[憲法・裁判の公開]法理編 こはるノート
扉には、開けるためのものと、閉めるためのものがあります。
でも。
法律の世界には、原則として開けておかなければならない扉があります。
裁判所の扉です。
そして、その扉には少し変わった決まりがあります。
場合によっては閉めてもよい。
けれど、絶対に閉めてはいけない場合もある。
しかも。
同じ裁判でも、審理と判決では扱いが違う。
これを知らないと、行政書士試験では見事に引っかかります。
ええ。
過去の私のように。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓の外では、商店街の店が一つ、また一つと明かりをともしていました。
私は机の上に六法を広げました。
隣には大学ノート。
表紙には、大きくこう書いてあります。
――こはるノート・憲法編。
「……さて」
私は赤ペンを握りました。
「今日は八十二条です」
「また始まった」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「裁判の公開か」
「はい」
「昨日やっただろ」
「昨日は現場です。今日は理屈を整理する日です」
「同じじゃねえか」
「全然違います!」
私はノートを開きました。
昨日まで、憲法八十二条といえば、ただの暗記問題でした。
対審と判決。
原則公開。
対審は例外あり。
判決は常に公開。
政治犯罪、出版に関する犯罪、基本的人権が問題となる事件。
ここは絶対公開。
覚えるだけなら、数行です。
でも。
宮下さんが裁判所の前で言った言葉を、私はまだ覚えています。
――ちゃんと、聞けたんです。
市役所から傍聴を自粛するよう求められ、町内会からも白い目で見られていた女性。
その人が、裁判所へ行き、自分の目で審理を確かめた。
それだけのことが、あんなに嬉しかった。
だから今日は。
この条文を、絶対に忘れない形にしておきたいのです。
「所長」
「何だ」
「憲法八十二条って、どうして裁判を公開するんでしょう」
片桐所長は帳簿から顔を上げました。
「裁判を国民の監視の下に置くためだ」
「監視?」
「そうだ」
「裁判官を疑うってことですか?」
「裁判官を信じることと、裁判を密室で行わせることは別だ」
私はペンを止めました。
なるほど。
最初から深い。
「じゃあ、条文からいきます」
私は六法を指で押さえました。
憲法第八十二条第一項。
――裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
「まず、ここです」
私は『対審』と『判決』に赤丸をつけました。
「二つ書いてあります」
「見りゃ分かる」
「先輩。ここを区別しないと、試験で落とします」
「お前は何でも試験に結びつけるな」
「受験生なので」
対審。
聞き慣れない言葉です。
私はノートに書きました。
――対審とは、当事者が法廷で主張や反論を行い、裁判所が審理する手続。
「宮下さんが見に行ったのは、ここですね」
「ああ」
「原告側の弁護士が主張して、市側の代理人が反論していました」
「それが公開法廷で行われた」
「はい」
昨日の光景を思い出します。
原告の弁護士。
市の代理人。
裁判官。
そして、傍聴席の宮下さん。
どちらか一方だけが秘密裏に裁判官へ話をしていたわけではありません。
双方が、公開の法廷で自分の主張を述べていた。
「じゃあ、判決は?」
相馬先輩が聞きました。
「裁判所が最終的な判断を言い渡すことです」
「公開する意味は?」
「どんな結論が出たか、国民が知ることができるようにするため」
「そうだな」
私はノートに二本の線を引きました。
対審。
裁判の中身を審理する場面。
判決。
裁判所が結論を言い渡す場面。
「ここで重要なのが」
私は赤ペンを持ち直しました。
「この二つ、非公開にできる条件が違うんです」
相馬先輩がにやりとしました。
「来たな」
「来ました」
行政書士試験。
受験生が混乱する場所には、たいてい似た言葉が並んでいます。
取消しと無効。
審査請求と再調査の請求。
条例と規則。
そして今回は。
対審と判決。
一緒に覚えると危険な二人組です。
「先輩。問題です」
「嫌だ」
「裁判官が全員一致で決めた場合、判決を非公開にできる。正しいですか?」
「できるんじゃねえのか」
「ブブーッ!」
「うるせえ!」
「不正解です!」
私はノートに大きく書きました。
――判決は常に公開!
「なぜだ」
相馬先輩が聞きました。
「憲法八十二条二項を見てください」
私は条文を読みました。
――裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。
「ここです」
私は『対審は』に二重線を引きました。
「非公開にできると書いてあるのは、対審だけなんです」
「判決は?」
「書いてありません」
「つまり?」
「判決には、この例外がない」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことか」
「そういうことです」
私は書きました。
対審。
原則公開。ただし、憲法上の条件を満たす場合は非公開にできる。
判決。
常に公開。八十二条二項による非公開の例外はない。
「裁判官が全員一致しても?」
「判決は非公開にできません」
「事件が重大でも?」
「判決の言渡しは公開です」
「国中が大騒ぎになる事件でも?」
「公開です」
「市役所の評判が悪くなる事件でも?」
「当然、公開です!」
私は少し得意になりました。
でも、その瞬間。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「一つ注意しろ」
「はい?」
「裁判所のあらゆる手続が、すべて公開されるわけではない」
「……あ」
「憲法八十二条が保障する対審及び判決の公開と、準備手続や決定・命令などの扱いを混同するな」
私は赤ペンを止めました。
危ない。
また、言い切りすぎるところでした。
憲法八十二条の『裁判の公開』は、裁判所内で行われるすべての手続を例外なく公開しろ、という意味ではありません。
公開が保障される対審と判決の言渡しが中心です。
また、判決の言渡しが公開されるからといって、裁判官同士の評議まで公開されるわけではありません。
「つまり」
私は言いました。
「『裁判関係のことは全部公開』ではない」
「そうだ」
「でも、八十二条が保障する判決の言渡しは、非公開にできない」
「そこだ」
私は余白に書きました。
――公開の対象を正確に区別すること。
行政書士試験。
こういう一言が、本当に怖いのです。
「では次」
私はノートに見出しを書きました。
――対審を非公開にできる条件。
「先輩。裁判官が全員一致すれば、どんな理由でも非公開にできますか?」
「できねえんだろ」
「正解です!」
「お前の出題傾向が分かってきた」
「成長しましたね」
「お前がな」
私は条文を指しました。
非公開にできる条件。
裁判官の全員一致。
そして。
公の秩序又は善良の風俗を害するおそれがあること。
「ここは二つ必要です」
私は言いました。
「全員一致だけでは足りません」
「理由も要るんだな」
「はい」
例えば。
単に注目されている裁判だから。
市役所が困るから。
関係者が恥ずかしいから。
地元の評判が悪くなるから。
そんな理由だけでは、憲法の要求する条件を満たしません。
「昨日の沢渡課長が、まさにそうでしたね」
私は言いました。
「地域の平穏を守るため、非公開を申し入れたいと」
「そうだったな」
「でも、実際にどんな危険があるのか、具体的な裏付けはなかった」
「だから申し入れを見送った」
「はい」
ここで、片桐所長が口を開きました。
「こはる。公開によって具体的な危険がある事件でも、すぐに非公開にできると思うな」
「どういうことですか?」
「傍聴席が混雑するなら、人数を管理する。法廷の秩序を乱す者がいれば、法廷警察権によって対処する」
「なるほど」
「公開を維持したまま対応できるなら、まずそれを考えるべきだ」
私は頷きました。
公開が原則。
非公開は例外。
だから、例外を安易に広げない。
「目的と手段の関係ですね」
「そうだ」
「秩序を守るという目的があっても、いきなり公開を全部やめる必要があるとは限らない」
「うん」
私は昨日の市役所を思い出しました。
沢渡課長は、無闇に裁判を隠そうとする人ではありませんでした。
混乱を防ぎたい。
行政運営を安定させたい。
その目的は理解できる。
でも。
目的が正当だからといって、手段まで無条件に正当になるわけではない。
それが憲法の難しさであり、強さでもあるのでしょう。
「ところが」
私は声を少し大きくしました。
「ここからが、八十二条の本当に怖いところです」
「何だ。脅かすな」
「裁判官が全員一致しても、非公開にできない対審があるんです」
相馬先輩が腕を組みました。
「昨日の事件だな」
「そうです」
私は憲法八十二条二項の最後を読みました。
――但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。
「ここ!」
私は机を指で叩きました。
「絶対公開です!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「机を壊すな」
「大事なんです!」
「分かったから落ち着け」
私はノートに三つ書きました。
一つ。
政治犯罪。
二つ。
出版に関する犯罪。
三つ。
憲法第三章で保障する国民の権利、つまり基本的人権が問題となっている事件。
「この三つに当たる事件の対審は、常に公開です」
「裁判官が全員一致しても?」
「非公開にできません」
「公の秩序に悪影響が出ると判断しても?」
「八十二条二項の例外によって非公開にはできません」
「そこまで強いのか」
「そこまで強いんです」
私は昨日のことを思い出しました。
市立図書館の広報誌。
駅前再整備への批判。
掲載拒否。
表現の自由。
そして裁判。
「宮下さんが傍聴した事件は、表現の自由が問題になっていました」
「ああ」
「憲法二十一条ですね」
「そうだ」
「だから、憲法第三章で保障される国民の権利が問題となっている事件に当たる」
私は頷きました。
「八十二条二項ただし書の、絶対公開の対象です」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「なるほどな」
「しかも」
私は続けました。
「これは、原告が必ず勝つという意味じゃありません」
「当然だろ」
「そうなんですけど、大事なんです」
昨日の訴訟。
市側にも主張がありました。
公的な広報誌の編集方針。
掲載基準。
行政の裁量。
原告側にも主張がありました。
表現の自由。
恣意的な掲載拒否。
不公平な取扱い。
どちらが法的に正しいのか。
それは裁判所が判断します。
でも。
その審理を公開することと、どちらを勝たせるかは別の話。
「公開法廷だから、市が負けるわけじゃない」
私は言いました。
「そうだ」
「逆に、市が勝つから非公開でいい、という話でもない」
「そうだな」
「裁判の公開は、結論の正しさとは別に守られる手続上の保障なんですね」
片桐所長が静かに頷きました。
「そのとおりだ」
「でも、所長」
私は少し考えました。
「どうして政治犯罪や出版に関する犯罪、それに基本的人権が問題になる事件だけ、特に強く公開を保障しているんでしょう?」
所長は、しばらく黙っていました。
それから言いました。
「権力の使い方が、直接問われやすいからだ」
「権力の使い方?」
「政治活動を犯罪として裁く。出版行為を犯罪として裁く。国民の基本的人権をめぐって争う」
「はい」
「そういう事件を、密室で審理できるとしたらどうなる」
私は想像しました。
政府に批判的な発言をした人が、罪に問われる。
新聞に記事を書いた人が、裁判にかけられる。
行政の対応が人権を侵害したと主張する人がいる。
その事件を。
国民が見られないところで審理する。
「……怖いですね」
「そうだ」
「何が起きているのか、分からなくなる」
片桐所長は頷きました。
「司法権も国家権力の一つだ」
私は顔を上げました。
「裁判所も?」
「当然だ」
そうでした。
裁判所は、正義を実現するための機関です。
でも。
国家権力であることに変わりはありません。
裁判所だって、絶対に間違えないわけではない。
だから。
国民が審理を見届けられることが大切になる。
「公開は、裁判所への信頼を支えるだけではない」
所長は続けました。
「司法権の行使を、国民の監視の下に置く意味もある」
私はノートに書きました。
――裁判の公開は、司法の公正と国民の信頼を支える。
さらに、その下。
――政治・出版・人権に関する事件では、密室審理を特に厳しく排除する。
「なるほど……」
憲法八十二条。
思っていた以上に、重い条文です。
「先輩。ここで引っかけ問題です」
「またかよ」
「基本的人権が問題となっている事件でも、裁判官全員が賛成すれば対審を非公開にできる。正しいですか?」
「誤り」
「正解!」
「さっきやっただろ」
「反復学習です」
私は次の問題を書きました。
「では、出版に関する犯罪の裁判で、被告人が非公開を希望し、裁判官も全員一致で認めた場合、対審を非公開にできる。正しいですか?」
「……できねえ」
「正解です」
相馬先輩が眉を上げました。
「本人が望んでもか?」
「憲法八十二条二項ただし書による絶対公開の対象ですから」
「なるほどな」
「当事者の希望だけで、絶対公開の規定を外すことはできません」
私は赤ペンで丸をつけました。
ここが大事です。
『本人が嫌がっている』
『裁判官も全員一致している』
そう言われると、何となく非公開にできそうな気がします。
でも。
憲法は、この三種類の事件の対審について、常に公開しなければならないと定めています。
だから、当事者の希望や裁判官の一致だけで非公開にはできない。
「では第三問!」
「まだあるのか」
「通常の民事事件で、公開すると公の秩序や善良の風俗を害するおそれがあり、裁判官が全員一致で非公開を決定した。この場合、対審を非公開にできる。正しいですか?」
「できる」
「正解です!」
「簡単だな」
「ただし、その事件が絶対公開の対象ではないことが前提です」
「はいはい」
私は笑いました。
こうしてみると、八十二条は意外と整理しやすい。
まず、対審か判決かを区別する。
対審なら、絶対公開の三種類に当たるかを確認する。
当たらない場合に、憲法の定める非公開要件が問題になる。
判決なら、非公開の例外はない。
順番さえ間違えなければ、混乱しないのです。
「ところで」
相馬先輩が聞きました。
「昨日、お前は市役所に憲法八十二条の意見書を出しただろ」
「はい」
「あれ、市役所が八十二条に直接違反したって話だったのか?」
私は首を横に振りました。
「違います」
「言ってみろ」
「八十二条が直接規律しているのは、裁判の公開です」
「うん」
「市役所が傍聴自粛をお願いしたというだけで、直ちに裁判を非公開にしたことにはなりません」
「そうだな」
昨日の沢渡課長の反論を思い出します。
市には裁判を非公開にする権限がない。
裁判所への申し入れも、裁判所を拘束しない。
傍聴自粛のお願いも、法的な禁止命令ではない。
そこは確かに、そのとおりでした。
「でも」
私は続けました。
「公的な立場を使って、市民に傍聴を控えさせようとすれば、公開裁判の意義を損なうおそれがあります」
「それで?」
「八十二条の趣旨や、市民の自由に対する不当な圧力になっていないかを検討したんです」
「そうだ」
片桐所長が口を開きました。
「役所の行為が違憲かどうかを論じるときは、その行為と憲法の規定との関係を正確に見ろ」
「はい」
「裁判を非公開にする決定と、傍聴を自粛するようお願いする行為は同じではない」
「はい」
「だが、後者だから何をしてもよいわけでもない」
私は頷きました。
法的拘束力がない。
任意のお願いである。
だから問題はない。
そんな単純な話ではありません。
特に行政機関からのお願いは、受け取る人によっては命令に近く感じられることがあります。
宮下さんがそうでした。
裁判を見に行くだけなのに。
市役所に怒られるのではないか。
商売に影響するのではないか。
町内会から仲間外れにされるのではないか。
そう不安になっていた。
「だから、意見書では市に説明を求めたんです」
私は言いました。
「傍聴自粛を求める具体的な必要性は何か。合理的な根拠はあるか。市民への不当な圧力になっていないか」
「そして?」
「沢渡課長は、実際に市民から不安の声が出ていることも確認して、撤回を判断した」
「そうだな」
私はノートに書きました。
――行政の要請は、形式だけでなく実際の影響も見る。
「憲法違反だと叫ぶだけでは、解決しないんですね」
「そうだ」
所長は答えました。
「最高法規は、相手を黙らせるための決め台詞ではない」
「……はい」
「権限を確認し、事実を調べ、憲法上の問題を明らかにする。そのために使うものだ」
私は赤ペンを置きました。
なるほど。
これが、行政書士の憲法の使い方です。
「でも、不思議ですよね」
私は六法を眺めました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「日本国憲法って、昭和六十三年も、私の知っている現代も、条文が全く同じなんです」
「また未来の話か」
「はい」
私は笑いました。
「なのに、社会の空気は全然違う」
昨日の市役所。
地域の和。
世間の評判。
市に逆らう人間への冷たい視線。
そして、宮下さんの不安。
裁判所へ行くだけで、悪いことをしているように感じてしまう。
「条文が同じでも」
私は言いました。
「人の権利に対する感覚が違えば、憲法の使われ方も変わるんですね」
相馬先輩が少し考えました。
「まあ、そうかもしれねえな」
「でも八十二条って、そういう時代の空気に左右されちゃ駄目なところが、はっきり書いてあるんです」
「絶対公開か」
「はい」
ここで、所長が言いました。
「ただし、こはる。昭和だから公開裁判が軽視されていた、と単純に考えるな」
「あ……」
「この時代にも公開裁判の保障はある。裁判所も憲法に従っている」
「はい」
「問題は、法律と現実の間にあることだ」
私は頷きました。
そうでした。
昭和の人たちが、みんな憲法を知らなかったわけではありません。
権利を守ろうとする弁護士もいる。
憲法を守る裁判官もいる。
市民の自由を大切にする役所の職員もいる。
沢渡課長だって、憲法の条文を理解していました。
ただ。
法律の上では自由でも。
周囲の人間関係や社会的な圧力によって、その自由を使いにくくなることがある。
「だから、権利が書かれているだけでは足りないんですね」
私は言いました。
「実際に使えることが大事なんだ」
相馬先輩が答えました。
「そうですね」
宮下さんが裁判所の扉を開けた姿を、私は思い出しました。
憲法八十二条。
公開法廷。
たったそれだけの言葉が。
あの人には、大きな勇気を与えていたのです。
「じゃあ、最後にまとめます!」
私はノートの新しいページを開きました。
「試験直前に見る用です」
「今度は短くしろよ」
「努力します」
私は大きく書きました。
――憲法八十二条・裁判の公開。
その下に、三つの区分。
第一。対審は原則公開。
ただし、絶対公開の対象でない事件について、裁判官の全員一致により、公の秩序又は善良の風俗を害するおそれがあると決した場合には、非公開にできる。
第二。特定の事件の対審は絶対公開。
政治犯罪。
出版に関する犯罪。
憲法第三章で保障される国民の権利が問題となる事件。
これらの対審は、常に公開しなければならない。
第三。判決は常に公開。
憲法八十二条二項の非公開例外は、判決には適用されない。
「できました!」
私はノートを見せました。
相馬先輩が覗き込みます。
「まだ長えな」
「これ以上削ると危険です」
「そうか?」
「じゃあ先輩。もっと短くしてください」
相馬先輩は少し考えました。
「対審は原則公開。三種類は絶対公開。判決は全部公開」
「……」
私は黙りました。
「何だよ」
「先輩」
「何だ」
「それ、すごく覚えやすいです」
「だろ」
「悔しい」
「素直に褒めろ」
私はそのままノートに書きました。
――対審は原則公開。政治・出版・人権は絶対公開。判決は常に公開。
「これなら試験会場でも思い出せますね」
「当たり前だ」
でも。
私は、もう一つ書きたくなりました。
試験のためではない。
昨日の宮下さんのために。
いえ。
きっと、これから出会う誰かのために。
私はページの一番下に、少し大きな文字で書きました。
――裁判の公開は、誰が正しいかを決める前に、誰もがその審理を見届けられるようにする保障。
「……よし」
私はペンを置きました。
窓の外は、すっかり夕暮れでした。
商店街の街灯がともり、遠くで自転車のベルが鳴りました。
宮下さんは、今ごろ書店を閉めているでしょうか。
あの訴訟の結論は、まだ出ていません。
掲載を拒否した市の判断が違法だったのか。
それとも、許される編集上の判断だったのか。
これから審理が続きます。
そして、いつか判決が言い渡されます。
その判決は、公開の法廷で告げられる。
市が勝つかもしれない。
原告が勝つかもしれない。
どちらの結論もあり得ます。
でも。
裁判の公開は、勝った人へのご褒美ではありません。
負けた人への慰めでもありません。
司法権がどのように行使されるかを、国民が見届けるための仕組みです。
だからこそ。
社会的に注目される事件でも。
権力者に都合の悪い事件でも。
町の小さな争いでも。
憲法が公開を要求する法廷は、開かれていなければならない。
「……所長」
「何だ」
「憲法八十二条って、やっぱりすごい条文ですね」
「そうだな」
「裁判の公開って、単に『見てもいい』じゃないんですね」
所長がこちらを見ました。
「どういう意味だ」
「見られることを前提に、裁判を行わなければならない。そこが大事なんだと思います」
片桐所長は、少しだけ頷きました。
「そうだ」
私はノートを閉じました。
そして最後に、今日の一行を手帳に書きました。
――対審は原則公開、政治・出版・人権は絶対公開、判決は常に公開。
これが試験の答え。
そして。
私の心に残った答えは、もう一つ。
――裁判所の扉は、権力の都合で閉ざすためにあるのではない。
「よし、終わったな」
相馬先輩が立ち上がりました。
「はい」
「じゃあ帰るぞ」
「待ってください」
「何だよ」
私はノートを指しました。
「今日の勉強会の感想を聞いてません」
「必要ねえだろ」
「必要です」
「面倒くせえな」
「先輩の理解度を確認したいんです」
「俺を受験生扱いすんな」
私はにっこり笑いました。
「では最後の問題です」
「まだやるのか!」
「片桐行政書士事務所において、所長と先輩が全員一致で決定した場合、こはるの給料を非公開にできる。正しいですか?」
「……何の話だ?」
「公開の原則です」
「全然違うだろ!」
「じゃあ、全員一致なら給料を上げることはできますか?」
「それも違う!」
そのとき。
奥から片桐所長の声がしました。
「こはる」
「はい!」
「給料は上がらん」
「……え?」
「全員一致でも上がらん」
「所長!」
相馬先輩が吹き出しました。
「ははは! 判決だな!」
「待ってください!」
私は机に両手をつきました。
「その判断、公開法廷で争わせてください!」
「裁判じゃねえだろ!」
「じゃあ、判決だけ公開してください!」
「何の判決だよ!」
片桐所長は帳簿を閉じ、静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「業務終了だ」
「……はい」
私は肩を落としました。
どうやら。
片桐行政書士事務所の給料問題については、憲法八十二条を持ち出しても解決できないようです。
でも。
それでいいのかもしれません。
憲法は、何でも叶える魔法ではありません。
役所に勝つための便利な呪文でもありません。
守るべき権利と、権力が守るべき限界を示すものです。
そして。
誰かがその限界を越えようとしたとき、私たちが立ち戻ることのできる、最も強い法の基準です。
私は六法を鞄にしまいました。
憲法八十二条。
今日も、その文字は変わっていません。
昭和六十三年。
社会の空気がどれほど重くても。
町の人々がどれほど顔をしかめても。
役所がどれほど都合の悪いことを隠したくても。
公開が保障された法廷の扉は、憲法によって守られている。
それを知っているだけで。
明日、誰かが裁判所へ向かうとき。
少しだけ、胸を張って歩けるかもしれません。
私は事務所の灯りを消しました。
外では、秋の風が商店街を吹き抜けています。
そして。
鞄の中の六法には、今日も変わらず、こう書かれていました。
――裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
たった一文。
けれど、その一文が。
密室に閉じ込められそうな正義へ、光を差し込ませるのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




