は違います。


 裁判所は、憲法について何でも質問できる相談所ではありません。


 具体的な法律上の争いがあり、その解決に必要な場合に、憲法適合性を審査する。


 そして。


 すべての事件で、憲法違反という結論が出るわけでもありません。


 そもそも憲法判断に踏み込まないで解決することもある。


 それでも。


 違憲審査権には、大きな意味があります。


 国会が作った法律でも。


 行政が定めた命令や規則でも。


 市役所が行った個別の処分でも。


 憲法より上には立てない。


 そして、具体的な事件で必要になれば、その憲法適合性を裁判所が審査し得る。


 だからこそ。


 行政は窓口の段階から、憲法を無視できない。


 そのことを、今日初めて実感しました。


「こはる」


 片桐所長が声をかけました。


「はい」


「何を覚えた」


 私は条文集を閉じました。


「違憲審査権は、何でも憲法違反かどうかを調べてくれる制度じゃないってことです」


「うん」


「具体的な事件が必要で、その事件を解決するために必要なら、裁判所が憲法適合性を審査する」


「そうだ」


「でも、だからこそ」


 私は少し考えました。


「現実に困っている人の事件から、憲法の力が働くんですね」


 所長は静かに頷きました。


「それでいい」


 そのとき。


 相馬先輩が机の上に一枚の紙を置きました。


「おい、こはる」


「何です?」


「これ、憲法違反じゃねえか?」


 紙を見る。


 ――片桐行政書士事務所・本日の残業担当。


 朝比奈こはる。


「……私だけ?」


「ああ」


「先輩は?」


「帰る」


「所長は?」


「帰る」


「えっ、何ですか、この不平等!」


「何か問題あるか?」


「憲法十四条!」


 私は思わず叫びました。


「法の下の平等!」


 相馬先輩がにやりと笑います。


「じゃあ、最高裁判所に持っていけ」


「持っていきます!」


「何を争う?」


「この残業命令の違憲性!」


「その前に、具体的な法律上の紛争になってんのか?」


「……あ」


「そもそも私人間の労働関係で、憲法十四条をどう使う?」


「……ああ」


 しまった。


 またやりました。


 憲法の条文を見つけると、すぐに振りかざしたくなる。


 片桐所長が静かに言いました。


「朝比奈」


「はい」


「憲法の前に、就業上の取り決めを確認しろ」


「……はい」


「それから仕事を終わらせろ」


「はい……」


 相馬先輩が腹を抱えて笑いました。


「最高裁判所も忙しいんだよ! お前の残業当番なんかで呼ぶな!」


「分かってます!」


 私は紙を握りしめました。


 でも、少しだけ笑ってしまいました。


 今日の教訓。


 憲法は、何でも解決する魔法ではない。


 裁判所も、憲法の質問に何でも答える相談所ではない。


 けれど。


 具体的な事件に向き合い、法律と事実を積み重ねたとき。


 最高法規は、権力の前に立つ一人の人間を守る力になる。


 私は窓の外を見ました。


 夕暮れの町。


 あの市民会館では、今日も誰かが新聞を読んでいるでしょう。


 賛成する人。


 反対する人。


 納得しない人。


 それでも、自分の意見を持ち、口に出せる人。


 その自由が、たった一枚の不許可通知で奪われなくてよかった。


「こはる」


「はい」


「残業」


 相馬先輩が言いました。


「……先輩」


「何だ」


「不服があります」


「じゃあ申し立てろ」


「所長に?」


「ああ」


 私は所長を見ました。


「所長。残業担当の変更を求めます」


「理由は」


「私だけなのは不公平です」


「相馬は昨日残業した」


「……え?」


「一昨日は俺だ」


「……はい?」


「今日はお前の番だ」


 沈黙。


 相馬先輩が笑っています。


「おい、こはる」


「……はい」


「事実確認もしねえで憲法持ち出すから、そうなるんだよ」


 私は机に突っ伏しました。


「……憲法の前に、事実を調べます」


「よろしい」


 片桐所長が頷きました。


 どうやら。


 憲法の番人に助けを求める前に、まず事実を確認するという基本を。


 私は、もう少し勉強する必要がありそうです。


 昭和六十三年。


 最高裁判所は、憲法の番人。


 でも。


 片桐行政書士事務所の残業当番については。


 どうやら今日も、片桐所長が終審裁判所のようでした。


 もちろん。


 憲法第八十一条によるものではありません。


 ただの業務分担です。


 ……異議あり。

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