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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 統治

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417/608

[憲法・裁判の公開]現場編 「町の評判が悪くなるので、裁判は非公開です」の嘘。隠したい行政と、誰もが見届けられる公開法廷――最高法規が守る司法の光

挿絵(By みてみん)

 見られて困る裁判ほど、見せなければならないことがあります。


 知られたくない。


 騒がれたくない。


 町の評判が悪くなる。


 だから、裁判は人目につかないところで済ませたい。


 気持ちは分かります。


 でも。


 そんな理由で裁判を隠せるなら。


 権力を持つ人間は、自分に都合の悪い裁判を、片っ端から密室へ押し込められることになります。


 それを許さないために。


 日本国憲法には、たった一条で法廷の扉を開け放つ規定があります。


 憲法第八十二条。


 裁判の公開。


 そして昭和六十三年。


 その扉を、役所の都合で閉めようとする男がいました。



 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「裁判を、見に来るなと言われたんです」


 その日の相談者は、そう言って一枚の紙を差し出しました。


 五十代くらいの女性。


 名前は宮下澄江。


 駅前商店街で小さな書店を営んでいる人でした。


「……見に来るな?」


 私は首をかしげました。


「裁判所からですか?」


「いいえ。市役所から」


 その瞬間。


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「市役所?」


「はい」


「裁判所じゃなくて?」


「そうです」


 嫌な予感がします。


 かなり嫌な予感です。


 私は紙を受け取りました。


 表題。


 ――市立図書館広報誌発行差止めをめぐる訴訟についてのお願い。


 発行元。


 市役所総務課。


 内容を読む。


 そこには、こんなことが書かれていました。


 ――本件訴訟は、市の教育行政及び地域社会の秩序に深く関係するものであり、公開による混乱が懸念されます。


 ――関係者及び市民の皆様におかれましては、裁判所への傍聴を自粛されるようお願いいたします。


 ――市としては、地域の平穏を維持する観点から、審理の非公開について関係機関に申し入れる方針です。


「……え?」


 私はもう一度読みました。


 そして。


 三度読みました。


「先輩」


「何だ」


「これ、すごいこと書いてません?」


「ああ」


「市役所が、裁判を非公開にしてほしいって?」


「そう書いてあるな」


「そんなこと、できるんですか?」


 相馬先輩は煙草に火をつけました。


「申し入れるだけなら、言うこと自体はできるだろうよ」


「じゃあ非公開に?」


「なるわけねえだろ。市役所にそんな権限はねえ」


 ですよね。


 でも。


 相談者の宮下さんは、ひどく不安そうでした。


「町内会でも言われたんです」


「何をです?」


「裁判を見に行く人は、町の評判を落としたい人だって」


「……」


「私の店にも、市役所と争っている人を応援するのかって」


 私は紙を置きました。


 事情を聞くことにします。



 事件の始まりは、一冊の薄い冊子でした。


 市立図書館が発行する広報誌。


『湖西の文化と暮らし』


 郷土史。


 地元作家の紹介。


 市民の投稿。


 読書案内。


 そういう、いかにも平和そうな冊子です。


 ところが、その夏。


 市民から寄せられた投稿の中に、市の駅前再整備計画を批判する文章がありました。


 題名は、


『消えていく商店街の声』


 古い商店を取り壊し、駅前を新しく整備する計画。


 その計画から取り残される人たちの暮らし。


 行政が十分に説明していないのではないか。


 そういう問題提起でした。


「別に、乱暴な文章じゃなかったんです」


 宮下さんは言いました。


「私も読みました。市に反対するだけじゃなくて、もっと話し合ってほしいって」


「それが掲載されなかった?」


「はい」


 市の担当部署が掲載を見送った。


 理由。


 ――行政施策への批判を含み、地域の和を乱すおそれがある。


「地域の和……」


 私は呟きました。


 また出ました。


 昭和の最強呪文。


 地域の和。


 地元の理解。


 前例。


 世間の目。


 これを唱えるだけで、どんな個人の自由も小さくなると思っている人が、どうやらこの時代には少なくありません。


 投稿者は納得しませんでした。


 市へ抗議した。


 掲載基準を問い合わせた。


 説明を求めた。


 それでも回答は変わらなかった。


 そこで弁護士に相談し、市の対応が表現の自由を侵害するなどと主張して、損害賠償を求める訴訟を起こしたのです。


「私は、その投稿をした人の友人なんです」


 宮下さんが言いました。


「裁判になったから、せめて見に行こうと思って」


「当然の気持ちだと思います」


「でも、役所からこんな紙が来て」


 宮下さんは唇を噛みました。


「裁判って、悪いことをした人だけが見られるものなんですか?」


「違います」


 私は即答しました。


「それは違います」


 そして、頭の中で。


 ある条文が光りました。


 憲法第八十二条。


 裁判の公開。


 あれ?


 ちょっと待ってください。


 私、これ知っています。


 行政書士試験で、何度も見たところです。


 対審。


 判決。


 公開。


 全員一致。


 政治犯罪。


 出版に関する犯罪。


 基本的人権。


 受験生のころは、


「公開が原則。例外に注意」


 と赤ペンで囲んで終わりでした。


 でも今。


 目の前にいる女性は、たった一度の裁判を見に行くことさえ、町から責められています。


 あの条文。


 ひょっとして。


 ものすごく大切なのでは?


「所長」


 私は奥の机を見ました。


 片桐所長は、宮下さんの持ってきた紙を見つめていました。


「どうした」


「この件、憲法八十二条ですよね」


「そうだな」


「裁判の公開ですよね」


「そうだ」


「じゃあ、市役所は――」


「こはる」


 所長が私を遮りました。


「順番を間違えるな」


「え?」


「裁判を公開するかどうか、誰が決める」


「裁判所です」


「なら、市役所の紙で裁判が非公開になるか」


「なりません」


「まず、そこだ」


 私は口を閉じました。


 そうでした。


 憲法を使うからといって、何でもかんでも「違憲です!」と叫べばいいわけではありません。


 そもそも誰に、どんな権限があるのか。


 そこを整理しなければならない。


「今回、市が出しているのは傍聴自粛のお願いだ」


 所長が言いました。


「法的に傍聴を禁止する命令ではない」


「はい」


「だが、公の機関が、その立場を利用して傍聴を控えさせようとしている。しかも、非公開を求める理由が曖昧だ」


「地域の平穏、ですね」


「そうだ」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「要するに、裁判で都合の悪い話が出るのを嫌がってるんだろ」


「先輩、まだそこまでは」


「分かってる。決めつけはしねえ」


 相馬先輩は上着を取ります。


「だから聞きに行くんだよ」


 また市役所です。


 この事務所。


 市役所への訪問回数だけなら、職員といい勝負をしている気がします。



 市役所二階。


 総務課。


 沢渡課長は、私たちの顔を見るなり小さく息を吐きました。


「……また片桐先生ですか」


「お世話になります」


 所長はいつもどおり無表情です。


「今日は何でしょう」


 相馬先輩が紙を机へ置きました。


「これだ」


 沢渡課長は一瞥しました。


「ああ。図書館の件ですね」


「市民に裁判を見に行くなって?」


「傍聴を自粛していただくようお願いしただけです」


「非公開にするとも書いてあるぞ」


「非公開にする、とは書いていません。非公開について申し入れる方針、と書いています」


 私は思わず頷きかけました。


 確かに。


 文言は違います。


 この人、細かい。


 でも、その細かさは法律の世界では大事です。


「裁判所の判断を市が拘束できないことは承知しています」


 沢渡課長は続けました。


「しかし、今回の訴訟は市内でも注目されています。傍聴希望者が多数集まれば、関係者への圧力や混乱も懸念されます」


「だから見に来るなと?」


「市民の皆様に、冷静な対応をお願いしているのです」


「地域の平穏のため?」


「そうです」


 私は尋ねました。


「課長。公開すると、具体的にどんな危険があるんですか?」


「先ほど申し上げたとおり、混乱が懸念されます」


「脅迫とか、暴力の予告があったんですか?」


「現時点で、そのような報告は受けていません」


「傍聴人が法廷を妨害したとか?」


「まだ審理も始まっていません」


「じゃあ、何を根拠に?」


 沢渡課長は、少しだけ眼鏡を直しました。


「朝比奈さん。問題が起きてからでは遅いという考え方もあります」


 なるほど。


 予防的な行政運営。


 それ自体は理解できます。


 でも。


 何かがおかしい。


「公共の福祉、という言葉もあります」


 沢渡課長は言いました。


「個人の権利が無制限ではないことは、あなた方もご存じでしょう」


 来ました。


 公共の福祉。


 その言葉を聞いた瞬間。


 私は少しだけ、昭和六十三年の空気の重さを感じました。


 市役所。


 町内会。


 商店街。


 近所の人。


 誰もが「騒ぎを大きくするな」と言っている。


 市を訴えた人が悪い。


 裁判を見に行く人も悪い。


 町の外に恥をさらすな。


 そんな空気です。


 この時代にはスマートフォンもありません。


 裁判の情報が、自動的に手元へ届くわけではない。


 インターネットで詳しい情報を探せるわけでもない。


 地元の新聞が取り上げなければ、誰が何を主張しているのかさえ分からないことがある。


 だからこそ。


 法廷へ行って、自分の目と耳で確かめたい。


 そう思う人がいる。


 なのに。


 その扉まで、世間の空気で閉めようというのでしょうか。


「……先輩」


 私は小さく言いました。


「何だ」


「憲法って、昭和も今も同じですよね」


「何を今さら」


「八十二条も?」


「当たり前だろ」


 そうです。


 日本国憲法は、公布以来、一字一句変わっていない。


 昭和六十三年も。


 私がいた現代も。


 同じ条文です。


 なのに。


 社会の空気は、こんなに違う。


 でも。


 違うのは社会の空気だけ。


 法廷を公開するという原則は、今も昔も変わりません。


 私は鞄から六法を取り出しました。


 憲法八十二条。


 何度も読んだはずの条文。


 そこに、こう書いてあります。


 ――裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。


「課長」


 私は顔を上げました。


「裁判の公開について、憲法が何を定めているかはご存じですよね」


「もちろんです」


「じゃあ、非公開にできる条件は?」


「裁判所の判断です」


「どんな判断でも?」


「……」


 沢渡課長の目が細くなりました。


 私は続けました。


「憲法八十二条二項。裁判官の全員一致で、公の秩序または善良の風俗を害するおそれがあると決した場合、対審を非公開にできます」


「ええ」


「でも、今回の事件は?」


「……」


「市の対応が、表現の自由を侵害したかどうかを争っているんですよね」


 沈黙。


 沢渡課長は何も言いません。


「つまり、憲法第三章で保障される基本的人権が問題になっている」


 私は条文の後半を指しました。


「そういう事件の対審は――」


 言葉を区切る。


「常に公開しなければならない」


 部屋が静かになりました。


 相馬先輩が、少しだけ笑いました。


「そういうことだ」



「朝比奈さん」


 沢渡課長が口を開きました。


「少し整理しましょう」


「はい」


「市は、今回の訴訟が当然に非公開となると断定していません」


「分かっています」


「非公開の申入れも、裁判所の権限を奪うものではありません」


「それも分かっています」


「では、何が問題だと?」


 この人。


 本当に手強い。


 自分の権限と裁判所の権限を、ちゃんと区別しています。


 単純な憲法違反だと決めつければ、逆にこちらが足元をすくわれる。


 私は一度、息を吸いました。


「問題は二つです」


「どうぞ」


「一つ目。市が非公開の申入れを検討するに当たり、憲法八十二条の絶対的な公開保障を正しく考慮しているか」


「……」


「二つ目。市が公式文書で傍聴自粛を求めることが、合理的な理由なく、市民に裁判の傍聴をためらわせる圧力になっていないか」


 沢渡課長は黙って聞いていました。


「傍聴希望者が多いなら、裁判所が法廷の秩序維持や傍聴席の管理を考えます。人数によっては抽選になることもあるでしょう」


「そうでしょうね」


「でも、それと裁判そのものを非公開にすることは別です」


「……ええ」


「まして今回は、基本的人権が問題になっている事件です」


 私は条文に指を置きました。


「公開すると町の評判が悪くなる。地元が騒ぐ。市の行政運営がやりにくくなる」


 一つずつ数えます。


「それらは、憲法八十二条の公開原則を覆す理由にはなりません」


 相馬先輩が言いました。


「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」


 そして、机を指で軽く叩きました。


「裁判の中身を聞かれたくねえなら、最初から裁判になるようなことをするな。少なくとも、市民に見に来るなと圧力をかける話じゃねえ」


「相馬さん」


 沢渡課長が言いました。


「本件の市の対応が違法だったかどうかは、現在係争中です」


「分かってるよ」


「結論を先取りするような発言は控えていただきたい」


「だったら、こっちも結論を決めつけねえ」


 相馬先輩が答えました。


「だから公開の法廷で、双方の言い分を聞かせろって話だ」


 ……あ。


 私は、そこで気づきました。


 裁判の公開。


 それは、単に市民が裁判を見られるという話だけではない。


 権力を持つ側が、


 都合の悪い裁判を隠せない。


 そういう意味でもあるのです。


 公開された法廷で、


 誰が何を主張したのか。


 裁判所がどんな審理をしたのか。


 そして、どんな判決を言い渡したのか。


 国民が見届けることができる。


 それが司法への信頼を支える。


「所長」


 私は振り向きました。


「はい。意見書を書きます」


 片桐所長が、ゆっくり頷きました。


「書け」


「憲法八十二条を中心に?」


「そうだ」


「市の対応は違憲だ、と?」


 所長は少し考えてから言いました。


「断定するな」


「え?」


「市が通知を出したという事実だけで、直ちに八十二条違反と決めつけるな。八十二条が直接規律するのは、裁判の公開だ」


「……はい」


「市に非公開を命じる権限はない。そのことと、市の自粛要請が憲法上許されるかは、分けて論じろ」


「分かりました」


「だが」


 所長の声が低くなります。


「市がその公的立場を利用して、公開裁判の意義を損ない、市民の自由な傍聴を萎縮させるようなことがあれば、憲法上の問題は重大だ」


 私は頷きました。


「目的と手段を分けて考えろ。混乱防止が目的なら、なぜ傍聴自粛を求める必要があるのか。もっと制限の少ない方法はないのか」


「はい」


「憲法を振りかざすのは三流だ」


 片桐所長は言いました。


「だが、役所が越えてはいけない一線を越えそうになったら、抜くのをためらうな」


 私は六法を閉じました。


 何となく。


 刀の鞘を握った気分でした。



 翌日。


 私たちは正式な意見書を作成しました。


 表題。


 ――市立図書館広報誌掲載拒否に関する訴訟の公開原則及び市民への傍聴自粛要請についての法的意見書。


 長い。


 ものすごく長い。


 相馬先輩は、


「題名だけで相手が眠るぞ」


 と言いました。


 でも所長は削りませんでした。


 意見書には、四つの論点を整理しました。


 第一。


 憲法第八十二条第一項は、裁判の対審と判決の公開を原則として保障していること。


 第二。


 対審を非公開にする例外は、憲法が定める厳格な条件に従い、裁判所が判断するものであり、市に決定権限はないこと。


 第三。


 今回の訴訟では表現の自由という基本的人権が問題になっており、憲法第八十二条第二項ただし書により、その対審は常に公開されなければならないこと。


 第四。


 具体的な危険の裏付けなく、市が公的な立場から市民へ傍聴自粛を求めることには、公開裁判の意義を損ない、市民の自由な傍聴を萎縮させるおそれがあり、憲法上重大な疑義があること。


 さらに。


 具体的な混乱への対策が必要なら、裁判所による適切な法廷管理に委ねるべきだ、と付け加えました。


 判決についても明記しました。


 ――憲法第八十二条第二項によって非公開が認められ得るのは、一定の要件を満たす対審に限られる。判決の言渡しについては同項による非公開の例外は認められない。


「……なるほど」


 私は出来上がった意見書を見つめました。


「先輩」


「何だ」


「これ、昔の私だったら、判決も非公開にできるって書いてたかもしれません」


「落第だな」


「厳しい」


「条文読め」


「はい」


 確かに。


 八十二条一項は、


 対審と判決。


 両方を公開すると定めています。


 でも二項で例外を認めているのは、


 対審だけ。


 判決については、非公開にできるという例外がありません。


 試験では、たった二文字の引っかけ。


 でも。


 実際の裁判に置き換えると、とても大きな違いです。


 審理の一部を非公開にすることが許される場合でも。


 裁判所が最終的にどんな判断を下したのか。


 その判決は、公の法廷で言い渡される。


 権力にとって都合の悪い結論だからといって、判決を密室に隠すことはできないのです。


「……すごいですね」


 私は呟きました。


「何がだ」


「憲法八十二条」


 たった一条。


 でも。


 裁判所の扉を閉めるための条件まで、憲法自身が厳しく決めている。


 私は今日初めて、その意味を実感していました。



 三日後。


 再び市役所。


 沢渡課長は、意見書を最後まで読みました。


 途中、一度も口を挟みませんでした。


 そして。


「……なるほど」


 紙を机へ置きました。


「憲法八十二条二項ただし書、ですか」


「はい」


 私が答えます。


「今回の訴訟は、表現の自由が争点です」


「承知しています」


「市が非公開を申し入れたとしても、公開原則を左右できるわけではありません」


「その点は、おっしゃるとおりです」


 沢渡課長は静かに答えました。


 反論しない。


 でも、まだ終わっていません。


「ただし」


 課長が続けました。


「市民への傍聴自粛のお願いが、直ちに憲法違反になるとまでは考えていません」


「そこは意見書でも断定していません」


「ええ。慎重に書かれていますね」


 私は内心、少しだけ驚きました。


 この人。


 こちらの文章を、きちんと読んでいます。


「混乱防止のための協力要請として、任意のお願いをすること自体が常に違法というわけではないでしょう」


「はい」


「しかし、本件では……」


 沢渡課長は、机の端に置かれた住民からの問い合わせ記録を手に取りました。


「『傍聴すれば市に逆らったと扱われるのか』という問い合わせが来ています」


 私は顔を上げました。


「そんな問い合わせが?」


「ええ。複数です」


 課長は眼鏡を外しました。


「通知の表現が、市の意図以上に強い圧力として受け取られている可能性があります」


 相馬先輩が腕を組みます。


「だから言っただろ」


「相馬さん。結論はまだです」


「へいへい」


 沢渡課長は、意見書をもう一度見ました。


「それに、今回の訴訟について、公開しないことが憲法上許される見込みは乏しい」


 少しの沈黙。


「基本的人権が問題となっていることは明らかですからね」


 私は頷きました。


 この人は、間違いを認めて頭を下げるような人ではありません。


 でも。


 法的な条件が揃わないと分かれば、無駄に突っ張りません。


 合理的に、判断を変える。


 それが沢渡課長です。


「非公開の申入れは見送ります」


 課長が言いました。


「え?」


「現時点で、裁判所へ非公開を申し入れる合理的な根拠は見いだせません」


 私は息を止めました。


「それから、市民への通知についても訂正します」


「訂正?」


「ええ」


 沢渡課長は、白い紙を一枚取り出しました。


 そこに、万年筆で数行を書きました。


 ――本件訴訟の公開・非公開及び傍聴に関する事項は、憲法及び法令に基づき裁判所が判断するものであり、市が市民の傍聴を禁止するものではありません。


 ――先般の傍聴自粛要請は撤回します。


「これを改めて周知します」


 私は思わず、相馬先輩を見ました。


 先輩は、にやりと笑いました。


「最初からそう書きゃよかったんだ」


「まったくですね」


 言ってから気づきました。


 私たち。


 今、ものすごく大事なことをやったのでは?


「課長」


 片桐所長が言いました。


「ありがとうございます」


「礼を言われることではありません」


 沢渡課長は、淡々と答えました。


「裁判所の権限は裁判所の権限です。市が越えるべきではない」


「そうですね」


「それに」


 課長は意見書の最後のページを指しました。


「憲法上の疑義を指摘されてまで、効果の不明確な自粛要請を維持する合理性はありません」


 やっぱり。


 合理性。


 この人の辞書には、感情より先にその言葉が載っているのでしょう。


「ただし」


 沢渡課長が私を見ました。


「朝比奈さん」


「はい」


「訴訟で市が負けると決まったわけではありませんよ」


「分かっています」


「公開されることと、市の対応が違法と判断されることは、別問題です」


「はい」


 私は笑いました。


「だからこそ、公開の法廷で決めてもらうんですよね」


 沢渡課長は一瞬だけ黙りました。


 それから。


「……そうですね」


 小さく頷きました。



 その週の金曜日。


 地方裁判所。


 古い建物の廊下には、磨かれた木の匂いがしました。


 宮下さんから、


「初めての裁判で不安だから、一緒に来てほしい」


 と頼まれたのです。


 私たちは傍聴人として裁判所を訪れました。


 もちろん。


 弁護人でもありません。


 訴訟代理人でもありません。


 片桐行政書士事務所が、裁判で誰かを代理して争うわけではない。


 訴訟は、依頼を受けた弁護士の仕事です。


 私たちは、ただ傍聴するだけ。


 でも。


 その「ただ」が、今回はとても大切でした。


「朝比奈さん」


 宮下さんが廊下で私を呼びました。


「はい」


「本当に、入っていいんでしょうか」


 私は傍聴人入口を見ました。


 そこに、特別な資格を持った人だけが入れるという表示はありません。


 公開法廷です。


「はい」


 私は答えました。


「傍聴席に空きがあって、裁判所の指示に従えば、入れます」


「市役所に怒られませんか」


「傍聴しただけで、怒られる筋合いはありません」


 宮下さんは少し笑いました。


「よかった」


 そして。


 重そうな扉を押しました。


 中には裁判官席。


 原告側。


 被告側。


 傍聴席。


 テレビドラマほど華やかではありません。


 むしろ、地味です。


 古い机。


 硬い椅子。


 紙の擦れる音。


 でも。


 原告側の弁護士が立ち上がり、市の対応について主張を述べ始めたとき。


 宮下さんが、小さく息をのみました。


 続いて、市側の代理人が反論しました。


 市としての掲載基準。


 広報誌の目的。


 編集上の裁量。


 原告の主張とは、違う見方です。


 私は思いました。


 ああ。


 そういうことか。


 裁判を公開するというのは。


 市の言い分を黙らせることではない。


 原告の言い分だけを世の中に広めることでもない。


 双方が何を主張し、裁判所がどう審理するのか。


 それを、人々が見届けられるということなのです。


 だから。


 市が正しければ、その理由も公開の法廷で明らかになる。


 原告が正しければ、その理由も明らかになる。


 少なくとも。


 町の評判が悪くなるからといって、最初から扉を閉めることはできない。


 宮下さんは、膝の上で手を重ねていました。


 その指先が、少し震えていました。


 でも。


 もう、帰ろうとは言いませんでした。



 裁判が終わったあと。


 宮下さんは裁判所の前で、深々と頭を下げました。


「ありがとうございました」


「私たちは何もしてませんよ」


 私は慌てました。


「裁判をしたのは弁護士さんですし」


「違うんです」


 宮下さんは首を横に振りました。


「私、裁判所なんて怖いところだと思ってました」


「……はい」


「偉い人たちが、難しい話をして、私みたいな普通の人には関係ない場所だって」


 少しだけ、笑いました。


「でも、入れたんですね」


 私は黙って聞いていました。


「ちゃんと、聞けたんです」


 宮下さんの目が、少し潤んでいました。


「市の言い分も、あの人の言い分も」


「はい」


「どっちが正しいかは、まだ分かりません」


「そうですね」


「でも、見に行ってよかった」


 その言葉が。


 私には、何より重く聞こえました。


 裁判の公開。


 受験生だった私は、それを単なる暗記項目として覚えていました。


 原則公開。


 例外は裁判官全員一致。


 政治犯罪。


 出版に関する犯罪。


 基本的人権が問題になる事件。


 判決は常に公開。


 はい、次の問題。


 それで終わり。


 でも。


 本当は違った。


 八十二条は、裁判官のためだけの条文ではない。


 弁護士のためだけの条文でもない。


 法廷へ来たことすらなかった、一人の書店主のためにも存在している。


 裁判がどう進んでいるのか。


 権力を持つ者の行為が、どう審査されているのか。


 それを知るために。


 普通の人が、あの扉を開けることができる。


「こはる」


 相馬先輩が隣に来ました。


「はい」


「どうだった」


「……憲法って、すごいですね」


「今さらだな」


「本当に今さらです」


 私は笑いました。


「私、憲法なんて実務じゃ使わないと思ってました」


「馬鹿だな」


「言い方」


「役所が法律を守ってるか調べるのが俺たちの仕事だろ」


「はい」


「その法律の一番上にあるのが何だ」


「憲法です」


「だったら、必要になるに決まってる」


 私は頷きました。


 片桐所長が、裁判所の建物を振り返りました。


「こはる」


「はい」


「裁判の公開は、裁判を騒ぎにするためのものではない」


「……はい」


「裁判所が何をしているか、国民が確かめられるようにするためのものだ」


「はい」


「だから、国民に見せたくないという権力側の都合で、簡単に閉められてはならない」


 私は、もう一度裁判所を見ました。


 古い建物。


 重そうな扉。


 けれど。


 今日、その扉は開いていました。



 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 私は机に戻って、六法を開きました。


 憲法八十二条。


 何度見ても、同じ条文です。


 昭和六十三年。


 現代。


 文字は一字一句同じ。


 けれど、私の見え方は全く違いました。


「先輩」


「何だ」


「今日、一つ分かりました」


「またか」


「裁判を公開するって、裁判所を信用してくださいって意味じゃないんですね」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「どういうことだ」


「むしろ逆です」


 私は六法を閉じました。


「裁判所が何をしているか、国民が見て確かめられるようにする。だから信用できる」


 少しの沈黙。


 相馬先輩は煙草を消しました。


「……まあ、そういうことだな」


「褒めました?」


「気のせいだ」


 またそれです。


 片桐所長は、奥で書類を整理していました。


 私はもう一つ、気になっていたことを聞きました。


「所長」


「何だ」


「今回、市役所の自粛要請を撤回してもらいましたけど」


「ああ」


「これ、裁判に勝ったわけじゃないんですよね」


「もちろんだ」


「じゃあ、私たちの仕事は?」


 所長は顔を上げました。


「裁判所が判断すべきことを、市役所の都合で先回りさせないようにした」


「……なるほど」


「それで十分だ」


 十分。


 確かに、そうかもしれません。


 訴訟の結論は、まだ出ていない。


 市が悪いのか。


 原告が正しいのか。


 それはこれから裁判所が判断します。


 私たちは、判決を出せません。


 法廷で代理人として戦うこともできません。


 でも。


 市民が裁判を見に行くのを諦めそうになっていた。


 その原因となった市の通知を、法的な根拠に基づいて見直させた。


 それは、行政書士事務所にできる大切な仕事でした。


「今日の教訓」


 私は手帳を開きました。


 そして、短く書きました。


 ――裁判の公開は、権力の都合で閉ざせない。国民が司法を見届けるための扉である。


「長い」


 相馬先輩が言いました。


「いいんです」


「もっと短くしろ」


「じゃあ……」


 私は少し考えました。


 そして、その下にもう一行。


 ――隠したい裁判ほど、憲法は扉を開ける。


 相馬先輩が黙りました。


「どうです?」


「……悪くねえな」


「褒めた!」


「うるせえ」


 そのとき。


 片桐所長が、奥から一枚の書類を差し出しました。


「こはる」


「はい」


「これを整理しておけ」


「何です?」


「裁判関係の資料だ」


 私は受け取りました。


 そこには大きく、


 ――公開。


 と書かれていました。


「所長」


「何だ」


「これ、事務所のみんなが見られるところに置いていいですか?」


「構わん」


「じゃあ机の真ん中に」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「邪魔だ」


「公開が原則です」


「事務所の書類に憲法八十二条を使うな」


「でも先輩、公開が大事なんでしょう?」


「裁判の話だ!」


「じゃあ、非公開にするなら全員一致で」


「だから違う!」


 私は所長を見ました。


「所長、非公開に賛成ですか?」


「整理して書棚にしまえ」


「……はい」


 相馬先輩が勝ち誇った顔をしました。


「ほら見ろ」


「でも先輩」


「何だよ」


「所長と先輩の二人が賛成しても、私は反対です」


「だから何だ」


「全員一致じゃありません!」


「お前は裁判官じゃねえ!」


 その声に、片桐所長が小さく笑いました。


 夕暮れの窓から、柔らかな光が差し込んでいました。


 今日。


 一人の女性が、初めて裁判所の扉を開けました。


 それは新聞の一面を飾るような事件ではありません。


 日本中が注目する裁判でもありません。


 ただ、町の小さな書店主が、友人の裁判を見届けに行った。


 それだけです。


 けれど。


 その「それだけ」を守るために、憲法は存在しています。


 町の評判よりも。


 役所の都合よりも。


 地元の慣習よりも。


 ずっと上にあるもの。


 日本国憲法。


 その第八十二条は、昭和六十三年の今日も、変わらずそこにありました。


 そして明日も。


 あの法廷の扉は、公開の原則のもとで開かれます。


 誰かが、正義を独り占めしないために。


 誰かが、都合の悪い事実を密室に隠さないために。


 そして。


 普通の人が、司法を自分の目で見届けられるように。


 ――裁判は、権力者だけのものではないのです。

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